「トワイライト・ゾーン」というホラー映画にて、核戦争で1人生き残ったという読書好きの男が話題に出る。
その男は図書館の本を読もうとするが、たった一つしか無い眼鏡を壊してしまい、膨大な本を前にして好きな読書が永遠に不可能となってしまった。
これはホラーというよりもブラック・ジョーク的な話ではあるが、決して他人事ではない恐怖に、素直に笑えなかった・・・。
前回、DVD-Videoの制作環境を整えつつあるという話をした。
今まで撮り貯めたVHSビデオや8mmビデオをDVD-Videoへ整理することが出来る。これにより、可動部が多く故障しやすいビデオテープ機器からの脱却がやっと実現することになる。
しかも、手元には時代遅れのLD(レーザーディスク)の資産がいくつかある。
我輩のLDプレーヤーはもはやトレーが動かなくなり、手動でディスクを出し入れするような状態。それでもまだ再生が出来ているから良いが、もしこれが完全に臨終してしまうとLDを観る手段を失う。何とかその前に映像を移行させねばならない。
今までVideo-CDによるデジタル化を進めてはいたが、Video-CDは画質が決定的に悪い。これではコピー元のビデオテープやLDを処分するのがためらわれる。結局この方法では、「ビデオを手軽に再生する」という意味しか無かった。
これがDVD-Videoであれば、それほど画質の劣化は目立たない。その手段を手に入れた今、沈みつつある船から乗客を救出するかの如く、一刻も早くLDと8mmビデオから映像を救出せねばならない。
ところがその矢先、8mmビデオデッキが故障してしまった。電源プラグを挿しても意味不明な宇宙語の表示が現れるのみ。ウンともスンとも言わない。機械的な故障ならば騙し騙し使える可能性もあろうが、電子基盤的な故障であるので手も足も出ない。故障する直前に挿入したカセットも取り出せない状態。まさに、救出前に船が沈没してしまった・・・。
丁度、ビデオカメラを買うという話になっていたのは
前回の雑文でも触れた。この話はデジタルビデオ(DV)が前提であったのだが、もしこの購入計画を8mmビデオカメラへと変更するならば、撮り貯めた8mmビデオカセットも再生出来るというメリットがある。しかも、8mmビデオカメラならば新品で5万円以下のものすらある。これがデジタルビデオならば、軽く10万円は越えてしまう。
せっかくデジタルビデオを購入し、デジタルデータをDV端子で直接パソコンに流し込もうかと計画していたのだが、やむを得ず今回はデジタルビデオは諦めるしか無い。「デジタルビデオであろうと8mmビデオであろうと、結局はDVD-Video化するのだから、どちらにせよ画質の劣化は起こる」と自分を納得させてみたりする。
丸一日悩んだ末、やはり8mmビデオカメラを購入することにした。ヘナチョコ妻にも相談したが、ヘナチョコもその値段の安さには勝てなかった。
今回は我輩特有の事情があるにせよ、データの移行の問題は本当に頭が痛い。
当時は「小さくてハンドリングが良い」という理由だけで導入した8mmビデオだったが、後々このように足を引っ張ることになるとは思わなかった。
そうは言っても、DVD-Videoですらこの先どうなるかは分からない。いくらVideo-CDよりも高画質とは言っても、所詮はMPEGである。画質や編集の面での不自由が残る。その弱点を克服し、ハンドリングやコストパフォーマンスの優れた新たなフォーマットが登場した時、流れはまた変わることになろう。
(次はデジタルハイビジョンの時代か?そうなると青色レーザーを使った次世代大容量DVDに乗り換えねばならぬ・・・。)
如何にデジタルtoデジタルの変換で済むという話であっても、一旦落とした画質が元に戻ることはない。しかし、モタモタしていれば、いずれその画像は取り出せなくなってしまう。沈没しつつある船を前に決断を迫られる。
こんなことに頭を痛めていると、ふと、自分が所有しているビデオをまとめて捨ててしまいたくなる衝動に駆られる。そこまで割り切れるならばどんなに気が楽になることか。
銀塩スチルカメラの場合、そこにしがみついていれば少なくとも我輩の人生の範囲内では沈没することも無かろう。再生機を必要とせず人間の眼で直接読み取れるメディアとしての強みと言える。これは一見、原始的にも思えるが、普遍的な価値というものはいつの時代でも常に新しい。
メディアやデータフォーマットに頭を悩ませることなく、自分のペースでじっくりと作品を作るには、銀塩写真ほど適しているものは無い。
我輩は新しモノ好きであるが故に、過去に何度も悔しい思いをさせられた。だからこそ「安定したものへ落ち着きたい」という願望が強く、それが保守的な方向へと向かわせる。
だが、これは恐らく正しい考え方であろう。結局のところ、ビデオを撮(録)ったり写真を撮ったりするという行為は、そもそも情報を永く保存し利用するという動機を持っている。撮るだけ撮って後に再生環境が無くなってしまうならば、片手落ちと言わずに何と言おうか。
核戦争後に唯一の眼鏡が壊れるのを心配するくらいならば、眼鏡無しで読めたほうが末永く幸せに暮らせよう。