「カメラ雑文」一気読みテキストファイル[401]〜[450] テキスト形式のファイルのため、ブラウザで表示させると 改行されず、画像も表示されない。いったん自分のローカ ルディスクに保存(対象をファイルに保存)した後、あら ためて使い慣れているテキストエディタで開くとよい。 ちなみに、ウィンドウズ添付のメモ帳ごときでは、ファイ ルが大きすぎて開けないだろう。 ---------------------------------------------------- [401] 「動物野郎」 [402] 「昔の本」 [403] 「健全な平衡状態」 [404] 「動的な映像活用」 [405] 「陶酔」 [406] 「今日の出来事」 [407] 「懺悔」 [408] 「信用されていない患者」 [409] 「電磁レリーズ」 [410] 「知らなかった有名人」 [411] 「スキャンシステムの更新」 [412] 「生殺し」 [413] 「ダイヤルのアナログ性」 [414] 「ブラック・ジョーク」 [415] 「死亡事故」 [416] 「愉快犯」 [417] 「出航」 [418] 「生殺し(その後)」 [419] 「生殺し(生か?死か?)」 [420] 「ネイチャー・フォト(2)」 [421] 「意味の置き換え」 [422] 「古事記」 [423] 「行く末」 [424] 「皮肉と警告」 [425] 「正気のうちに書いた文章」 [426] 「愉しみの回収」 [427] 「ベストミックス」 [428] 「手間を強いるデジタルデータ」 [429] 「廃線撮り」 [430] 「廃線ロープウェイ撮影記(前半)」 [431] 「廃線ロープウェイ撮影記(後半)」 [432] 「重いカバン」 [433] 「リバーサル至上主義」 [434] 「金さえあれば」 [435] 「致命的」 [436] 「ニュース速報」 [437] 「一つずつ」 [438] 「今年の夏休み」 [439] 「帰省日記」 [440] 「MINOLTA FLASHMETER VI」 [441] 「オークション(2)」 [442] 「GPS」 [443] 「死ぬ前にやっておくこと」 [444] 「蔵王のお釜(1)」 [445] 「蔵王のお釜(2)」 [446] 「レタッチ」 [447] 「蔵王のお釜(3)」 [448] 「祖父からの手紙」 [449] 「双眼鏡」 [450] 「すべてを察して笑ってくれ」 ---------------------------------------------------- [401] 2003年02月13日(木) 「動物野郎」 世の中には、「自分さえ良ければそれでいい」、「他人の物は俺の物、俺の物も俺の物」などと考えている野郎がいる。本当にいる。 それは、満足に躾や教育を受けていない卑しい者たち。 自分の周りの利用出来るものは全て利用し、感謝も無く使い捨てる。自分の都合でしか物事を考えず、対象が人であろうと、ヤツらは物を使うような感覚しか無い。 動物の如く、自分の欲求を満たすことだけにしか関心が無く、ただ生きているというだけの下司(げす)な存在。そんな動物野郎に言葉は通用するはずも無い。 去る2月11日、長野県の南安曇郡豊科町(みなみあづみぐんとよしなまち)で、その事件は発覚した。コハクチョウの越冬地として知られる犀川白鳥湖のアカシアの木が2本、勝手に切り倒されていたのだ。 恐らく、コハクチョウと北アルプスを同フレーム内に収めようとしたカメラマンの仕業であろうと現地では見ている。 事件を報じるニュースによると、それまでもマナーの悪いカメラマンに悩まされていたらしい。 この事件の数日前にも、コハクチョウを驚かせない目的で水際に近付かないように立てた看板があるにも関わらず、それを無視して撮影していたカメラマンがいた。「アルプス白鳥の会」会員が注意したところ、恐怖心を感じるほどの悪態をつかれたという。 他にも、勝手に餌付けしてコハクチョウを呼び寄せたり、フィルムのケースを投げ捨てるなど、まさに身勝手以外なにものでもない行為を行うカメラマンが後を絶たない。 なぜこのようなことが出来るのか、我輩にはその感覚が理解出来ない。 湖にフィルムケースを投げ込む? 邪魔な木を切り倒す? 注意されて悪態をつく? 我輩には到底思い付きもしないような悪事である。人間のやる行為では無い。 元々、我輩は偽善者である。 「偽善者」とは、「善を偽る者」。故に、何が善であり何が悪であるかということを知っている。知っているからこそ、善を偽れる。 だが、動物野郎は善悪の区別が出来ない。だから、ヤツらは善を偽ることも出来ぬ。そして、考えも無く事を起こすのだ。そうでなくば、注意されて悪態をつくなど恥ずかしい行為が出来ようか。 中には、それなりの社会的地位がある年輩者もいよう。しかし人間的価値ではゼロに限りなく近い。存在すること自体が罪と言えよう。 ヤツらの行った行為は法律的見れば軽い罪であろうが、世の秩序と自然界の秩序を乱す行為として万死に値する。 動物野郎は、撮影という一瞬の行為の為だけに、数年かけて成長したアカシアの木を切り倒した。人々の心を踏みにじった。これで写真を撮ったとすれば、その写真は盗品そのもの。 存在価値の無い動物野郎であるから、その命を以て償ったとしても、全く価値が足りぬ。 まあ、せいぜい自然の中で無茶な撮影を敢行し、水洗便所の如く川に流されてしまうのがオチだろう。 無念だが、偽善者の我輩が出来ることは、そう願うことのみ。 関連雑文: 雑文037「ネイチャーフォト」 雑文213「お持ち帰りの風景」 ---------------------------------------------------- [402] 2003年02月25日(火) 「昔の本」 最近、昔のカメラについての雑誌やムックが多く出版されている。 我輩はNikon F2やF3、そしてPENTAX LX、OLYMPUS OMシリーズなどが取り上げられていれば即購入していたものである。 だがここ最近は、あまりにマンネリ化が激しい。 店頭で「新刊本が出たか」と思って手に取るのだが、中身をパラパラと見てすぐに戻す。もう、ほとんどが既知の内容。帰ってゆっくり読もうという気も起こらぬ。ともすれば、以前買った本かどうか分からなくなることもある。 いくら中古カメラが流行っているからと言って、同じようなライターが同じカメラをネタにして書いていれば、似たり寄ったりの本になるのは当然。古いカメラは、種類が増えることが無い。リソースは有限である。 そもそも、昔のカメラの情報を得るのに、新しく出版される本が参考になるのだろうか? 我輩は、その点を疑問に思う。 新しい本の記事を書く者は、現代の感覚で記事を書く。新しいカメラを知っており、それを基準にして昔のカメラを上から眺める。そして、記事を読んだ我々に無意識の影響を及ぼす。 それはつまり、「昔のカメラはマニアックだ」という偏った意識。 しかし、我輩は新しい本に見切りをつけて古い本を探している。 その中でも、昔の写真解説本などは、マニュアルカメラを実用機として紹介しているのが面白い。最新高級システムカメラとして、Nikon F2が紹介されていると、本当にその時代の人間になったような感覚でNikon F2を見ている自分に気が付く。 「ああ、Nikon最新のF2、使ってみたい。」 新しい本には、そんなことを思わせる記事など無い。ライターは皆、昔のカメラを最新カメラとしては見ていない。所詮はミーハーな連中ばかり。 最近、我輩はネットオークションで昔の「写真工業」をまとめて数十冊落札した。 その時代の最先端カメラを紹介しているという意味では、非常に意味のある内容である。未来人から見たカメラ(参考:雑文「未来人としての視点」)という面白さもあるが、それよりも、触ったことのない昔のカメラの第一印象を決める意味では大きな意味を持つ。 それでも敢えて今の時代の本を買おうとするならば、最新カメラについての本を買うのが良い。ネタも新しく、変にこねくり回して書いていない分、時代を経ても普遍性を失わない。そしてそれが、いつか昔の本の一員となってくれる。 昔を懐かしむ内容の本を読んで懐かしく思えたのは最初のうちだけ。回転寿司の如く古いネタを回しっぱなしにしていれば飽きてくる。 これからは、新鮮なネタを探すために昔の本に焦点を絞って探すことにする。 ---------------------------------------------------- [403] 2003年03月03日(月) 「健全な平衡状態」 現在、我輩は本に埋もれて生活している。 くだらない本や雑誌が大部分だが、我輩にとっては有用な情報源であり、なかなか棄てるには惜しい。 以前、カメラカタログの電子化について書いた。 カメラのカタログは、一般的な本に比べ頁数も少なく、電子化の際に苦労が少ない。そのため、最初にカタログの電子化を始めたわけである。 それに対し、毎月出版される雑誌については、頁数も多くデータ量が膨れ上がる。カラー頁が多ければ、それこそ1冊分でも200MBを越えたりもする。そうなると、閲覧も大変である。 雑誌の電子化は見送るべきか、と当時は考えた。 さてその後、雑文262では、「月刊CAPA」を電子化したという話を書いた。「月刊CAPA」ならば、もうこれ以上購入することもなく、電子化が済めばそれで完結する。これ以上増えないと分かっているから気は楽。 データ量としてはそこそこに大きくはなったが、本のほうは安心して棄てることが出来た。どうしても見たい情報があるならば、重いデータながらも閲覧は可能である。 ところが「月刊CAPA」の廃棄によって空いたスペースも、ほどなく他の雑誌が埋めてしまった。毎月購読する雑誌のせいである。 毎月買う雑誌であるから、その量は少しずつ増えていくことになる。それを止めるには、少なくとも毎月1冊は処分せねばなるまい。1冊増えるごとに1冊棄てる。いわゆる平衡状態である。 ただし、健全な平衡状態に持っていくためには、今まで蓄積された分を処理せねばならない。そこで始めたのが、雑誌「写真工業」の電子化である。 これはカメラ雑誌ながらもカラー頁が比較的少ない。しかも有用な内容であるために電子化する価値がある。これから先も続けて購読するつもりであるから、どうせ電子化するならば後でまとめてやるよりも、早めに手をつけておいたほうが良いと考えた。 <本の背切り> まず、本の背を切ることから始める。 「写真工業」は無線綴じではあるが、古いものはホチキスも2打ち入っている。そういう場合、ホチキスの針を丁寧に抜かねばならない。力任せにやると、紙が破れたりホチキス針が切れたりするので注意が必要。 その後、糊の付いた端の部分をハサミで切っていく。裁断機があれば・・・とも思うが、枚数を欲張ると紙を噛んでしまい台無しにする恐れがある。地道に切るのが確実で後悔が無い。 <原稿整理> 背を切ってバラの紙となったものを、カラーかモノクロかによって分類する。 カラーはカラーで、そしてモノクロはモノクロで、それぞれまとめてスキャンしたほうが効率良いのは言うまでもない。その場合、後で混乱無く再構成出来ねば落丁・乱丁となってしまうのだが、幸運なことに「写真工業」のカラー頁は巻頭部にまとまっているため、混乱することはあまり無い。 <スキャン> スキャナで読込ませるには、ADF(オートドキュメントフィーダー)という自動給紙ユニットを用いる。これ無くして雑誌の電子化は不可能である。 ただし、ADFはスキャナの読取りヘッドを固定し紙のほうを動かすため、コンタクトガラス面にゴミがあると、画像に線引きを引き起こす。雑誌の背を切ったことにより紙粉が多く出るので、こまめな掃除は欠かせない。 また、紙粉は給紙をジャムらせる原因にもなる。 スキャン時の読取り設定は、dpiを大きくするとスキャン速度が低下するので、無闇に大きくできない。かといって最初から目的の大きさでスキャンしてしまうと、写真網点がモアレを発生する場合がある。モアレの出方は、写真の網目の大きさに左右する。それを避けるには、ハッキリと網が見える大きさでスキャンすれば良い。 「写真工業」をスキャンする場合、我輩は350dpiに抑えてスキャンしているが(本当は400dpiでやりたい)、それでもスキャナが旧いためか、1枚あたり45秒ほどかかっている。 <リサイズ・色数調整> 大きめにスキャンした画像は、レタッチソフトでリサイズする。 理想としては、キリの良い1/2縮小によって2画素で1画素(平面で言うと4画素で1画素)を生成したいが、それは無理なので2/3くらいに縮小する。縮小した後、文字がボケるのでシャープネスを若干上げる。 更に、紙の地が白のベタ色でないとデータ圧縮率が悪くなるので、レベル補正によって底上げする。 そして最後に色数を落とすわけだが、モノクロは16色あれば十分である。ただしカラーは256色は欲しい。 これら全ての処理は、バッチ処理によって一括して行う。 <頁組み> そのままでは1枚1枚のデータが独立したファイルであるため、それらをまとめる必要がある。 最近では、アドビ・アクロバットPDF形式のデータにすることがトレンドであるが、我輩が書類の電子化を始めた頃はそのようなものは存在しておらず、何よりPDFファイルは我輩にとって"得体が知れない"という気持ち悪さがある。果たして、10年後も今と同様に読むことが出来るのか?バージョンアップによって旧いデータが読めなくなることは無いのか? PDFファイルは、業界のデファクト・スタンダードではあるが、汎用データではない。これは重要。 我輩が現在利用しているのは、マルチTIFF形式のデータである。TIFFデータならば、汎用データとして特定のアプリケーションに依存しない。ウィンドウズ添付アプリケーションソフトの「イメージング」でも利用可能。 我輩は、富士通ミドルウェア製「イメージオフィス」というファイリングソフトを使っているが、操作性が違うだけで、やっていることは他のソフトと何も変わらない。 イメージオフィス上で行う作業は、複数の画像ファイルを1つのTIFFファイルにまとめるということである。注意すべきは、ADFで取込んだ画像は、そのままでは「表表表表・・・、裏裏裏裏・・・」という並び順になるという点。それは、イメージオフィス側で並び替え処理で解決させる。 <データ圧縮> マルチTIFFのデータは、複数の画像が積み重なっただけのデータであるため、その容量はかなり大きくなる。そこでデータを圧縮することになるが、イメージオフィスはデータを取込んだ時点で自動的に圧縮処理を行っている。これは可逆圧縮であるが、これが非常に重要で、例えばJPEG画像などの不可逆圧縮であれば、小さな文字が潰れて読めなくなることがある。圧縮率が高い画像形式であるから大きめのサイズで画像を取ってもいいのではないかと考えがちだが、そうするとスキャン速度が低下する上にイメージファイルとしてのハンドリングが悪化するのは避けられなくなる。限られた面積のモニタ画面に、大きな画像を表示させるのはスクロール作業が多くなり閲覧が疲れるのだ。小さな画像サイズで文字と写真がクッキリ見えるのが理想的。 <データの保存> 我輩がファイリングを始めた最初の頃は、文字主体の本を選びモノクロ2値画像にして128MBのMO(光磁気ディスク)にデータを保存していたが、CD-Rドライブが10万円を切ったことによりCD-Rでの記録保存を始めた。1枚あたり「写真工業」6冊分くらいである。 しかし、その頃のCD-Rも今では劣化が進み、現在はデータ救済のためのバックアップを行っている。ただし、CD-Rではコピー元と同枚数が必要となるため、DVD-Rにまとめている。その流れから、新規データもDVD-Rに格納することにした。これならば1枚あたり40冊くらいは格納出来る。 ・・・というわけで、以上の工程を経てイメージファイリング用データが得られる。 最近のパソコン性能向上により、かなり効率は上がっている。以前は2台のパソコンで分担していた工程も、今では1台のパソコンで十分にこなす。スキャナで読取りながら、同時にリサイズと減色のバッチ処理を走らせ、また同時に頁組みと圧縮処理を行う。要するに、常に3冊分の処理がパソコン上で平行して走っていることになる。 閲覧の問題も、現在のパソコン性能ならば十分に実用レベルに達しており問題無い。 ただし、「本の背を切る作業」、「ADFにセットする作業」、「定期クリーニングの作業」、「ソフトを操作して処理を走らせる作業」など人手を要する作業が含まれるため、完全な無人稼働は不可能である。ADFがジャムればまた手間も増える。 こうやって振り返ってみると、雑誌の電子化というのはやはり一苦労。何よりパソコンに付きっきりになるのがツラい。雑文もしばらくは後回しとなろう。 それでも、こうやってDVD-Rに「写真工業」が収まると疲れが消える。紙の状態ならば15kgくらいになるものが、たった1枚の光ディスクに収りパソコンの画面上で閲覧出来るのである。 この達成感こそ、作業を継続させる力なのだ。 そのうち、インデックス作成も完了させ、必要な時に必要な情報が引き出せるようにしたい。 これが完成し、毎月1冊ずつの平衡状態に落ち着くまでが、今の我輩の目標である。 <写真工業の束> <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [404] 2003年03月06日(木) 「動的な映像活用」 電子メールを受信していると、受信フォルダにメールが溜まってくる。 必要なものと不必要なものがあり、特にダイレクトメールなどは即刻消去している。 だが、必要なものだけを残しても重要度がそれぞれに違うため、さらに分類作業が必要になる。 我輩は、重要度に応じてメールを分け、一つ一つのメールをテキストファイルに保存する。テキストファイルならば汎用性が高く普遍性があるというのがその理由。それらは、同じ話題について送信・受信の履歴を1つのファイルにまとめている。いちいち、幾つもファイルを開いて会話の流れを追う必要も無い。 そして、複数のパソコンでメールを受信している現状から、それらを一元管理するためにも共通に使えるリムーバブルメディアに保存している。それらのメールは我輩独自のネーミングルールによって名前が付けられ、ファイル名からでも容易に目的のメールを探し当てることが可能。まさに完璧である。 ・・・とまあ、我輩のメール管理に関する完璧さは、実は妄想の中だけである。強いて言うならば、実現不可能な願望か。現実は全くの正反対。 我輩のパソコンのメーラーには、過去数年の間に蓄積された数千件もの受信メールが無秩序に溜まっている。分類などやったことも無い。 (我輩はメール保存領域を別ドライブに指定しているため、何度OSを再インストールしてもメールが消えることは無い。デスクトップ領域も同様。) 一度読めば用済みになるようなメールは消しても良いのだが、意外にも、消そうかどうか迷うメールが非常に多い。迷うと結論を後回しにするので結局消せずに残る。 いつかは大掃除しようと思っていたのだが、ここまでくるともう、そんな気さえ失せる。 沼地に堆積した植物が時を経て泥炭や石炭になるかの如く、過去のメールも二度と開かれぬまま堆積し石炭と化すのだろうか・・・。 さて話は変わり、我輩は現在、3台のデジタルカメラを所有している。 もっぱら露出計代わりの用途であるため、撮影後はデータを消しても支障が無い。原版の存在しない写真など、取っておいても使い道が無い。 だがメールの時と同じように、「そのうち必要になるかも知れない」などと考え、とりあえずパソコンのハードディスクに移して保存している。しかも、キチンと整理するわけでもなく、ただ無秩序に溜め込んでいるだけ。 恐らく、本当に必要な画像もあるのだろうが、いまさら見返す気力も無い。全ての画像を確認し分類するのに、一体どれだけの時間がかかることやら。 もちろん、画像のサムネイル表示も可能であるが、大量の画像をサムネイル表示させるには時間もかかり、しかも、小さなサムネイルだけでは要・不要の判断が難しいのが現実。 そうこうしているうち、新しい画像が次々に追加される。フィルムを必要としないデジタルカメラゆえ、画像の増え方は桁違い。 結局は整理もままならず、そのままCD-RやDVD-Rに保存し、棚にしまっておくことになる。 つくづく、デジタルカメラをスマートに使いこなせない自分に苛立ちを感ずる。 我輩がデジタルカメラを巧く使いこなせない原因は、従来のカメラの使い方をそのままデジタルカメラに持ち込んでいるからである。だがデジタルカメラは、銀塩カメラと同じような使い方をしてはならない。 古い概念でデジタルカメラを使おうとすると、我輩のように行き詰まる。それゆえ、デジタルカメラに対して批判的な姿勢になりがちとなる。 だが、デジタルカメラの利点を活かせないのは、結局は自分の問題。新しい製品を活かすには、古い概念を捨てねばならぬ。 雑文345でも書いたとおり、デジタルカメラの映像というものは、撮影した時点で消費されねならない。保存し、それを後になって利用しようなどと思ったところで、結局は埋もれて二度と見ることは無いのだ。それではデジタルカメラの特長を活かすことは出来ない。 例えば、現在の若者の必須アイテムである携帯電話のメール機能。 我輩にはこれが使いこなせない(我輩は営業時代に携帯電話を持っていた)。メールをテキストファイルで保存したり検索したりするという前提で捉えていたため、パソコン上でのメールしか考えられなかった。 だが新しい世代は、そもそもそんな使い方は考えない。今までのメールの概念に縛られず、もはや「会話」と同じ感覚で使う。会話であるから保存の必要など無く、その場で役目を終える。携帯メールは、「今手元にメールが届く」ということが大切なのだ。家に帰るまでメールが受信出来ないというのでは、コミュニケーションツールとしては使えない。 そう考えると、デジタルカメラの映像も「会話」と言えるかも知れない。 デジタルカメラを便利だと思う理由は幾つかあると思うが、一番大きな点は、「映像の即時性」であろう。面倒でランニングコストのかかる現像処理を経ず、映像がすぐに手に入る。これは何物にも代え難い特長と言える。 だが銀塩カメラと同じ視点でデジタルカメラを眺めれば、デジタルカメラの不便さしか見えないのは当然。逆に、デジタルカメラの視点で見れば銀塩カメラの不便さしか見えないとも言える。 デジタルカメラの特長を巧く活かして使いこなすには、新しい使い方をしなければ意味が無い。 デジタルカメラで撮影した映像を、永く遺すなどということは考えてはならぬ。それは、古い人間の発想である。本当にデジタルカメラの利点を突き詰めるならば、得た画像をその場で利用することを心掛けよ。 「画像メール」、「ネットオークション」、「ウェブサイト更新」、「写真日記」・・・。 これら写真の新しい利用は動的である。かつてのように、写真を印画紙にプリントし保存・鑑賞するという静的な利用では考えられなかった時代が、21世紀の"今"である。 積極的に映像を活用すればこそ、デジタルカメラが必要不可欠な存在となる。従来の静的な使い方でデジタルカメラを使おうとするならば、我輩のメール受信フォルダと同じように、整理がつかず溢れる画像に悩まされることになる。 今使わないデジタル画像を、今後使うはずも無い。 デジタルカメラを使う者、振り返ること無く、動的に映像を活用せよ。 ---------------------------------------------------- [405] 2003年03月09日(日) 「陶酔」 我輩の愛用する銃は、S&W社製M66・2.5インチ-スナブノーズ。これは、357マグナム銃であるM19のステンレスバージョンである。 銃身が2.5インチであるために威力・命中率共にあまり良くないが、護身用として使うには十分過ぎると言える。 ステンレス製で、かつ表面が良くポリッシュ(研磨)されているために錆びにくく、あまり手入れをしない我輩にとっては非常にありがたい。 ただし、護身用とは言えノーマルのグリップでは小さく使いにくい。いざという時に用を為さねば意味が無かろう。 そのため、キム・アーレンズ(Kim Ahrends)のカスタムメイドグリップを付け、緊急時にも確実に銃をホールドすることが出来るようにした。 <<画像ファイルあり>> さて、いつもの妄想はこの辺でやめておく。 我輩は、実銃の所有はおろか、海外へも行ったことが無い。 しかしながらここに載せた写真は、まさに実銃そのもの。これはどういうことなのか。 もちろん、これは日本製の金属製モデルガンである。実銃などではない。 その証拠に、S&W社を示すトレードマーク「SW」が、モデルガンメーカーのコクサイ「KS」に変わっている。 それにしても、日本で所持可能な金属製モデルガンは、法律により黄色か金色に着色されなければならないとされている。だがこの写真の銃はどちらでもない。これは違法モデルガンなのか? いや、これは画像処理により、金色を銀色に変えたもの。実際には、見事な金色のモデルガンである。 パソコン画面上で金色の部分を領域指定し、彩度を落とした。と言っても、金属部分が全て無彩色であるのは不自然であるから、部分的に淡い色を乗せた。 ついでに、木製グリップも赤味を強くし、木目が見えるようにレベル補正を行った。 下に載せた元の写真と見比べると、全く見違える。 <<画像ファイルあり>> 金属製モデルガンは、金色さえ除けばまさに実銃の雰囲気そのまま。プラスチック製とは違い、手触りが冷たく、重量感もあり、メカの動作も切れ良くしっかりしている。 ただ、現在の主流は弾の出るプラスチック製エアソフトガン。実銃のリアリティさよりも、機能としての弾の威力を求める者が多いということだ。つまり、弾の飛ばないモデルガンを趣味とする人間はごく少数である。 非常に寂しい。 我輩は、数少ない金属モデルガンを手に入れ、地味に写真を撮る。 昔はモノクロで撮影して金色をごまかしていたものだが(参考:雑文129)、デジタル時代になってその必要が無くなったのは嬉しいことである。 手元にあるのは金色のモデルガン、しかし画面に映し出されるのは銀色の銃。画面を見たまま手元のモデルガンを操作すれば、それはまるで実銃の感触。 まさに、陶酔の一瞬である。 ---------------------------------------------------- [406] 2003年03月11日(火) 「今日の出来事」 「ワタシね、キャノン一筋40年なんですよ。」 オヤジの声が我輩の背後から聞こえた。 場所は、ヨドバシカメラ上野店デジタルカメラ売場。店員と客との会話のようである。 それにしてもキヤノン一筋40年とは凄いな。一体どんな感じの人間だろうか? 我輩でなくとも、そう発言した声の主を一目見てみたいと思うに違いない。 あからさまに人の顔を見るのも何であるから、デジタルカメラを物色するフリをして、何気なく声のする方向を見た。だがその一瞬、我輩の動作が止まってしまった・・・。 3月10日(雑文原稿を書いている時点では本日)、撮影済みフィルムを現像に出すために、我輩は会社帰りにヨドバシカメラ上野店に出向いた。 去年ならば田町勤務だったため帰り道で寄れたものだが、今はわざわざ上野に出向かねばならない。そのため、「せっかくヨドバシカメラに来たのだから、何かカメラを物色してみよう」と思った。 カメラ売場の陳列は少し様子が変わり、新宿本店のような雰囲気になっていた。デジタルカメラの売場は大幅に増え、中央には売れ筋デジタルカメラの島があった。 我輩はデジタルカメラを3台も所有しているので、買おうという気など全く無い。しかしそうは言っても、やはりカメラを見るのは楽しい。 売れ筋デジタルカメラはやはり安価なタイプで、画素数も300万画素が中心であった。デジカメプリント(銀塩カラープリントサービス)で言えば、2Lサイズくらいの性能。サービスサイズが大半のユーザーには十分だと言える。 ただし、デジタルカメラを使っている者でもあまりデジカメプリントを知らないように思えるため、実は300万画素すら必要無いかも知れない。200万画素でさえパソコンのXGA画面をハミ出すのであるから、これ以上画像が大きくなったところで、一般人にはハンドリングが悪くなるだけである。 ・・・とまあ、今となっては自分とは関係無いデジタルカメラの売場を見ながら、勝手なことを色々と考えていた。 そんな時だった。例のオヤジの声が聞こえてきたのは。 「ワタシね、キャノン一筋40年なんですよ。」 なんとその声の主は、雑文129で登場した、ブロッケンの課長殿であった。 我輩は、一瞬動作が止まってしまい、課長殿をしばらく見ていた。すると、課長殿はその視線に気付いて「やあ、我輩さんじゃないですか。」と右手を上げた。 課長殿を接客していた店員は我輩と入れ替わりに離れ、自然に我輩と課長殿との立ち話になった。 「やあ、久しぶりですね。」と課長殿。かつては同じ職場にいたのであるが、今は別の場所に異動となり、しばらく顔を合わせていなかった。 「いやー、こんなところで合うなんて。」写真好きの課長殿とカメラ屋で出会うとは、我輩としても妙な嬉しさがあった。 課長殿は山登りが趣味であり、今回、登山装備を邪魔しないコンパクトなデジタルカメラを買いに来たとのことだった。狙っていたキヤノン製デジタルカメラは在庫が無く、店員に相談をしていたという。店員は別のメーカーを薦めたのだが、キヤノン歴40年の課長殿には少し抵抗があったようである。 だが、我輩と一緒に各社デジタルカメラを見て回り、我輩が一般的な知識の範囲で説明すると、キヤノンにこだわる気持ちも無くなったようだ。まあ、デジタルカメラの分野では、キヤノンかそうでないかという違いもあまりハッキリしないからな。 その後、職場や家族の話などをした後、課長殿は我輩が紹介したデジタルカメラのカタログを取り、「じゃ、失礼します。」と笑顔で立ち去った。我輩はその後ろ姿を見送り、自分も家路についた。 他人が聞けば、何ともない話であるが、我輩にとっては心に残る今日の出来事だった。 ---------------------------------------------------- [407] 2003年03月12日(水) 「懺悔」 自作自演によるでっちあげ、それを「やらせ」と言う。 その言葉を聞いてまず思い出すのが、朝日新聞のサンゴ事件である。西表島の貴重なサンゴにカメラマン自身がイニシャルを彫り込み、それが心無いダイバーの仕業であるとして捏造記事を掲載した(1989年4月)。 他にもNHKが「禁断の王国ムスタン」でやらせシーンを織り込むなどサービス向上に努めている(1992年9月)。 やらせの程度には軽重があろうが、少なくとも信頼を売りにしている報道機関がやるべきことではない。ジョークになってないなければ、いたずらに視聴者を惑わすだけである。 大きな書店(洋書コーナーがある書店)で売っているアメリカのタブロイド新聞などを手に取ると、あまりのバカ写真オンパレードで呆気にとられる。 例えば、アメリカ大統領と宇宙人が仲良くゴルフをやっていたり、人間の身長と同じくらいのイナゴが捕獲されたりした写真が載っている。中には手乗りの小さなラクダが写真に写っているものもあり、「狭い住宅で暮らす日本人が、ラクダをペットとして飼うために品種改良によって小型化に成功した」と書かれている。我輩は日本人であるが、そうまでしてラクダを飼いたいとは思わぬ・・・。 まあ、そこまでやれば「やらせ」の域を越えてシャレとなって楽しめるが、たまに日本のメディアが、タブロイド紙の記事をマジメに取り上げ、「ヒトラーやプレスリーが生存している」などと騒ぎ立てることがある。 どこまでがやらせで、どこまでがそうでないのかということについては、また議論が分かれることだろうと思う。 写真などは、記念撮影の「はい、チーズ!」という行為も、笑顔を作らせたというやらせの一種と言うことも出来る。 しかし常識的な観点から言えば、「観る人を欺く」あるいは「反社会的な行為を伴う」ということがやらせのやらせたる所以(ゆえん)ではないかと我輩は考える。 偉そうなことを言いながらも、我輩自身、過去に1度、紛れもない「やらせ写真」を撮った張本人であった。 今考えても心が痛む。 以下にそのエピソードを書き、我輩の懺悔としたい。 以前、雑文251で「44マグナムは反動で射手を身体ごと跳ね飛ばすほど強烈な銃だ」と書いた。中学生の頃、我輩は東京マルイ製の44マグナムのプラモデルを作り、友達であるオカチンとよく刑事モノの写真を撮った。 学生服の襟を内側に折り込んで背広のようにし、音楽用ヘッドホンを装着して射撃場の気分を作った。 マンガ「ザ・ゴリラ」の影響のため、撃った直後に後ろに跳ね飛んでみたりした。もちろん、キャップ火薬を発火させるだけのモデルガンであるから、エアソフトガンのように弾が飛ぶわけではない。 <<画像ファイルあり>> <銃を構えるオカチン> ある日、そのモデルガンを使って44マグナムのパワーを写真で表現できないかと考えた。 庭に出て地面に小さな窪みを付け、あたかもそこがマグナム弾の着弾点であるかのように見せようと思った。だが、穴は単なる穴だった。銃弾でえぐれた様子をうまく表現出来ない。しかも、地面を撃つシチュエーションというのも、何だか外れ弾のようで格好良くない。 そこで目を付けたのが、庭に生えている木だった。木の枝を折れば、そこがあたかもマグナム弾が貫通したかのように演出出来る。「ザ・ゴリラ」でも、ヒグマに襲われる老人を助けるためにマグナム弾で大木を貫通させ熊を仕留めたのである。 マグナムの威力を示すのはこれしか無い。 母屋から離れた目立たない木を1つ選び、その枝を折ろうとした。だが、なかなか折れない。渾身の力を込めて勢いを付けてやっとメキッと折れた。生木の白さが生々しく、ほのかな木の香りが漂う。 早速、その枝に44マグナムを挟み込み、あたかもその銃で枝をブチ抜いたかのように配置した。 「ウーム、さすが世界最強の44マグナム。絵になるなあ。」 我輩は早速、ピッカリコニカで写真を撮った。 その後、枝をそのままにしておくとマズいので、折れた枝を裏の林の中に投げ捨て、目立たないように取り繕った・・・。 <<画像ファイルあり>> 今考えれば、何と愚かなことをしたのかと思う。たった1枚のやらせ写真を得るために、大切な庭木を手にかけたのだ。 家族は気付いていたかどうかは分からないが・・・いや、派手に折った枝に気付かぬはずは無かろう。 時々思い出しては罪悪感に苛(さいな)まれる。 前回帰省した時には、庭の様子も少し変わっていたようで、あの庭木を特定出来なかったが、今度帰る時には、念入りに探し出し、庭木に謝ろうと思う。 ---------------------------------------------------- [408] 2003年03月16日(日) 「信用されていない患者」 2週間前、硬い物を噛むと差し歯が微妙にグラつくのを感じた。手で動かしてみても感じないほどの微妙なグラつきだが、実際に噛むと違和感を覚える。 数日間様子を見ていたが、思いがけない時に抜け落ちても困るので歯医者に行った。 案の定、歯科医は手で動かしてみて異常を感じない様子だった。そして「歯茎が弱っているということでしょう。」などと治療をしない様子だったので、「ある日を境に急にそうなったのだから、差し歯が取れかかっているのでは?」と言ってみた。 歯科医はしばらく考え、「うーん、じゃあ数日様子を見ましょうか。」と言い、次の予約を1週間後に入れた。 1週間後、歯科医は「あれからどうです?」と訊いたので「あの状態のまま変わらないです。」と答えた。 歯科医は再び歯を手で動かしてみている。 「どうしましょうか?一応、差し歯を取って、また付け直すことしますか?」 我輩は、無理に差し歯を取る必要も無いと思い、「じゃあ、ちょっと引っ張って抜けるかどうか試してもらませんか?」と提案してみると、「あ、そうですね。じゃあちょっと試してみましょう。」と言い、助手に「リムーバ持って来て」と指示した。 歯科医はそのリムーバとやらを使い、我輩の差し歯を軽くトントンと打ち出すようなことをした。すると、ポロリと簡単に差し歯が取れた。「あ・・・、抜けましたね。じゃあこれを洗浄して付け直しておきます。」 我輩は「お願いします」とは言ったものの、心の中では「それ見たことか」と思っていた。 歯の調子などは、実際にそれを使って噛んでいる本人が違和感を覚えたのであるから、不具合が無いなど簡単に言えるものではない。しかも、簡単な触診で何が分かろうか。 まあ、異常も無いのに治療したがる悪質な歯科医もいる世の中、この歯科医は良心的だとは言える。ただ、患者の申告をあまり信用しないというのも、正直言って少し気分が良くない。 さて先日、BRONICA SQ-Aiで並木道を撮影しようとしたところ、シャッターが切れなくなった。バッテリーチェックボタンを押してみたが、ランプが全く点灯しない。 この現象は初めてではなく、以前にも同じようなことがあった。肝心なところでシャッターが切れない。やはりバッテリーチェックボタンを押してもランプは点灯しなかった。 これらの現象は、いずれも電池を新しく入れてから1ヶ月くらいの話だった。いくら電子シャッターのカメラとはいえ、そんなに電池がすぐに無くなるのは尋常ではない。 我輩はスピードグリップを外し、試しに電池室カバーを押してみた。すると、バッテリーチェックのランプが点灯するようになった。接触不良か? それならば・・・と、電池室にフィルム包装のゴミを少量詰め込んで浮きの無いようにし、再びスピードグリップを装着した。 それからしばらくの間、シャッターは正常に切れていた。しかしやはり、またシャッターが切れなくなった。仕方無くスピードグリップを外して電池室をいじった。今度はなかなか反応が無かったが、色々とやっていると復活した。 スピードグリップの取り外しは面倒なので、シャッターが切れなくなる度にそんなことをするのは非常に効率が悪い。しかも、電池室での接触不良でも無さそうな雰囲気。もっと奥まったところでのトラブルか・・・? しかしその後も撮影する予定がいくつかあり、修理に出そうにも区切りがつかぬ。騙し騙しではあるが一応は使えるものだから、そのまま使い続けていたら本当にシャッターチャンスを逃す場面に遭ってしまい、悔しい思いをした。これだから電気式カメラは困る。 特に、BRONICA SQ-Aiのように、電磁レリーズのものは単速でも切れないから厄介だ(BRONICA SQの場合はメカニカルレリーズのため電池が無くとも単速1/500秒が切れる)。 「もう、これは修理に出すしか無い。」と踏ん切りをつけた。 ブロニカ(タムロン)の営業所に行く時間が無いので、いつものように上野のヨドバシカメラで修理に出した。現象が確認出来ない可能性があるため、「滅多にその現象が出ない」と言っておいた。 とりあえず修理代金の見積りの知らせが後日あるとのこと。現象が確認出来ずとも、オーバーホールの見積りくらい知らせてくれよう。 ところが2週間後の今日、ヨドバシカメラから電話連絡があり、未修理のまま戻ってきたと言われた。メーカーのほうで現象が確認出来なかったらしい。 「ナニ?・・・ということは、このカメラをそのまま使い続けろということなのか?」 我輩はその瞬間、歯医者での出来事を思い出した。 確かに、直す側が現象を確認出来なければ修理が難しいかも知れないが、現象を確認出来ないからと言ってそのまま未修理で返してくるというのも困る。 現象を確認出来なくとも、ユーザーが不具合を感じているのであるから、外から見た現象の確認だけでなく、内部を開けて点検する必要はあるだろう。少なくとも、「現象が確認出来ませんのでオーバーホールをお勧めします。」と見積金額を提示すれば良さそうなもの。年期の入った外観であるから、そういう発想があるものと期待したが。 結局、我輩はその電話であらためてオーバーホールの依頼をした。メーカーが現象を確認出来なくとも、電子基盤の総取り替えなどの見積りをして欲しいと依頼した。その値段によって、新たに購入したほうが良いかどうかという判断が出来る。撮影に使えず修理も不能とあらば、そのカメラは捨てる以外に方法が無かろう。メインボディだけあっても、置物にも不足である。 今回の件では、ヨドバシカメラ店員は我輩の面倒な要求にも親身に対応してくれた。それだけに、メーカー側の他人事のような対応にはイライラさせられる。 ユーザーは写真が撮れなくて困っているわけだが、それを何とかしようという姿勢が見えてこない。単純に「現象が再現しませんからどうしようもありません。」というのでは、こちらとしてもどうすれば良いのやら。 結局はユーザーのことなど信用していないんだろうな。そのまま未修理で返ってくるなどというのは、そういう気持ちの表れに他ならない。 歯医者の時も同じ気分だったが、信用されていないというのは気分が良くない。 ---------------------------------------------------- [409] 2003年03月22日(土) 「電磁レリーズ」 前回の雑文にて、「ブロニカSQ-Ai」と「ブロニカSQ」のレリーズ形式の違いについて少し触れた。 両者ともセイコー製電子シャッター(レンズシャッター)方式であり、共通のレンズが使えるのであるが、SQ-Aiでは電池が無ければシャッターは全く切れず、SQでは電池が無くとも単速1/500秒でのシャッターは切れる。 これは、「電磁レリーズ」であるか否かの違いである。 我輩が最初に「電磁レリーズ」という言葉に出会ったのは、「Canon A-1」のカタログだった。 電磁レリーズ式は従来のメカニカルレリーズ式のものに比べ、レリーズボタンの感触がソフトである。さすがはカメラロボットと言われるA-1だ。 <<画像ファイルあり>> 当時、電磁レリーズについての正しい認識は我輩には無かった。何となく、電磁石が関係したエレクトロニクスの仕組みが詰まっているのだろうかと思っていた。 電磁石の反発力により、レリーズ時の心地良いクッションを指に感ずるということなのか?あるいは、レリーズボタンを押し込む微妙な深さを、磁力によって精密に探知しているのだろうか? 限られた情報を基にした想像については雑文302にも書いたように、手掛かりが小さければ、その小さな判断材料が大きくイメージを創り出してしまう。 しかし現実には、レリーズボタンは単なる電気スイッチでしかなかった。 電磁石はシャッター幕をレリーズ(解放)するために使われている「プランジャ」であった。それはあくまでシャッター側の仕組みである。 ところがカタログの説明では、あたかもレリーズボタンそのものに高度な技術が使われているように書かれており、中高生時代の我輩の想像力を余計に刺激したのである。 そうは言っても、「電磁レリーズ」とわざわざカタログに明記するのも理由がある。それまでも電子シャッター式のカメラは幾つか登場していたものの、電磁レリーズを採用したカメラは珍しかったからだ。 「電子シャッターであるから電気スイッチである」と考えるのは少し気が早い。電子シャッターはあくまで「シャッターの開く時間を電子的にカウントして制御している」というものである。そういう意味では、"電子制御シャッター"と呼ぶほうが正確。 機械制御方式の場合、低速シャッター時には後幕の間(ま)を持たせるためにガバナーと呼ばれる遅延装置を働かせねばならない。高速シャッター時のように先幕の動きを使って後幕の係止爪を蹴るわけにはいかないからだ。そうなると機械制御式では、高速・低速によって2系統の制御が必要になってしまう。しかもガバナーは歯車の減速装置であるから、油切れによって狂いが出易い。「ジー」というガバナーの音にムラがあると心配になる。 ところが電子制御式では、後幕を閉じるタイミングに制限は無い。そのため、回路一つで全シャッタースピードを制御することが可能となった。 また、単に低速側のガバナーを電子回路に置き換えるだけで高速側機械制御・低速側電子制御というハイブリッドシャッターが出来上がる。 初期の頃は、コンデンサに貯めた電気量によって秒時を知るアナログ回路を使っていたが、この方式はコンデンサの劣化によりシャッターの閉じが遅くなっていくので、後に水晶発振子(クォーツ)を使ったデジタル回路が主流となった。 一方、レリーズボタンの動作については、シャッターが電子制御化された後もしばらくはメカニカルであった。なぜならば、シャッターの電子化とレリーズボタンの電子化には直接の関連は無いからである。 電子制御式シャッターは電池が無ければ使えないが、それは単に、シャッタースピードを変速することが出来ないというだけである。シャッターの動力はスプリングであり、動かすこと自体に電力は必要無い。 だから当時の「メカニカルレリーズ・電子制御シャッター」のカメラは、電池が無くとも単速(フォーカルプレーンシャッターの場合1/125秒前後)でのシャッターが切れる。 しかし、レリーズボタンの動作がメカニカルであると感触が良くない。レリーズボタンを押す力が直接、シャッターの係止爪を外す仕組みになっているからだ。 そうなるとレリーズボタンを押す力も強くなり、ストロークも深くなる。結果、手ブレの原因にもなった。 そこで、レリーズボタンを電気接点とし、プランジャ形式の電磁石を作動させることによってシャッターの開始をさせることになった。これならば、レリーズボタンを押す力は、電気接点を閉じるだけで良い。 <シャッターレリーズの原理> (1)メカニカルレリーズ式 メカニカルレリーズ式は、先幕係止爪が機械的に外される。 この時、電子シャッターの場合は電子的に後幕係止爪が制御され、機械シャッターの場合は機械的に後幕係止爪が制御される。 <<画像ファイルあり>> (2)電磁レリーズ式 電磁レリーズ式は、先幕係止爪が電気的に外される。 この時、電子シャッターの場合は電子的に後幕係止爪が制御され、機械シャッターの場合は機械的に後幕係止爪が制御される。 <<画像ファイルあり>> ところがレリーズボタンを電気スイッチとしてしまうと、電池が無くなればシャッターは切れなくなる。電子シャッターであろうとも単速でのシャッターは利用出来るはずなのだが、物理的に先幕の係止を外せないのであればどうすることも出来ない。 ニコンF3の場合では、電気スイッチ形式のレリーズボタンとは別に、メカニカルな機構によって強制的にシャッター先幕を走らせるための「緊急作動レバー」がある。もちろん、電池が無いのであるから、先幕が走り終われば直ちに後幕が走りシャッターが閉じる。また反対に、電池さえあれば(露出計が表示されている間であれば)、緊急作動レバーでの操作でもシャッターダイヤルで設定された値でシャッターを切ることが出来る。 これは、電子シャッターが、レリーズボタンの電子式・機械式に関係無いということをよく表している。 カメラはどれも同じように見えて実はそうではない。こういった違いが、使い勝手や失敗を分けることになる。 もちろん、「どれが最も優れた方式か」などということを議論する意味は無い。それは使う人間の思想によって変わってくる。 ただ我輩にとっては、どちらかと言うと操作の感触よりも、確実に動作するカメラのほうが気が休まるということは確かである。信頼性のあまり無いメーカーのカメラならば、なおさらそう思う。 ---------------------------------------------------- [410] 2003年03月29日(土) 「知らなかった有名人」 我輩が幼児〜児童の頃、父親の仕事関係でよく車やバイクで色々な所に連れて行かれた。 そこは大人ばかりの場所だったが、顔馴染みも多く出来た。 ある時、公民館のような建物で、ある一室に連れて行かれた。そこには知らない人が1人おり、マジックペンで何かを書いてるようだった。 すると父親は、我輩の写真を撮ると言い出した。そして、なぜかそこの"知らない人"の横に立たされた。その"知らない人"は、我輩の肩を抱き、カメラのほうを向いた。 父親が何枚か、シャッターを切った。 <<画像ファイルあり>> その後、我輩は覚えたての輪ゴム飛ばしを写真に撮ってもらった。輪ゴムを飛ばす瞬間を撮ってもらおうと思ったのだが、父親のタイミングが悪く、何度も何度も撮ってもらった。 その間、あの"知らない人"は我輩の後ろでギターを弾いていた。不思議な人だな、と少し思ったが、それ以上は気にしなかった。 しばらく後に知ったのだが、この"知らない人"は、菅原洋一という歌手だった。父親の事務所の講演会のイベントとして菅原氏を呼び、父親は菅原氏の身の回りの世話をする係だったらしい。 当時、菅原洋一氏は国民的人気歌手だったそうで、我輩はそのことを知らず、何の感動も無く菅原氏と写真に収まった。そして、ギターを弾く菅原氏を背景にした輪ゴム飛ばしのくだらない写真まで撮った・・・。 子供の頃であるから、有名人と言われてもピンと来なかったのだろう。ファンであるかそうでないかという以前に、名前や顔すら知らなかったのだから仕方無い。 だがそうは言っても、九州の片田舎の子供が出会うには偉大な有名人である。そのことを意識出来なかったのは、今考えると残念な事この上無い。 さて、それから時を経た今から5年ほど前、雑文102で南正時(みなみまさとき)氏とお会いしたということを書いた。実は我輩、南氏のことを知らず、職場の営業の者から「南さんという鉄道カメラマンと会う約束をしたから同席してくれ。」と言われた時には「何者だそれは?」と失礼なことを言ってしまった。 実際にお会いした南氏は、普通のオイちゃんであった。南氏の自宅兼事務所で、マルチメディアCD-ROMの話を色々とした。そして1時間くらいで帰社した。いつものような仕事の打ち合わせと何ら変わることは無かった。 しかしここ最近、南氏の名前を目にすることが多くなった。それは、昔から持っていた鉄道雑誌や鉄道写真集であった。 普段は写真家の名前など見ても特に気にしないが、南氏とお会いしてから、その名前だけは目に入り始めたのである。 「・・・なんだか、南氏の名前がよく出てくるな。意外と有名なカメラマンなのだろうか?」 雑文102を書いた時点では、まだそんな認識だった。 ところがつい最近、決定的な発見をした。 子供の頃から愛読していた「コロタン文庫」や「秋田書店」、そして「ケイブンシャ」等から出ていたミニ大百科シリーズで、南カメラマンが写真付きでよく登場していたということだ。しかも編集者と共に漫画で登場したり、取材記などが写真付きで載っていた。 そして初めて、「この人がそうだったのか」と認識した。 <<画像ファイルあり>> 我輩にとって南氏は、子供の頃から知らず知らずのうちに影響を与えられていた存在だった。そんな人に知らないうちにお会いし、しかも我輩は「CD-ROM化検討のために」として南氏から「失われた鉄道100選」という本まで譲り受けた。 もし意識していたならば、その本にサインでもしてもらうところだったのだが・・・無念。 <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [411] 2003年03月30日(日) 「スキャンシステムの更新」 雑文403にて、書籍の電子化について書いた。 だがその直後、スキャナのドキュメントフィーダの不調が起こった。見たこともないようなゴミ。それが、スキャンした後の紙に大量に乗っていたのだ。それは、強いて言うならば消しゴムのカスのようなものとでも言うのか。これが大量に画面上に散り、最悪、文字を覆い隠す。 これは、一体何だ? 詳細に調べていくと、それは用紙送りのローラーから出るものと判った。そのローラーは、表面がゴム引きされたスポンジのローラーで、ゴム部分と内部のスポンジが、長い間の使用によって剥離し、ゴムが浮いてスポンジを擦っていた。その際、スポンジが少しずつ練り出され、紙の上にこぼれ落ちたのである。 ゴミは厄介なもので、砂粒程度のゴミであっても、読みとり部分が止まったまま紙のほうを動かしてスキャンするため、止まったままのゴミがずっと邪魔をすることになる。その結果、紙送り方向にスジが入ってしまう。 まさに、大量の「写真工業」をスキャン中の出来事だった。 <<画像ファイルあり>> その時に使用していたエプソンGT-9600 我輩が書籍の電子化を始めた頃、スキャナもまだ高価で、その中で最も安価な「エプソンGT-6500WIN2」を5万円くらいで購入した。当時としては破格値であった。 このGT-6500WIN2は、NEC PC-9800シリーズ用のCバス経由パラレルポート接続で、使いたい時にスキャナの電源を入れればいつでも使えた。SCSI接続のように、パソコンが起動する時に認識させる必要など無い。 我輩は、このスキャナを使って本を1ページ毎にめくってガラス面に押さえ付けながらスキャンしていた。 今、それを思い出すと「よくそんなことをやったものだ」と感じてしまうが、まだ当時はスキャナで読みとること自体が便利なものであり、不便さの認識は無かった。 だがそのうち、パソコンがPC/AT互換機に置き換わると、このスキャナは使えなくなってしまった。 まあ、それはスキャナの買い換えも視野に入れたPC/AT互換機導入計画であったので、古いスキャナは同僚に引き取ってもらうことにして、その見返りに秋葉原まで車を出させて上位機種GT-9000を購入した。スキャンスピードを上げるための抜本策だった。 そして後日、ADF(自動給紙装置)を買い足し、ドキュメント取り込みの効率化を果たした。 数年後、結婚によって引っ越しすることになり、その機会に、それまで使っていたGT-9000を別の同僚に売ることにした。今度は3万円で売れた。この金を、次のスキャナ購入の足しにした。 その時に購入したのが、今回「写真工業」の読み取りで使っていたGT-9600である。 ADFも専用となっていたので同様に更新した。スキャナ本体だけでも10万円、ADFは4〜5万円はしたろうか。これは、もはや値段の問題ではなく、読み取りの早いハイエンド機にしたほうがトータルで得になると考えたからだ。 実際にはそれほど速度の差は無かったようだが、煩雑に使うADFが更新されたのは、給紙の安定性の面で良かったと言える。 それから数年、そのスキャナとADFは良く使った。特にADFはその長年の動作による振動のため、背面のネジが2本緩み、そのうち1つはいつの間にか紛失していた。それほど働いてくれた。 しかし、今回、給紙ローラーがダメになった。スキャナ本体も、内側にゴミが入ることが多く、画面にスジが入る度に筐体を開けてクリーニングして使っていた(隙間を目張りしたが、やはり長く使うとゴミは入ってくる)。 「よし、そろそろ新しいスキャナを導入することにしよう。」 我輩は決心した。これを機会に、業務用のスキャナをネットオークションで安く手に入れよう。両面読み取りならば、効率も格段に上がる。 とりあえず、作業中の「写真工業」を完結させたい。 応急措置として、ローラーの剥離面にボンドを塗り、ゴムとスポンジを一体にさせた。作動音が変わってしまったが、一応は正常に動いている。給紙が少し甘くなったが、後少し、踏ん張ってくれれば良い。 それと平行して、我輩はネットオークションでA3対応のスキャナ本体と、専用ADFを別々に落札した。一昔前の業務用スキャナ「エプソンES-8000」である。それぞれ、5万円ほどで落札出来た。金は、家計からの借金により調達。以前のロシア製シフトレンズの借金と合わせると30万円ほどに借り入れが膨らんでしまったが仕方無い。 <<画像ファイルあり>> エプソンES-8000と専用ADF装置 その新しいスキャナとADFは、宅配便によってそれぞれ送られてきた。 驚いたのがその大きさ。写真で見るよりもひとまわり大きな図体で、重さは2つ合わせて35kgはある。説明書にも、「設置作業には必ず2人以上で行って下さい」と書かれてある。A3対応スキャナであるから、少なくともA4スキャナのGT-9600が単純に2台並んでいる以上の大きさか。 結局、箱自体が玄関を抜けられなかったため、その場で開封せざるを得なかった。 ヘナチョコ妻はそれを見て怒(いか)り、「もし自分しかいない時に届いていたら、蹴りを入れていた」などとほざく。金を借りていた弱みもあったが、さすがにそこまで言われると言い争いになる。 その後、我輩は一人でその巨体を設置し、セットアップした。確かに腰が痛くなる。しかしまあ、営業時代の納品物に比べれば、こんな重さなど大したものとは言えぬ。 新しいスキャナは、さすがに業務用として作られただけあり、非常に安定した動作で信頼出来るような雰囲気だった。何より、読み取り部が動いてスキャンする方式のため、原理的に画像にスジが入ることは無い。ただ、少し紙の厚さには気を付ける必要がありそうだ。薄い紙は詰まることがある。 しかし問題は、スキャナのユーティリティソフトウェアであった。 このスキャナのADFは両面スキャンが出来るのだが、その構造上、読み取り画像は下図のように偶数ページが逆さまとなる。しかも、給紙が逆順であるため、最終ページからスキャンが始まってしまう。 <<画像ファイルあり>> 表裏2面読み取り時の画像の並び これを並び替えるために、スキャナ添付ユーティリティソフト「Page Manager」というツールを使うことになる。 説明書によると、「Page Manager以外のアプリケーションには、順序を自動的に並び替えたり、表面/裏面を一括して回転する機能はありませんので、Page Managerを使うことをお薦めします。」と書かれてある。 我輩は、先に読み取らせておいたBMP画像ファイルを「Page Manager」に取り込み、早速並び替えを行おうとした。 「さあ、お手並み拝見。」 しかしどうしたことか、説明書に書いてあるような、偶数番目だけを回転させる機能が見付からない。どういうことだ? 色々調べると、「Page Manager」から直接スキャナを起動して画像を取り込まねば、回転処理用のウィザード画面が現れぬということに気付いた。 「この野郎、別途用意した画像は処理させぬとは心の狭いヤツだ。スキャナと組み合わせた使い方でないと仕事をしないということか。」 仕方が無いので、この「Page Manager」を使って画像を再度スキャンし直した。全く手が掛かる。 今度はスキャナから直接転送された画像であるため、正常に回転ウィザードが立ち上がり、処理も正常に行われた。 「よし、次は画像を汎用データに吐き出そう。」 ところが、どこを探してもそんな機能が無い。1枚1枚保存指定することは出来るのだが、数百枚に及ぶ画像を一括して連番保存することがどうしても出来ない。唯一、独自形式の画像フォーマットで擬似的にマルチドキュメントで保存出来るのみ。 何と言うことだ。 せっかく作業したスキャンデータが外部に出せないとは。しかも、作業ファイルは「Page Manager」をインストールしたディスクにしか作らず、OSやアプリケーションを格納したCドライブがどんどん容量が少なくなっていく。出来ればデータ用のDドライブを作業ドライブにしたいのだが、それは再インストールせねば無理らしい。馬鹿げた話だ。 幸い、ファイルの順列はフリーソフトで一括書き換えが出来ることが判った。最終ページから始まるファイルを、先頭から自動的に付番し直すのだ。 しかし両面スキャン時の、表面と裏面で逆さまになるものについては、フリーソフトでは使えるものが無かった。まあ、「偶数番目の画像ファイルだけを180度回転させる」などという妙な動作の必要性など、普通は考えもしないだろう。 全ファイルを一括して180度回転させるならば、「アドビ・フォトショップ」の一括処理で簡単である。だが、偶数番目のファイルを一つ一つマウスクリックで拾って別のフォルダに移すのは、非常に手間がかかる。200ものファイルについて、いちいち手動で行うのか?そして、そのような作業を、スキャンする本の数だけ続けねばならないのか? 我輩は、目の前が真っ暗になった。 「くそ、これはエプソンの嫌がらせか?今まで投資してきた恩を仇で返しやがって!」 もう、これは片面取り込みするしか方法は無い。せっかくの両面取り込みADFであるのに・・・。 そんな時、ふとひらめいた。 「なんだ、単純じゃないか!」 偶数と奇数を簡単に分ける方法。それは、エクスプローラーでファイルを表示させ、ウィンドウの幅を狭めれば良いのだ。二列のファイルが並ぶくらいにウィンドウを細長く調整すれば、上半分が奇数、下半分が偶数のファイルが並んでいる。あとは、後ろのファイルからマウスでドラッグして囲めば良い。 <<画像ファイルあり>> これで全ての問題が解決した。 「Page Manager」などという最低なソフトも使う必要が無い。 これからは、A3のような大きな原稿さえADFによって読み取りが出来る。両面読み取りによって、紙を入れ直す手間も半分に減る。ゴミ混入によるスジも入らない。 今日は、グッスリと眠れそうだ。 (2003.03.31追記) しばらく使っていると、結構紙詰まりが頻発することが判明。静穏性と、線引きしないことについてはさすがだが、このADFは少しデリケートかも知れない。 (2003.04.01追記) 「エプソンES-8000」を業務用スキャナと書いたが、ADFスキャナとしては業務用とは言えないだろう。あくまでもフラットベッドスキャナとしての業務用である。 (2003.04.04追記) 確実に切れる裁断機(ディスクカッター)を導入したが、これにより紙詰まりが減ったように思う。 ---------------------------------------------------- [412] 2003年04月08日(火) 「生殺し」 先日の雑文408にて、不調のカメラ「ブロニカSQ-Ai」をオーバーホール(要見積り)に出したという話を書いた。 あれから3週間ほど経ったが連絡が無い。 「見積り程度で3週間以上もかかるのであれば、実際のオーバーホールでは半年くらいかかるかも知れない。」などと心配になってきた。 そこで昨日、ヨドバシカメラまで行って確認してみた。 すると、またもやカメラが送り戻されており、「現象が確認できません」と伝票に記載されていた。 オーバーホールに現象云々など関係あるのか? 伝票にはその他に「実際に使用していたセット(レンズやフィルムホルダー)を付けてもう一度出してくれ」ということが書かれていた。 ウーム、レンズは今使っているのであるから、1ヶ月も手放すことは不可能。ボディのみではオーバーホールの受付は出来ないということか?それとも、オーバーホール自体受け付けていないということか? しかも「異状の無い電装を取り替えるのはコストがかかる」とも書かれていた。 コストがかかるというのは、どれくらいかかるのかを教えてくれ。高ければそのカメラを棄て、新品を買う。そういった判断はこちらでやるから、いい加減に見積りを出せ。 メインボディのみの新品店頭価格が9〜10万円であるから、オーバーホール&補修費が7万円くらいでボーダーラインか。 とにかく、ここぞという瞬間にシャッターが切れなければ安心して写真を撮れない。それを実現させるために金がかかるのであれば仕方無かろう。 まさか、そのための金を節約し、このまま使い続けるというわけにもいくまい。 ブロニカはどうも「確実性」に対する思想が薄く、写真を撮る側の立場が解らないようだ。現象が現れなければ全く受け付けない。フタさえも開けて見ない。見積りすら出さない。 我輩が会社員でなければ、ブロニカの営業時間内に営業所へ出向くことも出来ようが、現状ではヨドバシカメラなどを経由するほか無い。そのため時間もかかるのだが、やはり1ヶ月近く経ってもオーバーホールの見積りが出ないのは少しおかしい。 時間がかかるのは、修理などを外注に出しているからか?あるいは、タムロンに吸収され消化されかかっているブランドだからヤル気が無いか? こんな調子では、ブロニカを使い続けるにはスペアが欠かせない。 我輩の現在のスペアボディは、1/2秒シャッターが1秒で切れるという半壊状態の「ブロニカSQ」のみ。露出が正確でないので、段階露出の枚数が6枚となった。この状態をいつまで続ければ良いのか。 ブロニカが「オーバーホールに100万円かかります」とでも言ってくれれば、新品ボディを買う決心が付くものを・・・。 ブロニカよ、頼むから見積りを出してくれ。このままでは生殺しでツライ。 ---------------------------------------------------- [413] 2003年04月09日(水) 「ダイヤルのアナログ性」 「シャッターダイヤルはアナログ的か、それともデジタル的か」 このような命題が与えられたとしたら、どう考える? これは、我輩が当サイトを立ち上げるよりも前に、どこかの掲示板で議論されていた話題である。 そこでは、「シャッターダイヤルの数値はあくまでも不連続な数字のプロットであるから、これはデジタルである」とする意見があった。 確かにシャッタースピードは、絞りのように連続的に可変出来るバリューではない。いくら細かく中間シャッターが設定出来たとしても、不連続なバリューであることに変わりない。 辞書には、「アナログ=連続的な物理量の変化での表現」「デジタル=不連続な数字による表現」と記載されている。 ・・・となると、シャッターダイヤルはデジタル的と言うべきなのか? 雑文066でも書いたが、「シャッターダイヤルは入力装置でありながら同時に表示装置でもある」。ダイヤルには、こういった二面性があることをまず念頭に置かねばならない。 まず入力装置として見た場合、シャッターダイヤル上には段階的な数字が刻まれているが、それらは順列を以て並んでいる。決して中間を飛び越えて目的の設定値に到達することは出来ない。 それはまさにアナログ的と言える。 もちろん、シャッター値の順列については、デジタル液晶表示でも同様に設定値が順列を持っているが、これはダイヤル式の概念を踏襲しているためにそうなっているに過ぎない。 デジタル液晶表示であれば、テンキーによって数値をダイレクトに入力するほうがデジタル的と言える。ダイヤル式カメラが存在しなければ、もしかしたら順列式の概念は生まれず、携帯電話の操作感を売りにしたテンキー設定方式のカメラが最初に現れたかも知れない。 次に、表示装置として見た場合、ダイヤルでは数字が消えたり現れたりするわけではなく、いつも同じ印刷面が見えており、単にその回転角が変わるのみ。角度の度合によって表示の意味が変わることになる。 それはまさにアナログ的と言える。 <<画像ファイルあり>> 何よりダイヤル式は表示に一覧性があり、数値の相対的な量が直感的に伝わってくる。デジタル液晶表示の、次々に現れては消えて行く方式とは明らかに異なる。 1/2000秒の次には何が出るか。1/4000秒か?それとも1/3000秒か?あるいはそこで行き止まりか? デジタル液晶表示では、平時は分かっているつもりでいても、他のことに気を取られていると案外戸惑う。 その点は絞り環も同じことで、絞り環を廃したミノルタαレンズなどは絞り値の一覧性までも失い、最小絞り値をわざわざレンズ前面の記述に追加せねばならなくなった。 <<画像ファイルあり>> ミノルタαレンズには、開放F値のみならず最小絞りの値までも記述されている。 逆に、同じダイヤル式であっても、「Canon A-1」や「FUJICA AX-5」、「MINOLTA X-370S」のように一覧性を持たぬものもあり、アナログ性を排除しデジタル性を強めたという意味で微妙な存在と言えよう。 (もっとも、「Canon A-1」と「FUJICA AX-5」に関しては、敢えて技術の先進性を強調しようとした目論見もあろうかと思う。) ・・・以上のことを総合的に(恣意的に?)考えると、ダイヤル式というのはカメラ側から見れば確かに不連続な数値を設定するためのデジタルなデバイスではあるものの、使う側にとってみれば、それはまさにアナログであると我輩は断言する。 ---------------------------------------------------- [414] 2003年04月10日(木) 「ブラック・ジョーク」 ブラック・ジョーク、それは、強い皮肉を込めたドギツイ冗談のこと。 ドギツイとは言っても、ある視点で見れば鋭く真実を突いているために面白く感ずる。 しかし、ブラックジョークをそのまま真に受けてしまえば面白くも何ともない。それどころか、皮肉の意味さえ理解出来ず、真実そのものを見誤ることになる。それは、ジョークを作った人間の意図するところではない。 ジョークはジョークとして捉えるべきである・・・。 3週間前、アメリカがイラクに戦争を仕掛け、昨日やっと首都を制圧した様子である。当初は数日間で制圧出来るとの見通しだったが、意外にも苦戦し民間人も巻き込んで犠牲者も増えた。 今この瞬間にも、病院で息絶えようとする負傷者がいるだろう。放置されたままの遺体も転がっているだろう。そこには悲惨な光景が広がっているに違いない。遺体などそのまま報道で出てくることは少ないが、目に触れなくとも存在する光景があるというのは自覚しておくべきである。 ところで先日、この戦争を伝える米国ロサンゼルス・タイムズ紙で、掲載写真の捏造が発覚した。 それは3月31日付の第一面で、同じ場所を写した2枚の写真の良い部分だけを合成し1枚にまとめたのだそうだ。 現在、報道カメラマンのほとんどがデジタルカメラを使っているという。迅速な映像配信を行うためにはデジタルカメラが大きな威力を発揮する。インターネット時代であるから、パソコンで扱えるデータであればどこにいてもリアルタイムに写真を本社へ送信することが可能となる。 ところがパソコンはデータを加工することも出来る。色や明るさの調整は言うまでもなく、今回のような合成写真も非常に簡単である。従来のように、写真を切り貼りするような手間と熱意など必要無く、気軽な気持ちで調整出来る。 恐らく、今回写真を合成したカメラマンは「一目で状況が飲み込めるような写真にしよう」というサービス精神が行き過ぎたのではないかと推測する。決して、どちらかの軍隊に有利になるように画策したわけでもなく、ただ、良い写真になるよう工夫した。 ただしこのカメラマンは合成処理については素人と見え、合成時に同じ人物が2人入るという初歩的ミスを犯した。 もし今回、このようなミスにより写真合成が発覚しなければ、永遠にこの写真が真実として伝えられた可能性がある。逆に言うと、ミスの無い他の合成写真は発覚すること無く世界を巡っているとも言える。 デジタル化が当たり前の時代には、それは十分考えられること。 通常、撮影された写真データがそのまま無加工で利用されることは無く、印刷やウェブ情報など利用媒体に応じた調整(色やコントラストや解像度等の調整)が為される。本来ならば印刷所の版上で調整されるべきものが、デジタルデータ化によって素材写真の段階で調整可能となった。 しかし、そういった調整技術はすなわち捏造写真を作る技術でもある。画像調整を許せば捏造も許すこととなり、かと言って捏造を不可能とさせる技術を導入すれば、単純な調整すら不可能となってしまう。 結局、デジタルデータの改変は不可避としか言いようが無い。 今目にしている写真が、捏造であるかどうかは誰にも分からない。だからこそ、疑いの目を常に持ち続けることが大切。 1枚の写真だけで事実を捉えるのではなく、単に一つの断片的素材として一歩引いて受け止めねば、我々は誰も意図しない方向へ誘導されてゆくことになる。 そこには悪意のある誘導者がいるわけではない。自然発生的に生まれたデマが人々を動かすかのように、コントロール不能な人々の心を思いも寄らぬ方向へ傾けさせるだろう。 写真を合成したカメラマンを吊し上げ糾弾したところで何の意味も無い。彼には悪意があったわけでもない。雑文189も関連するが、効果的な象徴写真を狙っただけの話。いわば、カメラマンのブラック・ジョーク。それを受け取る側には、ジョークに込められたメッセージを受け取るセンスが必要。 もしかしたら、同じ人物が画面内に2人入るというのも、ジョーク的メッセージだったのかも知れない。それくらい考えられる余裕が無ければ写真は読めぬ。 今の時代、捏造写真は当たり前。悪意無くとも、例えば見易くなるよう色調補正をしたつもりが、国旗の色が別の国の色になってしまったりするかも知れない。ブラック・ジョークの良い見本だな。 そもそも写真というのは、未修整のものであっても撮りようによっては敵味方を逆転させうる(参考:雑文313「見方と味方」 )。 ジョークに対して怒り出すのは、センスの無さを物語っている。 真実とは、写真とは違うところにあるかも知れない。永遠に出てこないものかも知れない。だが、最初からその認識を持つならば、ジョークをジョークとして受け取ることが出来る。 1つの情報のみに対して疑い無く接すれば、それこそ自分自身がジョークと化す。 それこそまさにドギツイ冗談、ブラック・ジョークか。 ---------------------------------------------------- [415] 2003年04月11日(金) 「死亡事故」 去年12月9日午前1時15分頃、我輩の近所で死亡事故が起きた。酒気帯び運転の車に歩行者5人が次々とはねられ、5人が全員とも死亡したのだ。現場にブレーキ痕は無く、被害者の身体は70メートルほども飛ばされた。 パチンコ店店員和島豊が酒を飲んだ帰りに車を運転し、途中で眠り込んでアクセルをベタ踏みした結果の事故であった。 目撃者によると、事故直後、和島容疑者は逃走しようとしてエンストした車の再スタートを試みたが、車前部の破損が激しく果たせなかったという。 5人の被害者の中には、我輩と同じ職場の人間がご近所付き合いしていた人も含まれていた。場所と人が近いだけに、どうしても他人事とは思えない。 世の中には自分勝手な無謀運転をする馬鹿ドライバーは数多い。「信号が黄色ならば進め、赤ならば注意して進め」などというふざけた行為が日常的になっている現状では、交通事故による死者を減らすことなど不可能に近い。 「今まで事故を起こさなかったんだから大丈夫(これからも事故は起きない)」などと非科学的なことを言う者すらいる。 人間とは、愚かな動物である。 他人の経験を自分のものとせず、同じような過ちを人を代え何度も繰り返す。交通死亡事故も、自分が起こして初めて後悔する。 問題は、「事後に反省したところで何の意味も無い」という点。 100人のドライバー全員が日頃の無謀運転について反省するためには、100人全員が死亡事故を起こさねばならなくなる。自分が体験するまで死亡事故の悲惨さが解らないのだからそうなるしかない。 もしそれが本当ならば、例えば戦争の悲惨さなど次の世代へ伝えていくことも出来まい。戦争を体験した世代がいなくなれば、再び戦争を体験して悲惨さを学ばねばならなくなる。 自分自身の体験でしか学べない、それは文化の下等性を示す一つの指標である。 なぜドライバーという馬鹿共は、死亡事故を起こす前にその悲惨さを知ることが出来ないのか。その原因のひとつは、死亡事故現場の惨状を想像出来ないからだと我輩は考える。 ニュースで聞く「死亡」という文字。そこにどんな地獄絵図が展開されているかなど、思いもよらないだろう。ましてや、それが次に我が身に降りかかる事かも知れないなどとは考えない。 この時期、特集番組が多く、救急医療密着系や犯罪捜査系の特番を目にする。その中で、惨(むご)たらしい現場や死体などの映像は全てに強烈なモザイク処理がかかっている。 確かに、老若男女誰もが何気なく見るテレビでは遺体の映像はタブーである。心の準備が出来ていない状態でそのような映像を見せられてはたまらない。最悪、チャンネルを変えたらその映像がいきなり目に飛び込んでくることも考えられる。 だが書籍では、読む側が意志を以て本を選び目を通す。不快な頁があれば、すぐに閉じれば良い。一昔前の写真週刊誌などは、興味本位的な面も強かったが遺体写真など無修正で載っていたものだが。 去年6月13日、女子中学生2人が在韓米軍の装甲車に轢かれ死亡した事件があった。 報道で聞く限りでは、他の交通事故や殺人事件のニュースに紛れてあまり印象が残らなかった。 だが、先月号の「軍事研究」という雑誌を手に取り驚いた。轢死した女子中学生の遺体が写真掲載されているのである。 記事はモノクロ紙面であったが、写真のオリジナルはカラーであるという。 そして、その写真を詳細に説明する文章によって自分自身もその写真をカラーで見るような気持ちになった。 事故を起こした装甲車は、我輩の予想に反し重厚なキャタピラー式で、車重も相当なものに思える。そして、2人の身体は潰され、頭からは脳がはみ出し路面にその塊が落ちていた。 不覚にも我輩は、この写真を見て初めてこの事故の惨さを実感した。 我輩が生まれて初めて遺体の写真を目にしたのは、1985年に墜落した日航ジャンボ機の事故の報道だった。 地面から突き出た足、煙の燻る人形(ひとがた)の炭、ちぎれた女性の腕、機体の裂け目から出た血に濡れた髪の毛・・・。 写真週刊誌に掲載されたその悲惨な光景は、まさに想像を絶する地獄絵図そのもの。 他にも、外傷の見られない綺麗な状態の遺体写真もあり、「ちょっと前は生きた人間であった」ということを感じ、血みどろの遺体よりも却ってショックであったことを想い出す。 もしも、文字だけで事故の報道に触れたならば、我輩の想像力が及ばぬために事故の悲惨さは十分に理解出来なかったろう。 ただしその事故以後、同様な航空機墜落事故が起こってもあまり遺体映像が掲載されることがなくなってしまった。事故を伝えるのは解説文字と遠巻きに見た事故現場写真のみ。 だが我輩は、報道される事故の経緯や死者数などから、事故現場の様子を想像する。文字だけで伝えられる報道であろうとも、日航機墜落事故の時の写真が我輩の想像のディテールを補い、他の航空機墜落事故の報道にも目の前でその現場を見る。 もっとも、興味本位で遺体の写真を掲載したり見ることは不謹慎ではある。遺族への配慮も必要になる。自分の愛する人が殺され、その遺体が公衆に晒されるのは許し難いことだろう。 だが、事件・事故の本当の姿を知り、少しでも自分の行為の危険性を認識し、再発を防ぐように繋がればと思う。可能な範囲での紙面掲載は必要ではないか? そういったことが現在では難しいのであれば、例えば免許センターの講習の中だけでもそういう写真を見せてやれないのか。免許証の書換えに来た者たちに、「目を逸らすな、おまえたちが一瞬でも気を抜けば、このような結果が待っているぞ」と脅してやってくれ。 死亡事故を起こせばどんなことになるのか。本当にそれを知る者は少ない。 サンダルを履くかの如く気軽に車を運転していた者が、事故死した遺体の写真を目にすれば、自分が当事者になるという可能性を少しは認識し、気を引き締めてハンドルを握るかも知れない。100人のドライバーのうち1人でもそうなれば、現状も変わろう。 ドライバーの全てが死亡事故の経験を積む前に、写真の伝える衝撃によって1つの経験を共有する・・・。馬鹿共にそんな期待をするのは、甘いだろうか? =交通事故関連リンク= 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そのサイトでは特に触れていなかったが、我輩が思うに、そのサイトを見ていた悪意ある者が、イタズラ目的のため撮影対象となっている枝を見つけ出し、それを折り取ったのではないかと推測する。そうでなければ、花が咲く前のつぼみの枝を折り取るだろうか?三度に渡ってこのようなことが起こるだろうか?これらが偶然だと言えるだろうか? 確率的に言って、それは非常に考えにくい。 以前、雑文401にて、撮影のためなら何でもやる動物野郎について書いた。これは、写真を得る目的のために行われた非常識なる行為であった。 だが今回は、写真で公開された被写体に対してイタズラを受けてしまった。 せっかく、人が桜の開花を楽しみにして毎日撮影しているというのに、その枝を折り取ってサイト運営者の反応を見て喜ぶ。極めて下劣な行為に怒りが湧き上がる。 恐らく、サイト運営者が写真の場所を明らかにしなければこのような事態は防ぐことが出来た。しかし、このような心の貧しい者がサイトを見ているとは夢にも思わなかったのだろう。直接その桜を見たいと思っている人がいるならば、という親切心のために場所を明らかにしておいたのだと想像する。 だがその心が、逆にアダとなってしまった・・・。 人を信頼する事も大事だが、誰が見ているか分からぬウェブ上で、撮影に関する必要以上の情報を与えるべきではないと考えさせられた。 もし、我輩も同じように場所を明記して少しずつ定点撮影を行い、それをウェブ上で公開するならば、その場所に何かイタズラが為されることは十分考えられる。そのイタズラに対する我輩の反応を見て喜ぶ輩がいないとも限らない。 残念なことだが、そのような心配はせねばなるまい。 桜の写真を撮っても、その感動を十分に共有出来ぬとはイヤな世の中だ。下手に親切心を出そうものなら、それを逆手にとってイタズラをする。それはまさに、世間を騒がせて楽しむ愉快犯。 たとえそれが桜の小さな枝であろうとも、わざわざ人を困らせるという目的だけのために折るとは、本当に心の無い人間としか言いようが無い。 心を持たぬ人間のくせに、そんなことをして楽しいか? ---------------------------------------------------- [417] 2003年04月15日(火) 「出航」 職場でパソコンに向かっていたら、いきなり次長殿が早足でやって来た。 「おまえ、船に強いか?」 「は?」 「船だよ船。」 最初、船の知識が豊富かどうかという質問だと思った。 我輩の知識は興味本位による所産のため、戦時中の、しかも戦艦についての知識しか無い。一般商船のことなど分からぬ。船の話ならば、恐らく客先の造船関連の話に違いない。 ところが次長殿は意外なことを言った。 「船酔いに強いか?」 「ふ、船酔い?船に強いかって言うのは、船に乗るという話ですか?」 「そう、貨物船に乗るんだよ。」 「貨物船?なんでまたそんな?」 いつも次長殿の話は途中から始まるので、このような会話もありがちである。しかし今回、次長殿は何か急いでいる様子であったためか、更にワケが分からない状態。 「実はな、H-2ロケットで打ち上げた人工衛星から投下される物があって、それを回収するプロジェクトなんだ。それを種子島の船上で撮影し、その画像を衛星経由で送らねばならん。その人員として行ってもらいたいんだ。」 「ええっ、そんなことウチの会社がやってるんですか?」 「撮影だけ。ビデオ撮りは映像課から行くから、スチルはおまえが適任だと思う。」 「はあ。」 「出航はゴールデンウィーク明けで任務は3週間。その間ずっと船の上だ。どうだ?」 次長殿は1枚の紙を広げて船の図を見せた。じっくりと見ることが出来なかったが、5〜6千トンくらいの船だろうかと思われた。 「どうだって言われても・・・、ちょっと家に電話入れますんで、少し待ってもらえますか?」 次長殿は「分かった」と、ひとこと言い残し、急いで部屋を出て行った。 隣の席に座っている同僚は、こちらを見てニヤニヤ笑っている。 「いや〜、私が行きたかったですなあ〜。」 「じゃあ代わりに行ってくださいよ。」 「いやいや、我輩さんが言われた話ですからね〜。仕方ないですね〜。いやぁ、残念だなぁ〜貨物船。」 全くの皮肉だった。 我輩は家に電話し、ヘナチョコ妻に相談した。 ヘナチョコもびっくりしたとは思うのだが、ごく普通に「どうなるんだろうねぇ」などと言って埒(らち)があかないので、こちらから「我輩が居ないと困る事柄を思い付くだけ箇条書きにし、それをメールで返答せよ」と言って電話を切った。恐らく朝のゴミ出しなどは項目の一つに挙がろうか。 受話器を置いて顔を上げて見たが、次長殿はまだ席に戻っていない。どこかで打合せなどをしているのだろうか。 それにしても、3週間海の上とは酷な話だな。スチル写真とは言っていたが、衛星回線で画像を送るということであるから、デジタルカメラでなければならない。職場にあるデジタルカメラを考えてみたが、それは一眼レフタイプではないため、接写やライティング等の自由度に於いて不安がある。そうなると、我輩所有のEOSを持っていくことになろうか。 しかし長期間の撮影であるから、バッテリーはその場で何度も充電させることになろう。そもそも、貨物船に100Vの一般家庭用コンセントなどあるのか? しかも、修行のような長い乗船であるから、せっかくならば銀塩カメラも持って行きたいと思う。こういう機会も滅多に無かろう。そうなると、選択すべきは35mm判か66判か? もしこれが変化に富んだミッションだというならば、コマ数が多く機動性の高い35mm判と行きたい。それとは反対に、落下した投下物を船が2〜3週間捜索し続け、その間は海と空しか見えず撮る物が限られているとするならば、フィルム面積頼みで1枚1枚の質を高めたい。 しかし3週間もの間、世間と隔絶した状態で生き残れるのか心配だ。普段、不健康な生活を送っている人間が、いきなり海の男になれるのだろうか? ふと、NHKで放送された「プロジェクトX〜太平洋1万キロ・決死の海底ケーブル〜」を思い出した。 船員と技術者との間に生じた軋轢。それを乗り越え、男たちは1つの仕事を成し遂げた。 苦労が多ければ多いほど、テレビ番組としては盛り上がる。 そんな想像を巡らせていると、再び次長殿がやって来てひとこと言った。 「さっきの話、無くなった。」 「は?」 「無くなったんだよ、無くなった。忘れてくれ。」 以前にも同じようなことがあったが、今回も、あれこれと無駄なことを考えて終わった・・・。 2005.01.19追記
今ふと思い出したが、次長殿(現在は事業部長)は前職がカメラマンだった。 ---------------------------------------------------- [418] 2003年04月16日(水) 「生殺し(その後)」 先日の雑文412「生殺し」では、「BRONICA SQ-Ai」のオーバーホールについてなかなか見積りを出さぬブロニカ(タムロン)に生殺し状態にされ、現在のカメラをオーバーホールするか、あるいは新品カメラボディを買うべきかが決まらず困り果てていた。 もし見積り金額が高ければ、不安の無い新品を買うほうが良い。 さて、オーバーホール依頼をして1週間ちょっと過ぎた。 まだ早いとは思うが、催促の電話をヨドバシカメラに入れてみる。 すると、回答はメーカーから行うことになるという。「メーカーから?」とは思ったが、了承して待つことにした。 すると、それから2時間くらいしてタムロンから電話があった。タイミング的に、ヨドバシからタムロン側に連絡を入れたのだろうか。 だが、今回も見積りは出なかった。 向こうの話としては、以前同じようなケースで、ボディ側には異状が無くレンズ側に原因があった事例について、ボディのみをオーバーホールしたことにより客とのトラブルを経験している。後々、「無駄なオーバーホールだった」と言われないために、原因がハッキリしない状態ではオーバーホールするのは躊躇(ためら)われる。そのため、レンズ共々修理に出して欲しいとのことだった。 我輩としては、レンズは別のボディ(BRONICA SQ)にて使用中で、数週間もの間手放すわけには行かないと主張した。 ボディのみのオーバーホールをしてもらえば、少なくともボディについての心配事は無くなる。その状態で再び不具合があればレンズ側の問題と判明する。その時は、新たにタイミングを図り直し(少なくともゴールデンウィークや盆休みなどを外して)、レンズを修理に出すことにすれば良い。 ボディはスペアがあるからこそ、1ヶ月半もの間預けていられるのである。 我輩は、「とにかく金の問題では無く、狙った瞬間にシャッターが切れないというのが最も困る。オーバーホールで点検してもらうか、あるいは新品を買うかの選択をしたいが、そのための判断としてとにかく見積りが欲しい。」という主張を、この電話で3回は繰り返した。 相手は、それを聞いて我輩の意図を理解したようだった。 そしてやっと、症状についての話に移った。 撮影中にシャッターが切れなくなるのは稀であること、その際バッテリーチェックランプは点灯しないこと、バッテリーの出し入れをすると現象が直ること、これらを説明した。 我輩としては、レンズシャッターカメラであろうともミラー上昇はボディ単体で動作するため、レンズシャッター側の問題では無いように思える。何より、SQでは電池が無くとも単速1/500秒で動作するような構造である。 もしレンズ側の可能性があるとすれば、レンズの電気回路がボディ側回路に干渉して回路全体が一時的に死んだのか?そうだとすれば、バッテリーチェックランプが点灯しないことの説明にはなるが・・・。 まあそれはともかく、症状の説明について、相手は「なるほどなるほど」というふうに聞いていた。 見積りが出るか?そう思ったがやはり今日も出なかった。見積もりは後日連絡するとのこと。それで電話が終わった。 ウーム、補修箇所があるかどうかによってオーバーホールの値段が上下するというのは想像出来るが、それではカバーを開けて点検してみなければならないのではないか? そして、その時点で工賃は発生すると思うのだが。 大体の目安となる価格表など無いのかと思う。 生殺し状態はまだまだ続く・・・。 ---------------------------------------------------- [419] 2003年04月18日(金) 「生殺し(生か?死か?)」 「BRONICA SQ-Ai」のオーバーホールの件、先日から雑文408・雑文412・雑文418と、話題が続いているが、予想外に見積りに時間がかかっているため、こちらとしても動きが取れず生殺し状態だった。 生か、死か、早くハッキリさせたい。 我輩としては、見積額が3万円未満の場合にはオーバーホール治療によって生を選択、それ以上の場合には治療を諦め死を選択するつもりである。そのため、結論を出すために必要な見積額が無ければどうにもならない。 今回、やっと見積り金額が提示されるに至った。 しかしながら見積りの電話はタムロン(ブロニカ)からではなく、「イストテクニカルサービス」という聞き慣れない会社からだった。恐らく外注修理業者であろう。雑誌やインターネット上の情報から、比較的旧いタイプのブロニカカメラの対応をしているとのこと。もしそうなら、現行のSQ-Aiがそこに移送されたのは何を意味する? まあ、細かいことはどうでも良い。 聞けば見積額は2万円と言う。それならばオーバーホールしてもらおうか。単にバラして組み上げるだけでも動きも変わろう。 それにしても、2万円というのも大ざっぱな金額だ。これならば前回の電話にて、その場で提示出来る金額ではないかと想像する。てっきり、状況により細かい見積りを作成するか、あるいは金額に幅があるのではないかと思っていた。 色々な細かい計算による結果で、たまたまキッチリ2万円ジャストだったのか? (我輩の想像1) ・分解組立工賃 ¥15,000 ・シャッター回路調整 ¥2,500 ・各種ギア調整 ¥3,000 ・清掃 ¥1,000 [計¥21,500] (我輩の想像2) ・オーバーホール料 ¥20,000〜¥50,000 (交換部品により料金が異なります) しかし、これでやっと生か死かの決断が出来、心も落ち着ける。 結局のところ、最初に不調を訴えてオーバーホールという決断をするまでに1ヶ月半かかったわけだが、それは我輩がアマチュアだったから問題が深刻にならずに済んだ。もしこれがプロカメラマンだったら、いつまでもサブカメラで撮っているわけにも行くまい。 もっともプロならば、直接修理業者に持ち込み目の前で修理させるか、あるいは最初からアマチュアブランドのブロニカなど選ばないだろうが・・・。 まずは、見積額が提示されたことを喜ぶことにする。 これで、「生」を選択することが出来たからな。 ----------------------------- [420] 2003年04月22日(火) 「ネイチャー・フォト(2)」 桜の花が散り、若葉が茂り始めている。暑い日差しも続くようになり、萌える緑に包まれる初夏が間近であることを感じさせる。 初夏は、我輩の最も好きな季節である。 ゴールデンウィークも近付き、自然の撮影についても好条件となる。今回は、どんな写真が撮れるだろうか。 今から心が躍る。 以前、雑文037「ネイチャー・フォト」にて、目に見えぬ風が砂丘に風紋を刻むが如く、目に見えぬ物理法則が表現形として我々の目に映る"自然の姿"を形作ると書いた。 自然の姿とはあくまで、自然界というシステムが正常にサイクル(循環を以た動作)している結果の姿に他ならない。 我輩が自然に対して心打つ時は、自然のダイナミズムによるところが大きい。 そういったものに僅かでも触れた写真は、「風景写真(ランドスケープ・フォト)」ではなく「自然写真(ネイチャー・フォト)」である。 子供の頃、川の流れというのは我輩にとっては不思議な存在であった。 自分で庭の片隅にスコップで溝を掘り、そこに水を注ぐと小さな川が出来る。当然ながら、水が流れ去ってしまえばその川は干上がる。実に解り易い。 ところが、自然の川はそうではない。雨の日はもちろん、晴れの日でも川には常に水が流れている。水位に上下はあるものの、完全に干上がった川など見たことが無い。雨の降らない日には水をどこから補充している? 後になって地理の授業で学んだが、川は我輩の想像よりもずっと大きなスケールで存在しており、水は山の保水力によって安定して供給されていた。数日間雨が降らずとも、源流にある湧水(ゆうすい)は枯れることが無い。雨が山肌にゆっくりと染み込み、場所によっては江戸時代に降った雨が湧き出しているとも聞く。 それを知った時、我輩は自然のスケールの大きさとダイナミックな動きに心を打たれた。 想像を超えるほどの自然の広さ、深さ、そして時間。 それが普段目に入らないのは、大きすぎるからか、それとも小さすぎるからか、あるいは奥深いためか、または動きが少ないためか、逆に早すぎるためか。 いずれにせよ、自然の全体像を捉えるのは難しい。写真ではその断片でしか捉えることは出来ない。だが、その断片を用いて自然のスケールを垣間見せることが出来るのも写真の力である。 以前、平尾台での撮影について雑文で書いた。 鍾乳洞や羊群原(ようぐんばる)、ドリーネなど、いくつかの地形に注目し撮影を行ったわけだが、石灰岩が水に溶けたり析出したりすることによって造形されるというのは、平尾台のどの地形にも共通している。それらは自然の動きが痕跡として残った状態と言える。 我輩が最初に平尾台へ行ったのは、中学生の頃の科学部遠征調査の時であった。顧問教師の自家用車にて、我輩を含めた3人の生徒が平尾台を訪れた。 顧問教師は地面に落ちている白い石灰石を拾い上げ、「これが浸食されると赤土になる」と言った。我輩には、ガラスのように硬そうなその石灰石が浸食されるなどとは、にわかに信じられなかった。 <<画像ファイルあり>> 顧問の理科教師と愛車スズキフロンテ。 軽自動車に4人乗車であるため、平尾台への坂道に苦しかった。 それから5年後、予備校時代に我輩は再び平尾台を訪れた。前回は顧問教師の目で見た地形だったが、今度はじっくりと自分の目で見ながら歩いた。 そこには、確かに顧問教師の言ったような証拠が幾つも見られた。 大きな石灰岩表面には雨によって浸食された筋が無数にあり、赤土に埋もれつつある石灰岩もあった。この赤土は「テラロッサ」と呼ばれ、石灰岩が浸食された際、中の不純物が残されたものだという。 その時に撮影した1つが以下の写真である。 赤いテラロッサを背景にした白い石灰岩。自分で言うのも変だが素晴らしい出来だ。 まるで土から頭を出したタケノコのよう。そこが妙に動きを感ずる。自然の動きが象徴化され、感覚に訴えてくる。 <<画像ファイルあり>> 赤茶けたテラロッサに変わりつつある石灰岩 こういった感覚的な写真は、学術的には有用ではない。浸食による筋の刻まれた石灰岩を選べば、より直接的で学問的には理解し易い。だが我輩は、それでは絵にならないと考え、このようなタケノコを連想する形状のものを選んだ。 そうは言っても、これが世間的に評価される写真というわけでもない。普通に見れば、妙な形の白い岩がただポツンと立っているだけ。何の感動も無かろう。 そもそも世間では、「ネイチャーフォト」と言えば昆虫のような小さな生物の写真と相場が決まっており、地形の写真などは「風景写真」と一括りにされる。だが、風景として漠然と眺めるような写真では決してないため、どうにも納得がいかない。これも分類の弊害か(参考:雑文106「分類」)。 火山地形、堆積浸食地形、石灰岩地形、特徴ある植生など、我輩の興味をそそる対象は幾つもある。 それらは常に動き、変わり続けている。人間の一生ではその動きを認識出来ないため"静"の印象を受けるが、動きの痕跡を見付けることにより、自然のダイナミックな動きを知り感動を覚える。 我輩はたまに、光の美しい写真も撮ったりするが、それらの美しさは単に光の具合が美しいだけであり、あくまで表面上のものでしかない。 もちろん、美しさから感動を起こさせるのは自然を表現する一つの手段だが、スケールの大きさによって感動を起こさせるのは自然でしか出来ない表現である。その表現は理解者を選ぶものの、自然が単に「目に美しいもの」ではなく、「心から素晴らしいもの」であることを改めて認識させることだろう。 我輩は、写真という手段を用いることにより視点を固定し、情報量を多く取り込み、スケールの大きな動きをダイナミックに表現して記録したい。それこそが、我輩的分類としての「ネイチャー・フォト」である。 人に理解されるかどうかなど、問題ではない。 自分だけのネイチャー・フォト撮影。ゴールデンウィークが待ち遠しい。 ---------------------------------------------------- [421] 2003年04月23日(水) 「意味の置き換え」 我輩は大学時代に島根県松江市に住んでいた。 松江市は茶と菓子の街として知られ、博覧会ブームの時には「菓子博覧会」も開催された。 そういう縁によるものか、我輩も裏千家茶道のサークルに所属し、アルバイトも和菓子店で和三盆糖(高級和菓子の材料)の練り作業をやっていた。 大学全体の比率こそ関西の人間が多かったが、松江の大学だったため茶道のサークルはさすがに地元の人間が多く、独特な方言をよく耳にした。 「来らん(来ない)」「あげ(あれ)」「さげ(それ)」などはかなり違和感を覚えたが、聞き慣れない言葉であるから、意味さえ分かれば混乱は消える。 だが、「えらい」には混乱させられた。以下の会話はその一例である。 「夏休みの茶道の合宿、3日間みっちりと練習させられるらしいわ。」 「うわ、エライなあ。」 「?・・・偉い?誰が?」 「誰がって、3日間もエライだろ?」 「・・・何言っとるん?」 その後すぐに分かったのだが、「えらい」というのは「疲れる」あるいは「大変な」という意味だった(九州の南部では「こわい」と言うらしいが、これもまた混乱しそうな方言だ)。 なぜこの言葉がそんなに混乱を招くのかと言えば、標準語と同じ単語でありながら意味が違うからである。あらかじめその方言を知っていたとしても、とっさに言われると取り違えてしまう。 また関西でも、相手のことを「自分」と言ったり、面倒なことを「邪魔くさい」と言ったりするのを聞く。 予備知識があったとしても、出し抜けに「邪魔くさい」などと言われれば他の意味と取り違えてビックリする。 そう言えば、パソコンの分野でも同じようなことがある。 ある時、職場の同僚がパソコンの調子が悪いと言ってきた。 「なんか、ハードの動きが怪しいんだ。」 「ハードってどれのことか?」 「どれってメーカー名を知りたいのか?確か、IBMかな。」 「いや、パソコンでも色々な機器があるだろう?」 「だから、ハードだって。」 「ハード・・・もしかしてハードディスクのことか?」 「だからさっきから言ってるだろ。」 普通、パソコンの分野で「ハード」と言えば「ハードウェア(機器)」のことを指す。もしハードディスクをハードと呼ぶならば、それは商標侵害と言える。最初にハードを名乗ったのはハードウェアのほう。後から来た者が何を言うか。 だがハード派の人間の多くは、ハードと呼んでも意味は通るとして譲らない。「文章全体から容易に推測出来る」と。 驚くことに、情報処理1種その他資格を所有しSOHO活動している我輩の母親でさえも、完璧なハード派である。もはや現代用語に於いて、「ハード」という用語には「ハードウェア」の意味は無いのか? もしそんなことになれば、「ソフト」が「ソフトウェア」では無く「ソフトクリーム」となっても不思議ではなくなる。 現在は「ソフトを落とした」と言えば「ソフトウェアをダウンロードした」という意味だが、それが「ソフトクリームをキーボードに落としてしまった」という意味に変わるわけか。立派なコンピュータ用語だ。 さて、写真の分野でも同じような悩みがある。 よく聞くのが「露出」という言葉。 以前、知人と写真の話になった。その知人は最近写真を始めた人間で、色々とスナップしているようだった。 「ブレることが多いんだけど、これってシャッタースピードを上げればいいのか?」 「おお、分かってるじゃないか。」 「シャッターを上げたら、その分、露出を開ければいいんだろ?」 「ん?いや、露出は一定にさせなきゃ。そのために絞りを開けないと。」 「露出を一定にしたら光が足らなくなるんじゃないのか?」 「・・・はい?(語尾上げ)」 良く聞けば、彼の言う「露出」とは「絞り」のことだった。 最初から全く意味不明ならばまだしも、意味が通りそうで通らないので混乱を招く。前述の「エライ」や「ハード」と同じような状態。 これは初心者による用語違いであろうかと思うのだが、身近では頻繁に聞こえてくる。もしかしたら、これは写真分野の方言として既に確立された用語なのであろうか? 今はまだ初心者の間で使われるのみだが、デジタルカメラの台頭により初心者層が広がり、露出派が絞り派を上回ることになるかも知れぬ。 それがどんな世界なのか想像するのは辛いが、恐らく、他の用語も同様に荒され別の意味に置き換えられていることだろう。 言葉は時代と共に変わるものというのは理解出来る。だが、既存の言葉を置き換え新しい意味を持たせるのは余計な混乱を招き、小さな疲労を蓄積させていく。 例えその場で意味が分かったとしても、そういう危機感から、素直に納得して会話を進める気持ちにならない。 ---------------------------------------------------- [422] 2003年05月01日(木) 「古事記」 以前の話になるが、雑文359「アーカイブス・プロジェクト」では、退色したプリント写真をパソコンにて復活させた。 真新しいそれらの写真は最新の印画紙であるため、恐らく200年くらいはクオリティを維持すると思われる。 だが、退色した元のプリントを棄てることは出来ぬ。 そもそもプリント写真は、反射光によって鑑賞される。リバーサルフィルムなど透過光ほどの豊かな階調があるわけではない。そのため、パソコンで取り扱うデータ(一般的に24bitカラー)の中に、取りこぼし無く収めることが出来る。注意深くスキャンすれば、オリジナルに近いクオリティを得られるだろう。しかも、パソコン上で色調整を行い、カラーバランスの崩れたものを元に戻すのであるから、元のプリントは棄ててしまっても問題は無かろう。 ならば、何故に元のプリント写真を棄てられないのか。 以下、「文字」を例にして考えてみることにする。 文字は、画像と比較して極めてデジタル的と言える。 8世紀初めに編纂(へんさん)されたとされる日本最古の史書「古事記」では、その内容は活字として書き写されたものが我々一般人も所有出来る。現代漢字とは多少違うことはあろうが、伝える中身が劣化することは無い。情報的には、書き写されたものと原本とは同一と言って良い。いや寧ろ、原本の文字がかすれ消えかかっていようとも、文字というものは書き写された時点で新品に生まれ変わる。 だが、古事記の原本は国宝に指定され、非常に大事に扱われている。なぜならば、古事記の価値は内容だけのものではないからだ。 千数百年もの時を経たその書物は、タイムスリップしてポンと現代に現れたのではない。現代にまで連なる長い歴史の中で、連続した時間の中でそれは存在し続けてきた。だからこそ、いくら内容が複製出来ようとも、原本の貴重さに変わりは無い。 一方、我々の身の周りに目を移すと、そこらに散らかっている物の中で、一番古い物に何があろう。せいぜい、"昭和五十年"などと刻印された十円玉くらいのものか。少なくとも、自分の人生の長さを越えて存在するような物は極めて稀(まれ)である。 そう考えると、古事記の原本が千数百年前のものであるということは、稀の中にあって更に稀と言うほか無い。 さて、ここでアーカイブス・プロジェクトの話に戻してもう一度考えてみる。 修復後の元の写真は、今や写真情報としては用無しに近い。コンピュータ処理によってオリジナルの色を取り戻し、真新しいプリント写真として生まれ変わった。 だが、我輩の子供の頃の写真は、その時代にプリントされた写真である。我輩の生きた時代を経て今に存在している。それは、古事記のように稀な存在。そんな長い時間存在し続けてきた写真たちの存在を、今この場で断つ勇気は我輩には無い。 もしこれがリバーサルフィルムによる写真であれば、その想いはもっと強かろう。 なぜならば、リバーサル写真は撮影時に使ったフィルムそのものが鑑賞用でもあるからだ。すなわちこのフィルムが、その場その時間にあった、いわゆる記念品とも言える。 ならば、デジタルカメラの場合はどうか。 デジタルカメラで言うところの写真とは、当然ながらデジタルデータそのものである。データは壊れ易いものの、うまく残ればそのクオリティは撮影時のままを保つ。退色した写真の修復作業など必要無い。 だがそこには、人生を共に歩んできたという感慨は無かろう。 印画紙に焼き付けられた写真が古事記に相当するならば、デジタルデータのみの写真は口述伝達に相当すると言える。実体は存在せず、データを収めた媒体も時代と共に替わって行く。 こういうデジタル写真に、もし感慨を込めようとするならば、撮影した時代を過ぎぬうちに随時印画紙に焼き付けねばならぬ。あたかも口述伝達を書き留めるかのように。 もっとも、感慨の無い写真を目指すのがデジタルカメラの特長を活かす使い方ではあるのだが・・・。 ---------------------------------------------------- [423] 2003年05月05日(月) 「行く末」 ゴールデンウィーク明けに携帯電話の新機種が発売されるらしいが、それは100万画素にもなるという。 「携帯電話が100万画素」とは変な表現だが、間違った表現ではない。 これはもちろん、「カメラ付き携帯電話」のことを指しているのだが、現在では単に「ケータイ」と言えばカメラ付きであることを意味する。カメラが内蔵されていない機種であれば、それは特殊な存在であるため、区別するために「カメラ無しケータイ」と書かねばならぬ。 もはや、カメラの付いていない携帯電話を持つのは、ひねくれ者か時代遅れの者しかいない。我輩などは携帯電話そのものを持てぬゆえ、さしずめ化石人というところか。 我輩は今回のゴールデンウィーク中に上野動物園に行ったのだが、そこでは携帯電話で記念撮影する光景が多く見られた。 ヘナチョコ妻が売店に入っている間、携帯電話で撮影する者たちを観察してみたのだが、その数は本当に多い。厳密にカウントしたわけではないが、雰囲気的にはデジタルカメラと携帯電話の割合が6:4という印象だった。 <<画像ファイルあり>> 以前もカメラ付き携帯電話の話題について書いたのだが、この時はまだ実感として感じていなかった。だが実際、目の前でこういう風景を目にすれば、デジタルカメラが必要とされなくなる日は来るだろうと確信した。 まだ現時点では、デジタルカメラを使う者が多い。 恐らく、100万画素を超える画質を望む者やパソコンに画像を保存したい者が使っているのだろう。しかし、いずれは携帯電話も画素数を増やし、保存も自由に行え、デジタルカメラに肩を並べることになる。今見る風景は、あくまで瞬間的な姿に過ぎない。 消費者からのニーズさえあれば、競争の激しい携帯電話業界は絶対に動く。逆に言えば、ニーズに応えられぬ企業は死ぬ以外無い。 <<画像ファイルあり>> もちろん、画質はCCD画素数だけに拠(よ)らない。レンズの分解能や画像圧縮アルゴリズムなどはかなり大きな影響を与える。実際、携帯電話会社のサイトへ行って100万画素のサンプル画像を見てみたが、画面サイズが大きいだけで画質が伴っていない。短焦点レンズのパンフォーカスと高圧縮ファイルの組み合わせではこんなものか。 しかしそんなことを気にするのは、写真を趣味とするような一部の特殊な者のみ。一般人はカメラの性能を画素数で見る。それが現実というもの。 <<画像ファイルあり>> かつて、デジタルカメラが普及したのは、その手軽さが受けたためであった。 そのため、デジタルカメラのユーザとして一般人が多く群がった。メーカーは「新たなユーザを掘り起こした、裾野を広げた」などと喜んだが、より手軽なカメラ付き携帯電話が出てくると、途端にユーザが流れ始めた。 結局は、忠誠心の薄い外様大名(とざまだいみょう)の如く、市場の地盤は極めて弱かった。 <<画像ファイルあり>> もっとも、カメラ付き携帯電話が売れてもメーカーはそちらに生産をシフトするだけであり、実質的な影響は無かろう。 だがしかし、デジタルカメラに趣味性を求めた一部の者にとって、デジタルカメラの行く末が携帯電話であるとするならば悲劇と言わざるを得まい。我輩としては、「手軽さを求めてデジタルカメラへ移ったのであるから、もう、とことんまで行け。」と言うほか無い。 まあ最初は、携帯電話を突き出すバカっぽい姿に抵抗があるだろうが、そのうち慣れるから心配するな。 <<画像ファイルあり>> ところで銀塩カメラのほうは、デジタルカメラブームの際にミーハーが抜けてくれたおかげで、市場が大幅に縮小したものの逆にマニア度が高まり地盤が固まった。いずれは現像所も整理・統合され、特に地方の者には不便も多くなろうが、元々多少の不便さは覚悟の上。何の障害にもなるまい。 我輩も、今回撮影した写真は連休明けの仕上がりと言われた。趣味の写真ゆえ、別段急ぐ気持ちも無い。 デジタルカメラの行く末を案ずるも、結局は他人事。ただ、かつての盟友のことでもある。全く気にならぬというわけでもない。 意地になって携帯電話で画素数を語るだけの趣味に矮小してしまわぬことを祈るばかり。 ---------------------------------------------------- [424] 2003年05月11日(日) 「皮肉と警告」 少し前の日本では、飲み水はタダであった。水道水をそのまま利用すれば良く、飲料用の水として別に購入することは無かった。 そんな時、外国では飲料水がジュースと並べて売られているという話を聞いた。外国の水道水は飲料に適さないのだと言う。当時の我輩は、「ジュースと同じ値段で水を買うとはバカな話だな」と思ったものだ。 ところが現在では、当たり前のようにミネラルウォーターが売られている。 バカな話が現実となった。 東京都水道局のアンケート調査(平成13年)によると、ミネラルウォーターを購入しているのは55パーセントとほぼ半数。年々、水道水に対する安心感は低下している。 この調子では、SFジョークのように、いつか空気さえも有料となる日が来るかも知れない。まさに、星新一の小説の世界。だが、ジョークとしていつまで笑っていられるか・・・。 我輩は今まで何度か、写真・カメラ関係に於ける大胆な未来予測を立ててきた。その未来予測には「まさかこんな未来にはなるまい」と我輩自身でさえ苦笑したこともある。以前書いたカメラ付き携帯電話の話題もまさにその類(たぐい)と言える。 だがこれらは、我輩の皮肉と警告を込めたメッセージでもある。 「こんな世の中になっても良いのか?」と。 意見を述べる場合、否定の言葉を並べるのは簡単なことだが、それによって何かが変わるとは思えぬ。否定される側にいる人間は、否定されれば反発する以外無い。だが、皮肉や警告として「こんな世の中になっても良いのか?」と問いかければ、また答えも違ってこよう。 未来がどんな世界になるかは誰にも分からぬ。 だが唯一確かなことは、未来を創るのは他でもない我々一人一人の意識と行動である。それぞれの問題に対して意識を持たぬまま過ごすならば、水を金で買う世の中になったように、バカな話が現実となろう。 我輩は、それぞれの良心を信じ、皮肉と警告の意味を込めて未来の姿を描く。 ---------------------------------------------------- [425] 2003年05月12日(月) 「正気のうちに書いた文章」 先週末、オーバーホールに出したブロニカSQ-Aiがやっと戻ってきた。 新品の電子基盤独特の匂いがする。基盤が交換されたのだろうか。あるいは防湿処理が施されたのだろうか。 不具合の現象自体が再現されなかったということから、また同じ現象が起こる可能性は残っている。しかし、オーバーホールしたのであるから、今度不具合が起こればレンズのほうを疑ってみようと思う。 さて、我輩は現在、66判をメインに使っている。 特に、中・大判用スキャナを導入してからは、ブローニーフィルムの消費量は35mm判を大きく上回った。月平均にして約30本ほどか。 ただし、66判は120フィルムで12枚撮りとなる。36枚撮りの35mm判フィルムと比較すれば1/3の枚数。そうなると、35mm判で言えば月平均10本相当となろう。 現在、ヨドバシカメラで見る限り、最も安価なリバーサル120フィルムは「Kodak EPP」である。10本カートンが税抜価格\3,800となっている。もっと粒子の細かいフィルムがあるが、それを選ぶと10本カートンが\4,500くらいになり経済的負担が増大してしまう。 こんな時、645判ならば16枚撮れるのだが・・・。 実は、以前から645判(いわゆるセミ判)の誘惑に悩まされてきた。 645判ならば、フィルムの枚数が増える利点はもちろん、メーカーや製品の選択肢も広く、中古市場も大きい。特に、製品の選択肢が広いというのは大きな魅力。 以前、苦労して魚眼レンズを手に入れた話を書いたが、もしこれが645判の一眼レフであれば何の苦労も無い。MFはもちろん、AFでの選択肢もある。 最近、視力が落ちてきたためか、微妙にピントの合っていないカットが増えてきた。視度補正レンズを変えても日々の体調により変動する。かといって視度を強くし過ぎると視力を悪化させかねない。視度調節機構を備えたファインダーもあるにはあるが、ファインダー倍率が低いため迅速なピント合わせは難しい。 こんな時、AFがあればかなり助かる。 もちろん、三脚に固定して風景を撮るような使い方であれば、ピントグラスにルーペを当ててピントを確認出来よう。風景専門ならばそれで足る。一コマ一コマを噛みしめるようにジックリとシャッターを切るのもまた楽しいことである。 しかし我輩は、人物などの動く被写体も撮影することがある。 また645判の多くは、自動露出(マルチモード)やフィルム平面性を保つためのバキュームシステム、デジタルバック対応、ワインダー内蔵など、機能としては最新35mmカメラに引けをとらない。それでいてダイヤル式による操作体系が残されているカメラもある。 さらに、645判はレンズシャッター式カメラの選択肢も多い。 特にフジフィルムには特徴ある製品が多くあり、GS645などは折り畳み可能でコンパクトに収納出来るのが面白い(蛇腹を使っているので消耗するようだが)。最近ではレンズシャッター機のほうでもAF化が進み、ズーム搭載のAFカメラさえある。 以上のように、645判はまさに魅力溢れるフォーマットと言える。中判カメラを始めたいという者には、迷い無く645判を勧めるだろう。35mmカメラと同じことをそのまま要求するには645判が最適。 しかし我輩は、中判を始める際に熟考に熟考を重ね、その結果66判を選んだ。 まず一つの理由として、中判カメラの大きさを少しでも切り詰めるためにウェストレベルファインダーを使いたいのだが、そのためには、画面の縦横が関係無い正方形の66判でなければならなかった。 また、我輩の印象としては645判は少し画面が小さく思えた。かと言って67判ではカメラが大きくなり過ぎるため、一眼レフの手持ちの限界として66判に落ち着いたのである。 (もちろん、当時は中判カメラにAFなど存在しなかったため、その点は考慮に入っていない。) そういうわけで、もしここで645判の魅力に負けて導入することになれば、新たな妥協が生ずるのは避けられまい。 645判と66判とでは僅かな面積の差ではあるが、このために今まで苦労や努力をしてきた。それが「結局は645判でも良かった」などと自分が認めてしまえば、今までの行為は何のためのこだわりだったのかという疑問にブチ当たる。 ・・・しかしそうは言っても、フジのズーム搭載AFカメラ「GA645 Zi Professional」などは魅力的で悩ましい。今のところ、金が無いので何とか正気を保ってはいるが、何かの間違いで金を手にすることがあれば、どうなるか自信が無い。 もし、「我輩所有機」に645判カメラが追加されたとしたら、その時はすべてを察して笑ってくれ。 ---------------------------------------------------- [426] 2003年05月18日(日) 「愉しみの回収」 現在、新たに手に入れた「写真工業」5年分をスキャナ作業中。 やっと3年分が終了したところである。しかし、あと2年分残っていることを思うと気が重くなる。 もちろん、空白の号が埋まるのは嬉しいこと。特に、「Nikon F3」が発売された1980年のものが手に入ったことは、一つの達成感すら感じさせる。 だがスキャナ作業によって我輩自身の時間が割かれるのは結構ツライ。 いくらパソコンであろうとも、手放しで書籍を電子化出来るわけではない。やはりそれなりの手間と時間をかけねば電子化は不可能である。 そして、今回の「写真工業」の電子化が終わったとしても、他に電子化を待っている書籍が山とある。まさに、終わり無き闘い。 そもそも我輩が書籍の電子化を始めた動機は、少容積化とハンドリング向上のためであった。それはつまり、閲覧性を高めることが目的である。 デジタルデータは重さも容積も無い。唯一、それを記録する媒体に依存する。それゆえ、媒体の密度が高くなれば単位情報量当たりの重量・容積が小さくなる。将来的には、書斎の本全てが手のひらに乗ってしまうことも夢では無い。 こうなれば、パソコン上でサッと目的の書籍を開いて読むことが可能となる。本棚の奥の方に埋もれて取り出せないなどということも無くなる。 しかし現実は、デジタルデータ化の作業が非常に膨大で、遅々として進まない。もちろん、可能な範囲で機械装置による合理化を進めてはいるが、手作業や人間の判断が必要な割合が大きいために合理化にも限界がある。 そんな時、ふと思う。 「もしかして、このままスキャン作業で一生を終えてしまうのか・・・?」 もしそんなことになれば、本末転倒も甚だしい。 閲覧することを目的とした作業であるはずが、作業そのものに追われ、閲覧する時間を失う。後々の愉しみのために作業をしているというのに、その作業で一生を終えてしまえば愉しみの回収が出来ないではないか。 しかしながら、これは書籍だけの問題では無かった。写真の趣味でも、同じ状態に陥りつつあった・・・。 最近、フィルムの消費が以前に比べて多くなった。 一時期多用していたデジタルカメラの撮影テンポが影響したのか、シャッターを切る回数が増えている。 それに加え、我輩特有の「後悔無く生きよう」とするために、遺しておきたい現在の風景(秩父鉄道や別府温泉、万博タワーなど)を次々に増やした結果でもある。 気が付けば、我輩は写真の撮影と整理することに追われ、それを閲覧する時間を失っていた。 写真の整理が完了すれば、その時点でとりあえずホッと安心する。そして、次の撮影に気持ちが向く。ずっとその繰り返し・・・。 以前にも書いたように、我輩が写真を始めたきっかけというのは、「写真を観る」ためであった。これは、誰でも同じであろうと思う。最初にカメラを買って「さあ、何を撮ろうか」と考える者はあまりいない。いるとすれば、趣味に飢えていた者が、習い事として必要性も無く写真という趣味を選んだ場合くらいか。 (もちろん、撮影行為そのものに面白味を感じることは必要なことではあるが、それはあくまで写真という結果を得るための副産物でしかない。自分自身がその写真を観たいと思わない写真など、撮って何の意味があろうか。) ところが、撮影と整理に追われるようになると、肝心の「観る」という最大の目的が疎(おろそ)かになってしまった。 後でゆっくりと鑑賞したい。だからこそ、我輩は写真を撮る。特に我輩は、写真の情報量に趣味性を見出し楽しむのであるから、時間をかけて写真を鑑賞したいという思いが強い。 世の中には、定年後に写真の趣味を始める者もいるに違いない。 我輩はそれとは逆に、定年後は趣味としての写真撮影はパッタリと辞め、本来の趣味である写真鑑賞に移行したいと思っている。もし定年後に写真を撮るならば、愉しみの時間がまた先に延びるではないか。 若い頃に撮り溜めた写真を、ゆっくりとした時間の中で鑑賞する。我輩にとって、これ以上の愉しみはあるまい。 スキャン作業に追われる現在のように、愉しみを回収出来ぬ老後にはしたくない。 ---------------------------------------------------- [427] 2003年05月28日(水) 「ベストミックス」 5月から職場が品川へと移転し、それに伴い通勤路も変わった。他の社員にとっては慣れない部分もあるだろうが、我輩は半年前までは品川の隣駅である田町へ通っていたため、当初から足に任せるだけで無意識に品川に到着出来た。 (ただし本当に気を抜いていると、手前の田町駅で降りそうになってしまう。) 品川は現在、駅周辺の再開発が行われており、新しいビルにはいくつかの大きな書店がオープンした。そのうち一つは、夜10時まで営業しているとのこと。便利ではあるが、自宅の本がこれ以上増えぬよう気を引き締めて立ち読みせねばなるまい。 ・・・以上は我輩の近況報告であったが、これを前振りとして話を続けることにする。 先日、いつものように雑誌などを立ち読みをしていて、そのうちの「月刊天文」にて一つの記事が目に止まった。 業務用カメラとして知られるフジの6x8一眼レフカメラ「GX680 III」に、スーパーCCDハニカム採用のデジタルカメラバックがオプションとして発表されたとのこと。記録画素数は最大で約4000万画素だという。 CCD自体の画素数は2000万画素とのことであるが、ハニカムCCDというのは素子の特殊な並び方を利用して出力画素数を増やすため、この場合は事実上4000万画素として機能する。 現在、我輩は銀塩中判写真をスキャナで取り込む場合には3000x3000ドットになるよう調整している。画素数で言えば900万画素か。 これは我輩所有のスキャナ性能としての上限でもある。これはフジの出力サービス「メディアプリント」で言うとA4サイズ(210x297mm)に対応出来るデータ量であるが、もっと大きなプリントで出したい場合はお手上げとなる(ただし現状ではメディアプリントの最大サイズはA4まで)。 こう考えると、4000万画素というのは非常にデータが大きく魅力的に思える。 しかしながら、デジタルカメラの画像というのはそのまま使うことが出来ないのは定説である。ある程度縮小処理をして引き締めねば、デジタルカメラ特有の臭いが抜けない。それは平面CCDの特性か、あるいはJPEG圧縮の影響か。 いずれにしても、4000万画素がそのまま使えるわけではないということは確かで、少なく見積もって3000万画素として捉えたほうが現実的。少なくともそう考えたほうが、後でガッカリせずに済む。 しかし3000万画素として考えても、利用出来るデータは十分に大きく利用価値が大きい。 もちろん、画素数だけでデジタルカメラを語れないことは確かだが、画素数の少ないデジタルカメラは用途が限られることも確かである。少なくとも写真をプリント出力することを視野に入れるならば、画素数が多くなければ話にならぬ。 直接デジタルデータに吐き出すデジタルカメラであるから、撮影の時点で最大のデータ量を得なければ取り返しがつかない。撮影後にスキャンし直せる銀塩であれば問題は深刻ではないが、デジタルカメラでは画素数の大小がプリント可能サイズの大小となってしまう。 そういう意味で今回の中判4000万画素デジタルバックの記事を見て確認したことは、中判カメラの世界に於いてもデジタル化は実用的であるということだ。今後、中判の分野に於いても、デジタル化の波が押し寄せてくることだろう。 だが、銀塩派としての憂いは無い。 元々、中判一眼レフカメラの場合、フィルムを装填する部分は通常別のパーツとなっており、フィルムの種類を変更したりポラロイドで撮影したりも出来る。ここで、フィルムの代わりにCCDユニットが取り付けられても、特に違和感は無かろう。 中判に於けるデジタルカメラバックとは、数あるフィルムバックの中の一つの種類に過ぎないのである。 使い方として例を挙げれば、「フィルム撮影のバックアップとしてデジタル画像も撮る」、「デジタル画像のバックアップとしてフィルムも撮る」、「ポラ切りの代わりにデジタル画像を撮る」、「マルチユースに対応する」などと、非常に便利な使い方が考えられる。デジタルのみ、あるいは銀塩のみで考えるよりも遙かに有用であり無理が無い。これこそまさに"ベストミックス"と言える。 35mmカメラの場合、一眼レフ形式のものを比較しても、銀塩カメラとデジタルカメラは全く別の構造であり、同じボディを共用することは出来ない。そのため、「どちらを選択するか」という議論になり易い。 中判カメラの交換バックのように、1台のカメラが銀塩カメラとデジタルカメラを兼ねるならば、敢えてどちらかを選ぶ必要も無い。 仮に、将来世の中がデジタル社会となり、中判カメラでさえデジタルバックが標準装備になるようなことがあったとしても、メーカーがオプションとして銀塩フィルムバックを用意するのはたやすい。複雑で歩留まりの多い精密電子機器ならばいざ知らず、町工場でも造れそうないくつかの部品をネジ留めしてあるだけの単純なもの。片手間にでも造ってラインナップに入れてくれるだろう。 以上の理由により、我輩は中判カメラがデジタル化することは大いに喜ばしいことであると考える。 ---------------------------------------------------- [428] 2003年06月08日(日) 「手間を強いるデジタルデータ」 最近、あまりCD-Rを使わなくなった。 CD用バインダーが数冊にも増え、収納場所の問題が深刻化してきたためである。現在、その問題を解決すべく保存媒体をDVD-Rへ移行させている。 CD-Rを使い始めた頃は、パソコンのハードディスク自体の容量がやっとギガバイトを越えるかどうかという程度で、取り扱うデータの種類もワープロやテキストなどがほとんど。そんな時代では、CD-Rの640MBの容量でさえ持て余した。 しかし現在では、我輩のパソコンのハードディスク総計は200GBを越えている。格納されているデータの種類も、写真やビデオなど容量の大きいファイルが多くなり、CD-Rでは1枚に入りきれなくなってきた。 CD-Rはそれぞれに内容をまとめてあり、写真や書籍、音楽、ビデオ等に分けている。写真も、被写体や撮影日時等によって分けられており、640MBのCD-R容量を単位として区切る。やむを得ず複数枚になり枝番を附(つ)けたものもある。なるべく容量に無駄が出ないようにしなければ、いたずらにCD-R枚数が増え効率が悪い。 このようにして苦労してまとめたCD-Rではあるが、やはり長い年月が経つと数百枚にもなる。もしCD用バインダーに収納せずP-ケースのままで保管していたら、今よりももっと大変な状況に陥っていたろう。 これらのCD-Rは、DVD-Rにまとめてしまえば計算上は1/7に縮小出来る。だが現実はそうならない。 CD-Rで苦労した分類は、やはりDVD-Rでの分類の苦労でもある。 DVD-Rは4.7GBもの大容量であるから、複数枚のジャンルをひとまとめに出来るものの、容量が有限であることに変わり無い。その上限にギリギリまで近付けることが出来れば理想的だが、ほんの僅かでもDVD-Rの容量をオーバーすれば、2枚目が必要となる。そうなると、溢れた分の2枚目のディスクには数MB程度しか格納されないことになる。 2枚目の格納先をCD-Rとしたところで枚数が増えてしまうことに変わり無く、DVD-Rへの移行の意味を薄めてしまう。 ちょうど今行っている作業は、複数枚のPhoto-CDからDVD-Rへの移行である。 Photo-CDは、最大100枚の35mm判写真をCDに焼込んだ媒体である。当初はテレビで閲覧することを目的としてデビューしたシステム(Photo-CD内の1BASE画像はテレビ表示用のサイズ)ではあるが、パソコンでデータが取り扱えるようになっているのは有用だった。音楽CD(CD-DA)のようにヘッダ部しか見えないというのでは困る。 デジタルカメラやスキャナーが一般的でなかった時代に於いて、Photo-CDは写真デジタル化の唯一の手段であった。 ところがPhoto-CDをDVD-Rにまとめようと思うと、前述のように容量が中途半端となった。何とかDVD-R1枚に収めたいのだが、ほんの僅か容量が足らない。フィルムスキャナを使用している現在ではPhoto-CDはもはや新たに増えることは無く、2枚目はいつまで待っても満たされることは無いだろう。かと言って2枚目の残り容量を別のスキャナ画像で満たそうとしても、今度はそちらが中途半端となり具合が悪い。 更に、インデックスプリントがPhoto-CDの枚数x4枚ほどある。これらを保管するにも困るのでスキャンしてデータ化し、同じDVD-Rに格納した。これもまた手間だがやらざるを得ない・・・。 以前、デジタルカメラで撮影したデータの消え易さについて書いた(参照:雑文095)。そろそろ、初期のCD-Rで読込みに失敗するものが出始めていることもあり、DVD-R化のプロジェクトは急務である。 しかし、いくらデータメンテナンスとして保存媒体を換えようとも、その作業にかかる手間や悩みが大きければ長続きするはずが無い。そういう意味も含め、我輩は「本当にデジタルデータは数十年保つのか?」という思いを持ち続けている。 こんなことを言うと、「自分の撮った写真を永く遺したいとは思わぬ。少なくとも、自分が死んだ後はどうでも良い。」と反論も出よう。 だが、写真は趣味であると同時にその時代の文化を伝える重要な資料でもある。どんな写真であろうとも、後世に残れば貴重な資料である。文化を軽視する刹那的思想は、同じ人間として許すことは出来ぬ。 ---------------------------------------------------- [429] 2003年06月10日(火) 「廃線撮り」 10年ほど前、大学時代の友人「ヤス」が東京に来た。 ヤスの勤める会社が晴海のビジネスショーに出展するとのことで、ヤスはその説明員であった。 我輩はヤスに会うため会場に出向いた。 久しぶりに会ったヤスは昔と変わらず、まるで大学時代に戻ったような気持ちになった。 しかしヤスは説明員であるために長話しも出来ず、ヤスの仕事が終わった後に近くの豊洲駅で待ち合わせをして一緒に食事でもしようということになった。 我輩は会場を一巡りし、適当に豊洲駅まで行った。 時計を見ると待ち合わせまでかなり時間がある。仕方なく、そこら辺を散歩してみることにした。 海の匂いがする方向に進んでいくと、運河が見えてきた。工場や団地も見えた。そのまま進むと、団地と団地の間に線路が見えた。よく見ると、それは途中で途切れており雑草も生い茂っている。廃線らしい。 その線路は道路のために幾つも途切れており、その途切れた線路の先を追いかけ続きを見付けて時間を潰した・・・。 我輩の感ずる廃線の魅力とは、想像力を刺激するということに尽きる。 豊洲の廃線の場合、我輩の見た線路は途切れ途切れになっていたが、最初からあのような状態であるはずがない。我輩は遺された線路の断片から過去に存在したであろう完全な姿を想像する。それはあたかも、地層から出土する化石の断片から、太古の生物を想い描くことに似る。 しかしながら、廃線の跡というのは一瞬の風景である。時間と共に風化し土や草に埋もれる。完全に埋もれてしまえば、もはや想像の手掛かりすら無くなる。現状を保存したくとも、自分はその施設や土地の管理者ではないし、もし仮にそうであったとしても旧いものを遺し維持する財力は無い。 我輩の立場として現状を固定するには、取りうる手段は写真以外に無い。 我輩が写真を撮るようになった動機は、「光景を時間をかけてゆっくり観る」ということと、「光景を永く保存する」ということである。このことは、以前から何度も雑文にて書いている。 廃線を撮影したいと思うのも、この2つの動機が強く働いているからである。 廃線については幾つか出版物がある。あるいはインターネット上でも検索すれば廃線に関するサイトが幾つも見付かる。 活動を停止した被写体を撮った写真は、どうしても似たような構図になってしまのであるから、我輩がわざわざその場所に行って同じ写真を撮る必要も無い。 しかしながら、出版物は頁数が限られており、目的の物件がたった1ページしかないという場合もある。文章が多いと掲載写真も小さくなりがち。カラー刷りでない場合はもっと情報量がスポイルされる。 インターネットにしても、ページ数の制限が無いため写真点数は多いものの、写真のサイズが小さく情報量が少ない。 「光景を永く保存する」ためには、自分で撮影せずとも他人の撮った写真が手に入ればそれで良い。だが「光景を時間をかけてゆっくり観る」ためには、ある程度の情報量が必要である。他人の撮影した写真では、それが不足である。 同じ構図であろうとも、やはり写真を観るためには自分で撮る以外無い。 ---------------------------------------------------- [430] 2003年06月14日(土) 「廃線ロープウェイ撮影記(前半)」 東京都奥多摩には、1960年代の数年間しか運行されなかったロープウェイがあり、廃止後の今でもその施設が遺されているという。奥多摩湖を横断する600メートルほどのロープウェイだったが、橋で簡単に渡ることが出来るために用無しとなったらしい。 我輩がそれを知ったのは廃線関連の書籍であったが、その場所にはロープウェイの車体までも残っているとのこと。しかし残念なことに、その書籍に掲載された写真は1枚のみであり、それ以上の映像情報は無かった。 我輩はなぜかこの物件に心惹かれ、インターネット上でもいくつか情報を集めてみた。そこには、魅力的な写真が幾つかあった。 ただ、もっとよく細部を見ようとすると、パソコン画面のドットに阻まれ果たせない。ドットより細かいものは見えないのだ。 時間をかけて眺めようとする写真であれば、もっと細かい描写が欲しい。情報量が欲しい。これはもう、自分で出かけて行き自ら映像を採集するしか無かろう。 ただし奥多摩は遠い。東京都ではあるが我輩の住む千葉とは正反対の側にある。下手をすれば泊まりがけにもなろう。 そう思いながら調べてみると、片道3時間半くらいとギリギリ日帰り可能であることが判明。 だがよく考えると、以前から気になっていた「日原鍾乳洞」も奥多摩にある。両方行こうとすればやはり日帰りは難しかろう。かと言って一人での宿泊は出来まい。ビジネスホテルならばまだしも、旅館で一人で泊まるのは部屋数からいって無理である(平日ならば一人宿泊可能な旅館はいくつかあるようだ)。 仕方無い。今回は日原鍾乳洞は諦めて廃線ロープウェイに絞ることにする。 撮影予定日は土曜日とした。土曜日に撮影を行い、日曜日に疲れを癒やす。これが基本。 ちょうど、天気予報では次の土曜日が「晴れ」とのこと。この機会を逃してはならぬ。だが「次の土曜」とは、まさに明日。そう気付いたのはもはや夜中。早く寝なければ体力的に辛い。 結局、前日は何も用意出来ずに就寝した。 次の日、大急ぎでカメラやフィルムの準備をした。 インターネット上の情報によれば、現場は引きの無い場所らしい。当然ながら広角レンズは必須であろう。情報量確保のために中判で撮るのは当然のことであるが、念のため魚眼レンズも持って行こうと考えている。そうなると、重くとも一眼レフしか選択肢が無い。 その他には、列車の乗り換えやバスの停留所情報を慌ててメモして家を出た。 それにしても、どうも日光が弱い。晴れではなく曇りと言えるかも知れない。天気予報を信ずるならば、日中は気温が上昇して薄雲が晴れてくれるだろう。 途中、ストロボを忘れたことを思い出し、どうしようかと迷ったが、施設の中は真っ暗な場所もあるとの前情報を得ているため、取りに帰らざるを得なかった。 まず、北千住経由で新御茶ノ水駅へ出て、JR御茶ノ水駅から中央線快速で立川まで向かう。 立川に着いて下車すると、なんと、さっき乗っていた快速は「ホリデー快速奥多摩行き」となっていた。この列車にそのまま乗って行けば奥多摩に着くのである。しかし、気付いた時にはドアは閉まり、次の青梅行きを待つことになってしまった。青梅駅での乗り換えが1つ増えてしまったが、まあ、大幅に遅れるわけではない。 奥多摩駅に着くと、登山やハイキングの格好をした者が多くいた。 駅前にはバスの発着所があり、我輩は乗り場の列に並んだ。事前に調べておいたバスの行き先表示であることを確認した。 バスは後払い形式で、運賃は分からないが恐らく350円前後ではないかと予想した。 それにしても登山者たちは荷物が多いので、バスは非常に混んでいた。我輩は自分の荷物がカメラ機材にしては多いほうだと思っていたが、こういう団体に囲まれると、自分は軽装であると実感する。 やがてバスは発車。 15分ほど走ったが、なかなか奥多摩湖が見えてこない。それどころかカーブの多い道をバスはどんどん登って行く。だんだん不安になってきた。 「もしかして、バスを間違えたか・・・?」 しかしもし間違えたとしても、こんな山道で降りてもどうしようもない。路肩は狭く、走り屋の多い道ではヘタすれば交通事故に巻き込まれるだろう。しばらく様子を見るしか無い。 バス内の運賃表示板を見ても、整理券の番号が表示されるだけで次の停留所の名前は表示されない。唸るエンジンの騒音の中で車内アナウンスに耳を澄ます。途中で降りる者や乗り込む者がいないため、全くのノンストップ状態。 その間、聞いたこともない停留所名がアナウンスされている。もっと良く下調べしておけば良かった。我輩の降りるべき停留所は「深山橋」だが、「ふかやまばし」と思っている自分に今更ながら不安を覚えた。もしかして、他の読み方があるのではないか? 幸いなことに、バスは奥多摩湖に出た。 バスは間違っていない。問題は、無事に「深山橋」で降りることが出来るかどうか。 記憶の中にある地図によれば、橋を2つほど渡るはず。1つ目・・・2つ目・・・。だがそれらしいバス停は無い。ふと前方を見ると、もう一つ橋が見えた。バスのアナウンスは「みやまばしー、みやまばしー」と言っている。 我輩は、すかさず停車ボタンを押し、530円を払ってバスを降りた。 もし最後まで「ふかやまばし」と思い込んでいたとしたら、この場所を通り過ぎてしまったかも知れぬ。地図上の橋も1つ見落としていたようだ。 危なかった・・・。 バスが走り去った後、静かな場所にぽつんと1人残された。 静かなのは気持ちが落ち着く・・・と思う間も無く猛スピードで3台のオートバイが爆音を響かせながら疾走して過ぎた。少し腹が立ったが、耳を澄ませば、他にもオートバイの爆音が聞こえてくる。ここは、走り屋が集まる場所らしい。 さて、奥多摩湖のほうを見ると、なるほど、ロープウェイのものと見られるケーブルが湖を横切っているのが見える。これを辿れば、目的地に着くに違いない。 まずは手前側を辿ってみる。 ケーブルを見ながら歩くと、先程乗ったバスが来た道を戻ることになった。しばらく行くと、ケーブルを支えている鉄塔が見えてきた。その近くには別のバス停もあり、結局、「深山橋」は最寄りの停留所ではないことが判明した。 鉄塔の立っている場所は小高い丘になっており、その中をトンネルが貫いている。丘の上は木が茂っており良く見えない。恐らくその中にロープウェイの駅があるのだろう。そこへ行くにはどの道を行けば良いのか。 とりあえず、目の前にある駐車場の脇にある坂道を上ってみることにした。鉄塔の方向に上るのだから間違い無かろう。 鉄塔を上に見ながら、ケーブルをくぐり、民家の脇を通る。歩きながら丘の上を見ると、墓地があってそこへ行く道がある様子。しかし、そこから辿り着くはずは無い。当時の観光客が、墓場を通ってロープウェイに乗るとは考えにくい。だが、結局それらしい道が見付からないまま、ぐるりと丘の周りを回っただけでトンネルの向こう側に出てしまった。 仕方無く元来た道を戻り、駐車場にある食堂の店主にロープウェイの駅を訊いてみた。すると、道を渡った側にある坂道を上ると辿り着くとのこと。早速、トンネル前の道を横切り坂を上った。コンクリート舗装のその坂はかなり急で、滑り止めのためか、路面には溝がいくつも横に入っている。さすがの我輩も息が切れた。もし車ならば四輪駆動車でなければ上がれそうもない。 坂を越えるとそこにはテニスコートがあった。そして、その奥に怪しい建物がある。そこがロープウェイの駅「かわの駅」である。 そこはフェンスに遮られており、遠目には入れそうもないかと思われたが、近くに行ってみると、フェンスの扉には鍵は付いていなかった。 まず、建物全景を撮る。さらに、接近して撮る。 薄曇りのためか、我輩好みのカッチリした画になりそうもないのが残念。ファインダーで覗いた状態で既にそういう感じだった。 次に建物の中に入り色々と様子を見た。全体の様子を把握してからゆっくりと撮影をするつもりである。 夏も近いためか、木々は葉を茂らせ、施設全体がとても暗い。しかも僅かに曇り空であるから尚更。 露出計代わりのデジタルカメラで露出を確かめると、開放絞りでも1/15秒と出た。まずいな、これほどまで暗いとは思わなかった。手持ち撮影ではかなり厳しい。 仕方無いので、手すりや壁にカメラを密着させて慎重にシャッターを切る。しかし、どうもブレているような気がして、同じ構図で何枚もシャッターを切った。 ロープウェイの操作室に入ってみた。そこは目が慣れるまではほとんど真っ暗だった。その奥には機械室がある。そこは更に真っ暗で気味が悪い。遠くでオートバイの爆音が聞こえている。それが却って、誰もいない廃墟の静けさを強調しているようだ。 場所を考えると裏手は墓場のようであるから、まさか霊の溜まり場になっていないだろうな・・・? 「ナウマクサマンダバザラダンカン」 我輩は、思わず自分の守護仏である不動明王の御真言を唱えた。恐らく守護仏は「自らの意志で危うきに近寄るのであるから、本当に危ない時以外は知らぬ」と言い捨てたに違いないが。 操作室には操作盤があり、そこが現役だった頃の様子を想像させた。ストロボで天井バウンスをしようとしたが、テスト発光しても調光確認ランプが点灯しない。調光が正常ならば緑ランプが点灯するはず。つまり露出不足か。 このストロボで選択出来る絞り値はF2.8とF5.6の2つのみ。レンズ側はF3.5まで開けられるので、ダメ元で絞りをF3.5の状態でバウンス撮影した。うまくいったかは分からない。デジタルカメラで確認出来れば良いのだが、このデジタルカメラはシンクロコネクタが無いのでそれが出来ない。一眼レフ型のデジタルカメラが必要だったか。 操作室の裏には機械室が見えた。ほとんど真っ暗な広い空間だった。ストロボ光が届くか分からないが、先程と同じようにF3.5で撮影した。更に、4秒の長時間露光でも撮影した。窓枠にカメラを乗せてブレないよう気を付けたが、自信は無い。 機械室を出て何枚か撮影をしていると、外で子供の声が聞こえてきた。どうやらこちらに近付いているらしい。木の枝が生い茂っているので良く見えない。我輩は構わず撮影をしていたが、その子供がフェンスの外からこちらを見て「あ、人がいる!」と言った。枝の間から見えるその子供は大人と一緒にいる。父親か祖父だろうか。顔が隠れて見えない。向こうもこちらが良く見えなかったろう。 そのうちその2人は隣のテニスコートのほうに移動した。 我輩は改札を撮ろうと思い、出口のほうに移動した。先程の子供と大人が見えた。白い軽トラックが止まっている。この車であの坂を上ってきたのかと少々ビックリした。 改札と通路は狭いためか、今度はテスト発光でストロボの調光ランプが点灯した。よって、F5.6の指示通りに撮影した。手持ち撮影はフレーミングに気を使うので慎重に行う。だが、背後から子供の声が聞こえた。「あの人、全然動かないよ。」 やがて、2人は車で帰っていった。 我輩は駅舎屋上に上ってみた。対岸の駅は木が邪魔してよく見えないため、撮影しても廃線としてはあまり面白くないが、一応シャッターは切った。相変わらず薄曇りの天気でメリハリが無く気が萎える。 とりあえず、この駅の撮影はこれで完了とした。スローシャッターが多く不安は多いが仕方無い。 では、対岸の駅に行ってみよう。 我輩は、先程上った急な坂を降りて行った。そこでは人の姿も見え、まさに人間界に戻ってきたという印象だった。 〜後半、次回雑文に続く〜 <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [430] 2003年06月15日(日) 「廃線ロープウェイ撮影記(後半)」 奥多摩湖の廃線ロープウェイの片側の駅「かわの駅」を撮影した後、今度は「みとうさんぐち駅」に向かった。 時間的に昼を回っていたが、構わず撮影を続行することにした。コンビニエンスストアでもあればパンでも買って食べたろうが・・・。 最初に来た道を戻り、深山橋停留所を過ぎ、奥多摩湖に掛かる深山橋を歩いて渡った。 湖を横切るロープウェイのケーブルの行方を目で追うと、どうやらもう一つ橋を渡る必要があるようだ。 先ほどの深山橋もそうだが、歩道が両脇に設置されているため歩き易い。しかしながら、橋を渡った後は歩道が無くなり、車の往来には気を使う。 しばらく歩くと、料金所のようなものが見えてきた。歩行者も料金を取られるのか? 様子を見るためにもっと近付いてみる。 見ると、その料金所の前には「通行無料」と書かれており、そこには誰もいなかった。我輩はそのまま歩いて通過した。 (後日、ここは奥多摩周遊道路が有料だった時の旧料金所と知る。) 料金所を過ぎてすぐ右手のコンクリート壁が一部途切れ、そこに階段があるのが見えた。事前にインターネット上で見た写真の光景そのままだったため、ここから上がっていくのだと確信した。 階段は半分が落ち葉に埋もれ、道路側のほうに寄って歩かねばならない。足を滑らせれば道路に転落してしまうため気を入れて上った。 階段の先には更に階段があった。ここは先ほどの階段のように落ち葉で埋もれているのではなく、土そのものに埋もれかけていた。降り積もった古い落ち葉が土となったか、あるいは山の土砂が堆積したか。 ここを上り切ると、もはや道は無かった。 我輩は、以前誰かが通ったような跡を探して進んでみた。そこには崖があった。その崖を見上げると、ロープウェイの駅と車両が顔を覗かせていた。初夏の緑にかなり覆い被されており、この場所に来るまでそれが見えなかった。 その崖は、肩に掛けたカメラバッグを背中に回しておけば何とか登れそうであった。数日前の雨のためか、地面は湿って滑り易かったが、木の根を掴みながら一気に登った。 そこには、まさに廃墟の姿を晒したロープウェイの駅があった。完璧に緑に囲まれ、かつてここに多くの人間が出入りしていたことなど信じられぬほどだ。 ふと、今登った崖を振り返って見た。 下から見上げた時には感じなかった恐怖が湧き起こった。崖の下は僅かな足場のみ。その先は数メートル下に道路がある。つまり、崖を下りる時に勢いがついてしまうと、そのまま道路側に転落してしまうことになるのだ。 「こりゃ、帰る時に難儀するな・・・。果たして帰れるか?」 しかし、いったん登ってしまった崖である。帰りの心配事は帰りにしよう。とにかく、写真撮影をしなければ。 柵を乗り越え、直接ホームに入った。 ここは、最初に撮影した駅よりももっと暗く、露出値も絞り開放でも1/4秒などと出る。晴天ならばもう少しマシだったはずだが、どうしようもない。 途中、1匹のスズメバチに追い立てられ、改札のほうに行った。そこはかなり薄暗く、ストロボ無しでは天体撮影並の長時間露光が必要。そこそこ広い空間であるから、やはりストロボの調光確認ランプが点灯しない。仕方無くここでも開放絞りにて最大発光を行った。これで光が足りなければ打つ手無し。・・・もっとも、三脚さえあればマルチ発光させフィルムに蓄光させることも出来たろうが。 改札を過ぎて外に出てみると、そこが本来の入口のようだった。しかしそこはジャングルのようになっており、しかもここへ通ずる道が無い。階段などは土砂により埋まってしまったか? それにしても、このジャングルのためどうしても露出値が1/8秒以上とならない。立木にカメラを押し当ててシャッターを切るが、どうにも不安で何枚も撮ってしまう。 外から建物の周りを回ってみると、屋上への階段を見付けた。基本的に最初の駅と同じような構造の駅のようだ。階段は太い木の根とツタが絡まり、通常の神経では上ることなど思い付きもしないだろう。だが、せっかく来たのであるから上ってみることにした。身体を屈めたり、根を持ち上げたりしながら進み、ようやく屋上に出た。そこはもはやコンクリートの床など見えず、鬱蒼とした草地と化していた。辛うじて草の合間から手すりが見えている。草をかき分け進み、そこから見ると、ケーブルが対岸まで延びているのが見えた。道路が真下にあるためか、走り屋のエンジン音が大きく聞こえる。 それにしてもこの場所は気味が悪い。撮影が済めばもう長居は無用。 スローシャッターの連続なので写真の写りに自信は無く、気も萎えている。もう人間界に帰ろう。 さて問題は、登ってきた崖である。あらためて上から眺めると、やはり普通には下りられそうにない。荷物を先に下に落としておこうかとも思ったが、カメラが無事で済むとは思えない。下手すれば道路へ落下してしまうだろう。 しばらく考えた後、登った時と同じような体勢で慎重に下りることにした。木の根や岩を掴みながら、ゆっくりと下りた。滑りやすい土で何度かヒヤリとしたが、何とか下りることに成功した。両手は土まみれであった。 「もう二度と、ここへは来ん。」 さて後日、写真の現像が上がってルーペでチェックした。 意外にもブレた写真は少なかった。4秒の長時間露光も、慎重にシャッターを押したためかブレていない。ダメ元のストロボ撮影も、良い感じに仕上がっている。 しかしながら全体的にメリハリが無く、しかも被写界深度が浅い情報量の少ない写真になってしまった。 被写界深度が浅いのは、開放絞りでの撮影であるから仕方無い。魚眼レンズであろうとも、開放で撮れば深度が浅くなるのは避けられない。中判であれば尚更のこと。 二度と行かずに済むように慎重に写真を撮ってきたわけだが、これらの写真を見て失敗写真を挽回したいと思う気持ちも湧いてきた。今度は、意地でも三脚を持ち込み、目一杯絞り込んで撮影したい。 ただし、夏の撮影は避けようと思う。ジャングル状態では見通しが悪く、また外の景色との明暗差が大きくなり撮影しづらい。 結局のところ今回の撮影、本撮影前の下見ということか・・・。 <次回必要な追加装備> ・三脚 ・ケーブルレリーズ ・JRの時刻表 ・バスの時刻表 ・昼飯 ・崖下りのためのロープ <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [432] 2003年07月07日(月) 「重いカバン」 我輩が再び営業をやるようになって2ヶ月ちょっと経った。 職場も品川に移り、駅から職場までの通勤徒歩が15分と長くなった。客先訪問時にも、駅までの長い道のりを往復することになる。 最初のうちはかなり疲労したものだが、今では慣れて平気となった。 営業になってすぐ、Nikon F4を所有する同じ営業の者が我輩にカバンをくれた。色々と集めるのが趣味で、カバンもその一つらしい。沢山あり使い切れないとのことで、親しい者にはカバンをプレゼントしているそうだ。我輩がもらったのは吉田カバン製「ラゲッジレーベル(LUGGAGE LABEL)」の大きなカバンである。 大きなカバンというのは、容量があるために色々な物を入れておきたくなる。今までならば「こちらを入れるならばあちらを出す」というような排他的荷物が、今度からは両方共入れることが出来る。 丁度、大容量ハードディスクのようなもので、容量が大きければそれに応じた量を入れてしまう。 結局、我輩のカバンはかなり重く、てのひらにはタコが出来た。肩に掛けると上着がヨレる。 確かに重いカバンは持ち運びに不便ではあるが、持つ時に気合いを込めるので営業的には良いかも知れない。ただし、帰宅時はカバンを引きずるような心境である。 仕事が詰まっていた時には、終電に間に合せるためにそのカバンを持ちながらも長い道のりをマラソンしたことも何度かある・・・。 仕事が一段落した後の休日、久しぶりに撮影に出た。 ブロニカSQ-Aiとプリズムファインダー、そして2本の交換レンズ、デジタルカメラ。それらをカメラバッグに詰めると少し膨らんだ。見るからに重そうで気が萎える。 だが肩に掛けてみると、信じられぬほど軽い。自分で驚いた。 よくよく考えてみると、普段持ち歩いている営業カバンと同じくらいの重さだった。なるほど、日頃鍛えているおかげで、カメラバッグが軽く感じるのか。 その日の撮影は非常に楽で、知らぬうちに隣の駅まで歩いてしまうこともあった。 だが喜ぶのは早い。今までがかなり運動不足であったことを示しているのは間違いない。現在の姿が、カメラマンとして本来あるべき姿である。 カメラマンはプロアマ問わず体力勝負。登山写真家などに比べれば、我輩などまだまだヘナチョコであろう。 ・・・とは言うものの、やはり、正直嬉しいものである。 ---------------------------------------------------- [433] 2003年07月15日(火) 「リバーサル至上主義」 ネガカラーによるプリントで、今まで満足した色が出たことはあまり無い。 我輩が写真を撮るようになったのは小学生の頃だったが、当時はカラー写真とモノクロ写真が半々で、カラーのほうは「色が着く」ということ以上の見方はしていなかった。 しかし中学生になり、初めて一眼レフカメラを手に入れた時、カラー写真の色の出方が気になるようになった。 一眼レフでの写真は、それまでのコンパクトカメラ(ピッカリコニカ)とは違い、露出や被写界深度の調整が出来る。もちろん現代ならば、コンパクトカメラでさえAFやズーム搭載されているため一眼レフで撮るのと変わらない写真が撮れたりもするだろう。しかし、当時のコンパクトカメラは限りなく「写ルンです」に近く、せいぜい目測によるピント調整が出来る程度であった。それ故、一眼レフカメラに移行した時、その自由度により自分の操作が写真に反映されることに関心が向くようになった。 ところが、写真の表現に関心が向くと、次第に色についての不満を感じてきた。 良い写真が撮れたと思い、焼き増しや引伸ばしを頼むのだが、なぜか最初の色とは程遠い冴えない色となってしまう。ここでようやく気付いた。当時の我輩にとって「良い写真」とは、単に良い色が出ている写真だった。そして、「良い色」とは他でもない、見たままの自然な色が出ている写真である。 しかし自然な色が出たプリントは少ない。そのため、たまたま自然な色のプリントが上がると目立つことになる。 当時は、「フジ」、「サクラ」、「コダック」が競争して鮮やかな色を出すフィルムを発売していたが、不自然な色が鮮やかになっても意味は無く、自然な色を得るためには偶然に頼るしか無かった。 その後、「コダクローム64(KR)」というリバーサルフィルムを試す機会があり、プラスチックケースと紙マウント仕上げが新鮮だったが、それ以上に見たままの色が出ていることに衝撃を受けた。 そうは言っても当時はスライドプロジェクターやライトボックス(イルミネータ)など持たず、光をかざして虫眼鏡で観る程度。プリントで観るのと比べればかなり面倒。リバーサルフィルムからプリントする「ダイレクトプリント」もあったが、L判で130円とかなり割高であり、ネガカラーからリバーサルへ移行することはなかった。 高校生になると、小遣いも少し増え、高価なダイレクトプリントに挑戦してみた。 ところが、色は良いのだがコントラストが強く、暗い部分がツブれてしまう。これで130円もかかるのではたまらない。 やはりネガカラーからは脱却出来なかった。 予備校生になると、予備校の寮に入り勉強をした。 浪人する友人たちは自宅から通うために比較的近い北九州の予備校を選んだが、我輩は自宅から離れた福岡の大手予備校を選んだ。我輩は当時、浪人することにショックを受けていたため、寮に入り本気で勉強しようと考えたのである。寮ならば自宅の近さは関係無い。そして友人のいない環境に自分を追い込み、その真剣さを維持させるのである。 最初のうちは遊び道具など全く持たず暮らしていたが、あまりに何も無いと逆に効率が落ちる。そこで、家族との面会時に「Nikomat FT2」を持ってきてもらった。 寮は博多湾の近くにあったため、日曜日には散歩がてらに海景色をリバーサルで撮った。 その出来上がりはまた素晴らしく、もちろん今の感覚では何の変哲も無いポジであるが、当時の我輩としては感動的な芸術作品であった。何しろ、見たままの色がそのまま出ている。青い空に青い海。それだけでもう、写真を撮る楽しさが湧き上がった。 その頃になると、もはやプリント写真にすることにこだわらず、ポジはポジのまま作品とすることを受け入れるようになった。もう、変な色の写真には戻りたくない。 少ない小遣いを倹約し、安価なスライドプロジェクターを買ったのもこの頃だった。 肝心の大学にはめでたく合格し、島根県松江市に移り住んだ。 大学時代はアルバイトもやったため、それまでと比べて自由に使える金が増えた。フィルムも「コダクローム64」を大量に使い、また同時に大量に失敗させた。失敗が増えたのは、難しいシチュエーションでの撮影に挑戦するようになったこと、そして何より目が肥えたことによる。 また、コダクロームは乳剤番号(エマルジョンナンバー)によってマゼンタが強く出ることがあったため、大学近くのカメラのキタムラで気に入った乳剤のフィルムをまとめ買いすることもあった。 マウント仕上げではなくスリーブ仕上げを依頼し始めたのはこの頃からである。 ある日、松江城の城山公園にてフジカラー主催の撮影会が催された。参加無料とのことで、我輩も行ってみた。 ところが撮影中、持参したコダクロームが足りなくなり、仕方無く主催者が売っていたフィルムを買った。それは、発売されたばかりの「ベルビア」であった。 後日それを現像してみると、ベルビアの色が異常なほどギラギラしており、モデルの衣装のなど酷いものだった。特に原色は、ゼリービーンズの合成着色料のようで健康に悪そうである。こんな色ではコダクロームと混在させることが出来ないため、結局ベルビアの写真は不採用とせざるを得なかった。 発売直後のフィルムであるから、チューニングが十分でなかったのか・・・? 社会人になると、もはや本気の撮影ではネガカラーを使うことは無くなった。依然としてリバーサルフィルムはプリント用途に適さないが、なぜか「それは将来解決される」などという漠然とした思い込みがあった。とにかく、リバーサルで撮影しておけば間違いない。理屈抜きでそう信じ込んでいた。 (事実、それは「フジ・メディアプリント」により解決された。) こういった思い込みは、我輩のジンクスのひとつと言えるかも知れない(参考:雑文254)。 だが、我輩にとって、リバーサルフィルムは一つの到達点である。自分の写真歴の中で構築された思想は、リバーサルフィルムを原版とし、それ以外を拒絶する。デジタルカメラのクオリティがいくら向上しようとも、それは"原版の無い写真"という認識しか持てない。利用はするが、未来に託そうとは思わぬ。 結局、写真はリバーサル。これしか無い。リバーサル至上主義の我輩の一方的価値観である。 議論の余地は、ここには無い。 ---------------------------------------------------- [434] 2003年07月16日(水) 「金さえあれば」 オーバーホールに出したブロニカが戻って2ヶ月余り経つ。廃線ロープウェイ撮影やテーブルトップスタジオ撮影などでフィルムを30本程通してみたが、今のところ目立った不具合は無い。 (参照:雑文412、雑文418、雑文419) それどころか、不具合のあったことすら忘れていた。普通に動いてくれることがどれほど重要かということを思い知った。 狙った瞬間にシャッターが切れないというのは、本当にカメラマン泣かせである。しかし、そういう当たり前のことが出来ない苛立ちは、それを経験した者でしか実感出来ないだろう。 ところが最近電池が消耗したようで、バッテリーチェックランプが点灯しなくなった。まだシャッターは動作するのだが、そろそろ電池の入れ替えが必要か。それにしても2ヶ月前に新品の電池に入れ替えたのだが、もう電池切れなのか? これだから電池食いの電気カメラは困る。 シャッターの電子化の一つの理由は、シャッタースピードの精度を向上させることでもある。しかし、アナログ回路ではコンデンサーの劣化が始まるとシャッタースピードは簡単に狂う。クォーツを使いデジタル制御しないと電子化の意味は薄い。 ブロニカの場合、SQとSQ-Aはアナログ回路であることが判明している。SQ-Aiは不明だが、もしクォーツ化されているなら大きく宣伝しているだろうから、やはりアナログに違いない。 そうなると、結果的に言うとブロニカが電子化したメリットはほとんど無いと言える。AE化を実現するためということではあるが、このカメラでAEが必要なのかと疑問に思う。どうせAEが必要ならばAF化も検討して欲しいところだが、ブロニカによれば、このカメラのユーザーにはAFが不要なため、AFカメラの発売予定は無いと言う。AEは必要でAFは不要?何だ、その不思議な理論は? 恐らく、電子化の黎明期に設計されたSQシリーズは、その後の開発資金低下によりそれ以上発展すること無く「生きた化石状態」で続いてきたのだろう。アナログ回路のままであるのもそれが原因か。AF化など夢の話。 そのような状況を、あたかもポリシーがあるかのように言わざるを得ないブロニカ。同情を禁じ得ない。 結局は自分も同情される側にいるわけだが、金にさえ困らなければ、ブロニカも我輩も救われよう。 我輩は、金さえあればメカニカルシャッターのハッセルブラッドに乗り換える。現状では、ボディのみであれば手に入れられるだろうが、レンズはどれも高価でなかなか・・・。 ---------------------------------------------------- [435] 2003年07月17日(木) 「致命的」 現在、我輩の常用フィルムは「Kodak EPP(120)」である。安いからというのが第一の理由。 他のメーカーにはもっと安いものがあるのかも知れないが、Kodak以外のフィルムは目に入らないので知らない。 昔、フジクロームを使いしばらくして退色し始めたのを見て「フジは危ない」という印象が固定してしまった。偏った思い込みだとは思うが、気持ちが向かなくなったことは事実。 そのため、フジの「プロビア100(RDP3)」の超微粒子を見た時にはかなり心動かされたものの、どうしても常用とすることが出来なかった。もちろん、値段が高かったことも理由に挙がる。 コダックから微粒子フィルムが出れば良いのだが・・・。 その後しばらくして、コダックから微粒子を謳った「E100G」が出た。「やっと来たか」と思った。 だが値段を見て萎(しぼ)んだ。EPPよりも100円ほど高い(120サイズの場合)。もし10本買えば1000円の差が出る。これはかなり大きい。 もしこのフィルムを気に入ってしまえば、それこそ財政が破綻する。現在の撮影ペースは、EPPを前提としたものである。この状態でE100Gに移行するのはマズイ。 そんなわけで、良いフィルムは最初から存在しないものと考えることにした。今使っているEPPが最高のフィルムであると思い込めば、平和な人生を送ることが出来る・・・。 ところで我輩の職場は少し不思議な配置で、我輩自身はWeb関連の営業をやっているのだが、その両隣はDTPのオペレーションをやっている。 ある日、右隣の者がブローニーのポジスリーブを天に掲げていたので、「それは何か」と尋ねた。写っていたのは新社長と前社長の握手シーンだった。社内報に掲載する社長交代の記事の写真である。 そのフィルムには、「E100G」と打ってあった。 くそ、印刷現場ではE100Gが浸透しているというのに、我輩は貧乏クサくEPPのままか。 少しシャクだったので、ここぞという時にはE100Gを使うようにしようかと考えた。 現在、どうしても微粒子を必要とする撮影のために、嫌いなプロビア100を数本ストックしてある。これをE100Gに置き換えるのだ。 そのためにはE100Gの性能を知る必要がある。 とりあえず、1本のE100Gを購入した。470円か、高いなまったく。 微妙な違いだとすれば単純に撮影しても違いが分からないかも知れないため、同じ被写体でEPPとE100Gで撮り比べてみることにする。 その結果が判明した。 12枚中、11枚がピンボケ。 ルーペで見なければ判らないほどの僅かなボケだが、ピントの芯が来ていないので緻密感が無い。あまりのショックにスリーブを持ったまま仰け反った。何だこの結果はっ?! フィルムの性能を判定しようとしたはずが、逆に我輩のピント能力の低下を晒け出してしまった・・・。 ストロボ撮影ではあったが、室内での撮影であったためファインダー像が暗くピントを見誤ったか?あるいは視力低下のためにピント予測を誤ったか?しかしここまで酷い結果は今回が初めてだ。 この時は本当にショックで、1時間くらいは何もする気が起きなかった。 せっかくの微粒子フィルムも、ピントが合っていなければ何の意味も無い。 ピントのボケたE100GとEPPを見比べてみたが、やはりハッキリとした違いが分からない。唯一ピントが合っている1枚はEPPでは撮っていなかったシーンであったので、やはり本当の意味での比較にはならなかった。 しかしE100Gのことは今はどうでも良い。 それよりもピントが合わないのは致命的。 まさか今回、こんな結果になるとは予想だにしなかった。 泣ける・・・。 ---------------------------------------------------- [436] 2003年07月25日(金) 「ニュース速報」 〜池袋駅東口近く交差点にて暴走車歩道に突っ込み6人ケガ、うち女性1名重体〜 <<画像ファイルあり>> 25日午後8時過ぎ、東京都豊島区東池袋一丁目のJR池袋駅前にある「東口5差路」で、暴走した白い改造車が交差点で駐車していた無人のワゴン車に激突し、その勢いのまま信号待ちをしていた歩行者の列に突っ込み、5人を次々になぎ倒した。うち女性1名が一時意識不明になるなど重体となった。 運転していた男性フリーター(24)は、薄いタイヤ、違法なマフラー、ナンバープレートをオービスに写りにくくするカバーをかけるなどの改造を乗用車に施しており、あまり頭は良くないと思われる。当時は雨が降っており、溝の浅いタイヤを履いた改造車がスリップし易い状況にあった。 仕事のために近くを通りかかった"我輩"によると、現場は一時騒然となり、広範囲に渡って立入禁止のテープを張り巡らされて混雑を極めたという。 衝突されたワゴン車は、ビックカメラ池袋東口駅前店近くにあり、白い改造車と共に現場検証を受けていた。 <<画像ファイルあり>> 追突されたワゴン車が中央に見えている。改造車はワゴン車後部に対して右側面を激突させた。 <<画像ファイルあり>> 事故現場の全体像(その1)。 <<画像ファイルあり>> 事故現場の全体像(その2)。 <<画像ファイルあり>> 轢かれた歩行者たちの傘の残骸。 <<画像ファイルあり>> "High voltage"はダテではなかった。 <<画像ファイルあり>> ナンバーはどうしても読み取れない。 <<画像ファイルあり>> ダッシュボードにはぬいぐるみらしきものが見える。 "我輩"によると、たまたま通勤カバンに「EOS630」と「EOS D-30」を持っていたが、残念なことにフィルム残コマ少なく、仕方無く300万画素のデジタルカメラD-30で撮ったという。 反面、デジタルカメラにより即時的映像が得られた。 使用レンズは、同じくたまたま通勤カバンに入っていたEF24mmF2.8。F5.6クラスの安価なズームレンズが代わりに入っていた可能性もあったのだが、夜間撮影という今回の状況ではF2.8の明るさが貢献した。 また、画面に入り込む光源の多さに比べ光の滲みがほとんど見られないのは、さすが単焦点ワイドレンズというところか。レンズ面には雨滴がいくつか付着したがあまり影響は無いようである。 (撮影データ:ISO400/1/30sec./F2.8) (2003.07.26追記) 中古車サイトを色々と探してみると、事故車とほとんど同じ外観の車を見つけた。車種は「トヨタクレスタ・ルラーンG」と断定。 (2004.04.22追記) 世界びっくりカーチェイス CLUB "a"というサイトに我輩が撮影した事故写真を無断使用しているのを発見。ちゃんと言えばもっと別な角度の写真を提供してやったものを・・・。 ---------------------------------------------------- [437] 2003年07月26日(土) 「一つずつ」 現在、我輩の業務内容は多岐に渡る。 まず営業として客先への訪問・対応はもちろん、業者への手配や問い合わせは頻繁に行う。 また、製作業務としてホームページメンテナンスやパンフレット版下作成も行う。 更に、新しい分野開拓として外販営業の者に同行し技術営業としてプレゼンテーションを行う。 社に戻れば電話番をしなければならないため伝言書きや他営業の呼び出しなどに忙殺される。 滅多に無いが最悪のパターンとしては次のようなケースがある。 客からの問い合わせについて業者に確認を取ろうとするが不在であるため携帯電話に何度も連絡する。その合間に締め切り間近のパンフレットの版下データを作成する。しかし運悪く外線電話がひっきりなしに掛かり、電話取り次ぎや伝言の書取り、担当者の携帯電話への連絡などにより製作作業は中断する。そうこうしているうちにいつの間にか時間が過ぎ、プレゼンテーションに行かねばならないと気付く。慌てて電話番を隣の席の者にお願いし会社を出て品川駅までの道のりを小走りする。 もちろん外出先から業者に連絡をとり続け、得られた回答を客先へ流す。その電話で新たな作業が発生すると、再び業者に連絡して調整する。 忙しい時は、時間をやりくりして一つでも作業をこなすしか無い。 大至急の用件であろうとも客先担当者や業者との連絡がつかない場合はそれ以上進まなくなるのはどうしようも無い。何度も電話を掛け直しつつ、その件は後回しにして今出来ることをとりあえずやる。 そうやって必死に目の前の作業をこなしバタバタやっていると、ふと、嵐が晴れたように静かな時に包まれることがある。 どこから手を着けて良いのか分からなくなるほどの仕事がとりあえず自分の回りから消え、なぜか電話もほとんど鳴らない。本当に安心する瞬間である。 一つずつ確実にやっていけば、いつかは全体が治まるのである。 ところで現在、我輩の室内撮影の割合は少なくない。 室内撮影というのは屋外と比べて光量が少なくそれなりに面倒である。室内撮影は必然的に人物撮影ということでもあり、人物が見た目そのままに写ることが最も好まれる。 小学生の頃は、ピッカリコニカを使い真正面からストロボを焚いて撮影していた。当然ながら人物は平面的になり影もキツくなる。 中学生になると一眼レフを使い始め、ASA400(現在のISO400)の高感度フィルムと標準レンズF1.8の明るさによりストロボを使わずに撮影出来るようになった。室内灯の照明のため、影は柔らかく自然となったが、蛍光灯特有の色のために緑がかった写真になってしまう。当時はネガカラーフィルムを使っていたが、プリント時の補正はあてにならず不自然な色合いは避けられない。 その後、FLフィルターを購入し、蛍光灯の色を補正するようになった。 しかしフィルターを使うと光量が減ってしまう。また、ASA400のフィルムは粒子も粗く質感が損なわれる。 仕方無く再びストロボ撮影に戻ったが、今度はスローシンクロを併用することによって人物の背景となる室内が暗く落ち込むのを防いだ。だがやはり、ストロボの直接光が人物を平面的にしてしまう。 そこで、ストロボの発光部を上に向け、白い天井でバウンスさせることにした。これならば室内全体を照らす室内灯の効果が出る。この頃はリバーサルフィルムを使い始めた時期でもあり、色の面ではストロボが理想的であった。 ただし、クリップオンストロボの光量では足りない場合もある。ヘタをすると露出不足で失敗写真となってしまう。 ならばと、大型ストロボを部屋に設置し、天井に向けた状態で固定した。撮影したい時にスイッチを入れればすぐに撮影可能。大光量のため露光不足はまず無い。 しかし厳密に見ると、色が微妙に赤っぽい。どうやら、天井の白壁には肉眼では判別出来ないくらいの赤味が入っているらしい。もしくは常用フィルムの特性のためか。 微妙な色の偏りであり、しかも室内撮影は全て同じ色に染まっていたため、意識の外で違和感を抱いていたものの今まで気にしなかった。 最近になりその色が気になってきた。パソコンに画像を取り込むことが多くなれば、同じ表示環境で他の写真と並べる機会も増えるためである。 当初、光源の色の偏りを測るためにカラーメーターが必要だと思っていた。インターネットオークションでは、ミノルタ製カラーメーターの旧機種が3万円前後で手に入るようだ。しかしカタログを読むと旧機種は使い易くはない様子。デジタル表示ながらもフィルター換算表によってどのフィルターが必要かを読みとらねばならない。しかもストロボ光を測定するには別売りの受光ヘッドが必要になるとのこと。 現行品では換算表は必要無く、しかも単体でストロボ光に対応する。しかし現行品は15万円もするため手が出ない。 大変な問題かと思われたが、しばらく考えた後、補正フィルターを何枚か買ってテスト撮影をすれば安く上がることに気付いた。どうせ、撮影する場所は不変であるから、一度フィルターを決めてしまえばそれで良い。内蔵露出計を使わないため、撮影レンズに付けずストロボ発光部に付けることにする。 なるべく費用を安くするため、事前に目処を付けて厳選し、フジフィルム製LBB-2とLBB-3の2枚購入した。 テスト撮影では、「フィルター無し」、「LBB-2のみ」、「LBB-3のみ」、「LBB-2とLBB-3併用」で撮影。 結果は、LBB-3のみでOKであった。 これで、自宅に関しては室内撮影はほぼ完璧となった。外光との色のバランスも良く、非常に満足している。 こうやって振り返ってみると、スタート地点ではとても解決出来そうに思えないほどの写真ではあったが、問題を一つ一つ確実に解決させて行けば、いずれ全ての問題が解決され、いつのまにか自分の求める到達点に届く日が来る。 山積する問題について最初から全てを解決しようと鼻息を荒くしていたならば、どこから手を着けて良いか分からず投げ出していたかも知れぬ。 一つずつ、しかも着実にやることが重要。 <<画像ファイルあり>> 客人来訪 天井バウンス・スローシンクロ撮影 ---------------------------------------------------- [438] 2003年08月08日(金) 「今年の夏休み」 仕事に追われていたら、いつの間にか盆休みの時期になっていた。 そのことに気付いたのは、休みの数日前のことであった。 会社の休暇表を見ると飛び石状態であったため、我輩は強引に休みを繋げて8月9日から17日まで休むことにした。どうせ、10月から別会社へ出向なのである。今さら気兼ねなど必要無い。「電話番がいなくなる」などと騒ぐ者が2人いるが、そんなこと知るか。自分が電話に出ろ。 8月 日 月 火 水 木 金 土 ・ ・ ・ ・ ・ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 ・ ・ ・ ・ ・ ・ さて、今年は九州に帰省しようかどうしようかを考えた。 天気予報によると九州には台風が上陸しているとのこと。しかし九州へ行く頃にはもう過ぎ去っているはず。9日に帰ったとしても、その日は移動するだけで終わり、本格的に九州で活動するとなると10日以降となる。 ウーム、帰ることにするか。 ところで写真撮影はどうするか。 今まで帰省する度に色々と写真を撮ったのであるが、その時には「これで全て撮り終わった」と思っても、現像したスリーブをルーペで覗いている時になると「ああ、あそこやあそこも撮っておけば良かったなあ。」と必ず思うのである。 不思議なことに、故郷から離れると撮るべき場所がハッキリ見える。 帰省するたびに少しずつ変わってゆく故郷の風景。 撮れる時に撮っておかないと、故郷が別の街に変貌してしまう。隣町の駅もいつの間にか高架となり、趣(おもむき)が消えてしまった。 だが「遅かった」などと悔やむ前に、とにかく現時点での風景を写真で固定すべきである。高架の駅も、そのうち懐かしい風景になる時が来るだろう。例えばリニアモーターカーでも走るような未来になれば、高架の駅でも趣を感ずるようになるに違いない。 ただしそうなるとしても、写真を撮っておかねばそもそもどうしようもない。 撮ろうと思った時に撮る。遅いと思っても、今の時点の写真を撮る。それが肝要。 さて、今回はどのカメラを使おうか。 35mmかブローニーか。 早く決めてフィルムを用意せねば、9日早朝の出発までに間に合わない。 その時点であと2日の猶予があったが、最近は思わぬことで夜遅くに帰宅することが多く、帰りにヨドバシカメラに寄ろうと思っても閉店時間までに間に合わなかったことが何度もあった。 もしブローニー判で撮影するならば、現地でのフィルム調達が不可能であることが痛いほど分かっている。あと2日の間にヨドバシカメラに寄ることが出来なければ、撮影は絶望的となろう。 そういうわけで、その日は疲れていたのでまっすぐ帰宅したかったが、上野で下車してフィルムを買いに行った。 だがヨドバシカメラに到着した時点でも、まだ35mmかブローニーかを迷っていた。 撮影ポイントは無数にある。35mmで数多く撮るか。しかしブローニーの大画面が諦めきれない。 フィルム売場を行ったり来たりして考えたが結論が出ない。気分を変えるために暗室用品コーナーや書籍コーナーに行ってみたりした。 一時、ほとんど35mmのほうに傾いてコダクローム64(KR)の10本カートンに手を伸ばした。だが考えてみれば、別府地獄巡りの撮影では九州で初めてブローニー判を使ったものの、実家近辺の写真は今まで全てを35mmで撮ってきた。 よし、今回はブローニー判で行くか。 我輩は、手にしたコダクロームを置き、いつもの120判EPPを20本(10本カートン2つ)購入した。 これで、フィルムに関する心配事は消えた。 残る問題は、9日早朝起床することのみ・・・。 ---------------------------------------------------- [439] 2003年08月15日(金) 「帰省日記」 -------- ●8月8日(金) 帰省時に持って行くカメラは中判と決めたわけだが、そうなると「New MAMIYA-6」となるか。 しかしよく考えると、「New MAMIYA-6」では魚眼写真が撮れない。情報量を得ようとするために中判としたわけだが、画角的情報量が少なくては今回中判を選んだ意味が無い。 かと言って中判での魚眼撮影となると一眼レフの「ブロニカSQ-Ai」となる。そうなると、他の携行レンズも併せると一挙に容積がかさむ。 ふと、自作魚眼カメラが思い浮かんだ。これは魚眼写真以外には撮れないが、小型軽量なため「New MAMIYA-6」と併用出来る。もちろん、自作魚眼カメラは失敗率が50パーセントを越えるのが問題だが、量を撮るので成功カットも増えよう。 そう考えると容積の余裕が生まれ、中判とは別にメモ用としてハーフサイズ一眼レフ「オリンパスPEN-FT」と25mm広角レンズを持って行くことにした。ハーフサイズならば36EXフィルムで72枚撮影出来、デジタルカメラのように気兼ね無くシャッターを押せる。 (デジタルカメラのほうはバッテリーがいつか切れるため、本当の意味で"気兼ね無く"というわけには行かないだろうが・・・。) ハーフサイズであるから、ここは奮発して微粒子フィルムの「Kodak E100G」を使うことにしよう。長期保存を考えた写真であるから、今回はFUJI製フィルムは使わない。 ところで台風のことだが、九州南部に上陸した後、四国のほうへ再上陸したという。このままでは新幹線での帰省が危ぶまれる。 職場では、TVをつけて数人が台風情報を観ていた。我輩もそこに近付いてTVを観た。 「まずい・・・、九州に帰れないかもなぁ・・・。」 我輩はポツリと言った。 すると、前に立って観ていた某専門部長殿が振り向いた。 「いやー、こりゃダメだよ。明日は台風直撃だよ。」 近くにいた同僚も「新幹線の線路が流されますよー」などと冗談半分に言った。 そんなバカな、新幹線は大部分が高架だぞ。昔、我輩が大学生の頃、松江から山陰本線で帰省しようとした時に台風の大雨で線路の土台が流されてレールが宙吊りになり全面不通になったことがあったが、山陽新幹線のほうは全く無事だった。あの時は振替輸送となり、追加料金無しで新幹線に乗ることが出来、得をしたものだ。 -------- ●8月9日(土) 我輩はいつも、旅行について事前の準備が全く出来ない。出掛ける間際になって慌て出し、忘れ物もいくつか発生させる。 今回、その反省のために準備に2日掛けた。しかしカメラについてはフィルムを用意しただけで安心してしまい、その後の準備はやはり出掛ける間際となってしまった。準備の大部分は、車中で聴くためのMD編集に充ててしまった。 朝6時半、目覚ましが鳴り起床。 ヘナチョコ妻は2日前から自分の実家に帰っているので我輩一人しかいない。気楽な一人旅なので、時間は全く考えていない。ただ漠然と早朝に出ようと思っていただけ。 TVを観ると、台風はこちらに近付いているとのこと。それを考えると、急いで東京駅へ行っても飛行機キャンセル組が大挙して押し寄せていると予想され、少し遅く出たほうが良いかも知れないと勝手に思い込んだ。そして、ふと意識が遠退いた。 次に目を覚ますと、9時くらいになっていた。そろそろ用意せねばなるまい。 朝食を摂り、着替えやMDプレーヤー、カメラ、フィルムをカバンに入れる。今回のカバンは、職場の営業の者から貰った3つのカバンのうち、カメラ用として使えそうなものを選んだ。 よく見ると、カメラは「自作魚眼カメラ」、「New MAMIYA-6」、「オリンパスPEN-FT」、「露出計用途のデジタルカメラ」と4台もある。少しビックリしたが、カバンに詰めるとそれほど重く感じない。まあ、少しは健康になったのだからな。 ところで小型のセコニック製単体露出計を持って行こうと思ったが、部屋を探しても見付からない。本気で探すと時間も過ぎてしまうため、諦めてデジタルカメラのみで測光することにして家を出た。 外は風が少し強いが雨はまだ降っていない。最寄りの駅まで着けば、後は小倉駅までは外に出ない。だから、雨が降りそうでも傘は持たなかった。 山手線に乗っていると雨が激しく降り出した。 東京駅で新幹線の自由席切符を買い、ホームへ行った。東京駅は始発駅であるため、自由席でも必ず座ることが出来る。ところがその日は列がよく分からないほど人がいたために、我輩は適当な列で並んでみた。すると我輩の後ろに並んだオバちゃん2人が話しかけてきた。 「この列はひかりを待ってはるの?」 「さぁー?よう知らんのよ。」 「せやろー、ここで並んでええんか分からへんねー。」 しかし全席指定席ののぞみ(700系)が到着すると列の半分の人数がそれに乗り込んだ。オバちゃんたちはそれを見て「やった!ラッキー!!」と喜んだ。そして、次のひかり(300系)には列の全員が座ることが出来た。 ところがよく見ると、我輩が座った車両は禁煙席ではないことに気付いた。せっかく、揺れの多い先頭車両を避けて乗ったつもりだったが、今年も同じ失敗をするとは・・・。 12時10分、ひかりは激しい風雨の中を定刻通り発車した。 ただ、1時間半ほど走ると風雨は止み、雲が切れて陽が射してきた。台風とすれ違ったらしい。 小倉駅へは18時に到着。 天気はとても良かった。母親のいるマンションまで行き、その後2人でリバーウォークと小倉城に行った。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 小倉もすっかり変わっていた。玉屋は消え、市役所は移転し、ダイエーは別の形になっていた。小倉もいずれ我輩の記憶の姿とは全く別の街となり、元の街は姿を消す。その前に、写真に残しておきたい。 -------- ●8月10日(日) 朝起きると、雲一つ無い快晴だった。 この日は平尾台に行くことにした。青空と緑の草と白い石灰岩がよく映えると思った。 前回平尾台へ行った時はバスが運行されていたが、今回そのルートの路線バスは廃止されており利用出来ないようだ。インターネットで調べると、小倉駅から日田彦山線で石原町駅まで行けば、乗り合いタクシーで平尾台まで登れることが判った。 早速、小倉駅へ向かった。 駅のホームに着くと、ディーゼルカーはまだ来ていなかった。 汗を拭いたハンカチで扇いでいると、近くにいた初老のオバさんが近付き、持っていたウチワを差し出した。 「駅前でもらったんですけど、もし良かったらいりますか?」 我輩は自分の荷物を見た。 「あ、すいません、荷物が・・・。」 「あー、荷物が増えますね。」 お互い笑顔で返した。他意の無い良い笑顔だった。 そのうち2両編成のディーゼルカーが到着しそれに乗り込んだ。 ガガガガーとエンジンが呻りを上げて発車。のどかな風景の中、20分ほど走り石原町駅に到着した。 <<画像ファイルあり>> 小倉駅で声を掛けてきたオバさんもこの駅で降りており、駅の待合室で目が合うと互いに笑顔で会釈した。オバさんはその後、待合室のイスにウチワを置いて駅から立ち去った。 <<画像ファイルあり>> 乗り合いタクシーが来るまで時間があったため、持参したパンを食べた。 ついでにカバンの中を探ると、ポケットティッシュが入っていた。自分で入れた記憶が無いため、恐らくカバンをくれた営業の者が入れていたのだろう。しょうがないな。 駅長殿に訊くと、乗り合いタクシーはバスがやってくるとのこと。マイクロバスのことだろうか?しかし実際に来てみると、それはワンボックスカーを改造して座席を増やした車だった。乗客はすでに4人乗っていた。 車は平尾台へ向けて出発した。途中の停留所では誰も乗ってこなかったため、ほとんどノンストップで到着。料金は400円であった。 <<画像ファイルあり>> さて、どこから撮影しようかと見回した。 以前、千仏鍾乳洞で痛い目を見たので、あそこはやめておく。カメラバックを持って入るような場所ではない。 とりあえず、羊群原(ようぐんばる)を見に行くか。遠くに見える山を目指し歩いて行った。 <<画像ファイルあり>> 2キロメートルほど歩くと、脇の小道から麦わら帽子と無線機を持ったオイちゃんが現れ、すれ違いざまに「コンチワー」と声を掛けた。我輩も同様に「コンチワー」と応えた。 よく見ると、その小道は山頂に向かっているようだった。早速その道に入り、先へ進んでみた。 山は近くに見えるのだが、その分、道の傾斜が急角度となり登るのが大変である。下りる時に難儀すると思われるが、今さら引き返すわけにもいかず、平坦な場所に出るまで一気に掛け登った。 そこは、山の中腹辺りで、山頂が間近に見える。しかしさすがの我輩も息が切れ、石灰岩の上に腰掛け少し休んだ。近くに看板があり、それによればこの辺りでは牛の放牧を行っているとのこと。あらためて見渡してみるが、それらしき姿は無い。 500ミリリットルのペットボトルの麦茶が残り少ないことに気付いたので、この先が心配だ。 直射日光が非常に強く、汗がボタボタ落ち、首から提げたNew MAMIYA-6に滴り落ちてヒヤリとする。すぐにハンカチで拭くが、そのハンカチも濡れ雑巾状態。カメラ内部に染み込まなければ良いのだが・・・。 少し落ち着いたので、辺りを魚眼撮影しようかと魚眼カメラを手にした。何かの拍子に、レンズ表面に思い切り触れてしまった。見ると、汗に濡れた手の痕がクッキリと付いている。これでは撮影に支障をきたす。まずいな・・・。 ハンカチで拭こうにも、濡れ雑巾状態ではそれも出来ぬ。ティッシュなどがあれば良いのだが・・・、そう言えばポケットティッシュがあったな。 先ほどカバンの中で見付けたポケットティッシュを取り出し、レンズ表面を拭いた。紙粉は残ったが、一応キレイになった。助かった。 その後、山頂を目指して登り始めたが、これがまたキツイ。麦茶も飲み干し、これ以上登ろうとすれば脱水状態になり危険と判断した。水さえあれば、目の前の山頂までは行けただろうが。残念。 近くに休憩するためのイスとテーブルがあったが、直射日光で熱く焼けており座れない。 <<画像ファイルあり>> 元来た道を辿って急角度を慎重に下りた。何度も足を滑らせそうになったが、何とかもちこたえた。台風が降らせた雨で土がゆるい。 しばらく進むと、いきなり変な声がした。何かの動物か?牛の声か? 気にせず進み、小道の入り口が見える場所まで来た。するとそこには、軽トラックと先ほど挨拶したオイちゃんがおり、こちらの方に向かってメガホンマイクで叫んでいた。 「こい!出てこい!出てこーい!」 声が松崎しげるに似ている。 小道を抜け、オイちゃんの後ろを通り過ぎて振り返ってみると、オイちゃんは平尾台の山に向かって叫び続けている。 「こい!出てこい!!」 まるで、銀行に立てこもっている強盗犯に呼びかけている警察のようだった。恐らく、放牧中の牛に対して叫んでいるのだろう。 さて、水分の補給のために急いで売店のある場所(乗り合いタクシーを下りた場所)まで戻ることにする。途中、ブロニカ645を持った中年夫婦とすれ違ったが、その直後おもしろい形の石灰岩を見付けたので、小道を探して草原の中に入ってみた。先ほどの夫婦は景色を撮っているようだが、我輩は石灰岩と浸食地形を撮ろうとしている。岩を間近で撮らなければ、わざわざ平尾台に来た意味が無い。 それらの岩は雨水に浸食され、いくつもの溝を作っていた。 <<画像ファイルあり>> 一通りの撮影が終わったため、最後に岩の上に登って魚眼写真を撮ろうと思った。岩はかなり登りにくいが、勢いをつけて登った。すると、首から提げていたNew MAMIYA-6が振り子運動で岩に激突して裏ブタが少し開いた。それと同時に、何か四角いものが「カラーン!!」を金属音を響かせて落下した。急いで裏ブタを閉めると正常にロックされた。 ・・・さっきの四角いのは何だ?岩と雑草の陰に隠れて上から見えない。 とりあえず魚眼撮影を済ませ、心を落ち着かせて岩の下の方を探した。その四角い物とは、フィルム圧板であった・・・。 見ると、固定していた2つのネジが無い。雑草を掻き分けて土の上を探すと、ネジが1つ落ちているのを発見した。近くには小さなハシリグモがいて我輩が手を伸ばすとどこかへ逃げて行った。 ネジは頭だけだった。岩への激突の衝撃で、ネジの頭だけが千切れたらしい。どう考えても、撮影続行は不可能である。くそっ!なんてことだ! しかしその時点で撮りたいものは撮ったと思う。裏ブタが開いていても、2コマくらいの犠牲で、撮影済み部分は巻かれているため影響無い。 ふと後ろを見ると、先ほどの中年夫婦のうち奥さんのほうが我輩のいる草原に入り込んでいるのが見えた。どうやら、我輩が入り込んでいるのを見て引き返してきたらしい。だがここからの風景はあまり良くない。我輩のように岩石そのものに興味が無くては、ここに来ても無駄足だろう。 帰り道、ちょっと良い風景があったので立ち止まった。ハーフサイズのオリンパスPEN-FTで撮った。しかし、中判でも撮れないかと思い、フィルム圧板の取れたNew MAMIYA-6にフィルムを装填し、圧板をその上に乗せて慎重に裏ブタを閉めた。フィルムは正常に送られているように見えた。問題はピント精度だが、これは現像してみるまで分からない。とりあえず撮影はしておいた。 帰りは同じく乗り合いタクシーに乗る。 この日は小倉へは戻らず、祖父母のいる自分が育った実家へ帰る。 14時30分に間に合わなかったため、次の15時40分まで待たねばならない。その間に水分を補給した。500ミリリットルのペットボトル2本の水分が身体の中に入った。これでしばらくは保つ。 見ると、バイクのツーリングで来た者たちが多くいた。 バイクで来るのは悪くないが、エンジン音をもう少し小さくして欲しいと思う。先ほど登った山頂付近でも、バイクの爆音が下からひっきりなしに聞こえて落ち着かなかった。静かな自然とは程遠い。 車も同様だが、自然の地を訪れるのに何の必要があるのか。「自然を体験したいが楽はしたい」というわがままな発想が見られる。それだから路線バスも廃止されてしまうのだ。 見ていると、車やバイクで入れない場所まではほとんどの人間は行こうとしない。この先にこそ自然があるというのに。 しかしまあ、あまり思慮の無い人間が無闇に入り込んでゴミを散らかすことになっても困るな。こういう場所でタバコを吸っているのを見ると、「バカだから仕方無いか」という感想しか無い。 さて、乗り合いタクシーが来てそれに乗り込んだ。石原町駅まで行き、そこから日田彦山線で城野駅へ。そして日豊本線に乗り換えて行橋駅で降りた。 行橋駅からバスに乗るのだが、そのバスも廃止されていた。これは元々西鉄であったが、その後京筑交通へ移管され、今ではタクシー会社のバスが運行されているのである。まさに平尾台と同じ。 やはりここでも1時間近く待って、やっとバスに乗ることが出来た。 実家ではすぐに風呂に入ったが、日焼けが強くヒリヒリして大変だった。 -------- 次の日も撮影を考えていたが、この日以降雨が続き、これといった撮影は出来なかった。特に11日は雷雨が激烈で、屋根が雨漏りするほど。近所に2度落雷したようだった。 残念ながら、撮影に関する日記はこれで終えるしか無い。 ※掲載写真は、容量節約のため極小サイズとした。 ---------------------------------------------------- [440] 2003年08月16日(土) 「MINOLTA FLASHMETER VI」 <<画像ファイルあり>> 先日、新型単体露出計「MINOLTA FLASHMETER VI」を購入した。 事前にインターネット上にて情報を探したものの、参考になるサイトが見付からず、購入すべきかどうかさんざん迷い、半ば衝動買いにも似た状態に自分を追い込んで購入に至った。 そのため、自分のサイトでこの露出計についての情報を発信しようと思う。 ●購入に至る経緯 購入を考えるようになった経緯としては、露出計代わりに使っているデジタルカメラ「OLYMPUS CAMEDIA C-700UZ」がそろそろ使用限界に近付いているからである。地面に落下させたり物にぶつけたり、その外観は痛々しい。いつ機能を停止させてもおかしくない。 デジタルカメラを露出計代わりにすることは以前にも書いた(参考:雑文347、雑文348、雑文349)。 デジタルカメラの液晶画面にて適正露出を視覚的に得る方法は、一見無謀な試みにも思える。しかし、CCDのラチチュードの狭さや、液晶画面の画像表示のクセを知れば、露出の山は簡単に掴むことが出来、むしろ安心感を以て撮影することに貢献する。 実際、デジタルカメラを露出計として使うと、露出の失敗がほとんど無くなった。 しかもデジタルカメラでの撮影により、露出情報や日時などの撮影データが確実に得られるという副次的効果もある。 そのため、C-700UZの後継とする別のデジタルカメラの購入を考えた。 ウェブ上やヨドバシカメラ店頭で色々と調べ回った。要求仕様としては、マニュアル露出可能でコンパクトな起動の早いカメラ。しかしそれがなかなか見付からない。いつの間にかハイエンドなデジタルカメラを検討していたりしてハッと我に返る。 それでも幾つかの候補は決まった。その中には、マニュアル露出不可能な機種も含まれているが、それは露出情報が撮影時に確認出来るため露出計として活用出来ると考えたからだ。 ヨドバシカメラで実機を手に取った後、帰宅して検討段階に入った。どのデジタルカメラを買うか? それにしても、こんな小さなカメラに7〜8万円も出すのは財布に痛いな。カメラを趣味としない一般人にもデジタルカメラが売れているというではないか。よくこんな出費をするな。 そこでふと、思った。 「デジタルカメラにこれほど注ぎ込むならば、新型の単体露出計を買ったほうが安いんじゃないか・・・?」 単体露出計は既に3台ほど所有している。だが、デジタルカメラのような直感的使い易さは無い。しかも入射光式オンリーでは対応出来ない撮影シーンもある。 ところがミノルタから新しく発売された「フラッシュメーター VI」は、受光角1度のスポット測光が可能で、しかもフィルムのラチチュード内でどのように表現されるかをモニタリング出来ると言う。 我輩所有の「フラッシュメーター V」でもモニタリングは可能であるが、受光球をビューファインダーに交換するなど手間が掛かり、表示もあまり洗練されていない。 調べてみると、新型の「フラッシュメーターVI」は、フジヤカメラで\47,600(税抜)で販売されていることを知った。これで、購入計画は一気に単体露出計のほうに傾いた。 そもそも、デジタルカメラは便利ではあるものの、起動時間がやたらに長いことや、ポケットに入らないこと、電池消費が早い、故障要素が多い、など不満点も幾つもある。それらの問題点を軽減させるために後継機を探していたのであるが、露出のモニタリングが可能ならばデジタルカメラで無くとも良い。 問題は、新型の「フラッシュメーターVI」が本当に役に立つのかどうか。 購入前にインターネット上で情報を得ようとしてみたが、特に参考になるサイトは見付からない。メーカーサイトも閲覧したが、やはり個人運営サイトにあるような生の声でないと分からない。 結局、漠然とした商品知識しか無いまま、電話でフジヤカメラに在庫を確認し、そのまま衝動買いのように「フラッシュメーターVI」を購入してしまった。 ●購入直後 フジヤカメラのある中野から帰宅途中、電車内で取扱説明書を読んでみた。 まず第一に、今までのフラッシュメーターよりも説明書のサイズが小さくなったことに気付いた。 また、一つ前の「フラッシュメーターV」もそうなのだが、単体露出計を使いこなすためのカラー冊子も付いていない。「フラッシュメーターIV」を購入した時には、豪華なカラー冊子が付いており、単体露出計を活用するのに非常に役に立ったものだが。 VI型(最新型) V型 IV型 <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> (特徴) スポット測光機能・露出モニター機能・アナライズ機能・露出記憶数10点 (定価\70,000) (特徴) ストロボマルチ発光測定機能・露出モニター機能・アナライズ機能・絞り優先設定機能・露出記憶数8点 (定価\86,000) (特徴) ストロボマルチ発光測定機能・アナライズ機能・絞り優先設定機能・ミノルタα-9000データ送信機能・露出記憶数2点 (定価\86,000) 他のフラッシュメーターと並べてみると、今回の「フラッシュメーターVI」は一番背が高いことが判る。しかも細身であるから持ち易さは格別。持った感じは無線機や受信機のようであった。個人的にはなかなか良いと思う。 ●液晶パネル まず、液晶パネルが従来のものと変わり縦長になった。 今までのメーターに慣れていると、初めは違和感を覚える。しかし気持ちが前向きであれば、逆にそれが使い易く感ずるようになる。 <<画像ファイルあり>> 縦長の液晶パネルとなり、それに伴い、アナログドットケールも縦に配置された。 フィルムのラチチュードをドットで示し、スポット測光の測定値がフィルム上でどれくらいの明るさで表現されるのかをモニター出来る。 測光値のメモリーは10点までに増えた。 しかしながら、コストを下げるためか液晶パネルは非常に安っぽい。 恐らく液晶パネルのガラス基盤の厚みが大きいのであろうが、液晶表示の影が深いため、見る角度によって表示がダブって見える。しかも液晶自体が淡い。 さらには、反射板の色が緑となり、そのために液晶とのコントラストが低くなっている。 つまり、視認性は最悪となった。 しかもバックライトが廃止されたようで、暗い環境では液晶表示が読み取りにくい。 暗い場所では測光しないだろうと考えているならば大間違い。いくら暗い場所であろうとも、スポットメーターが内蔵されているのであれば明るい場所に向かって測光することはあろう。 ちなみに、「フラッシュメーターV」のバックライトはEL(エレクトロ・ルミネッセンス)、「フラッシュメーターIV」はLED(発光ダイオード)であった。 VI型(最新型) <<画像ファイルあり>> コストを抑えるため安価な液晶パネルを採用。反射板は完全な緑色で液晶とのコントラストは低い。 V型 <<画像ファイルあり>> 視認性は良いほうだが、反射板はやや緑色に着色されている。ELの照明は反射板を透過させる必要があるため、EL素子の色が透けて見えるのであろう。 IV型 <<画像ファイルあり>> 視認性良好。反射板も明るいグレーで液晶とのコントラストは高い。LEDの照明はサイドから照らすため、反射板には透過性は求められず反射に徹していれば良いからだ。 ●操作部 操作部については、我輩所有の3機種ともそれぞれに個性がある。それはつまり、ミノルタが使い易さを模索して揺れ動いているということでもある。しかも今回の「フラッシュメーターVI」では、コスト低減のために色々と手を尽くしていることが、使用者の操作感としてダイレクトに伝わってくる。 基本的には3機種共、押しボタンはゴム製。 ただし測光ボタンはさすがにプラスチック製。クリック感は「フラッシュメーターIV」がマイクロスイッチそのものの音"カチッカチッ"という音がするのに対し、「フラッシュメーターV」と「フラッシュメーターVI」では"カクッカクッ"という感触に変わっている。最近のデジタルカメラのシャッターボタンと同じような感触で、少し上品な印象となった。 数値のアップダウンについては、「フラッシュメーターIV」がスライドレバーであるのに対し、「フラッシュメーターV」と「フラッシュメーターVI」では電子ダイヤル方式となっている。 ただし同じ電子ダイヤル方式であっても、「フラッシュメーターV」と「フラッシュメーターVI」では感触が全く違う。 「フラッシュメーターV」では"チキチキッ"と小気味良いクリック感で軽快な操作が可能である。しかもダイヤル部がゴムで覆われているため指に優しい。 ところが新型であるはずの「フラッシュメーターVI」では、クリック感が弱く"カタカタッ"という感じ。しかもトルクが重いため軽快な操作感とは言い難い。ダイヤル部もプラスチックが剥き出しでソフトではない。液晶表示部と共に、まさにコストダウンの影響をモロに感ずる部分である。 VI型(最新型) <<画像ファイルあり>> 電子ダイヤル採用だが、コストを抑えるため、クリック感はあまり無く、ダイヤル部は剥き出しのプラスチックのまま。トルクはやや重い。 V型 <<画像ファイルあり>> 電子ダイヤル採用で、"チキチキッ"とクリックがハッキリしている。ダイヤル部はゴムで覆われており手触りがソフト。トルクはやや軽い。 IV型 <<画像ファイルあり>> スライドスイッチのため操作性は最悪。数値の移動量が大きい場合には、何度もスライドさせるか、一定時間スライドしたままにすることになる。しかしスライドしたままの場合、行き過ぎることもある。 ●省略された機能について メーカー側では「フラッシュメーターVI」ではコストを下げて買い易くするという開発意図があったと言う。しかしそのために省略された機能が幾つかあるため、ここで明確にしておきたい。この内容はカタログには触れていないので重要である。我輩も購入して初めて知った。 (1) まず、フラッシュ光積算測定モードが無くなった。これは、ストロボを複数回発光させ光を蓄積させる撮影にて使われる。ストロボ光が弱い場合、シャッターを開きっぱなしにして何度もストロボを発光させれば、強い光を発光させたのと同様の効果が得られる。その際の積算測定を露出計側で簡単に行う機能である。 (2) 次に、今までは絞り優先設定が可能だったのだが、今回の「フラッシュメーターVI」ではその機能が省略されてしまった。 (3) また、「フラッシュメーターV」では自動切り替えであったストロボのコード/ノンコードが、「フラッシュメーターVI」では手動切り替えに戻っている。 (4) そして小さなことかも知れないが、今までの機種では裏面に付いていた三脚穴が、今回廃止された。 しかしストロボのノンコード測定では、露出計を置いたままストロボ側で発光させることになるため、三脚穴の無い露出計では固定が面倒になる。 (5) さらに些細なことだが、「フラッシュメーターV」ではノンコードストロボ測定でストロボ光を検知すると"ピッ"と電子音がしたのだが、今回の「フラッシュメーターVI」では電子音は一切無い。 ●マルチスポット測光について 一般的に入射光式単体露出計というものは、基本的に被写体の場所で測光するわけであるが、いつもその方法で測光出来るとは限らない。シチュエーションにより、反射光式露出計でなければならない場合もある。 今まで我輩は、反射光式露出計としてNikon F3の内蔵露出計を活用してきた。 F3の露出計は若干、部分測光としての傾向があるのだが、我輩はF3のファインダー見ながら画面を振り、連続的に変化する測光値を見ることにより、輝度分布を把握した。もちろん正確に把握するわけではなく、「何となく」というレベルである。(参考:雑文239) ところが、中判カメラには露出計が付いていない場合が多い。そういう場合は必然的に単体露出計が必要となる。Nikon F3があればそれを露出計代わりにすることも出来ようが、中判と35mm判を同時に使うというシーンはあまり想像出来ない。 単体露出計での反射光測光は、一般的なカメラの内蔵露出計と同じようには使えない。なぜならば、カメラ内蔵露出計では交換レンズの画角に応じて受光角も自ずと変化する(一眼レフ形式の場合)。ところが、単体露出計では一般的に受光角が固定されており、下手に受光角が大きければ画面範囲外にある光すら測光してしまいかねない。 そういうわけで、単体露出計を使い意志を以て反射光を測定するには、何処を測っているのかということを明確にする必要がある。そのためスポット測光によって狭い範囲に絞ることになる。 今回購入した「フラッシュメーターVI」では、受光角1度のスポット露出計が内蔵されている。 幾つかのスポット(点)を測光し、最大10点までを記憶させる「マルチスポット測光」が可能。そしてワンタッチで各点の平均値を算出させることも出来る。 それはつまり、「フィルム上で表現したい重要な部分を撮影者が決める」ということでもある。他に言い換えれば、「手動の分割測光(評価測光)」と言うところか。 以前、雑文にて「Canon T-90」や「OLYMPUS OM-3/OM-4」のマルチ測光について書いたが、それらはそれぞれのカメラに属した機能である。そのカメラを使わねばその機能は利用することが出来ない。 しかし単体露出計にその機能が組み込まれるならば、どのカメラを使おうとも、等しくマルチ測光機能が利用出来る。 しかもこの「フラッシュメーターVI」は、連続的にスポット測光させることにより、記憶させた測光値を基準にしたプラスマイナスの値を見ることが出来る。それは、我輩がNikon F3で用いた輝度分布読み取りの手法そのものである。 ●実際の測光と結果 我輩自身、スポット測光の経験はあまり無い。 それまで使っていた「フラッシュメーターV」では、「スポット測光用ビューファインダー(受光角5度)」も揃えてはいたが、着脱が面倒でしかも大柄になるため、積極的に活用していなかった。 しかし今回導入した「フラッシュメーターVI」では、コンパクトなうえスポット測光がスイッチ一つで切り替え可能と不自由が無い。 実際にマルチスポット測光を使ってみたところ、記憶させるポイントが10点に届くことは無かった。必要な箇所を幾つもピックアップしようとも、せいぜい5〜6点で足りる。それ以上やろうとしても、他に測光する点を探すのが難しいくらいだった。 最大記憶10点というのは、かなり十分と言える。 肝心の撮影結果だが、我輩がマルチスポット測光初体験というせいもあり、成功率70パーセントといったところか。失敗した写真の全ては0.5EV〜1.0EVのアンダーであったため、傾向が掴めれば改善出来ると考える。少なくとも現状の我輩ではオーバー側に段階露出しておけば間違いが無い。 <<画像ファイルあり>> スポット測光のビューファインダーの様子。クリアで見易い。 (2007.10.16追記) 現在、我輩は「フラッシュメーターV」を売却し、新型の「フラッシュメーターVI」のみを使っている。 もしカメラの場合であれば複数持っているとそれなりに利用法が広がるのだが、単体露出計の場合は複数持っていても無駄である。もちろん、我輩はセコニックのポケットサイズの単体露出計「L-308」も持っており、大きさの違いで使い分けている。しかし「フラッシュメーターV」と「フラッシュメーターVI」は同じような大きさと同じような性能である。自ずとどちらか一方しか使わなくなるのだ。 結局のところ、新型「フラッシュメーターVI」のマルチスポット測光機能の存在は決定的であった。いくら安っぽい露出計であろうとも、最終的には機能で選ぶことになった。逆に、いくら見易い液晶パネルや使い易い電子ダイヤルであっても、自分に必要な機能が無ければ意味が無い。 我輩の場合、滅多に使わないストロボマルチ発光測定機能や液晶パネルバックライト機能よりも、毎回使うマルチスポット測光機能のほうが重要である。 ちなみに「フラッシュメーターVI」は、ミノルタのカメラ分野撤退に伴い販売終了となったが、実質的には「フラッシュメーターVI」と同等のケンコー「フラッシュメーターKFM-2100」がOEM販売されており、入手に不都合は無い。 中古などで旧型「フラッシュメーターIV」及び「フラッシュメーターV」を安く買うくらいならば、少し奮発して「フラッシュメーターVI」か「フラッシュメーターKFM-2100」を買うほうが良かろう。単純に安い露出計が欲しいのであればもっと安いものがあるし、高機能が欲しいのであれば新型を買うほうが目的に適う。中途半端な選択をするならば、結局は自分の目的を果たせないだろう。 ---------------------------------------------------- [441] 2003年08月29日(金) 「オークション(2)」 度々雑文に登場する職場の営業氏。ここでは仮に、B氏と呼ぶ。 先日、B氏の親父さんが亡くなって1ヶ年経ったが、B氏は親父さんの遺したカメラをそろそろ処分したいと言う。 親父さんは、我輩のようにNikonのカメラを何台も新品状態で保存していた。話によると、巻上げたりシャッターを切ったりしたことも無いと言う。その中に「Nikon FフォトミックFTNブラックボディ」があり、B氏はこれがどれくらいの価値があるのかということを我輩に訊いてきた。 「Nikon Fフォトミックか・・・。」 いくら新品とは言え、多少の劣化はあるだろうと思う。数十年間、全く動作させていないということであるから、機械部品が内部で錆びて固着したりするならば、即ジャンク扱いであろう。 とりあえず品物を持って来るように言っておいた。 数日後、B氏はそのカメラを持ってきた。 外箱は多少くたびれていたが、年代相応とも言える。 肝心のカメラは、まさにピカピカの状態であった。ただし目を凝らして見ると、絞込みレバーとセルフタイマーの部分のメッキが腐食して輝きを失っていた。また、ボディのほんの一部に、腐食による塗装浮きがあった。 惜しいが新品同様と言えるものではない。 それでも、巻上げ動作やシャッター動作については、新品の切れがありスムーズな印象を受けた。これが数十年前の機械だとは驚く。 従って、このカメラはコレクション用途としては向かないが、実用カメラとして新品から使い込んで行くという用途が適している。 もちろん、シャッターの正確性は厳密には分からない。本気でこのカメラを実用しようとするならば、メーカーにてオーバーホールに出した後で使うほうが良かろう。 さて、このカメラの価値であるが、結局我輩には判らない。 コレクション用途としても不足、実用機としても不安がある。アイレベルファインダー搭載ならばまだしも、フォトミックとはな・・・。考えても仕方無いため、我輩はB氏にヤフーオークションに出品することを勧めた。これならば、相場が判らずとも入札者が勝手に値段を決めてくれる。 「いくらで売れるだろう?」 B氏は興味津々だったが、他の「Nikon FフォトミックFTN」の出品を見てみると、それほど高価ではなかった(もちろん、終了間際には値が上がるだろうが)。 「まあ、タダで手に入れたようなものだし、5万円くらいに上がればいいなぁ。」 B氏はオークションの画面を見て少し落胆したようだったが、自分に言い聞かせるようにして5万円という金額を一つのボーダーラインと考えたようだ。 いや、世の中には物好きがいるだろうから、もう少し値段は上がろうか。8万くらいは行くか・・・? しかしB氏には期待を持たせないほうが後々良かろう。期待させておいて値が上がらなければ悲惨だ。 とりあえず出品することは決まった。 B氏は「じゃあ、よろしく。」と言い残し去ってしまった。 いつの間にか、我輩が代理出品することになっていたようだ・・・。 カメラを自宅に持ち帰り、デジタルカメラにて外観写真を撮影した。どうせ使い捨ての写真になるからと、既にセットしてある黒い板を背景に使った。その結果、ブラックボディに黒い背景のメリハリの無い写真となってしまった。ウーム、手を抜かずに白かグレーの背景に替えたほうが良かったか・・・? まあ、良いか。 次に、商品説明をHTMLにて記述。 (ちなみに、前回Nikon F3を出品した時はこんな感じである。) 代理出品ではあるが、我輩が持ち帰って出品するのであるから、説明文中に「代理出品」と書く必要は無い。あくまでも取引者は我輩自身。 我輩の戦法としては、悪い情報をまず明らかにし、その後、その出品物の誉めるべきところを論理的に誉める。 特に、「もう二度と手に入りません!!」とか「とても素晴らしい品です!!」などと主観的なことばかりを感嘆符付きで連発するのは一番良くない。特にカメラのカテゴリでは落札者もそれなりの学があると思われるため、淡々と事実を記述するほうがトラブルも少なく好感を持たれるものと考える。 また送料の問題も、場合によってはトラブルの原因になる。そのため、相手に送料負担を求めずサービスとした。これならば、こちらの都合で発送業者を選べる。我輩の場合、ゆうパックなどを指定されれば対応不可能。 <<画像ファイルあり>> 相場が良く分からなかったことで、スタート値は送料と手間賃くらいの回収として3,500円とした。相場は落札者が決めてくれるというオークションの特性を利用する。 さらに、なるべく注目を浴びるように、出品期間は最長の7日間とし、「注目のオークション」の有料オプションを付けた。 出品したのは夜中の0時頃だったが、タイミングが良かったのか数分後にはアクセスがあった。 そして数時間後に質問が入った。「フォトミックファインダーの取り付けにより、ボディ本体部の銘板(Nikon)に傷が付いてしまうことが多々ありますが、ご出品のものは如何でしょうか?宜しくお教え下さい。」とのこと。 未使用品であるから、そんな傷などあるかっ! しかし念のために調べることにする。 レバーを押しながらファインダーを抜くのはなかなか難しく、色々とやってようやく外すことが出来た。果たしてそこには、見事に傷がついていた・・・。 「な、なんでこんな傷が入っているんだ?! まさか、今ファインダーを外した時に傷が入ったのか? ・・・いや、最初から付いていたに違いない。そんな気がする、いや確かにそうだった。」 それにしても、このままでは後々トラブルの種になることは必至。 大急ぎでこの傷の写真を撮り、追加写真をアップした。この時点で入札者がいなかったのは幸いである。そうでなければ、入札者に「最初の説明が不十分なことにより、キャンセルされるのであれば受け付けます」とアナウンスせねばならなくなる。 その後、金額を提示しない早期終了の依頼が入ったが、それは断った。 さて、出品した当日には値段が5万円を越えた。とりあえずの最低ラインはクリアしたので気が楽になる。後の6日間でどれだけ伸びるか楽しみだ。 2日目、一気に9万円まで伸びた。B氏に知らせると、「もしかしたら10万越えたりしてな!」と大喜び。我輩も、「残りの日数を考えると、恐らく13万円くらい行くのではないか。」と強気な発言をした。 ところが3日目と4日目には入札が無く、5日目にしてやっと10万を越えた。 まあ、最終日に向けて小休止というところだろう。 それにしても6日目は11万、そして7日目の昼には11万9千円と動きは鈍い。終了間際になれば動きが激しくなるとは思うが。 ところで終了時間というのは、我輩が九州に帰省する前の晩である。 そのため、準備(車中で聴くMDの編集)などに時間を取られ、気が付くとオークション終了時間を過ぎていた。 「まずいな、早急に落札者に案内メールを送らねば。」 オークションの画面を開き、価格を確認して仰天した。 「な、なんだこの値段は・・・?!」 落札価格18万円。 急いで落札者の履歴を見る。 「悪い評価があるな・・・。理由も無くキャンセルか。この値段ではモロにキャンセル食らうかも知れん。」 あまりの高価格のため、喜びよりも心配のほうが遙かに大きい。なぜならば、キャンセルされれば落札手数料3パーセント(約5千円)が丸損である。 「なんでこんなヤツが落札するんだ!」我輩は頭を抱えてしまった。 明日には九州に旅立つ我輩。出来ることならば、商品先送りして手ぶらで九州に行きたい。しかし、返信メールはすぐに来たものの金は払ってくれるのだろうか? これは賭に近かったが、次の日、我輩はカメラを梱包しコンビニエンスストアから発送した。 しかし心配は無用だった。 九州に到着後福岡銀行にて残額照会したところ、きっちり18万円振り込まれているのを確認した。 B氏は喜び、送料その他の経費とは別に、我輩に手間賃として1万円を渡してくれた。 この出品では最終的に、アクセス(2188)、友だちにメール(3)、ウォッチリスト(152)、入札者(17人)、入札件数(60)であった。 特に今回、我輩は初めて「友だちにメール」というものが使われたのを見た。何のための機能なのかいまだに理解出来ないが、何か意外な使い方と意味があるのかも知れない。 まあ、いずれにせよ何とか無事に終わって良かった。 だが、もう一台出品して欲しいと頼まれたカメラが控えている。これなどは相場的に今回のNikon Fフォトミックよりも高価になることは容易に想像出来るが、現実として18万円というラインを越えられるかは心配である。たまに高額で出品されているのを見たりするが、回転寿司状態で落札されないのである。 出品するか、それとも「しばらく手元に置いておけ」とB氏を説得するか・・・。 ---------------------------------------------------- [442] 2003年09月07日(日) 「GPS」 <<画像ファイルあり>> 撮影場所の分からない写真がある。 それは何気ない写真ではあるが、我輩にしか理解出来ぬ魅力がある。 (「我輩にしか理解出来ぬ」というのは、我輩個人の体験に拠る部分が強く影響しているという意味である。) 真っ直ぐな並木道、低いアパート、人通りの少ない雰囲気。 それに出会ったのは偶然であった。 今となっては場所が判らぬ故、もはや二度とそこの写真を撮ることは出来ない・・・。 以前、近くの町の養護学校で、修理した自転車を格安で販売するという催しがあった。 我輩はそれを松戸市の広報誌で知ったのだが、ちょうどその頃、自転車の購入を考えていたため、そこで安く手に入れることにした。 その町へ行くには、JR常磐線から新京成線に乗り換えねばならない。同じ市内であろうとも、乗り換えがあると小一時間は掛かる。しかも新京成線などほとんど利用する機会が無いため、その町は我輩にとって全く未知の土地であった。 その場所へ行くには広報誌に掲載された案内図を参考にした。そのため、特に迷うこと無く現地に着き、そして無事に6千円の自転車を購入した。 さて、帰りはもちろんその自転車で帰る。鉄道路線では遠いが、直線距離では4.5kmと近い。 未知の土地ではあるが、車の流れや陽の具合などの雰囲気によって、何となく家までの方向は分かる。とにかく水戸街道(6号線)にさえ行き当たれば、どうにか帰ることは出来る。 その催しでは自転車の数に限りがあるとのことで朝早くから出掛けたせいもあり、帰りはのんびりと帰ることにした。 何時間掛かろうとも、いつかは帰り着く自信があった。 そうやって何気なく通り掛かった住宅地。そこはもちろん知らぬ場所。だが、我輩の心を惹き付けるものがあった。それが冒頭の写真である。 我輩は、Nikon F3L(緑)のシャッターを切った。 冬の木立が寒々として良い。これが緑萌ゆる風景に変われば、これもまた良し。 その場所は判らぬが、自宅には1/25,000の地図があるため、帰宅後に地図上で道を辿れば場所はすぐに特定出来よう。 ところが、帰りは色々な道を無駄に回ったせいもあり、自宅で地図を眺めても経路が全く分からない。安易に考え過ぎていた。 写真を現像後、ルーペで丹念に写真を舐めてみたが、それにも手掛かりになるものは何も無かった。 写真に写っている商店の電話番号を手掛かりにしようかと思ったのだが、看板に書かれている電話番号には局番が無い。 店名をインターネット上で検索してみたが、どの店も引っかからない。 それにしても、似たような風景は他に幾つもありそうなのだが、この場所ほど我輩のツボにハマるものが無いのが残念・・・。 それから数年後、我輩はある商品を知った。 「ハンディタイプのパーソナルGPS」。 GPSとは、言うまでもなく「全地球衛星測位システム(Global Positioning System)」と呼ばれる人工衛星ナビゲーションシステムのことである。 調べてみると、それはかなり役に立つ道具であると分かってきた。あの時、これさえあったならば、場所がすぐに特定出来たに違いない。そう思うと歯痒かった。 購入の検討を始めたのは、その直後である。 <<画像ファイルあり>> まず最初に検討したパーソナルGPSは、コンパスで世界的に有名なメーカーSILVAの「GPSマルチナビゲーター(42,800円)」だった。 これは業務用と言うだけあり、GPS機能に加え、高度計、気圧計、温度計、電子コンパス、水準計、天気予測機能等が搭載されている。さらに-25℃〜70℃の動作保証があり、防水・防爆構造も頼もしい。 しかし、これは地図データが表示出来ない。液晶ディスプレイはセグメント表示方式で、デジタル数字と矢印のみでナビゲートする仕組みである。恐らく、温度変化に弱い液晶を少しでも無理をさせないために、細密なドットマトリクスよりも余裕のあるセグメントにしたのではないか。しかも業務用ならば、紙の地図と併せて使うことは大前提。機能よりも確実性と高精度を敢えて選んだと思われる。 我輩は基本的にドットマトリクス液晶よりもセグメント液晶のほうが好みであるが、やはり地図データが表示されるもののほうが素人目には解り易い。 もし、サバイバル用として購入するGPSならば、迷わずこれを選んだだろう。だが今回の用途としては手軽さが第一。 <<画像ファイルあり>> 次に検討したのが、エンペックス製「ポケナビGPS65EX(32,000円)」だった。 日本全国図搭載であるのが良い。 しかし厚みがかなりあり、デザイン的にも家電のリモコンのようで、外で使うには気が引ける。大柄であろうとも、前述のSILVAのようにある程度薄ければ携帯性も良くスマートに見るのだが。 それに、地図が搭載されているとは言うものの、Web上で得られる情報の中に詳しい記述は無く、どれほどの情報量のある地図なのかが分からない。 個人運営サイトにも、この機種のレポートはあまり出てこないため、マイナーな製品なのだろうかと感じた。 <<画像ファイルあり>> さて、Web検索で一番良くヒットするパーソナルGPSは、米GARMIN(ガーミン)社のeTrexシリーズという製品である。 この製品のシリーズは、地図無しのものと地図有りのものに大別される。大まかに言うと、地図無しのものは2万円からと安価であり電池の保ちが良い。一方地図有りのものは標準で1/200,000地図がビルトインされるなど高機能であるが、それ故に5万円以上で電池の消耗が比較的早い。 デザインは全シリーズ共通で、ボディ色が違う。厚みがあるものの、パーソナルGPSとしては最もコンパクトで、"ちょっと大きめな携帯電話"という感じである。 見たところ、操作ボタンが少ないように思えるが、前面にカーソル操作のスティックがあり、ほとんどの操作をこれで行うとのこと。メニューが深いものの、機能に不足は無い。 製品は英語版と日本語版があるが、日本語版は単に言語が日本語に対応したというだけでなく、幾つかの機能が強化されている。特に、別売りの1/25,000日本詳細地図をインストール出来るのは、日本語版のハードウェアのみ。 eTrexシリーズは、とにかくユーザー発信のWeb情報が多い。これがマイナーな製品や歴史の浅い製品ならば、先日雑文に書いた「MINOLTA FLASHMETER VI」のように、ユーザー発信の情報などほとんど無いものである。 eTrexシリーズの場合、登山、フィッシング、サイクリング、その他アウトドア系の趣味を持つ者たちが実際に使った感想を自身のホームページで紹介している。我輩はそれらを食い入るように見て研究した。 数日後、我輩は「eTrex Legend 日本語版」をSPAから購入した。 元々は(株)いいよねっとが日本語化し販売するものであるが、SPAからでも、いいよねっとが日本語化したeTrex Legendを入手出来る。しかもこちらのほうがシークレット価格ということで8,000円ほど安い。さらにパソコンとの接続ケーブルも純正より5,000円ほど安いカスタムケーブルが買える。 <<画像ファイルあり>> 「米GARMIN製 eTrex Legend 日本語版」。 例によって、キズが付く前に外観写真の撮影をした。画面には、前日に営業の者と待ち合わせした千駄ヶ谷周辺の地図が表示されているのが見える。 <<画像ファイルあり>> 電池は単三型2本使用。電池との比較により、コンパクトさが判る。 標準で入っている地図データは1/200,000のものであり少し大ざっぱであるため(実用には問題無いレベルではある)、より情報量の多い1/25,000の詳細地図をパソコン経由でインストールすることした。 詳細地図は等高線有りのものと無しのものがあるが、等高線有りのものではデータ量が増えるため、我輩は等高線無しのバージョンを購入した。だが、それでも容量の関係で、GPS本体には日本全国の1/5しかインストール出来ない。 とりあえず使ってみたところ、なかなか面白く活用出来そうだと感じた。 まず勤務先までの道のりで使ってみたが、このGPSを使うと道を歩くのが疲れない。あと何メートルというのが数字でカウントダウンされ、それが励みになる。 ただし、電車や駅の中、高いビルに囲まれた場所などは、GPS衛星の電波が拾えないため機能が停止する。空が見えたとしても、GPSの特性上、衛星が3つ以上捕まらなければ位置決めをすることが不可能。そのため、ある程度開けた場所が必要となる。 ここではGPSの機能について詳しく述べることはしない。以下にキャプチャー画面を幾つか掲載し、雰囲気を伝えるに留める。 <<画像ファイルあり>> 地図表示画面。表示設定により、情報を間引くことが可能。 <<画像ファイルあり>> 地図の拡大画面。何段階にもズーム出来る。 <<画像ファイルあり>> ナビゲーションモードにより、進むべき方位と距離がリアルタイムに示される。 <<画像ファイルあり>> 行き先設定は自分で設定出来るほか、あらかじめ33万ポイントがジャンルごとに登録されている。 <<画像ファイルあり>> 今居る場所を登録する場合は、ボタン一つで簡単に行える。 <<画像ファイルあり>> 日本語の入力も可能。漢字変換は1文字単位となる。ただし、通常はパソコン上でデータを作り、それをGPS本体に流すほうが効率的。 <<画像ファイルあり>> その他のアプリケーションも搭載されている。 <<画像ファイルあり>> GPS衛星からの電波状態を示す画面。 ところで、このeTrexはパソコンとの連携により、「カシミール3D」という地図ソフトにGPSデータを重ねることが出来る。このソフトは高機能ながらもフリーソフトで、誰でも簡単にダウンロードして使えるのが素晴らしい。 地図データは別途入手する必要があるが、国土地理院の数値地図25,000のCD-ROM(1地域7,500円)を使えば、相当な情報量が得られる。 しかも、eTrexのデータを地図に重ね合わせることで、自分の移動したルートを見ることが出来、なかなか楽しい。 <<画像ファイルあり>> 「カシミール3D」による50mメッシュ標高データのみの表示例。 <<画像ファイルあり>> 標高データに1/50,000地図を重ねた状態。 <<画像ファイルあり>> 3Dレンダリングによって俯瞰図を描いた状態。 そこで、デジタルカメラを持って自転車で町内を回ってみることにした。 適当に走り、適当な場所で撮影する。その撮影場所でポイント登録し、後でどこで撮影したかが地図上で判るようにした。もちろん、eTrexを使えばその場所へナビゲートすることも可能。 知らない道に入り、わざと道に迷うようにしていたが、どうしても太陽の位置などから帰るべき方向が判ってしまう。それでも、eTrexを使うことによって自信を持って知らない道を進むことが出来た。 <<画像ファイルあり>> 最初はeTrexを首から提げていたが、自分自身がGPS衛星の陰になり受信が途切れたため、自転車の前方に置くことにした。 実際に移動しながらの使い方としては、次の目標となるような交差点などで一旦止まり、そこであらためて次のポイントを探すほうが良い。自転車を走らせながらeTrexを操作したり液晶画面を注視するのは非常に危ない。 停車中にeTrexを操作する姿は、携帯電話を操作する場合とさほど変わらない。実際、我輩がeTrexを操作中には、誰一人不思議そうな目で見る者はいなかった。 それは、通勤時の電車内でも同じであった。 さて帰宅後、早速GPSデータをパソコンに取り込み、カシミール3Dにて表示させてみた。 <<画像ファイルあり>> 「カシミール3D」にGPSデータを転送してみた。地図データは1/50,000を使用。 <<画像ファイルあり>> デジタルカメラの画像ファイルを地図上のポイントにドラッグすると、カメラアイコンが生成され、それをクリックすれば画像が開くようになる。 <<画像ファイルあり>> 俯瞰図。撮影毎にポイント登録したため、その場所にポールが立っている。この町は坂が多いが山地ほどの高低差が無いため、起伏を若干強調して表示させてみた。 便利であることは確かだが、それ以前に非常に楽しく、撮影そのものの苦労が軽減される。 今まで我輩は撮影のための移動は"苦労"としか捉えていなかったが、これからは楽しみに変わりそうな予感がある。 見知らぬ場所への道案内として導入したパーソナルGPSではあったが、思わぬ副産物であった。 もはや撮影には欠かせぬアイテムである。 ---------------------------------------------------- [443] 2003年09月12日(金) 「死ぬ前にやっておくこと」 我輩は、職場を転々と変えて現在に至っているのだが(また来月にも別会社へ出向となる)、我輩が比較的長く在籍した部署にY氏がいた。彼は我輩と同い年であるのだが、会社員としては1年先輩である。 Y氏は小柄ながらも少し気難しいタイプで、短い会話の中でも強いプライドを感じさせる。 そのため我輩などは、Y氏と積極的に話をしようとは思わなかったのだが、それでも業務上の相談には何度かY氏を頼ったこともあり、少なくとも"悪い人間"という印象は持っていなかった。いや寧ろ、技術面では尊敬していた。 現在は互いに同じ品川のビルの別フロアで勤務しているのであるが、たまに社内ではY氏とすれ違うこともあり、それほど疎遠という気持ちは無い。 ところで今日、9月12日の朝、我輩の上司であるI課長殿が遅れて来た。どうやら、山手線上野駅で人身事故があり、その影響を受けたらしい。実は我輩も上野駅を経由するため、遅刻しても不思議ではない状況だった。 情報によれば、電車内で痴漢として取り押さえられた男が途中で逃げ出し、ホームから飛び降りて線路を横切ろうとしたところを電車にはねられたと言う。 「人身事故」という言葉には慣れてはいるものの、事故の詳細を聞くと、その光景が浮かんでくるようである。 それにしても縁起の悪い朝の始まりであった。 遅れてきた課長殿は、次長殿と何やら打ち合わせを始めた。それは、いつもの職場の風景としては見慣れたものであり、我輩は特に気にすることも無かった。単に、我輩は電話番として課長殿の動向を確認しただけである。 しかしこの日、打ち合わせを終えた課長殿がフロアにいる全員を集めた。連絡事項があると言う。 かしこまった様子に、少し緊張を感じた。 「皆に伝えることがあります。実は、Yさんがお亡くなりになりました。」 我輩は、言っている意味が解らなかった。Yさんと言っても社内には同じ姓の人物は2人いる。いや、派遣社員やアルバイトの中にも同じ姓がいるかも知れない。一体、誰のことだ・・・? しかし、亡くなったというのであるから、ある程度の高齢の人物であろう。我輩の知らぬYさんなのか。 その時、我輩の隣の者が我輩に小さな声で言った。 「Yさんって、小柄なほうの人だよね?」 「えっ?そんなまさか!」 だが、そのまさかであった。 「Y氏が亡くなっただと? どういうことだ・・・?」 Y氏の顔がブワッと脳裏に浮かんだ。生々しい存在感。ウソとしか思えない。階段を下りていけば、いつものようにパソコンの前に座っているんじゃないのか? たまに顔を見掛ける人物が、今この時間には生きていないとは・・・。 続けて課長殿は、誰を見るともなくこう言った。 「Yさんは、自殺だったそうです。」 皆、顔を見合わせた。我輩は、口が少し開いた。 Y氏が死んだことすらすぐに受け入れられないことなのだが、自殺などとは、我輩の実感に到達するにはあまりに衝撃的であった。 「自宅で自殺しているところを、上司に発見されたということです。自殺する前に誰かに相談出来れば良かったんですが・・・、もし皆さんも何か悩みがあったら、上司なり、周囲の誰かに相談するようにして下さい。」 課長殿の話の後、我輩は近くの者たちとY氏の自殺について話をしたが、それらの情報によれば、Y氏の周りでは色々とあったようだった。 その後、皆はいつものように仕事に戻った。それでも我輩は、Y氏についてずっと考えていた。今日はたまたま最高に忙しい日ではあったが、Y氏の自殺のことが頭から離れなかった。 なぜ自ら死ぬのだ? 死とは、元の世界に戻れない行為だぞ、行ったきり帰って来れないんだぞ! 一般には「死とは、無に帰すこと」と考えられている。 死ねば、その瞬間に意識は消滅し、夢すら見ない永遠の眠りの中に落ちてしまう。だからこそ、生きることの苦痛から逃れようとするために死を選ぶ者が後を絶たない。 「無に帰せば、楽になれる。」 ・・・本当にそうであれば良いが。 我輩は、自殺について正反対の場所にいる。 思春期には精神的に不安定な時期も通過したが、現在は強固な自我を築いており、どんなに苦しかろうとも、どんな辱めを受けようとも、絶対に自ら死を選ぶことはない。最後の最後には自分が勝つのだと信じて生きている。今は負けたとしても、最後は絶対に自分が勝つ。 我輩は、最後の勝利を得るために命を賭けることがあろうとも、負けを認めたような死は選択しない。つまり、自殺とは我輩のプライドに最もそぐわない行為である。 逃げるために死ぬより、闘って死ぬならば本望。 それに加えて、我輩には大きな心の支えがある。 それは、趣味。 我輩には幾つもの趣味があるが、カメラの趣味はかなり大きなウェイトを占める。世界の終わりが来たとしても、人類最後の目撃者たらんと非常袋にカメラとフィルムを常備しているほど。 何より、「死ぬ前にこのカメラを使わねば、死ぬ前にこの写真を撮らねば、死んでも死に切れぬ。」と思わせるほど、生きることの動機を持っている。死ぬ前にやっておくことばかりで、全く自殺のほうには辿り着かない。 要するに、未練や執着が強いのだ。 趣味をやっていると、それを通じてやりたいことや知りたいことが多く発生する。我輩などは1000年でも2000年でも生きたいくらい。 自殺など、その後でなければダメだ。 カメラ・写真は、趣味としては非常に深く突き詰めることが出来る。自殺防止には最適な趣味と言えよう。 趣味無き者には、死ぬ前にやっておくことを、今から増やしておくことを強く勧める。 ---------------------------------------------------- [444] 2003年09月21日(日) 「蔵王のお釜(1)」 <<画像ファイルあり>> 子供の頃、図鑑に載っていた「蔵王のお釜」の写真を見て、いつかこの場所に行ってみたいと思った。 ポッカリと大口を開けた火口に緑色の水が溜まっているその姿。キレイと言うよりも、不気味であった。その不気味さに子供心が惹かれた。 非日常的な風景は、スケール感さえも失わせ、それがどれくらいの大きさであるのかも分からない。まるでジオラマで造られた風景のようにも見える。 (この図鑑に掲載された多くの写真は、雑文108でも書いたようにスケール感を失わせるほど非常に鮮明な写真が多い。) 我輩は図鑑を観るたびに、本当にそういうものがあるのかということを自分の目で確かめたい気持ちに駆られた。 だが、蔵王というのは東北地方であるから、九州に住んでいた頃は実際に行く具体的計画は全く無かった。ただ漠然と「行けたら良いなあ。」という気持ちがあっただけである。 さて、関東地方で暮らすようになってから、我輩は時々、具体的に蔵王へ行くことを考え始めた。 しかし、問題は交通の便である。 山形駅までは新幹線で行けるものの、蔵王のお釜までは自動車でなければ辿り着けない。バスが運行されてはいるが、行き帰り共、各2便しか無い。しかも、行きで最初の便に乗り遅れると、次の便で行ってもすぐに最終便で帰って来なければならない運行ダイヤが組まれている。 下り 上り 山形駅前 9:20 12:50 刈田駐車場(お釜) 12:30 15:30 表蔵王口 9:35 13:05 ライザワールド前 12:46 15:46 蔵王温泉ターミナル 10:00 13:30 蔵王温泉ターミナル 13:20 16:20 ライザワールド前 10:30 14:00 表蔵王口 13:37 16:37 刈田駐車場(お釜) 10:46 14:16 山形駅前 13:54 16:54 (4/26〜11/4運行 山交バス) それでも、Web上で蔵王のお釜の粗い映像を採集していると、どうしても自分で鮮明な写真を採集したくなってきた。 そこで、9月の3連休に入る頃合いを見計らって蔵王への一人旅を決行することにした。 一人旅である理由は、天気の具合によってタイミング良く出発日を決めたり、撮影場所で数時間粘ることが予想されるからだ。必要があれば、山歩きもあるだろう。こんなところにヘナチョコ妻も一緒に連れて来れば、撮影という第一目的を果たすことが難しくなる。 ●事前準備 撮影の計画としては、とにかく、蔵王のお釜さえ撮影出来れば良い。他の観光スポットなど全く眼中には無い。 一人行動ということもあり、宿を取らず日帰りとする。ビジネスホテルならまだしも、蔵王温泉などの観光地で一人で泊まることも出来まい。 時間的には、朝5時頃に家を出て上野発06時34分の山形新幹線つばさ101号に乗ることが出来れば、山形駅前発の刈田駐車場(お釜)行きバス第一便に間に合う。山形駅に着いてバスに乗るまで8分の猶予があるので十分と思われる。 さて、何度も気軽に行ける地ではないため、事前の綿密な計算が必要となろう。 現地では限定された位置での撮影となるはず。そうなれば、撮影距離は固定される。誤ったレンズ選択をすれば取り返しがつかない。柵が設置されているため、遠ざかることは出来ても近付くことは出来ないのだ。 撮影を事前にシミュレートするため、先日導入したソフト「カシミール3D」で撮影することにした。 想定される幾つかの撮影ポイントで、レンズの焦点距離や撮影時間を設定し撮影シミュレーションした。   刈田岳山頂より望む 熊野岳避難小屋付近より望む 24mm (35mm判) <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> 40mm (35mm判) <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> 50mm (35mm判) <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> その結果、軽量なNew MAMIYA-6の交換レンズ50mm、75mmがあれば事足りるという確証を得た。 ならば、軽量ついでに150mm望遠レンズも持って行こうか。久々にNew MAMIYA-6のフルセットである。 それから、メモ用途として35mmカメラも持って行く。始めての場所であるから、旅路の様子などをこまめに記録したい。35mm判ならば、ある程度のクオリティを保ちながらその用途に耐える。もし中判で撮ろうとすれば、フィルムがいくらあっても足らないだろう。 今回はお手軽とはいえ山で撮影するのであるから、35mmカメラは片手で撮影出来るAFカメラしか選択肢は無い(両手がふさがると困る)。特に、グリップ感の最高なEOS630以外に考えられない。 ●当日(9月14日) 朝4時半、目覚まし時計が鳴った。 急いで着替え、朝食のコーンフレークを食べた。 財布を見ると3万円と十分ではあったが、少し心配になり、寝かせておくつもりだったヘナチョコ妻を起こし1万円を借りた。 この日は朝から晴れており、日中は暑くなりそうな予感。だが山に登ると寒くなるに違いない。長袖のシャツを着て腕をまくった。寒くなれば袖を戻せば良い。 家を出たのは予定通り5時過ぎ。 上野駅まで出て、みどりの窓口にて上野−山形間の往復自由席切符を購入。19,920円払った。 急いでホームへ行くと、禁煙自由席のほうには5人ほど並んでいた。これなら自由席でも座れるに違いない。 ところが、いざ列車が到着してみると、東京駅から乗り込んだ客が意外に多く、我輩などは座れるかどうかギリギリのところであったが、何とか座ることが出来た。 列車は順調に進むかに見えたが、福島駅の直前の郡山駅(こおりやまえき)で止まってしまった。というのも、福島駅に停車中のつばさ号が車両故障のため、後続の列車がそれ以上先に進めないとのこと。 事前に時刻表を検討して計画を立てているのだが、ここで遅れれば、1日2本しか無いバスに乗り遅れてしまう。数分の遅れでもかなり危ない。 結局、遅れは1時間10分と致命的で、残されたバスは3時間後(新幹線の遅れにより3時間のうち1時間は既に過ぎているが)の最終便12時50分発しか残っていない。なんてことだ、これだから田舎はイヤなんだ。 山交(やまこう)バスの案内所に入り、他の経路で蔵王のお釜に行く方法を訊ねた。だが、やはり2時間待ちをする以外に無いらしい。 我輩はそこでバスの2000円回数券を買い(600円の得となる)、外に出て山形駅周辺を散歩して2時間潰した。しかし山形駅は何も無いところで、本当に時間のムダとしか良いようが無い。九州や山陰も田舎だとは思っていたが、東北ほど徹底している田舎も無いと痛感した。早く撮影を済ませて早く帰りたい。 12時50分、やっとバスが来てそれに乗り込んだ。 乗客は我輩を含めて6人。 途中の蔵王温泉やライザワールドから数人乗り込んだが、それでもかなり少人数でバスはガラ空き状態。このような状態が毎日ならば、そのうち平尾台のようにバス路線廃止になるのではと心配した。 バスは、蛇行する道(エコーライン)をゆっくりと着実に上って行く。気圧が下がるためか耳がツンと痛くなる。時々唾を飲み込み解消した。 GPSの情報を見ると、高度が1000mに近付いている。ふと、GPSのストラップに付けていた小さいコンパス(方位磁石)に目を移すと、オイルに気泡が浮いていた。メインのコンパスも取り出してみたが、それも大きな気泡が現れていた。気圧が下がったことを実感する。 (コンパスにはオイル式とドライ式があり、オイル式は磁針の揺れを抑えるためにオイルが満たされている。) <<画像ファイルあり>> バスの終点は「刈田駐車場」。お釜までにはまだもう少し登らねばならぬ。ここから歩いて行くか、あるいはリフトに乗って行くか。 時間が無いので一気に駆け上がろうかとも思ったが、やはり登り道ではリフトのほうが早いだろう。 バスが、終点に着くと、もう時間は14時20分にもなっていた。 降りる時にバスの運転手が、バスの最終便は15時30分だと告げた。1時間10分しか時間が無い。 我輩は1630円払ってバスを降り、走ってリフト乗り場に行ってリフト券を買い求めた。往復のほうが安いので、この際、帰りもリフトにすることにした。 <<画像ファイルあり>> リフトに乗ると、強風が当たって寒くなってきた。まくり上げた袖を伸ばし、リフトの支柱にしっかり掴まった。途中、リフトに乗った客を撮影している係員がおり、「こちらを見て笑って下さーい。」と言っていた。我輩は別に自分の写真を欲しているわけではないので、カメラを構える係員を逆に撮影してやった。 <<画像ファイルあり>> リフトの途中で、県境があるのか看板が立っていた。 "ここから山形県" おかしい。山形県側からリフトに乗り、宮城県にあるお釜に行こうとしているのに、なぜ"ここから山形県"になるんだ? そこを通り過ぎたあと振り返ると、裏面は"ここから宮城県"と書いてあった。 お釜が宮城県であることを認めない者のゲリラ的犯行であろうか。 <<画像ファイルあり>> 気が急いていたためか、リフトのスピードは思ったよりも遅く感じられ、焦った我輩は到着してすぐに走り出した。 そこはまだお釜が見えぬ場所。道なりに走って行く。足下には大小の石が転がっており危ないが構っていられない。時間が無い。時計を見ると、もう14時30分であった。 しばらく走ると、お釜の上部が見えてきた。あと少し。 だんだんと下り坂になってきた。岩がゴロゴロしている場所で、我輩はカモシカの如く走り抜けた。少しでも岩を見誤れば転倒する。だが、走るしかない。 柵のある場所まで来ると、お釜の全容があらわとなった。 その大きさとスケール感に感動した。図鑑に載っていたお釜のスケール感を、実際に目で見て修正した。 だが、感動している時間は無い。急いで三脚をセットし、New MAMIYA-6を取り付けた。強風で三脚が倒れそうになるが、何とか持ちこたえる。 それにしても雲がかかって発色が良くない。 ミノルタフラッシュメーターでマルチスポット測光し、その値から何枚か段階露出をする。 少し待っていると、雲が少し晴れる。だがまたすぐに雲が陰る。上空を見ると、雲がもの凄い勢いで走って行くのが見えた。 雲はすぐ近くにあるため、時々山自体が雲に覆われてしまう。 じっと待っていると時間が無駄に過ぎるのだが仕方無い。 とりあえず1つの場所での撮影は済んだ。 今度はもっと引いて全体を撮ろうと思い、カメラを乗せたまま三脚の脚を閉じ、それを肩に担いで更に走った。 地面はまるで火星の表面のよう。冷たい強風のために息が詰まる。 刈田山頂まであと少しの場所まで来た。だが、戻り時間を考えるともう限界の距離だと思い、三脚を開いて撮影準備に入った。 雲が相変わらず頭上をすっ飛んで行く。一瞬陽が照りお釜を明るくするのだが、数秒経つともう消える。しかもお釜全体が陽に当たることは無い。 それでも粘り強くタイミングを待ち、一瞬のチャンスにシャッターを切った。 ところが、フィルム交換で思わぬ誤算が出た。 New MAMIYA-6はフィルム交換時にフィルムスプールを抜く際、カメラ底面から軸が飛び出る仕様になっている。ところが三脚にセットしてあると、軸が出られないためにフィルム交換出来なくなる。 そのため、フィルム交換するたびに三脚ネジを緩めてカメラを少し浮かさねばならなかった。この面倒な作業のため、良いシーンの幾つかを逃した。 我輩の周りには、普通の観光客がおり、それぞれ記念撮影していた。見ている限り、ずっとその場に留まり雲が切れるまで辛抱強く待ち続ける者はあまり居ないようだ。 それに対し我輩は、三脚を構え大きなカメラで長い間撮影している。浮いた存在として見えたことだろう。 時計を見ると、いつの間にか15時15分であった。バスの最終便まであと15分。 「くそっ、あと5分したら引き返そう。」 その間、雲の切れ間に差し込む陽を待った。 15時20分。 「もうさすがに行かねばマズイ。」 我輩は三脚の脚を閉じ、それを担いで再び走った。自分でも危ないなとは思ったが、最終バスが出ると帰れなくなるのだ。 やけに道のりが長く感ずる。下り坂を降り、そしてまた長い坂を上る。息が切れて口の中が苦い。空気を吸い込もうとするが、強風で思うように息が出来ない。冷たい風に、涙と鼻水が出てくる。ゼイゼイ言いながらも気が焦る。 しかしついに、カモシカのように石を飛んでいた脚もだんだん重くなり、スピードが落ちてきた。 ふと三脚のことに気付いた。 カメラをセットした三脚をそのまま担いでいるのだが、リフトに乗るにはそれが邪魔になる。 急いでカメラを外し、三脚の脚を畳み始めた。走りながらやるのは大変だった。 リフト乗り場に辿り着くと、7人くらいの列があった。マズイな、これは計算外・・・。 ここで順番を待つ時間は、非常に長く感じられた。そしてやっと順番が回ってきたものの、リフトが遅くて話にならない。さっき乗った時はこんなに遅かったか? 時計を見ると、15時25分。 正直言って、帰りは歩いたほうが早いと思った。しかし今さらどうにもならない。 前方に、ゆっくりと駐車場が見えてきた。そこにはバスが止まっているのが見える。あれが発車してしまえばジ・エンド。 <<画像ファイルあり>> 15時29分。 あと少しでリフト下駅に着く。「もう少し待っていてくれ」と心の中で叫んだ。バスはもう目の前。 しかし、最終便バスであるから、少しは待っていてくれるのではないかという希望は捨てなかった。我輩は悪運が強いはず・・・、あっと!バスが出て行く! バスは駐車場をキッチリ15時30分に出て視界から消えてしまった。 ・・・ジ・エンド。 リフトから降り、急いで駐車場に行ってみた。そこにはバスのいない停留所。「ならばタクシーか」と思ったが、いくら見渡してもタクシーも無い。 駐車場にある売店の中に入り電話を探したが無い。仕方無く外へ出て駐車場を彷徨(さまよ)った。どうすればいいんだ? 他の観光客は、皆楽しそうにマイカーに乗って帰っている。我輩は孤独の中にいた。 リフト乗り場に戻れば、そこに電話があるかも知れない。 急いで戻り、見渡した。しかしそこにも公衆電話は無かった。なんという場所だ、ここは・・・。 我輩は、リフト券売場のオバチャンに、タクシーを呼んでもらえないかと頼んでみた。オバチャンは「バスに乗り遅れちゃったの?」と驚き、タクシーの手配をしてくれた。助かった・・・。 タクシーは40分くらいで来ると言う。我輩は、リフト乗り場の休憩所で待った。 その間、色々な人が我輩の座っている前を横切った。子供・・・いや、乳児を連れている者もいた。抱きかかえてリフトに乗るらしい。 しばらくすると、財布を落としたという者が現れ、リフトの係員に相談していた。子供を連れていた。「財布が見付からないと一文無しだよ」と嘆いていた。横浜から来たようだった。 係員のオイチャンは、警察に遺失物の届けを出したほうが良いとアドバイスしたが、宮城県か山形県かどちらの警察に行けば良いかと訊かれて少し困っていた。 「リフトの下で落としていれば山形県、リフトの上だったら宮城県・・・。」 16時25分、タクシーがやってきた。 我輩はリフト券売場のオバチャンに礼を言い、その場を後にした。 とりあえず、バスの便がまだあるであろう「蔵王温泉」のバス乗り場まで行けば良い。さすがに山形駅まで行くと金が掛かりすぎる。 タクシーの中では運転手は何もしゃべらなかった。我輩もしゃべらなかった。 ずっと無言でタクシーは山を下りて行く。 我輩は考え事をしていた。「事前に計画していた撮影ポイントなど全く考慮するヒマが無かったな・・・。これは、もう完全なる失敗だ。」 蔵王温泉到着は17時ちょうど。 5千円くらいかかるだろうと思っていたが、8千円もかかってしまった。事前にヘナチョコ妻から金を借りておいて良かった。本来の手持ち金ではギリギリだったろう。 ヘナチョコへの感謝の意味を込め、蔵王温泉の閉店間際の土産物店で餅と絵ハガキを買った。 <<画像ファイルあり>> 山形駅行きのバスは、17時40分発であった。 バスの待合室でしばらく待った。そこには蔵王マップなど色々な情報があったので、それを35mmカメラで撮影して過ごした。 バスが到着しそれに乗り込み、山形駅まで出た。時間は18時20分。もうすっかり暗くなっていた。 18時35分発つばさ126号で上野まで帰ろう。しかし、ホームに出ると自由席待ちの列が長く、これでは恐らく座れまい。案の定、列車が来ても座れなかった。帰りは指定席にすべきだったか。まあ3時間程度であるから、何とかなろう。そう思ったら、次の停車駅で席が空き、座ることが出来た。 座ったあと、また考え事をした。 もう二度と行きたくない蔵王ではあるが、中途半端に終わらせることは出来るはずもない。やはり、再度行かねばならないのか。 次回行くとすれば、今度こそ二度と行かなくても済むように、自分の納得する写真を撮るようにしたい。 そう考えていると、疲れていた身体に再びエネルギーのようなものが湧いてくるのを感じた。 いつかきっと、我輩は戻って来る。 "I'LL BE BACK" <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [445] 2003年09月25日(木) 「蔵王のお釜(2)」 <<画像ファイルあり>> バイキング探査船が捉えた火星の人面岩の写真。その後のマーズパスファインダの調査では、それは単なる陰のイタズラだと結論付けられたが・・・。 今年、火星が地球に大接近した。 あるUFO研究者によれば、火星大接近の年にはUFO目撃が激増すると言う。まさかとは思うが、今年の大接近は5万7000年ぶりの超大接近であるから、それに比例してUFO目撃が増えるか・・・? まあ、UFOが見える見えないというのは、一瞬の現象であるが故に証明の方法が無い。 ところが火星表面にあると言われる人工構造物(例えば人面岩)には少し興味を引かれる。なぜならば、「行けばそこにある」のだ。UFO目撃のように、後日行ってももう遅いというものでもない。いつかその場所に到達出来れば、必ずそれを目の前に見ることが出来る。 結局のところ、それが自然地形であろうが人工構造物であろうがどちらでも良い。いつかその場所に到達し証明出来るという希望があるからこそ、夢があると言える。 「いつかそこに行ってやるぞ」と。 ●写真調査 ところで、先日蔵王に行ったということを雑文444にて書いた。 現像した写真をルーペで丹念に舐め回し、その場にいて肉眼では見えなかったようなものをジックリと見ていった。特にあの時は、時間に追われていたため、肉眼で確認出来るようなものでも目に入らなかったというのが正直なところ。 その中で、幾つか不思議な地形があることを認識した。 それらの1つ、お釜のフチの部分に何かがチョコンとあるのが気になる。単なる岩だとは思うが、なぜそこに1つだけあるのだろう。どんな岩だろうか?どんな大きさだろうか? 遠くからしか見ることの出来ない地形なだけに、妙に想像が膨らんで仕方が無い。 <<画像ファイルあり>> ここに何かある・・・。 <<画像ファイルあり>> 拡大画像。何だこれは? <<画像ファイルあり>> 我輩の想像図。異星人による惑星探査装置(プローブ)と思われる。 そんな時、Web上で色々と検索していると、お釜のほうまで近付いた登山家のレポートが幾つか見付かった。 「下まで降りられるのか?! お釜のそばまで行けるのか?!」 前回メモ撮影として35mmカメラで撮ったポジをあらためて見てみた。蔵王温泉バスターミナルで、蔵王マップを写していた。そこには蔵王連峰の登山ルートが赤線で記されていたが、確かにお釜に降りるルートも記されているのを確認した。 <<画像ファイルあり>> 赤線で示された登山道がお釜の近くまで引かれている。 よし、今度はここに降りてみよう。 我輩は決心した。 決心すれば、それを遂行するための手段を探すことに集中するのみ。Web上から得られた情報は断片的なものであったが、「お釜のほうへ降りることが出来た」という最終事実はどれも共通している。想像力を働かせ、断片情報を事実まで結び付けたい。 まず、お釜の写真を見て、どこから降りられるかを検討した。 蔵王マップによれば、位置的に「ロバの耳岩」あたりと刈田岳あたりから降りられるようなのだが、写真を見れば見るほど、断崖絶壁に囲まれたお釜に降りられるとはとても思えなくなる。 それにしても、地図上では「ロバの耳岩」から先は通行禁止となっているが・・・大丈夫なのか? <<画像ファイルあり>> お釜の周りは崖に囲まれている。 断片情報によれば、柵を乗り越え、観光客のギャラリーを背にして降りて行ったとのこと。ということは、少なくとも柵のある場所ということか。 いずれにせよ、通常の装備では降りられそうにないのは確実。 どこから降りるか、その場所はピンポイントでは特定出来ないが、大体の場所は分かった。あとは現地でその近辺から降りられそうな所を見付けるしか無い。 とりあえず、装備を揃えねばならぬ。 ●事前準備 まず最初に、トレッキングシューズとザックの入手を考えた。 アウトドア系の営業B氏に相談し、幾つかの前知識を得た。それにより大体の予算を立て、上野-御徒町近辺で探すことにした。 我輩は現在、ナイキ関連の仕事をやっていることもあり、トレッキングシューズならばナイキのACGかと考えた。だが、店頭にあるものの中では我輩の探しているものは無かった。 火星の表面に似る岩石の地面を歩くのであるから、靴底(アウトソール)は硬めで強いものが良い。溝も深く、斜面でもグリップが効くような形状を選びたい。 その結果、ホーキンズのものを選んだ。4,700円也。 さて、ザックはどうしようか。 B氏によれば、カメラを考慮するならばカメラ用のものを買ったほうがショック吸収などの処理について良いとのこと。その助言を受け、ヨドバシカメラで18リットルのものを購入。妥協せず選んだため15,000円ほどかかった。 次に手袋を考えたが、これは軍手で良かろう。これは自宅にある。 寒さと雨避けにコンパクトジャケットを購入しようと思ったが、売っている店が見付からずWeb上で購入。銀行振込で2,480円。 靴は足に馴染まないと困るため、何度か履いて近所を散歩した。 ズボンは裾が長いと荒れ地を擦るだろうと考え、3cmほど裾上げもした。丁寧にやっても仕方無いので適当にやった。 また、少しでもスタミナを付けるため、通勤時には重いカバンを持った手を真っ直ぐ下ろさず少し持ち上げたまま大股で歩いた。気休め程度であるが、自信を付けるという意味ならば無駄なことではない。 さて、今度はいつ行くべきか? 天気予報をチェックすると、どうやら台風が近付いて来ているとのこと。さらに、日本列島全体に被るように前線が張り付いている。 今週は無理か? しかし、Web上の天気予報を1日に何度も見ていると、どうも台風が過ぎた後に晴れそうな様子。ちょうど春分の日(9月23日)に晴れそうだ。 我輩は「Yahoo」、「infoseek」、「Mapion」の天気予報をチェックしていた。また、蔵王のお釜は山形県と宮城県の県境に近いため、両県の予報もチェックが必要。 「Yahoo」と「infoseek」は楽観的な見方をしていた。しかし「Mapion」は頑なに"雨"の予報を続けている。 我輩はいつにすべきかを悩んだが、ともかく9月22日(月)に休暇を取り、9月20〜23まで4連休として万全の体制を取ることにした。 そのうち、「Mapion」の天気予報も9月23日は全面的に晴れの予報を出した。他が"晴のち曇"の予報であるのに、全面的に"晴"というのもウソくさい。 だがしばらく経つと、「Mapion」も午後から曇るという表示に変わった。 それを受け、決行は9月23日とした。前日に天気予報の最終確認を行い、翌日早朝出発する。 さて経路についてであるが、今回は山形は避けたい。 Web情報によれば、山形側からではなく宮城側からのほうがバスの本数があるとのこと。調べてみると、上り5本、下り4本もある。東北新幹線「白石蔵王駅」から乗る宮城交通のバスである。 ただし最初の便は乗り換えが必要であるが、特に問題は無かろう。 下り 白石蔵王駅 8:42 − 9:40 10:49 12:40 白石駅前 8:50 − 9:48 10:57 12:48 遠刈田温泉 9:31 9:40 10:29 11:38 13:29 蔵王刈田山頂(お釜) − 10:30 11:19 12:28 14:19 (4/26〜11/3運行 宮城交通) 上り 蔵王刈田山頂(お釜) 12:03 13:40 14:30 15:20 刈田駐車場前 12:11 13:48 14:38 15:28 遠刈田温泉 12:58 14:35 15:25 16:15 白石駅前 13:39 15:16 − 16:56 白石蔵王駅 13:45 15:22 − 17:02 (4/26〜11/3運行 宮城交通) ●当日(9月23日) 当日は完璧に晴れた。 朝4時に起床し、前日までに用意した全ての荷物をチェックした。カメラは「ブロニカSQ-Ai」を持って行く。レンズは40mm広角と35mm魚眼。さらに自作魚眼カメラも入れた。35mmカメラは前回同様「Canon EOS630」。 当然ながら、電池の換えは持って行く。絶対に動いてもらわねば困る。 フィルムは奮発して「Kodak E100G」を10本。予備として「EPP」も入れておいた。 しかし心配事は、Webで注文したコンパクトジャケットが間に合わなかったことだ。銀行振込ではなく代金引換にしたほうが良かったかも知れない。 冷え込むことが予想されるため、下に少し着込んだ。これで足りるか・・・? 5時前に家を出たが、空にはまだ星が出ていた。 コンビニエンスストアへ寄り、サンドイッチを買ってザックにくくりつけた。これが昼食の予定。 上野駅まで順調に移動。さて、問題は新幹線か。 前回は新幹線の遅延があった。出だしから歯車が狂ってしまったわけだが、さて今回は? みどりの窓口で往復切符を購入。今回は指定席を取った。往復19,720円。翌日は出勤日(その日は業務の都合上休めない)であるため、席取りの心配を無くし疲労を少しでも無くそうと考えた。もっとも、全てがスケジュールに乗ればの話だが・・・。 新幹線は2階建てのE4系で、前回の山形新幹線400系とは全く乗り心地が違う。もう山形新幹線など乗らぬ。 空は見事に晴れており、景色の良い2階のからの車窓は最高だった。そしてそのままウトウトした。 ふと気付くと、空は一面ネズミ色。こ・・・これは? よく見ると、ビルなどの建物の上部が雲に隠れている。どうやらこれは雲ではなく霧のようだ。しばらく経つと霧を抜けたようで、元の快晴に戻った。 快晴のまま「白石蔵王駅」まで到着。 バスの乗り場はすぐに分かり、発車待ちをしているバスに乗り込んだ。ここから乗った客は我輩ともう1人中年の女性のみ。 10分後、バスは発車。途中で乗客は何度か入れ替わり、終点「遠刈田温泉(とおがったおんせん)」に着いた。ここまで980円。 そこはバスのターミナルのようで、すぐに「蔵王刈田山頂行き」バスが来た。 バスは発車し、途中で団体のオバチャン客を拾い、ほぼ半分の席に乗客が埋まった。蛇行する道に沿ってバスはどんどん上を上って行く。 途中、運転手が滝の見える場所でバスを止め、「ここから〜が見えます。今日は天気が良いので〜も見えますね。」と解説した。オバチャン客などは「えっ、どこどこ?」と窓を見る。反対側の客も立ち上がる。我輩も立ち上がる。 まあ、バスのことだから、そういう時間も見込んだダイヤを組んでいるだろう。景色には興味無かったが、「いいから早く発車しろ」などとも思わなかった。ほのぼのとした雰囲気がなかなか良い。 <<画像ファイルあり>> バスの左手に皆の視線が集まる。 10時30分、バスは定刻通り刈田山山頂に到着した。遠刈田温泉から800円である。帰りのバスの最終は15:20であるから、5時間弱あることになる。今回は余裕だな。 運転手は降りる時に言った。 「昨日はほとんど真っ白で何も見えませんでしたが、今日はこんなに快晴で、みなさん日頃の行いが良いようですねー。」 確かに素晴らしい快晴で、雲の形も絵になる。 我輩は、はやる気持ちを抑えながら準備をした。トレッキングシューズの紐をきつく締め直し、ザックの全てのフックを固定し、軍手をはめた。 「よし、行くぞ。」 拳で掌を打ち、軍手を伸ばすと同時に気合いを入れた。 まず、お釜の左側からアプローチ。 素晴らしい眺め。やはりこの景色は快晴でなければならぬ。晴れているからこそ、湖が暗く不気味に見える。前回のような曇り空では、この不気味さはとても表現出来ない。 我輩は三脚をセットし、構図を決めて5枚続けてシャッターを切った。段階露光である。ここまで来て失敗は許されぬ。「絶対にこの露出値は違うぞ」というところまで段階を切った。これで露出がハズレていようものなら、もはや処置無し。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> さて、地図ではこの近くに下に降りる登山道があるとのことだった。それはどこか。 少し探してみたが良く分からない。仕方無い、反対側の「ロバの耳岩」あたりで探してみるか。 今回は時間があるとは言うものの、快晴が続くのは午前中までらしいので、とにかく三方からの写真を撮っておこうと思う。 中間の「馬の背」から正面の写真を撮る。最初は雲に阻まれたが、20分ほど粘ると回復し快晴となった。 この時点で11:00。 次の熊野岳からの眺めは、やはり太陽が雲に隠れて色が冴えない。せっかくここまで登ったのだからと少し粘ったが、無駄な"待ち"が増えると時間がいくらあっても足りない。後回しにしてとりあえず下に降りる道を探そう。 「ロバの耳岩」の方角へ進むが、行く手には立ち入り禁止の立看があった。落石危険ということらしい。 <<画像ファイルあり>> このような立看が2つ設置されていた。 困ったが、「ロバの耳岩」まで行かなくとも途中で下に降りる道があるはず。そこまで行けば良いのだから、敢えて立看を通過し歩いた。 右手には断崖絶壁。しかし前方は広いなだらかな斜面。高所恐怖症の我輩は、断崖絶壁から50メートルほど距離をあけて下った。しかし、やはり道が分からない。どう考えても断崖絶壁を下らねば下に降りられそうにない。道がここから見えないだけだとしても、この高低差は肝を冷やすほど。ここから行くのは無理だ。 <<画像ファイルあり>> 右手は目もくらむような高さの断崖絶壁。 仕方が無いので、とりあえずこの場所で止まり、昼食を摂った。 一瞬、晴れ間が広がったので、この角度からのお釜を写真に収める。湖面の波がキラキラと美しい。 この時点で12:30。 食事後、再び近辺を見て回ったが、とにかく断崖絶壁が高過ぎてめまいがする。お釜の角度もあまり良くないので、もう引き返すことにしよう。 残念だが、今回はお釜のほうまで降りることは出来なかった・・・残念。 下まで降りないとなると時間はまだあるので、少し戻って良い角度の写真を撮ることにした。 ここからは熊野岳からの緩やかな下り坂となる。しかし岩石だらけなので、足を取られて滑落せぬよう注意して降りた。地面に食い込んだ岩ではなく浮石に足を掛けてしまうと危ない。 何とか無事に平坦な場所まで到達し、撮影準備をした。 しかし雲が多くなり、自分のいる場所そのものが雲の中に入って数メートル先さえ見えないほど真っ白になった。 辛抱強く待っていれば晴れるだろうと思っていたが、なぜか晴れてくれない。 午後から曇・・・。天気予報の文字が浮かぶ。 雲というのは冷たいもので、前回より弱いとは言えそれでも強風と言える風が吹き付ける。そんな状況では身体が冷え切り、鼻水も止まらなくなった。 「くそ、コンパクトジャケットさえ届いていれば・・・。(自分のせいだが)」 あまりの寒さに、窪みに待避して風をしのいだ。 13:30、もう我慢の限界。 寒さは身体の芯まで到達した。周りを見渡しても真っ白な壁しか見えない。さっきまで聞こえていた人の声も全く聞こえない。恐らく皆、下のほうに降りていったのだろう。 我輩はガタガタ震えながら刈田岳のほうに降りて行った。 この登山道は、道に一定間隔でポールが立っているので道に迷うことが無いのが有り難い。 誰もいないので歌でも歌おうかと思ったが、それでもたまに登山者が白い壁の中から現れてすれ違うのでやめておいた。 <<画像ファイルあり>> 周囲を白い壁に囲まれているようだ。 最初の撮影地点まで戻って来た。そこには誰もいない。 柵の向こうにはお釜が見えるはずだったが、白い壁が邪魔をして全く見えない。やはり今日はもう打ち止めのようだな。 しかしそれにしても、どこから下ればお釜に到達出来るのだろう?それが気になる。確かに、道と言われればそう見えなくもないものがあるのだが、その先は勾配が急になっているらしく地平線となっている。地平線の先がどうなっているかは、柵を越えてそこまで行かねば分からない。 我輩は、諦めて引き返した。こんなガスの中では視界が利かず何も見えぬ。無駄だ。 帰り道、親子二人連れがすれ違った。 「あー、全然見えないねー、真っ白だ!」 残念だったな、もう帰るしか無いぞ。 「あ、だんだん晴れてきた!わー、凄い凄い!あれがお釜だ!」 なにっ? 振り返ると、そこにお釜の姿があった。曇り空ながらも、視界を妨げるような雲はみるみる払われた。 「ウーム、柵を越えてちょっと見に行ってみるか? 見に行ってダメならすぐ戻れば良い。」 気付くと、刈田岳のほうから観光客がどんどんこちらに近付いてくるのが見える。 「マズイな、やるなら早くやらんと行きづらくなるぞ、どうする?」 心臓の鼓動が早くなるのを感ずる。 時計を見た。13:50。 ほとんど衝動的に柵を越えた。そして後ろを見ないように前へ進んだ。 慎重に降りて行き、柵の所から見えていた限界点まで来た。予想通り急な坂になっていたが、その先は再び緩くなっていた。だが最後まで行けるかはここからでは分からない。 少なくとも、そこから見える場所には降りられそうだと思った。先程、熊野岳斜面を降りた時のことが甦り、可能・不可能の判断に役立った。 それにしても下り坂は神経を使う。岩石だらけでまるで火星表面のよう。 浮石を見極めながら足を運ぶ。小刻みに慎重に歩く。 ふと上を見ると、観光客数人がこちらを見ているようだった。しかし十分に離れているので、その表情までは分からない。 そのうち視界が開けてきて、お釜の横顔が見えてきた。 もの凄いスケール感が我輩を圧迫する。 「こ、こんなにデカかったのか・・・。」 そこでハッと思い出し、EOS630を取り出してシャッターを切った。来た道も撮影した。設定はAF・プログラムAEで+0.5の補正を入れてある。 所々に、宮城県マークの入った水準点のような指標が埋まっている。そして、風化したようなコンクリートの道のような形跡も認められた。 <<画像ファイルあり>> 下りてきた方向を振り返って見たところ。 この状況を写真で見ると、両側はそれほど急な勾配ではないように見える。だが、この下に垂直な崖があるとしたら、緊張の度合いは一変するだろう。 目を凝らし、どこからか降りられそうな所を探した。 斜面に巨大な岩が食い込んでいる地点があった。そこを目指して降りようか。多少滑ったとしても、岩に飛び付けば転落は免れよう。 ソロソロと降りて行くと、地面には靴とスティックの痕があった。やはりここは人が通っている。 そう思うと、勇気が湧いてきた。 幾つの崖を降りたろうか。 神経を使って足下ばかり見ながら降りるのは疲れるが、ふと気付くと、もうずいぶん降りてきたことが分かった。 いつの間にか土の色が赤から白へ変わっていた。ここまで来れば、もう楽勝。 「やった!ついにやった!」 嬉しさに拳を下から突き上げた。誰もいないので何度かやった。 諦めかけていた光景が、今、想像を越えたスケールで目の前に迫っている。 前回上から撮った写真に写っていたお釜壁面の白いスジは、実際にそこへ行ってみると巨大な溝で、それを一つ越えるのも大変だ。凄過ぎる。 時計を見ると、14:20。 あと1時間でバスの発車時間か。 前回のこともあり、少し焦ってきた。 途中、沢に出た。 時間が無いので帰りに撮ろうと素通りした。とにかく、お釜に接近するのだ。 不思議なことに、白い地面はふわふわした感触で、まるで絨毯の上を歩いているようだ。なんだ、ここは? ここは風が無く、音も全く聞こえない。シーンとして別世界にいるようだ。 それにしても、上から見た小さな地形が、目の前では大きく迫ってくる。そのスケールは、頭の中の世界を書き換えるほど。 子供の頃に図鑑を見た時のスケール感、前回上から見下ろしたスケール感、そして今目の前で見たスケール感。 どんどんダイナミックになる感覚。 これはもう、実際に下まで降りた者にしか絶対に解らないだろう。 天に向かって神仏に感謝し、同時にこの先の安全を願った。 子供の頃からの夢の1つが今、叶いつつある。 今死んでも良いとまでは言わないが、死ぬまでにやるべきことの1つをクリアしたような気分だ。 しかしそれにしても空が白いな・・・。 <<画像ファイルあり>> とにかく時間が無いので、感動もそこそこに、例の惑星探査装置の所に急いだ。 その正体は、以下の写真である。 <<画像ファイルあり>> 残念ながら、それは惑星探査装置ではなかった。しかし、十分な調査をする時間が無かったため、岩石に偽装している可能性も捨てきれない。 ちなみに、賽の河原の如く石を積み重ねた光景はこの一帯ではよく目にする。山ではこういう風景は一般的なのか? さて次なる目標は、湖面に到達することである。 そこまで降りるのも苦労したが、何とか降りることが出来た。 ここでは、セルフタイマーで記念写真を撮る予定。 上空を見ると、雲がすぐそこまで降りてきている。湖面からは湯気が少し昇っていた。気温低下のためと思われる。水に触ってみたが、これといった特徴は感じられなかった。前日に降った雨で上層部は薄まっているのだろうか。 急いで三脚を開き、セルフタイマーで自分を撮った。 上を見ると雲が立ちこめており、ギャラリーの姿は全く見えない。見えたとしても、米ツブのような人物が何をしているかなど分かるはずも無い。 時間は14:30。そろそろ引き返さねば。 今度は一転して登り坂。下る時よりも登るほうが簡単かと思ったが、しかし体力が要る。神経を使わないのだが、とにかく息が切れる。 1600メートルくらいの高度でも、空気の薄さが影響しているのか? 下る時よりも時間が掛かっているため、少し焦り始めた。 後回しにした撮影を少し撮影したが、フィルム交換など意外と時間が掛かり(軍手を外せば良かったが)、気が付けば14:50。 そろそろヤバイな、バス発車まで30分。 登り坂はとにかく苦しい。息が切れてきた。前回の記憶が甦る。しかし時間は刻々と過ぎて行く。 15:00になっても、まだ水準点近くだった。 足がふらつき始めたので10秒ほど休む。そして、また登る。 やっと柵が見えてきたのが15:10。そこから一組のカップルがこちらを見ていた。 柵まであと少しであるのに、足が思うように動かない。休み休み上がる。汗がボタボタと流れ落ちる。暑くてどうしようもない。 苦しみながら、ようやく柵を越えたのは15:15。 バス発車まであと5分かっ?! こんなフラフラの状態で、刈田山頂まで行けるのか? 周りは白く雲に包まれ、そこまでの距離が分からない。だが、とにかく急ぐしかない。 柵の内側であっても、岩石が多いことに変わりない。必死に上り坂を歩いた。自分では走っているつもりだが、普通に歩いているくらいのスピードしか出ない。 口で息をするとバテると言われそうだが、もはや口でしか息が出来ない。 時計を見ると、あと3分。 しかしこの時計は若干進んでいたと思い出した。ただ、具体的にどれほど進んでいるのか分からない。2分か?3分か?それとも、進んでいると思っているのは気のせいか? パーソナルGPSの表示を見れば正確な時刻が分かるのだが、ザックに絡んでしまっているので見ることが出来ない。 とにかく、今この時を急ぐしか無いのだ。 それでも、もう足が震え、息も苦しい。ここまで苦しいと、「もう間に合わなくてもいいか」とさえ一瞬思った。 しかし邪念を打ち払い、力を振り絞って坂を登った。 急に目の前が開け、山頂のレストハウスが見えてきた。この裏手に、バスの待つ駐車場がある。 ここまで来れば、もう上り坂は無い。ただ、道を歩くだけ。 「寒い寒い」と言いながらお釜のほうに歩いて行く観光客とは反対に、我輩は汗を流しながら歩いた。 時計はもう、15:20。 バスはまだいるか・・・? レストハウスを回り込み駐車場に行くと、そこに宮城交通のバスが待っていた。 助かった! 我輩は、思わず写真を撮った。 (感動した時にシャッターを押すのは写真の基本だ。) <<画像ファイルあり>> バスの待つ駐車場へようやく辿り着いた。 最後の上り坂である、バスのステップに足を掛け、整理券を手にした。 誰もいない。自分が最初の乗客だった。 座席に座り、汗を拭いた。 まだ時間に余裕があったようで、そのバスは2〜3分は待っていた。 その後、女性2人連れが我輩の後ろに座り、バスは白石蔵王を目指して発車した。 我輩は、バスに揺られながらMDを取り出し音楽を聴いた。昔、NHKで放映された「地球大紀行」のサウンドトラックである。このシリーズはDVDも揃え、今まで何度も観ている。これを観るたび、地球のダイナミックなスケール感が伝わってくるようだ。そのサウンドトラックであるから、目を閉じれば、さっきまで我輩がいた無音の世界をリアルに感じられる。 バスは途中、何人か乗客の入れ替えはあったが、最初の2人連れの女性たちはJR東北本線白石駅で降りた。きっと近県の人間なのだろう。 我輩はそのままバスの終点である白石蔵王駅で降りた。1,560円払った。 40分ほど待てば、新幹線の指定席に乗ることが出来る。自由席ならば早めにホームに行くところだが、今回は指定席であるから、事前にゆっくりとトイレに行き、ゆっくりと土産物を物色し、ゆっくりと水分を摂った。 それにしても、今回は計画通りに移動することが出来た。嬉しく思うと同時に、最後にホッと落ち着いた。 新幹線は、懐かしい200系がやってきた。 途中、福島駅で止まり、そこで女性2人が乗ってきた。バスで一緒だったあの2人連れだった。そういう経路もあるのか。そのほうが安いのか? ●今回のまとめ 今回、お釜の撮影は完結させるつもりだったが、やはり時間は足りない。そして、晴れている時に下に降りたい。 悔しいが、撮影は未完に終わったと言える。 だが、下に降りられるということが分かったのは大きな収穫だった。行って良かった。 今年は行けるかどうか分からないが(金銭的にも季節的にも)、今回も最後に言わねばなるまい。 "I'LL BE BACK" ---------------------------------------------------- [446] 2003年10月04日(土) 「レタッチ」 10月より、我輩は某財団法人へ出向を命ぜられ、引継も慌ただしく新しい仕事に従事した。 ここでの業務は、国からの予算により行われるため、当然ながら省庁とのやりとりとなる。役所というのは夜型であるため、我輩もその影響により夜が遅くなると聞かされた。 今後、雑文の更新が今以上に遅くなろうか。 今までの仕事は、制作業務と営業業務の割合が2:8といったところだった。 営業としてはWebのシステム絡みの活動を任されていたわけだが、制作業務のほうは割と印刷用版下作成が多かった。なぜならば、以前は印刷営業だった関係上、その時に付き合いのあった客からの仕事が時々入ってくるためだ。 印刷物の内容としては、製品のパンフレットが多いが、客から支給される写真データはシロウトがデジタルカメラで撮影したものばかり。しかも、工場内やどこかの地べたに置いたものを蛍光灯の下で撮影している。 当然ながら色被(かぶ)りあり、手ブレあり、ピンボケあり、背景悪し・・・。 あまりにヒドイ写真の時は、製品そのものを借りて我輩が撮影し直す時もあった。しかし時には、「製品をトラックに装着した例」というような写真もあり、さすがにトラックは借り出すことは出来ない。 そのような時は仕方無く与えられた写真を使い、パソコン上で写真の背景を切り抜いたり、映り込みを消したり、歪みを矯正したりする。いわゆる"レタッチ"である。 クリエイターという立場で言うとすれば、レタッチというのはもう少しエフェクティブに視覚効果を狙った前向きでありたい。だがこの場合、アラを隠すためにレタッチを施し整形手術をする。 今までに行った作業の内容を挙げてみると以下のような感じか。 (1) 製品の汚れや映り込みを消す。平坦な部分の粒子の荒れを消す。色被りを消す。 (2) 遠近感による被写体の歪みを矯正する。 (3) 雑然とした背景を切り抜き、単純な背景と差し替え影を付ける。 (4) 被写界深度の浅い写真の場合、前面にはピントが合っていても後ろのほうにはピントが合っていない。後ろにピントを合わせると、今度は前面が合っていない。そんな写真が複数ある時に、それらのピントの合っている部分を合成して全体にピントが合っている写真を作り上げる。 泥臭い作業と言えばそうだが、最低な元写真をキレイに仕上げ製品パンフレットを作り上げるという意味では、なかなかやり甲斐のある作業だったとも言える。特に、客から「またお願いします」と言われれば、「また最低な写真を支給するつもりか」と一瞬思うものの、悪い気はしない。 ここでは一例として、基本的なレタッチである「背景の切り抜き」と「影の付加」の作業工程を掲載してみた。 (1)元画像 <<画像ファイルあり>> 未加工の画像。蛍光灯の下で撮られた場合もあるが、その場合には色被りや一部ピンボケ(浅い被写界深度のため)などを併発させていることが多い。この写真では、床の色が被っている。 (2)切り抜き <<画像ファイルあり>> フォトショップのなげなわツールを使い、背景を選択し切り抜く。背景と被写体との境界線は色が混じるピクセルがあるため、それを含んで切り抜くようにする。自動選択ツールを使うと直線が出ないことが多い。 (3)グラデーション背景 <<画像ファイルあり>> 背景をグラデーションで塗り潰す。色のグラデーションでも問題無い。 (4)一次影付け <<画像ファイルあり>> 切り抜いた被写体の輪郭と同じ選択範囲で黒く塗り潰し、軽くボカシをかける。これは直接光源の一次影である。被写体の脚の高さを計算して影のズラし方を調整する。ただしこれだけでは被写体が浮いているように見える。 (5)二次影付け、最終調整 <<画像ファイルあり>> 環境光からの影として柔らかい二次影を付加する。これは被写体の輪郭線をそのまま使うのではなく、影を落とす部分と地面との距離を考慮しながら範囲選択する。高い部分にあるパーツの影はより柔らかくする。同時に最終調整として、被写体のコントラストや明るさ、色被りを補正する。 言っておくが、これはデジタル画像での話。業務用ならば効率と効果が重視され、最終作品とは写真のような素材ではなくあくまでパンフレットである。極端な話、犬の写真を加工して猫に変えたとしても、パンフレット作成に役に立てば良い。 我輩の場合、ポジフィルムが最終作品であるため、レタッチの入り込む余地など無い。自ずと撮影時に全ての技術や労力を投入し作品を造らねばならぬ。少しでも失敗すれば、また撮り直す。 そういう潔癖さが、我輩の趣味に対するこだわりである。 画像の目が粗いながらも後からどんな調整も利くデジタル画像よりも、撮影時に苦労しながらも最終結果として緻密で深い画像のポジ作品を残すことを選ぶ。 従って雑文405で紹介したようなレタッチは、既に存在する最終作品を元にして二次使用した結果であり、言うなれば"遊び"と言えようか。ポジの最終作品という心の拠り所があるからこそ、安心して遊べる。 もしこれがデジタル画像ならば、どれを原版として位置付けるべきかを迷い、作品という定義から考え直さねばそのうち行き詰まるに違いない。 ただ、もし金があれば個人で印刷物でも作り、それを最終作品とすることが出来る。そうなれば、レタッチし放題だな。 ---------------------------------------------------- [447] 2003年10月19日(日) 「蔵王のお釜(3)」 10月4日、硬い物を下手に噛んだら前歯の差し歯がグラついた。そういうことは2〜3年に一度あるのだが、前回は雑文408に書いた通り、わずか半年前だった。だがまあ、タイミングが悪いというだけの話である。 平日は歯医者に行くことが出来ないため、次の土曜日10月11日ということで予約を入れた。治療まではあと1週間あるが、抜けてしまうことはあるまい。 ところで、最近はインターネットで天気予報をチェックするのがクセになった。山形、宮城の天気である。 もちろんそれは、蔵王に2回行った時の名残。 それにしても、我輩の見る限りでは、東北が快晴マークになったのを見たことがない。まあ、今さらそんなことはどうでも良いが。 10月10日金曜日、その日はかなり忙しく、パソコンの裏画面でさえ天気予報のチェックは出来なかった。 19時頃、ようやく一段落ついたため、マピオンの天気予報をチェックしてみた。 明日土曜日の天気は、全ての時間帯で快晴の表示。ウーム、マピオンは調子がいいからな・・・。 それではヤフーの天気予報はどうか。 チェックするとこちらも、一日中晴れの予報。 ではインフォシークの天気予報は? こちらも晴れマークのみ。 これはもしかして・・・、本当に晴れるということなのか? 我輩の脳裏に、"I'LL BE BACK" の文字が浮かんだ。 いや、それはさすがに急過ぎる。しかも金が続かない。どう考えても明日行けるわけがない。第一、明日は歯医者に行くその日。 ・・・そうは言っても、何がどう変わるか分からんから、とりあえずフィルムだけは買っておくか。家には「Kodak E100G」が10本あるものの、いざ撮影となれば足るまい。帰りにヨドバシカメラへ寄り、もう10本補充した。 普段ならば安いEPPにするところだが、E100Gを購入したのは、意識下では行くことが前提となっていたのかも知れぬ。 家に帰ると、もはや21時近かった。 夕食後ヘナチョコ妻に、明日再び蔵王に行くことをほのめかした。 我輩は何気ないつもりだったが、その話題がきっかけで2時間以上もの言い争いが始まった。これにより、準備を始めようとする時にはもう24時近くになっていた。 確かに、問答無用の態度をとれば面倒は無かったろう。しかしながら信念を持つ行動であるからこそ、その信念を理解させようとして言葉が多くなるのは必然。 結局、ヘナチョコを納得させたかどうかは分からなかったが、ひとまずヘナチョコの怒りも解け、明日の用意を始めた。 実を言うと、カメラ以外の荷物は前回のままに放ってある。そこにカメラとフィルムを入れれば済む。 しかしよく考えると、車中で聴くためのMDプレーヤーが、バッテリー放電状態のまま。これはいかんと、充電を始めた。 また、パーソナルGPSもデータが溜まってしまったので、パソコンにダウンロードしてメモリを空けた。こちらの電池もそろそろ消耗するので、充電をしておいた。 そうこうしているうち、時間はすでに24時半となった。もう寝なければ、早朝4時に起きるのが辛くなる。 充電中の機器などがあるため、必要な荷物は朝になってから詰め込もう。 我輩は布団に飛び込み、気合いを入れて寝た。 それからしばらく経ってから、目覚まし時計の音で目覚めた。 まだ暗い。早朝4時であるから当然か。寝る前の雰囲気と変わらないので、あまり寝た気がしない。だが、気分が高まっているためか、眠たいということはない。 やや肌寒いこともあり、前回よりも厚手のシャツを着て、さらにコンパクトジャケットを丸めてザックに詰めた。この時期、山は寒かろう。 昼飯は、途中のコンビニエンスストアで調達する予定。 今回は最初からお釜のほうへ降りる計画であるから、昼飯時に誰もいないお釜の近くでゆっくりと落ち着いて食事が出来る。少し多めに持って行く予定。 着替えてすぐ、インターネットで天気を見た。 相変わらず晴れの予報。この時間であるから、更新していないということかも知れぬ。念のため、衛星写真を表示させてみた。すると、ちょうど蔵王のお釜辺りの上空に雲の帯がかぶさっているではないか。 「これで晴れの予報なのか・・・?」 一瞬ためらったが、この雲は雨雲ではなく高空にある薄い雲であろうと勝手に解釈した。そうでなくば、どの天気予報も一斉に"晴マーク"を出すはずがない。 <<画像ファイルあり>> 朝食は、今回もまたブラウンシュガーのコーンフレーク。 食事後に歯磨きをしていると、不意に差し歯が取れて洗面台に落ちた。カラーンと音を立て、そのまま滑り排水口へ入ってしまった。 「な、なぜだ・・・?!排水口へ落ちるまでに手で止められるくらいの早さだったのに、なぜ止めなかったんだ?」 洗面台に落ちて排水口に入るまでは0.5秒ほどあったように思う。止めようと思えば止められたように感じたが、それをせず見ていただけの自分に驚いた。 とにかく、歯の抜けた状態で山登りなど出来ぬ(人間というのは歯が抜けると体調まで狂う)。今回は歯の治療を優先させるか・・・。それにしても、抜けた歯が無いとまた差し歯を作らねばならない。そうなれば、時間も金もかかる。 複雑な心境の中、我輩は洗面台の下の扉を開いて配水管の様子を見てみた。そこには塩化ビニール製のパイプが配されており、ジョイントはスピゴットタイプのものであった。 「これなら外せるかも知れん。」 パイプを外してみると、水の溜まった部分に差し歯が入っていた。助かった。これさえあれば、歯医者では接着剤で付けてもらうだけで良い。 そこでふと、思いついた。 「自分で瞬間接着剤で付けてみるか?」 幸い、瞬間接着剤は水分と反応して硬化する。歯の接着には適している。後で取れるように縁の部分だけに接着剤を塗り、歯にハメ込んだ。なかなか巧い具合に歯が固定され、グラつく前の状態にまで戻った。 「歯医者は来週だな。」 予約の取り直しをせねばならないが、歯医者の診療時間の関係上、蔵王に着いた時点で連絡を入れておこうと思う。 時間もだんだん迫ってきたので、前回の時刻表メモをそのまま用い、時間通りに家を出た。 時計を見なければ、夜中であるかと思うほど真っ暗で寒い空だった。 すっかり足に馴染んだトレッキングシューズの硬い音がアスファルトに響く。心地よいリズムで坂を下りた。軽いウォーミングアップだった。途中でコンビニエンスストアに寄れば、ちょうど電車の時刻に合う。 その時ふと、気付いた。 「三脚・・・は?」 我輩としたことが、三脚をすっかり忘れていた。これが無ければ、絞り込んで写真を撮ることが出来ない。段階露光のためにフレーミングを固定することも出来ない。自分自身の記念写真を撮ることも出来ない。 次の瞬間、我輩は今下りてきた坂を再び上り始めた。今度は小走りだ。息が上がる。今からこんな状態でどうするんだ全く・・・。 家に戻って三脚をひっつかんで再び家を出た。 これによって、コンビニエンスストアに寄る時間は無くなった。いつもながらに最初の時点から予定が狂う。 駅に着いて列車に乗った。乗り換え駅では少し時間があるので、そこのコンビニエンスストアで昼飯を調達することにした。 気が急いているため、時間的余裕がありながらも急いでホームに向かった。時間はあと10分もある。 ところが思いがけず電車が入ってきた。 「そうか、しまった!今日は土曜日であるから、平日ダイヤか!」 前回は日曜祝日ダイヤだったため、今回と微妙に時刻表が違っていた。危ないところだった・・・。 ホームでは、早朝にも関わらず多くの人間がいた。そのほとんどが、それぞれの趣味を表す格好をしていた。一目見て、自転車の趣味、釣りの趣味、山登りの趣味というのが分かる。週末の早朝は、趣味人たちの時間と言えようか。 電車の中で、しばらくボーっと考え事をしていた。 「果たして晴れるだろうか・・・。」「山の方はどれくらい寒いだろうか・・・。」「寒さはジャケットで足りるとは思うが、手が寒いだろうか・・・。」 そこでハッとした。 「しまった、軍手を忘れた。」 いくら前回の荷物そのままとは言え、洗濯するためにザックから出した軍手は再び入れねばならぬ。すっかり忘れていた。 我輩は動揺を抑えるため、音楽を聴こうとMDを取り出した。 「しまった、ELT(Every Little Thing)のディスクを忘れた・・・。」 充電したMDプレーヤーの事だけに意識が向いていたため、肝心のディスクを忘れたのである。幸い、直前に聴いていたサウンドトラック系ディスクがプレーヤーに挿入されていたため、少なくともそれは聴くことが出来る。しかし、ELTの音楽は力を漲(みなぎ)らせるパワーを持つため、こういう時にこそ聴きたい。逆にサウンドトラック系を聴いていると、暗い運命が更に重くのしかかるようだ・・・。 上野駅に着き、駅前のコンビニエンスストアへ走った。 そこで軍手を手に取り、レジに行った。若い店員は、我輩の格好を見て「タグを外しましょうか?」と言った。なかなか気が利く。 軍手を手に入れた後、すぐ上野駅へ戻り、「みどりの窓口」で白石蔵王駅までのキップを買おうとした。06:18発の「Maxやまびこ201号(E4系新幹線)」である。 ところがこの列車は満席で指定席が取れないとのこと。まあ、帰りのキップで指定席が取れたので我慢しよう。どう考えても、帰りに座れるほうが楽。 新幹線のホームへ行くと、少し時間が早かったのか、並んでいる列は06:10発の「やまびこ041号(200系新幹線)」を待っていた。これは白石蔵王駅は止まらずに通過する。それでも、手前の福島駅で下車すれば問題は無い。 我輩の前には3人並んでおり、座れるかどうかヤキモキしていたが、その心配は全く無用だった。その列車が上野駅に到着した時、もはや最初から席は空いていなかったのである。 我輩が立っていたのは、トイレなどの設置されている通路であった。そのため、外の景色は一切見えない。上野駅の新幹線ホームは地下にあるため、上野駅に入った時点から外の様子がずっと見えなかった。 上野を出て2時間近く経ち、07:42に福島駅に到着。たった2時間とは言え、外も見えない場所でずっと立っているのはやはり疲れる。こういう時は、乗り換え時が気分転換になるのだ。 ホームに下りて、外の景色を見てハッとした。完全に曇りの状態。いや、これは霧なのか・・・。 いずれにせよ太陽が隠れているため、気分が少し落ち込む。 同じホームに、次の新幹線が続いて入ってきた。福島駅07:51発の「Maxやまびこ283号」である。後で知ったが、この便は前駅の郡山駅始発で休日は運休らしい。 さすがに郡山始発だけあって自由席はガラガラに空いていた。我輩は2階の席に座って外を眺めていた。霧はどんどん濃くなり、晴れる気配が全く無かった。 まいったな・・・。 白石蔵王駅には08:03に到着した。前回よりも30分早い到着。これくらい余裕があると気が楽だ。 バスは08:42発であるから、駅の待合室でしばらく休憩した。 空を見ると、霧は無かったがやはり曇り空。 やがてバスが到着し、我輩はバスに乗り込んだ。前回は2人だけだった乗客が、今回は8割くらいの乗車率だった。かなり多い。 しかし、運転手はどこかに消えてしまい、発車時間になっても戻らないのでさすがに我輩も焦ってきた。このバスは遠刈田温泉までしか行かないのであるから、接続が悪ければ刈田山頂行きバスに乗り遅れてしまう。 運転手は2分ほど遅れてバスに乗り込んだ。手には蔵王山麓のパンフレットを持ち、「はい、登山する人は誰〜?」とパンフレットをバスの車内で配って回った。しかしパンフレットの数が足りず、「ごめんなさいねえ。」と言ってバスを発車させた。 パッと見た目、ビートたけしと五木ひろしと間寛平を足して2で割ったようなオイちゃんだった(3で割らないところがミソ)。 オイちゃんは、バスのマイクで話し出した。 「去年のこの時期は車が混んで、朝発車したのに山頂に着いたのが20時。もう暗くなってたなぁ。だから、今日も時間通りに着けるとは思わんでね。(東北弁で言っていたが再現出来ない)」 車内はざわつき、我輩は目が丸くなった。 「なにぃー、着くのが夜だと!?」 そう言えば、インターネット上で見た写真の中に、山頂に通じるエコーラインが車で渋滞している写真を見たことがある。 くそっ、紅葉の時期と重なったか。 しかしまあ、乗りかかった船・・・いや、乗りかかったバスだ。今さらどうしようもない。なるようにしかならん。 バスは途中、在来線の白石駅を経由した。 発車時間となり、駅前ロータリーを出るかと思ったその時、運転手のオイちゃんが急にバスを止めた。 「すんません、ちょっと時間を下さい。(東北弁)」 オイちゃんはバスを降りて観光案内所に駆け込み、大量のパンフレットを持って戻ってきた。 「ハイ、山に登る人〜。」 オイちゃんはまたパンフレットを配り始めた。 オイオイ、今日は道が混んでる日じゃないのか?早く発車しろよ。 だが、オイちゃんの屈託の無い笑顔を見ると、不思議とイライラが苦笑に変わってしまう。 まあ、数時間の遅れに数分足されても大した違いは無い。 白石駅を出て、バスは順調に走って行く。しかしいずれ、山頂に近付くにつれてその速度も遅くなるに違いない。 不思議なことに、あれほど曇っていた空が急に晴れ間を見せ、陽の光が差し込んできた。そしてバスは、予想に反してすんなりと遠刈田温泉まで到着した。 「はーい、ここで降りる人は精算してちょうだいな。山頂まで行く人はこのバスが次の便になるから、そのまま乗ってて。(東北弁)」 ナニ、そうなのか。前回はいったん遠刈田温泉で降りて次のバスをしばらく待ったものだが。 バスはしばらく停車し、トイレに行く者や外で伸びをする者などでバス営業所は賑やかになった。 運転手のオイちゃんは、またまたパンフレットを抱えてバスに乗り込んだ。 「全く・・・、パンフレットの好きなオイちゃんやなあ。」 だがそればかりでなく、バスや新幹線の時刻表まで配り始めた。ウーム、バスの発車時間が過ぎているような気がするが・・・? 「おっとマズイ、もう発車時間じゃないか!(東北弁)」 オイちゃんは帽子を頭に押さえながらガニマタで運転席に戻り、バスを発車させた。その様子はまさにマンガのよう。バスの中が爆笑に包まれた。 バスは、刈田岳山頂を目指しエンジンの回転数を上げた。前回も通ったクネクネと蛇行した道を上って行く。 途中、運転手のオイちゃんがマイクを通して言った。 「もうすぐ滝の見える場所でバス止めますんで。バス降りて近くの階段を下りると滝がよーく見えますからね。降りる人は足下気を付けて行ってらっしゃい。なんか事故があっても私は責任取れませんので、くれぐれも気を付けて下りて下さいな。(東北弁)」 前回はバスは止めたものの乗客を降ろしたりはしなかったが、今回はほとんど観光バス状態だな。 「えーと、時間は2分。階段下りて滝を見たらすぐに戻ってねー。時間が来たらすぐ発車しますよー。(東北弁)」 見ると、渓谷の向こうに見える山々は見事に紅葉しており、眺めはなかなか良かった。だが、我輩は紅葉や滝などの風景には全く興味が無いのであるから、バスにそのまま座っていた。 結果的に、半分くらいの乗客がバスを降りたろうか。 しばらくして、降りた乗客たちが戻ってきた。 「はい、そろそろ時間だけど、みんないる?隣の席にいない人、いない?(東北弁)」 運転手のオイちゃんが確認した。 「はーい、いまーす。大丈夫だと思いまーす。」 乗客のオバちゃんたちが答える。 バスは再び発車した。 「山頂の気温は15度だそうです。いい天気になって良かったねー。それにしても去年はかなり混んでたんだけど、今日はここまではまだ空いてるねー。お客さんたちは運が良いねー。(東北弁)」 だが山頂付近では混んでいることは間違いない。何しろ「三連休」「快晴」「紅葉シーズン」と、条件は全て揃っている。 バスはそのうち、大黒天と呼ばれる場所まで到着した。 「大黒天の見晴台にちょっと寄ってみるー?(東北弁)」 「はーい。」 バスは大黒天に止まり乗客を降ろした。そこには駐車場と売店があり、観光客が溢れている。運転手のオイちゃんは、タクシーの運転手や売店の人間と陽気に挨拶を交わしていた。 <<画像ファイルあり>> 我輩はこの場所でもバスに乗ったまま待つつもりだったが、よく考えると、この場所から見える光景はお釜の裏側であるため、写真撮影を行うチャンスだと思いEOS630を掴んでバスを降りた。お釜の地形を考察するには、裏側の風景もまた重要である。 <<画像ファイルあり>> 許された時間は4分だったため、それほど歩き回ることは出来ない。写真撮影後はすぐにバスに戻った。 運転手のオイちゃんは先程と同じように乗客の確認をした。 そして念のためか車外スピーカーで叫んだ。 「バスが出るよー!バスが出るよー!(東北弁)」 バスは山頂に向かって発車した。 大黒天から山頂までは近い。だがやはり予想通りの渋滞が始まった。前に見る車の列は全く動いていない。 こりゃあ、1時間や2時間は覚悟が必要だな・・・。 ところがバスは車の列に加わらず横道に入り、山形方面に向かった。そしてその先の道を再び山頂側に折れ、見事に車の列の中間部分に割り込んだ。 オイちゃん、見直した! 今までは時間を浪費するばかりのお調子者だと思っていたが、やるところはキッチリやるんだな。 それでもバスは無数の乗用車に挟まれた状態で、ノロノロと進むしかない。2時間の待ち時間が1時間になったわけだが、やはり撮影時間が少なくなるのは同じ事。 そんな中、運転手のオイちゃんはしきりに横窓から顔を出し、前方の何かを探している。 「うーん、誘導員がいれば通してもらうんだがなー。(東北弁)」 誘導員がいても、前後を車に囲まれているのだからどうしようも無かろう。 「あ、いたいたっ!(東北弁)」 オイちゃんは突然叫び、バスは対向車線に出て猛スピードで渋滞の列をゴボウ抜きした。前方には誘導員がおり、対向車線の車を止めていた。 そういうことか。 オイちゃんは誘導員にすれ違いざま挨拶し、そのまま駐車場へ入った。 時計を見ると、遅れはなんとたったの10分。 素晴らしいぞ。 我輩はバスを降り、靴のヒモを締め直した。買ったばかりの軍手をはめ、両手を組んで軍手を伸ばし、同時に気合いを込めた。 「よし、行くぞ。」 見事な天気だった。風もほとんど無い。暖かいので、コンパクトジャケットを着る必要は全く無い。 ところで今回は、ただちにお釜の方に降りるつもりであるから、上から全景を狙うつもりは無い。この快晴では惜しいのだが、1分でも時間を無駄には出来ない。上からの写真は家族連れでも撮れるのであるから、トレッキング装備の今撮れる写真を優先させる。 刈田岳山頂には多くの観光客がいた。 だが今回は前回のような迷いが無い。どこから降りれば良いかというのも既に分かっている。目の前の景色に囚われず、今はお釜のほうへ下るのみ。 だがよく見ると、お釜には既に何人かの人影が見えるではないか。 ウーム、一人きりの空間を満喫することは出来そうにないか・・・。まあいい、ともかく写真を撮るためにも下に降りなければ。 降り始める地点へ行くと、そこにも数人の観光客がいた。カメラを構えている男も1人いた。 男はお釜にカメラを向け、「うーん、あそこに人影が見えたんだが・・・。」と言っている。 我輩はその横でザックのフックを固定し、降りる準備を整えた。そして当たり前のように柵を越えて歩き出した。 男はこちらを見ていたが、気にせずどんどん下に降りた。先の道がどうなっているのかが分かっているため、心には余裕がある。 ふと、降りて来た方向を振り返ると、あの男が柵を越えた場所でお釜の写真を撮っていた。 危ないぞ。 今回、降りることについて全く順調で、特別書くことが無い。 降りた後、早速、カメラと三脚の準備を整え肩に担いだ。ちょうど、鬼が金棒を担ぐような格好と言えば良いか。 辺りは前回同様シーンと静まりかえっている。足下には見慣れぬ岩石。どこか別の惑星に降り立ったような気分になる。 ふと、お釜の斜面を見ると、2人の人影が見えた。遠くて分からないが、何となく中年の男女ではないかと思われた。しかし、写真に写せば見えなくなるくらいの距離。構わずに写真を撮り始めた。 この時点で11:00。 お釜の縁へ登ると、湖が見えた。 <地点A> <<画像ファイルあり>> ところが湖のほとりには、数十人の人影がある。皆、青い服を着ている。高校生くらいの声が響いてきた。静かな場所だけに、遠くからよく聞こえてくる。 よく見ると、そのうち何人かが湖面に石を投げて水切りをしているではないか。何ということを・・・。 引率の者が注意などしないのか? ここは国定公園だぞ。たとえ小石一つであろうとも、湖の水深を人為的に変える行為をしてはならぬ。 青い服はお揃いのジャージか? <<画像ファイルあり>> さて写真については、人間が写り込むのはスケール感を導入するのに好都合なのだが、あまりに人数が多く目障りにしかならない。青色も目立ち過ぎる。 そうは言ってもこのまま待っているのも時間の無駄。とりあえず現状の風景を撮影し、後でまた撮れば良い。 それから、惑星探査装置も撮影した。別角度で見ると、どうも人工物のように思えてならない。数センチ移動しているようにも感ずるが・・・気のせいか。 <地点B> <<画像ファイルあり>> それにしても、彼らのいる場所が場所だけに、どの角度から撮ろうとも、お釜を撮る限りは必ず彼らが写り込む。 昼近くの時間のため、彼らは昼食中なのかも知れない。ならばこのまま待っていようとも時間の無駄。我輩も近くの岩に座って昼飯を食べることにした。 気が付くとお釜の斜面にいた男女2人連れは、いつのまにか帰る方向に歩いて行く。 待てよ、そう言えば歯医者の予約変更の電話を入れるのを忘れていた。刈田岳山頂のレストハウスなら電話があったはずだったが、すっかり忘れて通り過ぎていた。 我輩は携帯電話は持っていないため、ここからではどうにも連絡をとることが出来ない。ヘナチョコ妻にテレパシーを送って歯医者に電話してもらおうかと思ったが、テレパシーは通じない。 仕方無い、少し早めに切り上げて電話を入れることにする。 岩に座ると湖面のほうが見えなくなる。同時に、彼らの騒ぐ声も全く聞こえなくなった。音波を反射させるものが何も無いので、ここまで聞こえないのだろう。シーンとした世界で、ゆっくりとした雲の流れを見ながら食事をした。 鳥のさえずりさえも聞こえず、草木も無い岩のゴロゴロとした大地。それはまさに、生命が海から上陸する前の地球の姿のよう。 地球に生命が発生したのは、地球が出来て間もなくである。 だが、生命40億年の歴史のほとんど大部分が、水中の単細胞生物の時間であった。現在のように、木々が茂り、鳥たちがさえずるような自然の姿は、ここ最近の新しい地球の姿である。 そんなことを考えていると、今自分が、古代の地球を疑似体験しているような気になる。 誰もいない、何も無い。そんな世界が、何十億年も存在していた・・・。 そんな思いに浸りながら食事を終え、ふと立ち上がると、あの集団もちょうどその場所から移動を始めるところだった。 我輩の計画としては、とにかくお釜のフチを一周して様々な角度からお釜を見ようと思っている。色々な角度から見ることにより、頭の中でお釜の地形をより立体的に把握することが出来る。 なぜそんなことが必要なのかというと、お釜の周りの岩石や水による浸食具合を研究するためである。 お釜の周りには、火山灰が降り積もり岩石化した層が見える。水流によって削られた斜面が見える。すぐその先には、堆積した平野が見える。お釜がいくら巨大とはいえ、自然のスケールで見れば箱庭のようなもの。その小さな世界に「風化」「浸食」「堆積」などのエッセンスが詰め込まれている。まさにそれは立体的模式図。非常に興味深い。 通常、それら全ての地形を一望することはなかなか難しい。大きなスケールによって視野が届かず、あるいは木々や人工構造物などによって隠されている。 そういう意味で、お釜は素晴らしい。 我輩の地質学的知識は専門家に比べればかなり乏しいものの、色々と勉強して驚きを発見出来るという点では専門家よりも有利である。 以前にも雑文037や雑文260でも書いたが、自然地形を撮影した風景写真は、多くの情報が詰め込まれている。そして、自分が知識を得るごとにその風景に新たな一面を見出し、そして新しい発見をする。それ故、我輩は自分の写真を眺めることに飽きることが無い。 我輩は、単純に「キレイな写真」を撮りに来たのではないのだ。 蔵王のお釜を徹底的に知りたい。そのための調査である。そのために、カメラは情報量を余さず捉える中判でなければならない。もし行き着くところまで行こうとするならば、最終的には山の立体模型を作れるほどに知り尽くすのも良い。 さて、お釜一周について、とりあえず右側から回り込むことにした。 目の前に、少し急な斜面が迫った。 両手が使えないと危険と判断し、ブロニカと三脚はザックに入れ、代わりにEOS630を首から提げた。 その斜面は急ではあるものの硬い岩石面が多く、崩れ落ちるような脆(もろ)さは無かった。とにかくゆっくりと着実に上った。 上りきった我輩の目の前に、広い平野が広がった。すぐさまEOS630のシャッターを切った。 <地点C> <<画像ファイルあり>> この先を歩くと、遠くから見えていた水無川が目の前にあり、そこに細かい砂が集まっている。水が流れている光景が目に浮かぶようだ。そこに近付こうと思うのだが、砂がかなり深く、足を取られてなかなか進むことが出来ない。汗も流れてきた。 この時点で12:30。 <地点D> <<画像ファイルあり>> 前回の反省もあり、14:00くらいには帰り始めたい。時間はあと1時間半。それを考えると、水無川の調査は簡単に済ませ、とにかくお釜の山頂を目指して上った。 砂のために上るのに一苦労。休み休み上がり、やっと裏側に回り込んだ。もうすぐ山頂。振り向くと、お釜の裏側が一望出来た。来る前に見た、お釜の裏側。そこに今、自分が立っている。 その後、お釜の山頂に到達した。 素晴らしい眺めだ。山を登る者は、このような達成感を求めているのか・・・。 <地点F> <<画像ファイルあり>> まあ、お釜の頂上に登るのは登山としてはそれほどのことではない。しかし我輩としてはやはり初めての経験でもあり、それなりの感動がある。 その場所で自分の記念写真を撮った。 お釜の背後を振り向くと、そこには水無川の出発点があった。そこから雨水を集めて流れが発生するのであろう。 <地点E> <<画像ファイルあり>> 時計を見ると13:00。 あと1時間で帰り始めなければならない。時間が経つのが意外と早く感じられ、湖面のほうへ急いだ。 お釜のフチから離れ、斜面を降りた。そこには広い平原があり、たった一人でそこに立つと気分が良かった。まるで、前人未踏の地に足を踏み入れたいう感じである。 <地点G> <<画像ファイルあり>> そこで一つの岩石が目に付いた。岩石が割れて無数の石になろうとしている現場だった。 <地点G> <<画像ファイルあり>> ここは火山地形であるから、火成岩などが結晶の筋に沿って風化したのであろう。 永い時間の変化のうちのほんの一コマなのだが、大きな岩石や無数の小石と一緒に見ると、その変化の様子が目に見えて興味深い。 途中、小さな沢に出たが、前回の沢とはまた違うらしい。その流れを追って行くと、お釜の湖面に辿り着いた。 湖面は静かで、そこには誰もいない。 さっきまでいた集団が砂を荒らした跡があったが、それ以外は全く人の気配が無い。シーンとした中で、湖面だけがチャプチャプと音を立てていた。 <地点H> <<画像ファイルあり>> 空を見上げると、一筋の飛行機雲。 ちょうどタイミングが良いので、ここだけは絵心を以て写真を撮影した。 この時点で13:30。残りは30分。 湖面では、光の角度によって色の具合がかなり変わる。陽も傾いてきたのか、右側を見ると半逆光気味で湖面が白く光が反射している。 水際まで行くと、少し緑色のある透明な水が涼しげで気分が良い。しかしながら、この湖は強酸性のため、一部の藻を除き生物は生息していないという。 インターネット上で得た情報によると、お釜は昭和14年に測定した時は深さが63メートルあったそうだが、五色岳断崖の崩壊により年々埋まり、昭和43年時の測定では最大深度27.6メートル、平均深度17.8メートル、周囲1,800メートル、東西径325メートル南北径335メートルだったとのこと。 時間が無いので、手早くセルフタイマーで記念写真を撮り、周囲の写真を何枚か撮った。 時間さえあれば、ジックリと火口内面の地層の具合や岩石の様子などを調査出来るのだが、とりあえず中判写真に記録しておき、後でゆっくりとルーペやプロジェクターで拡大閲覧しよう。 そうこうしているうち、残りの30分はあっという間に過ぎた。 時間は14:00。 最終バスは15:20発だが、刈田岳へ登る時間や歯医者への連絡の件もあり、少々余裕を含ませた。もうそろそろ帰り始めることにする。 多分、しばらくここへは来れないだろう。季節のせいもあり少なくとも今年はもう無理だ。次の年であっても、やはりどうなるか分からぬ。今年は三度も訪れたこの場所。行こうと思えばいつでも行けるのであろうが、人間には色々と事情があり、もしかしたら、結果的にこれが最後になることもあるかも知れない。 我輩は、目の前の湖に向かって言った。 「さようなら、ありがとう。」 これが最後になるかも知れないと思うと、そう言わずにはいられなかった。 自然というものを肌で感じさせてくれた蔵王のお釜。我輩の心は、感謝の気持ちに包まれていた。 「ありがとう。」 前回、そして前々回と「東北はもう行きたくない」とは書いたのだが、もうそんなことは言うまい。交通の便が最悪であるが、悪いのはただそれだけなのだ。 東北は、人も良し、地形も良し。 お釜を後にしながら、我輩は何度も何度も振り返り、最後となるかも知れない光景を目に焼き付けた。 <<画像ファイルあり>> 火山は岩を造り、水は岩を削る。その結果出来た地形は、自然そのものではなく自然の表現形である。自然とは、人間の肉眼では見えないものだ。紅葉など、眼に映る表面的な美しさだけしか見ないならば、いつまでもそのことに気付かないだろう。 <今回の行程図> <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [448] 2003年10月26日(日) 「祖父からの手紙」 ●虎太郎 「虎太郎(とらたろう)」とは、我輩の母方の曾祖父の名。 旧海軍では海軍大佐にまでなったそうで、祖父はそんな虎太郎を尊敬した。 虎太郎は、日露戦争、そして第一次大戦で戦った。 しかしながら、どこでどのようにして戦ったか、陸上での戦闘かあるいは海上での戦闘か、そういった具体的なことを聞く機会が無かった。 今まで我輩は、比較的近代的装備の第二次大戦のことばかりに興味を持ち、日露戦争や第一次大戦などはあまり関心が無かった・・・。 <<画像ファイルあり>> 曾祖父「虎太郎」 去年の夏、我輩が九州に帰省した時に、一つのメモを祖父から受け取った。 祖父はもう九十歳近くであり、文字もなかなか書けなくなっている。そのため、多少読みにくい字ではあった。 そこには、虎太郎の若い頃の話が綴られていた。 以下は、文春文庫「日露戦争(児島襄著)」を参考にしながら、祖父のメモに書かれた虎太郎の姿を日露戦争の中に当てはめ構成したものである。 >>> 虎太郎は、当時の青年たちがそうであったように、強大なるロシア帝国から海国日本を護るため、海軍軍人を志した。 虎太郎の場合、海軍兵学校ではなく海軍機関学校に入学するため、猛烈に勉強し中学を主席で卒業した後、海軍機関学校の入学を果たした。 ところが全国から集まった秀才たちの中にあっては、田舎の主席など問題にもならないほどであった。何しろ、ロシアから日本を護るという決意を固めた青年ばかりである。並の決意の者など存在しない。 1905年(明治38年)1月、虎太郎は海軍機関学校を22歳で卒業した。 卒業後、それまで教員として厳しく鍛えてきた上級兵曹も、少尉候補生として戦場へ出発する虎太郎たちに対して最上の敬礼を送った。 虎太郎はその後、日本艦隊旗艦「三笠」の姉妹艦である戦艦「朝日」への任務を命ぜられ、佐世保より乗船した。 戦艦「朝日」は、ロシア極東艦隊と戦った経験があるのだが、その時の損傷を点検したところ、12インチ主砲の旋回がスムーズではないことが判明した。艦長以下これは一大事と、古くからの主砲担当である上等兵曹に原因を調べさせたがどうにも判らず、ならばと指名を受けたのが虎太郎であった。 新しい技術を教育された虎太郎ならばという期待があったのである。 結局は原因が判らずじまいだったのだが、呉海軍工廠に現象を技術的にうまく説明し、無事修理させることが出来た。 その後ロシアが日本満州軍を孤立させようと、最強を誇るバルチック艦隊を日本海に投入し日本海封鎖を企てた。 日本側では、バルチック艦隊が対馬海峡を通ると予測し、ここで艦隊を迎え討とうと待ち構えた。 1905年(明治38年)5月27日、天気晴朗なれど 波高し。 この日、日露両艦隊は砲火を交えた。 日本側は東郷平八郎を司令長官、ロシア側はロジェストウェンスキー司令長官がそれぞれの艦隊を指揮していた。 東郷は、T字戦法という陣形を取ることにより相手の頭を押さえ、各艦の砲門を一斉にロシアの先頭艦へ集中させることを狙った。 ただしT字戦法は、船が回頭中には無防備な状態で横腹を晒すことになる。そのため全艦が回頭終了するまでの時間を短縮せねばならず、東郷大将は事前に何度もT字戦法の練習を行わせていた。 それでも回頭終了までには10分の時間は必要で、ロシア側は日本艦隊のこの動きを見て「トーゴーはバカだ。よし、先頭艦から沈めてやる」と大喜びした。 だがその興奮のため、各ロシア艦は試射も行わず発砲し、照準はなかなか定まらなかった。しかも波浪による揺動のため、ほとんど乱射状態であった。 そうこうしているうち、日本側も旗艦「三笠」がロシア側旗艦「スウォーロフ」に向けて砲撃を開始した。 続いて二番艦「敷島」が戦艦「オスラビヤ」に向けて砲撃を開始。 三番艦「富士」も「オスラビヤ」に発砲。 そして虎太郎の乗艦する四番艦「朝日」が旗艦「スウォーロフ」に砲撃を始めた。 その時虎太郎は「朝日」の機関室にてエンジンの騒音の中で、今何が起きているのか気掛かりで、その緊張のために何度も小便に行ったという。 (旗艦「三笠」では、士気を鼓舞するために艦内各部に伝令を走らせ戦況は伝えていたとのこと) この戦いにもし負ければ、日本は一体どうなるのか分からない。だから絶対に勝たねばならない。そのことは、艦内の誰もが思っていた。 そのため、仮に勝利したとしても日本艦隊の半分は撃沈されるであろうとの覚悟があった。もしかしたら、撃沈されるのは虎太郎の乗る「朝日」であるかも知れぬ。第一艦隊の四番艦であるからそうなっても不思議ではあるまい。そうなれば、船底深い機関室にいる虎太郎はまず助からない。 虎太郎は、日本と自分自身の未来の懸かったこの海戦を自分の持ち場の中で必死に戦ったのである。 戦闘が開始されてわずか18分後、バルチック艦隊は旗艦「スウォーロフ」と戦艦「オスラビヤ」が戦闘不能に陥った。 東郷は、当時日本に2個しか無いドイツ・ツァイス社製12倍双眼鏡を持っており、砲弾の着弾を正確に確認していた。 バルチック艦隊撃沈−戦艦以下16隻、捕獲は戦艦以下5隻 一方、日本艦隊は1隻の沈没も無かった。 日本側の圧倒的勝利に終わった。 <<< このメモの内容は、当然ながら我輩が初めて知る内容であった。 日本の運命を賭した日本海海戦にて、曾祖父虎太郎がそこで戦っていたのだ。 祖父が虎太郎を尊敬していたのは、後の海軍大佐という肩書きなどではなく、若い頃に日本の国運を左右する戦いの中にいたことだと確信した。 今の日本があるのは、虎太郎たちの活躍があったからこそである。祖父はそう思ったに違いない。なぜならば、我輩がそのように思うからである。 もっとも、この日本海海戦の大勝利は日本の戦い方を極端な大艦巨砲主義へと傾かせ、日本は第二次大戦にて大きな損失を以て敗北することになる。 だがそれでも、戦艦大和・武蔵を造り出し世界の列強と肩を並べることが出来たという事実が、戦後の日本人のプライドとなり今日の日本を支えてきた力となっているのだと我輩は信ずる。 ●祖父からの手紙 さて先日、祖父から手紙が届いた。手紙には絵の複写が1枚添付されていた。 「何だ・・・この絵は?」 手紙の本文には、その絵についての話が書かれていた。 <<画像ファイルあり>> >>> この画は、私が23歳頃の大連市向陽台の自宅玄関にありました。それは当時の海軍省から贈られたもので、幅1.5mもあり、訪れる人も驚くようなものでした。 この画に描かれているのは、明治38年5月27日午後2時55分、沖の島西方でロシアバルチック艦隊と合戦直前の日本艦隊の旗艦三笠の艦橋における東郷平八郎提督とその幕僚です。これは写真ではなく、その場面を徹底して実証的に調査して当時の実情を正確に描いたものです。例えば中央に居る東郷提督は一文字吉房の長剣のコジリをコトリと落とし、また各幕僚はそれぞれの当時の働きを正確にそして午後2時55分先仕参謀が旗信号の(“Z”旗)の掲揚の許可を東郷に乞い掲揚されたその時です。Z旗とは(皇国の興発、この一戦に在り各員一層奮励努力せよ)と言う決められた文句があり、この旗艦の三笠にその(Z旗)旗信号が掲揚されたのが画面左後方に見られます。後年、安保清種少佐は「その時三笠艦橋における光景は荘厳としか形容のしようのないものでした」と語ったそうです。私はその画が実証的によくその時の現況を捉えていることもさることながら、元画の描写の色の配合・濃淡をよくこの大画面の印刷を当時の技術で実現したものだと思いました。 では、なぜこの画が海軍省から贈られたのでしょうか。父は22歳で日露戦、世界一次戦に出陣し、大正12年42歳で海軍大佐に昇進しました。その後、海軍の推薦で日露戦後の新しい土地(大連市)にある銅鉱山を経営する秦盛公司という会社の総支配人になり、大連市内の三階建て社宅に住み、又“海軍協会”の責任者になっていました。実務は海軍の予備役の兵曹長が行い、海軍より彼の給与と活動費は支給されていました。父は名誉職だったので無給でした。 大連市とは日露戦後日本の新領土になった土地で背後は広く大陸(満州・シベリア・ヨーロッパ)を控え、前方は黄海より太平洋に通じる海に面しており、日本政府はこの地を国際自由法として広く門戸を世界に広げて、政治的にも経済的にも発展を計る計画を建てていたのです。 そして、春を迎える頃、各国(フランス・イタリア・イギリス・アメリカ)の軍艦が乗務員のバカンスのため入港し、パリのシャンゼリゼーのような広い大山通りの街路樹のアカシアの花は白く咲き、国際色豊かな色どりをそえたものです。大連市の海軍協会とは、その歴史と使命を広く伝えることにあったのでしょう。父は本業の秦盛公司の総支配人の要職と海軍協会の責任者としての多忙な日々でしたが、まだ40代前半の血気盛んな時で昼夜いとわず働き、大連市の各界要人と親交を重ねていました。父にとってその時が人生で一番“生きがい”と“誇り”のある時代だったのでしょう。 その後、時勢は移り変わり銅鉱山は廃山となり、会社は倒産し、債権者への対応に追われる日々になりました。さらに、海軍協会の予備役の海軍兵曹長の公金使い込みが発覚しました。当の兵曹長は予備役ながら「海軍軍人らしく自決する」と猟銃で自殺し、父はその後始末のため2重の苦難の果て廃人同様になり、3階建ての社宅から家具書籍をすべて整理して、8軒長屋に移り住むようになりました。 顧みますと、父は42歳の時海軍の推薦を受けて大連市で約10年間生きがいのある時代でしたが、すでに公私共に要人との関係を絶ち寂しく余生を送る身でした。しかし、会社倒産、海軍協会の事故の際、父はその解決のため全身全霊をもって当たり、数ヶ月はほとんど自宅に帰らず身も心もすりへらして、やつれ果てた状態でした。それから数年後海軍省より木製の枠に入ったこの画が送られてきました。海軍は影ながら父のその後の人生を知っていたのでしょう。そして、父の後半の人生の行動を評価して、これに報いるためのせめてもの贈り物だったのでしょう。 父はすべての公の職から引退し長屋で余生を送る身になりましたが、この画を見るたびに、海軍士官として出発点(日本海海戦)に少尉候補の時を思い起こし懐かしむ心とせめてもの誇りを感じていたと思います。私は今でも、この画面を見ると当時の情景を思い出さずにいられない気持ちでこの一筆を添えるのです。 <<< 手紙は我輩の母親がワープロで代筆したものであるが、我輩はこの手紙の中に、祖父の虎太郎に対する尊敬の念を強く感じ取った。 そんな時であった、一通の電子メールが我輩宛に届いたのは。 それは、インターネットで知り合ったI氏からのメールで、今年行われる海上自衛隊の観艦式へのお誘いであった。10月22日の乗艦券が1枚余っているとのこと。 「観艦式」とは、自衛隊が日頃の訓練の成果を内外に示し、国民の理解と信頼を得るための訓練展示のこと。 10月22日は水曜日と平日のため、もし行こうとするならば休暇を取らねばならない。 しかし我輩は、そのタイミングの良さに運命的なものを感じた。そして、バルチック艦隊との戦いに臨んだ虎太郎の心に近付くため、この観艦式に参加することを決めた。 言葉では知り得ない何かを、そこで感じることが出来るだろうか。虎太郎の戦場を、そこで垣間見ることが出来るだろうか・・・。 ●観艦式事前訓当日 観艦式事前訓練当日、朝から雨が降っていた。風は無い。 小雨決行であるから、この天気で中止になることはあるまい。 カバンには、もちろんカメラを用意した。 機動性と望遠撮影を考慮し、基本的には35mmカメラをメインとした。しかも撮影場所が艦上と限定されていることから、よほど事前に撮影計画が立っていればともかく、撮影条件も分からずレンズを選ぶことは出来ない。撮り直しは利かないことでもあり、ここは柔軟に対応出来るズームレンズを選ぶことになろう。 そうなると、選択肢はEOS630のみ。 中判カメラは、情報量を詰めるためのサブカメラとして携行する。 サブはあくまで軽量に、New MAMIYA-6を選択。交換レンズは広角50mm、標準75mm、中望遠150mmを持った。 天気予報では昼頃から雨が止むとのことであったが、やはり雨合羽は用意したほうが良い。ちょうど先日購入したコンパクトジャケットがあったため、それが雨合羽代わりに使える。フードを頭に被りヒモを締めれば、とりあえず上半身は大丈夫。 しかし、問題はカメラのほう。 カメラを入れるビニール袋は用意したが、念のためにカメラボディの部品接合部にビニールテープによる目張りを施した。可動部にはテーピング出来ないが、やらないよりはマシか。 I氏とは、東神奈川駅で合流。そこで乗艦券を受け取り、瑞穂埠頭まで行った。 そこまでは傘をさしていたが、妙に風に煽られる。 受付で手荷物検査を受け、7:15頃「はるゆき」に乗船。 I氏は前方艦橋上部に陣取り、我輩は後部ヘリポート付近に待機した。 出航は8:50だった。 この瑞穂埠頭からは、3隻の護衛艦「はるゆき」「さわゆき」「いそゆき」が出航。他にも、様々な港から艦船が実施海域である相模湾へ向けて集結する。 後ろを見ると、「さわゆき」「いそゆき」が続いているのが見えている。しかし雨に煙り、白く霞んで見える。雨はまだ小降りなので、ジャケットのフードを被る。これだけで随分と寒さが和らぐ。 「まもなくベイブリッジの下を通ります。」 スピーカーによるアナウンスが響き、後ろを見ていた我輩は進行方向を見た。パーソナルGPSで確認し、位置のズレが無いことを確認した。 東京湾の外に出ると、「これから速度を上げます」とのアナウンス。エンジンの音が高くなり、直後に速度がグンと早くなる。 速度が上がると、揺動は全く感じられなくなった。これならば、新幹線よりも遥かに乗り心地が良い。 そう言えば出航直後に、艦のエンジンはガスタービンだという案内がアナウンスされていた。どうりでジェット飛行機に似た音がするわけか。日露戦争の頃とは違うな。 空は次第に明るくなり、雨は収まってきた。 我輩は頭に被ったフードを取った。すると、意外にも風は強い。再びフードを被る。 空を見上げると、雨雲がもの凄い速さでスッ飛んで行くのが見えた。 GPSで地図を見ていると、船の航路がハッキリと分かる。相模湾まであと少しの距離となり、周囲を見渡すと他の艦船が続々と集結しているのが見えてきた。 <<画像ファイルあり>> 我輩はその姿を撮影しようとヘリポートの先まで歩いて行こうとした。するといきなり突風に煽られ、思わず足を止めた。いや、突風と言うよりも、今までヘリ格納庫の陰にいたために、強風が遮られていただけだった。いつの間にか、信じられぬほどの強風の中に我々はいたのである。 雨も、もの凄い勢いで横殴りに降ってくる。風雨は進行方向から叩きつけてくるため、後ろのほうしか向くことが出来ない。無理に前のほうを向けば、激しい雨が顔に当たり非常に痛い。目も開けられぬほどであり、カメラなどひとたまりも無い。 我輩はカメラをジャケットの中に入れ、撮影する時だけ出すようにした。それでもカメラは濡れてくる。もちろん、レンズ前面も水滴は付着し、気を抜くとソフトフォーカス状態となる。 そうこうしているうち、「これより減速致します。船の揺れが大きくなりますのでお気をつけ下さい。」とアナウンスが入った。 艦はみるみる速度を下げ、まるで広い海の中で停止したかのように思われた。しかしGPSの表示を見ると、時速13km(7ノット)となっている。 艦は横からのうねりを受けて大きく左右に揺れ始めた。そのため、ヘリポート上を歩くと足がよろけて右左に曲がってしまい、真っ直ぐに歩けない。しかも強風のために踏ん張りながら歩くのがツライ。 観艦式が始まった。 周囲を見ると、数十隻の艦が二列に整然と並び、その列の間に訓練展示を行う艦船が一列になってすれ違った。アナウンスは、すれ違う1隻ごとに艦船名と艦長名を読み上げていく。受閲と呼ばれる儀式だった。 それが終わると船は大きく回頭を始め、180度転進した。これから訓練展示が始まる。 祝砲が5インチ砲から撃たれた。見ると500mくらい離れた艦が次々と祝砲を撃っている。無音の閃光があったかと思うと、1秒くらい後にバンッ!と炸裂音が響いた。もの凄い音だった。 続いて、対潜水艦攻撃用のボフォースが発射された。やはり無音の閃光が先に見え、1秒後にバリッ!と轟音が響いた。 ただし、角度的には風雨の降ってくる方向に近く、それらの発射を見ようとすれば目に雨が突き刺さる。ましてや撮影しようとカメラを向ければ、レンズはたちまち雨に打たれ視界を失うだろう。 このような状態で、訓練展示のほとんどは薄目で見るのが精一杯だった。しかもこの暴風雨のために中止された題目もあったようだ。 ただし哨戒機P-3Cによる潜水艦攻撃用爆弾の投下では、水中で炸裂した爆弾の衝撃が1000m離れたこの「はるゆき」にまで届き、足下がズドンと震えたのを確かに感じた。水は密度が高いために衝撃が伝わり易い。 強風のわりに波はそれほど高くは無かったが、それでも波頭が白い状態で、艦船はその波を割って進んでいる。それはまるで、日本海海戦の荒波を見るようだった。 <<画像ファイルあり>> 撮影をしていると、やはりどうしてもカメラに滴(しずく)がしたたる。タオルで拭くものの、そのタオルさえ濡れ雑巾状態であるから、あまり意味は無かった。 それでもやっとのことで撮影し、フィルム交換するためにヘリ格納庫へ戻った。しかし、EOS630の様子が変だと気付いた。フィルムが巻き戻らない。スイッチを切ってみたが、液晶表示が消えない。 まさか、35mmはもう撮影が不可能なのか・・・? とっさにグリップを外し強制的にスイッチを切ってみた(EOS630はグリップネジ部を外すと全スイッチが切れる)。再びグリップを装着しスイッチを入れ、巻き戻しボタンを押すと今度は巻き戻った。 (この不具合はこの後何度か起きた) New MAMIYA-6のほうは、ズームレンズではないためにレンズを煩雑に付け替えているのが心配である。しかもフィルムは12枚撮りであるから、こちらの入れ替えも多い。フィルムを交換する手が濡れているため、フィルム室にも若干の水が入り込むがどうしようも無い。手元にはもはや乾いた物など何も無かった。 これらは、我輩自身の戦いでもあった。 戦闘時は全員が大砲を撃つわけではない。船を操ったり、伝令したり、砲弾と火薬の包みを運んだり、エンジンを動かしたりと、直接的な戦闘とは違う作業をする要員がいる。一人一人が敵戦艦を沈めているわけではなく、それぞれの持ち場でそれぞれに戦い、その結果として敵艦を沈めているのである。 虎太郎は機関室にて日本海海戦を戦った。派手な戦闘に関わったわけではないが、日本海海戦で日本を護ろうとした軍人の一人であった。 哨戒機P-3Cによる爆弾投下時に我輩が感じた以上の衝撃を、艦底の虎太郎は感じたに違いない。 今回の観鑑式では、隊員の方々は非常に強い使命感の下に行動していることを感じた。 ともすれば批判の対象となることもある自衛隊ではあるが、それは「自衛隊は軍隊ではない」という微妙な立場に因るもので、決して自衛隊隊員たちを否定するものではない。 彼らは、有事の際には自らの命をなげうって戦う最前線の存在である。そんな隊員たちが我々を親切に招き入れ、色々と教えてくれたり誘導してくれたり、船酔いで気分の悪い者に毛布を配ったりしている。我輩などは特に船酔いも無くただ撮影疲れをしていただけだが、そんな我輩にも声を掛けてくれた。頭が下がる思いである。 力無き国が強国に容赦無く搾取される現代、国を護るためには軍備は絶対に必要であり、もしこれが無ければ直ちに周辺の国により日本は占領されるだろう(アメリカの存在が抑止とはなるだろうが、いずれにしても軍備に依っていることに他ならない)。この緊迫した時代では、一瞬の隙が国運を左右する。軍事的空白は絶対にあってはならぬことである。そういう意味で、我々日本国民は、彼らの日頃の努力と愛国心により安心して日常生活を送ることが出来る。 自分だけが気を付けても交通事故に巻き込まれることがあるように、一国だけが平和主義を謳っても戦争から逃れることは絶対に不可能。そんな戦争の時代とも言える現代では、軍隊の無い国は独立国家とは言えまい。 海上自衛隊は、旧日本海軍の伝統を強く受け継いでいるという。 軍国主義までは受け継いではいないが、とかく自虐的な日本人の中にあって唯一残る誇りをそこに感ずる。 虎太郎は日本海海戦で生還し、祖父を経由して我輩にまで命を繋げた。虎太郎が生きて帰らねば、祖父はおろか今の我輩さえも存在しない。 そして今回、虎太郎の誇りが我輩まで繋がったような気がする。 祖父からの手紙は、それを繋げるものであったと改めて思う。 (2003.10.31追記) 我輩が乗船した護衛艦「はるゆき」は、佐世保が定係港であると知った。虎太郎が戦艦「朝日」に乗り込んだのも佐世保だったのだが、何かの縁をそこに感ずる。 ---------------------------------------------------- [449] 2003年10月28日(火) 「双眼鏡」 前回の雑文では、日露戦争日本海海戦について書いた。 その時に「東郷は、当時日本に2個しか無いドイツ・ツァイス社製12倍双眼鏡を持っており、砲弾の着弾を正確に確認していた。」と書いた。 我輩はその記述から双眼鏡について興味を持ち、観艦式には双眼鏡を携行しようと考えた。 そこで、とりあえず情報収集を兼ねてオークションやネットショップにて双眼鏡の種類を見てみた。するとそこには無数の製品が表示された。 オーソドックスな見慣れた形のものや、コンパクトでスタイリッシュなもの、高倍率やズーム搭載のもの、ルビーコーティング(IRコート)と呼ばれる赤い対物レンズのもの、デジタルカメラ搭載のもの・・・。 「な、なんて数だ。双眼鏡に無知な我輩にはどうやって選べば良いか分からんぞ。」 自分の知らない分野の製品を購入する時、多くの製品の中から選択するための判断材料を探そうとするが、何を重視して選べば良いか分からず迷うことがある。 例えば炊飯器を買おうとした時、我輩は炊飯器マニアではないのでどのようなものを買えば良いか分からなかった。炊飯器と言えば米を炊くもの。それ以外にどんな違いがあるのかなど全く知らない。 もし炊飯器マニアであれば、「これは遠赤外線を使っているから云々」とか「こちらは米の量を自動的に判別して炊き方を変える」というような知識を持っているだろう。また、用途に応じて4〜5台の炊飯器を所有し使い分けていても不思議ではない。 中には「飯を炊くならシンプルな飯ごうで炊くべきだ」と鼻息を荒げ、"飯ごうでご飯を炊きなサイ!"というサイトを立ち上げる者もいるかも知れない。 しかし、今まで炊飯器のことなど考えたことの無かった者にとって、ポリシーを以て炊飯器を選ぶことはなかなか出来ることではない。事実上、カタログスペックや店員のお薦め、そして根拠の無いフィーリングによって選ぶことになる。 特に、通信販売やインターネットによる買い物が増えると、その製品について熟知していなければスペック数値とデザインで選ぶしかない。 我輩はもちろん、店頭で実際に手に取って双眼鏡を選びたかったが、どこに行けば店頭にあるのか分からない。カメラ量販店に行っても、我輩の行く範囲の店舗にはそれほど多くの展示品は無い。 試しにヨドバシカメラのサイトで双眼鏡を見てみたが、どれもこれも"お取り寄せ"と表示されている。店頭で選ぶことなど出来ない。 しかも観艦式まであと数日であるのに、そんなに待てるものか。 どこに行けば双眼鏡が置いてあるんだ? カメラはカメラ屋。眼鏡は眼鏡屋。では、双眼鏡は双眼鏡屋か・・・? 何だか面倒になってきたので、インターネットで在庫のある店を検索し、そこから買うことにしようと思う。まあ、マニアックなことを要求しなければ、双眼鏡などどれも同じようなもの。 だがインターネットで購入するということになれば、すぐにでも注文しなければ観艦式まで間に合わない。急げ! 早速双眼鏡を検索してみた。案の定、膨大な数がヒットした。 その中で目を引いたのは、スケルトンタイプ(※)のコンパクトな双眼鏡だった。中身は金属の骨格が透けており、遮光性には問題無さそうに見える。値段も3千円程度と安い。 双眼鏡マニアではない我輩は、双眼鏡ごときに金をかけるつもりは無かった。遠くが見えればそれで良い。そして、どうせなら無骨でないオシャレなものであれば、ヘナチョコ妻が使う時にも抵抗感は無いだろう。 そういう意味で、この双眼鏡はパーフェクトだと言える。 (※)「スケルトン」とは、英語では"骨格"という意味だが、外来語としては"透明"という意味となる。 <<画像ファイルあり>> OEMのためメーカー不明:7x18 念のため、この双眼鏡についての情報を得ようとインターネット上を検索した。 すると「小学生の娘がこの双眼鏡をコンサートに持って行ったが、非常に良く見えたと言っていた」という記述を発見した。 普段ならば、「小学生の判断であるからあてにならぬ」と無視するのであろうが、この時は購入するための理屈付けをするために探した情報であるから、その記述を見た時は「おお、そうかそうか。」としか思わなかった。 先日のコンパクトジャケットの時のように間に合わないと困るため、直ちに送付してもらえる代金引換にて注文した。 数日後、会社から帰宅すると例の双眼鏡が届いていた。見事なスケルトンである。 可動部はグリスが利いているようにネットリと滑らかで、安物感は特に無い。これで3千円とはお買い得だった。 倍率は7倍と少し低いかと思っていたが、覗いてみるとそれほどでもない。なかなか良く見える。ただ、接眼部のゴムまでスケルトンで遮光されない。そのため手で接眼部を覆うようにして覗く必要がある。まあ、それも愛嬌か。 次の日、勤務地(出向先は新橋である)の近くにキムラヤがあったのでそこに寄ってみた。そこには幾つかの双眼鏡が展示されていた。Nikon製、PENTAX製、MINOLTA製、Kenko製のものだった。 それらは光学機器メーカーとして有名であり、先入観として高価なイメージがある。ところが値札を見ると、それほどべらぼうな値段でもない。数千円のものから、高くとも2〜3万円。なんだ、それならばスケルトン双眼鏡が特別安いということでは無いんだな。 見ると、Kenko製の双眼鏡は40倍までのズームが付いている。それで数千円か。ウーム、早まったか? 我輩はその双眼鏡を手に取り覗いてみた。 「・・・何も見えん。」 ズームレバーが40倍になっていたので、12倍に戻した。ようやく何か見えるようになった。しかし手ブレが激しく、何が何だかよく見えない。しかも視野が非常に狭く見難い。まるで長いパイプを覗いているみたいだ。 「何だこりゃ、観光地のみやげ品か?!」 こんな双眼鏡では全く役に立たない。これならば、我輩のスケルトン双眼鏡のほうが40倍もマシだ。Kenkoはそこそこの光学機器メーカーだと思っていたが、これは一体どういうことか? まさかと思い、今度はNikon製のものを覗いてみた。 Nikonはフィルムスキャナで裏切ってくれたから、今度も心配だった。 だが、こちらは視野も広く良く見える。我輩のスケルトン双眼鏡よりもよく見える。立体感が素晴らしく、空中像の良さが活かされているような感じだ。 PENTAXのほうもなかなか良かった。 ただし、シロウトにはその見え方が最高なのか標準的なのかは判断つかないのだが。 「うーん、簡単に双眼鏡とは言うものの、モノによってまったく別物だな・・・。」 その時初めて、双眼鏡を選ぶことを意識した。 そしてその夜、再びインターネットで双眼鏡について研究した。中でも、双眼鏡愛好会というサイトは非常に参考になった。 数時間後、我輩は双眼鏡についての視野が開けた。どれも同じように見えた双眼鏡が、違って見えるようになった。体験を伴った知識ではないが、最低限のものは見えてくる。 改めてキムラヤに置いてあった双眼鏡を考えてみたが、よく見えてコンパクトで安価でスタイリッシュなもの無かった。 店頭にあるものから選ぶと選択肢が限られるから、やはりインターネット上で在庫のある店から選ぶしかない。 我輩はいろいろと吟味し、OLYMPUS製の双眼鏡を注文した。 性能的には良くもなく悪くもない。コンパクトサイズで値段も5千円。スタイルも問題無い。これが、今回我輩の求める性能と判断した。 <<画像ファイルあり>> OLYMPUS:8x21 DPC I これは届くまでに非常に早く、何とか観鑑式の前日に届き、当日使うことが出来た。 まず、コンパクトなのが良い。見え具合はまあまあ。当然だが、スケルトンのものより視野も広く、隅までクッキリ良く見える。立体感もあり、護衛艦のディテールが伝わってくる。そもそも空中像は、一眼レフカメラの望遠レンズで見るのとは全く違う。 日本海海戦で東郷は12倍の双眼鏡を使っていたと言うが、8倍でもなかなか良い。手ブレを考えるならば、これくらいがシロウトには良い。 それにしても、Kenkoは倍率に関しては異常だな。検索すると倍率100倍のコンパクト双眼鏡すら発売しておる。 昔、カメラの世界でもコンパクトカメラのズーム比率競争があったが、そんなレベルを超えている。デジタルカメラの画素数競争などかわいく見える。 8倍の双眼鏡でも結構なものであるのに、100倍双眼鏡とは消費者をナメ切っているな。何も知らない者は、良心の無いメーカーの餌食だ。 我輩も、つい最近までは双眼鏡のことは何も知らなかった。インターネットなどの情報源が無ければ、もしかしたらズーム付き100倍双眼鏡を買っていたかも知れん。貧乏性であるが故に、その可能性は高い。 きっと、カメラを買おうとする一般人も、このような感覚なんだろうな・・・。 カメラメーカーよ、売れるからと言う理由だけでヘンな製品ばかり作っていると、そのうちKenkoのような三流に成り下がるぞ。 ユーザーも無知な者しか集まらず市場が閉塞するぞ。 ---------------------------------------------------- [450] 2003年10月29日(水) 「すべてを察して笑ってくれ」 先日、オークションでゼロハリバートンのノートパソコンを売却した。 まとまった金が手に入った。 次の日、カメラのチャンプたまプラーザ店で「FUJI GA645Wi」の委託品を購入した。 まとまった金が出て行った・・・。 我輩は今まで、中判としては66判を専門に使ってきた。それは我輩のポリシーである。そうでなければ、手に入りにくい66判の対角線魚眼レンズなど大金を投じて手に入れたりはしない。 (66判魚眼レンズの入手価格は諸経費を含めると645判魚眼レンズの2.5倍だった) もしここで645判を受け入れることになれば、今までの苦労が報われない。我輩の状況として645は受け入れられないのである。 そもそも、中判導入前にさんざん熟考した結果選んだ66判。再考の余地は全く無い。 しかしながら、これまで何度か645判の誘惑に負けそうになったことがあった。そのことは雑文425でも書いたとおり。 645判の魅力は、フルオートカメラが用意されているということと、撮影枚数の多さである。220フィルムを使えば32枚撮りとなる(カメラによっては若干少ない場合がある)。 気合いを入れた撮影はあるとしても、それとは別に、フルオートでフィルム残数を気にすることなく気軽に撮影したいこともある。 ならば、66判と両立させることは出来ないか? しかし、それぞれの位置付けが難しい。66判は情報量を詰め込んだ「作品」と言えるが、645判はどうする?その存在理由は? 現在、我輩は中判の写真整理は一貫している。プリント写真(メディアプリント)に焼き付ける場合でも、縦位置の印画紙に66判の正方形のままノートリミングで配置し、その下の余白に撮影データを記述する。それが統一フォーマットである。 <<画像ファイルあり>> RGBの指標はプリント時にCMYに変換されるが色バラツキ判定の目安になる。 この統一フォーマットに645判を混ぜればレイアウトが変わる。縦位置や横位置などの区別も考えねばならなくなる。今までの秩序を乱すことになり非常に具合が悪い。 しかし気軽に中判を使いたいという気持ちがあるのであるから、何とか645判の位置付けをヒネリ出したい。 35mm判の場合、機動性と望遠撮影の役割を担っている。メモ用途も35mm判の役割。ただし、画質に関しては妥協がある。 ならば、645判を35mm判を補完するという位置付けにするか。そうすれば、66判のほうの秩序を乱さずに済む。 これだ。 そういうことで、我輩のカバンには常時「FUJI GA645Wi」が入ることとなり、飲み会などの記念撮影などに使われるようになった。 中判ならば一人一人の表情まで良く出るので具合が良い。 結局、他人から見れば、何ともくだらないことに思考を費やしているように思えるかも知れない。「645判だの66判だの、いちいち大げさに考えず好きな物を使えば良いだろう」と。 まあ、まあ、すべてを察して笑ってくれ。 <<画像ファイルあり>> FUJI GA645Wi ---------------------------------------------------- ダイヤル式カメラを使いなサイ! http://cam2.sakura.ne.jp/