2000/04/05
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表紙

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カメラ雑文

[356] 2002年05月29日(水)
「中・大判画質」

今月発売の「写真工業2002年6月号」では、巻頭カラーページに「レンゲツツジ咲く湿原」と題された写真が掲載されている。見ると、撮影データとして「ブロニカSQ-Ai PS40mm 絞りF22 SINBI 100」とある。フィルムはともかく、カメラとレンズは我輩のよく使う組み合わせであり、興味深くその写真を眺めた。
だが、どうも印刷時のスクリーン線数が粗いらしく、中判写真本来の緻密感が無い。何とも勿体なく残念である。まあ、雑誌というのはあくまでも雑誌。妥協せず画質優先で印刷コストを上げるわけにもいくまい。

我輩の勤務する会社は印刷関連であるが、数年前に配られたカレンダーでは印刷線数の違いが分かるように写真ごとに線数を変えていた。その中で、最も線数の細かい写真印刷を見て息を飲んだ。それはまさに段違い、今まで見てきた印刷物は何だったのかと正直思った。
印刷物であろうとも、妥協しなければそれなりの写真画質が再現出来ることに驚いた。それは逆に、普段目にする印刷というものは妥協の産物であるということも実感させる。

雑誌というものは、商業上いくらかの妥協は必要かも知れぬが、ここぞと言う場面では力を入れて欲しいと思うのは我輩のわがままか。せっかくの中判写真であるのだから、印刷物を通じて中判の画力というものを読者に見せつけて欲しい。
そうでなければ、「中判とは言っても、所詮は35mmの画質と大差無いじゃないか。」と思われてしまう危険性がある。いや、そもそも中判カメラで撮影したとも気付かないかも知れない。今月号の写真工業の件でさえ、最初はそこに目が止まらずに「待てよ、あの写真は正方形だったな・・・。まさか中判カメラで撮影したものか?」と変なところで気付いた。
もしやと思い、更にバックナンバーを見返してみると、中判はもちろんのこと、大判カメラで撮影された写真もあった。不覚である・・・。
しかし、画質によって目を引かせることの出来ぬ写真など、中・大判カメラで撮影する意味が無い。

雑誌などの印刷物の場合、その大きさもA4判程度であり、実際に掲載する写真となるとそのサイズ以下である。しかもポスターなどのように一定の距離を置いて鑑賞するようなものでは無く、至近距離での鑑賞となる。そのため、よほど印刷時の線数を高くしなければ緻密感を伝えることは難しい。

・・・念のために言っておくが、これは撮影した写真家の責任ではなく、印刷工程での問題点である。


さて、最近は35mmフィルムでも十分緻密感を味わえるくらいにフィルムも微粒子となった。だが、それで35mmですべてをカバー出来るかと言えばそうでも無い。やはり被写体次第、用途次第である。

我輩が35mmカメラに限界を感じたのは、カメラの写真を撮影するようになってすぐだった。
フィルムやレンズ、そしてライティングなどを工夫しようとも、どうしても細部の描写がキッチリといかない。倍率の高い自作ルーペ(ジャンク交換レンズを解体して自作したもの)で写真をジックリ見ていくと、細部がボヤケているのが判る。 黒ボディと白刻印とのコントラスト、レンズ面の滑らかなグラデーション、シャープなボディライン・・・。それらは我輩のイメージどおりの描写としてフィルムには写らなかった。

いくらピントをキッチリ合わせようとも、フィルム粒子よりも細かい描写は不可能なのは誰もが認めよう。しかし厳密に言うならば、そもそもフィルム粒子単位での描写ですら不可能である。それは、フィルムの宿命とも言おうか。

一般に、写真には階調が存在する。この階調は、フィルムの解像力を低下させる原因となる。
下図は、コントラストによる描写の違いを概念的に示したものである。便宜上ここでは、画像を構成する最小単位1ピクセルを、フィルム粒子1個と考えることにする。

<階調を持たない画像> <階調を持つ画像>

階調を持たせた画像には、色と色の境目に連続的な中間色が存在する。例えば白と黒が接すると、その接点には何段階かのグレー色が存在することになる。このような色の境界線が混み入った画像では、全体的なシャープさが失われ緻密感が薄まってしまう。上の例では、「ピクセル」という文字の「ピ」の部分を見ると、マルの部分がグレー色に潰れてしまっているのが判るだろう。黒は隣り合う白に影響され、同じように白は隣り合う黒に影響され、互いにグレーとなって潰れてしまった。

このことから、フィルムの解像力は少なくともフィルム粒子1つ分よりもはるかに粗いことが分かる(もしこれが階調の無いフィルムであるならば、理論的にはフィルム粒子1つ分の細かさの解像力が得られるのだろうが)。

以上のことより、フィルムの豊かな階調と解像力を両立させようとするならば、下図のようにフィルムサイズを大きくして画像を構成する粒子の数を多くするしか無い。

画像サイズを大きくすれば、階調と解像力が両立出来る。

当たり前と言ってしまえばそれまでだが、いくらルーペでも見えないほどの微粒子フィルムであろうとも解像力の低下が目に見える場合があるのだから、少なくともフィルム面積の大きさによるメリットは想像以上に大きいということは言える。これこそが、フィルムサイズの大きいカメラを使う理由である。単純に画面サイズが大きいというだけでなく、その階調表現は豊かで美しい。
だが残念ながら、雑誌程度の印刷ではこのようなクオリティは表現出来ない。


中・大判の魅力を実感する唯一の方法、それは、実際にそれらのポジを目の当たりにすることである。それしか方法は無い。