新宿の駅前を歩いていると、オバちゃんに声を掛けられることがある。
最初は「手相を見ます」という類のものかと思ったが、よく聞くとそうではなく、CMのモニタアンケートに協力して下さいとのことだった。謝礼があるということなので、アルバイト気分でその話に乗った。
ゲームセンターの上の階へ案内され、そこで受付を済ませ、赤井英和出演の競輪CMを2パターン見せられた。それが終わると、アンケートに記入し、図書券を受け取った。
アンケートの内容は、2つのイメージの比較である。「どちらが暗い印象を受けるか」とか、「これを見て競輪に関心を持ったか」とか。
その後、何度かその調査会社の依頼により、商品イメージに関するアンケートに答えて稼がせてもらった。
これらはマーケティングというものであろう。
一般大衆は、どういう映像にどういう印象を持つのか。それを知るためにサンプリングを行っているというわけだ。そしてその結果を基にしてCMの内容に反映される。
CMというのは、イメージを作り出そうとしているのである。
映像というのは、記号性を持っている。
映像の基本的要素である「色」にも、イメージの固定された記号性がある。例えば、青色は「寒い」、赤色は「暑い」、白色は「清潔」、などというように、我々の頭の中で記号化されている。そしてそれらは地域や世代によっても多少違いがある。
「色」だけでもそのようなイメージがあることから、色が作り出す「映像」についても、固定化されたイメージが存在することは明らかだ。
思い付くまま挙げてみると・・・、
- 緑の木々−「自然環境」
- 赤ん坊−「身体にやさしい」、「ピュアな」
- 外人と握手するスーツ姿の男−「仕事が出来るビジネスマン」
- 地球−「ワールドワイド」
- 煙突−「公害」
といったところか。
しかし、イメージというのは正負が表裏一体となっているのが恐ろしいところ。
例えば「六条麦茶」のCMでは、あからさまで強引なイメージ作りが逆に我輩は嫌悪感を持った。
白い(清潔感のイメージ)画面の中に赤ん坊(身体にやさしいイメージ)が画面に現れ、山積みになったペットボトルの麦茶に近付く。そして次々にそのペットボトルを放り投げていく。そして唯一残ったボトルを大事そうにする。それが六条麦茶であることは説明の必要は無いだろう。
イメージというのは、上手に利用するとその映像を見る人間の心理を誘導させることが出来る。しかしそれが六条麦茶のように強引で露骨ならば、かえって皮肉っぽく見える。あるいはホメ殺しの手法か。
よくあるフォトライブラリーのカタログなどを見ると、記号性を持った写真ばかりである。それらは素材として使うのであるから、使用者の加工・編集によって上手く効果を上げることが可能だ。しかし、仮に単体の作品として見るならば(そのような前提で撮られたのではないことは承知の上で見るならば)、それらの写真の多くは味付けが濃い。
あまりに型どおりに撮りすぎると、それは少なくとも我輩には皮肉にしか見えない。昔、我輩が撮った写真を恥ずかしく思うのは、そのような型にハメようとしている意図がありありと伝わってくるからである。こういう写真は、人には見せたくないな。
イメージの力というのは強力なだけに、使い方によっては薬にもなるし毒にもなる。常にそのことを意識していないと、撮影者自身がイメージに飲まれてしまうかも知れない。