我輩が液晶ディスプレイを初めて目にしたのは、任天堂ゲーム&ウォッチの「BALL」というオモチャが最初だった。小倉井筒屋のオモチャ売場で、それはオモチャというよりも、高級感を漂わせた「装置」に見えた。
それまでのゲームと言えば、LEDを光らせたり、蛍光管(FL)を光らせたりしてキャラクターを表現していた。しかし、液晶はそれらとは違い、自身で発光することは無い。光を遮り、影を落とす。まるで実体がそこにあるかのように感じたものだった。
これはあくまでも我輩の印象だが、液晶表示はとてもCOOLである。電子機器によく合うと思う。
最近は細かい格子で表す「ドットマトリクス」が増えてきたが、以前ならば「いかに限られたスペース内に情報を配置するか」という苦労の跡がうかがえたものだ。例えば、数字を表現するセグメントを少し変形させ、同時にアルファベットを表現させようとする試み。多少、強引な表示もあったが、それはそれで「イイ感じ」だったりする。
だが逆に、液晶表示が電子機器とは関係ない場所に設置されると、かなり違和感を感じる。電子機器によく似合う分、他では似合わないような気がする。多少、慣れの問題があるのかも知れないが、やはり「必然的に液晶が欠かせないもの」と「そうでないもの」とは、歴然たる違いを感じる。
例えば、電卓では液晶(またはその他の表示板)が無くてはならないが、炊飯器に液晶が付いていると変だ。確かに、マイコンが炊飯器を制御しているというのは解るが、それがあってはじめて人類が飯を炊けるようになったわけでもない。あくまで付加機能に過ぎない。
35mmカメラは機械の塊から出発した。途中、プラスチックが入ってきたりしたが、機械動作であることに変わりはない。そういう意味では、カメラは炊飯器の仲間に入る。液晶表示が無くてもやっていた時代があったのだ。
さて、カメラ関係の中で電卓の仲間になりそうなものが1つある。それは、単体露出計だ。
露出計は、光を測り、その結果を表示させる。つまり、数値的な情報を提供することが主たる機能である。それ故、液晶表示が欠かせない。
液晶表示カメラには「機能の詰め込みすぎだ」と言ってきた我輩であるが、単体露出計には色々なポテンシャル(隠れた能力)を詰め込んで欲しいと思っている。なぜそう考えるのか、その理由は最近分かった。
我輩はIBMの「ワークパッド」という携帯端末(PalmOS互換機)を使っているが、露出計を操作している気分と共通している。逆に言うと、単体露出計を操作していると携帯端末を操作している気分になるというわけだ。
電卓の仲間である単体露出計、こうして見ると、なかなか液晶が頼もしく見えるわ。