[106] 2000年 8月 5日(土)
「分類」
「オタク」という言葉が発明されたのは1980年代だったが、もちろんそれ以前にもオタクに該当する者たちはいた。
しかし、それまでは「コレクター」、「マニア」、「新人類」、etc・・・、など、色々な名称で呼ばれていたのだが、それぞれに何かが共通する性質もあった。そこで、「オタク」という分類が登場し、なんとなく掴みどころのなかった部分で言語化が可能になった。逆に言えば、「オタク」という言葉が発明されるまでは、とても一言で説明が出来ない存在だったわけだ。
例えばある会話で、「アイツ、どちらかというとオタクだよな。」と言われると、今まで見てきたオタクのサンプルが頭の中に次々と浮かび、「確かにそんな感じだね。」となるわけだ。
たった3文字の「オタク」という言葉を通じて、会話の中で共通の認識を持つことが出来る。「オタク」という言葉は、画期的な発明であろう(ちなみに発明者は、エッセイストの中森明夫氏とされている)。
しかし、分類というのは便利なことだけでなく、時に弊害をもたらすことがある。
我輩は仕事上、初対面の人間と世間話をする事がある。例えば、初めて一緒に仕事をする営業の人間や、他社の担当者など。
初対面での世間話は、仕事の話はもちろんだが、天気の話や趣味の話もよく出る。
例えば、「写真を撮ります」などと言うと、「何を撮るんですか」とくる。たまたま前の日に人を撮ったりしたので「人とか撮ったり...」と言うと、「あ、ポートレートですか」と言う。
「でも、旅行とか行くと風景を撮ります」と言うと、「風景写真ですね」と言う。
「動物も撮りたいです」なんて言うと、「じゃあ、動物写真家だ」と言う。
そして、「多才ですね」なんて言われたりするわけだ。しかしまあ、あまり分類にこだわることはないと思うぞ。別にそれくらいの写真、日常で撮る範囲だろう?
そこで、「カメラの写真とか撮ったりします」と言ってみる。すると今度は、「カ、カメラ・・・ですか?カメラでカメラの写真を撮るんですか・・・?」と驚いたりする。当たり前だろ。カメラで撮らなきゃ、何を使って撮るというんだ?
ちょっとでも自分の分類範囲から外れると、すぐに理解不能となる。文明の発達した時代でも、案外思考の範囲は狭いものだ。
あまり、何でもかんでも分類したがるのも考えものだ。
人のやっていることが理解出来ないということは、よくあることだ。もしそれが、あまりに常識から外れたり、反社会的なことであったりするなら、理解出来ないのも無理はない。しかし、単に「聞いたことが無い」ということだけで理解出来ないのであれば、それは言葉自体に限界があるからだ。
そんなことでは、異文化の理解も不可能だろう。国際化社会たる現代においても、そのような場面はよくある。
写真には多くのジャンルがある。しかし、ジャンルの隙間を埋めるような自分だけの世界を作ってみてもいいと思う。ジャンルに縛られているのは、自分で自分の可能性を閉ざしているのと同じだろう?
与えられた言葉だけで話そうとしても理解に限界があるように、自分だけの新しい分類を作ってみたいものだ。
まあ、最初は理解されないだろうがな・・・。
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