「人は、何のために生きるのか。」
その問いは重要ではあるが、外に向けて問うものではない。これは、自分の内に問うべきものである。
この世に生きる以上、何のために生きるのかという問いには必ず突き当たる。
しかしこの問いには絶対的な答えは存在しない。なぜなら、自分の答を他人に示したところで、それは他人にとっての答ではないからだ。
この世に生きる目的は、人それぞれに違う。
見方を変えれば、それを見付けようとすることが人生の目的とも言えるかも知れない。答を求める努力がその人間を成長させ、今まで見えなかったものが見えてくる。目の前にあっても見えなかったものが見えてくる。
だがそれにしても、最近は答だけを求めようとする者が多い。考える過程をすっ飛ばし、お手軽に答だけを教えてもらおうとする。
結局、そこまでの過程が無いため、教える者がいてもそれを理解出来ない。
その結果、「人間など生きようが死のうが同じだ」などと極端に傾いたり、自分にとって都合の良い答を出してくれる宗教を探してきたりする。
他人の出した答を「それは違う」と否定するのは簡単だが、そういう姿勢では永久に自分の答には到達出来まい。
人は、他人との関わりの中で示唆(サジェスチョン)を得るもの。
相手の言葉をそのまま受け取らず、自分なりに解釈して新しい考えを得る。それはもちろん"誤解"とは別の次元の話である。相手の言わんとすることを正確に受け取り、そのうえで自分なりの考えを組み立てる。
相手の思想との違いを炙り出すことこそ、自分を知る第一歩であるということは、以前
雑文124「思想」にて書いたとおり。
「自分は、何のために写真を撮るのか」
写真という趣味をやっていると、撮っているだけで楽しかった時期も過ぎ、やがてこのような疑問に行き当たることもあろう。
このような問いも「生きる目的」と同様に、やはり自分の内に問うべきものである。安易に答だけを外に求めても行き着くところは無い。
耳を澄まし目を凝らせば、あらゆる所に存在する"示唆"という思想の糧(かて)。
それに気付くかどうかは、自分自身の問題。
他人がどうこう出来るものではない。
自分なりに考え、自分なりに答を出せ。
それ以外に方法は、無い。