2000/04/05
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カメラ雑文

[364] 2002年08月04日(日)
「想像は現実を通り越す(1)」

7月25日19:00、銀座スカラ座にて映画「スターウォーズ・エピソード2」を観た。
指定席(J列=前方より10列目)であったが席はガラ空き状態。まあ、時間的にこんなものかなと思いながらゆったりとした席で鑑賞した。

8月2日19:00、再び銀座スカラ座にて映画「スターウォーズ・エピソード2」を観た。
今度は自由席を選んだ。その日も席はガラ空き。今回はもっと前のほう(C列=3列目)に座り、見上げるようにして鑑賞した。
前回は字幕を見ながらの鑑賞であったが、今回は二度目であるから字幕は見ずに済む。映像と音に集中出来、包み込まれるような大画面にてスターウォーズの世界に入り込んだ。

その映像はまさに圧巻。人物以外はほぼ全て三次元コンピュータグラフィックス(3D-CG)だと言っても過言では無かろう。人間の想像力をそのまま映像化出来るのであるから、我々観客は、監督ジョージ・ルーカスの頭の中を覗いていると言っても良いかも知れない。

ほんの一昔前の特撮(SFX)映画では、ミニチュア模型を使った撮影が主流であった。固定された宇宙船のミニチュア模型に「モーション・コントロール・カメラ」と呼ばれる特撮用カメラが近付いたり遠離ったりして宇宙船の動きを表現した。当然ながら、カメラの大きさが邪魔をするため、例えば「ノーカットで宇宙船内部に入って行く」という映像は撮れない。それを補うために別の技術を用いて画像を合成することになり、目的の映像を作るまでに気の遠くなる手間と費用が掛かっていた。

だが、3D-CGならばどんな角度から見た映像でも表現出来る。従来では撮影不可能であったために妥協せざるを得なかった絵作りも、今では人間が想像し得る映像は全て表現可能となった。
もはや映画に3D-CGは欠かせぬものであり、その表現力が更に人間の想像力を煽り、それがまた映画として表現される・・・。

映画の上映が終わった後、我輩はスカラ座を出て夜空の下で深呼吸をした。映像の凄さに、息をするのを忘れていたような気分だった。しかしそれと同時に、目の前に広がる現実世界に戸惑った。映画の中とはまるで違う銀座の風景、何でもないものであるはずが、なぜかリアル感に満ちていた。


子供の頃、宇宙の図鑑を眺めていた時に、太陽系のイメージ図が目に入った。中心の太陽、そして水星、金星、地球、火星・・・と続く惑星。それぞれの星が触れ合うくらいに接近して描かれていた。その構図はダイナミックであり、子供ながらに宇宙への興味を膨らませたものだった。
しかし今考えると、そのイメージ図にはリアル感など微塵も無い。あり得ぬ遠近感が本物らしさを奪っているのである。

また、恐竜図鑑を眺めていると、そこには多くの恐竜が想像図で描かれていた。画全体にひしめく恐竜たちの姿。今考えると、恐竜のような大型生物が、これほどに密度高く生活しているというのは不自然に思う。いくら恐竜が当時の地球を支配していたにせよ、あまりに模式図に近い描き方だった。

これらはもちろん、リアルさの追求よりも、限られた紙面で直感的に分かりやすく表現するための教育的構図ではある。
ただここで言えるのは、「目を引く映像がリアルであるというわけではない」ということだ。

特撮映画の場合、限られた上映時間と限られた画面サイズ(最近は限界まで横に広げられたが)の中で、如何に観客の度肝を抜くかということで競争となっている。
今回のスターウォーズも、明らかに前作を意識し、それを上回る映像を創り出そうとしているように思える。その結果、画像に盛り込む情報量が非常に多くなり、映像的リアル感を失うこととなった。
具体的に言えば、不自然に濃い色と、画面に詰め込み過ぎた多くの3D-CG。しかも、それぞれのCGのエッジが立っていて画面に溶け込んでいない。

派手な動きや極端な遠近感は観る者を圧倒するが、それはあたかもビックリ箱を見続けているようなものである。飽きられれば更にそれを上回るビックリ箱を作るしか無い。

想像力は現実を越えた映像を創り出すことが出来る。しかし、現実はあくまでそれ以上でも無くそれ以下でも無い。現実を通り越したものは、もはやその時点で現実感を失う。

スゴイ作品を作ろうとする競争が、なぜか現実を遙かに越えてしまうという皮肉。
ルーカスもそのことを気にしているらしく、今回の映画の戦闘シーンでは、手ブレ効果を盛り込んだり、報道的なズーミング(滑らかなズーミングではなく急激で場当たり的ズーミング)を意図的に取り入れたりして、何とか臨場感を取り入れようとしている様子。普通なら忌み嫌われる手ブレや報道的ズーミングが、わざわざリアル感を追求する手法として取り入れらるのだから驚く。
映画「プライベート・ライアン」の場合、手ブレ効果が報道映像的な緊張感として効果的に表現されていたが、今回のスターウォーズについては、それらの技法が付け焼き刃的な使用にとどまっており効果があまり感じられない。

まあ、想像力が大きいことは悪いことではなかろうが、それをそのまま映像化するから味付けが濃くなり味覚が狂う。そしてその味に慣れてしまうと、更に強い味を求めなければならなくなるだろう。
そうやっているうち、いつの間にか現実世界の味付けを忘れ、頭の中でしか存在し得ないような不思議な映像が溢れるようになる。


・・・以上が、我輩の「スターウォーズ・エピソード2」に対する映像的感想である。
次回は、この話を前振りとして想像と現実について考えたいと思う。

■余談■
世に存在するスターウォーズ・ファンというのは、「映像的リアル感」に入れ込んでいるわけではなく、登場人物や時代背景の「ストーリー的リアル感」に惹かれるのである。スターウォーズシリーズでは、映画にはほとんど現れないところまで細かく設定されており、映画の奥に広がる広大な「スターウォーズ・ワールド」を感じるのだ。
例えば、異星人の話す言語には規則性が感じられたり、登場するロボットや航空機には現代の工業製品のようにそれぞれの用途に応じた派生型があったりする。銀河共和国には地球のような政治風景が見られ、複雑な社会構造を感じることが出来る。そういった仮想世界全体を細かく設定し構築することにより、初めて矛盾の無いストーリーが完成するのである。
スターウォーズ・ファンにとって、映画は単なるプロモーションビデオに過ぎない。表面的な映像が全てだとは思わず、映画を「スターウォーズ・ワールド」の入口としているだけだ。その入口が多ければ多いほど、その世界が身近になる。
今回の作品では、主人公のアナキン・スカイウォーカーが暗黒面に堕ちるきっかけとなる感情のゆらぎ(愛する者を救えなかった悔しさ、悲しさ、怒り、JEDIの教えと自分の心との葛藤)を描いている。それがジョン・ウィリアムズの壮大な音楽に同調して感動を呼ぶ。
そういうわけで、スターウォーズ・ファンの我輩としては、映像に現実感無くともそれはそれで満足である。むしろ、伝説(サーガ)としての位置付けでは、かえって絵画的描写が効果的なのかも知れぬ。