2000/04/05
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カメラ雑文

[750] 2012年03月15日(木)
「人は骨を遺すために生まれて来る」


「人は骨を遺すために生まれて来る。」
葬式の時、坊さんがこのように説くことがある。
短い言葉で謎めいておりその解釈は色々とあろうとは思うが、この言葉の背景には次のような考え方があるように思う。
「生きている間は骨というのは自分自身である。しかしそういう物理的な存在は死後は残して行くものであり、それは自分自身では無い。自分自身は別の世界に行ってしまう旅人である。」

霊魂が存在するのか、そして、死後の世界があるのかどうかは、我輩には分からない。
万人が納得出来る証拠が無いので肯定は出来ないし、"悪魔の証明"となってしまうので否定も出来ない。
ただ確かなのは、死ぬということは、この3次元世界から存在が消滅するということである。どこまで遠くへ探しに行ったとしても、死者とは決して逢えない。

もし霊魂や死後の世界が無いとしても、自分の意識が永遠にブラックアウトするというのは、怖いと言うよりも不思議である。この世界に自分が存在しないなどとは。
それは、生まれる前と同じことと言える。生まれる前は何も知覚しないし覚えてもいない。恐竜の歩いていた時代、我輩はどこで何をしていた?

自分の存在自体が無かったのだから、何も知覚しないのは当然である。だから死とは、生まれる前の状態に戻ることでもある。
自分が生まれるまでの過去の長大な時間を知覚しないのであれば、同様に、死後も永遠に続く時間は知覚出来ないだろう。死の瞬間、その主体にとっては無限の時間が一瞬で過ぎることになる。途中で目覚める(生き返る)ことが無ければ、永遠の時間を無限大の速度ですっ飛ぶことになろう。
それを考えると、一瞬で流れ去る無限の時間の中で、今この時この時代に偶然引っかかり、この閉じた世界に現れることが出来たということは驚くに値する。

だがこの世に現れたとしても、関われるのはやはり一瞬の間。この世界で何を遺すかと言えば、「骨」と言うしか無い。

−−−−−−

我輩はこれまで自宅のパソコンにて、ハードディスククラッシュが2度、RAID設定ミスが1度あり、デジタル写真を多く失った経験がある。
DVD-R(当時はまだブルーレイは無かった)にバックアップしている分は大丈夫だったが、ハードディスクにしか存在しない画像は消滅してしまった。

確かにこまめなバックアップは必要だが、DVD-Rに書込める量に貯まるまでバックアップは出来ないもの。それに、DVD-Rの容量に達した瞬間にバックアップするほどの緊張感が常にあるわけでも無く、それなりの量のデジタル写真がハードディスク内に存在していた。それが消えたのである。

もちろん、消えるとは思っていなかったのでどんな写真があったかなど意識しておらず、いまだに消えた写真の把握は出来ていない。
「存在を把握出来ない写真など消えても問題無かろう」という考え方もあるかも知れぬが、ふとした時に「こんな写真があったはずだが?」と探してどこにも見付からないことがあるので困る。どうしても見付からない時は、「あの時に消えた可能性がある」という結論に行き着くのだが、確証が無いのでスッキリしない。

さすがに懲りて現在は、同容量のハードディスクを2台、メインとサブとして用意し、デジタル写真を格納するたびにメインからサブにバックアップを取るようにした。
バックアップはフリーソフトを利用した差分バックアップ方式だが、手動バックアップよりは手間がかからない。
RAID0という方法もあるが、以前設定を失敗してデータの入っているほうに空のほうからバックアップされて全部消えてしまったことがあり、シロウトがヘタなことをすべきでないと思い知った。

ただそれだけやっても、ハードディスク内にあるデータは磁気データのため、例えば雷が落ちるなどして瞬間的にパソコンに高電圧が走りハードディスクが装置ごとやられてしまうかも知れない。
そこで、メインは内蔵とし、サブは外付ケースに入れてUSB接続とした。そして必要な時にだけサブをパソコンに接続して使うこととした。

もちろん、ハードディスクの容量は有限であるため、時々は光学メディアなどにバックアップせねばならない。現在はブルーレイメディアを使っているが、念のために同じものを2枚ずつバックアップ取るようにしている。しかも耐久性のリスクを分散させるため、違うブランドのメディア2枚を組み合わせているのだ。

現在では一般的となったデジタルカメラであるが、我輩以外の者はデータの保護にどのような対策をとっているのだろうかと気になる。
CD-Rでバックアップしている例に出会ったことはあるが(参考:雑文726)、あまり厳密に運用(※)しているようにも思えず、データ消失のリスクは高いと感ずる。
(※厳密な運用とは、ただCD-Rに焼くだけではなく、CD-R作成後の可読の確認や、CD-Rメディアそのものの耐久性に注意し必要があれば一定期間ごとに焼き直すなどのメンテナンスをすること)

また、写真を趣味としている者のひとりに聞いたところでは、データが消えたとしても「その時はその時だよ」という考え方を持っていた。
JPEGが読めなくなる時代が来るかも知れないという話をしても、「コンバートくらいは出来るはず」と言う。

我輩は以前、アプリケーション依存(NEC PC98専用ソフトのため機種依存とも言える)の画像ファイルが時代の変化で読めなくなった経験がある。早めにコンバートしておくべきだったが、気が付いた時には遅かった。
もちろん、広く普及しているJPEGからのコンバート方法がいきなり無くなることは考えにくいが、写真データ保存に対する情熱を持たぬ風潮は気になった。

たまにWeb上で、「写真は自分が生きている間だけ保存されていれば十分」とか、「大した写真を撮ってない奴がほとんどだろう」などという意見を見聞きすることがあるのだが、そんなことは断じて無い。
時代を貫いて存在し得たものは、どんなものであろうと価値を持つ。例えそれが便所紙であろうとも。

ウソだと思うならば、博物館に行ってみるが良い。
平安時代の落書き、恐竜の糞、戦前のチラシ、縄文時代の炭化した稲・・・。
たまたま残されたから現代の我々が目にすることが出来たわけだが、それが生み出された当時は誰一人気にも留めない物だったはず。
写真に関しても、撮ってすぐには大した写真ではなかったとしても、もしそれが年月を経て後世の人間に伝われば、大変貴重な資料となることは間違いない。

確かに、残そうと努力して本当に残るかどうかは実際に時が経たねば分からぬとしても、やはり今の時代では、努力せねば消えることは間違い無かろう。保存メディアの保管や管理はもちろんのこと、死後の遺品整理で廃棄を免れるような措置も必要である。デジタル写真は物理的な形態を持たぬゆえ、写真として認識されにくく廃棄される可能性は高いからだ。

一方で「自分がそこまでする義務は無い」とか「死後のことまでは知らぬ」などと刹那的に考える者もいるかも知れないが、もしそのように考えるのならば、その人間は生きている意味もまた見出せないのではないか。
人間とは文化を継承し発展させていく存在である。先人から受け取るだけ受け取って次の世代に何も遺さないのでは、何のために生きたのか分からない。

もちろん、「何かを遺そう」と気負う必要は一切無い。
今までどおり生きておれば、その間に行う活動の成果は何かしら形となるはず。趣味で(あるいは生活の中で)撮る写真もその一つかと思う。ただ、そこで生み出された結果を「消えても構わぬ」とするよりも、少しでも残るよう手立てをする。それだけでも意味があることだと我輩は考える。
そしてそれこそが、写真を撮る者にとっての「遺された骨」であろうかと思うし、今自分の為す行為1つ1つについて、意味を考えさせることにもなろう。

自分がこの世を去っても、この世界は変わらず続いて行く。
霊魂が有ろうが無かろうが、死ねばこの世界を知覚することは無くなることだろう。

死後、自分がもはや関われぬ世界の中に自分が遺したものが存在するというのは、哲学的で面白いではないか。
人は骨を遺すために生まれて来る。


参考:雑文165「人類の存在する意味」