「思想」と関連した話。
よく言われることだが、人間はどんなに努力してもクリエイティブにはなれないという。つまり、全く新しい見たこともないものを創るということは出来ず、必ず何か既存のものを基にしているそうだ。
例えば、「想像上の生物」を考えるテーマがあったとする。しかし、どんなに頑張ってみても、どこかが既存の動物に似ていたりするらしい。
この話、正しいのか正しくないのか、それは我輩には検証することが出来ないが、人間の思考というものを考えると、妙に説得力を感じる。
この例では、知っている既存動物の種類が多ければ多いほど、架空動物のリアリティが増すに違いない。
さて、写真を撮る時、撮影者にはイメージが無くてはならぬ。しかし、そのイメージとは、一体どこから来るのか。
目の前にある対象物を写真に収めるには、そのまま何も考えずにシャッターを押しては視点が定まらない。そこで色々な手法を使って写真を「表現」させることになる。
その手法とは、先人が考え出した伝統的なもの(いわゆる「定石」)や、自分の憧れる写真家の手法だったりする。
そのような手法によって撮影された多くの作品を観ることによって、具体的なイメージ素材のストックが増えていくことになる。
自分の中にある漠然としたイメージを、既存の具体的素材で組み上げていく。これこそがクリエイティブな行為であろうかと思う。
それはあたかも、既存の文字や表現を使って、新しい小説を創作するのに似ている。
新しいものとは、古いものを材料にして出来上がるのだ。そして、手持ちの語彙(ボキャブラリー)が多ければ多いほど、その表現は豊かになる。
ただし、自身の求めるものがハッキリしていなければ、影響ばかりを受けて自分を見失うだけだ。モノマネの上手いオウムや九官鳥になって自分の声を忘れるようならば意味が無い。そこは気を付けねばならぬ。
ただ単に多くの作品を観ればすぐにイメージが湧くというのであれば苦労は無い。
やはりそこには、自分という存在が不可欠であり、自分の手法として昇華する努力は必要だ。
最初から完成されたものなど無い。時間を掛けることを嫌い安易な方向へ走るならば、自分の漠然としたイメージを殺して既製品をそのまま安易に真似るだけとなろう。
そのような人間は、例えば「夕日とは、こう撮るものだ」などという先入観に囚われたままで一生を終えることになる。
試行錯誤によって、自分の求めるイメージを模索することは、自分の思想を知ることでもある。