2000/04/05
OPEN

表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
11.その他企画

12.カタログ Nikon
 F3 (F3H)
 FM3A
 FM2
 FM
 FE2
 FE
 FA
 FG
 FM10
 FE10
 F4
 F-401X

Canon
 AE-1P
 AE-1
 newF-1

PENTAX
 K1000
 KX
 KM
 LX
 MX
 MZ-5
 MZ-3
 MZ-M

OLYMPUS
 OM-3Ti
 OM-4Ti
 OM-2000

CONTAX
 ST
 RTS III
 Aria
 RX
 S2

MINOLTA
 X-700
 XD

RICOH
 XR-7M II
 XR-8SUPER

カメラ雑文

[630] 2008年09月19日(金)
「万人受けするキレイな写真が必要」

以前、雑文260「趣味性」にて、「ただ表面的な美しさにひきずられて、本当に自分が撮りたい写真を見失うな」という主旨の文章を書いた。
そのためには、"自分が認められたい"という自我欲求を抑えられるかどうかがカギを握る。

心を無にして純粋な気持ちになり、如何にして「認められたい」「尊敬されたい」「必要とされたい」というような雑念を削ぎ落とすかが重要である。そしてそれらの雑念にかき消されていた本来の自分が望んでいた写真というものを炙(あぶ)り出すことこそが、芸術の原点であろう。だからこそ斬新な芸術作品は、最初は他人には評価されにくい。

どうしても雑念を払拭出来ないという者あらば、我輩としては、座禅や写経(あるいは写仏)を薦めたい。
座禅は、心を無にする鍛錬である。
そして写経(写仏)は、1つのことに集中する鍛錬である。
雑念を打ち払い強い意志を培うには、どちらも最適な方法である。

我輩自身の話をすると、他人から評価されるためにキレイな写真を撮るということをやめてからしばらく経つ。
もちろん、だからと言って我輩自身が求める内なる声を全て理解し、それを写真作品として完璧に反映出来ているわけでもない。自分自身のことは、自分自身でも解らないことは多い。だから、それを1つずつでも明らかにするのが、我輩の写真テーマでもあろうかと思う。

ところが先日、グループ会社の社内報に使う表紙写真の提供を求められた。
この話は、以前雑文611「巡り合わせ」にて書いた内容の第2弾である。前回の実績を買われ、「また今回もキレイな写真をお願いします」と言うのだ。

「くうっ・・・、キレイな写真か・・・。」
我輩は頭を抱え込んだ。

全く皮肉な話である。
雑念を打ち払い、自分自身の求める写真を撮っていたら、たまたま万人受けする写真が撮れてしまった。それが前回の写真掲載で喜ばれ、再び万人受けする写真を要求されるとは。

もちろん、このように必要とされるのは嬉しい。作品を評価されるというのも嬉しい。印刷物の表紙を飾るのも嬉しい。
しかしそういった嬉しさは、結局、自分の欲望でしかない。
自分自身を炙り出すための芸術活動が、そのような自分の欲望を満たすだけのものにさせたくない。
自分とは何か? どこから来てどこへ行こうとしているのか? 生きる意味とは?
大げさに思えるだろうが、自分を知るということは、それらの疑問に対する答えにも繋がることである。そういった活動を今さら否定するのか・・・?

そんなことに悩んでいると、今度はカラーコピー機コンペの話が入ってきた。
我輩の職場では、カラーコピー機(いわゆる複合機)の販売を行う部署がある。その担当者が「カラーコピー機のコンペがあり、出力サンプルとして写真素材を求めている。何かキレイな写真は無いか?」と言ってきた。
「くうっ・・・、またしてもキレイな写真か・・・。」
どうやらCanonのコピー機と競合しているようで、向こうの出力サンプルは「花」や「動物」や「自然景観」といった、いかにも万人受けするようなイメージ写真だった。
これに対抗する写真か・・・、頭が痛い。

重なる時は重なるもので、職場の女性から「お見合い写真に使うスナップを撮って欲しい」などという要請もあった。
これなどはまさに万人受けする写真でなければ絶対にマズイ(参考:雑文588「自分のため(3)」)。

まあ、結局はお見合い写真の件は無くなったのだが、依然として2つの案件が待っていた。
改めて我輩の写真ファイルを漁ってみたのだが、他人の評価を必要としない写真ばかりでなかなかキレイな写真が見当たらない。
業務が絡んでいるため、下手に断れないのがツライところ。業務上の評価や実績については、我輩も大いに気にするし、逆に言えば気にせねばならぬ。

「うーむ、こういう時に備えてキレイな写真も撮っておくべきだったかも知れん。」
色々と思い返すと、キレイな写真が撮れる場面は幾つもあった。例えば、雑文600「ゴールデンウィーク独り旅」 などは、画になる景色はたくさんあったはずだった。しかし、我輩の求める写真ではないという理由で、そのような景色を前にして余計なシャッターを切ることは無かった。

ならば、我輩がまだ雑念に満ちていた頃の昔の写真を引っ張り出すしかない。
探してみると、10年以上前に撮った「光を読んで撮った風景写真」、「色鮮やかな花写真」、「臨場感のある動物写真」、「各種、望遠による背景ボカシ写真」など、まさに万人受けするだろうなと思うような写真が幾つか見つかった。
「こんな写真を使うことになろうとは・・・」
我輩の心中は複雑であった。

結果として、これらの写真を使うことにより、2つの案件にて各担当者からは大変喜ばれた。
我輩としては、嬉しいという気持ちよりも、ピンチを切り抜けてホッとしたというのが正直なところである。
今後、我輩の写真についての評価は我輩の意図せぬ方向に向かうだろう。業務上の評価ゆえ、我輩はその期待を裏切らぬようにせねばならなくなった。つまり、雑文260「趣味性」で言うところの"無償の仕事"そのものを課せられたことになる。

もう、ここは割り切って、今後は我輩自信の趣味としての創作活動と平行して"無償の仕事"もやることにするしかあるまい。不本意だが仕方が無い。

重要なのは、この2つの活動を、決して混ぜてはならぬということ。
いかに他人から高く評価される写真が撮れようとも、それが"無償の仕事"で撮った写真であるならば、我輩はそれを"作品"とは考えず、"納品物"と考えることにする。
そうでもしなければ、自分自身がとても納得出来まい。