2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
11.その他企画

12.カタログ Nikon
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カメラ雑文

[028] 2000年 5月11日(木)
「表現」

最近、フィルムに「第4の感色層」を持たせたものが出てきた。
しかし、いずれにせよカラー写真は、たった3つか4つの少ない色だけで自然界の色を再現しているということに変わりはない。
これは、頭で分かっていても、実感することがあまりない。

ある時職場で、営業の人間が訊いてきた。
 「なあ、パソコンの画面で、金色って出せるか?」
最初、言っている意味が分からなかった。
 「金色・・・?」
 「ああ、印刷だったら5色刷りなんかで特色インキで刷ったり、箔押ししたりできるだろ?」
コイツは印刷営業で、パソコンのことを知らない。そうか、画面上で金色をそのまんま出したいのか。
 「金色って、写真か何かに金色のものが写ってるのか?」
 「いや、金色で塗るんだ。ちょっとその画面で金色出してみ。」
ソイツは我輩の画面を覗き込んだ。
我輩は少しひるんでしまった。コイツに納得させるような説明はすぐにはできそうもない。何も知らない人間が相手なら、何とかなるかも知れないが、コイツの頭は印刷の知識で固まっている。数多くの思い込みを取っ払ってからでないと教えることはできまい。
 「ん?どうした?さすがの我輩も、難しい質問だったか?」
ぬかせ!答えが欲しいなら、一言で済ませてやる。
 「金色は、無い。」
キッパリと言ってやった。
 「無いだと? けど、この前、画面にCD−ROMの写真が表示されてたぞ。あれは銀色だろ?銀色が出せるなら、金色も出るだろう?」
 「バカ、あれは写真だ。銀色で表示してるわけじゃない。」
 「写真? 写真に写せば銀色が出るのか?」

全てがこんな調子だった。我輩は腹を決め、自分の仕事を中断して、ソイツに「印刷」と「ディスプレイ」の違いについて説明した。
どれくらい時間が掛かっただろう。一応、そいつは「分かった」と言って戻って行ったが、明らかに分かっていない様子だった。

人間が「色」と認識しているものは、幻に過ぎない。光の波長の違いを脳内で区別する機能が、「色の認識」なのだ。
もし異星人がいて、色を感じることが出来るとしたら、もしかしたら「赤」が青く見えていたりするかも知れぬ。

今、目の前に見えている「赤」が、本当に「赤い」のか。それを絶対的に証明する方法など無い。
しかし唯一、確かなことは、我々の目の網膜は3つの色の違いを感じ、その信号を混ぜ合わせて脳内で再構築するということだけだ。
要するに、自然界に存在する無限の色を、途中の経路でたった3つの色に分解し、それを再び脳の中で合成して仮想世界を作り出しているのだ。 3つの色を通して、「金色」や「銀色」はおろか、「感動」すら伝えることが出来る。

落語家は、たった1人で会話を再現する。また、客の前で餅を食べるマネをする。しかしそれが、本当に2人で話しているように見えたり、本当に食べている以上にウマそうに見えるならば、表現者の伝達が、観ている者の脳内に働きかけていることになる。 表現とは、そういうものだ。

ピカソの絵が、もし若い頃の写実的な表現のままだとしたらどうだろう。それは本物の写し絵に過ぎないのだから、本物を越えることは無い。いくらリアルに描けたとしても、本物よりもリアルになろうはずがない。だから、ピカソは心を描いた。それを観る者の脳内へ直接アクセスする方法を選んだのだ。あの大作、「ゲルニカ」は、ピカソの抗議する心を、観る者の脳内で投影させる。

写真は、止まった映像だ。しかも、小さな枠の中だけのものである。色も光も表現は限定されている。モノクロならば尚更だ。
しかし、このような限られた表現の中で、伝えることのできるものは無限にある。「動き」、「音」、「色」、「匂い」、そして、「想い」や「感動」さえも伝えられる。それはたった3種類の色で伝えられるのだ。

写真が、「真実を写し取る」ということばかりに心を奪われていると、我輩の写真のような、ただ写っただけの写真しか撮れなくなるだろう。
そう考えると、写真の無限の可能性に気付き、また同時に、写真の厳しさにも気付く。