[300] 2001年09月07日(金)
「五百羅漢」
山手線と京浜東北線は途中まで併走している。そのため朝の通勤時には、我輩は空いているほうを選んで乗る。
電車の窓から見ると、併走している電車が隣に見えることがある。そして、ちょっとした加速・減速のタイミングでその電車の1つ1つの車両がゆっくりと移り変わっていく。そこには色々な顔が次々と現れて消えた。
「色々な顔の人間がいるなあ。」
それは、向こう側の列車に乗っている者も同様に考えていることかも知れない。
我輩はふと、「五百羅漢」を思い出した。
それぞれに違う顔を持つ五百体の羅漢像の中には、必ず見知った顔が見つかるという。古代中国の兵馬庸もそうだが、それらの像の中に1つとして同じ顔が無いというのも興味深い。
もし写真の話に絡めるならば、500人の顔写真を撮って写真版の五百羅漢を作るのも面白い。
ただ、他人を無断で撮影するのは良くない。人物を風景の一部として撮影するならば許されるが(それでも裁判沙汰にでもなれば、その区分けは裁判官の裁量に任されることになる)、明らかにその人間の警戒範囲内で狙いをつけて撮影するならば、場合によっては殴られたりカメラを破壊されることもあろう。子供相手ならば安心だと公園でバシバシ撮っていると、その子の親が出てくることもあるので気を付けろ。最近はどこもピリピリしているからな。
しかしまあ、人間観察ならば必ずしも写真に撮る必要も無い。よほど第三者にメッセージを伝えんがための撮影ならともかく、人の観察には危険を冒さずとも目で見るだけでも十分だと考える。
ただ、肉眼で見る「モノの見方」というのは、実は非常に主観的である。客観的に見ているつもりでも、何かの器に当てはめないと認識出来ないのが厄介だ。
昔はよく「ガイジンは皆同じに見える」と言われたものだった。日本人の中に、それを当てはめる器(うつわ)の種類が少なかったのが原因だった。金髪で鼻が高く目が青い。それだけしか認識せず、細かい顔の違いなど分からなかったということである。
だがそれは昔の話に限ったことではない。気を入れずただ眺めているだけでは、日本人の顔についても同じような見方となっている。ただちょっとばかり、当てはめる器の数が多いだけに過ぎない。余程の特徴が無い限り、目に映る通行人の印象は文字化されて映像としては残りにくい。
例えば「髪が薄くて眼鏡を掛けているオヤジサラリーマン」というパターン。一旦、このような器に当てはめると、もはや元の忠実な映像に復元するのは不可能。文字化は不可逆な映像圧縮である。
我輩などは茶髪の女性などについ目が行ってしまうこともあるが、それでも「茶髪」という一括りの器に押し込めているだけかも知れない。いや、確かにそうだ。
自分の持っている器の種類がもっと増えれば、人の顔を見る時にもさらに違った視点が持てるに違いない。違った発見があるに違いない。そのためにも、もっと顔というものを興味を持って見るようにしたいと思う。
あたかも五百羅漢の1つ1つを見て歩くように、興味深さは見る対象物の質を変える。
しかしまあ見るだけとは言っても、あまり人の顔をジロジロ見るのもトラブルを生むかもな。何事も程良く。
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