2000/04/05
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カメラ雑文

[646] 2009年01月22日(木)
「古い概念の呪縛」

最近は年賀状の配達数が減少しているという。職場内での年賀状やりとりをやめる風潮もあることから、このまま行くと、凧揚げや羽根つきと同様に年賀状という風習も消え去るのだろうか。少し寂しい気がする。

一方、年賀状をハガキで出さずにケータイメールでやり取りする者が増えていると聞く。年賀状という習慣がそのまま消え去るよりも、ケータイメールとして年賀状文化が受け継がれることになればまた面白い。

ところが先日、電車内でとある広告を見た。ケータイを使って年賀状を出すサービスの紹介であった。
つまり、年賀状のデザインや宛名印刷、そして投函までをケータイから申し込むことが出来るというサービスである。

我輩はこれを見た瞬間、「何ともムダなことをしよるなぁ」と思った。
まあそういうニーズもあるのだろうが、せっかくケータイという新しいツールを活用するならば、ハガキという古い概念の呪縛から離れてメールで完結したらどうかと思う。調べてみたところ、年賀メールに対応したグリーティングメールの配信予約サービスもあるではないか。

新しいツールというものは、新しい使い方をしてこそ、その真価を発揮する。

*****

さて話は変わり、フィルムカメラの時代を思い返してみる。

当時は、大きく分けてネガフィルムとポジフィルムという2つの選択肢があった。
ネガの場合はプリントが最終形態、ポジの場合は現像済みフィルムが最終形態となる。
両方を活用している者もいたろうが、我輩の場合はポジ派だった。
その理由は、「ポジの色の深さ」に加え、「撮影時の調整が全て」という潔さである。

それに対してネガの場合、撮影時後もプリント時に調整せねばならず、そこで手を抜くと望む結果が絶対に得られない。
しかも、自分の目指している色調整が正しいのかどうかという判断が難しい。ヘタをすると、限りなく主観に偏っていくことになる(参考:雑文365「想像は現実を通り越す(2)」)。

これがポジならば、撮影時の条件に万全を尽くせば、あとは天に任せるしか無い。その結果として色のイメージが違ったとしても、自分自身は納得出来る。むしろ、あとで無制限に調整可能なほうが、自分自身が納得するところまで持って行くのが難しかろう。

この考えは、デジタルカメラの場合でも同じである。
デジタルデータは後処理がいくらでも行えるため、中には後処理を前提としてRAWデータで撮る者も少なくない。これはまさにネガ派の行動そのものである。ポジ派の我輩には全くもって理解不能。もしかしてデジタルカメラを主として使っている者は、ネガ派が姿を変えたものではないのか?
そのように考えると、妙に符合する言葉があった。

「A3サイズにプリントするなら1,000万画素のカメラで十分。全紙まで伸ばす人が果たしているだろうか。」

これを聞いた時、我輩はショックを受けた。
「この人間は、プリントが世の中全ての写真の最終形態であるとでも言うのか?!」
ポジ派の我輩は、デジタルデータは等倍表示でルーペを覗くが如くスクロール鑑賞するのが当然だと感じていたし、それが高画素を堪能出来る唯一の方法だと思っていた(参考:雑文559「スクロール鑑賞のすすめ」)。

以前、雑文569「最高速度」では、デジタルカメラの性能を画素数で語ることについての愚かしさを述べた。
ただそれは、銀塩カメラとデジタルカメラとの対比で見た場合の話である。もしデジタルカメラ同士で比べてみた場合には、やはり画素数が多いほうが用途が広がるに決まっている。
もしプリントという形態が、高画素のデジタルカメラの用途を制限しているとするならば、その人間はデジタルカメラを使うのには向いていないと言わざるを得まい。

我輩の場合、デジタルカメラはもはやネガ的でもポジ的でもなく、完全に独立した使い方をしている。それが、デジタルカメラの特性を活かした「メモ用途」である。いや、「メモ用途」などと呼ぶと粗末な用途に聞こえるため、「資料収集用途」とすべきか。

特に、博物館での展示品撮影では、デジタルカメラならではの特性として「撮影枚数の多さ」、「低照度でのノンストロボ撮影」、「カラーバランスの融通性」、「高画素」が用途にピッタリと言える。
ただ、我輩のカメラ「D200」では画素数が今ひとつ足らなかった。先日「国立歴史民俗博物館(れきはく)」を訪れ、展示物のうち興味あるものを「Nikon D200」で撮影していったのだが、やはり約1,000万画素の解像度では少し無理があると言わざるを得ない。主に、展示物全体を撮ると、解説の文字が読めなくなることが多い。仕方無いので解説は別撮りするしかなかった。
こういう用途には、せめて2,000〜3,000万画素は必要か・・・。

展示品を1,000万画素で撮影した写真(全体縮小)
展示品を1,000万画素で撮影した写真(全体縮小)
[国立歴史民俗博物館]


上の写真の元画像から緑枠内を切り出し、2倍に拡大したもの
上の写真の元画像から緑枠内を切り出し、2倍に拡大したもの
[国立歴史民俗博物館]

もちろん、我輩にはこれらの写真を全てプリントするという発想は無い。
ましてや全紙に伸ばすなどとは。
ネガ派の人間は、古い概念の呪縛から脱却出来ず、いまだにネガフィルムを使っている感覚なのだろう。そこには、まさに冒頭に書いたような、ケータイから年賀状を印刷しているような割り切れなさを感ずる。

完全にデジタルカメラに移行してバリバリに使いこなしているはずの人間がプリントという形態に縛られ画素数の多さに辟易している一方で、いまだにフィルムを使っている我輩のほうがデジタルカメラの進化に順応し、そして更なる進化を望んでいるというのも皮肉な話。

いくら撮影機材をデジタル化したところで、肝心の人間の側の概念がデジタル化されていなければ意味が無かろう。デジタルカメラは新しい時代の道具であるから、従来の使い方そのままに置き換えようとしても、新しい道具に振り回されるのがオチ。

こんな者たちにフィルム文化を浸食されているのかと思うと、我輩は複雑な心境になってくる・・・。


(参考1)
先日、ソニーが裏面照射型CMOSセンサーを実用化したというニュースを知った。これにより、基本感度が2倍にアップし、しかも周辺光量のケラレの問題も軽減することになるらしい。そうなると画素数増加によるノイズの問題も改善されることになる。ノイズを嫌って高画素化を否定する根拠はいずれ無くなるであろう。

(参考2)
今後カメラの高画素化によって、画質がレンズの分解能に左右されるようになることを考え、我輩は先日、高性能な「AF-S NIKKOR 14-24mm F2.8G ED」を導入した。
当然ながら、「国立歴史民俗博物館(れきはく)」での撮影は、このレンズにて撮影したものである。今後、更なる高画素カメラを導入した際、それにふさわしい映像をCMOS上に投影してくれることを期待している。

(参考3)
デジタルプリントサービスは、現状では300dpi程度しか無いが、これはあまりにも人間の目を軽視した仕様である。写真館で撮られた少し前の大判写真プリントを見てみると、デジタルプリントとは比較にならぬほどの緻密感を持っていることに気付くはず。そもそも300dpiというのは、一般印刷の入稿データのレベルである。一般印刷のクオリティは網点を見れば分かる通り非常に粗いものだ。それに使われるデータであるから、300dpiのプリントなど画質を語るべきものではない。

(関連雑文)
雑文404「動的な映像活用」