2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
11.その他企画

12.カタログ Nikon
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 FE
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カメラ雑文

[853] 2015年12月14日(月)
「写真を撮る理由」


我輩が写真を撮る理由は何かと問われれば、何と答えようか。
理由は幾つか思い付くが、ここではそれを項目として分け、それぞれを改めて我輩の写真撮影に対するスタンスとしてまとめたい。

これにより、我輩の機材選定の判断基準や、写真に対する価値観が理解出来るだろうと思うし、何より、我輩自身が自分の考えを再認識することを狙った。

●カタログ撮影
カタログ撮影とは我輩にとっては、最終的には永遠の最先端カメラ「Nikon F3」の撮影のことである(参考:雑文488雑文813)。

<本番撮影「Nikon F3」を想定して「Nikon D600」を撮る>
本番撮影「Nikon F3」を想定して「Nikon D600」を撮る

我輩にとっての理想的な「Nikon F3」像を撮り、独自のカタログを作ること。そのために、ストロボ照明機材や中判カメラ機材(現在はデジタルカメラ機材)を取り揃え、撮影技能の向上を続けた。
今はまだ、「Nikon F3」を理想的に撮るには不足があろうかと思うのだが、それでも現在構築した撮影環境を利用して「植物」や「女性モデル」など、別の被写体を撮影し始めた。

我輩にとって「植物」や「女性モデル」は、写真的に言えばカタログ的ブツ撮りのスタンスである。特に「植物」については、撮り溜めて我輩的植物図鑑をDTP編集したいと思っている。

<植物カタログ撮影>
植物カタログ撮影

●日々の記憶
我輩は日々の出来事をすぐに忘れてしまう。
印象的な出来事があれば覚えている場合もあるが、大抵のことは忘れる。ずっと昔の、子供時代や学生時代のことになると、もうほとんど覚えていない。
確かに、時代が遠くなれば忘れるのは当然ではあるが、それでも昨日今日の範囲を越えてしまうと最近数ヶ月の記憶も怪しい。

ところがデジタルカメラの時代となったここ数年、少なくとも写真に写した場面の出来事は覚えている。
これは、写真撮影の大きな功績であろう。デジタル化されたことで大量の写真が閲覧し易くなったこともあるし、時系列でフォルダ管理していることも大きいだろう。何しろ、画面上に並んだフォルダの大体の位置が感覚的に頭の中に残るので、まるで歴史年表のように時代関係がイメージ出来る。

<そう言えばここで飲み会があったなあ>
そう言えばここで飲み会があったなあ

もちろん、完全に記憶を失った状態だっとしたら、例え写真があったとしても、それが記憶であるとは言えない。
写真は、「記憶を脳の奥底から呼び覚ますインデックス」という重要な役目を果たすものだ(参考:雑文352)。

だから、小さい頃の記憶でも、写真があればその範囲では思い出せる。ただ、銀塩時代は枚数は少ないので記憶も飛び飛びとなっている。

それに比べて最近は、デジタルカメラと大容量メモリによってまさに1分単位、1秒単位での大量撮影が可能となった。
さすがに動画で撮るとすれば、それを閲覧するのに同じ実時間がかかるので現実的ではないが(一生分の思い出を見るのに、まさに一生かかる)、写真の場合、巧く撮ればたった1枚のカットに1日分の記憶のインデックスを込めることは不可能ではななかろう。
我輩は、それを狙って超広角レンズを使うことが多い。

●情報持ち帰り
例えば博物館や展示会など大量の情報が展示された場所へ行くとすれば、カメラ無しでどう対応すれば良い?
ただ目で見て、耳で聞くだけで、いったどれほどの情報が身になるというのだろうか。

人は、興味のあるものへの理解が増すものだが、だからと言ってその場その時間にすべてを理解し覚えてくることは全く不可能である。
これに対し、「全てを理解する必要などあるのか」という疑問もあろう。
もちろん、全てを理解する必要など無い。しかしカメラで撮らない限り、その場で全てを記憶し全てを理解して持ち帰るしか方法が無いと言っているのだ。

博物館というのは、場所に依存する情報源である。しかも、企画展ともなれば限られた期間でしか見ることが出来ない。
後になって「あれが見たい」などと思っても、遠い場所であれば難しいし、企画展が終わっていれば諦めざるを得ない。

そもそも情報の理解とは、経験と知識を必要とするものである。
ある事象を経験して初めて「ああ、このことだったのか」と理解することもあるし、新しい知識を得て初めて「やっと意味が分かった」と理解することもある。後になって欲する情報もある。

今目にしているものが必要な情報かどうかというのは、人間が事前に決めることが出来ない。だから、自分が興味を持つ情報は、理解出来ないものも含めて手元に蓄積しておくことが重要なのだ。
これは、百科事典や国語辞典と同じ理屈である。
人生において、百科事典や国語辞典の数百数千ページ全ての情報が必要になることはあるまい。しかし、その中のたった1ページが無くなっていただけで役に立たないことも有り得る。
このことを知らねば、博物館撮影の重要性を永遠に理解出来ないだろう(参考:雑文832)。

だから我輩は、博物館の展示を出来る限りにおいて写真に収める。そうして持ち帰った情報を、別の情報とジックリ見比べながら理解することを楽しむのである。

<後でゆっくり見比べ、後でゆっくり理解しよう>
後でゆっくり見比べ、後でゆっくり理解しよう
後でゆっくり見比べ、後でゆっくり理解しよう

また他にも、「メモ撮影」がこのカテゴリに該当する。
例えば時刻表などを撮るとすれば、それは情報を持ち帰る撮影に他ならない。手書きでメモを取るにも手間であるし、スキャナが使えるわけでもないので、カメラで撮るのだ。
こういう撮影こそ、高画素でブレの無いクオリティの高い画像が求められる。

<いちいちメモ書きしていられない>
※ホームセンターにて
いちいちメモ書きしていられない


●スキャニング
先に書いた「メモ撮影」というのは、出先で撮影するものであったが、「スキャニング」というのは手元にある自分の資料を電子化する用途のことを言う。

もちろん、本物のフラットベッドスキャナやドキュメントスキャナを使えば安定した品質で電子化が可能なのだが、そのためにパソコンを起動したり、原稿をスキャナ台にセットせねばならない。
そんな時デジタルカメラならば、例えば町内回覧などはサッと撮影すれば、すぐに隣家へ回すことが出来る。そういう気軽さがあるので、最近の高画素なデジタルカメラはスキャニング用途に使うことも多い。

<取り急ぎ電子化>
取り急ぎ電子化

また、リバーサルフィルムをスキャニングする際、これまではフィルムスキャナを用いていたが、数年前にパソコンのOSを32bitから64bitへアップデートした際、我輩の使っていたフィルムスキャナのドライバが対応出来なくなり使用不能となった。だから現在、デュープアダプタを用いて複写の要領でスキャニングするしか方法が無い。

<デュープアダプタ>
デュープアダプタ

ここでも、最近の高画素なデジタルカメラが有用で、35mm判のフィルム粒子まで鮮明に写し取り、もはやフィルムスキャナと同様のクオリティで使える。

<デジタルカメラでフィルムスキャンしたもの>
(※画像クリックで長辺1200ドットの画像が別ウィンドウで開く)
デジタルカメラでフィルムスキャンしたもの
2000年頃に撮影したリバーサル写真

ちなみに、「スキャニング」とは日本語直訳では「走査」であり、本来はラインCCDを平行移動して走査することを言う。だからワンショットで撮るデジタルカメラは「スキャニング」とは言えないが、ここでは敢えてその表現を用いた(参考:雑文475)。

●現場証言
もし大震災に遭った時、手元にカメラがあったらどれほど心強いだろう(参考:雑文723)。
これは一般人には理解出来ぬことかも知れないが、カメラマンというのは、使命さえあれば命の危険のあるような場面でも怖いと思うことは無いのである。
恐らく、戦場を写すカメラマンが前へ前へと出て撃たれて命を落とすのは、こういう心理があるからだと想像する。

言うまでも無く、災害に遭うということは不幸でしかない。
誰も、自分が災害に遭って当事者になりたいとは思うはずはない。

だが、ひとたび災害に遭ってしまったとしたら、自分の置かれた状況や目の前の惨劇は写真に記録しておかねば、その苦労は無駄なものとなろう。そこでの撮影は、自分が不幸に遭ったことの意味付けでもある。
もし、災害に遭ったというだけで終わるならば、それは単なる苦しみでしかない。しかしそこで写真撮影という使命を見出すのであれば、自分が災害に遭ったことの意味を少しは見出せる。
その場の状況を伝えるという、現場証言の使命を持つのだ。

<2011年3月11日の大地震発生時の関東地区>
2011年3月11日の大地震発生時の関東地区
PENTAX K-x/15mm F4.0/ISO400/Av=F5.6/Tv=1/250sec. [2011/03/11 16:29]

「不幸とは、逃げる者を追いかける」という言葉がある。
この言葉は、「逃げる者には不幸が襲いかかる」という意味では無く、「逃げる者は苦難を不幸としか捉えない」という意味である。それは逆に言えば、「攻める者は苦難を試練と捉える」のである。

(※2011年の東北地方を襲った大地震・大津波では、撮影するために海に向かった者や避難を忘れた者が犠牲になったというケースがあったようだが、当雑文で述べた現場証言的撮影とは、あくまでも避難行動の範囲内で行われる撮影を意味し、決して撮影を第一目的とした危険に近付く行動のことを言っているわけではないので誤解無きよう。)

ただ、災害でなくとも、珍しい現象などを目の前にした時に、手元にカメラがあれば撮りたいと思う。
狙って撮れないものであれば、偶然巡り会うしかないわけで、その偶然に立ち会ったことの証拠写真として写真が大きな役割を持つ。

先日など、通勤時にふと妙に白く輝く雲に気付いて手持ちのカメラで撮ったことがあった。
そして当日のニュースで、「彩雲」という珍しい現象が日本各地で確認されたと報道され、我輩が見たものは虹色ではなかったものの「彩雲」に関わる雲ではなかろうかと、改めて写真に見入ったものだ。

<彩雲らしきもの>
彩雲らしきもの
OLYMPUS E-P5/12-35mm F2.8/ISO200/Av=F7.1/Tv=1/400sec. [2015/05/22 06:52]

以上。