「カメラ雑文」一気読みテキストファイル[351]〜[400] テキスト形式のファイルのため、ブラウザで表示させると 改行されず、画像も表示されない。いったん自分のローカ ルディスクに保存(対象をファイルに保存)した後、あら ためて使い慣れているテキストエディタで開くとよい。 ちなみに、ウィンドウズ添付のメモ帳ごときでは、ファイ ルが大きすぎて開けないだろう。 ---------------------------------------------------- [351]「印象」 [352]「記憶のインデックス」 [353]「メガネ代わり」 [354]「気概ある者、闘いに備えよ」 [355]「気概ある者、闘いに備えよ(2)」 [356]「中・大判画質」 [357]「輪郭」 [358]「今こそ写真知識」 [359]「アーカイブス・プロジェクト」 [360]「長期休暇撮影1(撮影の趣旨)」 [361]「長期休暇撮影2(別府撮影日記)」 [362]「長期休暇撮影3(万博公園撮影日記)」 [363]「自分だけの視点を突き詰めろ」 [364]「想像は現実を通り越す(1)」 [365]「想像は現実を通り越す(2)」 [366]「当たり前の幸せ」 [367]「デジカメを買おうとするヤツら」 [368]「液晶プリウス」 [369]中判魚眼レンズへの道(1)「ドレイクの方程式」 [370]中判魚眼レンズへの道(2)「探索」 [371]中判魚眼レンズへの道(3)「最後の賭け」 [372]「雷」 [373]「営業活動」 [374]「金属ボディ」 [375]「英語禁止ホール」 [376]「フルサイズCCD」 [377]「キャノン」 [378]「職場写真」 [379]「不真面目さの指標」 [380]中判魚眼レンズへの道(4)「残る後悔」 [381]中判魚眼レンズへの道(5)「やむを得ない措置」 [382]中判魚眼レンズへの道(6)「里帰り」 [383]「魚眼レンズ観」 [384]「日付」 [385]「Kiev 6C」 [386]「オークション」 [387]「情緒あるAF一眼レフ」 [388]「新タイプと旧タイプ」 [389]「Canon TS-E 90mm F2.8を手放した理由」 [390]「批判メール」 [391]「気合の入った化粧」 [392]「道具の心」 [393]「昔の敵は今日の友(2)」 [394]「Q&A」 [395]「ただボタンを押すだけのE.T.」 [396]「auto110再来を願う」 [397]「大画面液晶パソコン」 [398]「勝つためのこだわり」 [399]「盗撮に最適」 [400]「ネオパン-Fが嫌いな理由」 ---------------------------------------------------- [351] 2002年05月08日(水) 「印象」 先週、臨時収入を得た。 そこで、7日19時頃、露出計代わりに使う小型軽量なデジタルカメラを得るためにヨドバシカメラ上野店に立ち寄った。 店内には、雨の日にも関わらず我輩と同じような会社帰りの人間が多くいた。 我輩は1階カメラ売場のデジカメコーナーに行き、お目当てのオリンパス「CAMEDIA C-700 Ultra Zoom」の店頭展示品を手に取って調べ始めた。 我輩の背後にもデジタルカメラが展示してあり、後ろから店員と客のやりとりが聞こえた。客は色々な質問をしているようで、店員はその客について質問に答えたりアドバイスをしていた。 我輩の調査項目は、「電源」、「ファインダー液晶表示の見え具合」、「付属品とオプション(特に外付けストロボ)」、「値段」だった。 その中の「ファインダー液晶」については、実際に手に取って確認した。だが、その他については店員に確認したほうが良さそうだ。 ・・・と思ったが、近くに店員はいない。客が多いから仕方が無かろう。 だが、いつまで経っても店員が近くに来ない。買うと決めていれば引っ張ってくることも出来ようが、まだ買うかどうか決めていない段階であるので、こちらから呼び寄せるのは気が引ける。出来れば近くを通りかかった店員に声を掛けたいと思う。 背後にいたデジカメコーナーの店員は若い男女2人いたが、相変わらず2人とも接客中である。しかし男のほうを見ると、少しぞんざいな感じであり、コイツは避けたいと”何となく”思った。 15分くらいカメラをいじりながら様子を伺っていると、ちょっと和風な雰囲気の女性店員がそばを通りかかったので、電源のことについて質問してみた。 すると彼女は困った顔をして「詳しい者に代わりますので」と別の男性店員を連れてきた。それはあの「ぞんざいな店員」だった・・・。 女性店員はその男に「このカメラの電池は何ですか?」と訊いてくれた。男は何となく面倒臭そうにカウンターから出てくるとカメラを手に取り言った。 「リチウムパック電池ですね。」 「このカメラ、充電器は付属してます?」 「いや、このタイプのカメラだと別売りですね。」 ちょっと無愛想な感じの受け答えだったが、質問にはちゃんと答えているので問題は無い。 我輩が気にしすぎているのでそう感じるだけだな。 「バッテリーは単3電池タイプのやつですか?」 カタログには載っていたが、一応、確認のために訊いてみた。 男は無言でカウンターに戻り、別売品の充電器を取り出し、「ほらよ、見えるか」というような態度で見せた。男の顔は別のほうを向いており、まるで無駄な時間を使っているかのような態度だった。 我輩が気にしすぎているのでそう感じるだけだな。 「リチウム電池はどんなの?」 するとまた面倒臭そうにカウンターにリチウム電池を無言で置いた。顔は別のほうを向いているので、「いちいちうるせえ客だな」という態度のような気がする。 我輩が気にしすぎているのでそう感じるだけだな。 「電池の本数は?」 すると、1本入りと2本入りの二種類のリチウム電池をカウンターにドンと置き、「こっちは1本、こっちは2本」と答えた。ん?何かおかしな答えだな。 「単3の場合は4本ですか?」と訊いてみた。 「あーっ、あのカメラの電池の本数のことですかぁ。」 おいおい、今まであのカメラの話をしてなかったのか、と言いたかったが、我輩の質問の仕方が悪かったのだな。 外付けストロボの接続について、ブラケットが必要だというのは分かっていたので、そのブラケットの大きさがどれくらいかを訊いてみた。常用出来る大きさなのかが知りたい。するとその男は、またもや無言で製品を取り出し、「いい加減決めろよ」とでも言いたそうな感じでカウンターに置いてよそを向いた。 我輩が気にしすぎているのでそう感じるだけだな。 まあ、比べてはいけないのだろうが、最初に我輩の背後で接客していた女性店員はハキハキと接客し、質問にも客がどんなことを求めているかということを酌み取った上でアドバイスをしていた。だが、この男は訊かれたこと以外は何も言葉を発することは無く、「答えたからいいだろ、もう解放してくれよ。」という態度が滲み出ている。 ・・・これもまあ、我輩が気にしすぎているのでそう感じるだけだな。 だが、正直言ってこの男から買うのはイヤだと思った。いくら自分が神経質過ぎるとは言え、やはりそういう印象を抱いたのは事実である。イヤな思いをしてまで買い物をしたくないと思うのは当然のこと。我輩がカメラのほうに戻ると、その男は別の場所に行ってしまった。恐らく、その男の勤務時間が終わったのだろう。それで接客がぞんざいだったのか。 仕方無く、我輩は帰ろうと思った。ただ、このデジタルカメラは使えそうだと判断したので、別の店で買おうと考えていた。だが、ふと見ると、別の店員が目に入った。基本的にヨドバシカメラ上野店は結構接客態度が良いと考えていたので、違う店員ならば問題無いだろうと声を掛けてみた。 すると、先ほどの男とは全く違う接客で、我輩は「ああ、これこそが接客というものだ」とあらためて感じた。 結局、そのデジタルカメラをその店員に対して購入した。 我輩も営業職となり、接客が何よりも重要であるということを思い知らされている。どんなに丁寧な言葉を使おうと、そこに気持ちが入っていなければ、言葉は相手に響かぬ。我輩が「気のせいだ」と思っていたものは、その「気持ち」の部分であった。 人はそれを、「印象」と呼ぶ。 今回、我輩はその「印象」のためにカメラをこの店で買うのを止めようとし、また同じく「印象」のためにこの店で買おうと決めた。 その店員は「雨はまだ降ってますか?じゃあ、厳重にしておきましょうね。」とビニール袋を二重に梱包してくれた。そして梱包の合間に「カメラの調子はどうですか?」と訊いてきた。最初は何のことだか分からなかったが、例のF3事件のことだと気付いた。あの時応対してくれた店員だった。 失礼ながら我輩はその店員を忘れており、そんな一人の客の半年前の出来事についてよく覚えていたと感心するばかりだ(まあ、特異な事件だったから印象に残っていたかも知れぬが)。もし我輩ならば、イヤな事件は忘れたフリをするだろう。あるいはカメラの調子を訊くにしても皮肉っぽく言うかも知れない。だが、その店員の言葉には気持ちが入っていた。多くの客をこなす店員と話しているというよりも、1対1で話しているという安心感があった。 ヨドバシカメラも、店員によってその印象を落とすこともあろう。だが、その印象を救う店員がいるのも事実である。 偉そうに採点するわけでは無いが、自分の抱く印象にウソをつくつもりは無い。ヨドバシカメラ上野店、今回は危うかったが、プラスマイナス・ゼロとしよう。 これが我輩の、今回の最終的な印象である。 ---------------------------------------------------- [352] 2002年05月12日(日) 「記憶のインデックス」 記憶は、単に脳細胞に情報として記録されているだけでは使えない。その情報を取り出すことが出来なければ、情報が無いのと同じことである。 一時的な記憶喪失の場合、脳内の情報は失われていないが、何らかの原因によってそれを取り出すことが出来なくなる。そして、再び情報を取り出すことが出来るようになると、記憶もまた甦る。 また、記憶力が重要となる受験勉強では、脳内に蓄えた情報を取り出しやすいように、語呂合わせや連想・関連付けによって情報の整理整頓をする工夫を行う。同じ情報を蓄えていても、インデックスが有るか無いかで情報の取り出しやすさはかなり変わるのである。 我輩は保育園時代から小学生低学年までの間の記憶はあまり無い。だが、断片的に残っている記憶の中のシーンは、色鮮やかにその動きを再現する。 その幾つかを想い出してみると、その共通点は「写真」であった。 一つは、お遊戯の発表会のシーン。 保育園にはいくつかの組があり、我輩の組は「インディアンの子供」という踊りをやったが、最後の決めのポーズでは槍を高らかに掲げるという打ち合わせだった。しかし、他の者は最後の部分などはいい加減であり、我輩はそれを横目に見ながら「おまえら、最後はこういうポーズで決めるっちゅうたろうが!」と歯痒く思いながらも、まとまりの無い中で自分一人だけ決めのポーズをした。 まさしく、その写真が残っている。 一つは、記念撮影のシーン。 保育園で一人のカメラマン(恐らく保育園の職員)が現れ、園児一人一人をスナップ撮影していた。 我輩はあまり写真に写ることが好きでは無かったため、巧みに写真の順番を避けていた。結局、一番最後に順番が回ってきたが、それでも我輩は写真から逃げ回っており、カメラマンも困ってしまった。 すると、1つ年上のお姉さん園児が「じゃあ、私に任せて」とばかりに我輩をとっつかまえ、頭を押さえて写真に写った。 まさしく、その写真が残っている。 一つは、昼寝の時間のシーン。 保育園では昼寝の時間があり、部屋の中で各自用意してあるタオルケットを掛けて寝る。 その日、我輩は友達と遊びに熱中しており、昼寝の時間になっても寝付けず二人で話をしていた。しばらくすると、保母さんが見回りに来る気配がしたので、急いで寝たフリをした。 目をつぶっていて見えなかったが、保母さんは、どうも園児の寝姿を写真に撮っている様子。そのうち、こちらにも撮影に来た。 まさしく、その写真が残っている。 一つは、室内の記念撮影シーン。 保育園での勉強中、カメラマンがやってきた。我輩は意識して下唇を噛んで前歯を覗かせておどけてみせた。周りの友人たちがなかなかカメラのほうを向かなかったのか、ピントを合わせるのに手間取ったのか、シャッターを切るまでに多少の時間がかかった。その間、我輩は自分の表情を固定し続けていた。 まさしく、その写真が残っている。 今思うと、よくこれほど詳細な記憶が残っていたものだと自分ながら感心する。保育園時代の他の記憶がかなり曖昧であるのに対し、ここで挙げた記憶は、まるで昨日のような鮮明さを持って脳内で再現される。 (赤ん坊の頃の写真とそのおぼろげな記憶もあるが、さすがにこれは、写真を見たことによって後で生成されるニセの記憶であろう。その証拠に、保育園時代のような具体的な描写が出来ない。) こうしてみると、写真というのは記憶を呼び戻すインデックスの役割をしているように思う。 写真を見る度、薄れかけた記憶が強化され固定される。それと同時に、写真を見ることが記憶のインデックスに触れることにもなる。これが写真の効用だとしたら、写真というものは自分自身を形成した要素の一つだと言うことも出来よう。 よく、「子供のビデオや写真など撮っても、後で見ることは無い」などという話を聞く。確かにそうかも知れぬ。だがそれが、「写真やビデオを撮ることが無駄である」という結論には繋がらない。 国語辞典を想像してみると良い。広辞苑のような情報量の膨大な辞典を購入しても、ほとんどの者にはすべてのページが必要となるわけではない。だが、たった1ページ落丁していたがために、あの分厚い辞典が用無しとなることもあり得る。 情報というものは、事前にその価値が決められるものは少ない。子供が成長し、自分というものを考え始めた時に、必要なインデックスがそこにあれば幸運なことだ。 「記憶」とは、その人間そのものだと言われる。記憶というものを積み重ねながら、自分自身を形成してゆく。それゆえ、記憶を無くした痴呆症の老人は、もはや別人でしか無い。 このように記憶というものは重要であり、それを効率良く管理するには、節目節目でインデックスを付ける必要があろう。幼い頃は自分で記録出来ぬことであるから、両親がその記録の責任を負う。かつての自分が、親に写真を撮ってもらったように、今度は自分が親となり子供の撮影をする。それは、自分の満足のためでは決して無い。あくまで、その子供の一部となるべく、今を記録するのである。 <<画像ファイルあり>> 悪の思想家にも純朴な子供の頃があった。 (小学生低学年の我輩) ---------------------------------------------------- [353] 2002年05月13日(月) 「メガネ代わり」 雑文283にて、近視のMF能力について述べた。 だが、これはファインダー視度が微妙に合っていないという程度にのみ有効な方法である。近視の者は体調によって視力が一時的に悪いほうへ変わることがある。その都度、視度補正レンズを付け替えるのも現実的では無く、雑文283のようなMF能力を身に付ける必要があった。 しかしながら、単に体調による視力低下ではなく恒常的な視力低下が起これば、それこそMF能力を失う場面すらある。そうなれば、もはや微妙な技など通用せぬ。素直に新たな視度補正レンズを導入するより仕方無い。 我輩は自分の視力について数値としては知らない(覚えていない)が、「視度補正レンズはいつも-2を購入している」と書けば、その視力が解るだろうか。 普段、メガネを掛ける習慣が無いために、カメラのファインダーをメガネを掛けて覗くというのはかなり違和感があり調子を狂わせる。そのため、我輩は視度補正レンズの無いカメラを使うことは出来ぬ。 最近、我輩は各カメラに装着している視度補正レンズを、-2から-3へと更新した。それだけ視力が低下したということだ。もはや、体調によって左右する範囲を越えてしまった。 それでも、日常生活ではそれほど問題にならない程度であるため、やはりメガネを掛ける気にはなれない。だが、視度補正レンズが手に入らないカメラは何台か所有しており、その出番が無くなるのは少し寂しいことでもある。 秩父鉄道を撮影に行った際、駅の壁に掲示してある時刻表の文字が見えず、カメラを覗いて確認した。カメラがメガネ代わりというところか。 まあ、見方を変えれば、カメラがより我輩の生活に密着するようになったと言えるかも知れない。カメラ無しでは、時刻表さえ見えないのであるから。 だが、やはりカメラはカメラ。どうしてもメガネにはなり得ぬ。 例えば、観光地などで「シャッターを押して下さい」と言われたとする。普段ならばヘナチョコ妻に代わってもらったりするのであるが、それでも状況的に我輩が撮影せざるを得ない場面もあるだろう。そういう時、相手が渡してきたカメラが一眼レフならば、ピントに関してはもはや責任が持てない。たまたま相手のカメラの視度が我輩の視度に合っていれば良いが、ノーマル視度であったりするともうダメだ。 それがAF一眼レフであろうとも、撮影者が「よし、ピントが合っているな」と確認した上でシャッターを切ることになっている。最近のワイドフォーカスエリアを持つAFカメラでは、常に距離が近い物体にピントを合わせるような仕組みになっているため(本当はそういう単純な判断ではないだろうが、結果的にはそうなるので皮肉の意味を込めた表現とした)、もしピントが確認出来なければ、中抜けになったとしても気が付かない。一期一会の撮影ゆえ、後日「うまく写ってたか?」などと確かめることすら出来ない。恐らくその心配事は、記憶が続く限り残ることだろう。 「所詮、他人の事だ」と気にもしない者は良いかも知れぬが、我輩にも写真を撮る時のプライドというものがあり、撮影結果は常に気になる。 なに?自分のカメラを使い、そのレンズにて相手のカメラのファインダーを覗けと? ナルホド・・・、その手があったか。 <視度を調整する小技> <<画像ファイルあり>> ウェストレベルファインダーであれば、指で少し押し込むとルーペと焦点板との距離が変わって視度が合う。あまり深く押し込むと光軸がズレてファインダー像が暗くなり正しく見えなくなるので注意は必要。だが応急処置的には使える。 ---------------------------------------------------- [354] 2002年05月17日(金) 「気概ある者、闘いに備えよ」 先日の秩父線の撮影で意外と苦労を強いられているのは、撮影そのものではなく撮影後の写真整理であった。 中判で撮影すれば、当然のことながら35mmサイズとは違った用品が必要となり、いちいち金が掛かるうえに在庫自体少ない。hama製6x6サイズのプラスチックマウントなどは、ヨドバシカメラの店頭在庫を我輩が全て買い占める結果となった。補充されるまでしばらく待たねばならぬ。 また、35mmサイズであれば安価なフィルムスキャナーでパソコンに取り込むことが出来るのだが、中判であれば高価なフィルムスキャナーでしか取り込めず、製品も選択肢がかなり限られている。 もしも中判カメラがカメラ界の主流であったならば、そのスケールメリットにより、もっと安価に多くの選択肢の中から選ぶことが出来たはずである。 なぜ、便利で経済的な35mmサイズにしなかったのか。疲れた頭の中でふと過ぎる疑問。 しかし十分な情報量を確保するために選択した中判サイズであるならば、我輩はその苦労に正面から立ち向かい安易な妥協を振り払う。 これは自分との闘いでもある・・・。 最近、コンビニや小さなカメラ店でも、デジタルカメラの画像をその場でプリントする機械が導入されているのを見る。面倒な操作も要らず、デジタルカメラのメモリーを挿入して画面の質問に答えるだけで良い。 この先このような光景が当たり前となるなら、パソコンを持たぬ者やパソコンの知識の無い者にさえデジタルカメラが普及し始めることになる。 恐らく近い将来、35mmカメラの市場はデジタルカメラに置き換わり、35mmカメラは白色矮星の如く小さくしぼんでしまうだろう。これは、デジタルカメラの利点が35mmカメラの利点と重なるからである。 (白色矮星=「完全に消えはしないが小さくしぼんでしまう」という意味での比喩) 現時点に於けるカメラの主流は35mmカメラである。 元々35mmカメラというのは、小型で機動性があり、そのフィルムの入手や現像ルートも不自由無い。そのユーザー数はカメラ人口の中で圧倒的に多く、カメラも量産効果により比較的安価に提供されており、その選択肢もまた多い(似たようなカメラが多いが)。最先端技術の導入も、常に35mmカメラが中心であった。 裏を返せば、35mmカメラを使う者は多かれ少なかれこのような主流に乗ることにより、いわゆるスケールメリットを享受してきたことになる。 そもそも多くの者は、カメラを始める時点では35mmカメラ以外のフォーマットのことは知らなかっただろう。それは、35mmカメラの市場が他と比べて比較にならぬほど大きく、他のフォーマットが隠されて目に入らなかったことによる。 身近に中・大判カメラを使っている者がいればまた違うだろうが、そんな状況は極めて稀。大抵の場合、最初は使い捨てカメラやコンパクトカメラを何となく使い始め、そこからそれぞれの目的に応じたステップアップをする。最初が35mmカメラならば、特別な理由が無い限り次のカメラも自ずと35mmカメラとなる。 ところが、この先デジタルカメラが普及してくるならば、スケールメリットはデジタルカメラ側に移ることになる。それは、ビギナークラスのカメラから始まる。最も数の多い裾野のビギナークラスがデジタル色に染まれば、全体が染まるのはまさに時間の問題。 そうなれば、35mmカメラという選択肢は陰に隠れて見えなくなり、もはや意志ある者しか使わぬマイナーな存在となろう。 現段階ではまだ力不足の感のあるデジタルカメラではあるが、近い将来、デジタルカメラが35mmカメラの性能を全てに渡って凌駕するのは疑いようが無い。 もちろん、どれほどデジタルカメラが進歩しようとも、35mmカメラはデジタルカメラが到達し得ない画質を持っているのも事実。だが35mmカメラを選んだ者は、実はデジタルカメラの画質で十分なのだ。もし画質を重視するのであれば、そもそも35mmカメラを使っているはずが無い。わざわざ35mmカメラに留まっているというのは、35mmカメラの持つ機動性や経済性、汎用性などに価値を見出しているからであり、あくまでその範囲内での高画質に割り切っているのである。画質に対する要求がその程度であるならば、デジタルカメラの画質は画素数を稼ぐことで十分カバー出来る。 35mmカメラの利点であった機動性(コンパクトで小回りが利く機材)、汎用性(どこでもフィルムが手に入りどこでも現像出来る環境)、経済性(スケールメリットによるランニングコストの低さ)、先進性(ふんだんに使われる最新技術)を追っていた者ならば、デジタルカメラがそれらをさらに上回る、あるいは将来的に上回る可能性があるとするならば、35mmカメラに固執する意味を失うことになる。 皮肉なことに、35mmカメラを選択した理由が、即ちデジタルカメラを選択する理由となってしまう。 その点、中・大判カメラを使う者は、「画素数さえあれば高画質である」とするような価値観は無く、デジタルカメラの利便性など何の誘惑にもならぬ(業務用としての割り切り用途は除く)。もしデジタルカメラの持つメリットが必要であったならば、そもそも中・大判カメラなど選ばず、便利な35mmカメラを使っていたことだろう。 特に大判カメラでは、「フィルムがどこでも気軽に手に入らない」、「カメラの携行に体力が要る」、「ピントを合わせるのに神経を使う」、「1枚1枚の撮影に手間が掛かる」・・・などとほとんどメリットが無い。ただ求むるは画質(フィルムサイズとアオリ撮影)のみである。しかしそれは、他に代え難い高画質なのだ。多少の手間と苦労は承知の上。 手間を惜しんでデジタル画像に下るならば、もはや本末転倒と言わざるを得まい。 それに対し、35mmカメラを使う者にとって、デジタルカメラの利便性は誘惑そのもの。 引いてゆく波のように大多数がデジタルカメラに流れて行くならば、そのスケールメリットはどんどん失われ、35mmカメラにしがみついている理由が今以上に問われることとなる。 果たして、意志を持って35mmカメラを使い続けることが出来るか。 来るべき厳しい時代を前にして、35mmカメラを使い続けようとする者は自らの意志を再確認する必要があろう。 「35mmカメラよりもコンパクトなデジタルカメラをなぜ使わないのか?」 「35mmカメラよりもどこでもすぐに見られるデジタルカメラをなぜ使わないのか?」 「35mmカメラよりも安く撮れるデジタルカメラをなぜ使わないのか?」 「35mmカメラよりも進んだ技術のデジタルカメラをなぜ使わないのか?」 (※上記は将来的な性能を含む) その疑問に対する答を用意出来ぬとあらば、もしデジタルカメラが多数派となった時、無駄な抵抗をせず素直にデジタルカメラの軍門に下れ。下手に食い下がれば、無益な血(出費)を流すこととなろう。 好むと好まざるとに関わらず、いずれ35mmカメラの牙城は崩されよう。残念だがそれが現実だ。それでも闘う者あらば闘え。 独りになっても闘い続ける気概が無くば、闘いには決して勝てぬ。今のうちに自らの意志を確認し、来るべき闘いに備えよ。 ---------------------------------------------------- [355] 2002年05月19日(日) 「気概ある者、闘いに備えよ(2)」 前回の雑文では、我輩の口調に思わず「おのれ、今まで銀塩カメラの優秀さを強調し俺様をその気にさせておきながら、何の前触れも無く敵側に寝返ったか?!」と怒りに燃えた者もいるかも知れぬ。 だが、我輩は身近に起こる僅かな異変を感じ取り、35mmカメラが徐々に包囲されているということを思い知った。現在の趣味の形態を続けて行きたいのは我輩も同じだが、状況が変わるならば何かしら考えねばならぬ。そしてそのために、自分のスタンスを明確にする必要があると考えた。 一般人はクオリティよりも便利さを選ぶ。それは、音楽業界を見ればすぐに理解出来よう。 高画質なベータビデオよりも、ソフトが多く揃っていたVHSビデオのほうが普及した。高音質なDATよりも、コンパクトでランダムアクセス性に優れたMDのほうが普及した。 反対にマニアと呼ばれる人間は、便利さよりもクオリティを求める。それ故、マニアというのはいつの時代でも、一般ニーズとは違う物を求め、そのことにエネルギーを多く使うことになるのである。 だが、生半可なエネルギーでは何の役にも立たない。マニアをマニアたらしめているのは、クオリティに対する異常なまでのこだわりであり、妥協の無い自分に満足するという、ある種の潔癖さである。 自分の中にそのエネルギーがあるかどうか、それを知るは本人のみ。 今まではスケールメリットという多数派の後ろ盾があった。それが今後期待出来なくなるとすれば、あとは自分のエネルギーのみが頼りである。 来るべきこの闘い、単純に籠城すればやり過ごせるというような生易しいものでは無い。 消耗品としてのフィルム入手はもちろんのこと、現像処理についても限られた現像所でしか出来なくなる恐れがある。そうなると、手に入りにくいフィルムを買うために大きな街に出向き、現像のために数日間ひたすら待つことになる・・・。 これはまさに兵糧責め(ひょうろうぜめ)と言えよう。闘いとは、刀を交える派手なぶつかり合いではなく、兵糧責めに耐える十分な覚悟と忍耐力に他ならない。 兵糧責めに勝つための1つの方法として、時には自分で現像出来るようにする必要があるかも知れない。あるいは100フィートフィルムをパトローネに詰める作業も必要になるだろう。このような作業が長く続くと、どうしてもデジタルカメラの便利さに心を動かされるようになる。しかしそうなったら敵の思うツボ。少なくともモノクロ写真くらいは自家処理が可能な環境を整える必要があろう。 このような努力の1つ1つが、それぞれの「闘い」と言える。 それぞれの努力無くば、もはや籠城をやり遂げることなど難しく、35mmカメラは高価な文鎮となることは必至。 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」 自らの35mmカメラに対するこだわりを確かめながら、常に戦況を読む。これこそが、次にどのような行動を取るべきかを迷い無く決めることに繋がろう。 <100フィート長尺フィルム装填法> 100フィート長尺フィルムを使うには、装填するためのパトローネが必要になる。昔は使用済みのパトローネを丁寧に開封して使っていたものだが、パトローネを落下させても蓋が開かないようにフィルムメーカーが蓋をカシメてしまった。これにより、無傷でパトローネを開封することが不可能となり、用品メーカー発売のカシメていない詰替え用パトローネを購入する必要があった。だがやはりカシメていないパトローネは、何度も蓋を開け閉めすると遮光性が悪くなる。そこで、カシメているパトローネを再利用する方法を考えた。これならば、耐久性も高く、余計な費用も必要無い。 <<画像ファイルあり>> フィルムが出切った状態で、多少ベロが出るようにしてフィルムを切断しておく。このパトローネが1つあれば何度も再利用が可能となる。 <<画像ファイルあり>> 詰替えるための新しいフィルムの先端をセロハンテープでベロ部分に付ける。セロハンテープの両端がハミ出すようにするのがポイント。 <<画像ファイルあり>> ハミ出したセロハンテープを裏側に折り込む。このようにすると、端から切断されるという事故を防ぐことが出来る。あとはそのままフィルムをパトローネに巻込んで行けば良い。ちなみに、長尺フィルム装填機を使えば、明室にてこの作業が行える。暗室で行う場合、両手を広げた長さが36枚撮り1本分の目安となる。 ---------------------------------------------------- [356] 2002年05月29日(水) 「中・大判画質」 今月発売の「写真工業2002年6月号」では、巻頭カラーページに「レンゲツツジ咲く湿原」と題された写真が掲載されている。見ると、撮影データとして「ブロニカSQ-Ai PS40mm 絞りF22 SINBI 100」とある。フィルムはともかく、カメラとレンズは我輩のよく使う組み合わせであり、興味深くその写真を眺めた。 だが、どうも印刷時のスクリーン線数が粗いらしく、中判写真本来の緻密感が無い。何とも勿体なく残念である。まあ、雑誌というのはあくまでも雑誌。妥協せず画質優先で印刷コストを上げるわけにもいくまい。 我輩の勤務する会社は印刷関連であるが、数年前に配られたカレンダーでは印刷線数の違いが分かるように写真ごとに線数を変えていた。その中で、最も線数の細かい写真印刷を見て息を飲んだ。それはまさに段違い、今まで見てきた印刷物は何だったのかと正直思った。 印刷物であろうとも、妥協しなければそれなりの写真画質が再現出来ることに驚いた。それは逆に、普段目にする印刷というものは妥協の産物であるということも実感させる。 雑誌というものは、商業上いくらかの妥協は必要かも知れぬが、ここぞと言う場面では力を入れて欲しいと思うのは我輩のわがままか。せっかくの中判写真であるのだから、印刷物を通じて中判の画力というものを読者に見せつけて欲しい。 そうでなければ、「中判とは言っても、所詮は35mmの画質と大差無いじゃないか。」と思われてしまう危険性がある。いや、そもそも中判カメラで撮影したとも気付かないかも知れない。今月号の写真工業の件でさえ、最初はそこに目が止まらずに「待てよ、あの写真は正方形だったな・・・。まさか中判カメラで撮影したものか?」と変なところで気付いた。 もしやと思い、更にバックナンバーを見返してみると、中判はもちろんのこと、大判カメラで撮影された写真もあった。不覚である・・・。 しかし、画質によって目を引かせることの出来ぬ写真など、中・大判カメラで撮影する意味が無い。 雑誌などの印刷物の場合、その大きさもA4判程度であり、実際に掲載する写真となるとそのサイズ以下である。しかもポスターなどのように一定の距離を置いて鑑賞するようなものでは無く、至近距離での鑑賞となる。そのため、よほど印刷時の線数を高くしなければ緻密感を伝えることは難しい。 ・・・念のために言っておくが、これは撮影した写真家の責任ではなく、印刷工程での問題点である。 さて、最近は35mmフィルムでも十分緻密感を味わえるくらいにフィルムも微粒子となった。だが、それで35mmですべてをカバー出来るかと言えばそうでも無い。やはり被写体次第、用途次第である。 我輩が35mmカメラに限界を感じたのは、カメラの写真を撮影するようになってすぐだった。 フィルムやレンズ、そしてライティングなどを工夫しようとも、どうしても細部の描写がキッチリといかない。倍率の高い自作ルーペ(ジャンク交換レンズを解体して自作したもの)で写真をジックリ見ていくと、細部がボヤケているのが判る。黒ボディと白刻印とのコントラスト、レンズ面の滑らかなグラデーション、シャープなボディライン・・・。それらは我輩のイメージどおりの描写としてフィルムには写らなかった。 いくらピントをキッチリ合わせようとも、フィルム粒子よりも細かい描写は不可能なのは誰もが認めよう。しかし厳密に言うならば、そもそもフィルム粒子単位での描写ですら不可能である。それは、フィルムの宿命とも言おうか。 一般に、写真には階調が存在する。この階調は、フィルムの解像力を低下させる原因となる。 下図は、コントラストによる描写の違いを概念的に示したものである。便宜上ここでは、画像を構成する最小単位1ピクセルを、フィルム粒子1個と考えることにする。 <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> <階調を持たない画像> <階調を持つ画像> 階調を持たせた画像には、色と色の境目に連続的な中間色が存在する。例えば白と黒が接すると、その接点には何段階かのグレー色が存在することになる。このような色の境界線が混み入った画像では、全体的なシャープさが失われ緻密感が薄まってしまう。上の例では、「ピクセル」という文字の「ピ」の部分を見ると、マルの部分がグレー色に潰れてしまっているのが判るだろう。黒は隣り合う白に影響され、同じように白は隣り合う黒に影響され、互いにグレーとなって潰れてしまった。 このことから、フィルムの解像力は少なくともフィルム粒子1つ分よりもはるかに粗いことが分かる(もしこれが階調の無いフィルムであるならば、理論的にはフィルム粒子1つ分の細かさの解像力が得られるのだろうが)。 以上のことより、フィルムの豊かな階調と解像力を両立させようとするならば、下図のようにフィルムサイズを大きくして画像を構成する粒子の数を多くするしか無い。 <<画像ファイルあり>> 画像サイズを大きくすれば、階調と解像力が両立出来る。 当たり前と言ってしまえばそれまでだが、いくらルーペでも見えないほどの微粒子フィルムであろうとも解像力の低下が目に見える場合があるのだから、少なくともフィルム面積の大きさによるメリットは想像以上に大きいということは言える。これこそが、フィルムサイズの大きいカメラを使う理由である。単純に画面サイズが大きいというだけでなく、その階調表現は豊かで美しい。 だが残念ながら、雑誌程度の印刷ではこのようなクオリティは表現出来ない。 中・大判の魅力を実感する唯一の方法、それは、実際にそれらのポジを目の当たりにすることである。それしか方法は無い。 ---------------------------------------------------- [357] 2002年05月31日(金) 「輪郭」 拳銃での射撃について、大きく分けて「ターゲット・シューティング」と「コンバット・シューティング」の2つの形態がある。 米国ではスポーツでの射撃も広く行われるが、多発する凶悪事件に対処出来るよう護身術としてのコンバット・シューティングが重要視されている。 「ターゲット・シューティング」の場合、主に競技としての性格が強く、「ブルズ・アイ(雄牛の目)」と呼ばれる的紙の中心を射抜く精密射撃である。着弾が的の中心に近ければ近いほど良いということになる。 また、相手からの攻撃など考慮せぬため、棒立ちで照準を目線に重ねて引き金を引く撃ち方が一般的。 それに対し「コンバット・シューティング」では、実戦を想定した射撃を訓練することにより、最終的には自分が生き残ることを目的としている。出来るだけ早く敵の存在を察知し、低く構えながら素早く弾を撃ち込む。着弾点は相手のどこであろうと構わない。敵を無力化出来ればそれで良い。とにかくスピード勝負である。 早く撃つためには、早く相手を認識せねばならない。そのためには相手を輪郭で捉えるようにする。輪郭は人間にとって最も基本的なる認識法であり、直感に訴える。そのため、輪郭を捉えるだけならば素早い判断を可能とし、生き残る確率を上げることが出来る。コンマ数秒の違いが生死を分ける犯罪シーン、わずかな躊躇(ちゅうちょ)が文字通り命取りとなる。 コンバット・シューティングでは、「とにかく輪郭の内側に素早く2発ずつ撃ち込め」と教えられる。輪郭を認識したと同時に銃を構え、構えたと同時に引き金を2度引く。ブルズ・アイの中心の高得点部分を悠長に狙うのではない。 <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> <ブルズ・アイ> <マン・ターゲット> 雑文292でも書いたが、人間の目というのは、対象物の輪郭を線で認識するようになっている。 これは生物の根元的な認識であり、人間の場合は色の違いや濃度の違いで背景との差分を取り、そこから輪郭線を抽出する。輪郭線は単純な情報であり、高速な応答を可能とする。 (映画「プレデター」にはカメレオンのように背景に溶け込む異星人が登場するが、輪郭が抽出出来る視聴者には異星人がどこにいるかが判ったはず) 下の絵はいわゆるトリック絵で、何気なく見ると、人間のシルエットが浮かび上がって見える。しかし、映像としては「折れ曲がった19本の横線が並んでいる」だけである。 <<画像ファイルあり>> もしこのような輪郭の認識がすぐに出来なければ、それぞれの線の折れ曲がった部分を一つずつ目で追いながら全体の輪郭線を頭の中で想像しなければならぬ。そしてやっと、「これはもしかして、人間のシルエットではないか?」と思い浮かぶのだ。 それが本当に人間の姿であったならば、いろいろと考えているうちに相手の銃口は火を噴くことになろう。 我々は物を見た時、常に「それが何であるか」ということを理解しようと努める。なぜならば、人間の視覚というのは、「見る」というよりも「認識する」という用途に使われており、目に見える世界を頭の中で再構築することによって物体の認識やその位置関係を把握するのである。 頭の中に作られた仮想現実を使うと、「もう少し歩くと物にぶつかるな」などということが事前にシミュレートすることが可能である。 これは、「周囲の状況を常に伺いながら活動する」という動物の根元的機能である。そのために絶対不可欠な概念こそが輪郭線の認識に他ならない。 ところで、人間は色の違いや濃度の違いによって線を認識するとは言うものの、それはある程度の差がある場合である。もし許容量以下の色の違い、あるいは濃度の違いがあったとしても、その境界線は人間の目には線として認識されず、連続したグラデーションとして見える。 パソコンの世界では、6万色(ハイカラー)以下の色数で画像を塗り分けると、境界線が目立ちグラデーションがキレイには見えない。人間の輪郭線認識能力が働いてしまうためである。そこには在るはずもない無数の線が見えることだろう。 一般に、滑らかなグラデーションを表現するには最低1600万色(フルカラー)の色数が必要だとされている。それは、人間の目の優秀さを現す数でもある。 線とグラデーションとの区分けは微妙ではあるが、それは大きな違いとなって表面に現る。 以上、人間の認識する輪郭線について色々と書き連ねた。 ちょっとした表現の違いでそこに見えるものが変わってくるのは、その表現(芸術?)が人間に見せるためのものであるからだ。表現者は、さらに人間を深く知ることで新たな表現を見付けることであろう。 人間の探求は、写真の世界でも絵画の世界でも、表現を要する分野には必ず役に立つはず。 少なくとも我輩はそう考える。 (結局、我輩がこの文章で何を言いたいか。それは、一言で言うには難しい。願わくば、文章全体を眺めて見えてくる輪郭線があればいいのだが。単なる文章の縞模様が、何かの輪郭に見えてくるだろうか・・・?) ---------------------------------------------------- [358] 2002年06月03日(月) 「今こそ写真知識」 パソコンが普及してしばらく経つ。 一昔前のパソコンは、単なる数字を入力され、そして処理結果を数字で返した。 だがそのうち、入力も出力も、人間の感覚に近い形で行われるよう工夫されてきた。マウスでポインタを移動させ、その様子をモニタ画面上でアニメーションとして表現させる。 モニタ上には仮想的な机「デスクトップ」があり、マウスでファイルをドラッグすると、コピーや移動が行える。要らないファイルは、隅にあるゴミ箱に放り込めば良い。人間が手で物を掴んで動かすかのような動作を、パソコンの画面の中であたかも本当の出来事のように表現している。これは実体の無い幻とも言えようが、緻密な計算の上で再現された光景であるが故、信頼のおける再現性のある幻なのだ。 今やその幻は現実の世界を手本に様々な分野に広がり、例えばグラフィックソフトを立ち上げればキャンバスが現れ、音楽ソフトを立ち上げればキーボードが現れる。それは、直接手で触れないということを除けば現実そのものである。いや、ともすれば現実のそれらよりも多機能で融通が利いたりする。 このように、パソコンが現実世界を画面内に取り込もうとしているのは明らかであるが、写真の世界でもパソコンに取り込まれたものが幾つもある。 我々は、パソコン用グラフィックソフトに搭載されている「アンシャープマスク」や「覆い焼き」、「ソラリゼーション」という機能が、写真の暗室テクニックに関する手法であるということを知っている。 最近では、数枚のフィルムを合わせて1つの画像を合成する「コンポジット」という特殊技法さえパソコン上で再現可能となった。 これらは、現実の世界では面倒な作業をパソコンの画面の中で仮想的に行うことにより、失敗を恐れること無く手軽に処理を実現させる。 本当に便利な世の中になった・・・。 ところがこの便利さ故に、それが元々どういうものが実体であったのかということを知らぬ者が増えている。写真に関して言えば、グラフィック・デザイナー(またはグラフィッカー)などはその典型。 彼らは自称職業であるため、そのスキルには天と地ほどの開きがある。天に近い者は誰からも尊敬される知識と知性を持っている。また、地に近い者は自分のスキルを上げるべく必死に努力しているという謙虚さがある。 だがその中間には、澱(よど)んだ水の如く向上心や好奇心も無い者が多く目に付く。ヤツらはそれなりの業務をこなし、ソコソコの実績を持っている。だがそれは、ヤツらの言う「感性」という試行錯誤の結果であり、手当たり次第に試したツールのコラージュである(「感性」という言葉を多用するグラフィッカーには気を付けろ)。 なぜそのようなツールを使ったのか、それは理由など無い。感じるものがあっただけだろう。 それ故、バージョンアップ版が現れればすぐに飛びつき、プラグインなども手当たり次第に導入する。 こういったヤツラには写真の知識など皆無に近い。何しろ、スライドフィルムが普通のカメラに使えるということを知って驚くくらいである。スライドフィルム専用のスライド作成カメラがあるとでも思ったか? グラフィックの基本は写真であるのに、なぜ写真の知識が無くとも平気なのか。それは、彼らがエセだからである。 エセ(似非)とは、「似て非なるもの」という意味。 あたかも、楽譜を読めぬ音楽家のように、ヤツラは「感性」という詭弁を巧みに使い、自分の知識の薄さを誤魔化す。 ヤツラの言葉は、全てにわたって薄っぺらくインチキ臭い。 「何でもかんでもアンシャープ掛けるってのは感心しないな。」 「覆い焼きツールってさ、焼くって言うけど実は白くなるんだよ、間違えやすいからココ、ポイントね。」 「ソラリゼーション? 反転機能使ってりゃいいよ。同じ機能だから余計なフィルタだね。」 アンシャープマスクのマスクとはどういうものか知ってて言っておるのか。 覆い焼きツールのアイコンがなぜ<<画像ファイルあり>>という形なのか知ってて言っておるのか。 ソラリゼーションが単なる反転ではなく第二露光を行うテクニックだということを知ってて言っておるのか。 「覆い焼き」という言葉は日本語であり、その言葉から何か興味を引かれないのかと思う。それが、知識を取り入れるための良い機会ではなかろうか。 恐らく、「たまたまそういう名前が付いているだけだ」としか思わないのだろう。名前など深くは考えず、ただ、良さそうなものを集めて組み合わせるだけ。それがヤツラの言う感性だとしたら、まったくデザインというものも安っぽくなったものだと思わざるを得ない。 パソコンも、利用出来そうだと思うと導入し、必要なものだけをつまみ食いする。 自分のよく使うグラフィックソフトについては異常に詳しいものの、パソコンのハードやシステム環境などについては呆れるほど無知だったりする。いや、無知と言うよりも、そもそも無関心だ。 そういうヤツラを見ていると、写真というものを学び、ひとつの画(え)というものがどのようにして得られるのかということを知ることの大切さを今さらながらに実感する。 最近のグラフィック系ソフトウェアは機能も多く、それを使いこなすにはかなりの努力が必要であろう。だが、いくらそのソフトの説明書や解説本を読破しようが、根底にある知識の有る無しの差は非常に大きい。 例えば3D-CG作成ソフトには「あおり」機能があるが、その機能を撮影距離やアングルなどを考えて使っている者はどれだけいるか知りたいものだ。我輩などは、実際のあおり撮影で色々と苦労させられたから、この機能の有り難みや使い過ぎの危険性は痛いほど感ずる。 <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> <Photoshopの画面> <Shadeの画面> 我々、写真を趣味とする者たちにとって、その知識は非常に基本的な写真知識であり、その言葉を聞いただけで頭の中にイメージが湧く。デジタル処理に隠され人の目に映らぬ作業工程を知っている。 今こそ、写真知識が問われる時代と言えよう。 パソコンの知識など、後からいくらでも取り返しがつく。経験無くとも本さえ読めば足る。だが、深く長い経験を要する写真の知識は、我々の血であり肉である。 デジタル化へ進もうとする世の中ではあるが、我々は、写真を趣味としたことを幸運としなければならない。 それらは、エセどもには無い決定的な強みであるのだ。 ---------------------------------------------------- [359] 2002年06月19日(水) 「アーカイブス・プロジェクト」 我輩は常に自分を忙しくさせている。 何やら強迫観念に囚われやすい性格であるが故、色々な作業を背負い込むのが原因。 今のところ作業中なのが「所蔵書籍のデジタル取込み」、「所蔵ビデオテープのDVD変換」、「所蔵ネガフィルムのデジタル取込み」といったところか。しかし、直接のきっかけが強迫観念の仕業だとしながらも、結局は遅かれ早かれ悩む問題である。我輩はその問題を、まだ十分に距離があるうちから認識し、心に病む。なぜならば、今までに多くの後悔をしてきたからだ。 失われてから後悔しても遅い。 さて先週、我輩は九州の実家に帰ったのだが、昔の写真について雑文で書いたこともあり、ついでに実家のアルバムを取り出して眺めることにした。 しかし、それらの多くはホコリまみれで汚い。しかも写真が退色しているものがほとんどであった。 モノクロ写真がセピア調になるのは、まあ味があって良かろう。だがカラー写真が色褪せているのは何とも残念。古い写真であるが故、ネガなどもちろん無い。撮影者さえ判らぬものも多い。そうは言っても、せっかく色が記録されているカラー写真であるから、何とかその色を取り戻したいと思う。 そこで我輩は、写真をパソコンに取込んで色補正を行い、そのデータを「メディアプリントサービス」で再び写真印画紙に焼き付けることにした。今どきの印画紙ならば、100年くらいは保とう。 <<画像ファイルあり>> 原版見たままの状態。色が薄くなり、足下にはシワが付いている。 → <<画像ファイルあり>> パソコンで補正。顔色が悪いのは恐らく化粧のせい。 今、まさに、写真を長期保存するための計画「アーカイブス・プロジェクト」が始動した。これでまた、更に忙しくなる。 アルバムの数は7つ。最初は自分の写真だけを取込もうと思っていたのだが、アルバムをめくるにつれ、貴重な昔の写真が多くあるのに気付いた。しかもそれらの写真の多くは退色の途中にある。それらを見ると、もはや自分が写っているかそうではないかなどは些細なことのように感じてきた。 「よし、このアルバムの写真を全て取込んでやろう。」 ここで我輩が救わねば、いったい誰が救おうか。 それらのアルバムのほとんどは、台紙が粘着性を持つタイプで、上からビニールをカバーすることによって写真を保持している。その台紙のままスキャン出来れば楽であるが、少なくとも汚れたビニールカバーは剥がして読取らねばクオリティが落ちる。 1冊目のアルバムは比較的新しく、何とか問題無くスキャン出来た。 だが問題は次のアルバムだった。 背の内側の部分にアシダカグモ(日本最大のクモ)の卵嚢がまるでカイコの繭のように産み付けられていた。クモ嫌いな我輩は一瞬ひるんだものの、それが古いものであり、既に子グモは卵から孵化していると思われ安心した。作業中に数千もの子グモが次々に孵化してはかなわん(過去にそういう経験がある)。 しかもこのアルバム、台紙の粘着部が固化していたため、いったんビニールカバーを剥がすと二度と貼れなくなってしまった。 クモの卵嚢と粘着部の固化。 さすがにこのアルバムを再び使うのは気が引けた。スキャン後は新規にアルバムを買い、そこに写真を移そうと思う。 だが、台紙の粘着部が固化しているために、写真を無理に台紙から剥がそうとすると、紙質の粗い写真の裏紙が剥がれてしまった。 途中で引き返すことも出来ず、かと言ってこのまま作業を続けるにも辛い。下手をすると写真そのものが破れてしまう。悩んだ末、アルバムの台紙そのものを切り抜くことにした。その分写真の厚みが増すが、現代の科学力ではこれが精一杯であろう。 とにかく、粘着性のものは経年変化に特に弱い。アルバムの多くが自由なレイアウトを可能にする粘着台紙のものであるが、これは長期保存用としては最も避けるべきこと。理想的な保存状態を保てるならば良いのだが、自分の目の届く範囲を離れ、押入れや物置きに無造作に置かれる危険性が少しでもあるならば、粘着性台紙を使うアルバムは選ぶべきではない。 また、セロハンテープを使うのもマズイ。 粘着部が変色・固化するのはもちろんのこと、セロハンは植物性(セルロース)であるので自然分解は避けられぬ。長期保存しようと思う写真にセロハンテープを使うのは絶対に止めるべきである。 スキャン作業中のアルバムの中に、文字を書いた紙をセロハンテープで写真に直接貼り付けているものがあった。当然ながら、粘着部は褐色に固化して写真を汚しており、セロハン部はまるで焼いた海苔のようにパリパリになって剥離していた。保存状況によっては、ほんの数年でこのようになる。 セロハンテープは透明であるが故に、つい写真表面にも貼り付けてしまうことがあるのだろう。貼った直後の見た目がキレイであろうとも、数年後には正視出来ぬものとなるから要注意。 それにしても、写りの悪いスナップ写真が大半ながらも、中にはかなり緻密なものもある。それらは写真館で撮られたと思われ、戦前の写真であるものの、その緻密感たるや現代の写真に全く劣らない。恐らくは大判写真で撮られたのであろう。戦前の映像を十分な情報量で伝えるその写真には、有無を言わさぬ価値を感ずる。 そこには、写真を取込み色補正する手間や、メディアプリントするコスト、そして新しいアルバムに整理する気力を投入する価値が確かにある。 我輩を動かす唯一の原動力、それは、貴重な情報を伝え残す義務感のみ。 <<画像ファイルあり>> 若き日の祖父の写真(向かって左側)。その緻密感はパソコン上では解るまい。 ---------------------------------------------------- [360] 2002年06月22日(土) 「長期休暇撮影1(撮影の趣旨)」 過去数回に渡り「デジカメは露出計となり得るか」ということについて書いてきた。これは、失敗の許されない写真を撮る際に、デジタルカメラの液晶表示を使い大体の仕上がりを予測するという意図がある。 いくら露出計算を緻密に行おうが、数値で表される露出情報から色合いや明るさをイメージするのは難しい。仮にイメージ出来ようとも、そこには確証が無い。 撮り直しの難しい撮影にはそれなりのプレッシャーがある。「間違いなかろう」とは思ったとしても、安全のために何枚か段階露出を多めに行うことになる。 これがフィルムバック交換可能な一眼レフであるならば、ポラロイドバックを装着して試し撮りしたいところ。もちろんコストや手間が掛かるが、万が一にも露出判断を誤った場合、撮り直しのコストや手間、そして精神的ダメージのほうがはるかに大きいのだ。そして何より、撮影中にそのような心配事に気を取られたくない。 今回、勤続10年の節目で得たシーズンオフでの貴重な長期休暇である。我輩はその休暇を「別府地獄巡り」の撮影に費やすこととした。動かない風景として、なるべく人の写り込まない情景をフィルムに収めたい。そのために、シーズンオフの長期休暇はまたとないチャンスと言える。 長期休暇、撮影コスト、そして労力。撮り直しのきかない状況とは、単に我輩側の都合のことであるが、もしそこに注ぎ込んだそれらのエネルギーを無駄にすることになれば、もはや立ち直ることは出来まい。 そういう意味で失敗が許されない。 だが、いくら失敗を防ぐために段階露出やポラ切りをしようとも、際限無くやれば我輩の財政が破綻する。そこで、デジタルカメラのモニタ機能を利用してポラ切りと同様な効果を得、段階露出の枚数を抑えようとすることを思い付いたのである。 以前の雑文 「デジカメは露出計となり得るか(テスト編〜実践編)」では、その効果と限界を見極めた。 結論としては、保険としての段階露出の枚数を減らすことは出来ないが(+0.5、0、-0.5の3枚撮影)、心配事を大幅に減らすことで次の撮影に集中出来る。 以前雑文にて書いた一度きりの覚悟のような、もはや撮影行為そのものに意味を見付けようとしたり、自己鍛錬しようとする目的も無い。ましてや写真を作品化する気すら無い。あくまで今回の写真撮影は、対象物そのものが第一目的である。 いくら写真的に雰囲気があろうとも、情報量の減るような撮影は一切行わないようにした。 そのため、デイライトフィルムに適した晴天昼光の条件で撮影することが第一条件であり、色温度の下がる早朝や夕方を避けねばならない。むろん、雨や曇の天候もまた同様。それはまさに、我輩の趣味性である。 いつもならば「夕焼けが旅情を醸し出して良いかも知れない」などと考えたりするが、我輩の趣味性で言えば、今回そのような写真など全く必要ない。 左は、去年出張先で撮影した京都駅構内の写真である。 初めて降りた駅でふと感じた寂しさ。それが、目の前に広がった夕景で増幅された。その心情を写真に収めようとして我輩はシャッターを切った。 <<画像ファイルあり>> この写真は、その時の我輩の視点であり、我輩の心を表現した「作品」である。この写真を見れば、一瞬であの時の気持ちが甦る。 よって、これは風景写真でありながら風景写真ではないとも言える。その場所が京都駅であろうがなかろうが、この場合どうでも良い。たまたま京都駅だったというだけの話。京都駅など、昼間に見れば何の変哲も無かろう。 しかし今回の撮影では対象物そのものが主体であるため、上のような写真は失敗写真以外の何ものでもない。夕陽のために正確な色が判らず、しかもキツイ逆光で情報量が限られてしまっている。 我輩が風景に求むる趣味性はあくまで「情報量」であり、そのための撮影作業は現像後に画面を隅から隅まで眺めることを実現させる手段に過ぎぬ。ましてや心情を込めるつもりなど微塵も無い。 そういうわけで、今回は全てのカットが事前に計画されていた。我輩は35mmカメラで過去数回に渡り「別府地獄巡り」で撮影してきたのだが、それらは今回の撮影のための下調べとなった(撮影時にはそういうつもりは無かったが)。 計画された頭の中の絵コンテに沿って、順に撮影して行く。撮影の区切り区切りで振り返り、「撮り残したカットは無かったろうか」と考える。ちょっとでも不安があれば、急いで戻り、撮影をした。 撮影には少なからず苦労があったが、それら詳細は以降の雑文で触れるつもりでいる。 ---------------------------------------------------- [361] 2002年07月08日(月) 「長期休暇撮影2(別府撮影日記)」 昔々、大分別府の熱泉噴出地帯は「地獄」と呼ばれ恐れられていた。至る所で噴気が昇りグツグツと湯が沸き立つその光景。それはまさに、地獄絵に見るような光景として感じられたろう。 現在はその名残りとして、温泉噴出口は「地獄」と呼ばれている。 地下熱水が触れる地層の種類により、赤や青などの様々な色を呈する地獄。地獄の見本市の名に相応しく、見る者を飽きさせない。 ●前準備 さて今回、長期休暇の撮影目標は、別府地獄巡りで知られる「龍巻地獄(間欠泉)」、「血の池地獄」、「白池地獄」、「金竜地獄」、「鬼山地獄」、「山地獄」、「海地獄」、「坊主地獄」の8ヵ所。となると、必要フィルム本数はどれくらいか。 120フィルムは、6x6サイズでは12枚撮りとなる。もし1カットにつき平均3枚の段階露出を行うとすれば、1本のフィルムでは4シーンしか撮影出来ない。仮に、地獄1つにフィルムを5本割り当てるとするなら、単純計算で40本必要か。手に入りにくいフィルムであるから、多めに60本用意した。それだけでもそこそこの重量になる。 さて、人の少ない平日に撮影を行う計画であるから、まずは日曜日である6月9日に新幹線で小倉へ向かうことにした。そしてそのついでに、新大阪駅で途中下車して1ヶ月後に撤去されるという大阪万博エキスポタワーを撮影しようと目論んだ。太陽の塔も撮るつもりである。'70年代フリークとしては、これは外せない。 今回の撮影では、移動時間を除いた3日間を撮影に割り当てている。 別府地獄巡り自体は1日あれば撮影可能であるが、天候に左右される撮影であるから、一応、予備日を2日間としている。もし順調に1日で撮り切れれば、あとの2日間は平尾台カルスト地形の撮影に使ってもいい。 ●移動日 出発予定の日曜日の朝、目覚まし時計の音で起きると、時間は午前7時だった。安心した。これならばエキスポタワーに寄る時間がある。安心したら、フッと意識が遠退いた。 次に目が覚めると、もはや午前9時半だった。焦った。まだ準備さえ完全ではないのだから、家を出るまでに1時間半は掛かろう。 この日はエキスポタワーを諦めた。帰りに途中下車するしか無い。 さて、撮影に必要な機材は以前秩父鉄道撮影した時とほぼ同じ。ただし、フィルムが手に入る場所が未確認な為、多めに60本持って行くことにした。以前のように弾切れになると、今度は本当に取り返しがつかぬ。 着替えやら何やら細かいものが多いため、それだけのフィルムを入れるとカバンがかなり膨らむ。そして重さもバカにならない。 他にも、車中で食すためのサンドイッチを作ったり、茶を用意したりと時間が掛かり、結局家を出たのは昼近く。 新幹線は東京駅から乗るため自由席でも必ず座れるので良いのだが、気が急いていたためか間違えて喫煙車両に乗ってしまい、かと言って今さら席を明け渡すことも出来ず、小倉までの6時間はグッタリとした状態だった。 ●撮影1日目 さて、次の日の撮影日は快晴。 「これは良い撮影になるな」と心躍る心境だった。 小倉駅から特急ソニックに乗ろうとしたが、毎度のことながら狙った列車には乗り遅れ、1時間遅れの出発となってしまった。 その1時間は小倉駅を撮影したり、ホームに停まっている列車を撮ったりして暇を潰した。余談だが、JR九州の車両は斬新なデザインのものが多いと感ずる。「特急ソニック」はもちろん、「コミュータートレイン(通勤型)」などもなかなかSF的で、特に「特急カモメ」は「銀河鉄道999」に登場する最新型ローカル列車のような雰囲気を感じた。 <<画像ファイルあり>> −コミュータートレイン− さて、別府駅に着くと早速バスに乗り、まずは1つ目の地獄「龍巻地獄(間欠泉)」へと向かった。 現地に着いた時、時間は既に午前11時を回っていた。小倉駅で1列車乗り遅れたことが悔やまれた。 昔、オフシーズンにここを訪れた時は、観光客は4〜5人しかいなかった。今回もそうだと思っていた。 ところが入ってみると意外にも50人はいる。そのほとんどは外国人である。 その時、我輩はやっと気付いた。サッカーのワールドカップが隣の大分市で開催中なのだ。メキシコやイタリアのサポーター達が試合の無い日に隣の別府まで遊びに来るらしい。これは計算外・・・。 龍巻地獄は間欠泉であるから、タイミングが全て。30分くらい待って熱泉が吹き出し始めるが、それは数分で収まってしまう。 案の定、吹き出しが始まると多くのギャラリーが人垣となって吹き出し口周辺を固めた。我輩はヤキモキしていたが、それもしばらくの辛抱。恐らく噴出を2分も見ていれば飽きてくるはず。いつもならば、その後はギャラリーがベンチのほうに下がってくれる。その後の1〜2分が勝負となる。ただし、外国人の行動は読めないので、今回はどうなるかと少し心配であった。 とりあえず待ち時間にデジタルカメラ「CAMEDIA C-700 Ultra Zoom」を使って測光。ビューファインダー形式の液晶モニタは強い外光に惑わされないのが良い。設定値は迷い無く決まった。 さて、肝心の撮影については特に問題も無く完了。噴出が収まれば長くとどまる理由も無い。 次はその隣にある「血の池地獄」。 ここは、水底に積もる酸化鉄の泥によって赤みが現れている。前回訪れた時よりも一層赤みが増していたのは好都合であった。 しかし、ここでも20人くらいの外国人サポーターがおり、派手なお揃いのシャツと帽子で記念撮影をしていた。なぜか、シャッターを切るときに「ガンバレ、ニッポン!!」と叫んでいた。 10分くらい待機していると外国人たちは引き上げて行ったため、我輩は撮影を始めることが出来た。 次は「白池地獄」であるが、現在地点の龍巻地獄や血の池地獄は他の地獄とは離れており、そこに行くためにバスに乗って移動した。 白池地獄では、文字通り白い地獄で、デジタルカメラでの撮影画像を見ると色乗りが悪そうだった。・・・と思っていると、雲も出てきてコントラストも低下して画面のメリハリも無くなった。 ここはあまり派手でもなく、通路も狭いためか、入った人も長く居ない様子。ここでは外国人サポーターは全く見なかった。 次に、向かいの「金竜地獄」へ行く。 ここには12体の守護神が祀られており、地獄に神という妙な取り合わせとなっている。 ここでは、我輩の守護神である不動明王像を正面から撮影した。この像はここへ来ると必ず撮影している。 近くには龍の像が立ち上がり、口から白い蒸気が噴き出てていた。心なしか気温も下がってきたようで、どうも蒸気の量が多い。写真を撮ろうとしても画面内が真っ白に見えることがあり、ヘタをするとフィルター面が蒸気にまといつかれ結露する。風向きが変わるまで暫く待つことが多くなった。 その次は「鬼山地獄」。 ここでは温泉の湯を用いてワニが飼育されており、冬でもワニが快適に過ごしている。我輩の注目するのは、その中に1尾、古代ワニである「ガビアル」がいることだった。ガビアルは、口先が他の種類のワニよりも細長くなっており、一目でそれと判る。だが、危険動物であるから柵が厳重で、撮影アングルは上から撮るだけの単調なものにならざるを得なかった。 デジタルカメラでその画像をチェックしていると、ワニ水槽の水面に上空の雲が映っているのに気付いた。妙に雲が多いな。 次は「かまど地獄」。外観の撮影をしていると、ポツリポツリと雨が降ってきた。急いで外観の撮影を済ませ、かまど地獄の建物の中に入った。 雨は最初、小雨程度であり、暫く待っていればやむのではないかと期待した。しかし、期待に反して空が暗くなり、雨の降り方が安定してきた。 仕方無く雨も構わずに撮影をしたが、デジタルカメラの映像を見るとあまりパッとしないので気持ちが沈む。しかしそうは言っても、このまま梅雨入りし予備日も含め雨天となることもあり得る。そのような最悪の事態を予想し、とりあえずこの天候の下でも撮影は続行する事にした。 次の「山地獄」では、広い駐車場からまず外観を撮影。しかしカメラが雨滴で濡れるので、撮影するごとにタオルで拭く。Newマミヤ6は水には弱そうに見えるので少し不安になる。 雨は時間とともに本降りとなり、山地獄の売店でビニール傘を買った。 山地獄では、岩肌からは蒸気が噴き出している。だが、雨で気温が低下したためか、辺り一面真っ白になるくらいの蒸気が立ちこめ、写真を撮る対象が見通せない。しばらく待っていると、風向きによっては蒸気が晴れることがある。そういう瞬間を狙ってシャッターを切るのだが、段階露出の3枚撮るのは難しい。1枚撮っては数分待ち、また1枚撮っては数分待つ、ということを繰り返す。根気との勝負。 ふと気付くと、後ろに回したカメラバックが雨に打たれていた。傘が小さいから、カメラのほうをかばうとバッグが濡れてしまうのは仕方無い。さすがにバッグの中身までは浸水すると一大事だが。 山地獄を抜けると、今度は「海地獄」の入口が雨に霞んで見えた。入口前の広い駐車場には水流が現れていた。もはや、にわか雨や夕立ちというレベルではない。 露出計代わりのデジタルカメラの映像を見ても、映像のコントラストが低くなっているのが判り、自分自身のテンションも下がっているのを感じた。 「こりゃあ、シャッターのムダ切りかも知れん・・・。」それでも我輩は海地獄の入口を抜け、写真を撮った。今日よりも明日、明日よりも明後日のほうが雨が激しいかも知れない。もしそうだとしたら、今日のうちに撮影せねば後悔を残す。我輩を支えるのは、ただその想いだけであった。 しかしその想いも、海地獄の水面を見て潰(つい)えた。最も海地獄らしいコバルトブルーの色が伝わってこない。硫酸鉄に由来する鮮やかなブルーの水面が、モヤの中でかろうじて見えるのみ。 「もはや、これまで・・・。」 無念であるがカメラをしまい込み、力無く帰り支度を始めた。 実家に帰り、天気予報を見ると、台風が沖縄に近付いている影響で雨が続くという。ただし、2日後はなぜか快晴の予報。何かの間違いではないかと思うものの、それに望みを賭けてその日まで待つことにした。 ●撮影2日目 2日後、予報通り晴れた。多少、青空にうっすらと雲が被っているような気がする。まあ、陽が高くなって気温が上がればそれも消えよう。 今度は前回よりも早く家を出た。 さて、雨が降り出したのは「かまど地獄」からだった。今回はそこからやり直すことにした。順調に「山地獄」、「海地獄」と進んで行く。このペースでは午前中に撮影が終わるかも知れない。 ところが、海地獄のコバルトブルーを撮ろうとした時、どうも様子がおかしいことに気付いた。 そこには外国人が20人ほどいて何やら業務用ビデオカメラを回している。カメラの数も1台だけでなく4〜5台もあろうか。何だ、コイツらは? 我輩はとりあえず、コバルトブルーの水面を撮影しようと手すりに寄りかかってカメラを構えた。すると、1人の外国人が我輩のほうにやって来て「スミマセン」と言うではないか。彼はビデオカメラを指さし、そして我輩に手を合わせている。直訳すると、「我々ハ取材ヲシテイルノダガ、アナタガ邪魔ニナッテイル。スマナイガ退イテモラエナイカ?」という感じか。 仕方無いので下がった。 暫く待っていると、探検隊の格好をした変なヤツが現れ、ビデオカメラの前に立った。ナイロン的光沢の金髪に、バスケットボールが入っているかのように巨大で真ん丸い胸。これは女装なのか?しかし本物の女性だとしても、どう見ても真面目な格好では無い。 <<画像ファイルあり>> 途中、打ち合わせか何かだろうか、スタッフらしき1人が「ナオミ!ナオーミ!」と誰かを呼んでいる。すると、日本人の小柄な女性が走り寄り、通訳を始めた。ナオミの話によると、どうやらその金髪野郎はメキシコで有名なコメディアンらしい。ワールドカップの取材の一環として、別府の地獄巡りの紹介をしているそうだ。 まあ、取材とは言ってもこちらも金を払って海地獄を観覧している。あちらが邪魔だと主張するならば、こちらも邪魔だと主張したい。 しかし我輩は、おとなしくベンチに座って待つことにした。持ってきた弁当など食べながら見ていたが、テレビクルーというのはどの国でも自分勝手だな。他の観覧者たちの流れを遮って取材を続けている。しかも金髪野郎のカットがなかなか納得行かないらしく、30回以上も撮り直しをしているのが正直ムカついた。コイツらを写真に入れるのは死んでも避けたい(デジタルカメラのほうには収めたが)。 待っている時間を他の地獄で撮影したかったのだが、せっかく海地獄の入場料を払っているのがムダになる。 2時間半後、やっと撮影クルーの撤収が始まった。近くに設置してあったパラボラアンテナも解体されて撮影機材とともに運ばれて行った。 「やれやれ、やっと撮影が出来る。」 我輩はデジタルカメラで露出を測り、入射光式露出計で最終確認をした。そして、お待ちかねのNewマミヤ6を構えてピント調整をしている時、ビデオカメラを担いだ野郎がフレーム内に入ってきた。そいつは、あろうことか我輩がカメラを構えている真ん前で我輩と同じアングルでビデオ撮影を始めた。まるで、「おっと、撮り忘れたカットがあった」とでも言うかのように。 人が撮影している前で割り込んで撮影を始めるというのは、悪行以外の何ものでも無い。思わずソイツのケツを蹴り飛ばしそうになったが、国際問題に発展すると面倒なので、上げた片足を静かに下ろした。 <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> (1)この構図で撮ろうと考えていたら・・・ (2)このバカタレが割り込んできやがった。 そもそもテレビ撮影クルーというのは、どうも「自分の仕事が全てに優先する」と勘違いしているようだ。昔(独身時代)、池袋や渋谷で遭遇した撮影クルーでも、その図々しさは度を超していた。いきなりカメラを向け、くだらないクイズを出してくる。我輩は女性と歩いているところをテレビ放送されたくなかったので、「何を勝手に撮影するか」と言うと「バラエティ番組の撮影です」と今更ながらに言う。そういうことは撮る前に言え。「名刺を渡せ」と言っても「持っていない」と逃げる。おまえら、我輩がノリを合わせて応対するとでも思ったか?カメラを向けられれば愛想笑いの1つでもすると思ったか? 結局その場面は、放送しないという口約束させるだけで終わった。 ・・・閑話休題。 結局、この海地獄だけで3時間近くの時間を浪費した。 急いで撮影を済ませ、次の目的地を目指す。 最後は、泥を噴き出す「坊主地獄」。 暑い日差しの中、坂道を上って行く。先ほどの待ち時間が精神的に影響を与え、何でもない坂道が非常に重い。まさか、次の坊主地獄でもテレビ撮影クルーが待ち伏せして我輩に嫌がらせをしようと企んでいるのでは・・・? しかし、それは杞憂だった。我輩の他に観光客は2〜3人しかおらず、少し待っているだけで視界から人がいなくなる。この調子では、15分もあれば撮影が終わろう。あとはバスで駅まで戻り、いつでも撮ることの出来る「別府タワー」でも撮影するか。 そんな時、カメラバックの底を探る手に触れるフィルムの少なさに気付いた。最初、10本入りのカートンが他にあると思っていたのだが、よくよく探してみると、本当にフィルムがあと数本しか無いではないか。そこでハッと気付いた。 「しまった、雨天での撮影分が今日の撮影分とダブってたのを忘れていた。」 ムダだと思いながらも雨天で撮影した分、フィルムを余分に消費していたのである。 「ウーム、別府タワーの撮影はいつでも良いのだから、大阪の撮影のために今回は止めておくか。しかし、今止めたところでフィルム1〜2本節約するくらいにしかならぬ・・・。」 暫く悩んだ末、別府タワーの撮影は予定通り行い、足りないフィルムについては小倉で調達することにした。さすがに、北九州の中心都市小倉ならばフィルム入手は問題無かろう。 別府タワー撮影後、我輩は別府から特急ソニックに乗り、小倉に向かった。 席は空いており、2人掛けシートに一人座り、車窓から見える青い空を眺めながら「今頃、会社の同僚は仕事をしているかなあ」などとボンヤリ考えたりした。 それにしても、小さなハプニングが続いたことにより、事前の覚悟を上回る疲労があった。 別府での撮影が終わったということで、多少、気も抜けていた。 次の日は万博記念公園での撮影が待っている。こんな気持ちで、果たして途中下車して撮影することが出来るだろうか・・・。 <<画像ファイルあり>> この写真を撮るだけで3時間も掛かったわけだ ---------------------------------------------------- [362] 2002年07月20日(土) 「長期休暇撮影3(万博公園撮影日記)」 2日間に渡る別府での撮影を終え、疲れた気持ちで小倉駅に帰った。 (我輩注:小倉には母親が一人暮らしをしており、生まれ育った実家とはまた別の場所にある) だが、このまままっすぐ帰るわけには行かぬ。次の日の万博記念公園での撮影に備え、フィルムを調達せねばならない。 そこで、帰り道に一番近い小倉駅前の「カメラのドイ」に寄った。昔、よくここで35mmリバーサルフィルムの調達をしたものだ。 だがその場所には、DPE専門と化した小さな店舗があるだけだった。フィルムがあるかどうかなど訊ねるまでもないほどの店舗であった。 一瞬、脱力したが、気を取り直して心当たりの店を2〜3当たってみた。しかし、なぜかどこもDPE店状態。完全に手詰まりとなった。 「どうすりゃいいんだ?小倉市民は35mmネガしか使わんのか?信じられん・・・。」 このような状況に陥るとは夢にも思っていなかったので、次の手がすぐに思い浮かばない。どちらの方向に歩けば良いかも考えつかず、街角で立ち止まり、しばらく考えていた。 小倉は北九州市の中心都市であるから、どこかにブローニーフィルムはあるかも知れない。案外、駅前繁華街とは離れた場所に大きなカメラ店があるという可能性も否定出来ぬが、たまに帰省するだけの者にそのような店など知ろうはずも無い。 ともかく、次の日は朝早く出発する予定であるから、今手に入らなければ小倉でのフィルム調達は不可能。小倉でフィルムが手に入らないとなれば、大阪で調達せねばなるまい。だが、我輩は大阪の地理には疎く、いたずらに時間を浪費すれば撮影時間が無くなる。どこに行けば手に入るのかということを事前に知っておかねばならぬ。 そこで、ふと、インターネットを使って情報を得ることを思い付いた。 家に戻り、早速インターネット上の掲示板で情報を募った。その結果、大阪梅田にヨドバシカメラがあることが判明。大阪の地理を知る者ならば訊くまでもない情報であろうが、大阪が白地図状態の我輩には実に有り難い情報であった。 そこで今回、万博記念公園に行く途中でヨドバシカメラ梅田店に寄り、フィルム調達して撮影することにした。航空機に例えるならば、さしずめ「空中給油」といったところか。給油地点を探し、上手く給油出来れば良いが。 しかしその心配は不要だった。梅田のヨドバシカメラは巨大で、馴染みの上野店など比べものにならぬほどであった。見失いようが無い。この巨大さでブローニーフィルムが無ければ詐欺であろう。 実際に入ってみると、店舗は広く品揃えもかなり豊富だった。カタログでしか見られないスタジオ用ストロボなども現物がいくつか展示してあり、しばらく店内を探検してみたかったが、撮影時間が無くなるのでそうもしていられない。 フィルムコーナーでブローニーフィルムを見付け、早速購入した。10本入りカートン1本だが、写すものも限定されるので10本(段階露出3枚で40カット分)もあれば十分と思う。 千里中央駅まで行きモノレールに乗り換え、万博記念公園駅に向かう。モノレールは見晴らしが良いので、遠くから太陽の塔が見えてきて気分が高まるのを感ずる。 駅に着き改札を抜けると、あのエキスポタワーが目の前に立っていた。感動した。 タワーそのものに感動したのではない。1970年大阪万博の時代を、今そこに見たという現実感。それが衝撃的だった。 70年代フリークの我輩としては、間もなく解体されることになるエキスポタワーをその目で見たという幸運を喜ばねばなるまい。この万博の遺物は、あと数ヶ月で消えることになる。 エキスポタワーはタワーであるから当然ながら縦に長い。従って、近付けば近付くほど、遠近感のために上がすぼまって写る。それを防ぐために距離をおいて撮影しようとしたが、どうも空気が汚れているらしく眺めがクリアではない。露出を確認するために撮影するデジタルカメラの映像を見ても、全体的に画像のメリハリが無い。 多少悔いの残る撮影であったが、しかし次は無い。 泣いても笑っても、これがエキスポタワーを撮る最後のチャンスであった。そのチャンスを通過した後、我輩に為すべき事はもはや何も無い。 <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [363] 2002年07月21日(日) 「自分だけの視点を突き詰めろ」 子供の頃の夏休み、我輩は母親と旅行に行った。 旅行は無事に終わるかに見えたが、帰りの電車でリュックサックを網棚に忘れてしまった。 リュックサックはその後我輩の元に戻ったのだが、中に入れておいた飴が少し溶けていた。我輩はその溶けた飴を舐めながら、忘れ物をした恐怖感を、飴の味と共にジックリと味わった・・・。 「雑文040(見慣れた新しい風景)」や「雑文081(写真の情報量)」と関連する話だが、視点が変わると風景が変わることを先日実感した。 我輩は、電車に乗っても網棚に荷物を置かない。それは、先に述べた過去の体験に因(よ)る。我輩にとって、手荷物を一瞬でも目の届く範囲から離すという行為は理解出来ぬことである。 ところが先日、電車に乗り合わせた一人の男が、自分の鞄を網棚に乗せた。網棚には他の乗客の荷物があり、鞄が少し重なった。我輩は仕事帰りの疲れた目でボンヤリとその様子を見ていた。 そこでふと気が付き、網棚を左右に見渡した。 「おわー、こりゃあ壮観だ。」 各自大事なはずの荷物が1枚の網棚にズラリと並べられている。今まで気にもしなかった網棚にこれほど荷物が置かれていようとは。 これまで何度も電車を利用していながら気が付かなかった。もちろん目には入っていたはずだが、意識に上らない光景だった。 目には映っても心に映らぬもの、それは、日常風景の中にたくさんある。当たり前過ぎるからこそ、心には映りにくい。 自分にとっての小さな発見や感動を、「写真」という視点で切り抜く。それが他人に理解出来なくとも気にする必要は無い。そのような写真は、ピカソの絵画のように、心の投影である。つまらない写真だと言われてもビクともするな。「そのつまらなさが自分である」と言えるくらいであれば本物。 写真の視点とは、自分自身を投影したものに他ならない。それこそが、芸術の出発点であり、趣味としての写真を面白くする。 人に見せることを意識し過ぎて写真の表面上の美しさや形に囚われるならば、いつか、写真を撮る目的そのものを失うことになろう。自分の撮りたいものを撮りたいふうに撮るのは、アマチュア写真家に許された最大の特権である。 自分の視点に素直になり、臆することなく自分だけの視点を突き詰めろ。 ※ 中には、奇をてらうだけの写真で「自己を表現した」などとほざく輩もいるが、本当に自己を表現するためには、一見何の変哲もない物事に自分の視点を込めねばならぬ。奇をてらうだけならば、却ってその濃い味付けの中に自分の味付けが埋もれてしまう。ロモグラフィーが良い例。視点を突き詰めるためにやむを得ず既存の表現からハミ出すならば、その時初めて、奇をてらうということに必然性が出るのだ。 ---------------------------------------------------- [364] 2002年08月04日(日) 「想像は現実を通り越す(1)」 7月25日19:00、銀座スカラ座にて映画「スターウォーズ・エピソード2」を観た。 指定席(J列=前方より10列目)であったが席はガラ空き状態。まあ、時間的にこんなものかなと思いながらゆったりとした席で鑑賞した。 8月2日19:00、再び銀座スカラ座にて映画「スターウォーズ・エピソード2」を観た。 今度は自由席を選んだ。その日も席はガラ空き。今回はもっと前のほう(C列=3列目)に座り、見上げるようにして鑑賞した。 前回は字幕を見ながらの鑑賞であったが、今回は二度目であるから字幕は見ずに済む。映像と音に集中出来、包み込まれるような大画面にてスターウォーズの世界に入り込んだ。 その映像はまさに圧巻。人物以外はほぼ全て三次元コンピュータグラフィックス(3D-CG)だと言っても過言では無かろう。人間の想像力をそのまま映像化出来るのであるから、我々観客は、監督ジョージ・ルーカスの頭の中を覗いていると言っても良いかも知れない。 ほんの一昔前の特撮(SFX)映画では、ミニチュア模型を使った撮影が主流であった。固定された宇宙船のミニチュア模型に「モーション・コントロール・カメラ」と呼ばれる特撮用カメラが近付いたり遠離ったりして宇宙船の動きを表現した。当然ながら、カメラの大きさが邪魔をするため、例えば「ノーカットで宇宙船内部に入って行く」という映像は撮れない。それを補うために別の技術を用いて画像を合成することになり、目的の映像を作るまでに気の遠くなる手間と費用が掛かっていた。 だが、3D-CGならばどんな角度から見た映像でも表現出来る。従来では撮影不可能であったために妥協せざるを得なかった絵作りも、今では人間が想像し得る映像は全て表現可能となった。 もはや映画に3D-CGは欠かせぬものであり、その表現力が更に人間の想像力を煽り、それがまた映画として表現される・・・。 映画の上映が終わった後、我輩はスカラ座を出て夜空の下で深呼吸をした。映像の凄さに、息をするのを忘れていたような気分だった。しかしそれと同時に、目の前に広がる現実世界に戸惑った。映画の中とはまるで違う銀座の風景、何でもないものであるはずが、なぜかリアル感に満ちていた。 子供の頃、宇宙の図鑑を眺めていた時に、太陽系のイメージ図が目に入った。中心の太陽、そして水星、金星、地球、火星・・・と続く惑星。それぞれの星が触れ合うくらいに接近して描かれていた。その構図はダイナミックであり、子供ながらに宇宙への興味を膨らませたものだった。 しかし今考えると、そのイメージ図にはリアル感など微塵も無い。あり得ぬ遠近感が本物らしさを奪っているのである。 また、恐竜図鑑を眺めていると、そこには多くの恐竜が想像図で描かれていた。画全体にひしめく恐竜たちの姿。今考えると、恐竜のような大型生物が、これほどに密度高く生活しているというのは不自然に思う。いくら恐竜が当時の地球を支配していたにせよ、あまりに模式図に近い描き方だった。 これらはもちろん、リアルさの追求よりも、限られた紙面で直感的に分かりやすく表現するための教育的構図ではある。 ただここで言えるのは、「目を引く映像がリアルであるというわけではない」ということだ。 特撮映画の場合、限られた上映時間と限られた画面サイズ(最近は限界まで横に広げられたが)の中で、如何に観客の度肝を抜くかということで競争となっている。 今回のスターウォーズも、明らかに前作を意識し、それを上回る映像を創り出そうとしているように思える。その結果、画像に盛り込む情報量が非常に多くなり、映像的リアル感を失うこととなった。 具体的に言えば、不自然に濃い色と、画面に詰め込み過ぎた多くの3D-CG。しかも、それぞれのCGのエッジが立っていて画面に溶け込んでいない。 派手な動きや極端な遠近感は観る者を圧倒するが、それはあたかもビックリ箱を見続けているようなものである。飽きられれば更にそれを上回るビックリ箱を作るしか無い。 想像力は現実を越えた映像を創り出すことが出来る。しかし、現実はあくまでそれ以上でも無くそれ以下でも無い。現実を通り越したものは、もはやその時点で現実感を失う。 スゴイ作品を作ろうとする競争が、なぜか現実を遙かに越えてしまうという皮肉。 ルーカスもそのことを気にしているらしく、今回の映画の戦闘シーンでは、手ブレ効果を盛り込んだり、報道的なズーミング(滑らかなズーミングではなく急激で場当たり的ズーミング)を意図的に取り入れたりして、何とか臨場感を取り入れようとしている様子。普通なら忌み嫌われる手ブレや報道的ズーミングが、わざわざリアル感を追求する手法として取り入れらるのだから驚く。 映画「プライベート・ライアン」の場合、手ブレ効果が報道映像的な緊張感として効果的に表現されていたが、今回のスターウォーズについては、それらの技法が付け焼き刃的な使用にとどまっており効果があまり感じられない。 まあ、想像力が大きいことは悪いことではなかろうが、それをそのまま映像化するから味付けが濃くなり味覚が狂う。そしてその味に慣れてしまうと、更に強い味を求めなければならなくなるだろう。 そうやっているうち、いつの間にか現実世界の味付けを忘れ、頭の中でしか存在し得ないような不思議な映像が溢れるようになる。 ・・・以上が、我輩の「スターウォーズ・エピソード2」に対する映像的感想である。 次回は、この話を前振りとして想像と現実について考えたいと思う。 ■余談■ 世に存在するスターウォーズ・ファンというのは、「映像的リアル感」に入れ込んでいるわけではなく、登場人物や時代背景の「ストーリー的リアル感」に惹かれるのである。スターウォーズシリーズでは、映画にはほとんど現れないところまで細かく設定されており、映画の奥に広がる広大な「スターウォーズ・ワールド」を感じるのだ。 例えば、異星人の話す言語には規則性が感じられたり、登場するロボットや航空機には現代の工業製品のようにそれぞれの用途に応じた派生型があったりする。銀河共和国には地球のような政治風景が見られ、複雑な社会構造を感じることが出来る。そういった仮想世界全体を細かく設定し構築することにより、初めて矛盾の無いストーリーが完成するのである。 スターウォーズ・ファンにとって、映画は単なるプロモーションビデオに過ぎない。表面的な映像が全てだとは思わず、映画を「スターウォーズ・ワールド」の入口としているだけだ。その入口が多ければ多いほど、その世界が身近になる。 今回の作品では、主人公のアナキン・スカイウォーカーが暗黒面に堕ちるきっかけとなる感情のゆらぎ(愛する者を救えなかった悔しさ、悲しさ、怒り、JEDIの教えと自分の心との葛藤)を描いている。それがジョン・ウィリアムズの壮大な音楽に同調して感動を呼ぶ。 そういうわけで、スターウォーズ・ファンの我輩としては、映像に現実感無くともそれはそれで満足である。むしろ、伝説(サーガ)としての位置付けでは、かえって絵画的描写が効果的なのかも知れぬ。 ---------------------------------------------------- [365] 2002年08月12日(月) 「想像は現実を通り越す(2)」 先日、九州の実家に帰った時、古い写真を久しぶりに見た。その中から、高校時代に想いをよせていた女生徒の写真が出てきた。卒業前に撮らせてもらった数枚の写真。非常に懐かしく思うと同時に、まるで昨日のように感じた。これも写真のインデックス効果によるものか。 今まで我輩の記憶の中にあった彼女の姿は、今回その写真を見ることによって大幅に修正された。それまでは、永い間写真を見なかったことにより、記憶の中にある彼女の姿は無意識のうちに美化され現実感を無くしていたのである。 今となってはさすがに恋愛感情こそ残ってはいないが、その写真を見ることにより、「美化された想い出」が「リアルな想い出」へと修正され、あたかも当時感じた心臓の鼓動が今に伝わってくるようだった・・・。 さて、前回の雑文では映画「スターウォーズ・エピソード2」の映像について触れた。 想像力によって創造された映像の味付けの濃さは、現実を遙かに通り越す。画面に目一杯詰め込まれた多くの描写、緻密過ぎて背景から浮いてしまった三次元コンピュータ・グラフィックス(3D-CG)。 そして、決定的に現実感を通り越しているのは、全体的にギラギラした色調だった。 まるで、フジのリバーサルフィルム「ベルビア」で撮影したかのように派手な色の画像は、廃墟ですら極彩色(ごくさいしき)に染まって見える。確かにキレイには見えるが、現実感などとは程遠い。唯一、「伝説」という名のもとに正当化されるのみ。 実を言うと、ベルビアは10年以上前に一度、試しに使ったきり。あの時は、あまりに派手な色調に「こんなもの使えん」と放り投げた。ベルビアとの付き合いは、それ以降無し。 しかしながら、ベルビア自体は現在でも発売中である。いやそれどころか、巷ではかなりの人気らしい。また印刷原稿としても、その派手な色が買われて多く使われていると聞く。現実感よりもイメージを重視するのならば、派手なほうが良いというわけか。あの派手さがどこまで印刷で再現出来るか疑問だが、クライアントの受けが良いというのは事実であろう。 イメージと言えば、ネガカラーフィルムもまたイメージに左右されると言える。プリント時の補正によって如何様(いかよう)にでも色が変わるのである。 言うまでもないことだが、ネガカラーは「元の色が分からない」という最大の欠点がある。現像済みのネガフィルムを光にかざして見ても、色が反転して奇妙な色に見える。そうでなくともフィルムベースはオレンジ色であるため、そこに記録されている色など肉眼で直接読み取ることはもはや不可能。 もちろん、撮影者は被写体の色を知っているはずであるが、それは記憶に頼っているわけで(記憶色)、我輩の高校時代の時のように無意識のうちに美化されているとするならば、いつの間にか現実離れした写真ばかりが周りに集まることになろう。 「最近、キレイな写真が撮れなくなった」などと思い始めたら要注意か。現実そのままの写りに満足出来ぬ身体となり、どんどん派手な色にシフトしているかも知れない。濃い味に慣れてしまえば、今までのものが薄味に感ずるのは当然。 最近では、写真をパソコンに取り込むことは普通に行われるようになった。以前にも書いたが、ネガフィルムをスキャナで取り込むと、元の色が判らず色調整に苦労する。どうしても記憶色に引きずられ、後日改めて見ると微妙に不自然に思うことがある。ベルビアほどでは無いが、意識していないと派手な色へと傾いて困る。 そうなると、素直な色が出ているのにも関わらず、「もっと鮮やかな色だったような気がする。いや、絶対にそうだった。」と、勘違いと思い込みを交互に繰り返し、徐々に記憶色も極彩色の写真ばかりに囲まれることになる。 世の中の風景に現る色は、気象条件や時間帯などにより千変万化する。微妙な色に心打たれシャッターを切るとしても、それが見たとおりにプリント上で再現されないとするなら・・・? 記憶色という名の思い込みによって色が補正されてしまい、ただ単に「鮮やかな写真」で終わる。撮影時に感じた小さな感動を忘れ、見た目の派手さにこだわるならば、第三者にはもちろん自分自身にさえ撮影時の感動が伝わることはない。 何が自分にシャッターを押させたのか。その「場」に触れた撮影時こそ、撮影の動機があるはず。アートとして思い切った色調整を行うならともかく、撮影後写真に化粧を施すことに、一体何の意味が有る? スターウォーズのように伝説的物語が背景にあるならば、極彩色もそれなりに似合うかも知れぬ。 だが少なくとも我輩は、撮影の場に立ち会った臨場感をリアルに写真化したく思う。そのため用途がプリントであろうとも、原版はあくまで使い慣れた種類のリバーサルフィルムを用い、原版を片手にイメージの暴走を抑えながらパソコン上で調整する。 深い青空、紅い夕焼け、萌える緑・・・、イメージに引きずられやすい写真は、意外に多い。 もちろん、リバーサルフィルムならば正確な色を保証するというわけではない。銘柄や種類、乳剤番号、鑑賞時の光源など、色を左右する要因はいくつもある。 それでも、ベルビアのような極端な発色のリバーサルフィルムでさえなければ、イメージの暴走を食い止める力は十分ある。少なくとも、「ここにあるポジが原版であり色見本だ」と決めてしまえば、余計な迷いなど無い。 ・・・高校時代に想いをよせていた女生徒の写真。記憶の中では、特別に美しく華麗であった。 しかし実際の写真を見ると、ただ小綺麗な女生徒でしか無かった。彼女の魅力はもっと内側に秘めた艶(つや)と知性にあったのだ。それは、実際に彼女を目の前にして初めて感じ取れるもの。美化された記憶の映像には、そのことを想い出させる現実感は全く無い。 シャッターを切ったあの時、高校時代の我輩の切ない気持ちは、写真として彼女の姿に封じ込まれた。美化されない現実感こそが、あの時の気持ちを呼び戻す唯一の鍵だった・・・。 ---------------------------------------------------- [366] 2002年08月14日(水) 「当たり前の幸せ」 我輩がパソコンで写真を取り扱うようになったのは、Windows3.1を導入した頃だった。 当時、パソコンと言えば「NEC PC98シリーズ」が主流で、我輩も98(キュッパチ)を使用していたのだが、ハードディスクやウィンドウズアクセラレータ(ビデオボード)を搭載していないMS-DOSタイプであったため、拡張して何とかWindowsが使えるようにした。 スキャナだけならばMS-DOSにて使用可能ではあるが、MS-DOSでは16色以下の色しか表現出来ない。写真画像を取り扱うならば、Windowsの導入は不可欠だった。 (参考:雑文233) 当時、まだカラースキャナが高価で、エプソンの最も安いフラットベッドスキャナでも6万円くらいした。解像度も300dpiと低いものだったが、サービスサイズのプリント写真を取り込むにはそれで充分だった。 そのうち、ポジフィルムを取り込みたくなり、別売りオプションの透過原稿ユニットを買い足した。 だがやはり読み取り解像度が低いため、35mmフィルムは使いものにならず、ブローニーフィルムがかろうじて取り込めた程度だった。 そんな時、写真をデジタル化するサービス「Kodak Photo-CD」を利用してみた。35mm判ポジ数枚をCDに書き込んでもらったのだが、その仕上がりには感動を覚えた。今までのスキャナ画像とは一線を画すクオリティにデジタル写真の可能性を感じ、我輩の向上心に火を付けた。 ただし、Photo-CDの最高画質16BASEではパソコンのメモリが足りず、表示すら不可能であった。まだ高価だったメモリをボーナス払いで増強したのはこの頃だった。SIMM-32MBを15万円にて購入したのは我輩の執念である。 しかし、Photo-CDは納期が1週間かかるうえ、それなりの費用が発生する。単価が安くとも、まとまった数ともなれば負担を感ずる。何とか自分で写真を取り込みたいのだが、フラットベットスキャナではもはやクオリティ的に満足出来ぬ。 そこで、フィルムスキャナを導入することにした。これで大量に写真を取り込めば、そのうちPhoto-CDでの単価を下回り、元を取ることが出来よう。 最初のうちは昔撮った写真を取り込んでいたのだが、ネガフィルムではなかなか調整が難しく、思ったような色にはならなかった。 この問題は何台もフィルムスキャナを購入するうちに解決されたのだが、この苦労がネガを使うことを完全に止めるきっかけとなった。 (参考:雑文252) ところで、一般的なフィルムスキャナでは35mmフィルムしか取り込むことが出来ない。そのことについては仕方無いことだと理解していた。しかし、無意識に35mmカメラを選択することが多くなったのは、「ブローニーフィルムはスキャン出来ない」という潜在意識が大きく影響していたように思う。 ネガフィルムを止めた時のような明確な意志が働いたわけではなく、次第に疎遠になっていったという感じだった。 しかしながら、ブローニーサイズの写真というのは圧倒的に情報量が多い。このフォーマットを利用出来ないというのは何とも残念な話。 本来、クオリティを優先する場面では中判カメラを使うところであるが、その場合、デジタル画像を断念せねばならない。従って多くの場面では、デジタル化の可能な35mmフィルムを選択せざるを得ない。つまり、妥協を強いられるのである。 最初のうちはその妥協も受け入れていた。そして、このままのスタイルが続くように思われた。ところが、秩父線各駅写真や別府地獄巡りの写真などの撮影では、記録として残すことを最優先に考えた結果、情報量の多い中判カメラを使うことにした。デジタル化による二次使用を考慮せず、映像の保存という第一目的を考えたのだ。 ブローニーフィルムに記録された写真には、隅から隅まで眺める楽しみがある。眺めるたびに新しい発見がある。スライドプロジェクターで投影したダイナミックな描写は、35mmでは味わえぬ感動がある。その気にさえなれば、全体像を見ながら同時に木々の葉の数まで数えられる。パソコンのディスプレイには出来ぬ芸当である。 恐らく、一枚の写真を眺める時間は、フィルムサイズが大きいほど長くなろう。鑑賞時間の長さは愉しみの時間の長さでもある。ディスプレイに表示された写真を次から次へと慌ただしく見るのとは次元が違う。 今回、結果的に200本近くのブローニーフィルムを消費するに至った。実際に採用するカットはその1/4程度であるが、それでも、鑑賞するネタに困らないほどの大量の写真に、心が躍る気分である。 そうは言っても、やはりデジタル化が可能であればそれに越したことは無い。デジタルデータがあれば、そこからプリント写真が起こせる。 トランスパレンシー(透過原稿)な写真を鑑賞するには、ある程度の準備が必要で若干の手間がかかる。また、それが原版であるが故、取り扱いにも細心の注意が必要となる。そこで、気軽に閲覧する用途としてのプリント写真もあればと思い始めたのである。 最近はインターネット経由でも写真焼付けを受け付けているので手軽だ。 そんな時、ヤフーのオークションで格安のブローニー対応フィルムスキャナを見付けた。ポラロイド製「Polascan45」というもので、シートフィルムの4x5サイズまで読み取れる。 それまではニコン製のブローニー対応フィルムスキャナがいくつか出品されていたのは知っていたが、性能的なバラツキがあるとのインターネット情報が気になり腰が引けていた。 今回、そのポラロイド製「Polascan45」を18万にて落札、例によって臨時収入にて購入したのである。高いと言えば高いが、定価80万円以上のものであるからと自分を納得させた。 念願であった、ブローニーフィルムのデジタル化。 35mmフィルムに縛られる必要が無くなったことは、やはり歓迎すべきことと言える。撮影内容に応じて35mmフィルムとブローニーフィルムを使い分けるのは当たり前のこと。その「当たり前」が可能になったのだ。 中古のスキャナということで、内部がホコリまみれで画像も白内障のような滲みがあったが、ミラーなどの光学系を掃除することにより、本来の性能に近付けることが出来た。まだ画質に100パーセント満足というわけではないが、ブローニーフィルムを心おきなく使えるというのは幸せなことだと改めて思う。 当たり前の幸せが、今やっと実現した。 ---------------------------------------------------- [367] 2002年08月17日(土) 「デジカメを買おうとするヤツら」 営業職にいると、自社内でも本社や営業所を行き来する機会が多くなる。当然、接する人間も多くなる。 そして、そのうちの数人から同じことを相談されるようになった。 「デジカメ買いたいんだけど、何が一番いいかな?」 まるで皆で示し合わせたかのように、この同じ時期に同じことを言ってくる。 「何が一番いいかって言われてもなあ・・・。」 我輩は頭を掻きながら少し考え、当たり障りの無い、かつ、的を射た返答をする。 「それぞれの用途による。」 用途によって選ぶ製品が変わるのは当然のことである。だからこそ、様々なものがラインナップとして用意されている。その中でたった一つの解しか無いとすれば、その他の製品には存在価値が無いということになる。 たった一つの良い物と、それ以外の物。そんな単純な世界があれば、誰も苦労しないで製品を選ぶだろう。我輩にアドバイスを求めるまでも無い。 今回の相談はデジタルカメラの件だったが、今までにも以下のような質問を受けたり聞いたりしたことがある。 「どのカメラが一番いい?」 「どのレンズが一番いい?」 「どのフィルムが一番いい?」 全く、どいつもこいつも・・・。 だが我輩は人間が出来ているので、そのような問いは話を切り出す第一声であろうと好意的に解釈している。だからまず、「それぞれの用途による」と返答し、相手の反応を見る。作品を撮るために使うのか、あるいはメモ用途にするのか。それによって薦める機種の絞り込み範囲がガラリと変わる。 そのような問診を繰り返すことにより、相手の用途や条件を次第に明確にしてゆき、条件に合った機種を数種類ピックアップする。その中から相手の好きなものを選ばせれば良い。 今まではこの方法でアドバイスをしてきた。 しかし、今回のデジタルカメラの件は少し違った。相談者たちは誰も用途を考えておらず、ただ、デジタルカメラを欲しているだけである。 「用途・・・?特に考えてない。」 このように言われると、人間が出来ている我輩でも関西人的ツッコミを入れたくなる。 「どないせえっちゅうんじゃ!」 仕方が無いので、予算から切り込もうと思った。これで少しは絞られるだろう。 それでも予算はハッキリとは言わない。「金が無い」の一点張り。無理に聞けば「1万円以下で」などとフザケたことを言う。それじゃあ、たとえ良い物があったとしても買えないだろう。 驚いたことに、デジタルカメラを買おうとしているヤツらは皆このパターンに当てはまる。なぜだ? 我輩が想像するに、デジタルカメラを買おうとしている輩は、そもそもカメラ自体を知らぬ者ばかりなのだ。ただ単純に、「パソコンに画像を取り込むため」という意識。何を撮るかという動機があるワケではない。 だから、「画質が良く」、「使い易く」、「コンパクトで」、「1万円以下の」デジタルカメラを欲してしまう。まさに"良いとこ取り"のカメラ。そんなカメラがあれば、我輩が真っ先に買っておるわ。 要するに彼らは、カメラ的に世間知らずということか。相場も知らぬわけだ。 このようなユーザーが大半であれば、デジタルカメラの大半がコンパクトカメラ型であるのも頷ける。 初心者とも言えぬような者たちに与えるカメラに、思考を必要とするカメラは相応しくない。何も考えずただボタンを押すだけでソツの無い映像が採集出来るカメラが良い。そして、画素数で差別化を明確にしておけば完璧。 しかし、こういうヤツらがいるおかげで、カメラが単なるパソコン周辺機器の一つにされてしまうのは悔しく悲しい。銀塩カメラを浸食し増殖するデジタルカメラは、もはや趣味の道具では無くなった。そのうち本当に「画質が良く」、「使い易く」、「コンパクトで」、「1万円以下の」デジタルカメラが現れるだろう。それを望む声が圧倒的ならばそうなる。趣味ではないものだから、結局は1つの姿に集約される。それがデジタルカメラの未来の姿。 おぞましい。 写真を趣味とする人間は、デジタルカメラについては蚊帳(かや)の外というわけか・・・。 ---------------------------------------------------- [368] 2002年08月28日(水) 「液晶プリウス」 先日実家に帰ると、パソコンが1台増え3台になっていた。 元々、我輩の母親はパソコン関係の仕事をしているのだが、さすがにパソコンが3台にもなると驚く。 1台はDELLのノートパソコン、1台は自作DOS/Vマシン、そして今回新しく導入された日立製「プリウス」という液晶デスクトップマシン。 「プリウス買ったそ?」 「そーなんよ。DVD作れるし、いいやろと思って。ハードも80ギガもあるし。」 「ハード?ハードディスクのことか?そんな言い方すっと初心者っぽいからやめたがええっちゃ。オレよりパソコン歴長いんやけん。」 「ええやん。けどね、画面がキレイでええんよー。」 「液晶やろ?たかが知れちょうわ。」 一見、画面にアクリル板を付けて光沢を出しただけのように思える液晶ディスプレイ。安易な処理だな。我輩の中では、液晶がキレイなのはシャープ製と決まっている。それでもCRTよりは劣るのだ。ましてや日立製の液晶など・・・。 そう思いながらプリウスのスイッチを入れてOSを起動した。 「こ、こりゃあ・・・。」 そこには、液晶ディスプレイとは思えぬ表現力があった。漆黒の「黒」に輝く「白」。見事に表現された色の深みは素晴らしい。こんなディスプレイならば1台あっても良い。 「・・・このディスプレイ、単体じゃ売っとらんと?」 「そーなんよ。バラ売りしとらんけね。」 「そーか。液晶ディプレイが欲しければ、パソコンごと買わんといけんのか。」 「そうっちゃ。商売上手いやろー。」 しかし、しばらくして妙なことに気付いた。 母親がパソコンで仕事を始めた時、なぜか従来のCRTに切り替えたのである。 「な、なんでキレイな液晶画面で仕事せんの?」 「ん?だって目が疲れるんやもん。」 「ハァ?CRTのほうが目が疲れるやろ?」 「いんやー、この液晶は目が疲れるんよ。」 そんなバカな、と我輩は液晶に切り替えてもらって画面を覗き込んだ。 それはMSエクセルのシート画面であった。白い地に黒い文字が打たれている。我輩は思わず目を細めた。 「う〜ん、なんか目がチラチラするわ・・・。」 「そーやろ?ちょっと眩しいんよね。」 「けど、せっかくの液晶なんになあ・・・。画面の輝度落として使ったら?」 「そうすると写真とか暗くなってしまうけんね。」 確かに、写真では黒から白までの明るさのレンジを広く感じた。しかし、文字を取り扱う作業では、その明るさが目に眩しい。特に白地では目が疲れる。 恐らくプリウスは、ビデオ再生や画像などのビジュアル分野に特化したパソコンという位置付けであろう。 こういった問題は、以前にも「雑文143」でも触れた。もっともその時点では、まさか本当にそのような特化したディスプレイが出るとは思っていなかった。 今回、パソコンでも写真をキレイに表示することは可能であることが実感出来た。残るは解像度の問題のみか。 だがそれと同時に、通常の作業では目に負担を与えるということも実感させられた。 やはり、パソコンで写真を取り扱うには、ディスプレイを他の用途で共用してはならない。写真を表示するためには、ビジュアル分野に特化した専用のディスプレイを用意すべきと言える。 それにしてもプリウスの液晶は別売りはしていなかったな。では、写真表示のためだけに40万円出してプリウスを買うか? ・・・我輩は遠慮しておく。 おとなしくポジを眺めていよう。 ---------------------------------------------------- [369] 2002年09月05日(木) 中判魚眼レンズへの道(1)「ドレイクの方程式」 我輩の尊敬する人物である故カール・セーガン博士は、米コーネル大学に籍を置いていた天文学者である。テレビ番組「COSMOS」によって一般にも知られている。 さて、コーネル大学と言えばもう一人忘れてはならないのが、フランク・ドレイク博士。ドレイク博士は、銀河系の中に知的文明がどれだけの数存在するかということを一つの方程式で示した。 ドレイクの方程式 N=N*×fp×ne×fl×fi×fc×fL N : 銀河系内に存在する知的文明の数 N* : 銀河系内に存在する恒星の総数 fp : 恒星が惑星を持つ確率 ne : 1恒星系の中で生命発生に適した環境の惑星の数 fl : その惑星で生命が発生する確率 fi : 発生した生命が文明社会を築くまでに進化する確率 fc : 電波通信能力を持つまでに進化する確率 fL : その文明が自己破壊を免れ存続する期間 左辺の「N(銀河系内に存在する知的文明の数)」を求めるためには、右辺の各項目に具体的な数値を代入することになる。 まず最初の項目「N*(銀河系内に存在する恒星の総数)」は、およそ1000憶〜2000憶個と推定される。これは膨大な数であるが、その後に続く様々な条件を確率として加えていくとどんどん数が絞られ、最後に出てくる数は非常に小さな数となる。代入する確率の想定次第では、最終的にN=0となる場合もある。 知的生命体の存在を、それが存在出来るための条件から推測する。それが、ドレイクの方程式である・・・。 さて、我輩にとって35mmカメラは一つの基準である。 そのため、中判カメラやデジタルカメラについても、35mmシステムと同様な撮影が出来ないと不満に思う。 各フォーマットについて、本来ならば用途に応じてシステムを使い分けるはずである。しかし、単に機材の制約によって35mmカメラを選ばざるを得ないとするならば、本当の意味での「用途に応じた使い分け」が出来ているとは言えぬ。 中判カメラの場合、不満点の一つ「パソコンへの取り込み」は先日やっと実現した(雑文366)。以降、このたった一つの条件だけでフォーマットが限定されることが無くなった。デジタル化しようがしまいが、35mmカメラと中判カメラを自由に使い分け出来るのである。 ところが不満点はそれ以外にもある。 我輩の中判システムでは、魚眼レンズ(フィッシュアイレンズ)が使えないのだ。 魚眼レンズは180度もの画角をカバーする特殊なレンズである。それはつまり、限られたフィルム面積に180度に広がる映像を凝縮するということでもある。そうなると、35mmフィルムのサイズでは少し厳しい。もしこれが中判用のブローニーフィルムならば、それこそ中判のフィルム面積を利用して凝縮された魚眼映像を詰め込むことが可能だと考えた。中判カメラこそ、魚眼レンズで使う価値がある。 (ちなみにデジタルカメラの場合、CCD面積が小さいため魚眼レンズを使用したとしてもトリミングされてしまい、魚眼の効果は殺される。通常レンズの先端に別売りのフィッシュアイ・コンバータを取り付ければ何とかそれらしい写真も撮れるのだが、インターネット上の作例を見てみると画像周辺部が流れて見苦しい。) 魚眼レンズは確かに特殊なレンズと言える。 元々、気象関係の雲量計測や天体観測等学術用途として開発されたと聞く。像のディフォルメは著しく、一般の写真用途としてはなかなか使いにくい面がある。 だが我輩は、魚眼レンズも真実を写す一つの手段だと考えている。 また、星夜写真を魚眼レンズで撮ると見事な写真が出来上がる。これをスライドプロジェクターで大きく投影すれば、広大な宇宙に包まれたような感覚になるだろう。 だから、魚眼レンズはどうしても欲しい。何とかして手に入れたい。 我輩の中判メインカメラは「ゼンザブロニカSQ-Ai」である。このシステムには魚眼レンズは1種類あるのだが、これは180度の範囲が円形に写り込む「全周(円周)魚眼」ではなく、対角線の部分でのみ180度となる「対角線魚眼」である。要するに、全周魚眼の映像中央部をトリミングしたのが対角線魚眼だと言える。 本当は全周魚眼が欲しいのだが、仕方が無い。対角線魚眼で我慢することにしよう。 ところが、「マップカメラ」のサイトから通販メニューを参照すると、ゼンザブロニカSQ-Ai用対角線魚眼「PS35mmF3.5」は販売終了となっていた。 バカな、このレンズは発売されてからまだ4年くらいしか経っていないはず。それがもう無いというのか? 慌てて他のカメラ店のオンラインショップを探し回ったが、新品はおろか中古も見付からない。 唯一、「カメラのキタムラ」のサイトにはあったのだが、実際に注文してみると後日担当者から電話があり、この魚眼レンズはメーカーにて生産終了品であり、店頭にも在庫無く、キタムラのサイトに掲載してあったものは更新遅れによるものだと説明された。担当者の方によると、「いろいろと他を当たってみたのですが、恐らく在庫は日本中のどこにも無いと思います。」とのことだった。そこまで言うからには、余程流通していない特殊なレンズなのだろう。 考えてみると当然か。 35mmカメラではなく少数派のブローニーサイズ、その中にて645サイズではなく少数派の66サイズ、その中にてハッセルブラッドではなく少数派のゼンザブロニカ、その中にて通常用途のレンズではなく少数派の魚眼レンズ。 我輩は、フランク・ドレイクの方程式を思い出した。 全体の数は多くとも、その中で我輩が選んだレンズは限りなくゼロに近い存在。 もしかしたら我輩は、幻を追っているのだろうか・・・。 ---------------------------------------------------- [370] 2002年09月06日(金) 中判魚眼レンズへの道(2)「探索」 前回の雑文にて、ゼンザブロニカの対角線魚眼レンズの入手が絶望的と分かり、力が抜けて前のめりにバッタリと倒れ込んだ。 うつろな目で見える映像が、円形に歪んで見えるようだった。 「・・・クソ、これがゼンザブロニカの限界か。もはやハッセルブラッドに乗り換えるほか無いのか。」 我輩は起き上がり、インターネットで「マップカメラ」のオンラインショッピングにてハッセルブラッド用魚眼レンズの価格を調べてみた。その瞬間、また視野が円形になるような気がした。 「ろ、65万円?!売る気あんのか?」 この値段では、カメラボディなど一式合わせれば100万円を大きく越えるだろう。中には簡単に買える者もいるのだろうが、我輩はそちらの世界の人間ではない。単なるヒラのサラリーマンである。まあ、もしこのレンズが全周魚眼ならば奴隷となる覚悟で買ってしまうかも知れないが、これは対角線魚眼である。そこまでの情熱も湧かない。 中判用全周魚眼は、我輩の知る限りコーワシックス用の交換レンズしか知らない。もしこれが手に入るならば、物欲の炎が激しく燃え上がったことだろう。 しかし、コーワシックス用の全周魚眼レンズなど、ゼンザブロニカ以上の幻の存在。とうの昔に生産を終えたカメラの特殊レンズなど、手に入れようと期待するほうがどうかしている。 それでも諦めきれずにインターネット上を検索していると、一つのレンズに行き当たった。 ウクライナ製魚眼レンズ「ARSAT 30mm F3.5」という対角線魚眼レンズ。価格は2万円台と破格であった。インターネット上での評判もなかなか良い。 問題は、そのレンズを装着出来るボディがペンタコン6やキエフ88などしか無い。これらのカメラは個体差が激しく、コマ同士が重なり合うというトラブルもよく聞く。レンズに問題無くともカメラボディに問題があれば無意味である。 そんなことを悩んでいると、ヤフーのオークションに出品されていたウクライナ製魚眼レンズは落札されてしまった。それ以降、このレンズの出品は無い。 こうなれば、いつ巡り会えるか分からぬレンズを求めるよりも、新品で手に入るレンズを買うことにするか。 そのためには、66サイズではなく67サイズにする以外に無い。67サイズであれば、マミヤやペンタックスが選べる。魚眼レンズも対角線ながらラインナップに入っている。67で撮り、66でトリミングすることにしよう。 だが、いざ買おうと考えるとどうにも気が引けた。 魚眼専用のためだけに巨大なカメラを携行するのか? 一般レンズを使うためにゼンザブロニカも必要となれば、それだけでボディが2台必要となる。66ならばともかく、67サイズのカメラはとにかくデカイ。 いっそのことシステムをまるごと66から67へと移行したほうが1台のボディで済むので効率が良いのではないか? ・・・計画がどんどん大きくなってゆく。 完全に行き詰まり、再びインターネットで検索を始めた。色々な単語で検索を繰り返し、色々な情報に目を通した。 その中で、興味深いものがあった。 「アストロカメラ」と呼ばれる天体写真専用のカメラである。 これは、35mm判の対角線魚眼レンズを利用し、中判フィルムのサイズによって全周魚眼として使おうというものである。35mm判のフィルムではトリミング効果により対角線魚眼になっているが、イメージサークルに映される映像は全周魚眼そのもの。 もしかしたらこのアストロカメラ、一般撮影でも使えるかも知れない。 ところがやはりウマイ話は無いもので、それらのアストロカメラにはシャッターが付いていないことが判った。星夜写真は数分間もの露光を与えることが一般的であるため、わざわざ無用なシャッターを組み込んでコストを上げる意味も無い。 その中でただ一社、シャッター組み込みのアストロカメラを発売しているのを見付けたが、何と、レンズマウントはオリンパスOM用。OMレンズなど、もはや在庫販売状態。魚眼レンズなどは早々に消えている。 もはやこれまでか。 ここまで考えてどうにもならないとは、悔しさよりもむしろ悲しさを強く感ずる。 正方形の画面一杯に広がる円形写真。それを楽しむことはもはや不可能なのか・・・。 ---------------------------------------------------- [371] 2002年09月08日(日) 中判魚眼レンズへの道(3)「最後の賭け」 前回の雑文にて、市販のアストロカメラでは一般撮影が絶望的と分かり、力が抜けて前のめりにバッタリと倒れ込んだ。 うつろな目で見える映像が、円形に歪んで見えるようだった。 「・・・クソ、これがアストロカメラの限界か。もはやこのまま諦めるほか無いのか。」 その時、我輩はふと起き上がり、インターネットで再びアストロカメラの検索をした。その瞬間、円形になった視野がパッと広がったような気がした。 「自作アストロカメラか!」 インターネット上には、アストロカメラを自作したという個人のサイトが多数あり、中には製作日記を記したものさえある。そのほとんどはシャッター無しのアストロカメラであったが、中にはシャッター組込みの自作アストロカメラもあった。 これだ。もう、自作するしか道は無い。 この瞬間まで、我輩は必要な機材を探して買うという行為しか考えなかった。用意された道具をただ使うだけ。道具があれば「可能」、道具が無ければ「不可能」とはな。 それはあたかも、口を開けて餌を待つ鯉のようである。自らの軟弱ぶりが見えて歯がゆい。道具にこだわるならば、自分の納得出来る道具を自ら作ることも必要である。 例えば、ダイヤル式カメラが絶滅したとしても、液晶表示カメラにダイヤルを無理矢理ネジ込むくらいの鼻息の荒さがあっても良いと思う。 そうは言っても、レンズ材の製造や研磨、光学系の設計、機械動作をする部品の製造などは個人の手に余る。そこまで徹底した自作などはもちろん不可能であるから、ここでは手軽に得られるパーツを組み合わせてカメラの自作としたい。 カメラの構成単位は、「レンズ」、「シャッター」、「フィルムバック」の3点である。この3点を上手く組合わせて一台のカメラを作ろうというのが今回の挑戦である。 まあ簡単には言うものの、自作のリスクは大きい。自分の腕が一つでも及ばぬならば不完全あるいは未完成で終わり、それまでに投入したコストが全て無駄となる。 果たして、我輩にやり遂げられるか? やめるならば今のうち。 我輩は、紙に部品のスケッチをしたり必要なコストを算出したりと検討を重ね、そして決意に至った。 必要な部品が手元に揃っていないため、本当に組み上がるのかということまでは確証が無い。ただ、「出来るはずだ」ということしか言えない。 これは最後の賭けである。自分を信じて、前に進むのだ。 <<画像ファイルあり>> これほど精密で完璧な設計図があれば、自作は実現したも同然。あとは実行あるのみ。 ●検討事項 まず、紙にスケッチした構成要素について検討する。 <レンズ> レンズは、35mmカメラ用の対角線魚眼レンズを使うことが大前提であるため、選択肢は限られている。その中でも一番安く手に入るレンズは、レンズメーカーであるシグマ製「15mm F2.8 DIAGONAL FISHEYE」である。これならばマップカメラ価格で\39,800と安い。ロシア製レンズも考慮しても良かったが、手に入るかどうか分からないようなものを計画に入れても意味が無い。しかもレンズマウントの問題が面倒である。 <<画像ファイルあり>> <シャッター> シャッターは、マウント径を考慮すれば一番大きな3番しか無かろう。径の大きい分、シャッタースピードは最高で1/125秒と遅いが仕方無い。ここではコパル製を想定する。これは大判用レンズ(フジノン250mm)に付いているシャッターであるが、レンズのほうは解体してネジ込み部分のみ拝借する。 <<画像ファイルあり>> <フィルムバック> フィルムバックは巻き上げレバーの付いたマミヤRB用やマミヤプレス用が最適だと思われる。しかし、円形の魚眼映像を無駄無く使えるのは、正方形画面である66判なのは明白。新たな出費も抑えたいので、現在ゼンザブロニカSQ-Aiで使用しているフィルムバックの1つを流用することにしよう。フィルムの巻き上げがクランク式になるのは少し面倒だが・・・。 <マウント> レンズ接合については、着脱不可能な固定式にすれば極端な話、接着でも溶接でもネジ留めでも何とかなりそうな気がする。だが、出来れば着脱式として通常の35mmカメラ用レンズとしても使えるならば嬉しい。 そこでマウントは、手元にあるニコンの接写リングを利用しようと考えた。当然ながら魚眼レンズもニコンマウント用を選択することになる。 <<画像ファイルあり>> <ファインダー> ファインダーは、180度視野のドアスコープを流用することにした。 これは、ヤフーのオークションで魚眼レンズを探している時に検索に引っかかり、これは使えるなと思いついた。事実、他の自作アストロカメラのサイトでも、同様にドアスコープをファインダーとして使ってるようだ。 もちろん、費用を抑えるためにオークションではなく東急ハンズで購入する。 <各種部材と加工> ボディ部分のアルミ板や木材については、強度を持たせるためになるべく強いものを使いたい。アルミならば厚さ1.5mm、木材ならば加工しにくくとも堅いものを。 加工方法については、肥後の神(昔懐かしの定番和製ナイフ)でカリカリ削っていくのもいいかも知れないが、今回はフランジバックなど精密さを要求され、また金属素材もあることなので、大胆に機械力を導入することにしよう。 気が付くと、我輩はヤフーのオークションやGoogle検索で「旋盤」やら「フライス盤」やら「切削加工」などという単語で検索し始めていた。しかし、これはさすがに大げさか。 オークションには、手頃な価格のものも出品されてはいたのだが、カメラを1台作った後は使う予定も無いので無駄過ぎる。 そこで、今回はPROXXON(プロクソン)というドイツ製ルーターを導入することにした。手芸で使われるルーターであるが、少し強力な製品を選べば金属加工もそれなりに可能である。東急ハンズでは目当てのものが在庫切れの為、インターネット上で検索し、安いと感じた「株式会社中正」で通販によって購入した。 ●製作 まず、アルミ板の加工を始める。先にも述べた通り、アルミ板は1.5mmと厚い為、ルーターで切断することにする。砥石カッターを使用して少しずつ切れ込みを入れていくのだが、切断を焦るとカッターの消耗も激しくアルミ板も高温になってくる。アルミだとバカにしていたのが意外と手間が掛かった。 切断時の騒音は予想以上。しかし、ちょうど隣の土地でビル建設が行われている最中であり、その騒音に乗じてアパートの隣家に気兼ねなく加工が可能である。 <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> アルミ板から切り出し、穴開け加工をする。エッジが鋭いので面取りも行う。 アルミ板はフィルムバックとシャッターを取付けるためのベースであり、カメラ本体とも言える。色々と試した結果、フランジバックの関係上、木材によるボディ部は必要無く、アルミ板とワッシャーのみで良いことが判明。 実は、フィルムバックの着脱を実現させる金具も取り付ける予定であったのだが、ボディの幅が狭いためにそのようなメカニズムを盛り込むスペースが確保出来ず、フィルムバック着脱機構は諦めて固定せざるを得なくなった。まあ、その分製作は楽にはなる。 <<画像ファイルあり>> シャッター部にレンズマウントを設置し、アルミ板に固定。これにフィルムバックを付けてフランジバックを調整すればカメラの形態が整う。 さてレンズのほうは、35mmカメラ用対角線魚眼である。今回はこれを全周魚眼として使うわけだが、イメージサークル全周に渡って利用することを想定されたものではないため、レンズに組み込まれたフードが邪魔となる。これは一見するとプラスチック製のように思えたのだが、ルーターで切断していくと金属製であることが判った。 切断中、切断面がレンズに近過ぎることに気付いたが、途中で進路を変えることも出来ずそのまま切断を続行した。その結果、レンズ面には傷は無かったものの、レンズ鏡胴に深爪してしまい、見かけが悪くなってしまった。 <<画像ファイルあり>><<画像ファイルあり>> フード切除の様子。砥石カッターで時間をかけて切断する。 ファインダー用のドアスコープは当初、木製ボディに設置する予定であったが、木製ボディが不要となった為、アルミ板に直接設置することになった。そうなると、アルミ板に取り付けたアームをドアスコープの光軸に向けて90度ねじらねばならない。これも見かけが悪くなるのだが、機能を優先させるため仕方無い。 また、三脚座も同様に木製ボディに取り付ける予定であったがそれも叶わず、不安定ではあるがアルミプレートにそのまま固定させた。ちなみに、この三脚用ネジ穴部分は、ミノルタα-9000のものを移植した。 ●完成&試写 「完成」などと一言で言うものの、細かい調整は一苦労であった。フランジバックの調整は微妙であり、フィルム面にトレーシングペーパーを貼り確認しながら組み上げた。 だが、やはり微妙なズレは試写しながら補正するほか無く、完成までにはモノクロフィルムT-MAX100を10本ほど消費した。まあ、フォーカスの確認が済めば用無しのフィルムなわけで、フィルム現像は定着と水洗作業の段階で手抜きをした。当然ながらフィルムに残る色素(ピンク色の分光増感剤)はヌケずに残っていたが問題無い。 フォーカスのチェックが終わり、野外テストを行った。 通勤途中や職場などでリバーサルフィルムを使い撮影をしてみた。フィルムはいつもの安い「Kodak EPP」を使いたかったのだが、フジフィルムのリバーサルのほうは夕方に出しても翌日の夕方には仕上がるので、高価だが「FUJI PROVIA 100F」を使用した。 だが、試写1回目は光漏れが酷い結果となった。原因は、シャッターとアルミ板との接合点で、円形の穴から四角の穴に変わる部分で起こっていた。 当初、遮光にはモルトプレーンのシートを使っていたが、それはあくまで補助的に使うべきものだったのだ。室内のフォーカスチェック撮影では表面化しなかったが、野外の日光の下ではカブリを起こしたのである。 手元には適当な材料が見付からず、黒色プラスチックを熱して溶かし隙間を塞ぐことにした。かなりの荒技だったが、これで光漏れは無くなった。 <<画像ファイルあり>> 見かけはあまり良くないが、写りは満足出来る。 シャッターがセルフコッキングではないので、フィルムも巻上げが済んだのかを忘れることがあり、何度か二重露出させてしまった。 また、シャッター開放レバーが他のレバーと同じ大きさであり、何度か間違えて操作したり鞄の中で誤作動起こしたりした為、即座にこのレバーを短く切除し、操作しにくくした。 更に、このカメラのピントは目測式となる為、なかなかピントを合わせるのに苦労した。 それもそのはず、「撮影距離」とは、被写体からレンズ先端までの距離ではなく、被写体からフィルム基準面までの距離であった。我輩としたことが、そんな基本的なことを忘れていた。全く恥ずかしい話だ。 通常のレンズならば、最短撮影距離が50cm程度と離れているため、レンズ先端からの距離と考えても誤差が少ない。だが、魚眼レンズのような短焦点レンズでは、最短撮影距離が15cmくらいと短く、レンズ先端からの距離だと考えて撮影するとピントを誤ることになる。 ちなみにフィルム基準面とは、カメラには必ず描かれている土星マークのことである。これがフィルム面の位置を表す。 <<画像ファイルあり>> 出来上がったスリーブ。誤ってシャッター開放レバーを操作してしまったコマが2つほどある。 ・・・今回は、単に全周魚眼写真を得るためだけに、これだけのエネルギーを使い精魂尽きた。 しかしながら、仕上がった写真をプロジェクターで投影して観ると、その迫力に感動した。 中判フォーマットの超微粒子リバーサルで全周魚眼レンズを使った写真を、スライドプロジェクターで拡大投影して眺める。情報量の多さではこれに勝るものは他に無かろう。冗談抜きでこの写真は凄い。 今回は被写体を特に選ばぬ「作例的写真」ではあったが、それでもこの写真は我輩にカメラ製作の苦労をいっぺんに忘れさせた。 カメラ製作という未経験分野の賭けではあったものの、我輩の執念が勝(まさ)ったと言えよう。 <<画像ファイルあり>> パソコン画面では情報量の迫力は伝わらぬ。ここでの表示は、プレビューの意味しか無い。 ---------------------------------------------------- [372] 2002年09月16日(月) 「雷」 雷は夏の夜の風物詩と言える。 だが落雷は非常に危険で、花火のように窓を開けてボンヤリと眺めていられるような対象ではない。 ある例では、遠くでゴロゴロと雷雲が近付いて来たので、主婦が急いで洗濯物を取り込もうと2階の窓を開けてベランダに身を出したら、突然雷に打たれて死亡したという。 我輩自身、雷が近くに落ちた経験が2回ある。 1回目は、会社本社の会議室にいた時だった。その会議室は最上階にあったため天井は屋上のすぐ下である。鉄筋ビルではあるものの、古いビルであるために激しい雨が降れば「ゴゥー」という低い音が聞こえてくる。 その日も雨が降っており、雨が急に激しくなったのか天井から例の如く雨音がしてきた。 「帰るまでに止めば良いが・・・。」 そう思ったと同時だった。すぐ上の天井で「パンッ!」と乾いた音がした。風船の割れるような音だ。 「なんだ?!」 皆、上を見た。すると、「ガラガラドカーン!!」と身体に響くほどの大音響が耳をつんざき、それと同時に非常ベルが館内で鳴り響いた。周囲は騒然となったが、非常ベルが止められると平静を取り戻した。 結局、この時の被害は火災報知器の回路が焼き切れたのみ。パソコンなどの情報機器には影響が無かった。 それにしても、天井の薄い構造であるが故、落雷の音が非常に近く聞こえたのは貴重な経験だった。恐らく、稲妻の距離は我輩から数メートルほどであったろう。 2回目は、客先から田町の事務所に戻る時だった。 京浜東北線の電車内から外を見ていると、何だか怪しい黒雲が追いかけてくるのが見えた。その雲は、時々閃光を走らせている。雷雲に違いなかった。 田町駅に着くと、すぐに雨が降り始めた。空は不気味に真っ黒に染まっていた。 我輩は折り畳み傘を取り出し事務所に急いだ。小さい傘であるから、すぐにズボンと靴が水浸しになる。だが、雷雲であることは明白であるから、一刻も早く事務所に帰りたい。 雨に耐えながらも、あと10メートルで事務所だという所まで辿り着いた。 その瞬間だった。 目の前が真っ白になり、ほとんど同時に「ドカーン!!」という爆弾のような音が響いた。落雷だ。場所は分からなかったが非常に近い。 我輩は反射的に身をすくませたが、雷相手には遅すぎる行動であった。ふと見ると、近くの店で雨宿りをしていた女性の顔がこわばっていた。 我輩は走って事務所のビルに入り、ドアを開けた。すると、またしても非常ベルが鳴り響いていた。どうやら、事務所のビルに落雷したらしい。またもや稲妻とのニアミスであった。 雷とは、空気中を走る電気の放電である。 空気は絶縁体ではあるのだが、高温になると空気の分子が電離しプラズマとなる。プラズマは導電性があるため、そこを目がけて大電流が流れ込み、次に接する空気の温度を上げプラズマ化させる。・・・このようにして次々に絶縁を破壊しながら突き進む電流が稲妻である。 それは紙を破る時のように、絶縁の弱い部分を選んで電流が流れる。時にはジグザグに折れ曲がり、時にはいくつも枝分かれをする。 絶縁を破壊しながらの放電であるが、放電そのものは短い時間に何度も起こっている。いったん絶縁を破ったプラズマの道筋があるのだから、2回目以降の放電も同じ道筋で稲妻を作る。そのため、風がある時にはプラズマが横に流され、写真で撮ると同じ形の稲妻が少しズレて写っていることがある。 また、空気が熱せられれば当然ながら膨張する。ただしその膨張が急激に起こるため、その衝撃が雷鳴となるのである(銃声と同じ原理)。 さらに、高温になれば光も放射することになり、稲光として現れる。 このように、雷とは非常に大きなエネルギーを持った自然現象で、我輩自身も落雷によって少なからぬ衝撃を味わった。それ故、雷についての興味が増すこととなり、その姿をもっと知りたいと思う。 一瞬のうちに現れて消える壮大な現象。しかも、どの瞬間にどの方向に現れるのか分からない。じっくりと細かく観察するには写真に撮影する以外に方法が無い。時間を止めるために写真は有効な手段である。 8月のある日、その雷が現れた。 激しい雨が降り始めたと同時に雷の音が響く。落雷らしきものもいくつか確認した。ただしそれらは数百メートルは離れていたらしく、閃光後の雷鳴は1秒程度の時間差がある。 それでも送電関係に支障があったのか、10秒程度の停電が起こった。ノートパソコン以外のパソコンは皆沈黙してしまったが、それも構わず急いでカメラの準備を始めた。 外は相変わらず土砂降り。屋根がせり出しているにも関わらず、窓ガラスにも激しく雨が叩きつけている。この状態でカメラは出せないので、しばらく様子を見ていた。 すると、突然と雨が小降りになり、窓を開けても降り込まなくなった。 だが、窓ガラスを開けて撮影するのは恐怖である。過去の落雷の記憶が何度も蘇る。 地雷を踏んで死んだ戦場カメラマンが残したフィルムに刻まれた地雷の衝撃。落雷で死んでも同じように残るかなと思ったが、よく考えると手元にあるのはデジタルカメラ。落雷に遭えば全てのデータを飛ばすのは必至。 稲妻の露出データは無いので、仕上がりを見ながら撮影しようと思ったわけだが・・・。 まあ、データを飛ばすこと以前に死にたくはないので、窓ガラス越しにカメラを構えることにした。室内灯がガラスに反射するので、部屋の明かりを消して撮影した。平均露光時間は3〜10秒であるが、キヤノンデジタルカメラの長時間露出時のノイズリダクションが倍時間以上掛かるのでチャンスを逃すことがかなり多い。 それでも得られた稲妻のベストカットが以下の写真である。 <<画像ファイルあり>> これは見事な雲間放電だ。 雲間放電は今まで雲の中で起こるものしか見たことが無かった。つまり、稲妻は隠れて見えず雲の内部で発光して見えた程度であった。 しかし今回は、このように横へ伸びる稲妻が見事に捉えられた。まるで体内に這う血管のよう。その形そのものが興味深い。フラクタル幾何学の表現形というところか。 今回はデジタルカメラの撮影と横着してしまったが、次回にチャンスがあればリバーサルフィルムに撮影し、プロジェクターにて大きく投影し観察したいと思う。 もし可能ならば、同時にステレオ写真にも撮り、稲妻の立体像をじっくりと観察してみたい。視差さえ充分に取れば、その立体像が浮かび上がろう。 空間の中で、どのように稲妻の糸がうねっているのか、どの方向へ消えているのか・・・。 怖いもの見たさもあり、実に興味深い。 ---------------------------------------------------- [373] 2002年09月21日(土) 「営業活動」 我輩は親会社を含むグループ関連会社担当の営業である。 いわゆる「内販」と呼ばれ、世間の荒波に揉まれる外洋の営業ではなく、内海(うちうみ)の穏やかな環境の下で営業活動を行っている。しかしながら、やはり営業たるもの顔出しが大切。納品ついでに別の担当者のところへ行って雑談をしたりする。その積み重ねによって新規の仕事を得たり、あるいは他社に対して有利な情報を得たりすることも少なくない。 まあ、最初からそのような下心を以て声を掛けるわけではないのだが、日頃からの繋がりは何にしても大切。 先日、ある担当者O氏のほうに挨拶に行った。O氏は忙しそうに見えたのだが、我輩を見るやO氏から話し掛けてきた。 (O氏)「あっ、我輩さん、ウチでデジカメ買いましたよ。」 (我輩)「"ウチ"というのはOさんの家ということですか?」 (O氏)「あ、いえ、ウチの会社で。」 (我輩)「へー、会社でデジカメを買ったんですか?」 (O氏)「ええ、業務上、部品の写真とか撮ったりするんで。」 (我輩)「何て言うデジカメですか?」 (O氏)「えーと、何て言ったっけなあ・・・。キャノンということは間違い無いんですが。ちょっと手元に無いから・・・何だっけなあ。とにかく一眼レフでした。」 (我輩)「キャノンで一眼レフ・・・ということは、D60ですかね。」 (O氏)「うーん、どうだったかなあ。」 (我輩)「じゃあ、また今度分かったら教えて下さいよ。」 数日後、O氏から電話の問い合わせがあった。 そして用件が済むと、あの時のキヤノンデジタルカメラの話が出た。 (O氏)「あっ、そう言えば例のデジカメの件、今、手元に持って来てますよ。」 (我輩)「ホントですか?機種名は何て書いてます?」 (O氏)「キャノンのイオスです。」 (我輩)「あ、いやその、"イオス"の下に何か書いてませんか?」 (O氏)「えっと、D60って書いてますね。」 (我輩)「あー、やっぱりD60ですか。」 (O氏)「なんか高そうなカメラですね。10万くらいすんのかな?」 (我輩)「いや、20万越えますよ。レンズ入れるともっとするかも。」 (O氏)「えっ?!これってそんなにすんの?スゲー!!」 O氏は手元のカメラがそんなに高価な物だとは知らなかったようだ。しかし、上位機種「キヤノンEOS-1D」ならもっとするのでこれは安いほうである。 (O氏)「ところでこれ、詳しい使い方が分からないんですよ。感度を変えたいのになー。」 (我輩)「D60なら分かりますよ。感度ですか?」 (O氏)「え、分かるんですか?」 我輩の所有する一眼レフタイプのデジタルカメラは、偶然にも「キヤノンEOS-D30」である。D60とほぼ同じ仕様なので、操作体系も同じであるハズ。 D30ならば我輩のメインデジタルカメラであるため、目をつぶればD30の姿とその操作方法が浮かんでくる。我輩は、O氏の手元にあるというD60を操作してもらいながら電話口で説明を始めた。 (我輩)「背面左上にメニューボタンがありますか?」 (O氏)「メニューボタン・・・?あ、あったあった。」 (我輩)「それを押して液晶画面を見ると、真ん中辺りに感度という文字が出てませんか?」 (O氏)「あります、あります!ああ、これかぁー!」 (我輩)「今度は左のダイヤルでその項目を選択してダイヤル真ん中のボタンを押せば変えられますよ。」 (O氏)「うわーホントだ、凄い凄い。まさか、電話から見えてるんですか?」 (我輩)「いえいえまさか。じゃあ、また何かありましたらお知らせ下さい。」 これ以降、O氏との会話は仕事のことよりもカメラのことが多くなってしまった。しかし、良い関係を築くことは何事にも代え難い。 今までは「調子はどうですか?」などと漠然とした内容で話し掛けることしか出来なかったものだが、最近では話をする必然性が出来たためO氏から「こちらに来る日は前もって電話して教えて下さいよ。」と言われるまでになった。これは、営業としてはもちろん、一人の人間としても嬉しいこと。 人間、何が幸いするか分からない。 ---------------------------------------------------- [374] 2002年09月22日(日) 「金属ボディ」 数日前、いつものように帰宅途中にヨドバシカメラに立ち寄り展示カメラをいじっていた。 その中に、あるメーカーのフラッグシップカメラがあった。このカメラはマグネシウム合金を使った外装で、表向きは「金属ボディであるから堅牢である」とされている。 「マグネシウム」と言うと、中学時代によく理科室でマグネシウムリボンで遊んでいたことを想い出す。非常に柔らかい金属で、酸化しやすいために表面は白く曇っていた。それをちぎってマッチで火を着けると、眩しい光と白い煙を発して燃え出す。 しかし、マグネシウムにアルミニウムや亜鉛などを添加して合金にすると、剛性が向上し利用価値の高い金属素材となる。特に、軽量であるということから、持ち運ぶ用途のノートパソコンやカメラの外装に使われ始めた様子。 しかしながら、我輩がヨドバシカメラ店頭にて手に取ったそのカメラには、落下したと見られるペンタ部に亀裂を伴う陥没があった。重量級のフラッグシップカメラであるから、どんなに強度のある材料であろうとも無傷では済まないだろうとは想像する。しかし、亀裂部分から覗いた電子部品が非常に痛々しい。 よく見ると、金属の破断面は結晶粒が見え、それは金属光沢ではなく岩を割ったようなゴツゴツした断面であった。見るからに脆(もろ)い。 破断面でむきだしになっていた結晶粒は、その材料が鋳造品であることを示している。鍛造ではあのような断面は見られない。 しかも肉厚がかなり厚い。薄ければ全く強度が足りないからだ。 鋳造品の場合、融けた金属を鋳型に流し込んで冷やして固める。その冷える過程にて、金属が多結晶となる。その1つ1つの結晶の境界面(粒界面)では応力を受けた時に破断のきっかけとなり、それが全体としての強度に影響を与える。 鋳造による多結晶金属 <<画像ファイルあり>> ↓ <<画像ファイルあり>> 融けた金属を型に流し込む鋳造ではなく、圧延やプレスによる鍛造を行えば金属の結晶が繊維状に引き延ばされメタルフロー(鍛流線)が得られる。 これは、メタルフローの無い鋳造品やメタルフローの切断された削出し品以上の強度を持つということを意味する。 では、マグネシウム合金でも同じように鍛造をすれば良いじゃないかと思ってしまうのだが、どうやらマグネシウム合金の利用自体が最近始まったことらしく、鍛造については技術的困難があるとのこと。コストさえ掛ければカメラの外装にも鍛造マグネシウム合金が使えるのかも知れないが、それならばいっそチタニウムを使ってしまったほうが良いかも知れない。 なぜ今さらマグネシウム合金などという新素材を使ってカメラを外装するのか。昔のようにプレスした真鍮では作れないのか? もしかしたら、設計思想としてクラッシャブルな構造で衝撃を吸収しようということなのかも知れないが、我輩としてはヘコんで衝撃を吸収する従来の真鍮のほうが愛嬌があって好きになれる。 それにしても、雑誌等の記事にはハッキリと「マグネシウム合金採用により強度が向上」などというウソが書かれているのには驚く。このような書き方ならば、一般人はコロリと騙されてしまうだろう。何しろ、今までプラスチックばかりで食傷気味だった消費者である。「金属」と言われれば、多少聞き慣れぬマグネシウム合金だとしても、「現代風の新素材金属であろう」と良い意味に取ってしまいかねない。 鋳造マグネシウム合金。 それは単に、金属カメラという称号と、コスト削減を両立しただけのメーカー都合の新素材。鍛造技術が確立されぬ状態で鋳造にて間に合わせをするのは・・・やはり期待通り、あのメーカーだったな。 (2002.09.24追記) 本日、もう一度ヨドバシカメラで陥没カメラを確かめてみたら、銀塩カメラのほうではなくデジタル一眼レフカメラのほうだった。まあ、どちらでもマグネシウム合金なのは同じだが。 ---------------------------------------------------- [375] 2002年09月28日(土) 「英語禁止ホール」 正月は退屈な番組が本当に多いが、学生時代は唯一「タモリ・さんま・たけしの新春ゴルフマッチ」が楽しみであった。 当時はまだ健在であった逸見アナウンサーが司会進行役を務め、タモリ、明石家さんま、ビートたけしの3人がお笑い系のゴルフマッチを繰り広げるのである。ホールごとに変なシューズを履かされたり、目を回した状態でショットさせられたり、とにかく普通に打つことが無い。そのバカさ加減がなかなか良かった。 その中でも我輩のお気に入りは、「英語禁止ホール」である。 そのホールでは、ひとことでも英語を喋るとペナルティを課せられる。特にさんまは脊髄反射で言葉を発するため非常に不利。 たけし>「ね、ね、穴まであとどれくらいの距離?」 タモリ>「・・・・。」 さんま>「せやなあ、何ヤードやろなー?」 逸 見>「ヤード!はい、英語言いましたね。ワンペナルティ。」 さんま>「うぁー、あかんがな!これ以上ペナルティが増えたら・・・。」 逸 見>「ペナルティも英語です!2ペナルティ!」 さんま>「ったく!喋られへんがな!なんちゅうルールやろ。」 逸 見>「ルールって言いましたね?はい、3ペナ!」 タモリ>「クックック・・・、バカだねー。喋んなきゃ良いんだよ。」 何を言うかタモリ、喋らなければ面白く無いだろ。これはバラエティ番組だろうが。 まあその頃からタモリは面白く無かったが、明石家さんまとビートたけしはまだ面白い頃だった。 しかしあらためて想像すると、英語(外来語も含む)が禁止されるというのは意外にツライものがある。なぜなら、英語は日本の文化に深く浸透しているため、普段使っている言葉を禁止されることになり非常に不便を強いられるからだ。 回りくどい日本語を使うよりも、英語であっても皆が共通認識を持つ汎用的な表現のほうが便利と言える。例えば、「接吻」などと言うよりも「キス」と言うほうが通りが良く自然に聞こえる。 さてコンピュータの世界では、英語禁止ホールというわけではないが、それに似たような事件があった。 これは記憶に新しい事件であるが、画像フォーマットとして広く使われていたGIF(ジフ)がUNISYSのLZW画像圧縮法を用いているために特許使用料が発生した。つまり、GIF画像の特許を所有する者が「この画像フォーマットはタダで使うな」と主張したのだ。 これにより、ライセンス料を払わずGIF画像が作成可能なソフトの開発が違法となったばかりか、非ライセンスソフトを使いGIF画像を作成することも違法となってしまった。 英語禁止ホールのように、禁を破ればペナルティが課せられる。 UNISYSは当初、フリーソフトならば特許使用料を払う必要は無いとしていたのだが、GIFが一般に普及すると、一転してフリーソフトにも使用料を課すと言い出したのである。 このGIF画像問題は、一般に広く使われる画像フォーマットであるため、単純に「イヤなら使わなければ良い」と済ますことが難しい。それ故この戦法は世間の非難を浴びたのだが、アメリカの裁判で特許絡みの主張が通らぬはずも無く、GIFを使用する者全てから料金を徴収する体制となり、その結果GIF画像は衰退の方向へ進んでいる(JPEGやPNG、Flashなどへの移行)。 ただしGIF画像の特許は日本では2004年に期限が切れる見込みであるが、アメリカ発の特許であるため、法改正により延長されることも大いにあり得る。 ところが最近、今度はJPEG(ジェイペグ)画像の特許問題がわき上がってきた。 JPEGと言えばインターネット上の写真に使われる標準的画像フォーマットである。その圧縮率は非常に高く有用である。 また、JPEGはデジタルカメラの保存形式としても標準フォーマットであり、その大きな市場の中にあって重要な位置を占めている。 このように我々の生活に深く根付いたJPEGという画像フォーマットではあるが、ここに来て突然特許問題が浮上した。JPEGの特許を持つForgent Networks社が特許使用料を主張し始めたのである。まさに、UNISYSのGIF問題と同じような展開になってきた。 結局、コンピュータ関連の商品というのは、常に動向が不透明で気が抜けないものである。そこには様々なフォーマットが絡み合い、それらのうち1つの動向の変化のよっても我々に影響を与える。 件のGIF画像事件の時、全てのGIF画像をJPEG画像に変更するサイト運営者がいたと聞く。クオリティ低下もあるので、画質を比較しながらのフォーマット変換はかなりの手間だったろう。だがさすがに、JPEGさえも立ち退きを要求するとは思っていなかったに違いない。 今のところ、違法性を問われるのは画像の一般公開についてのみということのようだが、法律というのは思惑を以て改正されるものである。アメリカが自国だけの利益のために法律を改正することは容易に想像がつく。将来、非ライセンスソフトを使って生成したJPEG画像を、ただ所有しているだけで違法とされる時代がやってくるかも知れない。 あるいはそうならないとしても、少なくともGIF画像の時と同じように、JPEGを生成するもの(デジタルカメラやグラフィックソフト)の中で非ライセンスのものは違法とされる恐れがある。そうなれば、ライセンス料を払わないメーカーのデジタルカメラは使うことを許されない。 (現時点では、SONYがJPEG特許使用料20億円を支払っている。つまり、SONY製品にはその分が価格に上乗せされ我々ユーザーが負担することになる。) 今は著作権フリーと考えられている画像フォーマットであろうとも、将来どうなるかということまでは誰にも分からない。「PNGならば大丈夫」などとノンキに構えていたらいつか寝首をかかれるぞ。 最初は儲けを考えなかった者であったとしても、実際に自分の特許が広く使われるようになった現実を前にして欲を出さぬとも限らない。あるいは特許自体が第三者に移らぬとも限らない。 また、将来のビジネスが変われば法律も変わる。アメリカの財産を守ろうという愛国者の力によって、特許や著作権に関する法律強化が無制限に行われることは十分考えられる。時には、いったん特許使用料を徴収されても、また別の理由を付けて追加徴収して来ないとも限らない。あるいは一定期間ごとに使用料が発生するかもな。永久特許法などというものが強引に作られたりすれば、もはやお手上げ。 そうなれば、我々は鵜飼いの鵜のように、魚を飲み込めず上納させれるのだ。 そう考えると、常に安心して使える画像フォーマットなど存在しないように思える。人気があるフォーマットが常にビジネスのターゲットになるのだ。考えてみれば至極当然。 おいはぎから逃れて助けを求めれば、そこにはまた別のおいはぎしかいない。 ・・・以上、あまりに極端な想定話ではあったが、今は笑い話でも将来は真面目な話になる可能性は十分ある。GIFやJPEGの件など、誰が事前に予想出来た?そもそも予想出来ればここまで普及はしなかったはず。 大切に保存していた子供の成長記録写真の画像が、気付かぬ間に違法となってしまい、もしそれが発覚すれば、違法となった時点まで遡り膨大な金額を請求されることになろう。 英語禁止ホールのように、普段使っていたものが突然禁止されるというのは非常に苦しく悔しいことだ。 「ほぉー、かわいいお子さんの写真ですな。しかし残念ながら、これらの画像データは我が社の所有物となりますので使用料を払って下さいね。プリントアウトする場合やフォーマット変換する場合も別途使用料金が必要ですのでお気を付け下さい。では、良い写真ライフを!」 こんな時代になってしまえばもうどうにもならぬ。その時になって銀塩に戻ろうとも、過去の写真がデジタルカメラで撮ったものならばもう遅い。誰かが考えた画像フォーマットに乗っかっている限り、その画像は純粋に自分の所有物ではないのである。相手が要求すればその通りに従う他無い。 しかし、デジタルカメラというのはただでさえカメラ自体が消耗品で金が掛かる。その上、データそのものに金が掛かるようになるとツライ。その時は、税金のようなものだと思って諦めるしか無いか。 まあ、タモリの言うように「喋らなきゃ良い」のかも知れないが・・・それは趣味としての写真を辞めるということである。それでは面白くも何ともない。 ---------------------------------------------------- [376] 2002年09月29日(日) 「フルサイズCCD」 ついにキヤノンから35mmフルサイズCCDのデジタル一眼レフカメラが発表された(この製品はCMOS採用だが、CCDとの書き分けが面倒なのでCMOSも含め勝手に"CCD"とまとめ書きさせてもらう)。 コンタックスのフルサイズデジタルカメラとは違い、既存のEFマウントを変更すること無くフルサイズ化を達成したのである。 これにより、デジタル一眼レフカメラは一つの到達点に達した。少なくともCCDサイズに関しては、これ以降の製品について陳腐化が起こらなくなる。 ハッキリ言うと、APSサイズなどという馴染みの無い中途半端なサイズは、デジタル一眼レフとしては発展途上と言う他無い。35mmフルサイズには無い決定的特長があれば別だが、それは全く無いのだ。35mmフルサイズのデジタルカメラを所有する者が、わざわざAPSサイズを欲してもう1台デジタルカメラを買わないだろう? そんなもの、35mmフルサイズのトリミングで事足る。 もちろん、35mmフルサイズCCDについては周辺光量の問題(CCDセルへの入射角の問題)などが指摘されているようだが、それは35mmフルサイズ固有の問題ではなく、CCDというデバイスの技術的問題でしかない。技術が進めばそれは解決される。いや、解決されねばならない。そうでなければ、技術者など必要無い。 営業サイドからは当然ながら「35mmフルサイズCCDを開発しなければ他社に遅れをとる」と言われるだろう。我輩なら営業判断として絶対にそう言う。 もし技術者が「そんなのマウント変更しなけりゃ不可能ですよ。」と思ったとしても、それは技術者からは言えない。なぜなら、もしそんなことを言っておいて他社から出てしまえば、技術者はその責任を問われることになる。この競争の激しい分野において他社の後塵を拝すことになれば、もはや取り返しがつかないのだ。 「おまえ、この前出来ないって言ったろうがっ!じゃあなんで他社は出来たんだっ!」 営業も技術者も、次の就職先を探さねばならなくなる・・・。 だから、35mmフルサイズデジタル一眼レフカメラは必ず登場する運命と言える。 第二次大戦中のアメリカによる原爆開発のように、ドイツが開発する前に何としても開発せねばならないという強迫観念があった。出来るか出来ないかということよりも、やらねばならないという方向性があった。そしてそれは、誰にも止めることの出来ない流れであった。 そういう意味で、必ず登場する35mmフルサイズデジタルカメラではあったが、それがいつになるのか我輩には分からなかった。だからこそ我輩は、去年、APSサイズのD-30を購入する時にはかなり悩んだ。 24万円もの大金を投じてD-30を購入しようとも、その後に35mmフルサイズデジタルカメラが発売されれば陳腐化は即時的。画素数の問題ならば現状の用途を満たせば問題無かろうが、APSサイズのデジタルカメラは使いにくいのがハッキリしている。ファインダー像は小さく、画角も狭い。35mmフルサイズに比べて良い所など何も無い。 そのうち35mmフルサイズCCDの生産が安定すれば、売れなくなったAPSサイズのCCDの生産も減少する。そうなれば、いずれ35mmフルサイズのCCDのほうが割安となろう。 しかし、コンパクトカメラタイプが多勢を占めるデジタルカメラ界にあっては、APSサイズとは言え一眼レフであることは貴重だった。それ故、我輩は敢えてD-30を入手したのだ。 結局は、中途半端な存在としていつか忘れ去られるD-30。 銀塩カメラにも、過去には「OLYMPUS OM-101(マニュアル電動フォーカス機)」や「Nikon F-601M(AFモドキのMF機)」などという珍機が現れたものだった。D-30もこれらと同様に殿堂入りを果たすのか・・・? だがそれも、安価に35mmフルサイズデジタルカメラが入手出来れば問題無い。心の余裕を以て許すことが出来よう。 ---------------------------------------------------- [377] 2002年10月01日(火) 「キャノン」 キヤノンAシリーズのシャッター鳴き現象はかなり有名である。 「シャッター鳴き」などと呼ばれているから、我輩などは「シャッターの軸が油切れしたのだろうか?」と思っていたものだ。 しかし、実際に分解してみると、シャッターではなくミラーの駆動系の問題だと知った。ミラー上下に伴うバタつきを抑えるためのダンパーとして使われている減速器(ガバナー)が原因だった。この歯車の軸が油切れとなった時、高速回転するその歯車の軸が擦れてキュンキュン音を立てる。 ところで、今月の「写真工業10月号」はニコンFM3Aを特集していた。 その中で、FM3Aのミラー駆動系についての解説と図解があり、それによるとFM3Aはミラーショックを軽減するためのダンパーとして、フライホイールを使ったガバナーを採用しているとのこと。これは、キヤノンAシリーズと同様な方式である。 昔のFEやFMではエアダンパーを使っていたそうだが、スペース節約のためにFM2以降からガバナーに切り替えていたという。 FM2も1984年発売と、かなり昔のカメラである。発売年から数えて18年もの歳月が経っている。それにしても、今までFM2系でシャッター鳴きが起こったという話は聞いたことが無い。 同じような構造でありながら、キヤノンAシリーズではかなりの確率でシャッター鳴きが発生し、ニコンFM2では発生しないというのはどういうことか。 それは、企業の体質による。 キヤノンは元々新しい技術に意欲的であり、常に時代の最先端を行く企業である。 それと同時に、商売が非常に上手く要領が良い。 特に強化プラスチック(ABS)を大幅に採用し、一体成形によるコスト削減を推し進めた。その結果、安価な交換レンズでは金属によるヘリコイドではなくプラスチックのカムに変えられグラグラして頼りなく(ピント精度はAFで何となくカバーしている程度)、ちょっと打ち所が悪いとすぐに破損し重修理となる。製品自体が安いため、結局は価格以上の修理費を払って直す者などいない。これは、消費者の使い捨て意識を植え付ける一因にもなっている。全くけしからん。 耐久性など全く考えず、生産効率だけしか考えていないのだ。しかも、その手抜きが当初は分かりにくい。 そう言えば、キヤノンEOS600/700シリーズのシャッター油漏れもかなり有名。 これは、シャッターユニットに取り付けられたショック吸収用のゴムが劣化し、油状になってシャッター羽根に付着するというもの。放っておくとシャッタースピードが大幅に狂う。 かなりの確率で発症する症状であるため、これは欠陥と言って良いほどの問題であるのだが、発売から15年くらい経っているためかキヤノン側では時効が成立したとの認識で、修理には堂々と金を取っている(多少控えめな値段設定ではあるが)。 このような手抜きを得意とする企業であるため、長期間の使用を前提としたカメラ作りなど期待するべくも無い。 しかし、ユーザーが古いカメラを永く使うということは、新しい製品を買ってくれないということを意味する。キヤノンは企業という立場から、ユーザーが一定期間ごとに買い換えをしてくれるよう、積極的には耐久性の問題に取り組まなかったのだろう。 それはつまり、未必の故意の結果(敢えて耐久テストを行わなかった)とも言えなくも無い。 そうは言っても、利益ばかりを追求するのは真の企業とは言えない。企業というのは、社会に貢献してこそ企業である。そこは勘違いしてはならない。 人や社会にどのように役に立つ存在となるか、それこそが、その企業が存在するための意味である。 複雑な現代社会に於いて一つの役割を分担させてもらうこと、それが仕事と言える。そして、同じ仕事に取り組む集合体が企業である。 企業が自らの役割を考えれば、自ずと何をすべきかに行き当たることになろう。それが結果として利益を生むことに繋がる。もしそうでなければ、企業は金を搾取するだけの寄生虫である。金さえ儲かれば社会に貢献しなくとも良いというのでは、悪徳商法やヤクザと何ら変わらない。 キヤノンは今、自分を見失い、何をすべきかということを忘れている。 ユーザーを啓蒙し育てることすら忘れ、消費者の無知につけ込み、イメージだけで製品を安く売り捨てる。そこには、使い捨て時代の反省など全く無い。故障し修理に出そうとすれば、「新しいカメラを買ったほうが良いですよ」と言われるほど。確かに、店頭には安い新製品がズラリと並んでいる。たいていの者は、故障したボロカメラに金をかけるよりも、新型ボロカメラの購入を選ぶだろう。 こんな世の中、何か間違っている。「これが資本主義だ、これが世の中の流れだ」などと開き直るにしても程があろう。 キヤノンは社会に対する企業理念など微塵も無いのか? 適当にカメラを作って電子的につじつまを合わせるという企業キヤノンであるから、我輩は今後間違えて「キャノン」と書いてしまっても、面倒だから気にしないことにしよう。 そんなところに精度を求めても仕方無い。イヤなら読む時に「キヤノン」と修正すれば良いだけの話。 キャノンよ、そういうのはお得意なんだろう? (2002.10.02追記) そう言えば思い出したが、AL-1の電池室蓋も破損し易く、その不具合の個体をよく見かける。我輩の場合はハンダコテでプラスチックを補修出来たのだが、一般人ならばそれも出来まい。 たった1つの部品の強度が足らないばかりに立派な一眼レフカメラが用無しとなるとは本当に消費者泣かせと言うほか無い。 それにしても、電池接点用バネの強い力に対して小さなプラスチック部品で留めているというのも無謀な設計だな・・・。 ---------------------------------------------------- [378] 2002年10月13日(日) 「職場写真」 NHKで「プロジェクトX」という番組がある。 広く使われている製品、ヒット商品、大規模建築、様々な偉業・・・。それらを生み出した人物や企業に焦点を当て、当時のエピソードをドラマチックに描く番組。 最近は、VHSビデオの開発ストーリーが映画化されたと聞く。 この番組では再現シーンが幾つか挿入されるが、それ以外は当時のスナップ写真をストップモーションで映し出し、それに淡々としたナレーションを被せている。それらの写真は、開発者それぞれのスナップであったり、メンバーの集合写真であったりする。中には、開発中と思われるような臨場的スナップもあった。 それにしても、番組を観ていつも思うことだが、登場する人物たちの写真がよく存在するものだと感心する。これらスナップ写真はどのようにして撮られているのだろうか。 我輩の場合、振り返ってみると職場関係のスナップのほとんどが飲み会等のシーンである。職場の日常スナップや集合写真などは全く無い。仕事をしていて写真に撮られるような機会など、どう考えても滅多に無かろう。 万一、何かの巡り合わせで我輩が偉業を成し遂げることになり、さらに「プロジェクトX」で紹介されるとしたら、我輩が用意出来る職場の写真など全く無い。これでは番組編集スタッフも苦労することだろう。 それにしても、我輩が偉業を成し遂げるかどうかはともかく、果たして本当に職場の写真は無いのか?それは多少気になる。もしかしたら、忘れられた写真がどこかにあるかも知れない。 そこで、久しぶりに写真の整理をすることにした。 昔はデジタルカメラも無く、またポラロイドパックも10枚撮り3千円と高価であるため、当時は手軽な撮影にはモノクロ写真を多用した。モノクロならば自家処理が原則であり、低コストで自分の思い通りに写真をコントロール出来る。 当時はT粒子というものを使った新モノクロフィルム「Kodak T-MAX」が目新しく、我輩もこのフィルムで高精細写真を追求していた。 当時、我輩は画質のみが写真の全てだと信じており、細かい描写が出来ているかどうかそればかりを考えて焼き上がった印画紙を隅から隅まで眺めていたものだった。 (もちろん、それはそれで写真の愉しみ方の一つと言える。粒状感の無いヌメッとした描写を見ると頭の中がスカッとした。実に気持ち良い。) 画質のみが写真の全てだということは、つまり被写体は何でも良いということでもある。 もっとも、被写体にこだわる時は本気の撮影であるから、モノクロなど使わずカラーリバーサルフィルムを使うだろう。モノクロであるから近所で目に付くものを撮影するのである。そして、すぐに帰って現像をした。 しかし近所の被写体など面白みも無い。すぐに飽きてしまい、次の身近な被写体を探していた。 「職場の写真でも撮ってみるか。」 当時、我輩はホストコンピュータのオペレータをやっていた。つまり、我輩の職場とはホストコンピュータのマシンルームのことである。滅多に撮るような場所でもないため、良い機会かとも考えた。何より、ゴチャゴチャ写って面白そうに思う。 だが、いくら大型エアコンやハードディスクの稼働音が響いていようとも、ゼンザブロニカの大きなシャッター音が皆の注目を集めるだろう。狙うなら、休日の当直日か。 当直日、我輩はカメラを持参しマシンルームに入った。当然ながら誰もいない。 コンソールからメインスイッチを入れる。ハードディスクを1基ずつ始動させると、段々と回転音が高まって行く。オペレーションマニュアルを見ながら起動プロセスを1つ1つ実行した。 全ての準備が揃いジョブが実行出来るようになるまでには暫く待たねばならない。 その間にカバンからゼンザブロニカを取り出し、40mm広角レンズを装着した。 ウェストレベルファインダーを上から覗き、左右反対に見えるその風景に向かってシャッターを切った・・・。 <<画像ファイルあり>> 今思うと、この写真は懐かしい職場の風景を収めた貴重なカットである。 人こそ写っていないが、我輩の記憶を補強するためのインデックスとなった。 「プロジェクトX」のような派手なプロジェクトとは全く縁が無いが、自分の辿った道というものは、あくまで本人にとっては1つのドラマである。 現在は装置全体が更新され、この風景はもはや無いと聞く。 我輩にとって貴重な職場の写真。 「プロジェクトX」のナレーションが聞こえてくるような気がした・・・。 ---------------------------------------------------- [379] 2002年10月26日(土) 「不真面目さの指標」 エンゲル係数とは、家計の総支出のうち食費の占める割合のことをいう。 これは生活水準の一つの指標であるとされる。つまり、食費の割合が高ければ喰うのに精一杯だということになろうか。 さて、我輩が営業となって1年半、ずっと使い続けているカバンがある。 営業用としての特別仕立てのカバンではなく、以前購入したノートパソコン「SHARP/Mebius PC-RJ950R」にオマケで付いてきた布製カバンである。 以前我輩が開発の仕事をしている時に付き合いのあった営業は、物々しいカバンを幾つも持っていた。それを見るたび、「やはり営業はカバンが違うな」と思ったものだ。 だが、我輩が営業に転向した時は慌ただしく、カバンをゆっくり吟味する間も無く手元にあったその布製カバンを使い始めた。営業カバンとして最低限必要な肩ヒモがあったのがその理由。もし肩ヒモが無ければ両手がフリーにならず、納品物などを収めた段ボール箱が抱えられない。台車も押しづらい。 いつかはしっかりした営業カバンを買おうかと考えているのだが、惰性により現状のカバンのまま。 我輩の担当する営業業務は印刷営業であるから、紙関係のやりとりが多い。だから、納品物は元々カバンに入るようなボリュームではない。よって、カバン自体には多くの荷物が入らなくとも良い。 そのため、我輩のカバンには営業活動とは関係の無いものも多く、その割合があたかもエンゲル係数の如く、営業としての不真面目さを指標している。 先日、中判魚眼カメラを自作したという話を書いたが、その魚眼カメラは失敗率が非常に高く、特に内面反射の処理を試行錯誤している段階である。大丈夫だと思っても、思わぬ条件で光の乱反射がフィルム面にカブり、白内障のように白く霞む。 また、このカメラは目測式であるからピント合わせも難しく、ピンボケのカットが多くなりがち。超広角レンズであるから最短撮影距離が近く、数センチズレれば思い切りピントを外すことになる。そのため携帯式のメジャーをカメラに取り付けて計測出来るようにした。 このように日頃から実写を重ねることにより、より安定したカットを撮影出来るよう努力しているのである。 幸いなことにこの魚眼カメラは比較的コンパクトであるので、外出時には営業カバンに携帯し撮影している。 他にも、魚眼レンズの測光用としてデジタルカメラを使っている。これもコンパクトなため、カバンに入れても負担にならない。 さらに通常の撮影用として、35mm判カメラもカバンの底に沈めている。コンパクトカメラ「RICOH 35R」である。安いカメラであるから壊れても惜しくない。 もちろん、カメラ以外にもアイテムはある。 手帳と名刺入れは営業として欠かせない。それに、不慮の雨に対して折り畳み傘が必要。 小型ライトは、大地震に備えた最低限の装備である。地下鉄や地下街での被災(恐らく地上よりは安全だろうが電力供給が停止する)や、通勤難民になった時のことを想定している。 それから、職場と自宅の行き来でデータを共有させるため40GBのUSB2.0仕様ハードディスクを持ち歩く。 弁当については、午前中までは重いが午後は消えるのでその分の荷物が軽くなる。 しかしそれにしても、こうして見るとやはりカメラ関係の割合は大きく、営業としての不真面目さを明確に指標している・・・。 <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [380] 2002年11月04日(月) 中判魚眼レンズへの道(4)「残る後悔」 少し前の話だが、後悔無く生きるという我輩の気持ちは、Nikon F3関連のアクセサリを自宅に在庫するという行動を起こさせた。 自分に適したカメラに行き着いた我輩は、一生付き合うという覚悟が出来ていた。だからこそ、現状のシステムを拡充すべくアクセサリ購入に邁進したのである(参考:雑文152「7年目」)。 とは言うものの、実際には不必要なアクセサリもあろう。だが、それは現在の我輩が判断出来ることではなく、未来に於いて、その時その場で判断されるべきこと。 後になって、いくら必要を感じたアクセサリがあろうとも、それを所有していなければ話にならない。未来には最新カメラのアクセサリしか存在せず、必要を感じた旧製品のアクセサリ入手は困難を極める。場合によっては金次第、運次第ともなる。当時は必要と考えなかった程度のアクセサリであるから、それを所有している者も多いはずも無く、中古市場に出回るチャンスも少ないのだから当然。 もちろん、同一メーカーのカメラ同士であれば、新旧あれどそれなりのアクセサリ互換性は保たれよう。だが、1世代目と2世代目のカメラに互換性があり、また2世代目と3世代目のカメラにも互換性があろうとも、1世代目と3世代目に互換性があるとは限らない。それぞれの互換性とは近似でしかない。仮に互換性が残されていたとしても、それは「機能制限付き」という但し書きが付く。その結果、アクセサリはカメラを買い換えると総入替えを余儀無くされる。 例えば、所有する旧機種のカメラにリモートレリーズスイッチが必要となったとしても、もはやその時点では対応するアクセサリは入手不可能。現行機種対応のアクセサリしか無い。そのアクセサリがどうしても必要であるならば、状況によってはカメラそのものから丸ごと買い換えねばなるまい。 望みもしないタイマー機能などを盛り込んだために互換性を失ったならば、消費者としても「買わされる」という想いを強くする。新機種への買い換えの動機が、ただひとつ、その小さなリモートレリーズスイッチへの対応だとすると、これほどバカな話も無い。 旧いカメラを使い続けようとすればアクセサリの製造中止の問題に阻まれ、新しいカメラを導入しようとすれば既存のアクセサリが無駄となる。それならばいっそ、メーカーの在庫管理に委ねること無く、自らの努力範囲で在庫管理を行おうという考えも起こる。これならば、いくらアクセサリが製造中止になろうが、あるいはメーカーが倒産しようが、大きな影響は受けずに済む。新機種を追い続けなければならないという必然性も無くなる。 とは言うものの、本当に全アクセサリをくまなく揃えるのも無駄がある。自分にとって明らかに必要の無いアクセサリはある程度除外し、「いつか使うかも知れない」と思えるアクセサリを徹底的に買いまくるのだ。 特に、単価が安くかつ販売中止後には手に入りにくいと思われる小物は躊躇せず根こそぎ買うべし。我輩の例で言えば、F3のファインダースクリーンはこの手の買い方をした。とにかく全種類集めて在庫しておき、後で必要となった物だけを使えば良い。買った物全てを使わねばならないという規則など無い。 よく、「使わぬ機材が泣いている」などという子供じみた擬人表現をする者もいるが、いくらなんでも使わぬ機材に念が入ることは無いので、その点は安心しろ。逆に、使い尽くした機材は使用者の念が宿る場合があるため、廃棄するならば針供養の如く厚く供養し感謝ののち行うべし。 それでも使わぬ機材が泣くぞと言うならば、世界中に数多く眠る核兵器を余さず使い尽くしてやれ。核兵器ほど使われず無駄に終わる物も無かろう。 まあともかく、買えずじまいで後悔するのが一番バカらしくみじめだ。単価が安い物であれば、カタログに載っているものを片っ端から買い求めるのが大切。出来れば、1つよりも2つ、2つよりも3つあるほうが良い。もし不要であれば売却してしまえば済む話。今の時代、オークションでも気軽に出品出来る。 だが、買っておかなかったという後悔は、後々まで引きずる。 中古やオークションで手に入れば良いが、一期一会の出会いに期待するのはあまりにノンキと言えよう。その程度で良いのであれば、そもそも手に入れる意味などあるまい。 ところで先日、我輩の中判主力機ゼンザブロニカSQ-Aiの魚眼レンズが手に入らなかったという話を書いた(参考:雑文369「ドレイクの方程式」)。 我輩は、ブローニー判対応可能なフィルムスキャナを入手して以来、中判カメラの稼働率が向上した。意外にも、機動性ではなく画質にこだわる撮影が多いということか。 ところがふと気付くと、ゼンザブロニカSQ用レンズ「PS 35mm F3.5 フィッシュアイ」は、発売されてから4〜5年程度で販売終了となってしまった。その間、我輩は35mmカメラのシステム拡充のほうに気を取られており、しばらくはそのレンズの存在すら知らなかった。 しかも、購入を考えた時になってやっと、生産終了により注文出来ないとことを知った。何しろ、いまだにカタログには掲載されているし、タムロン(ブロニカ)のサイトには販売終了の文字は見あたらず、事前に気付く手段が無い。 今まで何度も後悔してきたが、今回だけは大きくしくじった。慌てて全国のオンラインショップを見て回ったが、新品はおろか中古品さえ無い。サーチエンジンにてどんなに検索しようと、メーカーのサイトと外国のショップ以外は何も出てこない。そればかりか、個人のサイトさえヒットしないのである。 この魚眼レンズを使っている者など、国内にはどこにもいないのか? 後悔無く生きるよう気を付けていたつもりだが、それでもこのような事態に陥るとは何たることか・・・。 製品の存在自体を知らなかったとは言え、それを逃したのは我輩の責任に他ならない。 主力機の最新カタログを常にチェックし、必要と思われるアクセサリは必要とする前にストックしておくべきだった。借金をしてでも手に入れるべきであった。 ゼンザブロニカなどという弱小ブランドのカメラでは、いつアクセサリが消えても不思議ではない。67サイズのブロニカGSシリーズがシステム丸ごと生産終了になるくらいである。ブランドそのものの消滅を覚悟した買い物を今のうちに済ませておく。それが、後悔を未然に防ぐ唯一無二の方法なのだ。 結局、我輩は自作への道を選ぶことになったが(参考:雑文371「最後の賭け」)、それによっていくつかの問題が発生したのも事実。 ゼンザブロニカSQ-Ai用フィッシュアイレンズを補うものは、やはり、ゼンザブロニカSQ-Ai用フィッシュアイレンズ以外に無い。我輩は、あらためてそのことを思い知った。 残る後悔は消えぬ・・・。 ---------------------------------------------------- [381] 2002年11月07日(木) 中判魚眼レンズへの道(5)「やむを得ない措置」 中判カメラで全周(円周)魚眼撮影を行うには、現時点では自作する以外に選択肢は無い。 そのため我輩は、自分を信じて自作を敢行した。 その結果は・・・、何とも言い難い。 なぜにこのような歯切れの悪い言い方となるのか。それは、魚眼レンズの精密さにあった。 天文関係の雑誌やサイトを見ると、皆一様に「フィルム吸引加工」を行っている。夜間の長時間露光により、途中でフィルムが浮き上がってしまいフォーカス面から外れてしまうのを防ぐためだという。 そのためにフィルム圧板に空気抜きの穴とホースを設置したり、裏紙の無い220フィルムを使ったり、場合によっては120フィルムの裏紙を取るなどそれなりの努力をしている。 我輩は当初、これらはマニアな天文野郎の過剰処理だと思っていた。星の光を限りなく点として撮影したいというこだわりを突き詰めたものだと思っていた。 だが実際に自作魚眼カメラの写真を見ると、それが間違いであることが判った。画面中心部近くのピントが甘いのである。明らかにフィルムが浮いている証拠。 試しにフィルムバックにフィルムを装填して観察すると、どうやら本当に中心部分が浮いているようだ。指で押してみると、フィルムの浮きは感覚的には0.5mmほどか。他のフィルムバックを確かめてみたが、やはりそれくらいの浮きが認められる。 0.5mmというと僅かなように感じるかも知れないが、魚眼レンズでは0.5mmのフィルムの浮きは、無限遠から50cmくらいまでのフォーカス移動に相当する。つまり、ピントを50cmの距離に合わせたつもりが、フィルムの浮いている中心部だけが無限遠にピントを合わせていることになる。 以下に、合焦ポイントの分布を示し、そこから推測されるフィルムの状態を描いてみた。 <<画像ファイルあり>> カメラ製作当初は、その問題が表面化しなかった。 まだ気温が高くフィルムが硬くなかったせいもあるかも知れない。あるいは、撮影の機会が今より少なかったためフィルム浮き現象に当たる確率が小さかったためかも知れない。またあるいは、日差しの強い季節に絞りが大きく被写界深度が深かったためかも知れない。 いずれにせよ、フィルムの浮き上がりが現実に起こっているのであるから、もしこれを解決させるのであれば天体野郎のやっているように吸引加工を施さねばなるまい。しかし吸引加工を行うと吸引ホースなどを付ることになり、せっかくのコンパクト性を失う。それにより撮影シーンを狭めてしまうのは非常に残念である。 以下の写真は、コンパクト性を活かして撮影した飲み会のスナップである。 吸引ホースなどが取り付けられていたら、カバンからヒョイと取り出して気軽に撮影は出来なかったはず。床やテーブルに直(じか)置きしてセルフタイマーをネジ込み撮影する気軽さ。それ無くしてこの写真は無かった。 写されるほうもそのほうが気楽であろう。 <<画像ファイルあり>> 居酒屋「だんの家」/田町 1/2sec. F2.8/Kodak EPP <<画像ファイルあり>> 居酒屋「藩」/田町 1sec. F2.8/Kodak EPP この撮影の時点では、フィルム浮きの問題は既に認識しており、多少ピントの不安はあった。我輩はその不安を振り払うように次のように宣言した。 「成功する確率は50パーセント。というわけで2枚ずつ写そう。そうすれば確率100パーセント!」 酔いが醒めた後で考えると、50パーセントの確率を2つ重ねても100パーセントではないことに気付いたが、まあそれは誰も指摘してこなかったので無かったことにする。 幸運なことに、このスナップでは絞り開放で撮影したにも関わらず、ピントの外れは全く無かった。飲み会の盛り上がりのせいで温度が上昇していたせいか? とにかく現状では、F5.6〜開放絞りによる撮影ではピントに自信が持てない。F8以上に絞れば被写界深度で何とかカバー出来そうだが、それでは撮影シーンが限定される。何と言っても、他の種類のレンズでは得られない全周魚眼レンズである。成功率は良くないが、使うべき時に使うことにしよう。それまでの間は、試し撃ちの意味で経験を積み、少しでも成功率を上げるよう努めるとする。 以上のように、全周魚眼については個性のある写真が撮れるために制限付きであろうとも仕方が無い。 だがそれとは別に、安定して撮影が出来る魚眼カメラも欲しいと思う。 つまり、対角線魚眼でも構わないというシーンでは、確実さを優先させるため被写界深度が目視出来る一眼レフが良い。それにはどうしても、自作カメラではなく既製品が必要となる。 我輩は中判を66判でしか使わない。とにかく66判で使える魚眼レンズ、それが我輩の条件である。 厳しいことに、この条件に当てはまるカメラやレンズはハッセルブラッドなどの非常に高価な物しか存在しない。前回の雑文でも書いたが、比較的安価な「ゼンザブロニカPS 35mm F3.5 フィッシュアイ」もタッチの差で販売終了となってしまった。 そこで今回、以前から気になっていたロシア製魚眼レンズを考えることにした。 ロシア製のカメラ機材は、雑文325「ロシア製デッドコピー」でも述べた通り信頼の足る代物ではない。しかし、カメラ本体に比べて複雑なメカニズムの少ない交換レンズでは、そこそこに評判が良い様子。 インターネット上を色々と巡ってみると、66判用の対角線魚眼レンズ「ARSAT 30mm F3.5」や「zodiak 30mm F3.5」が安価に出回っているとのこと。2〜3万円程度らしい。 ただし、このレンズはすでに製造元でも生産終了となっており、輸入業者のほうでも入荷未定となっている。ということは、購入するならば選択肢は中古のみ。 それでも「ゼンザブロニカPS 35mm F3.5 フィッシュアイ」のようにモノが全く存在しないということはない。インターネットのオークションにも時々出品されるのを見掛ける。モノ自体が世の中に存在するため、待っていればいつかは巡り会えるということだ。 しかし大きな問題がある。 これらのレンズが使えるカメラボディの種類が限られている。旧東ドイツ製の「PENTACON 6」や、それをコピーしたロシア製「Kiev 6C」、「Kiev 60」、そしてハッセルブラッドをコピーした同じくロシア製「Kiev 88」、そして「PENTACON 6」の改良モデルの「EXAKTA 66」など。 それらは宿命的に背負った不具合を抱え、インターネット上では、例えばコマとコマが重なったり特定のシャッタースピードが切れないなどという体験談が非常に多く目立つ。 これならば、我輩のピントの曖昧な自作カメラで撮影するのと何ら変わらない。安定して使えないのであれば、わざわざ対角線魚眼レンズで妥協する意味が無くなってしまう。 そうは言っても、一眼レフファインダーによって被写界深度がその場で確認出来るのは強みである。何とか使えるカメラは無いものか? 色々と悩みながら、更にインターネット上の情報を探っていると、不具合なカメラでも個体の選び方次第や使い方次第で何とかなる場合があると知った。 ただしそれらの情報は我輩が実際に体験した内容ではないため、真偽のほどは定かではない。しかし、複数のサイトや掲示板に書かれていることであるから、単なる思い込みや勘違いということも無かろう。 情報を総合して考えると、どうやら「Kiev 6C」というカメラが他のカメラと比べて幾分マシなようだ。もっとも、個体差の激しいロシア製カメラであるため、その機種を選んだだけでは安心出来ることでもない。 そうこうしているうち、インターネットのオークションに対角線魚眼レンズ「zodiak 30mm F3.5」が出品された。この段階ではカメラボディの問題が未解決であったのだが、目の前に目的のレンズが出品されているのを黙って見過ごすわけにもいかず、ついにそのレンズを落札してしまった。 後になって、よく吟味して手に入れるべきだったかも知れないとは思ったが、再び後悔するような事態を避けたかったのだから仕方あるまい。要らなければ売れば良い話。 <<画像ファイルあり>> zodiak 30mm F3.5 それにしても、意外と見事なレンズ外観。金属製の鏡胴がズシリと重い。特に、ピントリングはゴムのローレットではなく金属を彫ったものであることに気付き少し驚いた。このような造りは、かえって手間がかかるのではと思う。 今のところ、このレンズの写り具合は全く不明。これを装着するカメラボディが未だ手元に無いから仕方無い。 まあ、カメラボディのことは後で考えることとし、とりあえず今回は、生産終了の魚眼レンズ入手を優先させたことで良しとしよう。 使うかどうか分からないレンズの購入、自分でもかなり乱暴な買い方だったという気もするが、後悔を最小限に抑えるためのやむを得ない措置だと割り切るしか無い。 このレンズは人気であるらしく、生産終了となってから値段が少し上昇傾向にあるという。我輩が手に入れた4万円という値段は少し高めだったかも知れないが、人気があるならばと自分を納得させて次の手をゆっくりと考えよう。 もしかしたら、もっと別の展開があるかも知れないからな・・・。 ---------------------------------------------------- [382] 2002年11月10日(日) 「里帰り」 対角線魚眼レンズ「zodiak 30mm F3.5」を入手した後、ゆっくりとカメラボディの問題を考えようと思ったが、結局のところ、考える余地はあまり無い。どれを選んでも似たり寄ったり。 ただ、インターネット上の情報から考えると、「Kiev 6C」が他より幾分マシだと感じた。使い方さえ間違わなければ、不具合の発生は最小限に抑えられる(ような気がする)。 それにしても、いざ「Kiev 6C」を探そうとするとなかなか見付からない。 「Kiev 60」のほうは現在でも生産中のカメラのようで、オンラインショップやオークションでは頻繁に見掛けるのだが、旧型「Kiev 6C」は過去のカメラであるためか、なかなか出会うことが無いのである。 普通ならば改良型のカメラのほうが良さそうに思えるが、実は旧型のほうが丁寧に造られているらしい。 仕方無いので、予約受付中となっていたロシアカメラ取扱店「King-2」のほうで「Kiev 6C」を予約した。恐らくここは、一定数の予約を取ってロシアに買い付けに行くのであろう。 個人サイトの情報を見ると、予約して入手するまで2ヶ月かかったという。まあ、ちゃんとしたモノが届くならば、それくらいは待つことにしよう。 そうは言っても、現時点で予約後2週間経った。カメラボディの無い状態では色々と不安になる。果たして満足に写真が撮れるのだろうか? そもそも、ゼンザブロニカの魚眼レンズさえあれば、そんな心配事をしなくても済んだのだ。 「コーワ6」の全周魚眼レンズのように、はるか数十年前に生産終了したものならいざ知らず、「ゼンザブロニカPS 35mm F3.5 フィッシュアイ」は、ほんの数ヶ月前には販売されていた現役であった。 しかも、店頭で手に取るカタログやタムロン/ブロニカのサイトには、このレンズがいまだに現行品として掲載されており、本当に生産終了の直後であると感じさせる。ほんの少し早ければ、普通に手に入れることが出来たはずなのだ。それがまた、後悔の念を増幅させている。 「まだどこかに残っているのではないか・・・?」我輩はふと、そう思った。以前、雑文092「逃げ遅れたレンズ」で書いた時のように、まだどこかに逃げ遅れたものが日本のどこかにあるかも知れない。 ところが、いくら探しても手掛かりとなる情報はインターネットからは出て来ない。比較的ニーズの多いセミ判(645)のゼンザブロニカETR-Si用フィッシュアイレンズならば、在庫を持っている店はいくつか見付かった。確かにETR-Si用フィッシュアイは現行品であるから在庫があるのは当たり前かも知れない。しかし、それならば我輩の探しているゼンザブロニカSQ-Ai用フィッシュアイも、生産中止と同時に物が消えることは無かろう。生産中止と言えども、店頭在庫さえあればそれが捌けるまで販売されているはず。 恐らく、セミ判に比べてマイナーな存在の66判であるから、そのフィッシュアイレンズなど購入する者は滅多におらず、事実上の受注生産とされていたのだろう。そうであれば、生産終了後直ちに販売不能となったことの説明となり、またそのことは全国の販売店には在庫が無いという根拠にもなる。 実は、カメラのキタムラでオンライン注文をして在庫無しと言われた後、ヨドバシカメラ経由でブロニカに問い合わせをし、メーカーにも在庫が全く無いという確認までした。ここまでやってダメならば、もう本当に手に入らないと悟った。 いくら金を積もうがダダをコネようが、存在しないものは存在しない。 それでも諦めの悪い我輩は、時々インターネットの検索エンジンで、微妙に検索キーを変えながら手掛かりになりそうな情報を探した。しかし検索でヒットするのは、何度やってもブロニカ・タムロンのサイトや外国のカメラショップのページだった。日本に無くとも外国には在庫があるらしい。 「クソ、日本メーカーの製品だというのに、なぜ日本国内では手に入らず外国では手に入るんだ!?」 やり場の無い怒りと虚しさ。 またいつものパターンではあるが、我輩は力が抜けて前のめりにバッタリと倒れ込んだ。 うつろな目で見える映像が、円形に歪んで見えるようだった。 外国のショップで買い物をするには、我輩にとって色々と障害がある。 何より言葉の問題が大きい。英語を訳すことは出来ても、英語を作文することが出来ない。仮に、大体の意味が相手に伝わったとしても、微妙な言い回しで思わぬ行き違いが起こり、それが元でトラブルとなることは十分予想される。海を隔てた外国とのトラブルは非常に面倒だ。 他にも、支払いはどのようにすれば最も良いのか、また、税関でどのような対応があるのかなど知らないことが多い。あるいは、我輩の思い付かないようなことで気を付けねばならないことがあるかも知れぬ。その時になって不都合が発覚し、そしてその対応を求められても、対応出来る内容ならば良いのだが・・・。 まあ、これらの心配事は、一度経験してしまえば何とも無いようなことかも知れない。ただ、無知というのは、人を大胆にさせる一方で人を臆病にもする。 少なくとも我輩は、トラブル無しで外国のオンラインショップを利用する自信が全く無い。 そういうこともあり、しばらくは日本国内に絞って相変わらず検索生活を送っていた。「ゼンザブロニカ」ではなく「ゼンザノン」と入力してみたり、「PS35mm」ではなく「PS35ミリ」と入れてみたり。 あまり検索キーを簡潔にすると、関係の無い情報まで引っかかってしまい情報の取捨選択が大変。かといってあまりに検索キーを特定し過ぎると、ほとんどヒットせず情報が得られない。 やはり、国内では無理か。そもそも、国内でこのレンズを所有している者などおるのか!? 我輩は次第に外国のショップで購入することを模索し始めた。 今はインターネット上で様々な情報が得られる時代である。もしかしたら、外国のオンラインショップで買い物をした者の体験談などがあるかも知れない。適当にあれこれ検索キーを入れて探してみた。 するとその中に、「New York Best Life.com」という輸入代行業者が浮かび上がった。 メニューの中に「輸入代行見積もりフォーム」というものがあり、買い物をしたいショップの該当ページURLを送信フォームにペーストして送れば良いらしい。 見積もりならば、とりあえずの手掛かりにはなろう。我輩としては、とにかく相談相手が欲しかった。 さて、肝心のショップはどれを選ぼうか。 改めて検索すると、いくつのショップが出てきた。 Adorama(http://www.adoramaphoto.com/) 中古$1,649.00 B&H(http://www.bhphotovideo.com/) 新品$1,699.00 warnersimaging(http://www.warnersimaging.co.uk/) 新品$1,488.62 AAA camera(http://www.aaacamera.com/) 新品$3,049.69 Split Image Photo(http://www.splitimagephoto.com/) 新品$1,699.95 Koh's Camera(http://kohscamera.com/) 中古$1,699.00 こうして見ると、価格差がかなり大きい。中古でも新品価格に匹敵しているのというのもスゴイ。値段を知らぬショップか、またはナメた商売をしているのか。 そうなると中古を選ぶ理由は無く、新品で買えるショップを選ぶことにする。その中で、$3,049.69の値を付けている「AAA camera」は除外し、それ以外のショップから選ぼう。 単純に最も安いのは$1,488.62という値段の「warnersimaging」であるが、輸入代行業者がニューヨーク所在であるから、ここは無難に、ニューヨークのショップ「B&H」に決めた。 我輩は早速、代行業社の見積もりフォームに必要事項を記入し、送信ボタンを押した。さて、どうなることやら。 その夜、見積もりがメール送信されてきた。恐らくこの時間は、ニューヨークでの昼間に相当するのだろう。 肝心の見積もり金額は、手数料込みで$2,097.84だった。まあ、そんなとこだろう。いずれにしても、我輩は今金が無い。家計から借金せねば購入することは不可能である。どうせ借りる金なら、買える買えないというボーダーはあまり気にすることもない。必要になった金額を借りれば良い。 日本国内ではもはや手に入らぬこの貴重なレンズ、もし手に入るならば、それだけで儲けモノ。逆に、何らかの理由で結果的に入手が不可能であったとしても、「借金せずに済んだ」と自分を励ますことも出来る。 支払いはクレジットカードを使うことになる。詳しくは知らないが、カード経由ならば「円」と「ドル」のやりとりは簡単にいくのだろう。 まあ、面倒なことは業者任せ。 数日後、業者から「指定された品物の買い付けが出来た」との連絡があった。きわどいことに、買い付けたモノが最後の在庫だったらしい。確認のためにB&Hの該当ページを見ると、なるほど、表示が在庫切れとなっている。 その後、品物は日本へ向けて発送され、我輩は事前に知らされた伝票番号によってインターネット上で荷物を追跡することになった。 まず、現地郵便局で10月29日16:10に発送されたことが判った。 そして、10月29日19:16にはJFK空港から日本へ向けて飛び立ったということも判った。 更に、11月2日21:40には国内局に届けられ、日曜祭日と続いた11月3〜4日を飛ばし、11月5日16:51には税関に入ったと画面に表示された。 ところがしばらく待っても、税関に入ったまま出てこない。 代行業社の担当者はその様子を見て心配したのか、「日曜祭日が続いたので、順番待ちかも知れません」と言ってくれた。しかし6日の夕方、税関からハガキが届き、商品の価格が分からないので提示するよう指示された。関税を算出するために必要らしい。面倒だな、代行業社は価格が分かるようにして梱包しなかったのか? 理由はともかく、急いでハガキに価格を記入しポストに投函した。 それからしばらく経った11月8日19:20、やっと荷物が浦和の配達局へと発送されたという表示に切り替わった。このぶんでは9日に届くのではないかと期待した。 代行業社からのメールも、安心したというような雰囲気を文面から感じた。 次の日の11月9日午前中、我輩が遅くまで寝ていると玄関のチャイムが鳴った。 「レンズか!?」 我輩は飛び起き、玄関の戸を開けた。やはり、例のレンズだった。まるでクリスマスプレゼントをもらった子供のような気持ちだった。 我輩は関税6,400円を支払い、荷物を受け取った。 玄関の戸を閉めるとすぐ、乱暴に梱包を解き、レンズを確認した。 「ああ、確かにこのレンズだ。素晴らしい。しかし本当に手に入るとはな。」 我輩は感無量だった。 <<画像ファイルあり>> Fisheye ZENZANON PS35mm F3.5 <<画像ファイルあり>> PS40mm F4.0(左)とPS35mm F3.5(右)の比較 そんな我輩とは対照的にヘナチョコ妻は、我輩が散らかした梱包材を何とかしてくれと文句を言った。「男のロマンを理解せぬとは許せん!」とは思ったが、金を借りた弱みもあり、素直に梱包材の片付けを始めた。箱も潰し、まとめてゴミの日に出す。 その時、箱の底にある一つの封筒が目に付いた。 中を見ると、商品価格の記述だった。これは、税関に提示するための資料である。これが箱の底にあったため、係員に気付かれなかったのだと想像した。しかしなぜ底に? 答えは全く単純。 税関では、表に貼り付けられた宛名伝票を避けるため、箱を裏返しにして開封したのである。その証拠に、税関の封印テープが底に貼られていた。 「内箱を外箱から完全に出さなかったな。」 つまらないことで4日ほど浪費してしまったが、まあ、無事に届いたので良しとする。 <<画像ファイルあり>> モノクロは自家現像可能であるため、今回のテスト撮影に使った。 考えてみれば、このレンズは元々日本製。それが再び日本に帰ってくるとは。 これはまさしく「里帰り」という感じか。 それにしても、ここまでの道のりは長かった。 これでやっと、ゼンザブロニカSQ-Aiのレンズシステムが完成した。もはや35mmカメラと同じ条件で機材を選ぶことが出来る。 嬉しいことに、代行業社の担当者もまた、同じように喜んでくれた。また何かあれば、再びこの業者を使わせてもらうことにしよう。 ・・・もちろん、借金返済後にな。 <<画像ファイルあり>> ●PS35mm F3.5●PS40mm F4.0●PS65mm F4.0●PS110mm F4.0●PS180mm F4.5●S250mm F5.6 ---------------------------------------------------- [383] 2002年11月12日(火) 「魚眼レンズ観」 魚眼レンズは特殊な範疇のレンズであり、通常の撮影では使われることが無い。 その独特なディフォルメ効果は、被写体を非現実的な形へと変形させる。そのため、一般撮影として「見たままの形」を描写する用途としては不適当なレンズと言える。 魚眼レンズは大きく分けて「全円周魚眼」と「対角線魚眼」の2種類がある。 「全円周魚眼」は、画角180度前後に含まれる全てのものが円形に写り込む。 「対角線魚眼」は、全円周魚眼のような円形にならぬようイメージサークルが画面の外までハミ出るようになっている。その結果、180度の画角は対角線でのみ実現されることになる。 (それ以前に射影方式による違いもあるが、商品としての選択肢は全く無いのでここでは触れない。) 理由は分からないが、MF時代には全円周魚眼レンズは当たり前のように各メーカーにラインナップされていたが、AFシステムが主流となった現在では、対角線魚眼レンズ止まりで全円周魚眼レンズは用意されていない。唯一、レンズメーカーのシグマから発売されるのみ。 恐らく、全円周レンズは一般向け用途としては使いにくく、あまり売れないのではないかと推測する。 そう言えば、ゼンザブロニカの対角線魚眼レンズも入手するのに一苦労だった。魚眼レンズ自体、あまり売れないというのは疑いようが無い。 魚眼レンズが使いにくいというのは、使い手の思想に影響すると我輩は見る。 写真を芸術として捉えるのか、あるいは記録として捉えるのか。更に、記録するにしてもディフォルメを許さず見たままを記録するのか、それとも写角を優先しディフォルメを許すのか。 写真を趣味として見た場合、大抵は写真を芸術(表現手段)として捉えていると思う。 シャッタースピードや絞り値、フィルター、フィルムのタイプ、交換レンズなどの要素は、写真の表現手段として自分のイメージに合うよう選択される。 それら要素の選択パターンは人それぞれに個性があり、それが写真を表現手法たらしめていると言える。逆に、表現手法を単に奇をてらうために使うのであれば、同じ表現手段はすぐに飽きてしまい個性として昇華させるに至らない。 魚眼レンズは他の一般的なレンズと違い、その描写には強烈な個性がある。そのため芸術として捉えるならば、それはお手軽な表現手法の一つとなる。円形に歪んだディフォルメは、日常風景を非日常に変え、それだけで芸術写真を撮ったような錯覚に陥る。これは、LOMOグラフィーにも似る。 このような特殊なレンズを芸術の域で使い続けるには、自分なりの思想無くば難しい。思想無く多用し続ければ、いずれその手法に飽きてくる。 よって、一般の趣味人にとっては、魚眼レンズを通常のレンズと同列に扱い日常的に使うことは難しい。 さて一方、写真を記録として見た場合、その多くは見た目そのままを写真として残すことを目的としている。 例えば、家族写真や旅行、学校行事撮影などがそれに相当する。 たまに、家族写真で魚眼レンズを使い不評を買ってしまったという話を聞くのは、記録の目的として「見たままを写す」ということから外れているからである。魚眼レンズによるディフォルメだと理解していたとしても、自分の顔が歪んで写されるのは面白くない。 ただ、記録とは言っても形状にこだわらずに写る範囲を優先させるという使い方もある。 我輩が最初に魚眼写真を目にしたのは、子供向け図鑑の中の「宇宙・気象編」に掲載されていた雲量測定の写真だった。青空一面の白い雲が、地上の風景を円周ギリギリにまで取り込みながら見事に1枚の全周魚眼写真に凝縮されていた。それは子供の目にも、大きな説得力を持った写真として映った。 さらにその後、科学雑誌Newtonでスペースシャトル・コロンビアの初打ち上げが特集され、その船内の魚眼写真(確か対角線魚眼)を目にした。狭い船内を見事に捉えた良い写真だった。我輩が直接見ることの出来ない狭い船内を、実に良く伝えてくれた。 これらの写真は、我輩にとって魚眼レンズの第一印象を決めたと言って良い。 芸術だの、表現方法だの、そういう軟弱なことを議論する余地など全く無く、「180度の写角が必要であるから使った」とハッキリ解る、明快な存在意義を持った写真だった。 1982年、福岡で「ふくおか'82大博覧会」が開催された。実物大スペースシャトルの模型や巨大屋外テレビ「オーロラビジョン」が展示されており、中でもジェミニ宇宙船の実物展示には目を引いた。その底面は大気との摩擦で焼け焦げており、実際に宇宙へ行ったということを実感し興奮した。 しかも、その展示にはタラップが設置されており、列に並べばその宇宙船のコクピットの様子が見られるようになっていた。 我輩は手に入れたばかりの一眼レフ「Canon AE-1」と「NewFD 50mmF1.8」、そしてストロボ「188A」を装着し、列に並んで順番を待った。 実際に目の前に見るそのコクピットは、思った以上に狭く小さかった。50mmレンズでは、その一部しかファインダーに映らない。そのままシャッターを切るしか無かった。 <<画像ファイルあり>> 写真は、ストロボもうまく調光し写り自体は良かった。欲を言えば、雑誌Newtonに掲載された魚眼写真のように、可能な限り視野を凝縮させてフィルムに焼き込みたかった。 我輩が初めて、魚眼レンズを意識した瞬間だった。 また、それと同じくらいの時期だったと思うが、我輩はしばしば友人と学校の校庭や刈り取り後の田んぼの中で星の観測をしていた。満天の星空に自分の存在の小ささを、寒さに足踏みをしながら感じた。 そのあまりに広い視野に広がる夜空の星は、確かに宇宙の半分が見えている。その様子を写真に捉えることは不可能。なぜならば、当時の我輩のカメラとレンズでは、その一部しか捉えられない。 ふと、幼い頃に図鑑で見た雲量測定写真が甦った。 我輩が二番目に魚眼レンズを意識した瞬間だった。 その場の空気を死角無く切り取る魚眼写真。 映像は歪んではいるが、我輩の脳内で展開され自分の周囲を包み込む。 もし、目に見えた形だけにこだわるならば、例えばピカソの絵など子供の落書きにしか見えまい。キャンバスという平面に、立体すら越えた人間の深い心を投影するには、その心を平面に展開し描き込む以外無い。それがピカソの絵画であり、理解する者を選ぶ理由である。 (ピカソの話は例えであり、我輩がピカソの絵を一番理解しているという話ではない。) 魚眼レンズのディフォルメは、何も、芸術を気取った描写では決して無い。あくまで、180度もの超視野を平面上で展開するための歪みである。我輩はその歪みに、平面では表現し切れない広い現実視野を体感する。現実視野の情報量を無理矢理詰め込んだ痕跡、それが、魚眼レンズの歪みであるのだ。 魚眼写真を見れば、そこにある風景が我輩を包み込む。あたかも、自分がその世界にいるかのように。 果たして、形だけにこだわる者に同じ風景を観ることが出来るだろうか。芸術抜きの魚眼写真を理解出来るだろうか。 しかし、他人が我輩と同じ風景を無理に観る必要など無い。雑文260「趣味性」でも書いた通り、我輩の趣味性は「情報量」に尽きる。他人に観せるために撮るのではなく、自分に観せるために撮る。それが我輩のこだわりであり、写真に求めるものである。 魚眼レンズは、その手段の一つとして我輩に必要な道具となった。 ---------------------------------------------------- [384] 2002年11月23日(土) 「日付」 写真に日付を入れることの出来るカメラは、現在の我輩所有カメラでは「CanonEOS630QD」しか無い。 だが、そのカメラでさえも今までに日付機能を使ったことが無い。やはり、写真に余計なものが写り込むのは良い気がしない。 その昔、日付写し込みのための機材は特注品扱いだった。大きな電卓のような外部入力機器を、カメラの裏ブタにケーブルで接続して使っていたそうである。学術用途のためか、写し込まれるのは日付ではなく任意の数字であったとのこと(もちろん任意の数字であるから、日付の数字を入れることは出来るだろう)。 しかし一般家庭においても、写真に日付が写し込まれることによりアルバムの整理がしやすくなるため、日付写し込みの需要そのものはあった。あくまでも、価格と大きさに問題があり特注品とされたのである。 しばらくして、カメラの裏ブタを交換することにより、一体型として日付写し込み機能が可能になるカメラが増えてきた。中には、レンズ側から日付を写し込むコンパクトカメラも現れた。しかし、日付をその都度セットしなければならないという手間がネックだった。間違えてセットしようものなら、後々混乱を招くことになる。 だがそれもすぐに改良され、デジタル時計(PENTAX LXのようにアナログ時計を写し込むものもあるが)を裏ブタに組み込むことにより日付セットの手間を無くした。撮影時の日付や時間がそのままフィルムに写し込まれる。 更に、機器そのものが小型化・低価格化が進み、現在ではごく当たり前の機能として定着している。時には、日付が入らないカメラが珍しがられたりもするほど。 我輩は、不要な機能は徹底的に切り落としたいタイプの人間であるので、「MINOLTA α-7700i」を購入した時は、わざわざクォーツデート機能の無いノーマル版のものを捜し歩いてやっと手に入れた。 一方、プロ用カメラとして名高い「Nikon F3」では、画面内に日付が写り込むのはあまり好まれないためかコマ間写し込み機能を持ったアクセサリ「データバックMF-18」が現れた。この機能は、よほどコマ間隔が安定していなければ組み込めない。高速巻上げを行うモータードライブによってコマ間隔が少しでも狂うことになれば、画面内に被ることもあり得る。ニコンのことであるから、それなりの自信があってこその機能だったろう。 このような写し込み機能は、業務用としてはもちろんのこと、我輩のように余計な写し込みによって作画を邪魔されたくない者にとっては非常に有用である。ただそうは言っても、モータードライブ併用でなければならないのも不便な話。日付情報の必要な家族写真などにモータードライブを持ち出すことも難しい。 何より、「データバックMF-18」の出っ張りは、モータードライブを着脱する用途に使うF3では邪魔となり、事実上、モータードライブ付けっ放しのF3でしか使えぬ。 (取扱説明書によると、カメラにフィルムが装填されている状態でモータードライブの着脱を行うとカブリが生じる危険性があるとのこと。我輩はそれを承知で、パトローネの軸から光が漏れないよう注意して行うことがある。作業中にカメラを逆さまにすると、パトローネ軸が僅かに底から離れ隙間から光漏れを起こすので要注意。) さて、我輩のメインカメラは35mm判は「Nikon F3」、中判は「BRONICA SQ-Ai」となっている。 F3については、前述のようにモータードライブを常用した使い方をしていないため、モータードライブ専用の「データバックMF-18」は使えない。またSQ-Aiには、日付写し込み機能を持つアクセサリは初めから用意されていない。 こうなると、フィルム現像後にどのカットがいつ撮られたのかということが分からなくなることがある。特に、自宅での撮影は外出等のイベントとは異なり日常的で記憶が曖昧になる。 芸術性を優先させた写真であれば、特に日付などどうでも良いのであるが、家族写真などは日付情報が無いと見る目に物足りない。そのような写真には日付をぜひ記入しておきたい。 そこで、フィルム現像後、記憶を頼りに色々と推測することになる。 以下、推測した写真の例をいくつか挙げてみた。 ●写真1 自室で撮影した1枚の写真。 日付がどうしても思い出せない。 9x高倍率ルーペで隅から隅まで探ってみる。すると、「スターウォーズ・エピソード2」のパンフレットが写っているのを見付けた。これにより、少なくともスターウォーズを観た日よりも後であることが判った。 この絞り込みにより、より狭い範囲の記憶に集中することが可能となり、結果的に写っている服装から日付を特定するに至った。 ●写真2 居間で写した1枚の写真。 これも日付が不明であった。 見たところ日中での撮影。時計も午後1時頃になっており、少なくとも平日に撮られたものではないと思われた。 しかし、土日に撮影したという前提で考えると、幾つか矛盾する箇所があり納得出来ない。 更に画面をルーペで探ってみると、紙切れが1つ写り込んでいるのが目に付いた。よくよく見ると、それは我輩がオークションで落札した品物が届いた時の伝票のように見える。写真上ではハッキリとは写ってないので確信は無い。 だがカレンダーで確認すると、その品物が届いた翌日に我輩は休暇を取っていたことが判明。 結果、この日と断定した。 ●写真3 これも居間で写した写真。 時計が写っていないので時刻は不明だが、陽の入り方からして日中の写真であり、これも休日に撮られたものだと判断した。 だが、フィルムのコマ並びを見ると、どうしても該当する土日が無い。しかも平日に休暇を取ったという事実も無い。 その写真に写り込んでいたヘナチョコ妻の服装もいつものパターンであったため、特定材料とはならない。 手掛かりを得るためにルーペで見渡す。畳の上に置かれた小物の配置からして、どうやら非常に最近の写真であるらしい。そうなると、コマの並びで考えると、なぜか現像に出した日が残される。おかしい。 しかし、更に良くルーペで見ると、陽の入り方が少し浅いように見えた。気のせいかも知れないがそう見えた。それが我輩の記憶を呼び覚ますきっかけとなった。 そうだ、これは現像を出す日に、残り1枚のコマを使い切ってしまおうと出勤前に慌てて撮ったカットだった。やはり、この日だった。 ●写真4 これまた、居間で写した写真。 夜の撮影らしいので、休日か平日かの見当が付けられない。コマの並びも参考にならない。 丹念にルーペで舐めて行くと、ボックステッシュの5箱パックが置いてあるのを見付けた。ウーム、普通ならばこのようなものは押入れに入れてあるはず。もしかしたら、これは買ってから間もないものではないか? ヘナチョコを呼んで見てもらうと、やはりこれは買い物直後の写真だと言う。ヘナチョコがコレクションしている買い物のレシートを探してもらい、日付を特定することが出来た。 ・・・このような文章で書いてみると、割とあっけないように思えるかも知れないが、何が日付の手掛かりとなるのかが分からないうちは結構手間取る。その場では判らず、後日ふとしたことで思い当たるようなこともある。 だが、最近はそのような「謎解き」が面白く感じることも事実。ヘナチョコと一緒になってああだこうだと日付の手掛かりを探る。 そして、苦労して判明した日付であればあるほど、達成感もまた大きく感ずる。 妙な話だな。 ---------------------------------------------------- [385] 2002年12月01日(日) 「Kiev 6C」 そのメールは、意外に早くやってきた。 2ヶ月くらいは待たされるであろうと予想されたロシア製カメラ「Kiev(キエフ)6C」の入荷通知が、予約して僅か1ヶ月で到着した。 本来ならば嬉しいはずの入荷通知、訳あって素直には喜べぬ。 前回、ブロニカSQ用交換レンズ「PS 35mm F3.5 フィッシュアイ」を家計に借金して手に入れた直後であり、持ち金もほとんど残されていなかったからである。 とてもこの状態で「金を貸してくれ」などと言えるはずもない。 現在我輩は、カメラを増やさぬように努力している。1台入れば1台出す。理想的にはこのようにありたい。 今回、やはりカメラを1台入れることになるのだから、ここは手持ちのカメラを売却し、その売却金によってKiev購入代金に充てようと考えた。 一つの行為によって二つの効果を得る。人はそれを「一挙両得」と言う。 売却したカメラの話はまた後日雑文にて触れることとして、今回はKievの話から逸らさぬよう進める。 届いた「Kiev 6C」は、不格好な皮ケースに収められており、その皮の匂いが少しカメラにも移っている。もはやこの皮ケースは二度と使われることは無かろう。 カメラ自体、少し手垢が付いている様子。手に持って操作していると、指が汚れるような感触があった。古本屋で色々と物色しているうちに指に妙な粘りを感ずることがあるのだが、このカメラの場合もちょうどそんな感じである。 気持ちが悪いので、石鹸水を浸した雑巾でシボ皮を拭った。幾分マシになった。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> さて、持った時の第一印象であるが、図体が異様にデカく感ずる。 だが、持った感じは重くない。比較するならコーワ6のほうが密度が上。「Nikon F3モータードライブ付き」や「Nikon F5」などを使っている者であれば普通に持てる。 ただし、この「Kiev 6C」は左レリーズボタンなのでホールディングにはそれぞれの工夫が必要ではある。我輩の場合、色々試した結果、左親指でレリーズするような格好でカメラをホールドするようにした。これが一番軽く感ずる。 巻き上げについては、色々な前情報がインターネットから得られていた。 いったん始めた巻き上げ動作は途中で止めることをしてはならない。さもなくばレバーが戻らなくなったりフィルムのコマが重なったりするらしい。 そういう前情報があると、実際に製品を手にして巻き上げようとする時にはかなり緊張する。 まず、しっかりと両手でホールドし、右手親指を巻き上げレバーに当てる。途中で巻き上げを止めないよう、間違っても指が滑ってはならない。キリキリキリ・・・とゆっくり確実に巻き上げる。 だが見ると、レバーの中心軸と思っていた部分が、なんと巻き上げ動作によってどんどんズレていくではないか。このまま巻き上げてもいいのか?! だが巻き上げ動作を中断するなという話であるから巻き上続行するほか無い。 結局、巻き上げそのものは特に問題は無かった。どうやら本当の軸の位置は違うらしい。それにしても紛らわしい。 何回か巻き上げているうちに、普通の速さで巻き上げても支障無いことが判った。ただ、巻き上げを途中で止めたりすると、スプールとシャッターチャージのズレが発生しているのが見える。裏ブタを開けて観察するとハッキリする。この状態でフィルムが入っていればコマズレは確実。 ファインダーは交換式で、左右の着脱ボタンを押しながら上方へ抜く。ボタンなどは頑丈に出来ているので破損は無さそうではあるが、造りが雑で引っかかることが多い。 TTLファインダーは35mmカメラと同じ感覚で使えるので良いのだが、大きなプリズムが入っているので重くなる。 近視の我輩には視度が外れているのは当然ではあるが、おかしなことに眼鏡を掛けて覗いてもやはりボヤけて見える。接眼部(アイピース)を見ると、どうも必要なレンズが外されているような気がした。 仕方無く、Nikon F3HP用視度補正レンズを-2と-3を2枚強引にハメ込んで使うようにした。とりあえずは具合が良い。 早速、いつものテスト撮影を行う。 <<画像ファイルあり>> Kiev 6C + zodiak 30mm F3.5 先日手に入れた「zodiak 30mm F3.5」を使ってみた。曇り空での撮影であるから、多少コントラストが低いのは仕方無い。 しかしそれにしても、苦労して手に入れた「ブロニカPS 35mm F3.5 フィッシュアイ」の描写力にも匹敵するのには驚いた。 レンズとカメラボディのどちらか一方に問題があればこのような写真は得られまい。 もちろん、強い逆光などの厳しい撮影条件や露出精度(絞り羽根の機械精度)などは未知数ではあるが、上手に使えばそれなりに使える。 さて心配されたコマズレについては、少し狭いながらも重なりは無かった。マウントにハメるリバーサルフィルムでは特に問題は無かろう。 このカメラ、失敗を許せる撮影で気軽に使うことにしたい。安価であるため、故障や消耗を気にせず気軽に魚眼撮影に用いることが出来る。 以前、我輩は雑文325にてコピー製品のリスクについて書いた。 しかしこのカメラを見ると、想像したほど"変な機械"でも無い。幾つかの「やってはいけないこと」さえ守れば、我輩自作の魚眼カメラのように想像力を働かせながら操作する必要も無く、実に快適に安心して撮影出来る。 この「Kiev 6C」は東欧の「PENTACON 6」をコピーしたカメラだとされているが、コピー元の「PENTACON 6」がまた造りが悪いとのこと。さすがにそんなカメラをそのままコピー出来なかったのだろう。新たに図面を引き直し、少なくとも「PENTACON 6」よりはマシなカメラを造った。 ただし、製造技術や品質管理の甘さはどうしようも無く、やはりロシア製カメラはリスキーであり一般の日本国民が使うようなカメラではないという定説を覆すには至らない。 ロシアカメラを楽しむには、そのカメラよりも性能の安定した通常のカメラも同時に所有している必要がある。それによって初めて、ロシアカメラに対する寛容さが生まれる。 唯一のカメラがロシアカメラならば、そのカメラの具合によって一喜一憂させられ精神衛生上よろしくない。 ---------------------------------------------------- [386] 2002年12月02日(月) 「オークション」 前回導入した「Kiev 6C」、その代わりとして手元から去ったカメラは「Nikon F3HP」である。それ以外に換金率の高いカメラは「PENTAX LX」くらいであり、選択の余地は全く無かった。 イラク空軍的とも言える雑多な「我輩所有機」を見れば、それ以外のカメラは高くとも2万円以上の価値は付かないと理解出来る。その程度のカメラであれば、「売却」というよりも「廃棄」という意味合いが強くなろう。 現金が必要であるという事情を考えれば、メインカメラ「Nikon F3/T(白)」のバックアップ用として控えている「Nikon F3HP」を現金化するほか無い。全体的に35mmカメラの使用頻度が若干低下しているのであるから、あまり問題は無かろう。本当の保存用F3は厳重に保管してあるのだから、いざとなればそれを前線に回せば良い。 今までは、カメラの処分はカメラ店での買い取りや下取りという方法を取ってきた。しかし、インターネット上で買い取り価格を調べてみると、F3の相場は高くない。20年もの間生産されてきたロングセラーカメラであるため、中古市場でも玉数は多いのである。そればかりか、最後の本格MFカメラということで、新品ストックも非常に多い。そんな状態では買い叩かれるのがオチ。 また、自分で価格を決められる委託品扱いもあるが、いつ売れるか(いつ現金化出来るか)という予想が出来ないのが致命的。 ここは、カメラ店を経由させずインターネットのオークションに出品することにしよう。 現時点で最も規模の大きいオークションは「Yahoo! オークション」である。他のオークションサイトより10倍もの出品数が客を引き寄せる。手数料が必要ではあるが、集客の問題から我輩も「Yahoo! オークション」を利用することにした。 オークションでは、様々な人間が入り乱れて出品・入札・キャンセル・質問・回答・評価などを行っている。当然ながら、トラブルも多く発生する。 入札条件を最初に明示しているという意味では、出品者の立場は落札者よりも強い。「この条件で不服ならば、入札してくれなくとも良い」というのがオークションの原則。それはつまり、落札者側から見れば入札するもしないも自分の自由ということでもある。 しかし現実には、インターネット上の相手の顔も見えない仮想空間でのオークションであるから、行き違いによるトラブルは絶えることは無い。 出品者側の立場で限定しても、心配されるトラブルの種類は数多い。 例を挙げると、「なかなか入金しない者」、「全く音信不通の者」、「落札後に値引きを要求する者」、「高額にも関わらず切手や収入印紙で代金を送りつける者」、「振り込み手数料を勝手に差し引いて入金する者」、「不当な理由で落札を辞退する者」、「盲目的に定形外郵便を要求する者」、「受け取ったはずの荷物が届いていないとクレームする者」、「入金だけ行って送付先を書かずクレームする者」、「入金後3時間で届かないとクレームする者」、「条件に無い手渡しを頑なに要求する者」、「製品の仕様に関する理由(使いにくいなど)で返品する者」・・・。 「Yahoo! オークション」では、取引後に出品者・落札者双方が互いに評価を行うというシステムであるが、悪い評価を色々と辿っていると上記以外にも信じられないようなトラブルを目にすることがある。 ただ、それらのトラブルは特定のカテゴリに偏っていることが多く、幸いにもカメラのカテゴリでは信じられないようなトラブルはあまり見掛けない。 確かに、何百も出品している者であれば、その中のどれかがトラブルに当たる確率が高くなる。 今回は1回限りの出品であるし、まあF3を望む落札者ならばトラブルは少なかろうと勝手に判断して出品することにした。 出品するにあたり、写真撮影は重要である。写真の写りによって入札数や入札額が変わってくる。いくら文章で説明されても、写真による心理的効果は絶大。同じ出品物でも写真のキレイな出品物のほうが高値を付けていることが多い。 そこで、我輩も気合いを入れて撮影を行う。もちろん、スリキズなどの不具合点を忠実に写し入れることは、誠実さを示すためにも重要である。ごまかしの無い範囲でキレイに撮影することは、入札者の不安を取り除き、その安心感により、キズがあろうとも却って入札額も大きくなると我輩は考えた。 次に、開始価格の問題であるが、これは送料込みで\9,000と設定した。 「Nikon F3HP」ならばニーズは多い。例えば「ゼンザブロニカ」などは、いくら安くてもそれを欲する者は限られており入札者の競合がほとんど無い。下手に開始価格を低くしようものなら、値が上がらずそのまま落札されてしまうことになる。 だが「Nikon F3HP」は開始価格が低ければ注目を浴び、複数の入札者が競合して入札額が徐々に上がるだろう。 ちなみに「送料込み」とした理由は、送料絡みのトラブルが多いことによる我輩の回避策である。送料を節約しようと考える落札者の中には、手渡しを希望する者もいるとか。だが手渡しは少なくとも移動時間や待ち合わせの時間を入れると3時間は掛かる。特定の時間を拘束されるという意味に於いても手間となるだけでメリットは無い。それならばいっそ送料を無料として落札者には商品代金のことだけに集中させたい。 (中には、送料無料であるのに手渡しを希望し、その分の送料を引いてくれという者すらいるらしい。そういう者はトラブルの元凶である可能性が高いため関わらぬほうが良い。) <<画像ファイルあり>> さて、説明用写真は何枚か撮ったのだが、実際に出品するとなると、どれもこれも必要に思えてしまい、結局8枚もの写真を連ねてしまった。アクセスするほうとしては画像読み込みに時間が掛かったことだろう。 とりあえず、オークション期間は5日と設定した。 出品者側からは、この出品物に対してどれだけのアクセス数があったかが判るようになっている。さらに、その出品物の動きを追跡する「ウォッチリスト」に登録された件数も判る。 ウォッチリストは、その出品物に対する関心の度合いを知るのに便利ではあるが、同一人物が何度でも登録出来るために、例えば100件のウォッチリスト件数があったとしても、それが必ずしも100人の関心を集めたということではない。極端な話、それはただの1人だけという場合もある。 また、値が上がることによって関心が無くなった者のウォッチリストもそのまま消えることがなく、その数字を過信することが出来ない。 出品した最初の1日目では、1件の入札があった。値段は当然ながらスタート時の\9,000である。もし他に入札者がいなければ、F3はこの値段で売られることになる。 しかし間もなく2人目の入札者が現れて1万円を越えた。 我輩の予想では、しばらくは値を釣り上げぬようジッと様子を窺い、オークション終了間際で一気に落札するという動きを読んでいた。しかし、意外にも初日から値が上がっていくではないか。 2日目には入札者が5人となり、値が3万円を越えた。 この時点でのアクセス数は200、ウォッチリストは30。 3日目には入札者が7人となり、7万円を越えた。我輩の希望額は8万円くらいであるから、もう少しである。この調子で行けば、恐らくは終了直前で8万円を越えるだろう。それまでは少し心配だったが気が楽になった。 この時点でのアクセス数は400、ウォッチリストは60。 4日目になると、7万円台のままで全く動かなくなった。しかしアクセス数は600、ウォッチリストは80であるから、見通しは明るい。 最終日、昼頃になってついに8万円を越えた。そして、そのまま終了時間直前まで変化無し。 しかし、アクセス数は1,200を越え、ウォッチリストが130にもなっている。この関心の高さならば、直前に入札があるのは間違い無かろう。 予想通り、終了まであと数秒というところで入札があった。値が9万円まで上がった。しかし、終了間際で入札があると自動的に10分間延長するというシステムのため(解除することは出来る)、残り時間が増えてしまった。我輩も経験があるが、入札者はさぞ驚いたことだろう。 我輩は、落札者宛のメールを書き始めた。予想よりも1万円高い値段に満足であった。 延長時間も残り少なくなった頃、再び入札があった。9万5千円を越えた。 これは全くの予想外。値は既に相場を越えている。未使用とはいえ、底には若干のスリキズ、そして箱や付属品も何も無いのだから、この値段では少し高い。競合が10人もいるために入札が熱くなり冷静な判断が出来ないのではないか? 後で「値段が高い」などとクレームを付けられてはたまらん。これ以上値が上がらないことを祈るばかり。 しかしそれでも入札は終わらず、最後は新規2人による激戦となった。 「新規」とは、オークションで評価がまだ付いていない状態の者。良い評価や悪い評価が全く付いておらず、どんな相手か分からないのが怖い。 このままでは、新規の2人のうちどちらかが落札してしまう。 最終的には40分以上もの延長戦となり、落札金額は10万を少し越えて終了した。見守っていた我輩も疲れてしまった。 やはり落札者は、恐れていた新規の1人だった。 我輩は落札者に向けて振込先等を書いたメールを送信した。しかしよく見ると、落札者のメールアドレスは出品者の間でも敬遠されるフリーメールであった。 イヤな予感がする・・・。 我輩がメールを出したのは深夜12時頃であった。次の日の朝、早速メールチェックをするが、返事はまだ無かった。まあ、相手もまだメールを見ていないのだろう。だが小さな不安はあった。 出社していつも通りに仕事を始めた。月末も近く、数十件もの請求明細書を作成せねばならない。午後からは客先へ行くため、忙しさは午前中に集中する。 だがいくら忙しいからと言っても、メールチェックはマウスボタンのワンクリックで可能である。明細書作成の合間にメールをチェックするのだが、落札者からのメールはまだ届かない。何度もメールチェックすると却って気になって仕方無い。 もしキャンセルとなった場合、次点の入札者に購入意志を確認する必要がある。しかし、自作自演のやらせ行為だと疑われかねない。何しろ最高額は新規の人間である。 いずれにせよ一旦落札された物件は、落札金額の3パーセントのシステム利用料を徴収されることになる。今回の場合、およそ3,000円である。これが無駄になるとすればダメージは大きい。 結局、午前中にはメールは届かず気持ちが落ち着かぬまま午後から外出した。さすがに外出時は雑念は消えていた。 帰社したのが午後4時頃。パソコンのスイッチを入れ、早速メールチェックした。すると。待望の落札者からのメールが届いた。 相手は特に金額の高さに不平を言わず、明日の朝までには入金出来ると連絡してきた。これで一安心だ。・・・いやいや、モノが届いて「これは新品じゃない」などと言い出すかも知れぬ。気を抜くのはまだ早い。 次の日、入金を確認してコンビニエンスストアから荷物を発送した。 高く値を付けてくれたお礼として、貰い物の新品シリコンクロスやF3用リチウム電池などを同梱した。そして、宅配便伝票に記載されている問合わせ番号をメールで伝えた。この番号があれば、相手がインターネット上で荷物を追跡出来る。 荷物を出した直後はまだ集配が来ていないことがあるため、現時点ではまだ番号が登録されていないことを書き添えた。あるケースでは、発送直後で番号が未登録状態であるにもかかわらず、3時間後に「発送が確認出来ませんので"悪い"という評価をさせて頂きます」と落札者に評価された出品者もいるらしい。 とりあえずこちらとしては、やるべき手続きは全て終えているため、相手の評価を付けた。心配したものの、取引自体に何も問題は無く、「非常に良い」という評価をした。 次の日の夕方、問合わせ番号で調べてみると、荷物は先方に届いていることが分かった。だが、まだメールにて連絡は無い。クレームが無ければ良いが。 結局、その日はメールは無かった。 次の日の昼頃、評価メールが届いた。「非常に良い」という評価であった。 心配したようなクレームも無く、品物には満足して頂けた様子。こちらとしても安心した。 それにしても、フリーメールアドレスの新規の落札者を相手にするのは、高額商品ゆえに少し落ち着かなかった。 しかしまあ、終わり良ければ全て良し。 今回得た金で、「Kiev 6C」の他に買うものがある。それはまた次の機会にでも書こうかと思う。 ---------------------------------------------------- [387] 2002年12月20日(金) 「情緒あるAF一眼レフ」 中学時代、我輩が最初に手にした一眼レフカメラは「Canon AE-1」であった。 このカメラはマニュアル露出の他にシャッタースピード優先AEでの撮影が可能である。レンズ側の絞りをAマークに合わせておけば、セットしたシャッタースピードに対応する絞り値が自動的にあてがわれる。 当時、主な被写体の一つが野鳥であったが、野鳥仲間に「クラッシャー・ジョウ」という者がいた。 ヤツはペンタックス派で(恐らくは親父さんの影響であろう)、ペンタックス以外のメーカーを見下していた。 我輩が1万5千円でやっと手に入れた中古のAE-1で撮影していると、ジョウは自慢の「PENTAX K2-DMD」を見せながら、AE撮影の手軽さを講釈する。 「こんカメラ、絞り優先オートやけぇ、露出に気ィ使わんでもカワセミの速え動きに集中出来るっちゃ(このカメラは絞り優先オートだから、露出に気を使わないでもカワセミの速い動きに集中出来るんだ)。」 ジョウは普段はいいヤツなのだが、自慢モードに入っている時はとことんムカつく。 この野郎、AE-1がAE撮影出来ることを知らんのか? AE-1というネーミングの"AE"の意味をよーく考えろ! 我輩がAE-1はシャッタースピード優先AE搭載であることを言うと、ジョウはかなり残念そうであった。 「なん、AE-1っちマニュアルだけやないんか(なんだ、AE-1というのはマニュアルだけじゃないのか)。」 当時のAEカメラは、シャッターダイヤルや絞り環の数字の端にオートマークがあり、マニュアル露出(ME)からシームレスにオート撮影に移行出来た。それ故、ちょっと見た限りでは、マニュアル機かAE機かの区別は難しい。ジョウが思い込みを以てAE-1を眺めれば、マニュアル機に見えたとしても不思議ではなかろう。 それほどに、AEとMEには大きな隔たりは無い・・・。 さて、昔から言われていることであるが、AF一眼レフカメラには情緒が無い。 従来のカメラのような質感や高級感が無く、安っぽい家電製品のように思える。だがそれは、「AFだから」という必然性は無い。たまたま、AFカメラが出現した時代が悪かった。 最初の実用AF一眼レフ「MINOLTA α-7000」が発売されたのは1985年であった。 当時、時代はハイテクを追い求めており、カメラも液晶表示やワインダー内蔵などを進めていた。ただそれまでは、普及機などに部分的に採り入れられるだけであった。 ところがα-7000が出てみると、それは全てのハイテクを身にまとった、ある意味「完全体」であり、その未来的な姿に皆驚愕した。 軽量プラスチックボディー、AEフルモード搭載、液晶表示、ワインダー内蔵、レバー操作からボタン操作への移行、幅広のストラップ金具、シボ皮廃止・・・。 それ以前の非実用AF時代(PENTAX ME-FやNikon F3AF)ならば、MFカメラにAFをそのまま外付けしたようなスタイルであったのだが、このα-7000は頭のてっぺんから足の先まで、丸ごとAF仕様であった。 当時、α-7000はあまりの人気に品薄で、なかなか手に入らないという話をよく耳にした。高校時代の修学旅行、担任教師が誇らしげにそのカメラで撮影していたのを想い出す・・・。 このカメラの成功は、その後のAFカメラの方向性を決定付け、各社から後追い発売されたAFカメラもことごとくα-7000路線を踏襲していた。一人勝ちのα-7000を追い抜くためには、他メーカーも同じ方向に走り出すしか無い。 各社それぞれに初めて行うAFシステム構築である。ここで躓(つまづ)けば後は無い。事実、オリンパスと京セラ(KYOCERAブランド)は大失敗をしてAF市場からの撤退を余儀なくされた。それほど微妙な問題であるから、各社それぞれに作りたいカメラ像があったとしても、α-7000という成功事例を無視し、敢えて危険を冒すことも出来なかった。 もしかしたら、開発途中でα-7000の衝撃を受け、お蔵入りとなった幻のカメラもあるかも知れぬ(キヤノンの場合、発売直前であったT-80はそのまま発売せざるを得なかったようだ)。 我輩の勝手な分析によると、当時のα-7000の成功の大きな理由は、「一眼レフを身近なものにした」ということに尽きる。 それまでは、一眼レフと言えばそれなりに知識と経験を求められる敷居の高い存在であった。実際、ヘナチョコ妻にMFカメラを持たせると、ピント合わせに5分は掛かり、時には「合ったかどうか分からない」などと言い出すこともある。 それ故、AF登場による撮影者の負担軽減は大きい。 しかもα-7000は、ピントの自動化のみならず、巻き上げや巻き戻しなど全ての動作を自動化させてユーザーの裾野を広げた。 α-7000のヒットは、ユーザー層を広げたことが最大の勝因であったと言える。 ただし、ユーザー層を広げるということはつまり、ユーザーの全体的なレベル低下を招く。 従来のカメラを知らぬユーザーが流れ込み、カメラに対する要求も変わってしまった。オーソドックスなカメラの形態を継承する必然も失われ、カメラを知らぬデザイナーがカメラづくりに参画している。 過去のしがらみに囚われないカメラづくりが出来る一方、今まで培(つちか)ってきた良いものまでも削ぎ落としてしまった。 AFは、登場時のショック故に、単なる一つの機能としては認識されない。カメラ全体のフルオート化を最後でまとめる役割がAFである。単独で搭載されることなど無い。 「AFカメラ」、それはすなわち「フルオートカメラ」。 もし、AFが単なる一つの機能であれば、「手巻き式AFカメラ」や「ダイヤル式AFカメラ」などはもっと多く存在しても良かった。 必然性は無かろうが「マニュアル露出オンリーのAFカメラ」や「真鍮カバーのクラシカルAFカメラ」などという存在も許されたかも知れない。少なくとも情緒があり心温まろう。 中学時代、クラッシャー・ジョウがAE-1をマニュアル露出専用カメラだと間違えたように、AFも自然な形で従来カメラに取り入れられれば良かった。 もしそんなカメラがあるならば、ジョウに馬鹿にされようが構わぬ。何も言わず、MFの顔をしてAF撮影するだけ。 ピント合わせは、露出と違って回答は一つ。だから、精度さえ出ていればピント合わせはカメラ任せにしたい。特に我輩は、視力の問題からAFが魅力的に感ずる。 だが、魅力に感じているのはあくまで「AF機能」であり、決して「AFカメラ」ではない。 情緒あるAFカメラ、いつか会えるのだろうか・・・。 ---------------------------------------------------- [388] 2002年12月28日(土) 「新タイプと旧タイプ」 ロシアカメラKiev6Cを購入するために、インターネット上のオークションでバックアップ用Nikon F3を出品したという話をした。 だが、ロシアカメラ購入だけが目的ではない。ロシアカメラごときでNikon F3を手放すわけが無い。 我輩は用心深い性格であるが故に強迫観念に囚われ、Nikon F3関連のアクセサリ収集には力を注いだ。しかし、それでもブロニカのフィッシュアイレンズを入手し損ない悔しい思いをさせられた。 最終的には海外から探し出してようやく取り寄せることが出来たものの、この事件は我輩の強迫観念がまだまだ甘いということを認識させた。 そういう訳で、バックアップ用Nikon F3を手放した真の理由は、ゼンザブロニカのアクセサリ類をまとめ買いするためである。 ブロニカでは、既に67判のGS-1は生産終了。在庫販売となり間もなく消え失せる。このカメラを欲している者は、今を逃せば後は無い。 (中古に期待しようにもGS-1の流通は少なく、中古購入の基本原則「複数から選んで買う」ということは難しい。ましてや、特定のアクセサリなどは気長に探し続ける覚悟が必要。) 中判カメラで一番人気があるのは645判であることを考えれば、次に消えるとすれば、我輩の主力機でもある66判の「SQ-Ai」となるのは明らか。必要と思われるアクセサリ類は今のうちに確保しておく必要があると考えた。 このような心配が杞憂であり無駄な出費に終わるのならばまだ良い。だが生産終了となれば、どんなに金を積もうがモノが無ければ手に入らない。こうなるとかなり惨めである。 今回、必要と思われるアクセサリは以下のとおり。 フィルムバック(新品を使ったことが無いため) ファインダー類(スペアを確保) フォーカシングスクリーン(在庫としてとりあえず確保) 新型マクロレンズ(単体で等倍撮影可能なレンズは利用価値大) 元々、フィルムバックは3個持っていたが、1つは魚眼カメラとして改造してしまったので補充させたい。しかも新品でフィルムバックを使ったことが無かったため、是非とも新品から使いたいと思っていた。 実際、新品のフィルムバックを使ってみると、想像通り新品はパーツの動作がカッチリとして気持ちが良い。今まで使っていた中古バックがどれほどくたびれていたかを再認識させた。 ファインダー類については、ウェストレベルファインダーはかなり衝撃に弱く、以前、三脚に乗せた状態のカメラを倒してしまいウェストレベルファインダーが歪んだことがあった。手で曲げて元に戻そうとしたのだが、見えない部分で引っ掛かるらしく元通りに畳めなくなってしまった。そういうことを考え、スペアとしてウェストレベルファインダーを余分に在庫しておくことにした。 また他にも、45度の角度から覗くことの出来るプリズムファインダーもこの際購入する。これは視度補正がノブによって調節することが出来るため有用である。 フォーカシングスクリーンは、Nikon F3の時と同様の考え方(使うか分からないがとりあえず在庫しておく)による。 マクロレンズについては、は旧モデルのマクロ110mmを所有してはいるが、これは1/4倍までしか接写出来ない。ところが、ブロニカがタムロンの傘下となってすぐ発売された新タイプのマクロ110mmレンズでは、レンズ単体で等倍撮影が可能となった。 旧タイプのマクロレンズを使っていると、もっと近付いて撮影したいと思う場面がある。だが、それ以上のマクロ撮影は接写リングを必要とする。そうなると露出倍数の計算が面倒。何より、一旦接写リングを取り付けてしまうと、しばらくは引いて撮影が出来なくなる。 これが新タイプのレンズならば、無限遠から等倍まで、動作が途切れること無く自由に撮影出来るのだ。これは何としても手に入れたい。 ちょうど良い具合に新タイプレンズを新品50%引きで売っている店をインターネット上で見付けた。ここで一括して注文することにしよう。 新タイプレンズを導入するならば、手元にある旧タイプは手放すしか無かろう。わざわざ不便なほうを使う理由が無い。 購入資金の足しにするために、オークションに出品することにした。 このレンズ、光学系はキレイであるものの鏡胴には擦れ傷が無数にあったため、それほどの高値は期待出来まい。しかも旧タイプのレンズである。 Nikon F3を出品した時は\9,000での開始価格であったが、今回は入札が競合せず開始価格のままで落札される可能性がある。 高く設定すれば入札は望めず、安く設定すればその価格で落札される・・・。値段の付け所が難しいところ。 しかしこの時点で既に新タイプマクロレンズの注文・入金は済んでおり、別段急いで売る気も無かった。数週間かかっても\30,000くらいで売れれば御の字。気持ちの上では即決価格という意味合いで開始価格\30,000で出品した。 当初、アクセス数は増えていたがウォッチ数は増えなかった。だが、このレンズの作例として画像ファイルを追加した直後、ウォッチ数が徐々に増えてきた。ただ、初日の入札は無かった。 そこで、このレンズの売り文句を考えて追加しようと思った。新タイプと比較してどの点が劣っているのかということを明確にしておきつつ、それでも旧タイプならではの利点があるということを書いた。 「安価」、「新タイプのレンズよりも軽量」、「新タイプは接写リングやテレコンバータと組み合わせることを前提に造られていない。等倍以上の撮影を望むなら旧タイプがお勧め」など。 皮肉なことに、旧タイプレンズの利点を謳えば謳うほど、段々と売りたくないという気持ちが出てきた。 そうこうしているうち、注文していた新タイプのレンズが到着した。それはズシリと重く、カタログで見るよりも大柄に思えた。 しかも説明書を読むと、このレンズは撮影距離によって露出倍数が掛かるとのことで、撮影距離ごとの補正量が一覧表として記載されていた。 「こんな表をいちいち持ち歩き、距離を見て補正するのは面倒だな。表を紛失してしまえば1メートル以下の距離では撮れない。」 <<画像ファイルあり>> 新タイプ(左)と旧タイプ(右)の110mmマクロレンズ 旧タイプレンズには、露出倍数についての記述は全く無い。接写リングやベローズを使うことで露出倍数を加えるということになっているが、少なくともレンズ単体では、最短撮影距離である0.66メートルまでは補正が要らない。 仕方が無いので、新タイプレンズには距離目盛りに補正値を書いたシールを貼って使うことにした。 -----(表組はじめ)----- 旧タイプ(PS110mmF4.0) 新タイプ(PS110mmF4.5) レンズ構成 4群6枚 8群9枚 絞り値 4〜32(半絞り付) 4.5〜32(半絞り付) 最短撮影距離 0.66m 0.37m 最大倍率 1/4 1/1 フィルター 径67mm 径72mm サイズ 高79x径83mm 高107x径86mm 重量 685g 940g -----(表組おわり)----- 新旧2種類のレンズをその場に並べると、これらのレンズが全く別のものであることを実感した。サイズや重量、使い勝手が全く違うため、単純に旧タイプを新タイプに置き換えることに無理を感ずる。 そう悟った瞬間、「しまった、オークションに出品している旧タイプレンズを引き上げねば」と思った。 急いでパソコンでアクセスすると、出品物にはウォッチリストは18件あったが、幸いなことに入札者は1人もいない。すぐさま中止処理を行った。 現在手元には、2種類のマクロレンズがある。 主に室内では新タイプを、野外では旧タイプを使うことになろう。それぞれに長所・短所があるためこのようなことになったが、取り立てて今必要を感じて購入したわけではない。これは、将来を見越した買い物である。 重要なのは、手に入らなくなる前に手に入れること。 マイナーな製品を愛するならば、そして後悔無く写真趣味を続けるならば、新・旧二種のレンズを同時に持つことになろうとも仕方あるまい。 ---------------------------------------------------- [389] 2002年12月29日(日) 「Canon TS-E 90mm F2.8を手放した理由」 以前、雑文341で書いた、オークションで入手した「Canon TS-E 90mm F2.8」、アオリ撮影可能なレンズとして利用価値がかなり高かったが、今回ついに金策のため手放すことになった。 このレンズを手放すことは、正直言って惜しい。だが、他に金になるような物が無い。どれもこれも、\5,000の値が付けば良いというようなものばかり。その中にあって万単位で売却出来そうなものはこのレンズしか無かった。 そうまでして借金を返済したいのか? いや、そういう訳ではない・・・。 我輩が中判用フィッシュアイレンズを入手しようとした苦労話は以前に何度も書いた。結局、全周魚眼レンズは自作、対角線魚眼は海外から取り寄せという結末であった。これで現在、魚眼ライフを楽しんでいる。 (特に全周魚眼カメラはコンパクトで、会社の忘年会などにも持参した) 実は、魚眼写真以外に中判で撮影したい写真がある。 それはアオリ撮影である。 中判カメラでアオリ撮影をしたいとは昔から思っていた。なぜならば、商品撮影にて奥行きのある被写体に全てピントを合わせるということが難しかったからだ。 今までは、単に絞りを目一杯に絞り込んで撮影していた。だがそれでも十分とは言えぬ。接写になればなるほど、被写界深度も浅くなりその範囲からハミ出てしまう。アオリレンズでピント面を傾けることが出来れば、そのような問題も解決出来よう。 ところが、やはり魚眼レンズの時と同じく、中判でアオリ撮影を行うのは非常に難しい。 まず、ブロニカのレンズを探した。ブロニカの645判ではシュナイダー製アオリレンズが存在したらしい。もちろん、現在のカタログには載っていないが、昔のカメラショーのパンフレットには載っている。 ただ、66判用のシュナイダー製アオリレンズの資料が無いのが不思議。このレンズは、645判のみの供給ということなのか? まあいずれにせよ現行品でない特殊レンズは滅多なことでは手に入るまい。 次に、フジのGXシリーズが目に付いた。 このGXシリーズはカメラ本体にアオリ機構が組み込まれており、物理的にはどんなレンズを使ってもアオリ撮影が可能である。丁度、大判カメラが中判化したようなイメージ。 だがそれだけに図体も大きく、三脚使用が前提となる。しかもレンズとボディ間の電気接点が弱いようで、撮影途中でシャッターが降りなくなるという情報をインターネット上でたまに見る。 基本的にこのカメラは、スタジオなど室内で使うものだろう。 そういうのも困る。 もし、フジのGXシリーズを選ぶくらいならば、いっそ大判カメラにロールフィルムホルダを付けたほうが良い。GXシリーズのように大げさな電源も必要無く、汎用性が高くレンズの選択肢も広い。ピント合わせなどの手間はあるだろうが、どちらにせよ三脚固定のカメラでは、それほど使い勝手を追求しても意味は無かろう。 だがやはり、これも我輩にとっては大げさ過ぎることに違いは無い。 他を探すと、ローライSL66シリーズがカメラ本体の機能によりアオリ撮影可能であると知った。だが、システムを揃えるには費用が掛かり過ぎる。しかも製品写真を見る限りにおいては、大きくアオることは難しそうだ。 さらに、ハッセルブラッド用にアオリ撮影用アダプタを見付けた。 このアダプタをカメラとレンズの間にかませ、装着したレンズを動かすらしい。 だがこのアダプタ自体が高価で、しかも一般撮影レンズを使うとイメージサークルから外れることもあるかも知れない。 何よりハッセルブラッドであるから、一通りのシステムを組み上げるには膨大な金が必要であろう。最初から、迷う余地すら無い。 そういう訳で、一旦は中判カメラによるアオリ撮影は諦めた。魚眼レンズのように、どこかに物があるという希望があれば良いのだが、今回は情熱を燃やす対象となる製品が始めから存在しないのである。 ところがある日、ふとしたことでkievcamera.comというサイトに「Hartblei」というブランドのアオリレンズがあるのを見付けた。先日購入したKiev6Cに装着出来るとのこと。これは良いものを見付けた。 だがすぐに我に返った。実は、我輩所有のKiev6cはシンクロ接点が不良でストロボ撮影が不可能なのだ。 中古カメラの場合、シンクロ接点の不良はよくある。雑文012でも書いたが、店頭でチェックする項目の一つに挙がっている。店側でそこまで事前にチェックしていることは希なため、購入時に自分で確認する他無い。 今回は通販ということで、シンクロ接点のチェックをメールで依頼しておけば良かったのだが、つい忘れていた。 せっかく見付けたアオリレンズ、諦めきれずkievcamera.comのサイト内をうろつき回っていると、一つのカメラを見付けた。 Kiev88の改良版「Kiev88CM」である。 Kiev88の存在は以前から知っていた。 ハッセルブラッドのコピーカメラで、その造りは雑。フィルムバックからの光線漏れは日常茶飯事と聞く。どうやら引き蓋辺りの遮光が破れるらしい。 しかもレンズマウントは独自で、Kiev6CやKiev60、そしてPENTACON6との互換性が無い(マウントアダプタはあるがKiev6C→Kiev88変換のみ)。 そういうわけで、我輩にとってあまり興味の湧かぬカメラではあった。 だが、今回見付けたKiev88CMをインターネット上でリサーチしてみると、なかなか良いものらしい。 不具合も見られず、ロシアカメラ(ウクライナ製だが、ロシア体質であることは間違い無く、ロシアカメラと言わせてもらう)には珍しく、ユーザーの声を反映させて作られたということだ。 しかも、何と言ってもKiev6Cマウントを採用しているということが大きい。これならば、現在所有している魚眼レンズ「zodiac30mmF3.5」も使えて好都合。 我輩は、具体的な目標を見付けて燃え上がった。 「よし、このカメラとアオリレンズを購入しよう。新品であるのが何より楽しみだ。」 我輩は早速、ブロニカ魚眼レンズを購入した時にお世話になった輸入代行業者「New York Best Life.com」に見積もり依頼を出し、内容を確認して発注した。 今回は、税関で課税されにくい方法で送付して頂いたとのことで、不思議なことに関税が掛からなかった。しかも、見積もり依頼から数えて11日ほどで品物が手元に届いた。 乱暴に梱包を解き、まずレンズを確認、そしてカメラを確認した。 「ああ、確かにこのレンズだ。素晴らしい。さらにカメラも予想以上の重量で安定感がある。心配していた安っぽさが無い。」 我輩は感無量だった。 <<画像ファイルあり>> 「Kiev88CM(左)」と「BRONICA SQ-Ai(右)」を並べてみた <<画像ファイルあり>> HARTBLEI Super-Rotator 45mm F3.5 <<画像ファイルあり>> シフト(左)とティルト(右)の様子。 シフトは最大10mm(645判で使うならば12mm)、ティルトは最大8度。キヤノンTS-Eでは両方向にシフトとティルトが可能だが、HARTBLEIでは片側のみ。その代わり、ティルトとシフトが別々にローテーション出来、自在な方向にアオリが可能。ある意味、最強のアオリレンズと言える。 そんな我輩とは対照的にヘナチョコ妻は、我輩が散らかした梱包材を何とかしてくれと文句を言った。「またしても男のロマンを理解せぬか!」とは思ったが、金を立替えてもらった弱みもあり、素直に梱包材の片付けを始めた。英字新聞を丸めた詰め物は全て伸ばして束ね、まとめてゴミの日に出す。 ひと段落した後、早速試し撮りをした。 カメラはズシリと重く、操作もブロニカとは違い戸惑いがあった。だがそれもじきに慣れた。ただ、シボ皮の端から接着剤がハミ出ているような仕上げはいただけない。ついでに言うとKievのロゴにも接着剤がこびり付いていて汚い。 また、フィルムバックは2つ付属していたが、どちらのローラー(プラスチック製)にもバリが残っており、フィルムに悪影響を与えるのは明白であったため、全てを自分で削り落とした。 さて、試し撮りではさすがに新品だけあってシンクロ接点は生きていた。しかもこのカメラにはホットシューがあり、クリップオン・ストロボがそのまま装着出来るのが嬉しい。 撮影したフィルムは、翌日現像に出した。 ところが、出来上がったフィルムのスリーブを見て思わず唸った。 絞り値を変えて撮影したどのカットも同じ露出・・・。なぜだ? レンズをよく見てみると、絞りがたまに動かなくなるときがあるのが確認出来た(このレンズはアオリレンズであるため、自動絞りでは無い)。 どうも、絞り環を前方に押しながら回すと良いということに気がついた。 「さすがロシア製。使い方のコツがあるんだな。」 などと一人で納得していたら、いつの間にか、どうやっても絞りが動かなくなってしまった。 さすがにこれはマズイと思ったが、修理に出そうにも海外であるからまた手間と時間が掛かる。 どうするか。 その日は考えがまとまらず、とりあえず寝た。 次の日、会社から帰宅してすぐにレンズを色々な角度から見てみた。絞り環を往復させ、その時の絞り羽根の動きのパターンを読んだりした。 どうやら、絞り環と絞り機構とのリンクが不完全であるらしい。 マウント側から覗くと、アオリレンズの割に単純そうな感じだった。 「ウーム、これならば我輩にも分解出来るかも知れない。」 何でも分解しようとする我輩の悪い癖が出てきた。 マウント側から見えるそれらしいネジを4つ取り外すと、アオリ機構の部分がレンズから分離した。それと同時に、絞り環が簡単に抜けた。見ると、絞り環のカムが絞り機構とリンクするような仕組みになっており、そのカムがズレやすいために今回の不具合が起こったと判明した。 絞り環を前方に押しながら回すとうまくいくことがあるのは、カムとのリンクが正常位置に近くなるためだった。だが、カムが一旦外れればその裏技も意味が無い。 我輩は、そのカムが正常な位置に来るようにペンチで曲げて調整した。比較的柔らかい金属で加工は楽だった。 果たして、絞り環は機能を完全に回復した。これで一安心である。 その結果得られた写真が以下の2点である。 被写体は手元にあるものでつまらないが、アオリレンズの実力を見るためであるから、これで十分に用が足る。 奥のスプーンにまでピントが合っている。 <<画像ファイルあり>> <66判ノートリミング(1/30sec. F22)> 銃身の長いGunも奥行きを表現しながらピントを出すことが可能。 <<画像ファイルあり>> <66判をトリミング(1/30sec. F22)> 例によって、この画面からは写真のシャープさは表現出来ぬ。もっと大きな画像サイズで掲載すれば良いのだろうが、そんなことをすればディスクスペースを浪費して当サイトの寿命を縮めることになるので避けた。 実はこの写真を得るのに2回ほど撮り直しをした。 このカメラの視野率とレンズのアオリ具合に対する不慣れがあったことによる。 このアオリレンズは45mmであるから、35mm判換算で24mmくらいとかなりの広角。しかし、被写界深度はまさに45mmのそれであり、アオリ無しでは接写でのパンフォーカスは難しい。 唯一残念であるのは、このカメラはフォーカルプレーンシャッターのためストロボ撮影が上限1/30秒であること。ブロニカが1/500秒であるから、多少不便に感ずる。ストロボ撮影の際は定常光が影響を与えぬよう注意をせねばなるまい。 それにしても、我輩の目論んだ「広角レンズによる接近のディフォルメ効果」が良く出ており、なかなか迫力のある写真になっている。ブロニカでは撮れない写真と言い切れる。 66判の大きなフィルムいっぱいにシャープなピントを結んだ映像、非常に満足。 それでこそ、「Canon TS-E 90mm F2.8」を手放した甲斐があったというもの。 ちなみに、「Canon TS-E 90mm F2.8」はオークションで\80,000にて入手したものだが、我輩の丁寧な説明と写真でオークションに出品すると\91,000で落札された。 ---------------------------------------------------- [390] 2003年01月07日(火) 「批判メール」 (※アンケートからリンク) 日本人というのはマジメである。 マジメであるが故に、多様な価値観というものを認めたがらない。 「ソバを喰う時には喉で喰え(噛まずに飲み、喉越しを味わえ)」と客を叱る店主もいるほど。 日本人は、楽しむということが苦手なようだ。 最近は少なくなったものの、我輩のサイトにも幾つか批判とでも言うのか、「自分の価値観に合わないので許せない」という内容のメールが届く。わざわざ匿名で書いてくる。 そのほとんどが、我輩の所有カメラに関するものである。 「カメラは写真を撮る道具に過ぎぬ、写真を撮るだけでなぜあれほどの数のカメラが必要なのか」と。 別に、カメラが何台あろうが、盗んだもので無い限りとやかく言う必要もあるまい。なぜにわざわざ匿名でメールを送りつけて自分の価値観を強要するのか。 それはまるで、「そんな部屋がいくつもある豪邸など建てても、家族3人しかいないのに無駄だ。建て直せ。」と言っているようなもの。 あるいは、「フェラーリなど乗っても狭い日本では無駄だ。国産中古車でも買え。移動手段としては同じだろ。」と言っているようなもの。 「写真を撮るためにカメラが2〜3台あれば十分。それ以上あって何の意味があるか。」と言ってきた者について、あまりにマジメ過ぎる意見に、この人は何が楽しいのだろうかと考えさせられた。 恐らく、全てを合理的に考え説明付けられねばならぬと考えているマジメな人間なのだろう。 例えば、「結婚しても子供を作らないのは間違っている。何のための結婚だ。」という意見もこの種の人間の論理である。マジメ過ぎるその意見、確かに理にかなったもののようにも思えるが、結局は誰も納得させることは出来ない。 何よりも、一つの価値観だけに固執し、他人も同じようにしてもらわないと我慢出来ないという思想は、さぞかし生きるのに辛かろうと同情する。 人は、パンのみに生きるにあらず。 生存のためには直接関係無いものであっても、人間というものは無駄とも思えることが必要なのだ。楽しみが無くて写真など撮れまい。撮る意味も無かろう。 「車は移動するためのもの」、「家は寝るためのもの」、「カメラは写真を写すためのもの」・・・。そんな単純な話しか出来ない者は、面白味も何も無い。ガリ勉優等生タイプと言える。 もしここで、「ワシのほうがもっとたくさんカメラを持っておる。キサマ程度ではまだまだ甘いわ。」などと言う者あれば、そちらのほうがまだ面白さがあり気が利いている。 人間はいつか死ぬ。それが全てに於ける最終的な結果である。もし結果だけが全ての価値ならば、我々が今生きて努力していることの意味を失うだろう。どうせ死んで無に帰すのだ。努力するだけ無駄としか思えまい。 だが人生を如何に楽しみ、如何に前向きに生きるか。それは、生きる人間の目的の一つである。仮に、「生きるためには必要無いもの」という価値観で否定するならば、それこそ写真など撮っても何の糧(かて)にもならぬ。撮った後の写真(結果)しか見えぬならば、何をやろうが全ての行為は無駄となる。 人より良い写真が撮れれば、写真の趣味として理想なのだろうか? それで喜びの全てがまかなわれるのだろうか? そもそも、写真の優劣とは? 多様な価値観を理解することが出来ず、1つの価値観に皆を縛り付けて勝負させようとする。勝ち負けや順位というものでしか価値を見出せないとするならば、そのような人生はマジメ過ぎてつまらない。 以前、批判者とメールで論争をしたことがあるが、相手は「それは間違っている」として我輩の価値観を認めようとしない。そういう者との論争は、結局不毛であった。相手は多様性を認めようとしない。前提から我輩の思想とは違うのだ。話など出来るはずも無い。 それ以降、我輩は時間の無駄と考え個別の対応はしなくなった。 しかし、同じような批判メールは相変わらず届く。 良い写真が撮れるかどうか、それも一つの価値観だが、単純に自分が満足する写真が撮れるかどうか、というのも一つの価値観。カメラそのものを楽しむのも、また一つの価値観。 もしここに、カメラを楽しむことに後ろめたさを感ずる者がいるならば、遠慮する必要など全く無い。心おきなく自分の趣味を追求しろ。自分の心に素直になれ。自分に正直になり、少年の心を取り戻せ。写真を楽しめなければ、如何にテクニックを駆使して皆の認めるような素晴らしい写真を撮っても自分が満足出来ぬぞ。本当にそれで良いのか? 趣味の写真ならば、誰一人振り向かない写真であろうとも、自分が楽しんで写真を撮ることが何より尊い。それでこそ、自分の心が投影出来、「自分」がそこに存在する意味を生む。 いいか、「カメラは写真を写す道具に過ぎない」などという言葉に惑わされるな。それは正論であるが故に人を惑わす言葉である。この観念に囚われ、自分の心を押さえ込み、人生の貴重な時間を無駄に費やすな。今、ここで目を覚ませ。 良い写真を撮ったと自慢してみても、自慢とは自分独りにしか得られぬ満足でしか無い。孤独な喜びである。写真の優劣により相手の上に立とうとする価値観よりも、皆で多様な楽しみ方を分かち合うことが楽しみを広げる。「こんな楽しみもあったのか」と言われれば、相手も楽しく自分も楽しい。 多様な価値観が認められる世の中はまだ遠い。趣味を楽しもうとする世の中はまだ遠い。 だが、マジメな人間は恐れている。自分の唯一の価値観が崩れ去るのを。 自分が忠実に守り通した価値観を失えば、今まで必死になって「良い写真」を撮ろうと努力してきたことを否定することになる。 だからこそ、わざわざ出向いて批判メールを出すのだ。 それが、批判メールの目的。 <関連雑文> 雑文015、雑文056、雑文152、雑文194、雑文225、雑文260、雑文336、雑文340、雑文380 ※ ちなみに、金銭的に身分不相応だという意見もあるが、現在所有しているカメラについてザッと計算すると、総計でおおよそ230万円、多く見て250万円となった。1台当たり9万円となる。 10年間の成果であるから、1ヶ年当たり25万円、1ヶ月当たりでは2万円費やした計算。 (過去に手放した分は費用の回収が発生するのでプラスマイナスゼロと考えた) 現在、手取り23万円/月、ボーナス100万円/年の収入で、自動車など所有せねば不可能ではない。他にも携帯電話やギャンブル、酒、タバコ、パチンコ、コーヒー、昼飯・・・細かい無駄を省くことが肝要。特に昼飯は外食など絶対にせぬことだ。朝食の残り飯をギュッと握り、海苔を巻いてラップに包(くる)んでカバンに放り込む。 他にも、時々入るイラスト描きなどのアルバイトも有効。単価は安くともフィルム代の足しになれば良かろう。 それだけの努力をしているのであるから、妬まれる筋合いなど一切無い。 ※ また、ロモなど流行ものに批判的なのは、長年趣味で写真をやっている我々の世界を歪めるという危機感による。流行の力は非常に大きく、押し寄せた時、そして去った時のダメージはかなり大きい。 他人の価値観を否定する気も無いが、趣味のカメラが息苦しくなってはかなわん。最近では、カメラ付き携帯電話の普及も、一般人のカメラ離れが進みそうで恐い。 ---------------------------------------------------- [391] 2003年01月08日(水) 「気合の入った化粧」 以前、化粧方法を変えると見違えるような美人に変身するというような企画をテレビでやっているのを観た。一般人(女性)に対し、プロのメイクが化粧のコツを伝授していた。 それによると、顔の形を良く見せるために髪型を変えたり、眉毛の描き方やアイシャドーの入れ方を工夫すると印象がかなり変わるという。確かに、使用前・使用後のようなハッキリとした違いをそこに見た。 まるで別人。 しかし、このような化粧を伝授されても、普段の顔とのギャップが大きくなれば悲劇かも知れない。無化粧状態(いわゆるスッピン)を見せられないほどの変身となれば、特に男女間のトラブルを生みそうな気もする。(参考:雑文047) 新しい化粧によって近付いた男であれば、外見を重視する(いわゆるメンクイ)という可能性は高い。しかし、もし素顔を知らずに結婚したならば、その後の結婚生活は想像するのも恐ろしい。 男は、「気合を入れて化粧すれば美人なんだよな」と自分に言い聞かせるだろうが、いかんせん、結婚後は化粧をしない顔に接する時間のほうが多い。 男は、美人顔の恩恵に与かるのは結婚前だけだったと思い知る・・・。 最近、パソコンから出力された年賀状が多くなった。 我輩も過去にパソコンプリンター出力で年賀状を作成したことがあった。しかし、クオリティに満足出来なかったということと、出力コストがかなり高い(マイクロドライ形式のプリンターなのでインクリボンが4本必要)ということで、それきりやめた。 一昔前、年賀状と言えばプリントゴッコで作られたものが多かった。だが、プリントゴッコは階調が表現しにくいため、写真向きではなくイラスト向きである。網点によって写真の表現も不可能ではないが、クオリティとしてキレイとは言い難い。 一方パソコンの場合、レイアウトが容易で何度もやり直しが出来る。写真出力に関しても、プリンターの性能向上に伴い問題は無くなってきた。 街の電器屋で見かけるプリンターの出力例を手に取ると、驚くほどキレイな画質に目を見張る。もちろん、「インクジェットであるから絶対どこか不自然なところがあるはずだ」などとアラを探せば、プリンタヘッドの走査線のようなものや、インクのドットが見えてくる。だが、そのように"鑑定"するような目で見なければ普通のプリント写真と出来栄えは変わらなくなったと言えよう。 ただし現実として、実際に受け取る年賀状にそのような素晴らしい画質のプリント出力は見当たらない。せっかくパソコンで加工したというのになぜこのようになるのだろう。 想像するに、いくら店頭のプリンターの性能が向上したとしても、個人ユーザーがそれを直ちに導入出来るとは限らないということか。いくら値段が安くとも、既に1台プリンターがあれば導入など考えまい。 例えば、去年エアコンを購入した者ならば、今年新製品が出たとしても買い換えない。そもそも、買いたい時に初めてカタログや店頭で機種を吟味するのであって、買いたいと思わないならば新機種が出ても気付きもしない。買おうとする時はあれほど研究したのに、買ってしまった後はどうでも良いことである。 とは言うものの、新型プリンターを導入した者も1人や2人いても良さそうだ。今新たにプリンターを買う者もいるであろうし、買い替えの時期の者もいて不思議ではない。それならば、1枚くらいはキレイなプリント出力の年賀状もあるはず。だが現実には、写真画質のプリント出力は無い。 単純に、プリンターだけの問題ではないということか。 現在、個人向けカラープリンターのほとんどがインクジェット方式を採用している。 液体のカラーインクを小さな飛沫にして用紙に吹き付ける。吹き付けるための方法に各社の工夫があるが、やっていることは皆同じ。 そういうわけで、年賀ハガキも最近は「インクジェット専用」というものも発売されるようになった。ハガキを買う時には必ず、普通のハガキなのか、それともインクジェット用なのかということを訊かれる。 なるほど、今年来た年賀状を見ると、パソコン出力のものはほとんどが「インクジェット専用」となっていた。 文具店などで売られている汎用インクジェット用紙を買うと、表面が艶消しになっているのに気付く。これはシリカコートによって吸湿性を高め、インク濡れによる汚れやニジミを防ぐ役割がある。この用紙を使えばベタ塗りイラストならばコントラストのあるメリハリの効いたプリントアウト出来るものの、写真のような階調表現では堅さやザラつきが目に付く。 「インクジェット専用年賀ハガキ」も、結局はそのような汎用用紙と同じである。 電器店店頭で見かけたキレイなプリンター出力例では、それぞれのプリンターに特化した「専用光沢紙」を使って性能を目一杯引き出してプリントされているのだ。用紙が全く違う。 結局、「インクジェット専用年賀ハガキ」というのは「インクジェットプリンターでクオリティ高く出力出来る」というものではなく、「インクジェットプリンターを使ってもインク濡れを防ぎ汚くならない」という意味しかない。 ところが「専用」という言葉が目に入ると、まるで専用光沢紙に準ずる用紙であるかのような錯覚を生んでしまうこともあろう。 少なくとも「インクジェット専用年賀ハガキ」が発売され続ける限り、パソコン出力の年賀状の写真クオリティはこれ以上向上することは無い。 インクジェットプリンターの性能がどれほど向上しようが、その性能を全て吸い取ってしまうのがインクジェット専用ハガキ。 こういった現状を前にすると、「やはり次もプリントゴッコで続けて行こう」と思ってしまう。 無理に写真を使い「元の画像はキレイだったんだろうな」などと勘ぐられるような出力物よりも、プリントゴッコの味を活かしたイラスト年賀状を作るのが最善と判断した。 しかも最近は、プリントゴッコの年賀状はどんどんパソコンプリントに移行しているのため、かえって新鮮味が出てきた。下絵の作成はパソコンを使うものの、プリント作業にはパソコンを使いたくない。 ・・・それにしても、プリンタメーカーも、特別な紙を使うことよりも普通紙でキレイにプリント出来る製品の開発にもう少し力を注いで欲しい。どれもこれも、「その気になれば良い色が出ますよ」というものばかり。 それはあたかも、化粧の上手い女と結婚してしまったメンクイ男のような心境か。実際に使うとなれば、そうそう専用光沢紙で印刷する機会など無いのが現実。 それを後で気付くのは悲劇かもな。 ---------------------------------------------------- [392] 2003年01月09日(木) 「道具の心」 以前、米メジャーリーグで活躍している日本人選手「イチロー」がテレビの取材に応えていた。 そのインタビューの中で記者が、「アメリカの選手を見て、日本人の感覚ではちょっと変だなと感ずるような事はありますか?」と彼に質問した。 イチローは少し苦笑いしながら答えた。 「結構ありますよ。」 話によると、アメリカ人選手は道具を道具としてしか見ないという。 例えば、使ったバットを放り投げたりするのは序の口。イチロー選手自身のグラブ(当然イチローモデルのやつだろうな)も、ベンチに置いておいたらその上に座られてしまい、煎餅のようにペシャンコにされたこともあったらしい。とにかく、自分のものも他人のものも区別無く、道具というものを大事にしない。それが、アチラの選手の特徴とのこと。 我輩はこの話を聞いてカルチャーショックだった。 確かに、アメリカ人は道具を道具としてしか見ないという話は以前にも聞いたことはある。 しかし、バットやグラブなどは自分の身体の延長線上にあるとも言えるもの。バットのちょっとした重心の違いやグラブの微妙な堅さ具合によってプレーにも影響を与えるだろう。それらは爪と同じように痛みを感じないが、身体の一部であるはず。そのような大切なものを、粗末に扱うとは一体どういうことか。 年間数億円もの金を稼いでいる野球選手であるから、破損した道具などすぐに新しく買い換えれば済むだろう。 だが、そういう問題なのか? 我輩が茶道(裏千家)の修行に励んでいた大学時代、道具というのは何より大切にすべきだと教わった。 茶碗の取り扱いなど、必ず両手で行わねばならぬ。片手で扱おうものなら先輩の叱責を受けた。それは、茶器を壊さないようにという気持ちもあるが、道具に対する心構えという意味が強い。 茶道の祖と言われる千利休は、高価で華美な茶器よりも、心のこもった質素な茶器を重んじた(質素な道具であっても時代を経ると骨董的高価となる場合もあるが)。 質素である道具にも、それを作った人がいる。そしてその道具を手にした巡り合い、そして、今この瞬間の時の流れ。それらを「わび」として心に感じ取る。 道具というのは元々、人間が道具の機能を利用するために造り出された。 例えば、手で土を掘り返すよりも、スコップという道具で掘ったほうが効率が良い。茶碗の場合も、手で湯をすくうよりも茶碗という道具を使ったほうが便利である。 しかしこのような道具との関係は、「一方的に利用する」だけのもの。機能を果たすか果たさぬか。その道具がこの場に存在する価値はただそれだけである。 しかし、茶道の本来の目的は「客人のもてなし」であることを忘れてはならぬ。 その目的を忘れ、道具一つ一つの機能に囚われていては良い点前(てまえ)とはならない。 如何に作法どおりに道具を使い、それぞれの道具がその機能を果たそうが、客人を楽しませること無くば、茶を点てることの意味そのものを失う。 (点前に直接関係無いような花や茶菓子の配置にも、客人の目を楽しませるために気を配る。それが、茶を点てずして茶を点てる心である。) 道具が単に機能すれば良いという場合、それは人に近い道具ではないと言える。 だが、茶道で使われる道具は極めて人に近い。それは決して、擬人化された道具への愛情などではない。敢えて言うならば、例えば、好きな人からの手紙が単なる紙片に思えぬということ。気軽にポンと投げるわけには行くまい。 茶道のように、道具の機能以上の精神性というものを追求するならば、それを使う人間の心そのものが道具の価値を決める。 その精神性とは、端的に言えば「楽しむ」ということである。 茶道は、「楽しむ」ものである。 我輩は、ダイヤル式カメラに質素な道具としてのエッセンスを感ずる。 単純明快であるが故に、その完成された美をそこに見る。 我輩は、その質素な操作形態を心で「楽しみ」写真を撮る。単に写真を撮れればそれで良いなどと考えるのは非常にもったいない。 今、この時代に生き、ダイヤル式カメラに出会い、それを使う。この幸運に我輩は感謝しよう。 写真という趣味も、「楽しむ」ものである。 ---------------------------------------------------- [393] 2003年01月12日(日) 「昔の敵は今日の友(2)」 およそ1ヶ月前、我輩は営業職から制作現場のほうに異動となった。 それに伴い、職場が田町から町屋へと移ったのだが、おかげで上野ヨドバシカメラへ寄ることが難しくなってしまった。今までは通勤定期券で途中下車するだけだったものが、これからはわざわざ切符を買い上野へ出向かねばならぬ。 そうは言っても、部署そのものが町屋から品川に引っ越しをするという話が持ち上がり、上野に寄るための苦労も半年くらい我慢すれば済むということが判明した。通勤時間は20分ほど伸びるが、品川のほうが以前と同じく上野が通勤経路に入るため有り難い。 さて、異動によって困ることがもう一つある。それは携帯電話のこと。 今までは、営業マンということで会社から携帯電話を支給されていた。 営業になった時、業務課の次長殿から「もし私用で使ったら給料から引くぞ」と言われた。我輩は、「給料から引かれるならば、気兼ねすることなく使えるな」と私用にもよく使った。だが、給料から引かれた形跡は1度も無かった。 これは便利だった。 最近は携帯電話の普及によって街角の公衆電話の数がかなり減った。携帯電話を家に置き忘れたことがあったが、その時は連絡を取るのに苦労した。少ない公衆電話では、たとえ見付けても他人が電話中である確率が高い。 そのような状況で制作現場に移ったわけだが、当然ながら携帯電話は返還せねばならない。そうなると非常に不便である。 我輩は元々、携帯電話など必要無いと思っていた。だが、支給された携帯電話とはいえ、今まで使っていた道具が無くなるのは痛い。かと言って少ない小遣いから携帯電話用に金を注ぐわけにも行かぬ・・・。 以上は余談である。 本当はこのようなネタで盛り上げるつもりは無い。近況報告を兼ねた前振りであった。 さて、携帯電話と言えば、最近は「カメラ付き携帯」が爆発的ヒットである。もはや、カメラが付いていないと売れないとさえ言われる。 本当かどうかは未確認だが、旅行先の記念撮影でもカメラ付き携帯で撮影している風景も見られるとか。 携帯電話のサイトにも作例が載っているが、一昔前のデジタルカメラに匹敵する画質になっている。この調子では、デジタルカメラが携帯電話に吸収されるのは、そう遠いことでは無かろう。 「バカな、餅は餅屋だ。単体デジタルカメラの高機能や使い勝手は越えらるものではないぞ。」 このように思う者もいるだろう。我輩もそう思う。例えば、カメラとして持ち易い形状が携帯電話として制限されるならば進歩とは言えまい。 だが、この種の製品のマーケットを左右するのは一般人である。カメラを趣味としているわけではなく、ただ写ればそれで良いと考える一般人。彼らが満足する製品を作れなければ、メーカーは潰れるしかない。 しかもタチが悪いことに、カメラを知らぬ一般人でも画質が良ければそれに越したことは無いと考える。そこで競争となるのが、これまた「CCD画素数」。このスペックがカタログ上で大きければ、競合製品を大きく引き離せる。 あるシンクタンクのアンケート調査によると、カメラ付き携帯電話の利用者の6割弱が、普及型デジタルカメラ程度の画素数が欲しいと考えているらしい。 要望があればそれはいずれ製品化される。カメラ付き携帯電話の未来が垣間見えるようだ。 我々がどう考えようが、デジタルカメラはいずれ携帯電話に吸収されてしまうだろう。 今、腕時計が売れないらしい。 時計など無くとも、携帯電話に時間が表示されるので不便は無いという。いつも持ち歩くならば、一般人は腕時計よりも携帯電話のほうを選ぶ。 同じように、いずれ、デジタルカメラが売れなくなる日が来るのかも知れぬ。 雑文288「昔の敵は今日の友」で書いたが、デジタルカメラと銀塩カメラが敵対関係にあるうちに新しい敵が現れると予想した。それは、今考えると、携帯電話ではなかったろうか。 今までデジタルカメラは、売れ始めたことにあぐらをかき特に何の努力もしてこなかった。確かに技術的な努力は認める。だが、明確なクラス分けやユーザーの意識向上を怠り、結局は趣味人(マニア)に背を向け大量の素人ユーザーを相手にするようになってしまった。 素人ユーザーは数が多く売れれば利益が大きいが、そっぽを向かれればもう終わりだ。趣味人のような贔屓(ひいき)も無く、すぐに裏切る素人ユーザーばかりで地盤が弱い。 そんな時に、新たな敵が現れた。カメラ付き携帯電話である。 流行に左右されやすいユーザーを持ったばかりに、いずれデジタルカメラは窮地に追い込まれよう。断言は出来ぬが、可能性は高い。 ユーザー数は減らしたものの、マニアの濃縮度を高めてきた銀塩カメラと手を組み、「カメラ専用機」としての連合を組まねば、デジタルカメラの存在価値は消えることになる。 昔の敵は今日の友。 ---------------------------------------------------- [394] 2003年01月15日(水) 「Q&A」 (※アンケートからリンク) サイトを開設して約3年。今までに頂いた幾つか寄せられた質問をここで簡単に回答し、以後同様な質問が来ないようにQ&A形式でまとめた。 なお、来た質問全てに回答したわけではない。 ------------ Q1 作品はどこにあるか? A1 作品と言える程度の画像サイズを何枚も載せられるほどサーバの容量が無い。また、そのようなサイトでも無い。一応、メニュー中の「写真置き場」には写真を置いてあるが、撮影テクニックなど全く関係無い被写体本位の写真ばかりである。 ここは啓蒙のためのサイトであり、写真展示を目的としたサイトではない。 ------------ Q2 雑文の下に「次ボタン」を作ってほしい。 A2 極力、更新を簡単にするために「次ボタン」は作っていない。更新するたび、一つ前の雑文に「次ボタン」を付けねばならなくなる。 ホームページ作成ツールを使えば管理は簡単だが、貧弱なパソコン環境でもテキストエディタひとつで更新出来るようにしたいのでそうなっている。 また、雑文はゴチャゴチャと書き込んでおり、前後の雑文の内容が混ざらないようにするため、メニューに戻って一呼吸を置かせる意味もある。 ------------ Q3 「カメラに電池がいるなんておかしい」という主旨の割には電池が必要なカメラを紹介しているのは矛盾している。 A3 これは当サイトの「主旨と説明」に関する質問である。併せて読むと良い。 「カメラに電池がいるなんておかしい」というのは主旨ではなく話の前振りである。このサイトの主旨はあくまで「今こそ基本に返り、単純明快で、人間に近いカメラを使おう」という箇所。 銀塩写真は原理的に電池が必要無いというのは覆せぬ事実。その事実を冒頭で述べ、極度に電子化された現代のカメラの必要性を問うた。我輩は、少なくとも「シャッター精度を上げるための電子化ならば理解できるのだが」という気持ちを込めている。一律に電子化を否定しているわけではない。無意味な複雑化(スパゲティ症候群参照:雑文134)を否定しているのだ。 ------------ Q4 我輩の年齢は? A4 雑文を読んで行くとだいたい分かるようになっている。 ------------ Q5 なぜ「ダイヤル式カメラを使いなサイ!」の最後の「サイ」だけカタカナなのか? A5 読む時のアクセントが最後のカタカナの部分にあるため。いわゆる強調。 似た用例では、「だってそうなんだモン!」というのがある。読み方のポイントは、「だってそうなんだ」と「モン!」との間に一呼吸の"溜め"があるということ。 「ダイヤル式カメラを使いなサイ!」も基本原理は同じ。 ------------ Q6 なぜそんなにF3を所有しているのか? A6 「保険」である。 某雑誌に、マツダコスモスポーツという旧い車を愛する者が出ていた。彼は、その1台の車に乗り続けるため、数台の部品取り用の車も所有しているという。もちろん、入手出来ない部品は業者に作ってもらう。しかし、バンパーなどメッキ部品などは当時の技術でしか立派な物は出来ない。自分の愛用物を使い続けるには、部品をストックするのは基本中の基本である。 但し、そうは言っても同じF3ばかりでは面白味が無いので、色々なタイプのF3を手に入れた。基本的な部品は共通なのでイザという時は流用し合える。 使い捨て・買い替えに慣れた者には一生理解出来ぬ世界ではある。理解出来ぬことを無理に理解する必要は無い。 ------------ Q7 2ちゃんねる掲示板に書き込んだか?スレッドを立てたか? A7 たまに閲覧することはあるが書き込むことは無い。もしそれらしき書き込みがあるならば、それは全くの別人である。 ------------ Q8 我輩の撮影ジャンルは? A8 ジャンル分けは不得手だが、当てはめるならば「風景」、「家族」、「商品撮影」というところか。 風景については、大きく2種類に分かれ、古い駅舎など我輩の少年時代の風景を感ずるような「懐かしい風景」と、火山や河川湖沼など「地質学的な興味を惹く風景」を好む。基本的に朝夕の光を避け、日中の色再現性の良い時間帯で撮影する。 ちなみに、今狙っているのは火口湖の「蔵王のお釜」。今年の夏にでも撮りに行きたい。 ------------ Q9 我輩の常用フィルムは? A9 35mmフィルムでは「Kodak KR(コダクローム64)」を常用していたが、「Kodak PRP(エクタクロームパンサー100プロ)」を経て最近は「Kodak EB-2(ダイナEX100)」を使用。 120フィルムではコストを抑えるため「Kodak EPP(エクタクローム100PLUSプロ)」を10本入りカートンで購入。現像上がりを急ぐ時は「FUJI RDP-2(プロビア 100F)」を5本入りで買う。ただし退色の面では、フジ製フィルムは心の底では信用していない。 ------------ Q10 我輩の好みの女性のタイプは?(こんな質問は来たことは無いが参考のため) A10 茶髪の日本人。必要条件であり十分条件ではない。 ------------ ---------------------------------------------------- [395] 2003年01月26日(日) 「ただボタンを押すだけのE.T.」 あまり知られていないかも知れないが、漫画家の楳図かずお氏は、実はUFO好きである。 彼は、映画「E.T.」が公開された当時、次のようなコメントをFMラジオのインタビューで残している。 「普通はですね、"宇宙人"って言えば、科学が非常に発達したイメージがあるわけじゃないですか。ところが、あの映画に出てくるE.T.というのは、それほど知能が高そうに見えないんですよねー(笑)。あれって多分、UFOの操縦席で、ただボタンを押すだけの宇宙人なんじゃないかなぁー。」 架空の物語について真面目に考察するのは意味が無いと言えばそれまでだが、しかしこの考察は現実味があるだけに興味深い。 我々地球人は、ある程度の科学文明を築いてきた。 深い海を潜り、高い空を飛び、長大なトンネルを掘り、海に橋を架け、遠距離間で通信し、太陽系外まで探査船を送り出し、核兵器という自滅兵器まで造り出した。 しかし、一人一人の人間がそのような科学文明を持っているかと言えばそうではない。科学文明とは、人類という種が全体として共有する財産である。 人はそれぞれ職を持ち、社会と関わっている。それぞれの職場の進歩が社会全体の進歩に繋がり(いわゆる予定調和)、それが科学文明を支えているのだ。人間一人が、全ての技術や知識を持っているわけではない。 (雑文260参照) 従って、我々の日常生活の中でも、仕組みも知らずボタンを押すだけの機械が多くある。 冷めた飯を電子レンジで暖めて食べる時、必要なことは電子レンジのボタンを押すことのみ。電子レンジの中にマグネトロンチューブ(真空管の一種)があり、そこから高周波が出て水分子を振動させるという仕組みなど、知っている主婦はほとんどいない。ましてや、マグネトロンがどのように働いて高周波を発生させるかということなど、技術者以外に誰が知っていよう。 だが電子レンジを活用し、あっと驚くような裏技的調理法を編み出す主婦がいるのも事実。機械の構造を知らずとも、使う人間が電子レンジの使い方を熟知し上手に活用出来れば、その機械が道具として活きてくるのである・・・。 さて、今まで雑文で何度も話題にしてきたことだが、カメラやレンズなどの機材にこだわる人間とそうでない人間がいる。 そのことについて、人それぞれ、楽しみもそれぞれであるという主張をした。だが、それではあまりに無責任過ぎる。我輩を含む機材にこだわる者たちが、単に"変人"あるいは"オタク"と呼ばれたままにしておくのも嫌な話だ。 何とか、機材にこだわる者を擁護するための論理的説明は出来ぬものか。そう考え、我輩は今回の雑文を書くに至った。それが以下の内容である。 カメラの場合、写真を撮る者がカメラの仕組みを知っていることは少ない。 ボタンを押すと液晶画面の数字が変わり、露出計の表示が変化する。カメラ内部で何が起こりそのような動きをするのか。写真を撮る者にとって、それは重要ではない。 道具はあくまで道具であり、その仕組みを知ることよりも、上手く使えることのほうが利益をもたらす。 だが、我輩は違う。 ふと手にした道具を、どんな仕組みで動くのか、どうやって造られたのかということを考えてしまう。なぜならば、我輩には好奇心というものがあるからだ。 好奇心に理由など無い。必要があって生じるわけではない。 日常生活に於いて、電子レンジの仕組みを知れば何かの役に立つかと言えば、それはまず無いと言い切れる。「水分を含むものだけを加熱する」とか、「アルミホイルに包まれたものは入れないようにする」など、幾つかの注意点さえ知っていれば済む。わざわざ「水分子が分極しているから」とか、「電磁波は金属で反射する」などという、日常に馴染みの無い原理など知らなくても良い。 電子レンジを上手く使うのは、技術者ではなく主婦なのだ。 同様に、写真を撮る時、カメラやレンズの構造や材質などを知る必要は無い。 電子レンジを上手く使いこなす主婦の如く、カメラをセンス良く使いこなすことが写真を撮る人間のあるべき姿である。 だが、我輩には好奇心がある。 カメラを手にし、この小さなボディの中にはどんなカラクリが仕込まれているのだろうかと考える。 写真を撮るために必要というわけではない知識。だが、我輩の好奇心はそのような区別をせず「知りたいものは知りたい」と我輩の中で騒ぎ出す。その結果、我輩の本棚にはカメラ関係に留まらずありとあらゆる本が溢れた。 特に、講談社ブルーバックスシリーズは素人でも読めるため、今までに何冊か購入した。例えば、コアレスモータやステッピングモータ、そして超音波モータなどはカメラに深く関わる技術であり、「モーターのABC(見城尚志著)」と「モーターを創る(見城尚志・加藤肇著)」は、我輩の好奇心を満たしてくれた。 他にも、オーム社ハンディブックシリーズは、図鑑を眺めていた子供の頃の気持ちと重なる。 もちろんカメラ関連の書籍も、具体的なカメラやレンズの図解を提供してくれる。 現代カメラ新書シリーズは手垢が付くほど何度も読み返したものだ。それはもちろん、勉強のためではない。ただ、好奇心を満たすため。 例えば、レンズ設計の苦労について、興味深く読んだ箇所があった。 昔は、一眼レフ用のレンズの設計には一苦労あったようだ。 ミラーボックスのスペースが必要であるから、バックフォーカスを長く取る必要があった。だが1960年前後のレンズは設計が未熟で、ガウス型標準レンズでは、F1.4などという明るいものは55mmや58mmという少し長めの焦点距離で作らざるをえなかったという。 これを読んだ時、我輩の所有機「KONICA FT-A」の標準レンズ「HEXANON 57mm F1.4」が愛(いと)おしく感じられた。57mmという中途半端な焦点距離には、そういう事情があったのだと、その時初めて知った。 そのレンズを手にすると、本で見たレンズの構成図が見えるようだ。そして同時に、当時の技術者の情熱をレンズを通して感ずる。 そういうふうに機材を眺めると、同じ仕様のカメラやレンズでも、それぞれが唯一無二の存在であることを感ずる。そして、「写真を撮るにはカメラが2〜3台あれば十分だ」などと単純に割り切れなくなる。 (我輩のF3については予備の意味が強いが、それ以外のカメラやレンズはそれぞれに唯一無二の存在。) カメラの製造には、非常に多くの人間が関わっている。すなわちカメラは、人類の代表的科学技術の一つであると言えよう。 我輩は、そんなカメラのボタンを、ただ押すだけの存在にはなりたくない。我輩の好奇心がそれを許さぬ。このカメラのボタンの下に何があるか。ギアがいくつ噛み合っているのか、力をどんな方向に伝えているのか、他のメーカーとどのような違いがあるのか・・・。そしてそのカラクリを知った時、そんなメカニズムを持つカメラやレンズに対する愛着と、それを作りだした技術者に対する尊敬が生まれる。 当時の技術者たちが夢を以て作りだした仕組みのカメラやレンズ。我輩は手に取り写真を撮る。別のカメラで同じ写真が得られるとしても、我輩には同じとは思えぬ。 精密に切削されたカムやギア、何度も練り上げられたソフトウェア、限られたスペースに実装された電子回路、時間をかけて磨かれた非球面レンズ、限界まで突き詰められたレンズ設計・・・。 我輩は、そんな魅力的なカメラやレンズを感ずることの出来る側にいる。そして、地球の技術文明を誇りに思う。 我輩は、ただボタンを押すだけのE.T.ではない。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> ボタンの下にはどんな部品がありどんな動作をしているのか、それを知ったところで写真を撮る行為には直接関係無いのだが・・・。 ---------------------------------------------------- [396] 2003年01月30日(水) 「auto110再来を願う」 フルサイズデジタル一眼レフカメラの「フルサイズ」とは、35mmカメラの画面サイズと同等な大きさであるという意味を持つ。 それは、銀塩35mm一眼レフの完成されたレンズシステムを流用出来るというメリットが大きい。 それ故、デジタル一眼レフカメラの最終目標として「フルサイズ化」が求められていたのである。 ところが、35mmフルサイズの面積は、CCDとしては大き過ぎる。あまりCCDの面積が大きいと、技術的難易度も高く製造コストも掛かる。コストダウンはそのうち実現されようが、現状ではまだまだ高過ぎる。 また、規格(フランジバックやイメージサークル)が銀塩35mmカメラと同じであるならば、コンパクト化にも限界があると言える。 そこで、小型のCCDを使ったデジタル一眼レフカメラがあれば、コンパクトで用途の広い製品が出来るのではないかと思った. 現状では、一眼レフタイプのデジタルカメラは、レンズ一体型のものも含め価格もサイズも重量も大げさなものしか無い。 そんな時、我輩はいつも「PENTAX auto110」を思い出す。 一眼レフカメラでありながら、てのひらサイズのコンパクトなボディ。バックフォーカスやイメージサークルが小さいため、レンズも驚異的に小さかった。 <<画像ファイルあり>> 雑文178では、110カートリッジの形状を模したデジタルカメラがあれば嬉しいと書いた。しかし、とうの昔に販売を終えたカメラに対してそのような製品が作られるわけが無い。 事実上絶滅したフィルムフォーマットのカメラであるため、カメラ自体、生き残っている個体も少なかろう。 ならばコンセプトはそのままに、新たにデジタル一眼レフカメラ「auto110-Digital」を造れば良い。 これこそ、110フルサイズCCD搭載のデジタルカメラである。 一眼レフゆえ、パララックスも無く、ファインダー内でピントが確認出来、コンパクトながらもレンズ交換のギミックが楽しめる。 画素数も、今どきのCCDであれば実用に十分であろう。 110フィルム時代には遊び程度の用途しかなかった「auto110」であるが、もし仮にデジタル版としての「auto110-Digital」が作られることになれば、その特長をフルに活かし、実用的なカメラとして生まれ変わるに違いない。 小さくとも画質(画素数)を保つことが可能になった現代のデジタルカメラ。しかし残念ながら、メーカーはその利点を活かしきれていない。 一眼レフとして必要な、可動式のミラーやファインダースクリーンを組み込むのは難しいだろうが、液晶画面に表示する「擬似一眼レフ」形式では、表示される画像は粗く、ピント確認は不可能である。 結局現状では、一眼レフの機能を求めると大きく重い大げさな製品を選ぶしか無い。 大型化に結びつくAFや電動ズーム、そして、それらに必要な大容量バッテリー。それらを省き、ちょっとシンプルにすれば、デジタル一眼レフが劇的に小型化するのではないか? 全てのデジタルカメラをそのようにしろと言っているわけではない。 百の製品のうち、一つでもそのようなデジタルカメラがあればいいのだが・・・。 「auto110」の再来を、切に願う。 ---------------------------------------------------- [397] 2003年01月31日(金) 「大画面液晶パソコン」 最近、コタツで使用している"コタツトップノートパソコン"「SHARP Mebius PC-PJ2」の調子がおかしい。 液晶画面の端に、表示されないエリアが縦横に現れた。画面の端なので、決定的な問題とは言えないが、ウィンドウを最大化させた時にスクロールバーが隠れてしまうのは不便に感ずる。 しかしよく考えると、他にも小さな不満点があることを思い出した。 内蔵バッテリーも寿命らしく、ACアダプタ無しでは10分と保たない。 また、キートップやパームレスト部の塗料が剥がれて貧乏クサイ。 それから、CPUがPentium2-300MHzと遅く、画面がSVGA(800x600ドット)で少々狭い。 使えなくなったわけではないが不便である。 そういうことをヘナチョコ妻に言ってパソコン購入資金をねだった。借金は限界までしているので、もうねだるしかない。 このパソコンは1999年購入であり、今年2003年で足かけ5年となる。ヘナチョコは「たった5年で壊れるの」とブーブー言ったが、何とか納得させて8万円前後の予算を獲得した。 インターネット上で中古パソコンを検索し、ショップやオークション等を見て回った。そして、8万円前後の予算があれば、XGA(1024x768ドット)表示液晶、Celeron600MHzくらいのスペックが手に入るということが判った。 しかしながら、画面上で幾つかのショップやオークションの物件を並べて表示させると、液晶画面についての性能表記が不備なものが幾つもあることに気付いた。 通常、液晶画面は、「対角線のサイズ(インチ)」と「縦横ドット数」で表す。例えば、「XGA(1024x768)12インチ」などと書かれる。 しかし、オークションのような個人出品のものだけでなく、ショップの表記にも「12インチ液晶」などとインチ数だけしか書かれていないものが意外に多い。インチ数だけ分かっても、ドット数が分からなければ画面の表示可能な情報量が分からない。 仕方無く、メーカーサイトから一つ一つの機種のスペックを調査することになる。 まあ、この程度の情報は、インターネットで調べれば分かる。しかし、ここでふと思った。 「一般人は画面のインチ数しか見ていないのか?」と。 そう言えば数年前、同僚から「ノートパソコンを買いたいが、画面は12インチあれば十分だよな?」と訊かれたことがあった。 我輩は、「画面の大きさだけあってもドット数が少なければ不便だぞ」と指摘した。テレビではないのだから、画面だけ大きくても仕方無い。 だがソイツには、我輩の言いたいことはあまり伝わっていない様子だった。 結局、ソイツの購入したパソコンはXGA(1024x768ドット)だったようだが、恐らくSVGA(800x600ドット)でも気付かなかったろう。何しろ、職場のパソコンはXGA表示可能な液晶デスクトップだったが、表示はSVGAになっていた。 確かに、インチ数が決まればドット数も一意に決まるものなのかも知れない。だが、その関係はノートパソコンの発売時期によって微妙に変わるであろうし、一般人がそのようなことを全て把握したうえで「12インチが良い」と判断しているようにも思えない。 巷では、ノートパソコンの画面は、インチ数だけが価値判断なのか? 解せぬ・・・。 ところで、デジタルカメラの世界では、レンズ交換可能な一眼レフタイプは高価で少数である。一般に普及しているのは、圧倒的にズームレンズ一体型のデジタルカメラ。 そこで性能の比較となるのが、ズーム比率の数値だ。 去年我輩が購入したオリンパスのデジタルカメラは10倍ズーム搭載機。メーカーとしてもこれは売り文句であり、ボディにも誇らしげに「x10」の文字がある。 しかしズーム比というのは、短焦点側と長焦点側の焦点距離変化率を表したものである(長焦点mm/短焦点mm)。例えば5.4mm〜10.8mmズームであれば、「2倍ズーム」、6.5mm〜19.5mmズームであれば、「3倍ズーム」となる。 しかしこの数値は、巷では映像の拡大倍率として解釈されているふしがある。 例えば「やっぱりデジカメ買うとしたら、8倍ズーム以上あれば足りるかな?」と尋ねられたりする。 だが「ズームの焦点距離とCCDのサイズが分からなければ判断のしようが無い」などと答えても、一般人には理解してもらえまい。結局、「まあな」と適当に流すことになる。 確かに、ズーム比が大きければ大きいほどカバーする範囲が広がるので、有用であることには間違いない。しかし、我輩には8倍ズームが本当にその人間に妥当な性能かどうかは判断出来ぬ。 せいぜい、「今どきの性能だな」という程度しか分からない。いやそれでも、短焦点側があまり広角でないとすれば、いたずらに望遠寄りなだけで、いくら8倍ズームであろうと広い風景など撮れはしない。 これはまさに、ノートパソコンの液晶画面に対する価値観のようだ。 しかし、この問題は自分だけ認識していれば良いかと言えばそうでもない。 よく見渡せば、今のデジタルカメラはズーム比ばかり前面に出し、他の性能を犠牲にするようにもなった。 本当に困ったものだな。 ---------------------------------------------------- [398] 2003年02月04日(火) 「勝つためのこだわり」 昨年11月10日、職場のT主任が所属するソフトボールチーム主催の親善試合が行われた。相手は同じ県内の2つのソフトボールチームである。 我輩はT主任の要請により、応援を兼ねた撮影を行った。 ソフトボールの撮影は、今回が2度目となる。 撮影コストを下げるため、デジタルカメラ「Canon EOS D-30」にて撮影した。だが、デジタルカメラゆえにタイミングをはかるのが難しく、シャッターの無駄切りが多かった。 そもそもスポーツ写真の経験があまり無いため、前回もそうだったが今回も一般人受けしそうな望遠撮影による"背景ボカシ写真"でお茶を濁した。それでも「プロが撮ったみたいだ」と騒いでくれた。 さて、肝心な試合の内容は、残念ながら2試合敗北であった。 1試合目は、相手打陣の猛攻撃を受け、初回から大量失点。最終回で相手の守備の乱れを突き4点を返すが、打線の不調がたたり4対13で敗北。 2試合目は、初回先制するもすぐに追い付かれ、要所は相手投手によりキッチリと押さえ込まれ最終的に6対8と逆転された。 なぜこのような結果となったのか。 T主任はこう言って嘆く。 「せっかくやるからには、勝つためのこだわりが必要だと思う。しかし我がチームは、勝っても負けても同じ雰囲気で試合が終わる。負けて悔しいならば、バットを叩きつけて帰ってくるくらいの気迫が欲しい。悔しさをバネにすれば、自宅で素振りの一つくらいは出来るだろうに・・・。」 様々な職を持つ様々な年代の人間が、ソフトボールという趣味で集まりチームを作った。しかしメンバーの一人一人が、試合に負けても「俺はアマチュアだから」あるいは「これは趣味に過ぎないから」などと自分に甘えていれば、チーム全体が試合に勝てない雰囲気になるのは当然。そこには、勝つためのこだわりが無かった。 T主任の嘆きを聞き、我輩も自分の身を引き締めた。 雑文254「ジンクス」でも書いたことだが、我輩は他人から見れば意味の無いこだわりを持つ。「トリミングをしない」ということはその中の一つ。また、「記録として遺す写真には66判リバーサル以外は使わぬ」ということや「フィルムで撮影した写真は、失敗を取り繕うようなデジタル修正をしない」ということも最近のこだわりである。 我輩にとってそのこだわりは、ソフトボールの試合のようなもの。「アマチュアだから」とか「趣味に過ぎないから」などと言っていれば、それこそ歯止めのきかない降下を続けるしか無い。いったん一つの妥協を許してしまえば、他の部分でこだわる意味も無くなる。結果、趣味をやること自体に目的を失う。 ソフトボールでは、試合に勝てばやはり達成感が得られる。趣味であろうとなかろうと、負けた時では味わえぬ喜びがある。同じく、写真活動にて妥協無く写真を手にすることが出来れば、達成感が得られぬはずが無い。 現在、写真をデジタル化してしまえばデジタルカメラや銀塩ネガ及び銀塩リバーサルは等価となった。どんな手段で撮影しようと、デジタルデータを介して印画紙に焼き付けることが出来る(メディアプリントやデジカメプリントなど)。昔のように、リバーサルフィルムからのダイレクトプリントで階調が堅くなるということも無い(参考:雑文318「メディアプリント」)。 いったんデジタル化してしまえば、例えば露出過不足のある写真でも使える場合がある。画面に写り込んでしまった邪魔な電線を消してしまうことも出来る。僅かなピンボケもごまかすことが出来る。 それはつまり、従来では失敗とされた写真でも救済可能になったことを意味する。 もちろん、完璧な失敗写真では救済不可能ではあるが、従来ならば諦めざるを得なかった写真でも、デジタル補正によって利用可能な範囲に入るようになったことは確かだ。 だが我輩は、あくまでもリバーサルフィルムを原版と位置付け、パソコンに取り込む時には、その原版に忠実になるよう努力している。原版が失敗であれば、いくらパソコン画面上で取り繕うことが出来るとしても、もう一度撮影する。満足できる原版が上がるまで何度でも撮り直す。撮り直しのきかないものであれば諦める。 それが我輩のこだわりの一つである。 (厳密に言えば、トランスパレンシー(透過光)による膨大な情報量をRGB各8ビットの狭い範囲に収めることは不可能であるが、見た目の印象を原版に近付けることは出来る。) もしこのこだわりを捨てれば、自分に対する甘えが生まれ、「原版はボロボロであるがパソコン表示とプリント写真はピカピカ」という矛盾を抱えることになろう。 だが現在のところ、パソコン画面上に満足出来る写真が表示される時、それはつまり、満足出来る原版が手元にあるということである。満足感や達成感が違う。 ソフトボールの試合では、勝ち負けというのは客観的に評価される。そういう意味では解りやすい。 だが写真というのは、勝ち負けが主観的である。どこまでが負けか、どこからが勝ちか。それは自分の決める"こだわり"そのものである。 だからこそ、自分がキッチリと「これは負けだ」と線引き出来るこだわりを持たねば、ズルズルと自らのレベルを下げることになる。 「プロではないのだから」とか「趣味だから」などと自分に理由を付けて逃げるとすれば、それはつまり、勝ち負けのレベルを下げる行為である。弱い相手ばかり選んで試合するようなもの。 勝とうとするこだわりがあるならば、自分に目標を課し、乗り越える努力をすべし。 趣味の目的は、その向こうにある。 写真にこだわり、カメラにこだわり、自分にこだわる。そしてそれらが努力を生む。 努力もせず目的を語るヤツには、自分の生きる目的すら掴めまい。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 勝つためのこだわりを常に持て。 ---------------------------------------------------- [399] 2003年02月07日(金) 「盗撮に最適」 学生時代は、カメラ・写真が趣味だと言うと「カメラ小僧か」などと言う者が必ずいたものだ。カメラに対するイメージというのは、多少怪しく見える部分がある。 最近、盗撮事件のニュースがかなり多くなった。 先日も、タバコの箱にデジタルカメラを仕込み、女子中学生のスカートの中を盗撮した44歳の男が捕まったというニュースがあったばかり。 タバコの箱に入るカメラという話から、「あのデジカメか?」と推測をしてみたりする。 最初から盗撮目的で購入したのであればどうしようも無いが、たまたま小さなデジタルカメラを購入したことにより、「これは・・・盗撮に使えるかも知れないな」などと想像を膨らませ(要するに魔が差して)、恐る恐る実行に移したら上手く行ったという場合もあろうかと思う。だが、それに味をしめて何度もやっていると、今回のように捕まることになる。 恐らく見付かっていない盗撮者は、報道されている数の何倍もいるはず。 コンパクトなデジタルカメラとは別に、カメラ付き携帯電話の問題もある。 気軽に撮るアイテムとして使われる一方で、盗撮に使われるケースもかなり多いと言われる。日常的な道具である携帯電話にカメラを組込むことで、カメラを隠すことなく相手に気付かれずに撮影することが出来る。撮影音も雑踏の中では気付きにくい。 そもそも、カメラ付携帯電話のテレビコマーシャル自体、盗撮での用例を紹介しており驚かされる。これでは、潜在的盗撮予備軍が盗撮道具を与えられ芽を出すことになる。 盗撮問題は以前からあったが、ここ最近は盗撮に走るまでの敷居が非常に低くなったと言えよう。 カメラが小さくなればどこにでも持って行けるという手軽さはあるが、それ以上にカメラを持つことが肩身の狭い思いをするような世の中になるのは勘弁してもらいたい。そうでなくとも、現像に出す必要の無いデジタルカメラは盗撮には最適過ぎる。 痴漢冤罪の話などよく聞く。やっていないことでも罪に問われるということは、あり得ないことではない。 インターネット上で知ったエピソードだが、海辺を撮影していたら、近くにいた男に「娘を撮ってどうする気だ?」と殴られた。確かに、砂浜には5〜6歳の女の子が遊んでいたが、広角レンズでは点のようにしか写らない。男にファインダーを覗かせてようやく解放されたという。 小さなカメラを常に持ち歩くカメラ好きには他人事と言い切れるかどうか。通勤電車の中で変に疑われて鞄の中を調べられれば、怪しいカメラが出てきてコンニチワ。その時点で疑いはピークに達す。前の日にたまたま彼女とふざけて盗撮ゴッコした画像が入っていようものなら、身に憶えのない余罪も追求され社会復帰は不可能となろう。こういうシチュエーションでは、いくら説明しても警察は言い逃れとしか思わないので甘く考えるな。 それにしても恐ろしい話だ。 少しくらい持ち運びに不便な大きさのほうが、カメラとして健全だと思う。盗撮など思い付きもしないような、カメラらしいカメラ。 そして盗撮者も、どうせ盗撮するのならば、盗撮していることが誰の目にも明らかになるようにやって欲しい。そうすれば、普通に撮影をしている者との区別が出来る(下図参照)。 まさか、自分の娘を撮影しているだけで白い目で見られるような世の中にはならんだろうな・・・? <<画像ファイルあり>> 盗撮者は報道を見習い腕章を付けよ ---------------------------------------------------- [400] 2003年02月12日(水) 「ネオパン-Fが嫌いな理由」 我輩は、モノクロフィルム「FUJI ネオパン-F」があまり好きではない。その理由をここで白状する。 中学生の頃、金が無いのでモノクロフィルムをよく使った。 今であればカラーのほうが0円プリントなどを利用して安く済ませられるが(クオリティは望めないが)、当時はモノクロのほうがDPEも安かった。 当時はコンビニエンス・ストアなど無く、町に1軒あった写真館だけがフィルムを購入出来る唯一の店だった。 そこは夫婦が経営する小さな写真館で、置いてあるフィルムの種類も少なく、フジのASA100(今で言うISO100)のカラーとモノクロだけだった。 今考えると、町の小・中・高校の体育祭写真や修学旅行の写真、生徒の証明写真などが主な収入源と思われる。フィルムなどあまり売る気も無かったろう。 それでも我輩は、「白黒のフィルム下さい。」と言って「FUJI ネオパン-SS」を買っていた。他のフィルムは知らなかったのだから、それが我輩にとっての唯一のモノクロフィルムだった。 最初の頃は写真館に現像と焼付けをしてもらっていた。 だが、いくらモノクロが安いとは言うものの、それは「カラーよりも安い」ということでしかない。やはり金はかかる。 当時、我輩は中学で科学部に所属しており、我輩の他に部長のオカチン、クラッシャー・ジョウ、そして強がり者Kがいた。 科学部では天体観測などをやったりしたが、そこから写真へ関心が移り、いつしか部内では写真活動が主になってしまった。 ジョウは昔からカメラを持っており、PENTAXのカメラを振り回していたが、不思議とヤツの撮った写真を見たことが無い。 強がり者Kは、ヤシカのレンズシャッター機を使っていたが、「いつかMAMIYA ZE-Xを買うてやる!」と宣言したものの、なぜか「Canon A-1」とタムロンの望遠ズームを購入していた。ヤツはいつもタムロンのアダプトールに翻弄され、「レンズがハマらん!」「レンズが取れん!」などといつも騒いでいた。そのためかどうか、コイツの撮った写真も見たことが無い。 我輩は「Canon AE-1」を使っていたが、それをオカチンに買い取らせ、その金と貯金を合計して「Canon AE-1P」を購入した。 AE-1Pの購入には、オカチンと共に自転車で隣町の行橋まで出掛けて行き、10店舗くらい回ってそれぞれの店長と掛け合った。その中で一番安い、京都高校前のそごうに入っていた高千穂カメラで購入することにしたのだ。 ジョウと強がり者Kは別として、我輩とオカチンは写真活動に必要な費用捻出に苦しんでいた。そこで、何とか理科準備室にある写真現像用暗室を活用出来ないかと考えた。そこには古い引伸し機もあった。 2人で金を出し合い、学校帰りに写真館に寄って現像液とモノクロ印画紙を注文した。ネガの現像は方法が分からなかったので、それは店に頼むことにした。 引伸し機の錆を落とし、現像液と印画紙を手に入れ、何とか焼き付け作業を行った。 初めて自分で焼いた写真に、オカチンと我輩は感動した。 ある日、我輩はいつものように写真館に寄った。 戸を開け、「すいませーん」と言うと、「はいはい」とオバちゃんが出てきた。いつもならオイちゃんがいるのだが、その日は撮影にでも出掛けているのだろうか。 我輩はいつものように「白黒フィルム下さい」と言った。するとオバちゃんは「安いのがあるよ」と言った。 我輩は安いという言葉に反応してしまった。オバちゃんは、ショーケースから2つの小さな缶を取り出してカウンターに置いた。 <<画像ファイルあり>> 確かこんな形だった。 缶は中央部が黒いビニールテープで封がされており、中身は確認出来なかったが、オバちゃんが言うには普通とはちょっと違う白黒フィルムだということだった。 "ちょっと違う"という意味が分からなかったが、オバちゃんもそれ以上のことは知らない様子だったので、我輩はその"ちょっと違う"フィルムを使ってみることにした。 写ればそれで良い、安ければそれで良い。 家に帰って缶を開けてみると、いつものネオパン-SSよりも薄い緑で印刷されたパトローネが出てきた。確かに、雰囲気がちょっと違う。 とりあえず、どう違うのかを見るために撮影した。とにかく普通に撮った。 だが、現像が上がってみると、どれもこれも濃度が薄かった。 「やられたー、緑色が薄いのは、ネガが薄いっちゅうことやったんかー!」 残されたもう一つの缶を開け、改めて見てみると、パトローネには「ネオパン-F」の文字が・・・。 今考えると、単にネオパン-FのASA32という低感度が露光不足であったのであるが、当時の我輩にはそのフィルムがインチキなフィルムであるかのような印象を受けた。 せっかく安く手に入れたフィルムだったが、これではどうしようもない。残りの1本は、使った記憶が無い。今も実家の倉庫のどこかに眠っているだろうか。 我輩にとって「ネオパン-F」は、今でもインチキフィルムという印象が強い。そして同時に、あのオバちゃんもインチキ臭い存在となってしまった。 長々と書いたが、これが、ネオパン-Fが嫌いな理由である。 ---------------------------------------------------- ダイヤル式カメラを使いなサイ! http://cam2.sakura.ne.jp/