2000/04/05
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カメラ雑文

[815] 2014年06月08日(日)
「等倍鑑賞へのこだわりは捨てるべきか」


我輩はこれまで比較的長く雑文を書いてきたが、昔のものを今読み返すと、時代の流れを感ずるものが幾つかある。
例えば、昔はデジタルカメラの欠点として「大量の写真が撮れない」ということを挙げたりもしていたが、今ではメモリカードも大容量化し、当時はそんな心配事をしていたのかと今さらながらに驚く。

恐らく、今回の雑文のタイトル「等倍鑑賞へのこだわりは捨てるべきか」も同じように、時代によってその意味が変わってくることだろう。

今現在、デジタル写真をディスプレイ上で等倍鑑賞することについて、否定的な意見がある。その意見の主旨は「写真というのはあくまでも全体を観ることが本筋であり、一部分を拡大表示することになる等倍鑑賞にて、ああだこうだと言うのはナンセンスである」ということであろう。

しかし数年後、同じく等倍鑑賞否定論であってもその主旨が変わる可能性もある。
「等倍表示にこだわるあまり、小さな画像を表示させるのは写真鑑賞とは言えまい。画質が損なわれようとも画面いっぱいに拡大表示するのが写真鑑賞というものである。」と。
これはどういう意味なのか、今はなかなか理解しづらいが、時代が変わればこのような意見も理解出来るようになるかも知れない。

−−−

テレビが地上波デジタルに切り替わり、全国民が強制的にテレビの買い替えを迫られたのは約3年前。
地上波デジタルはハイビジョン(※1)であり、当然ながら今では一般家庭にハイビジョンテレビが普通に置かれている状況。もはや、昔のテレビはもう存在しない。中には我輩の知人のように、従来テレビに地上波コンバータを繋いで観ている者もいるかも知れないが、もしそのテレビが故障してしまえば、次はもうハイビジョンテレビしか手に入らぬ。
(※1:放送番組はフルハイビジョンには満たない解像度だが、テレビ受像機としてはブルーレイビデオを表示させる必要があるせいかフルハイビジョン仕様が普通。)

またパソコンでも、フルハイビジョン解像度のディスプレイはごく一般的となった。
先日のWindowsXPのサポート終了に伴い、我輩の職場でも全社一斉にWindows7搭載パソコンへ更新されたのだが、全てがフルハイビジョンの1,920x1,080ドットの液晶ディスプレイ付きである。企業向け一括調達仕様の安いパソコンでさえこのような状況で、むしろこれ以下の液晶ディスプレイを求めるほうが難しい。1,024x768ドットが標準だった頃がウソのように感ずる。

これらは、技術が進歩した結果であることに間違いないが、何よりも、1つの大きな壁を越えたことが大きい。
それは、ブラウン管(CRT)から液晶パネルへの転換である。

かつて、パソコンディスプレイやテレビの表示画面はブラウン管を使っていた。
ブラウン管は真空管の一種で、熱せられたフィラメントから電子を飛ばし、その電子を磁気でコントロールして蛍光面に映像を結ぶものである。いわば、レンズの代わりに磁気を使った投影装置と言える。当然、投影のためにはある程度の奥行が必要で、大画面化には装置全体の図体や重量が3乗に比例して大きくなる。当然、そんな大きなものは設置場所も限られる。

ところが液晶パネルの登場で、大画面化は単にパネル面積の問題だけとなった。
画面が大きくなっても、筐体そのものはそれほど大きくなる必要は無い。液晶パネルの重さを支えるだけのスタンドとなっていればそれで済む。

もちろん、普通サイズのブラウン管でも解像度を高めればそれだけ精細に表示される。実際、パソコンディスプレイでは高解像度対応のCRTは存在した。
しかしこの点でも、液晶には敵わない。
ブラウン管は電子線を遠くから投射するため滲みは避けられないばかりか、投射はたった1本の電子ビームを走査していくだけなので、あまり解像度を細かくすると走査が追い付かずに画面がチカチカする。それを解消するには走査の周波数を上げねばならぬが、それにも限界がある。

それに対し液晶の場合、全画面の各ドットは同時点灯(※2)しているのでチカチカせず、しかもドットは滲み無く1つ1つがクッキリと分かれているので表示は極めてクリアである。
(※3:正確に言うと液晶そのものは点灯せずバックライトのシャッターの役目を担っている)

そういうわけで、画像表示装置がブラウン管から液晶パネルに置き換わって以降、大画面化・高解像度化への障壁が無くなった。その証拠に、もう次のハイビジョン規格である4Kや8Kスーパーハイビジョンが研究されている。こういった規格は、もはや液晶ディスプレイを前提とせずには成立しない。

先日NHKの番組にて、8Kスーパーハイビジョンの研究・開発について紹介されていた。
その番組では、大量データの圧縮技術と伝送技術についての具体的な解説があり、また、送受信試験が行われて実用化への目途も立ったという話もあった。まさに明日から8K放送が開始されそうな錯覚さえ覚える。
かつてブラウン管時代に未来技術としてハイビジョンテレビが紹介された時(※4)、遠い先のこととして現実味が感じられなかったものだが、今、8Kスーパーハイビジョンに対しては非常に現実味を感ずる。何しろ、「もう次の規格か」と訝(いぶか)る者も多いくらいだ。これは、明日の問題として捉えているからこその意見であろう。
(※4:当時、ハイビジョンテレビは「高品位テレビ」と呼ばれていた。ちなみにそれはアナログ方式だった。)

さて、今さら説明するまでも無いが、8Kスーパーハイビジョンは現状のフルハイビジョンに対し16倍もの画素数である7,680x4,320ドットを持つ。つまり、3,000万画素以上もの画像を等倍全画面で表示出来ることを意味する。
我輩も多くの者たちと同様、「3年前の地上波デジタル化で強制的にテレビ買い替えを迫られたのに、もう次の規格か?」と戸惑ったが、それと同時に「8K放送によって高解像液晶ディスプレイは確実に身近になろう」とも考えた。

もちろん、単純に考えれば現在のテレビの16倍の面積の画面が家庭に入ることは有り得ない。いくら液晶パネルになりブラウン管の厚みから解放されたとは言っても、壁一面をディスプレイにするわけにもいくまい。
もし画素密度が同じ場合、下のイラストのようにとんでもない面積となってしまう。我輩が次期導入するであろうサイズでも、8Kディスプレイに比べるとかわいく見える。

<画素密度が同じ場合の各ディスプレイのサイズ比較>
画素密度が同じ場合の各ディスプレイのサイズ比較

しかしその点は画素密度を上げれば良く、一定面積の中で緻密さを増やす方向に進むことになろう。
何しろ、最近はスマートフォンやタブレット端末でもかなりの画素密度があり、中には、てのひらサイズでフルハイビジョン解像度1,920x1,080ドットを持つものもあるらしい。そんな解像度が携帯端末で実現出来るのだから驚かされる。以前話題になった「網膜を超えた解像度」というのもあながち大げさでもなくなった。
我輩の手元にあるタブレット端末はそこまで目が細かくはないが、それでもパソコンディスプレイに比べると緻密なので、写真を表示させると非常に臨場感が高く見える。これをそのままの緻密感にて大画面で見てみたい。それこそが、8Kディスプレイか。

将来、商業的なテレビ放送としての8Kスーパーハイビジョン規格が定着するかどうかは知らないが、少なくとも放送開始時点で表示デバイスとしての8Kテレビが存在せねば話が始まらない。つまり、8K液晶パネルの登場はもはや確実。そしてそうなれば、自ずとパソコンディスプレイも8K化され、その解像度が最低ラインとなるであろう。そうならない理由が思い付かない。

今我輩が使っているパソコンディスプレイの解像度は2,560x1,440ドット。これは368万画素であり、我輩が最初に購入したデジタル一眼レフ「Canon EOS D30」で撮影した画像を超えている。
現在はそれを大きく上回る3,840x2,160ドットのディスプレイが同じ価格帯で各社から出ているようだ。これは画素数で言えば829万画素。「RICOH GR-D」を使って過去に撮った写真が等倍表示で入ってしまう。
もし今後8Kディスプレイが主流となれば、以前にも雑文で触れたが、なんと3,000万画素の写真でも足らなくなる計算。

我輩が今メインで使っているデジタルカメラは1,600万画素のマイクロフォーサーズカメラなのだが、8Kディスプレイのことを考えると危機感を持つ。

<8Kディスプレイによる等倍表示のイメージ>
8Kディスプレイによる等倍表示のイメージ

そんな低解像度の画像をどうやって画面に表示させれば良い? まさかの拡大表示か? いや、拡大表示をすればピクセル補間処理のため画質は劣化する。そうでなくともベイヤー機では補間処理されているのだから、これ以上補間させたくは無い。

しかしそんなことを言うと、等倍鑑賞否定論者が再び現れ、そして今度はこう言うだろう。
「等倍表示にこだわるあまり、小さな画像を表示させるのは写真鑑賞とは言えまい。画質が損なわれようとも画面いっぱいに拡大表示するのが写真鑑賞というものである。」と。


(2014/06/11追記)
同じようなことを書いた雑文811があることに今更ながら気付いた。
我輩はこれまでの雑文のほとんどを記憶しているつもりだったが、これは時期的に近過ぎて盲点・・・というか、灯台下暗しだった。しかしまあ、アプローチが微妙に異なるので、大目に見て欲しい。