2000/04/05
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カメラ雑文

[165] 2000年10月23日(月)
「人類の存在する意味」

「人類の存在する意味」とは何ぞや?
最先端科学でも解明出来ない。それは哲学や宗教の範疇になろうか。

宇宙に存在する物全て、「存在」自体に理由は無いのかも知れない。ただし、存在することによって、相互作用を引き起こす媒体の1つになりうる。1つの存在は別の1つのため。そのためにそれは存在し続ける。
引き合い、反発し合い、衝突し合い、反応し合う。物質の存在は、原子それぞれの相互関係の具現化したものである。原子1つの存在だけを見ても、何も分からない。原子同士の関係が世界を創り出す。また、現在の関係が未来の関係の始まりを創る。

ミクロな関係は、マクロな関係と相似である。そしてそれは、我々人類の社会構造や文化に繋がっている。我々は決して、自身のためだけに存在を理由付けることは出来ないのだ。


・・・たいそうな前置きだったが、写真の話題に入ろうか。

デジタル写真の保存性について、昨日の雑文で触れた。
プロ用として印刷原稿として使うならば、長期保存の必要は無い。それは印刷物へと形を変える。しかし、個人需要ならば、画像保存は重要である。いつの時代でも、貴重な資料というのは個人の持ち物から見つかる。その時に価値を認めなくとも、後世ではかけがえのない貴重な画像となるかも知れない。それが写真の、「記録」としての役割であるはずだ。それを満たせない写真というのは、もう写真と呼べるものではない。

後世に伝えられぬ文化などに、人間の生きている意味など込められているだろうか。
その時代でのみ消費され、その場で消えて行く。貴重な資源を消費して存在することを許された人類のあるべき姿ではない。

古代、絵を描く時にミイラの粉を絵の具に混ぜたという話がある。こうすれば絵がヒビ割れることなく、長い期間に渡って美しさを保つと考えられていた。ミイラの魔力にあやかった迷信なのだが、現代の人間にそのような大きなスケールの時間を見通そうとする努力は見られない。

子供を残し、自分の生きた証にするということは今どき流行らないのかも知れない。だが少なくとも、何かをこの世に残し、次代に伝えてゆくということは、文化を持つ動物、人類の最大のテーマではないのか?

一体、何のために人間はこの世に生まれ、そして死ぬだろう。少なくとも、地球上の「酸素」や「食料」や「石油」や「電力」を消費している限り、この世に何か跡を残すべきだと思う。
デジタルの小さなピット(窪み)に跡を残そうとも、それが波に洗われる砂のごとく脆くあらば、やはり何か方向が間違っている。

「またまた、大げさな話になってきたなぁ」と思われるだろうが、文化というのは日々の積み重ねであり、自然体であると我輩は思っている。どれほどくだらないものであっても、それは現代の価値観による評価でしかない。
写真は極めてプライベートな文化と言えるかも知れない。しかし文化の始まりはいつでもプライベートなものである。だからこそ、その文化に「人間」を見るのだ。
自分が撮る写真を、自分しか使わないからと粗末に扱う(執着しない)のは、何か寂しさを感じると共に、人間としての本能的な危機感を抱く。

古代人は、自分の一生を越えたタイムスケールで世界を見た。何百年か後に自分の魂が復活した時のことを心配していろいろな準備をした。
しかし現代人は、自分の生きる時間だけしか見ていない。自分の死後、何がどうなろうと関心は無い。完全になげやりになっている。安易さだけを追い求め、現代の終わりを次代の始まりとは認識しない。

画像の長期保存は現代人の義務だと思う。結果的に長期保存ならずとも、そのための努力は怠るべきではない。昔は意識しなくてもよかったことだが、現代の技術は、意識し努力しなければ次代へ残ることは無いのだ。

大昔の動物の姿を伝える「化石」は貴重な資料である。しかし、死んだ動物が全て化石になったのではない。ほんの数パーセントが運良く化石化したのだ。それと同じく、我々の画像のどれか数パーセントでも残れば貴重な資料となるだろう。今のデジタルでは、努力無しでは生存率0パーセントは確実。努力して初めて、化石のように運良く残るものが出てくる。


何も残せず無に帰すのは、最初から無かったことに等しい。
我輩自身、無に等しい存在となる可能性は高いが、それでも努力だけはしたい。人間としての本能がそうさせる。
何を文化と認定するかは後世が決めようが、そもそも残るものがなければ話にならぬ。


「努力」とは、メンテナンス無しで放って置かれてもクオリティ低下のみに留めるようにする努力のこと。メンテナンス自体に努力を払っても、自分が消えればデータも消えるので意味が無い。