[261] 2001年04月27日(金)
「優劣」
第二次大戦中、ドイツはナチスによる洗脳によって、「純粋なるゲルマン民族こそが地球上で最も優れた存在である」と信じた。そして、民族浄化と称してユダヤ人を劣族と位置付け、地球上からの消滅を謀り、大量虐殺が行われたのだ。
先住民の迫害にしても、黒人差別の問題にしても、あるいは身近な例として男女差別の問題にしても、「どちらが優れているか」という意識が根本にある。そして、劣っているとみなしたもの(実際には劣っていなくとも)は消滅あるいは排除しなければならないという理論が働くのである。
昔、「AEかマニュアルか」という議論があった。現代では、「AFかMFか」とか、「金属ボディかプラスチックボディか」とか、「液晶式かダイヤル式か」とか、「銀塩カメラかデジタルカメラか」という議論が起こる。
これらは要するに、どちらが優れているかという議論であり、その議論の目的のほとんどは、一方が一方を排除しようとすることを動機としている。
「モノクロ液晶をカラー液晶にする」というような、片方の性能を包含した上での性能向上ならともかく、タイプの違う「液晶式とダイヤル式」などの優劣を決めることは出来ない。それはもはや、使う立場ごとに異なる価値観である。
たまに「銀塩カメラを全廃し、デジタルカメラ一本にすべきだ」などという極論を論じる者がいるが、我輩の目には、他人のニーズを無視した狭い視野の愚かな人間と映る。概してそのような者の主張は一見論理的のように見えるが、実際は独りよがりで説得力が無い。
我輩がここで「ダイヤル式カメラを使いなサイ!」と主張しているのは、市場の全てをダイヤル式で支配しょうなどという考えでは決して無い。だからこそ、「我輩の主張が気に入らなければブラウザを閉じよ」と冒頭で明言しているのである。
我輩の真意は、ニーズに応じたラインナップを求めているということだ。そのために、もっとダイヤル式の操作性の良さを伝えようとしている。
ダイヤル式の良さを知らず、選択の余地無く液晶式を使っていた者に、液晶式の他にダイヤル式というものがあることを知らしめることが自らの役割と考えた。ダイヤル式を熟知してもなお液晶式を好むならば、それはそれでよいのである。
だが現実の市場には、選択の余地がほとんど無い。ダイヤル式のカメラを買おうと思ったならば、その条件だけで製品が特定できるほどに選択の余地が無いのだ。これはダイヤル式に限った話ではない。
このような多様性の無い市場は異常と言える。いくらニーズが無いからと言っても、作らなければますます売れない。まさしく悪循環。
カメラメーカーは、売るための努力を知らない。「ただ、作ればいい」と思っている。作れば量販店が売ってくれる。だから量販店には逆らえない。量販店の要請によりどんどん価格が下げられ、そのぶん製品がチープになっていく。一時期、カメラマウントがプラスチック製になったことさえあった。
しかし、カメラメーカーにはやるべきことが残されている。
カメラに対する消費者の価値観を広げ、一方向の見方では優劣を語れないということを啓蒙しなけらばならぬ。
ただ求められるものを競争して作るのではなく、ユーザーを育てることこそがメーカーの役割ではないのかと思う。それが巡り巡ってメーカーに利益をもたらす。そして、メーカー間の適度な競争原理を残しつつ棲み分けを可能にするだろう。
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