まだ日本の景気が良かった頃、我輩の勤務先(今は出向元)では日本フィルハーモニーの特別会員となっていた関係上、毎年年末にはベートーベンの第九を聴くイベントが催された。言うなれば、福利厚生の一つである。
勤務を終えた後、会場のロビーでは本社地区の人間とその家族が集まり、普段は会う機会の無いそれぞれの家族と対面する。
我輩は最初、このイベントがつまらなく思えた。勤務を終えて疲れた身体で音楽を聴きに行くとは。
クラシックなどCDでゆっくりとくつろいで聴いたほうが気が楽であろう。癒やされるために聴く音楽であるのに、ネクタイ・背広姿のまま狭い席に座って音も立てず気を入れて聴けというのか?
最初のうちは回覧される参加希望者欄に不参加と書いていたものだ。
だが、根が貧乏性である我輩としては、全く参加せずにいるのはシャクでもあった。
「ま、とりあえず1度は行ってみよう。」その年はそう思った。
映画と同じで、1度行けばそれで十分。毎年行く必要は無い。
ところが実際に行ってみると、生演奏というのはCDの音楽とは全く違うことを知った。
CDの演奏では、いつでも止められすぐに再開出来るという気持ちのため気を入れて聴くことは無い。また時間の関係上、気に入っている部分のみを聴くような"つまみ食い"も多い。だがコンサートでの演奏は一度きりであるから聴き逃しせぬよう全神経を集中させる。そのため、ある種の緊張感を以て聴くことになる。そして全ての楽章を経ることによって、フィナーレで感動を最大限に盛り上げることにもなる(参考:
雑文200「感動の素」)。
当時はまだ第九などあまり聴いたことが無く、知っているメロディはコーラスの部分くらいしか無かった。しかしそれでも、多くの楽器たちが長い物語を描き、それぞれに主張し合いながら、最後に一つにまとまって終わるという現場に居合わせた感動が肌で感じられた。まるで自分たちもその演奏に参加しているような、そんな気持ちにさせる。
演奏が終わった後、会場は大きな拍手に包まれた。我輩も拍手した。それは単純に演奏の技量を誉めるという意味では無く、感動を身体で表現したものであった。会場の多くの者たちは同じ感動を共有した。そしてそのことを確かめるように皆で拍手した。まるで、知らない者同士が「凄かったなあ」「ああ、良かったよ」と言い合っているかのよう。
それは、演奏後に続く聴衆たちの演奏とも言える。拍手無くしてコンサートは完結しない。
それ以来、我輩は毎年その行事に参加するようになった。
ところが景気が悪くなるとその行事は行われなくなり、せっかく毎年参加するようになった我輩も第九演奏会から遠退いてしまった。いくら生演奏の良さが解っても、"会社の行事"というきっかけが無くては「いつかそのうち」となかなか具体化しない。
そしてそのまま何年か時が過ぎた。
そんな時、きっかけは突然やってきた。
我輩も縁あって結婚し、新しく松戸に移り住んでそれほど経っていなかったと記憶している。
ある日、会社のメールに総務課からメールが届いた。
「会社の接待用チケット(第九演奏会)が2枚余ったので希望者に進呈します」とのこと。希望者はメールを出すわけだが、周りの者に訊くと皆メールを出したと言う。競争率はかなり高い様子。
その中のひとりに訊いてみた。
「どう書いてメール出した?」
「"第九チケット希望"って書きましたよ。」
そんなメールじゃダメだ。
我輩ならばこう書く。
どれほど第九の演奏会に行きたいかという情熱を表現し、そして妻を新婚旅行にも連れて行けなかったことについて触れ、「せめて演奏会に行かせてやりたい」と締めくくった。
あらためて読んでみるとかなりクサい文章だったが、モノは試しとメールを送ってみた。
すると数日後、「おめでとうございます」というタイトルのメールが総務課から届いた。
正義は、勝つ。
そしてそれが直接のきっかけとなり、毎年年末には第九のチケットを取りコンサートへ行くようになった。
ヘナチョコ妻は第九をあまり聴いたことがなかった様子で、一緒に行っても途中でコックリコックリする。
2000年の年末は渋谷のオーチャード・ホールに第九を聴きに行ったのだが、その時もヘナチョコは意識が遠退いた様子だった。
コンサートが終わった後、2人で人混みの中を渋谷駅に向かいながら話をした。
「居眠りしてたろう。」
「でも途中で聴いたことのある部分があった。その時は起きてた。」
「それは第三楽章だろ?」
「さあ?」
「第三楽章のはず。」
「・・・なんで?」
我輩は自宅の部屋で、いつも第三楽章の部分をリピート再生していた。
ヘナチョコの居る部屋へ聞こえるよう、わざとドアを開けボリュームを調整して少しずつ覚えさせていたのである。
そのことを教えてやるとヘナチョコは、「だって去年から聞こえてたような気がするけど・・・」と言った。
よく覚えているな。これは1年間の教育計画だったのだ。
しかし2人でコンサートへ行くのは経済的負担がかなり大きい。
また、我輩は出来れば何度でも行きたいのだが、その度にヘナチョコを連れ回すのも気が重い。
結局、去年末〜今年始めは1人で出掛け、幾つも第九コンサートを廻ることにした。1人であれば、最小限の費用で最大限の回数をこなせ、しかも身が軽い。自分一人だけの予定を考えれば済み、1つだけ空いた席を演奏日直前に取ることも出来たりする。
便利な時代になったもので、今はインターネットからチケットが購入出来る。
画面上でクレジットカード決済が済むとその場でチケット番号が発行され、その番号を最寄りのファミリーマートの端末へ打ち込むと印字されたチケットが手元に入る仕組み。タイムラグは人間の手続きのみである。
我輩は、とりあえず年末のコンサートをスケジュールに入れることにした。だが年末は空席が少なく、何とか2回分のチケットを購入。
1回目は、池袋にある東京芸術劇場(夜)。2回目は、上野にある東京文化会館(昼)。
当然ながら写真撮影は禁じられているため、演奏が終わった直後の拍手の嵐の中でサッとFUJI GA645Wiを取り出しプログラムAEにて-0.5EV補正をして素早く撮影した。マイナス補正をしたのは、舞台は明るいものの周囲が暗いためオーバー値が出るからである。