2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
11.その他企画

12.カタログ Nikon
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カメラ雑文

[392] 2003年01月09日(木)
「道具の心」

以前、米メジャーリーグで活躍している日本人選手「イチロー」がテレビの取材に応えていた。
そのインタビューの中で記者が、「アメリカの選手を見て、日本人の感覚ではちょっと変だなと感ずるような事はありますか?」と彼に質問した。
イチローは少し苦笑いしながら答えた。
「結構ありますよ。」

話によると、アメリカ人選手は道具を道具としてしか見ないという。
例えば、使ったバットを放り投げたりするのは序の口。イチロー選手自身のグラブ(当然イチローモデルのやつだろうな)も、ベンチに置いておいたらその上に座られてしまい、煎餅のようにペシャンコにされたこともあったらしい。とにかく、自分のものも他人のものも区別無く、道具というものを大事にしない。それが、アチラの選手の特徴とのこと。

我輩はこの話を聞いてカルチャーショックだった。
確かに、アメリカ人は道具を道具としてしか見ないという話は以前にも聞いたことはある。
しかし、バットやグラブなどは自分の身体の延長線上にあるとも言えるもの。バットのちょっとした重心の違いやグラブの微妙な堅さ具合によってプレーにも影響を与えるだろう。それらは爪と同じように痛みを感じないが、身体の一部であるはず。そのような大切なものを、粗末に扱うとは一体どういうことか。
年間数億円もの金を稼いでいる野球選手であるから、破損した道具などすぐに新しく買い換えれば済むだろう。
だが、そういう問題なのか?


我輩が茶道(裏千家)の修行に励んでいた大学時代、道具というのは何より大切にすべきものだった。
茶碗の取り扱いなど、必ず両手で行わねばならぬ。片手で扱おうものなら先輩の叱責を受けた。それは、茶器を壊さないようにという気持ちもあるが、道具に対する心構えという意味が強い。

茶道の祖と言われる千利休は、高価で華美な茶器よりも、心のこもった質素な茶器を重んじた(質素な道具であっても時代を経ると骨董的高価となる場合もあるが)。
質素である道具にも、それを作った人がいる。その道具を手にした巡り合い、そして、今この瞬間の時の流れ。それらを「わび」として心に感じ取る。

道具というのは元々、人間が道具の機能を利用するために造り出された。
例えば、手で土を掘り返すよりも、スコップという道具で掘ったほうが効率が良い。茶碗の場合も、手で湯をすくうよりも茶碗という道具を使ったほうが便利である。
しかしこのような道具との関係は、「一方的に利用する」だけのもの。機能を果たすか果たさぬか。その道具がこの場に存在する価値はただそれだけである。

しかし、茶道の本来の目的は「客人のもてなし」であることを忘れてはならぬ。
その目的を忘れ、道具一つ一つの機能に囚われていては良い点前(てまえ)とはならない。
如何に作法どおりに道具を使い、それぞれの道具がその機能を果たそうが、客人を楽しませること無くば、茶を点てることの意味そのものを失う。
(点前に直接関係無いような花や茶菓子の配置にも、客人の目を楽しませるために気を配る。それが、茶を点てずして茶を点てる心である。)

道具が単に機能すれば良いという場合、それは人に近い道具ではないと言える。
だが、茶道で使われる道具は極めて人に近い。それは決して、擬人化された道具への愛情などではない。敢えて言うならば、例えば、好きな人からの手紙が単なる紙片に思えぬということ。気軽にポンと投げるわけには行くまい。

茶道のように、道具の機能以上の精神性というものを追求するならば、それを使う人間の心そのものが道具の価値を決める。
その精神性とは、端的に言えば「楽しむ」ということである。

茶道は、「楽しむ」ものである。

我輩は、ダイヤル式カメラに質素な道具としてのエッセンスを感ずる。
単純明快であるが故に、その完成された美をそこに見る。
我輩は、その質素な操作形態を心で「楽しみ」写真を撮る。単に写真を撮れればそれで良いなどと考えるのは非常にもったいない。
今、この時代に生き、ダイヤル式カメラに出会い、それを使う。この幸運に我輩は感謝しよう。

写真という趣味も、「楽しむ」ものである。