2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
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カメラ雑文

[816] 2014年06月10日(火)
「自分自身を本当に知っているか」


昔、まだ個人情報保護の意識が無かった頃、何かにつけてアンケートがあった。
例えば「性格占い」だとか「男女相性診断」だとか、まあ言ってしまえば遊びの範疇だが、考えてみるとかなりプライベートな部分の質問項目は多く、答えるほうも何も考えず書いていたものだ。

それらアンケートの定番質問のうち「好きな色は?」というものについては、我輩はいつも「青」と答えていた。何しろ、青は爽やかでキレイである。我輩は、自分自身が青を好きだと信じていた。

ところがある時ふと、自分の選ぶ服や靴、そして傘の色などがことごとく茶色系の多いことに気付いた。別段意識したつもりもなく、本当に、気付いたらそうだったのである。

我輩は茶色が好きなのか?
よく分からないが、どうもそんな気がする。
しかし自分のことなのに、なぜそんなことが分からなかったのだろう。

これまでのことを思い出してみると、衣服は茶色系が多かったものの、それ以外の物では赤系を選んでいることが多かった。
子供会のイベント景品では赤のシャープペンシルを選んだし(※)、ステレオコンポブームの時には赤のAIWAコンポを選んだ。他にも、色の選べる小物類は大体赤を選んでいる。
(※結局は青いシャープペンシルをゲットした女子と交換させられたが)

当時はほとんど自分の好みについては意識しておらず、ただ単純に、個別製品ごとに「これは赤が似合うな」という発想で選んでいたに過ぎない。今考えると、それは製品にその色が似合う似合わないという問題では無く、我輩自身の好む色だったということか。

これまで、自分が好きな色は青だと答えていただけに、これはちょっとしたショックであった。自分のことは自分が良く知っていると考えていたが、実はそうではないようなのだ。

今までのことから考えると、どうも我輩は赤が好きということであろうか。
茶色の服や靴を選んでいたのは、赤に近い代替色ということかも知れない。さすがに赤い服や赤い靴などは選べないので、好きな色という判定にはなるまい。ただし、赤が好きとは言っても原色の赤ではないように思う。赤色の衣服や靴は身に着けるには強烈過ぎるし、赤色の製品では安っぽく見える場合も多い。
いずれにせよ、自分のことであるのに、こういうふうに探っていかねば自分が本当に好む色が分からないというのが不思議。

そんな時、ある印刷物(具体的に言うとダイレクトメール)に目が留まった。
それは特色ベタ塗りのオフセット印刷物で、我輩はそれを見た時に悟った。
「この色が、我輩の求めていた色か」

通常、カラー印刷の場合では、CMYK4色(いわゆるプロセスカラー)による掛け合わせのため、必ず網点表現となる。自由な色でのベタ塗りは出来ない。
しかしインクの色そのものを調合して特別な1色を用意すれば、それをベタ塗りすることが可能となる。これを「特色」と言い、CMYKではなくインクメーカー固有番号で指定される。これは、例えばコーポレートカラーなどで使われることが多い。
特色ベタ塗りは、網点混色による錯覚に依らないダイレクトな色表現のため、色そのものが明確に伝わってくるのが利点である。

さて我輩が見たベタ刷り色は暗い赤であった。少し例えが悪いが、ちょうど、大量の血液のような暗くて濃い赤である。
この色を見た瞬間、何とも知れぬ安心感のような感じを覚えた。もちろん、血を見て落ち着くわけではない。色として見た場合に落ち着くのである。

ここで我輩が改めて実感したことは、「自分のことは自分が一番良く知っているというのは実は誤りで、本当は何も知らないのかも知れない」ということだった。
好き嫌いなども自分が決めたものではなく、先天的、あるいは幼少期の体験などに基づくという話も聞く。
逆に言えば、自分の嗜好を追及・特定することは、それはすなわち自分自身の探求であり、それこそは芸術活動の本質であろう。

芸術というのが単純に「見た目が美しいもの」というのは大変なる誤解。
美術館にある絵画や彫刻が、見た目の美しさだけで語られているだろうか? そういう目で見ると、どうにも理解不能なものが多いのではないか?
それらは見た目の美しさではなく、作者や対象物の内面を描き現したものであり、作者たちはそれを知るために色々と苦しんできた。

写真の場合、自分自身を知るということは、他者の評価を気にせず自分自身の興味の赴くまま、自分自身というものを知るために追及したい方向に先鋭化することであろうと思う。
インターネットの普及により他者の作品閲覧と自身の作品展示の機会が増え、どうしてもウケの良い写真を狙うことに注力してしまうのは理解出来る・・・が、現世での限られた時間に、自分というものを追及をせず表面上の美しさだけを追い求めるのはどうかと思う。

特に最近はウェブ上にて、背景ボケ写真を追及している者が非常に多いことに気が付いた。
どれくらいボケるかが写真の価値と言わんばかりで、カメラ・レンズの性能についても、ボケ量で優劣を決めようとする場面もよく目にする。そしてそのボケ量の最高峰としてフルサイズが位置付けられ崇拝される勢いすらある。中判撮影で浅い被写界深度に苦しんだ我輩には信じられないような状況。

確かに、背景が大きくボケている写真は雰囲気があってキレイに見える。そして、「キレイならばそれでいいじゃないか」という意見も解る。
しかし、本当に、それでいいのか? 本当に自分自身がボケを望んでいるのか? 仮にそうだとしても、あまりに同じ嗜好の者が多いことが不思議でならぬ。我輩にはそれが、他者の評価ばかりを気にして自分を殺した写真にしか見えないのだが・・・。

それが単なる作例としてならばともかく、仮にも芸術と言うのならば、未知なる自分自身の内面を暴くための追及であって欲しい。この行為は孤高で行き着く先は見えず、道のりは厳しい。
もしそれが、誰一人評価しない変態写真であっても、自身の内面を追及し先鋭化させた写真であるならば、我輩だけはその意志と勇気を評価しよう。


<参考>
雑文260「趣味性」
雑文478「自分だけの視点を突き詰めろ(2)」
雑文588「自分のため(3)」