2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
11.その他企画

12.カタログ Nikon
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カメラ雑文

[255] 2001年04月16日(月)
「写真だけを知るなかれ」

人間は有限の時間を与えられた存在である。それ故、永遠に学び経験し続けることは叶わぬ・・・。

しかし、人間は考えることが出来る。古代の賢者たちは、考えることによって、限られた知識と浅い経験の中から大きな力を得た。
古代と比べて遙かに大量の知識と様々な経験(長寿命化と地理的短縮による)のある現代において、果たして古代人よりも賢くなったと言えるだろうか?



少し前、掛け算や割り算の出来ない大学生が話題になったことがあるが、これは例外だと自分を納得させてみたとしても、学生の学力低下には驚きを禁じ得ない。彼らは、「計算などは電卓やパソコンでやれば済むだろう」と主張する・・・。

雑文044でも書いたのだが、「ゆとり教育」の一環で、学ばねばならぬことがどんどん減っていく。円周率については3.14のままで行くそうだが、そんなことよりも他の知識がゴッソリと抜け落ちているので意味が無い。

人間の脳というのは、関係無い知識や経験を互いに結びつけ、そこから全く新しい結論を導き出すという驚くべき機能を持っている。遊びの中にさえ、人生を左右する芽が潜んでいたりする。
知識、経験、遊び。そう言ったものが脳内で垣根無く相互に結びつく。これが「洞察」の源泉である。

「一を聞いて十を知る。」
それは単に、線形的で予測可能なものを理解するという意味ではない。非線形のものですら、人間の脳は「洞察」により理解可能だということを示している。
それには深い知識が必要であり、全く役に立たずに脳の中で沈んでゆく知識も中にはあろう。だが、役に立つか立たぬかは、結果が決めることであり、人間が事前に決められることではない。

「社会に出ても役に立たないような勉強をなぜしなければならないのか」と言う児童がいるらしい。実は我輩もそのように思ったクチだった。それに対し、大人はハッキリとした理由を示さない。だから、子供はますますその思いを強くする。
なぜ、子供の質問に答えない?
「必要なものを理解し自分のモノとするためには、土台となる脳が成長する必要がある。そのために使われる学問なのだ。」と。

もし、実用的と思われる勉強だけを選んで勉強したならば、社会に出て当面の間、それは大いに役に立つであろう。しかし、不測の事態が起これば、人間の総合的判断によって切り抜けなければならない。偏った知識で育った人間は、プログラミングされた機器のように、想定外の仕事は出来ずに、ただ指示を待つのみ。

さらに、時代というものは変わる。それにつれて人も変わらねばならない。
例えば、現在はIT(情報技術)の波が押し寄せ、一昔前まではマニアのオモチャでしかなかったパソコンが仕事の中核を成すようになっている。

パソコンを使いこなすには、人は無意識のうちに頭の中でイメージマップを作る。多くのウィンドウで重なった画面を混乱無く見たり、深い階層のファイルを探し出したり、処理画面の推移を理解したり、コンピュータ特有の観念的な言葉を理解したりするには、頭の中でイメージマップが出来ている必要がある。

それには、空間的思考が欠かせない。例えば歴史の年表を学んだときに作ったイメージマップが役に立つかも知れない。ジャングルジムで遊んだときのイメージマップが役に立つかも知れない。図書館で本を探した時のイメージマップが生きるかも知れない。どれか一つでも経験があれば役に立つだろう。
しかし全てに於いて空白であるならば、その人間に未来は無い。また小学校へ戻り、新たに必要となった勉強をしなおすことになるのだ。


如何に多くの専門知識を得たり、如何に貴重な経験を積んだとしても、それを受けるネットの目が粗ければ、そのほとんどを取りこぼしてしまうだろう。それを防ぐには、脳を多くのムダな情報で充填し、ネットの目を密にしておかねばならぬ。

写真を撮るにはそれなりの写真的知識が要る。だが、写真を撮るための本当に必要な知識とは、写真の分野には存在しない。それは禅問答のようだが、理由は先に述べたもので間に合うだろう。

1つの知識を理解し自分のモノとするには、全く関係ない他の知識が数十倍必要だと我輩は見る。そのバックグラウンドの数が多ければ多いほど、脳内のニューロンの関与が多いということになり、洞察鋭い見方が出来るものと信ずる。
そういう人間は、発想が枝分かれして様々な結論が出せるため、それに対する面白味が強まり、深く追求して行くことが出来る。

逆にバックグラウンドが少なければ少ないほど、関与するニューロンは少ないということになり、撮影テクニックもうわべだけとなり、発想は貧弱で自分の身にならない。
そういう人間は、自分に得られる結論が少ないため、それに対する面白味も薄く、概して飽きっぽい。


限りある人生であるからこそ、貴重な知識や経験を取り逃がしては勿体ない。そのために、色々と写真以外のことについて多くの興味を持つことが大事だ。
写真が好きであるならば、写真だけを見続けてはならぬ。
これは決して、我輩の雑文の前置きが長いということの言い訳ではないぞ(?)