桜の花が散り、若葉が茂り始めている。暑い日差しも続くようになり、萌える緑に包まれる初夏が間近であることを感じさせる。
初夏は、我輩の最も好きな季節である。
ゴールデンウィークも近付き、自然の撮影についても好条件となる。今回は、どんな写真が撮れるだろうか。
今から心が躍る。
以前、
雑文037「ネイチャー・フォト」にて、目に見えぬ風が砂丘に風紋を刻むが如く、目に見えぬ物理法則が表現形として我々の目に映る"自然の姿"を形作ると書いた。
自然の姿とはあくまで、自然界というシステムが正常にサイクル(循環を以た動作)している結果の姿に他ならない。
我輩が自然に対して心打つ時は、自然のダイナミズムによるところが大きい。
そういったものに僅かでも触れた写真は、「風景写真(ランドスケープ・フォト)」ではなく「自然写真(ネイチャー・フォト)」である。
子供の頃、川の流れというのは我輩にとっては不思議な存在であった。
自分で庭の片隅にスコップで溝を掘り、そこに水を注ぐと小さな川が出来る。当然ながら、水が流れ去ってしまえばその川は干上がる。実に解り易い。
ところが、自然の川はそうではない。雨の日はもちろん、晴れの日でも川には常に水が流れている。水位に上下はあるものの、完全に干上がった川など見たことが無い。雨の降らない日には水をどこから補充している?
後になって地理の授業で学んだが、川は我輩の想像よりもずっと大きなスケールで存在しており、水は山の保水力によって安定して供給されていた。数日間雨が降らずとも、源流にある湧水(ゆうすい)は枯れることが無い。雨が山肌にゆっくりと染み込み、場所によっては江戸時代に降った雨が湧き出しているとも聞く。
それを知った時、我輩は自然のスケールの大きさとダイナミックな動きに心を打たれた。
想像を超えるほどの自然の広さ、深さ、そして時間。
それが普段目に入らないのは、大きすぎるからか、それとも小さすぎるからか、あるいは奥深いためか、または動きが少ないためか、逆に早すぎるためか。
いずれにせよ、自然の全体像を捉えるのは難しい。写真ではその断片でしか捉えることは出来ない。だが、その断片を用いて自然のスケールを垣間見せることが出来るのも写真の力である。
以前、平尾台での撮影について
雑文で書いた。
鍾乳洞や羊群原(ようぐんばる)、ドリーネなど、いくつかの地形に注目し撮影を行ったわけだが、石灰岩が水に溶けたり析出したりすることによって造形されるというのは、平尾台のどの地形にも共通している。それらは自然の動きが痕跡として残った状態と言える。
我輩が最初に平尾台へ行ったのは、中学生の頃の科学部遠征調査の時であった。顧問教師の自家用車にて、我輩を含めた3人の生徒が平尾台を訪れた。
顧問教師は地面に落ちている白い石灰石を拾い上げ、「これが浸食されると赤土になる」と言った。我輩には、ガラスのように硬そうなその石灰石が浸食されるなどとは、にわかに信じられなかった。
こういった感覚的な写真は、学術的には有用ではない。浸食による筋の刻まれた石灰岩を選べば、より直接的で学問的には理解し易い。だが我輩は、それでは絵にならないと考え、このようなタケノコを連想する形状のものを選んだ。
そうは言っても、これが世間的に評価される写真というわけでもない。普通に見れば、妙な形の白い岩がただポツンと立っているだけ。何の感動も無かろう。
そもそも世間では、「ネイチャーフォト」と言えば昆虫のような小さな生物の写真と相場が決まっており、地形の写真などは「風景写真」と一括りにされる。だが、風景として漠然と眺めるような写真では決してないため、どうにも納得がいかない。これも分類の弊害か(参考:
雑文106「分類」)。
火山地形、堆積浸食地形、石灰岩地形、特徴ある植生など、我輩の興味をそそる対象は幾つもある。
それらは常に動き、変わり続けている。人間の一生ではその動きを認識出来ないため"静"の印象を受けるが、動きの痕跡を見付けることにより、自然のダイナミックな動きを知り感動を覚える。
我輩はたまに、光の美しい写真も撮ったりするが、それらの美しさは単に光の具合が美しいだけであり、あくまで表面上のものでしかない。
もちろん、美しさから感動を起こさせるのは自然を表現する一つの手段だが、スケールの大きさによって感動を起こさせるのは自然でしか出来ない表現である。その表現は理解者を選ぶものの、自然が単に「目に美しいもの」ではなく、「心から素晴らしいもの」であることを改めて認識させることだろう。
我輩は、写真という手段を用いることにより
視点を固定し、
情報量を多く取り込み、スケールの大きな動きをダイナミックに表現して記録したい。それこそが、我輩的分類としての「ネイチャー・フォト」である。
人に理解されるかどうかなど、問題ではない。
自分だけのネイチャー・フォト撮影。ゴールデンウィークが待ち遠しい。