2000/04/05
OPEN

表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
11.その他企画

12.カタログ Nikon
 F3 (F3H)
 FM3A
 FM2
 FM
 FE2
 FE
 FA
 FG
 FM10
 FE10
 F4
 F-401X

Canon
 AE-1P
 AE-1
 newF-1

PENTAX
 K1000
 KX
 KM
 LX
 MX
 MZ-5
 MZ-3
 MZ-M

OLYMPUS
 OM-3Ti
 OM-4Ti
 OM-2000

CONTAX
 ST
 RTS III
 Aria
 RX
 S2

MINOLTA
 X-700
 XD

RICOH
 XR-7M II
 XR-8SUPER

カメラ雑文

[281] 2001年07月13日(金)
「実物の痕跡(後編)」

恐竜ブームというのは何度かあったが、脊椎動物の化石は一般的には骨格しか残されていない。だから、我輩自身は恐竜にはそれほどの興味は無い。
骨だけの化石は肉体の輪郭がハッキリせず、その復元像を見ると復元者による主観が入り込むユルさがかなりあって頼りない。まあ、想像力をかき立てるという意味では、興味の対象としては悪くない。だが、その恐竜が生きていた時代の風景をも想像するとなると、それはもはや想像の上塗りとなる。
限られた情報量で想像するには、あまりにも漠然とした頼りない骨格の化石。それが、化石好きの我輩において、恐竜があまり好きではないという理由である。

それに比べ、三葉虫に代表される古代の節足動物の化石は、生前の姿をそのまま留めていることが多い。もちろん、学者の考える「生前の姿そのまま」とは違うだろうが、少なくとも映像的な意味においてはこれ以上のものは無い。本来ならば、絶対に知ることの出来ない古代生物の姿形を、主観の入り込む余地の無いほど正確に(保存状態の良い化石に限られるが)、現代に生きる自分に伝えてくれるのだ。
もし化石というものが無ければ、我々は太古の地球でどんな動物が生きていたのかを知ることは無かったろう。

厳密に言えば、それは「画像」と言うよりも「レリーフ」と言ったほうが良いかも知れない。しかし、堆積した泥によって鋳型を作られ、死骸は別の物質に置換される。その場合、鋳型を形成する泥の粒子が粗ければそのディテールが失われ、逆に粒子が細かければ精細画像が得られる。この過程は何となく写真の現像・プリントにも通じるようにも思える。

まあ、「これが写真との類似点だ」などとまとめるつもりは無い。ただ、実物の姿そのままに転写されているということや、過去の失われた時代の生物の姿をビジュアルに今に伝えるという意味で、我輩はそこに写真的価値を感ずるのだ。

人間が現れる遙か以前の世界を想像できるか?
そこでは、ゆっくりと流れる時間の中で小さな生命たちが確かに活動していた。誰も見ることの無かった世界が確かに存在した。
地質的な変化を残さない限り、そこで起こったことは誰にも分からない。その様子を記録したり伝え話す者はただの1人さえもいない。
「生きた化石」と呼ばれる生物はいくつか見つかっている。しかし、長い時間の間に、微少な部分は多少は変化している。昔の姿そのままを見るには、やはりその時代で固定された化石の意味は大きい。


化石が写し取ったその生物は、我々にその生物の生きた姿を見せてくれる。それは、自然が残した記録映像である。我輩が曾祖父の顔を知っているのは時を越えて情報を伝える写真のおかげであるが、化石もまた数億年を貫いて情報を伝えるという意味ではその延長上にあると言えなくもない。


3D-CGで再現したシルル紀のウミサソリ