中高生時代の友人の中で、今でも印象が強いのは「クラッシャー・ジョウ」である。
以前にも
雑文188にて書いたが、中学時代にジョウの自宅にあったペンタックスカメラのことが昨日のように想い出される。
狭い日本家屋の北向きの寒い部屋。畳の上に並べられたペンタックスの一眼レフが鈍く光っていた。数字の刻まれたシャッターダイヤルが妙に心に残っている。
ジョウはそれらのカメラを手に取り、ブロアーで1台1台シュコシュコとホコリを飛ばした。ジョウのその様子が、貴重品を扱っていることを我輩に感じさせた。
ジョウはそれらのカメラをさりげなく自慢していた。
ジョウの自慢モードはいつものことだったため、我輩もいつものように聞き流しモードであった。しかし、聞き流してそれらのカメラを良く見なかったことにより、逆に一眼レフカメラに対する神秘性が増し、一眼レフに対するイメージとして、少ない情報量が全体の印象を決めてしまったとも言える(参考:
雑文302)。
現在の我輩として、ダイヤル式カメラを好んで使うのは我輩の思想によるものだが、カメラそのものに対する興味というのはこの体験が出発点であったろうと思っている。
そういう意味では、こんなことを言うのは悔しいがクラッシャー・ジョウには感謝したい。
そもそも九州人というのは、基本的に自慢する者が多い。だが、その自慢は子供の自慢のように分かりやすく、心の広い人間がその様子を見れば笑ってしまうであろう。自慢する本人が、それが自慢していることだと自覚していないため、そうなってしまうのだ。
そんな九州にあってジョウの自慢は群を抜いていたのだから、ジョウはかなり毒のある人間であると言えよう。しかし、毒のある人間は良い意味でも悪い意味でも影響力が強いことは確か。毒の無い人間が人に影響を与えられるはずが無い。
(その証拠に、カメラ雑文でのジョウの登場数はかなり多い。)
我輩も九州人であるから、もちろんその気質がある。ジョウには及ばぬが、当然ながら当サイトも若干の毒を持つ。
ダイヤル式カメラユーザーを増やす意味で開設したサイトであるが、我輩所有カメラなど紹介している時点で自慢であると言わざるを得まい。
しかしそれによって、見る者が様々な感情を以て見ることになり、そこから人を動かす。何の感情も湧かせないような無色無臭のページなど最初から無くとも良いのだ。勘違いサイト、痛いサイト、押しつけがましいサイトであれば、それなりに嫌悪感も湧くだろうが同時に興味も湧くに違いない。熱が冷めた頃、その興味だけが膨らむことになれば、我輩の目的が達成されたことになる。
そう考えると、
批判メールに対して一概に否定的になる必要も無かったかも知れない。あの時は、我輩の主張を未読のまま批判されることについて煩わしさを感じたのであるが、まあ、それでも良かろう。我輩の毒気を十分に吸ってもらっているのが分かって良い。
いずれそのうち毒が回り、中には独自のダイヤル一派を作るまでになる者が現れて我輩の良い敵になれば嬉しい。