「カメラ雑文」一気読みテキストファイル[301]〜[350] テキスト形式のファイルのため、ブラウザで表示させると 改行されず、画像も表示されない。いったん自分のローカ ルディスクに保存(対象をファイルに保存)した後、あら ためて使い慣れているテキストエディタで開くとよい。 ちなみに、ウィンドウズ添付のメモ帳ごときでは、ファイ ルが大きすぎて開けないだろう。 ---------------------------------------------------- [301] 「複数の映像が捉えた事件」 [302] 「小さな判断材料」 [303] 「写真はレンズが肝心」 [304] 「つられてはならぬ」 [305] 「ステレオマクロ」 [306] 「オイちゃん」 [307] 「幻影」 [308] 「ホメ殺し」 [309] 「オモチャ」 [310] 「シャッターの誤差」 [311] 「数字盲信」 [312] 「オモチャ2」 [313] 「見方と味方」 [314] 「防げぬ消耗」 [315] 「デジタルカメラの買換え」 [316] 「どうにも解せぬ」 [317] 「安物買いは正解か」 [318] 「メディアプリント」 [319] 「他力本願なテスト撮影(35R)」 [320] 「メディアプリントを実用する」 [321] 「我輩に丁度良い店」 [322] 「本末転倒の節約」 [323] 「恥知らず企業ニコン」 [324] 「小さな野火」 [325] 「ロシア製デッドコピー」 [326] 「覗き」 [327] 「Nシステム」 [328] 「予定調和」 [329] 「眼鏡が壊れたら」 [330] 「映像関係者の知識を問う」 [331] 「ハンドグリップ試用レポート」 [332] 「旧製品をゲット」 [333] 「時間を掛けた買い物」 [334] 「画像収集(2)」 [335] 「開放F値優先AE」 [336] 「手段と目的」 [337] 「最初に水没するのは」 [338] 「NewFM2ユーザーが羨ましい」 [339] 「根性」 [340] 「手段と目的(2)」 [341] 「Canon TS-E 90mm F2.8」 [342] 「イモ増殖中」 [343] 「モデルを選ぶ」 [344] 「長期休暇計画」 [345] 「写真を遺そうと思う者へ」 [346] 「ズームレンズが欲しい」 [347] 「デジカメは露出計となり得るか(テスト編)」 [348] 「デジカメは露出計となり得るか(実践編1)」 [349] 「デジカメは露出計となり得るか(実践編2)」(撮影途中のため継続中) [350] 「写真歴」 ---------------------------------------------------- [301] 2001年09月14日(金) 「複数の映像が捉えた事件」 11日夜、過ぎ去ったばかりの台風の後情報を得ようとテレビをつけると、アメリカの世界貿易センタービルに航空機が突っ込んだというニュースが目に入った。ビルがまるで煙突のように黒煙を吹いている。 その様子はまさしく進行形の映像だった。いや、現時点でも事件そのものは進行形である。死者の数も把握出来ない状況らしい。情報も錯綜しており、確実な情報が未だ少ない。 テレビには、航空機がビルに突っ込む瞬間の映像が生々しく映し出された。それはまさに映画の世界のようだ・・・。 世界貿易センタービルは2棟あるとのことで、そのうち1棟がまずやられた。その時の映像は、偶然に撮られた1本しか無いらしい。 しかし、最初のその事件が多くのテレビカメラを集めることとなり、それから約20分後に起こった2棟目のビルへの攻撃では、あらゆる角度からの映像が複数撮影された。我輩の見た限りでは4〜5本の映像があったろうか。 同一事件の映像を様々な角度から見られることはあまり無い。そもそも予測不能の事件が映像として撮られること自体が希なことであるから、今回のことは非常に珍しいと言える。 最初の映像は、双発の小型ジェット旅客機と思われる航空機が画面右側から飛来したものだった。その航空機がビルの陰に隠れたかと思うと同時に、爆炎が手前に向かってビルを貫いた。 凄まじい映像には違いないが、正直言って実感が湧かない。それはまるでミニチュアか何かのようにも感じられた。平面的なブラウン管の映像は、その航空機を現実のものとして認識させなかった。 しばらくニュースを見ていると、新たな映像が放送された。今度は航空機を左側に見る角度の映像だった。 航空機はまるで普通に着陸するかのように低い高度で飛んでいる。周りのビルをかすめ、そのまま通り過ぎるように思われた瞬間、いきなり目標のビルに突っ込んで炎を上げた。 ビルに突っ込む瞬間は鮮明に捉えられており、ビルの破壊の様子も見えた。 さらに別の映像が入ってきた。これはビルの真下から見上げるようなアングルで写された映像で、遠近法的描写により上に行くほどビルが細くなって見えている。それはつまり、ビルに突っ込む航空機の距離とその大きさを肌で感じさせることになった。 そして決定的な映像として、真正面に機体が突っ込んで行くものを見た。その映像はまさに、航空機の操縦者の視点である。操縦者が見たであろうこの世の最後の風景、それを我輩も見たような気持ちになった。 後の報道により、その航空機はハイジャックされた民間機だと知った。あらためて映像を見たが、ビルに突っ込む航空機の中に、死に行く乗客の姿を見たような気がした。 1年前のコンコルド墜落事故では、墜落した瞬間の映像は無く、炎を吹き出しながら飛ぶ様子が捉えられたのみだった。しかし、今回の事件では、まさにその瞬間の映像である。しかも同時にいくつものカメラが捉えていた。想像・創作の入り込む余地無く、その映像をただ目に焼き付けるのみ。 時間が経過するにつれ、複数撮られた映像やビルの位置関係の情報が集まっていき、事件の様子が立体的に浮かんで来た。 心の中で複数の映像が統合され、ディテールを補いながらリアルな世界の映像を目の前に見る。それはあたかも、自分自身がその現場にいて実際に目撃しているかのようだ。「これは本当に地球の裏側での出来事なのか」と何度思ったことか。 事件・事故の映像は過去にはいくつも報道されてきたが、今回の事件のようにあらゆる角度から同一事件を見るのは初めてである。恐らく他の誰もがそうだろう。 事件そのものについてのコメントはここでは差し控えるが、映像としては実に驚くべきものだった。 我輩は、この光景を一生忘れないだろう。 ---------------------------------------------------- [302] 2001年09月19日(水) 「小さな判断材料」 10年くらい前、冷やかし半分で写真講座の資料請求ハガキを出したことがある。このハガキを出すと、もれなく「写真のコツが書かれた小冊子」がもらえた。それに興味があった。 だが簡易印刷の小冊子は見た目にも面白くなく、ほとんどグリコのおまけ状態。 それよりも豪華なチラシのほうに目を奪われた。1色刷り(モノクロ)の小冊子よりも、4色刷り(カラー)チラシのほうに目が行くのは当然。 これ以降、定期的に入会申込書とチラシが届くようになった。 その豪華チラシによると、写真の基礎や作品の添削指導などがあるという。手っ取り早く写真を始めるには良いかも知れない。下手に自己流でやるよりも、体系的な知識を得るという意味ではこういう講座が必要とされるのだろう。 それにしても、チラシに使われているイメージ写真は印象的だった。特に説明があるわけではないが、考え無く見れば「この講座を受講すれば、こんな写真が撮れるようになります」と言っているように解釈してしまう。 まあ、それはウソでも誇大広告でもあるまい。何事も努力次第である。 ただ、その写真の古めかしさが少々引っ掛かる。その写真から受ける印象から、講座そのものがB級ではないのかという思いを拭えない。 この手の写真はたいていの場合、フォトライブラリーのレンタルだと思われる。写真レンタル料を節約するためには、新しい写真に差し替えることは出来ないだろう。 たとえ1枚の写真を差し替えようとも、結局は全ての印刷固定費が再度発生する(Y・M・C・BL各版4枚分のフィルム出力や、実際に印刷機にかけるための刷版など)。つまり金が掛かる。 既存のフィルム原版を利用し続ける増刷分の予算しか想定していない広告宣伝費からは、新たな費用は出しにくいと思う。毎年のように「来年こそは刷新しよう」と思いつつも、いつしか時代は移り変わってしまった・・・。 あるいは、そもそも写真の古さに本当に気付いていないということもあり得る。もしそうならば、これはブラックジョークにも近い。視点鋭く表現するはずの「写真」という趣味において、時代の流れに鈍感な者から教えを受けることになるのだ。 40年くらい前の写真入門書を見てみると、「女性を撮る時は変化を付けるために手を頭に添えたり腰に手を当てたりすると良い」などと書かれている。今考えるとかなり抵抗がある。モデルにそんなポーズを頼むのも気が引ける。 まさかその写真講座はそこまで古くは無かろうが・・・、チラシに掲載されている写真を見ると冗談に思えなくなるのがオソロシイ。 人間というものは、限られた判断材料から全体像を想像する。 判断材料が少なければ少ないほど、小さな手掛かりを基にしなければならない。それはつまり、ごく小さなことであっても大きな影響を与えるということを意味する。 この場合、我輩はチラシの写真の古めかしさに影響されて講座の内容自体の古めかしさを想像した。チラシを製作する側から見れば、全く小さな事であったろうが。 印象に訴えかけるという目的がある以上、広告宣伝費というのは、削っていい部分と悪い部分があると言える。ヘタに切り崩せば、それは結局逆効果に終わる。 どうりでテレビCMなどは、小さな判断材料を飾り立てるために莫大な金を掛けられているわけだな。 ---------------------------------------------------- [303] 2001年09月20日(木) 「写真はレンズが肝心」 「写真はレンズが肝心」とよく言われる。 確かにそうだ。カメラを簡素化された要素で見てみると、カメラボディはあくまでがらんどうな暗箱でしかなく、撮影に不可欠な光を導く役割はレンズ光学系が担っている。究極的には、数枚のレンズとフィルムだけが撮影に直接関わると言えよう。 我輩の好きなレンズに「50mmf1.8」がある。 50mmレンズというのは、全交換レンズの比較基準となる光学性能を持ち合わせている大事な存在。言うなればメーカーの看板のようなもの。一眼レフを持つならば、必ず1本は用意しておきたい。 交換レンズというのは、同じ焦点距離のものでも明るさ(口径比)の違うものがいくつか用意されている。50mmレンズの場合、一般的には「f1.8」、「f1.4」、「f1.2」の3種類がある。EOS用レンズを見てみると、「f1.8」、「f1.4」、「f1.0」となっている。 その中で我輩がいつも選ぶ50mmレンズは「f1.8」。無理のない光学設計(クセの無さ)、コンパクト、安価、そして近距離での描写力。 もちろん、50mmレンズには接写用のマクロレンズもラインナップにあるのだが、図体が大きく値段も「f1.8」の3〜4倍と非常に高価。コストパフォーマンスを考えると、断然、「f1.8」しかない。 そんな我輩が「EOS-D30」と共に購入した交換レンズは、当然「EF50mmf1.8」である。新品でありながら実売価格9千円程度というのも凄まじい。 だがその値段も、そのレンズを手に取ってみると納得する。呆れるほどチープなのだ。 レンズ本体はもちろんのことマウント面はプラスチック製であるし、距離指標も省略されている。ピントリングはレンズ先端に申し訳程度に付いているのみ。 それでも商品撮影などの静物を撮影する限りに於いては、別段問題になるとは思われなかった。しかし実際に撮影をしていくうちに、どうにもこのレンズの使いにくさが無視出来なくなってきた。 まず、何と言ってもピントリングの幅が狭く、なかなかピント操作が思うように行かない。AFレンズであっても、商品撮影のようなものはAFはかえって邪魔になる。同じアングルで何枚も撮ることが多く、撮影するたびに測距し直すのは迷惑。露出値を固定する意味でマニュアル露出を使用するのと同様に、ピント面をロックするためにMFを選択している。だからピントリングが狭いとキビシイ。 しかも、AF/MF切替スイッチが安物で、ギアが外れないのであろうか、MFに切替えてもモーターのトルクを感ずるようなことがよくある。そういう場合、勢いよくピントリングを往復させるとギアが外れてスカスカになってはくれるが・・・。 このようなことでは、いかに「光学系には問題無い」と言われても使いづらくてしょうがない。 昔から「50mmf1.8」というレンズは貧乏人のためのレンズだという待遇を受けてきたが、キヤノンのEOS用レンズほど完璧に割り切って作られたレンズも珍しいと言える。 そうは言うものの、ここまで手を抜いて作られるレンズも哀れであろう。これならば、ニコンの「おもしろレンズ工房」のほうがまだ高級感・操作感に勝るに違いない。 まあ確かに、レンズ光学系に関してはどのレンズにも引けを取らぬ実力を持つように思う。だから外見や操作性を気にせず撮れば、それは作品には現れないはず。 それにしても、EOSシステムが登場した頃の「50mmf1.8初期版」はまだ良かった。ピントリングもしっかり作られていたし、距離指標もきちんとあった。マウント面はステンレスが光っていたものだ。それが新タイプの「f1.8」になると途端に貧乏臭くなってしまった。 「写真はレンズが肝心」と自分を励ましてはいるものの・・・、まったく情けない外観で悲しくなる。 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まあ、新興宗教のように意図して個々の思想を奪うのは論外だが、冒頭の横断歩道の例のように無意識の領域で他人の影響を受けることは日常ではよくある。単に本人が気付かないというだけの話。 我輩の運営している某アーチスト系のサイトでは、アーチストのスキャン画像を何枚か載せて人気投票を行っている。その画像の中でいくつか0票のもの(つまり低人気のもの)があったのだが、途中から我輩の一口コメントをそれぞれの画像に書き添えてみた。特に0票の画像には贔屓(ヒイキ)目なコメントを書いた。すると興味深いことに、直後から0票の画像の人気が上昇しはじめた。 我輩のコメントが、投票する者の無意識の心に影響を与えたことは明白。 当サイト「カメラ雑文」には様々な屁理屈が込めてあるが、思想無く読むことによって人を傾かせはしないか心配に思う。杞憂であればよいが。 思想とは、相手との違いを認識することから始まる。それは、自身の思想を再確認することとなり、それを土台としてより自分らしい確たる思想を生み出すことを促す。 だが、自身の思想無く他の思想に触れるならば、それは読み手の無意識の領域を染まらせることにもなろう。 そうならぬためにも、もし我輩の雑文を読み続けていくならば、我輩の主張と自身との考えの違いを常に意識せねばならない。 人につられて赤信号を渡るならば、いずれ車に轢かれる。 自分の目で信号を見、自分の意志で道路を渡るべし。 ---------------------------------------------------- [305] 2001年09月28日(金) 「ステレオマクロ」 大口径レンズを用い、そのボケ味を活かすため常に開放絞りでポートレートを撮る者がいると聞く。径の大きなレンズ面から想像されるその被写界深度の浅さは、霧の中から現れ出る妖精の如くモデルの姿を浮かび上がらせることだろう。 我輩が初めて望遠レンズを使った時も、絞りは常に開放としていた。ただ我輩の場合は単純に、望遠レンズの開放F値が5.6と暗く、露出的には開放絞りしか選択の余地が無かった。被写界深度など二の次だった頃の撮影ゆえ、絞りの設定に特別な意図などあろうはずも無い。 しかし今は反対に、最小絞りを多用するようになった。・・・とは言っても、それは一般撮影では無く、商品撮影やマクロ撮影での話。これらの撮影では目一杯絞り込み、思い切り被写界深度をとる。 特にマクロ撮影では被写界深度は極端に浅いため、十分絞り込まねば何が写っているのか分からなくなることもある。絞り込みすぎると、光の回折によって画質が低下するそうだが、それを承知で絞り込むのだから、いかにマクロ撮影での被写界深度が浅いかが想像出来よう。 さて1年前、ステレオ写真についてのアンケートを取った。その結果、裸眼でのステレオ視が出来た者30人、出来なかった者3人という集計となった。つまり、この数字をそのまま受け取るならば、9割の者がステレオ視可能ということになる。 そういうわけで、今回久しぶりにステレオ写真の掲載をしてみたい。 今回は、マクロフォトでのステレオ写真である。 以前にも述べた通り、ステレオ写真というのは画面内の全てにピントが合っていなければステレオの味が薄れてしまう。しかしマクロフォトでは、それがなかなか難しい。最小絞りでの撮影を可能とするには、ストロボなどの強力な照明光が不可欠と言える。 だがうまく写ると、肉眼ではなかなか体験出来ないような小さな世界での立体視が可能となる。 使用レンズは例によって「50mmF1.8」。デジタルカメラの「EOS-D30」に、接写リングを2つかまして装着した。全て最小絞りF22にて撮影しているが、それでも被写界深度内に全てを収めることは出来なかった。 −EOSマウントの電気接点− <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 左目 右目 EOS630のマウント部。普段はあまり目が行かない部分であるが、こうして見るとどこか都会に造られたオブジェのようにも見える。 (1/180sec. F22 ISO100 ストロボ使用) −Nikon F3軍艦部− <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 左目 右目 1枚の単独写真では、単に3つの円形が配置されているのが見えるだけ。ところがステレオとして見ると、3つの位置関係がなかなか面白い。 (1/180sec. F22 ISO100 ストロボ使用) −Nikon F3フィルムカウンター部− <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 左目 右目 透明プラスチックを通して見るフィルムカウンターであるが、1枚の写真を単独で見ると、プラスチック表面に光が反射しているだけの見づらい写真である。だが、ステレオ写真で見ると、プラスチックの厚みを感じさせ、フィルムカウンター部分がその奥にあるということを実感させる。じっと眺めていると、今にもカウンターが動きそうに思えるのが面白い。 (1/180sec. F22 ISO100 ストロボ使用) −蚊− <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 左目 右目 涼しくなってもまだ蚊はいる。注射針を突き立てようとするような姿で、見ているだけで痒くなってくる。しかし、興味を持って眺めると、このような小さな身体の中に、「CO2探知機能」、「飛行機能」、「血液を吸う機能」、「血液貯蔵機能」を備えているというのは驚きに値する。 (1/180sec. F22 ISO100 ストロボ使用) ---------------------------------------------------- [306] 2001年10月03日(水) 「オイちゃん」 昨日の夜、ヨドバシカメラからの帰り、上野の丸井近くにあるホビーショップ「ヤマシロヤ」に寄った。ここは長らく工事中で、新装開店したばかりであった。店内が小綺麗になり、品揃えも増えた様子。 ふと見ると、1階の中央部に小さなショーケースがあり、ミニチュア復刻カメラとして話題の「SHARAN」が、本物のカメラ(中古品)と肩を並べるように陳列されていた。 「SHARAN」と言えばNikon Fのミニチュアを思い浮かべる。だがそのショーケースにはライカのレンジファインダーカメラとローライフレックスしか無かった。Nikon Fは生産終了か? しかしミノックス判のカメラゆえ、我輩にとっては単なる興味の対象でしか無い。一目見ただけでそこを離れようとした。すると、我輩と同様にショーケースを覗いていたオイちゃんが声を掛けてきた。 「あのー、すいません。」 我輩はその声を無視した。前にも池袋の駅ビルのホビーショップで同じように声を掛けられたことがあったからだ。会社帰りのネクタイのため、ホビーショップの店員と間違えられたのである。 「おのれ、またしても間違えるヤツがいたか。我輩は店員などではないっ。」 我輩は自分が店員でないことを暗に示すために営業カバンが見えるように身体の位置を変え、気付かぬフリしてそのまま歩き出した。 「どうだ解ったか、我輩は単なる客の一人に過ぎぬ。」 しかしそのオイちゃんは懲りずに我輩に近付いてまた声を掛けた。 「ちょっと、すいません。」 さすがにこれを無視するのは不自然であった。仕方無くオイちゃんのほうを向き直り、「は?」と言ってみた。見るとオイちゃんは、50代くらいで無精ヒゲを伸ばし、例えるならば松戸競輪場で見掛けそうな風体だった。 「あのー、これは何と読むんですか?」 オイちゃんの指さす先には「SHARAN」の文字。ああそれなら・・・、と思ったが、とっさに訊かれるとなぜか答が出てこない。 「シャ・・・、シャランか?」 その言葉に自信は無かった。 「はー、なるほど、シャラン・・・ね。」 オイちゃんはまたショーケースを覗き込んだ。ウーム、やはり店員と間違えておるのか・・・? 「これ小さいですねー!いいなあー。」 オイちゃんは再びこちらを向いた。明らかに我輩に話を振っている。 我輩は自分が店員でないことを示すため、敢えてタメ口で答えた。 「小さいけど、ミノックス判ちゅうてね、普通のフィルムじゃないんよ。」 「え、そうなんですかっ。へぇ〜。」 オイちゃんのリアクションが面白い。もしかして、このオイちゃんは最初から我輩が一般客だと知っていて話し掛けたのか。 我輩は警戒心の強いO型の性格ゆえ、いきなり話し掛けられると無愛想に対応する。だが、このオイちゃんはそんなこともお構い無しに我輩の言葉に大きく反応する。 例えば「このカメラは何ですか」と訊くので「ローライフレックス」と答えると、それに対して「へぇ〜ローライフレックスねぇー!」と感心するのだ。 オイちゃん、負けたよ。 我輩はしばらくそのオイちゃんの会話につきあうことにした。 オイちゃんはいろいろと質問をしてくる。 「この・・・えーっと、ローライフレックスってのが\38,000?」 しかしオイちゃんの視線は、明らかに比較用として並べられていた本物のローライのほうを向いていた。 「あ、いや、これは本物だから違うわ。こっちの小さいやつ。」 「え、なんで?こっちの大きいヤツじゃないの?」 オイちゃんは真剣に訊いてきた。我輩は苦笑した。 「ここはオモチャ屋やから、基本的にオモチャよ。モノホンは置いとらんよ。モノホンやったら40万くらいするわ。」 「おー、そっかー!神経がカメラのほうに集中してたから、カメラ屋にいる気分になってたわー、ハハハ!そりゃそうだ!」 「オイちゃん、カメラ好きなんか?」 ショーケースを覗き込むオイちゃんの横顔に訊いてみた。 「わたしゃねー、賭事や酒は一切やらんのですが、カメラだけは好きなんですわ。」 オイちゃんの目は輝いていた。松戸競輪場に似合うと思っていた雰囲気は、その時、不思議と消え去っていた。 憎めないオイちゃん。 我輩は他に見たいところもあったので、適当なところでオイちゃんに別れを告げた。 「イヤ、いろいろ訊いてスンマセンでした。」 オイちゃんは笑顔で我輩に頭を下げた。 オイちゃん、我輩を店員と間違えたわけでは無かった。 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知る者にとっては常識だが、デジタルカメラで撮影された画像は、一般的にはJPEG圧縮画像で記録される。JPEGは元の画像の100パーセントのクオリティには復元出来ない圧縮方式(不可逆圧縮)であり、圧縮率に応じた画像劣化が起こる。これはどんなに高画質記録であろうとも、JPEGファイルである限り必ずつきまとう問題である。普通に写真を眺めるぶんには何の問題も無いが、注視するとアラが見えてくる。 心霊写真の場合、写真を眺めるよりも一部分に注視することが多い。今回のケースでは、まさに2階の窓に視線が集中していた。そこには何者かの横顔が見えるという話であるが、我輩にはどう見てもJPEGファイル特有の圧縮ノイズが走っているようにしか見えぬ・・・。 写真撮影は、車の運転と同様に、カメラの仕組みを理解する必要は無い。 だが、そこに写った写真を評価するならば、カメラの仕組みを理解し、なぜそのような写真が得られたのかということを考えねばならぬ。 画像として残ったものだけを議論しても何の進展も無い。どのような仕組みによってその映像が得られたのか。それ無くして真実は語れまい。 目を凝らせば凝らすほど、真実から遠退き幻影をそこに見る。まさにこれ以上の皮肉も無かろう。 ---------------------------------------------------- [308] 2001年10月08日(月) 「ホメ殺し」 最近のデジタルカメラの性能向上は素晴らしいものがある。 そのスタート地点はレベルが低くビデオカメラとの共用CCDである35万画素程度であったが、現在では一般消費者向けクラスで600万画素にまで届いている。 我輩が以前雑文にて指摘したデジタルカメラの問題点も、今ではいくつか緩和されてきているのは認めざるを得まい。 確かに、趣味の世界でも使われてきたリバーサルフィルムの画質は圧倒的である。しかし、それはどう考えても我々小市民には不相応な画質である。その画像の緻密さ(dpi)や色深度(色数)は、デジタルではどうやっても乗り越えられぬ問題ではあるが、実質的には不要であると言わざるを得まい。そういった曖昧な高画質をバッサリと断ち切り、もっと現実的な部分で実力を伸ばしてきたのは評価に値する。結局、行き着くところは「画素数」だということだ。画素数さえ多ければ、皆、手放しで高画質を認めてくれよう。 パソコンディスプレイなどの低解像表示装置(100〜150dpi)や印刷物のような反射媒体で表現される写真は、デジタルカメラのクオリティの範囲に充分含まれる。パソコンディスプレイは200万画素程度の解像度、印刷物にはフルカラー1600万色の色数があれば良い。 それに比べ、リバーサルフィルムは4000dpiを軽く上回り、色数も億の単位を越える(どちらもデジタルデータ換算)。そのようなもので撮っても、所詮はパソコンや印刷で鑑賞するのであるから、ムダな性能と言う他無い。 また、一眼レフ形式のデジタルカメラが数機種しかないというのも、「消費者が選択に迷わぬように」という有り難い配慮である。我々は何も考えること無く、目の前のカメラを手に取るだけで良い。 しかも、最低でも30万円を越えるその価格は、他のこまごました付属品を安く感じさせ、まとめ買いをしやすくしてくれる。実に有り難い。 メーカーが今までコンパクトタイプのデジタルカメラしか普及させてこなかったのは、一眼レフ型デジタルカメラを購入する者に購入金額に見合った優越感を提供するためである。 その点、銀塩カメラでは一眼レフカメラの価格は5万円〜20万円と幅が広く、しかもそれらの写りがそれほど変わらない。せっかく高い金を出して購入した高級カメラであるのに、結局は腕の差だと言われてしまう理不尽さ。 そんな不平等が起きないよう、メーカーは一眼レフ型デジタルカメラだけは一般に普及させないために高価格を維持してくれているのだ。 最近出たキヤノンの一眼レフ型デジタルカメラ、価格が75万円というではないか。これでまた、一眼レフ型デジタルカメラを所有するステイタスが味わえることになる。 高いカメラを買えば買うほど良い写真が撮れる。デジタルカメラはそんな理想の世を現実化してくれる救世主様なのだ。 「腕の差だ」などとフザけたことをぬかす奴らの時代は、21世紀の時代で終焉を迎える。全てはデジタルカメラのおかげ。感謝しても、し過ぎることは無い。 (2005.02.07追記) ※この雑文の意味が分からぬ場合、まずは「誉め殺し」について国語辞典で調べることをお勧めする。 ---------------------------------------------------- [309] 2001年10月09日(火) 「オモチャ」 「ロータス」と言えば、まず思い付くのは表計算ソフト「Lotus1-2-3」か。 だが車の世界で「ロータス」と言えば、イギリスのスポーツカーのことである。中には「ロータス・エクセル」などという微妙な名前の車もあるが、やはり有名なのは、007のジェームス・ボンドが映画の中で乗り回した「ロータス・エスプリ」だと勝手に思っている。 イギリスのスパイ007であるからイギリス車に乗るのは当たり前かも知れぬが、それでもその洗練されたデザインはボンド・カーにふさわしく、外見からはミサイルなどの色々なメカニズムが搭載された車とは思わせないスマートさがあった。このエスプリのデザインはG.ジウジアーロの作であるから、それもまた納得できよう。 我輩はペーパードライバーであり、これからも車を運転する気は無いが、このエスプリはメルセデスベンツ190Eと共に我輩の好きな車であり憧れでもある。 だがこのエスプリは、スーパーカーブームの時には目立たない存在だったため、派手なランボルギーニやフェラーリの影に隠れており、ミニチュアとして発売される時には必ず「007仕様」としてしか出なかった。やむなく我輩は、ミサイル付きのエスプリのプラモデルを組み立てたものだ・・・。 メルセデスベンツ190Eの場合、よく街中で実車を見掛けることがある。確かに一世代前の車であるから、一時期に比べて数は少なくなったが、それでも中古価格100万円前後と特別高価な車でもないので、普通にそこらへんを走っている。 その姿は、写真で見るよりもまとまったデザインをしており、金持ちの乗るようなベンツよりも上品なイメージを受ける。やはり実車と写真とでは印象が全く違う。 だが、エスプリの場合は実車を見たことが無い。プラモデルを作ったことはあったものの、それを見る視点はあくまでもオモチャを見るそれだった。塗装の汚いブザマなプラモデルをいくら見ようとも、実車のイメージは湧くものではない。 ところが最近、ホビーショップでこのエスプリのミニチュアモデルを目にした。それはプラモデルと同じくらいの大きさであり、何よりも完成品であることが魅力的だった。 モデラーならば、「自分でキットを組み立てることが一番の楽しみだ」と言うだろうが、我輩は完成品のみが目的である。子供の頃からプラモデルを作ってきたのは、それしか選択の余地が無かったからだ。 しかし、今、目の前にエスプリの完成品がある。 ショーケースの展示品には値段は書いていなかったが、隣に置いてあるフォーミュラーカーには2万4千円の値が付いている。 ・・・ということは、やはりエスプリもそれくらいのなのか。財布を割ると、札が10枚広がった。全て千円札だった。今日は無理か。 だが店員に訊いてみると、意外にもエスプリは8千円だと判った。それならば我輩にも買える。2万4千円から8千円となったことによる錯覚の割安感のため、我輩は躊躇無くそのエスプリを購入した。考えてみれば、50mmf1.8が買えてしまうくらいの値段か。 帰宅して早速撮影に取りかかった。 ミニチュアであるから、手にとって眺めているだけでは、どう見てもオモチャでしかない。しかし、遠近感とアングル、そして照明を注意深くコントロールして撮影すると、オモチャが実車の貫禄を見せるようになる。 ファインダーを通して見るのは、小さくなった自分自身である。そこには、「ミニチュアを大きく見せよう」などという気持ちは無い。あくまで自分が小さくなった気分で撮影するのだ。 モデラーが「組み立てる過程が面白い」と考えるのと同じく、我輩は「ミニチュアの世界に入り込んで撮影する過程が面白い」ということか。 撮影している間、我輩の心はエスプリのシートにあった・・・。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [310] 2001年10月15日(月) 「シャッターの誤差」 ダイヤル式カメラのシャッタースピード設定は1段(1EV)ごとになっている。そのため、微妙な露出調整は絞りによって増減するのがダイヤル式カメラを使う者の心得とされる。 「Nikon F2」や「Nikon F4改造」で中間シャッタースピードが使えるものもあるが、それは極めて稀な存在。大多数はダイヤルクリックの中間に設定値は無い。そういう意味では、シャッターダイヤルというのは段階的なバリューと言える。 それに比べ、絞り環の場合は無段階である。設定しやすくするために敢えてクリックストップを入れているものの、どの位置で止めても使えるのがシャッターダイヤルとの決定的な違いである。 しかしそれにしても今どきのカメラならば、ダイヤルであっても電気接点が摺動する電子機器であるから、中間シャッターなどは簡単に盛り込むことが出来るはず。液晶表示カメラでは、中間シャッターなどは当たり前の機能として中途半端な数字を見せつけている。 ダイヤルに全てのシャッター表示を刻印せずとも、中間シャッター部分には軽いクリックストップを設けていれば事足りるように思うが、この前発売された「Nikon FM3A」でも中間シャッタースピードは実現されていなかった。 そんな時、ふと、中間シャッターは信頼に足るものなのかということが頭をよぎった。 問題は、シャッタースピードと絞りそれぞれの誤差である。いくら細かい目盛りを刻むにせよ、そのような細かい位置で本当に細かく設定出来ているのかという根本的なる問題がある。神経を尖らせて微妙な設定をしようが、それが忠実に反映されているとは限らない。 もちろん、液晶表示に電子的に設定されていたとしても、そしてクォーツで制御されていたとしても、実際に動作する機械部分にガタがあったり油が切れていたりすれば意味が無い。 よく「最高速シャッタースピードは使えないと思え」という話を聞く。最高速が表示上1/8000秒であったとしても、実測値は1/6000秒だったりするらしい。雑誌の新製品レポートなどを見ても、実用速度であろう1/125秒や1/250秒あたりでもあまり精度が出ていないものもあるようだ。 シャッターは高速であればあるほど、ほんの僅かなタイミングのズレが精度に大きく影響を与える。 それはまあ、当然と言えば当然。シャッタースピードというのは、原理的に言うと「シャッターが開いている時間」であるから、その数値が少なくなるということは、微少な時間を制御せねばならぬことである。シャッタースピードが速くなればなるほど、それだけ精度も要求される。 もし、シャッター側のメカニズム不具合によって常に0.0001秒の誤差があったと仮定すると、1/60秒でシャッターを切った場合はその誤差が0.6パーセントであるのに対し、1/1000秒では10パーセントにもなり、露出精度上とても無視出来ない。同じ誤差でも、シャッタースピードによって影響力がかなり変わるということである。 絞りの制御では、誤差の占める割合がそこまで極端に変わりはしない。だがシャッターでは、そのつど速度を発生させるために再現性が求められる。それには機械的な位置関係の精度はもちろんのこと、動作のタイミングなど多くの要素が絡む。しかし絞りでは機械的な位置関係に精度が出ていれば良い。 無論、シャッターが高速であるということは、メーカーでもそれだけの精度を確保して製品化しているに違いない。だが高感度フィルムを使うことにより高速シャッターを使用する頻度が増えるならば、誤差に触れる機会もまた増えることになろう。 電子式シャッターであれ機械式シャッターであれ、シャッター幕の駆動力はバネの機械力に他ならない。そのため、バネの疲労によって幕速が微妙に変化することも大いに考えられる。幕速が変わるということは、つまり高速側のシャッター速度が変わるということである。 シャッターの使用回数はもちろんのこと、シャッターをチャージした状態で保管しているのか、それともリリース(解放)した状態で保管しているのか。ワインダー内蔵カメラでは、シャッターを切ってもワインダーにより直ちにシャッターがチャージされるため、個体差はあまり無さそうではある。 「Nikon F5」のような高級カメラになると、シャッターの誤差をセンサーでモニタリングすることによって微調整を加え修正しているそうだ。 いずれにせよ、我輩の思っている以上に高速シャッターの誤差はデリケートな問題なのかも知れぬ。 元々、シャッタースピードの分母の数というのは丸めてあるので、理論値と比べないと意味は無いかも知れないが、少なくともカメラの制御が自分の思ったとおりに細かく行われていないということは確かである。要は、その誤差がバラつき無く一定していれば良いのだが・・・。 まあ、頭でいろいろ考えても始まらない。 そこで最近のカメラについてのシャッター精度について、どれくらいの誤差を含むのかを調べてみることにした。データの出所はカメラ雑誌「写真工業」の新製品レポートに記載されたシャッタースピード実測値である。各カメラ3回の計測を行っている。 理想値と実測値の差を求め、その差が理想値の何パーセントに相当するのかをグラフ化した。理想値をゼロ位置とし、それを挟んで上側が露出オーバー(シャッターが遅い)、下側が露出アンダー(シャッターが早い)ということを示している。 <A社製最新AF機> <<画像ファイルあり>> 機能の洗練された評判の良い機種であるが、高速側のシャッターが理想値よりも速くなっている。特に1/2000秒と1/4000秒では14パーセントも理想値を外れており無視出来ない。通常撮影では問題は表面化することは無いだろうが・・・。 <B社製AF機> <<画像ファイルあり>> さすがにAF後発だけあって、社運を賭けた性能と言うべきか。ほとんどバラつきが無いのはさすが。 <C社製最新AF機> <<画像ファイルあり>> 最近は堅実な路線を行くようになったためか、比較的再現性のある結果となった。1/8000秒以外は充分信頼出来る。 <D社製最新MF機> <<画像ファイルあり>> マニュアル撮影時には機械式となるシャッターのためか、高速・低速関係無くバラつきがある。特に、中速の1/250秒の誤差が26パーセントというのはどういうことか。隣の1/500秒との差を見ると、実に誤差30パーセントになる。 <E社製最新AF機> <<画像ファイルあり>> シャッターも高速側に微少な誤差があるものの、中速以下では文句の付けようが無いほど理想値に近い。使いやすい形態を模索しているようだが、中身に関しては完成されているようだ。 (※計算が面倒なので最高速1/6000秒のグラフ化は省いた) <F社製最新AF機> <<画像ファイルあり>> 今一つパッとしないメーカーなだけに1/8000秒を積みたかったのだろうが、いかんせん、1/8000秒だけがほとんど速度が出ていない。誤差は40パーセントと、ほぼ半段の露出オーバーとなる。それ以外はかなり理想値に近いだけに、この際1/8000秒搭載は見送るべきだった。 今回、シャッターに関する数字を表計算ソフトに入力し、誤差を自動計算させ、その結果をグラフ表示させた。やはり、視覚的に表現されると直感的で分かり易い。そして、我輩の予想通りのグラフになっていることが自分でも驚きだった。 やはり、シャッターが高速側になるにつれ、誤差が拡大されていく。 ただし、ここではカメラの機種名を公表しない。どのカメラが優れているか劣っているかということを論ずる意図は無く、あくまで我輩の予想が数字として裏付けられるかどうかを確かめたかった。 それに、数字については少し慎重になる必要がある。そのことについては次の雑文で触れようと思う。 まあいずれにせよ、予想以上にシャッターというものが理想値から外れやすいものだと理解した。これにより、中間シャッタースピードがあろうとも、それは気休めだという可能性がある。 露出微調整や段階露出のように、前後の露出を取る相対的な調節の撮影ならともかく、露出計算に基づくピンポイントな決め打ちや露出シフト、異なるカメラの併用などでは、中間シャッターなどは実質的意味が無いように思える。ましてや今回のように、中間シャッターに被るくらいに誤差のあるものを見てしまっては、そう考えるのも無理は無かろう。 心情的には、やはり1/2段や1/3段など微妙な露出調整にはシャッタースピードではなく絞りでやりたい。それも気休め程度だと言われそうだが、それで自分の気が済むならば。 ---------------------------------------------------- [311] 2001年10月20日(土) 「数字盲信」 人を説得するには、数字を出すのが一番効果的だと言われる。 日米開戦直前、海軍軍務局から艦政本部へ全国の造船所の商船建造能力がどれくらいかという見積りが出された時、その見積りの数字に基づき「商船による物資輸送に何ら問題無く、戦争の遂行は十分可能である」と判断された。 だが実際には、それは一夜漬けの見積りであり、しかも見積り自体が機密事項で一部の関係者の意見しか盛り込めなかったこと、そして戦時中の軍船最優先体勢、資材確保問題、規格部品取り決めの遅れ、工数管理体制の不徹底により、開戦後早くも計算違いに苦しむことになる。 見積り時点では多くの仮定要素があり、その仮定の下で初めて意味を持つ数字であった。だが、軍部のイケイケムードの中では、その見積りの数字は一人歩きしてしまい、開戦の根拠に利用されてしまった。 いったん具体的な数字が出てしまうと、見積り条件などはもはや目に映らなくなるのが常である。数字盲信の怖さはそこにある。 ビジネスの世界に於いても、やはり数字が一人歩きする危険は多い。 見積り金額を客先に提示した時、見積り条件をハッキリと記載せねばならないのはもちろんのこと、担当者と顔を突き合わせて直接理解を求めることを怠ってはならぬ。 また、会社経営者などは数字で判断するという仕事が多く、その分、数字に惑わされて悪意のある第三者にコロリと騙されることがある。少なくとも我輩の耳に届く範囲で起こっているのであるから、特殊な事例というわけでもあるまい。 商品先物取引詐欺もまた然り。 取引業者はまず相手に経済新聞に掲載された先物取引の市場価格を確認させる。その新聞を見た者は、新聞に載っている数字に気を取られ、国内市場価格と海外市場価格の格差によって儲けが生まれるかのような強引な論理を受け入れてしまうのだ。数字にウソが無いだけに騙されやすい。 理数系の人間には痛いほど分かっていることであるが、数字というのはかなりのクセ者である。 ある数字を手にした時、それがどのようにして得られ、何を意味しているかということを常に意識することは重要なポイントとなる。あまりに熱心に計測したがために、汗に含まれるナトリウムが反応して正確な値が得られなかったという笑えぬ話さえある・・・。 前回の雑文では、カメラ雑誌に掲載されていたシャッタースピードの実測値を元にして、カメラごとのシャッター誤差を計算してみた。だが、それらのカメラについて、具体的な製品名を明記しなかった。 その理由は、元となるデータからでは、シャッタースピードについての一般的な傾向しか見ることが出来ないと判断したからだ。 もしも機種名を明らかにし、それぞれの優劣や順位を決めてしまうならば、元になったデータの質が問題となる。如何にしてそのデータが得られたのか。それは、数字だけを見ても分からない。 もちろん、明らかに変な数字だと思われるもの、・・・例えば有効数字が揃っていないものなどは眉に唾を付けたりもしようが、表面上は形が整っている数字についてはそれを信じる以外に無い。しかしそれが製品の優劣を決めるような使い方をする場合は慎重にならざるを得ない。なぜなら、我輩が勝手気ままにカメラを批評するならば、それに対して「あんなカメラのどこがいいんだ」などと我輩の言葉を否定することも出来よう。しかし数字を使った分析となると、それを否定するためには、数字の解釈あるいは数字そのものが誤っていることを示さねばならぬ。 いったん数字によってランクされた順位は、さらに信頼出来る数字が出るまでは、もはや誰にもそのランクを入れ替えることは出来ない。 数字とは、それを得た経緯が最も重要視されるべきものである。果たしてその数字は正しいのか?何を以て正しいとするのか? それは単純に、計測に用いた測定機の精度だけの問題ではない。 シャッタースピードの一般的傾向を見るならば、計測回数を増やすことによってバラツキを平均化し、その背後にある規則性を読み取ることが大切である。だが、ある特定の機種についての傾向を見るには、そのサンプルとなるカメラは複数台必要となる。たった1台の性能が全てを代表している訳ではないからだ。 それはあたかも、たった1人の日本人を研究し、「日本人とはこういう人種だ」と結論付けることに似る。1つのサンプルだけでは、その数値が全体に共通する特徴なのか、あるいはその個体の個性(バラツキ)なのかは区別不可能と言える。 そもそも、テストの対象となるカメラは、量産前ものか、あるいはあらかじめ厳選されたメーカー支給のものか、無作為に店頭で買い求めたものか、それによってもかなり違ってくると予想できる。当然と言えば当然だが、実際に流通しているカメラをテストしたほうが現実に則した結果が期待出来よう。 また、それぞれのカットが一発勝負となる「写真撮影」という世界では、個体間のバラツキを平均化することに果たして意味があるのかという議論もあろう。 「それはたまたま出た異常値であり、本来の性能とは関係無い。無視してくれ。」と言われたとしても、実際にその異常値で失敗写真となるならば、無視して良いなどとは言えぬ。 要するに数字というのは、測定の段階でどのような目的や思惑を持っているのかということで意味がガラリと変わる。そしてその数字に意味付けする段階で測定時の思惑とズレがあれば、そこで得られる結論に真理は無い。 もし数字を根拠にするならば、その出所を常に意識しなければならぬ。出所が不明であれば、それを受け取る側は数字を盲信せず、参考として自分の脳細胞に留めておくだけにする。そしてそれがいつか非線形の予測や考察を行う時に役立つ。 その時、その数字は「根拠」として使われるのではなく、何かの「示唆」を与えることとなろう。 ---------------------------------------------------- [312] 2001年10月21日(日) 「オモチャ2」 また、オモチャを買ってしまった。 先日の雑文に登場した「ロータス・エスプリ」だが、あれから別バージョンのエスプリを見付け、早速購入・撮影した。 ・・・今回のカメラ雑文、それだけの内容。別に、取り立てて雑文に書くような話でも無い。ただ、同じように見えるエスプリの写真でも、こだわる人間にとっては重要である。 昔、「宇宙戦艦ヤマト」が流行った頃、プラモデルメーカーから類似商品が幾つも出され、本家の品切れに気を紛らす子供たちに買われていったものだ。 中でも、普通の戦艦プラモデルを発売していたメーカーは、パッケージの絵をアニメ調の宇宙を舞台にしたものに変え、中身はそのままで再販したりした。名前は「戦艦大和」ではなく、「戦艦ヤマト」。明らかに意識していた。 プラモデルに限らず、世に出る製品のほとんどが鋳型となる金型(かながた)を使って生産されている。金型は大量生産の要(かなめ)であり、製品を大量に作れば作るほど、1つ当たりの単価が安くなる。 プラモデルの金型の場合、小さな細かい部品が多く、1組で数百万円もするものは当たり前。それ故、金型費用を分散させるには多くの製品を売らねば元が取れない。 「戦艦ヤマト」の場合、海に浮かぶ船として作られた「戦艦大和」をそのまま流用して宇宙船として再販した。これならば新たな金型は必要無い。 子供相手であるから、まさしく「子供騙し」でお茶を濁すわけだ。 さて、前回紹介したエスプリはえんじ色であったが、今回はイエローの鮮やかなボディ。よく見ると、各パーツが前回のものと微妙に異なっている。単に色違いバージョンであったならば購入は見送ったに違いない。 手にとって比べてみると、ボディはもちろんのこと、隠れたエンジン部分や裏側の足周り、ファンクーラーなどの形状もそれぞれに違う。これは子供用じゃないな。 「大人のオモチャ」などとバカなことを言うわけではないが、これはまさしく「大人のホビー」だと感じさせる。ほんの小さな違いならば、共通部品で済ませようとするのが合理的な作り方である。だがこのオモチャは、何から何まで違いを再現しているのが感動的。細かく見ない者にはどうでも良いことであるが、じっくりと見ていくと新たな発見があるという深さがマニア向けと言えよう。 いやー、いい仕事してるな。 こういうものを前にすると、こちらも「良い写真を撮ろう」という気になる。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [313] 2001年10月29日(月) 「見方と味方」 映像は、画面の中に視点を持つ。特に動画では、画面フレームの動きそのものが視点であるため、それが分かりやすい。 映像に与えられた視点はそのまま、映像を観る者(受け手)の視点となる。それはつまり映像を捉える時、レンズの奥には数多くの第三者の目があるとも言える。逆に言えば、そのレンズの画角から外れたものは誰も観ることは出来ない。 ある日、テレビで動物の番組をやっていた。 ヌー(牛の一種)の親子が肉食獣の恐怖に晒されながら力強く生きて行く姿を見事に捉えていた。カメラは、ヌーの子供が生まれる瞬間からその親子を追い続け、子供が成長して危険をかいくぐる姿を映し出す。カメラはヌー側の視点であり、その映像を観る我輩は、肉食獣から無事に逃げ延びることを「無意識に」願うのである。 数日後、別の番組ではハイエナのことをやっていた。 ハイエナは一般的に他の肉食獣の獲物を横取りするという悪いイメージがある。実際、チータが捕まえた小さな獲物を群れで威嚇して奪うということもやる。だが自ら獲物を仕留めることも珍しくない。しかしその場合、ライオンなどに横取りされてしまうこともある。群での狩りはどうしても目立つからだ。その時ハイエナは、ライオンの食事が終わるまで待たされることになるが、その姿が「食べ残しを狙う」というイメージとなったのだろう。 そんな不憫な立場に同情しながら観ている我輩は、小さな子供のいるハイエナたち(ハイエナは集団育児)の狩りが成功することを「無意識に」願うのである。 さて、このように「無意識」という言葉を強調したのは、我輩の意志とは無関係であることを示そうとした。 感情は意志とは無関係に湧き上がる。さらには、感情に支配されて意志を動かされる場合もある。 (もともと感情とは行動の動機付けであり、個々の生命の生存率を高めるために必要であった。感情に基づく意志は、衝動的な素早い行動を可能とする。だが文明社会においては、それが逆に仇となることが多い。) 同じ現象を捉えた映像でも、視点によって湧き上がる感情が異なる。草食獣をレンズで追うならば草食獣の味方をし、肉食獣をレンズで追うならば肉食獣の味方をする。まさに、見方が変われば味方も変わる。それは無意識であるだけにタチが悪い。 それは、なにも動物の映像に限らない。感情を持って映像を観るならば、第三者は無意識に敵と味方を決めてしまうだろう。 ---------------------------------------------------- [314] 2001年10月31日(水) 「防げぬ消耗」 湾岸戦争以前、イラクは雑多な兵器を節操無く買い集めていた(参考:「雑文077」)。そんな寄せ集めの兵器で効率的な運用が出来るはずも無い。結局は、合理的な考えで兵器を運用している多国籍軍の敵では無かった。 一方、イランのパーレビ国王は、世界最高の性能を持つ兵器を好んで買い集めていた。当然ながら、戦闘機などはアメリカ製のものばかりとなる。しかしイスラム革命が起こると、イスラム色の強さ故にアメリカは警戒を深め、イランはそれらの兵器の部品調達が出来なくなってしまった。その結果、自慢の優秀な兵器は維持もままならず消耗を続けている・・・。 我輩は今まで、色々な製品に悩まされてきた。 我輩の性格として、「気に入ったものを末永く使う」ということを好む。気に入ったものに辿り着くまでに何度も買い換えることはあるのだが、いったん辿り着くとそこから動きたくない。 だが、どんなに気に入ったものでも寿命はある。それは理解している。ところが、全く故障していないものでも乗り換えざるを得ない場合がある。そういうケースは意外に多い。 例えば、我輩が15年前に購入したワープロ。これは独自規格のフロッピーディスクを使う。当然ながら、そのフロッピーディスクの供給が停止すれば、そのワープロは実質上使えなくなった。もちろん、一度も故障したことの無い良い機械だったのだが。 他にも、バッテリーが劣化した8年前のノートパソコンなどもそうだった。今のパソコンでは考えられないような丁寧な作りで気に入っていたのだが、もはや替えのバッテリーは絶対に手に入らぬ。なぜならそのメーカーは、とうの昔にパソコン事業から撤退している。そうでなくとも、8年前のノートパソコンのバッテリーなどあるはずもない。あったとしても、それもまた劣化していることだろう。 事情はデジタルカメラも同じこと。 我輩は現在、デジタルカメラの購入を考えているのだが、末永く使えるものがなかなか見つからない。 今までデジタルカメラは何台も買い換えてきたが、画質がそれぞれ極端に違うため、用途に応じてカメラを使い分ける必要がある。画質やシステム性を優先するとサイズが大きく高価となる。かと言って携帯性や価格を優先させると画質が極端に悪くなる。手持ちには、その両極端なデジタルカメラが2台あるだけだ。中間を埋めるもう1台があってもいい。 そんなことを考えながら、デジタルカメラのカタログを集めて机の上で並べて見ている。 我輩の要求仕様として、単3電池が使えることである。これは、専用バッテリーを使う機種では、そのバッテリーの劣化が製品全体の寿命を決めてしまうという懸念があるからだ。替えの新しいバッテリーは、必要になった時には既に生産終了で手に入らず。そういう悔しさは過去に何度も経験している。 そうは言っても、今どきのデジタルカメラはほとんどが専用バッテリーを使うものばかり。単3電池を使うものを見付けたとしても、カメラ本体が魅力無いものだったりするから悩ましい。 デジタルカメラは、もはや使い捨てを前提として考えるほか無いのか。 バッテリーの問題もそうだが、メモリーの規格もいつまで使えるか分からない。銀塩カメラのように、各社が同じ媒体を使っているというのなら安心感も違うが、デジタルカメラでは「SDカード」、「スマートメディア」、「コンパクトフラッシュ」、「メモリースティック(これは論外か)」などと種類が多い。どれか1つでも生き残るというならまだしも、近い将来、それらが同じ規格としてまとめられて全く新しい媒体が生まれる可能性もなきにしもあらず。そうなると今までのメモリーの供給は全て止まり、それらを使うデジタルカメラはゴミと化す。 自分の持っているデジタルカメラが、そういった消耗品の寿命に首根っこを掴まれていることは間違いない。いくらお気に入りのカメラであっても、部品供給が止まればイラン軍のように装備を維持出来ない。消耗を気にするあまり、恐る恐る使わねばならない。 現時点では、デジタルカメラは完成の域に達していないため、未だ世代交代は激しく、購入後数年すると商品価値が無くなる。そのため、デジタルカメラを末永く使おうとする者はいないと思われるが、それでも購入時点で「1年しか保たない」とハッキリと分かっているとすれば、果たしてそのデジタルカメラを買う気になるか? そんなものに5〜6万円も払うか・・・? 銀塩カメラ「リコーMF-1」なら2万5千円と安く、画質も上等で永く使えるだろう。やはりデジタルカメラでの消耗戦は我輩にはキビしい。 MF-1を常に携帯し、ジジくさくゆっくりと元を取ろうかと思い始めた。 (2001.12.26追記) アメリカからの部品供給が止まっても依然としてイラン空軍で戦闘機が運用されている事実を考えると、イランは独自の部品生産体制を作り出し、今ではかなりの部分を自給可能となっているという見方がある。しかも、それらの産業基盤を応用して、独自に設計・開発した航空機が運用されているという未確認情報すらある。 ---------------------------------------------------- [315] 2001年11月03日(土) 「デジタルカメラの買換え」 前回の雑文で書いた問題は、「維持」についての問題であったが、今回は「性能」の問題について悩んでみる。ここで言う「性能」とは、使い勝手なども含めたトータルなものを指す。 今まで我輩は、デジタルカメラをコキ下ろしたり、ホメ殺ししたりと、ネチネチとイジめてきた。それは、それなりの恨みがあるからに他ならぬ。 最初から「デジタルカメラなぞ使えるか」と食わず嫌いであれば、その存在を黙殺することも出来たはず。しかし我輩は今までいくつものデジタルカメラを使ってきたのであるから、少なからず関わりがある。 我輩が最初に使ったデジタルカメラは、141万画素の「OLYMPUS C-1400L」だった。その頃はまだ35万画素が主流で、141万画素という途方もないデジタルカメラは圧倒的、かつ魅力的だった。 「その頃は」などと書くと、かなり昔のことのように思ってしまうが、よくよく考えるとほんの数年前の話だと気付く。だが、もはや141万画素のカメラなど、探すのが難しいくらいに低性能になってしまった。 もちろん、用途によっては141万画素でも十分に実用価値はある。「ホームページの素材に使うだけだから、これで十分だ」と考える者もいよう。ところが余程の信念を持っていないと、それを使い続けることは難しい。 数年後、世間では600万画素で低消費電力でコンパクトで起動時間の早いデジタルカメラを、ごく当たり前のように使われていたらどう思う? そんな時代に、わざわざデカくて重いカメラを持ち歩き、バッテリーを何度も入れ替えて撮影することなど、強い信念無くして出来ようか。普通の人間なら、つい、新しいカメラを買ってしまう。 今まで「デジタルカメラは未だ発展途上である」と何度も書いてきた。それはつまり、たとえ最新ハイエンドデジタルカメラを購入出来たとしても、「現時点での最高性能」というだけのことであり、必ずしも「必要とされる十分な性能」ということではない。だがそれを見極めることは難しい。なぜなら、人は比較でモノを見る。「今までよりも良い」ということで考えると、確かに最新型は素晴らしい性能を持つ。だが、絶対的なる性能を考えると、本当に素晴らしいと言い切れるのか。 銀塩カメラならば、その機構と画質は一定レベルに完成されている。誰も、画質向上を狙った買い換えなどしない。AF黎明期にフォーカス速度を競っていた時代も通り過ぎ、操作形態も「ダブル電子ダイヤル」と「モードダイヤル」という組合せという形で、以前に比べて共通化されてきた。 デジタルカメラは、いったんそれに手を出すと一定期間ごとの買い換えを余儀なくされる。好む好まざるを問わず、そういう状況に追い込まれる。デジタルカメラの出荷台数が銀塩カメラの出荷数を越えたという本当の理由はそこにある。 数字だけを見ると、「デジタルカメラは好評だ」などと言ってしまいそうだが、実は皆、手持ちのデジタルカメラに不満を多く持つ。そのうちの1つの不満を解消出来るものが現れると、それを買ってしまう。だが、デジタルカメラの進歩は小出しで極めて牛歩。平たく言えば「もったいぶっている」。いつまで経っても完成された決定版は出ない。 我輩に言わせれば、現時点のデジタルカメラは試作品に過ぎぬ。消費者はその開発費を出し、そして製品のモニターをやっているのだ。 結局、全ての不満点が解消されるには、不満の数だけカメラを買い換える覚悟が必要だな。 ---------------------------------------------------- [316] 2001年11月06日(火) 「どうにも解せぬ」 世の中には、どうにも自分の感覚では理解不能なことが多くある。 例えば、「どうしてあのタレントが好感度が高いんだ?」とか、「どうしてあんなものが流行るんだ?」といった疑問は多い。その原因は自分の感覚が世間とはズレているからだと自分を納得させるのだが、やはり心底では理解に苦しんでいる。 最近、デジタルカメラの画質は必要十分なものになったと言われている。 よく雑誌には、「印刷にも耐える高画質」と評されていたりする。まあ、確かにDTP化された印刷工程では、デジタルのほうが相性が良いというのは想像出来る。だが、それでもデジタルカメラで撮影された素材を使った印刷物を見ると、思わず「うーむ」と腕組みをしてしまう。この程度の画質で本当に良いのか・・・? エッジや細かいパターンの描写が非常に甘く、全体的にも眠たい調子で気が萎える。それはCCD特有のクセなのかは分からない。だが原因が何にせよ、我輩の正直な気持ちとして、とても印刷に耐えるとは思えない。 我輩には、印刷屋の気持ちがどうにも理解出来ないのだ。 確かに印刷は反射媒体であるから元データのクオリティよりも劣るというのは解る。デジタルカメラのデータは印刷物の要求クオリティを上回るだろう。ましてやCCDの画素密度は、もはや網点よりも小さくなった(網のほうを大きくしてツブしている気もするが)。 しかし、印刷物としてのクオリティを上回るとは言っても、その中でバランスを崩してしまうならば、当然ながら印刷物となっても目に判ろうというもの。 微妙な描写を重視する印刷の場合、フィルムサイズの大きなカメラで撮影したほうが細かい描写が可能とされる。そしてその分、撮影にはフィルムサイズに応じて苦労が増えていく。そんな努力も、良い印刷物を作ろうとする目的があってのこと。 だがもし、印刷屋が「デジタルカメラの画質で良い」とするなら、今までの苦労は意味の無いものとなる。まさか、35mmカメラで十分だったということなのか。 また印刷業界に限らず、皆が皆、声を揃えて最近の高解像度のデジタルカメラ画像を褒め称えている。それが我輩には信じられない。 レンズごとの微妙な発色の違いを細かく述べる者がいる写真界に於いて、デジタルカメラの画質が問題にならないというのはどういうことなのか。まるでキツネにつままれたかのような不可解さに気持ち悪くなる。一体、なぜなんだ? レンズの微妙な違いが判らぬ我輩であっても、デジタルカメラのクセは嫌でも目についてしまう。いくら画素が多くとも、画面の雰囲気が違う。だから、どうも世間の全ての人間が我輩を騙そうとしているように思えてならない。 一体、今までレンズやリバーサルフィルムの微妙な違いにこだわっていた奴らはどこに行ってしまったんだ・・・? どうにも解せぬ。 ---------------------------------------------------- [317] 2001年11月07日(水) 「安物買いは正解か」 以前の雑文で、我輩所有の両極端なる2台のデジタルカメラの中点に位置するカメラを選定中だと書いた。しかしながら、デジタルカメラについての不信感も今までになく高まっている。 そこで、中点となるカメラに求めている仕様を冷静に見つめてみることにした。 まず、ハイエンドなデジタルカメラについては、各種アクセサリを駆使したシステム一眼レフカメラの用途をデジタル化したいという気持ちがあった。システムであるがゆえに柔軟な撮影が可能となる。そして、仕上がりの予測が難しいストロボ撮影でも、銀塩カメラと同じ機材を共用しながらその場で確認出来る。 次に、ローエンドなデジタルカメラについては、携帯性と低価格を重視して導入した。いつでもカメラを取り出せ、壊れても苦にならない位置付けとした。その用途はメモ的であり、その意味からも、撮影した画像がすぐに利用可能で、しかもランニングコストが低いということではデジタルカメラ以外に選択肢は無かった。 さて、この2つの用途の中点に位置するカメラとはどんなものだろう。そこに我輩が求めるものとは? 少なくともメモカメラ以上の用途であるため、やはり画質は譲れない。しかし常にカバンで持ち歩くつもりなので、携帯性も外せない。この条件だけでデジタルカメラを選定してみるが、どうもスッキリと決まらない。やはり画質がネックで、そもそもどこからが高画質なのかという線引きがハッキリ決まらぬ。しかも、現在の高画質は未来の低画質なのである。 写真は未来に残る。パソコンのように「その時代の要求を満たす性能であれば良い」というワケにも行かぬ。撮影された時点で画質は決定されるのであるから、出来るだけ高画質なカメラが必要となる。 そんなとき、ふと思った。 「今回、デジタルカメラの即時性は必要なのか・・・?」 答えは否。今回はメモカメラの位置付けではないから、即時性は絶対条件ではない。ならばこの際、銀塩カメラで考えてみるか。 選択肢を銀塩カメラとすると、無理なくスッキリと決まった。以前雑文にも書いた、「RICOH MF-1」である。これならば、自分でコントロール出来る要素も多く、リバーサルフィルムでも状況に応じた微調整が利くという意味での安心感がある。いざという時に、手も足も出ないカメラは怖い。 早速目的のカメラを手に入れた。 とは言っても、「RICOH MF-1」の輸出バージョンの「RICOH 35R」だ。これは中古で手に入れたため、1万5千円だった。同じ機能ならば安いほうが良い。 <<画像ファイルあり>> 正面から見ると、右下のロゴが「MF-1」ではなく「35R」というのがすぐに分かる。 他には、距離目盛りがボディ側に付いていることくらいか。国内用だとレンズ側に付いている。 プラスチックの仕上げが安っぽく少し頼りない印象があるが、軽いので良しとしよう。 また、内蔵ストロボ発光部の真上にある、外部ストロボ装着のためのホットシューが目を引く。実際に外部ストロボを装着してみたが、内蔵ストロボも同時に発光してしまう。説明書によると、内蔵ストロボの発光到達範囲内で撮影すると、内蔵ストロボも同時に発光してしまうので適正露出が得られないと書いてある。まあ、そういう場合は指で内蔵ストロボの発光部を覆い隠すしかあるまい。 絞りレバーを操作すると、2枚羽根の絞りが見えた。コンパクトカメラなどによくある菱形絞り。3ステップしか絞りの設定値は無い。しかし、絞り値の選択によって描写をコントロールするというよりも、外部ストロボを使用する際に絞りを固定させるということに大きな意味がある。 <<画像ファイルあり>> 試しに、自動段階露出(AEB)でシャッターを切ってみようと思った。ヨドバシカメラ店頭で何度も何度も操作しているため、その扱いには迷いが無い・・・はずだったが。 どうもおかしい。液晶表示部には自動段階露出の指標は無く、代わりに「TV」のマークがある。だが、少し考えて納得した。 「あー、ナルホド。タイムバリュー(つまりシャッター)によって段階露出するという意味か。やはり輸出用だと正確に記述するんだな。」 だが、実際にシャッターを切ってみても、連続3枚など撮れない。押しかたが悪いのかと思ったものの、いくらシャッターボタンを押しっぱなしにしてもシャッターは1枚しか切れない。よく見ると、「TV」のマークが膨らんだ四角形であることに気付いた。これは・・・、まさかテレビ画面を表すマークではないのか。 インターネットでよくよく調べてみると、この輸出用バージョン「35R」は数年前から発売されていたようで、国内バージョン「MF-1」として発売されるにあたって若干仕様変更されたらしい。結局、自動段階露出はこのカメラには搭載されていなかったのだ。 それにしても、自動段階露出を使うために購入したカメラが、その肝心な機能を使えないというのは、笑えぬ笑い話。まさしく、「安物買いのゼニ失い」。 まあ、それでも露出補正の切替がボタン式なので、手動段階露出の操作は難しくない。露出補正のボタンを順次押して行けば、「+1」、「0」、「-1」のコマが順に撮影出来る。自動段階露出のほうは0.5EV単位での露光ずらしなのだが、コンパクトカメラの露出計はあまり高等ではないため、散開度の大きいほうが弾幕が有効であろうかと思う(弾幕が広すぎると間を抜けてしまうだろうが)。 ちなみに、「MF-1」では、自動段階露出と露出補正は併用出来ない。 結局は無理矢理自分を納得させたような感じになったが、まあ、使っていくうちに自分なりの使い方を見出すだろう。その時には、このカメラが手元に無いと落ち着かなくなるのかもな。 安物買いが正解であったかどうか、それはそのうち答えが出る。 ---------------------------------------------------- [318] 2001年11月10日(土) 「メディアプリント」 1年前に出力センターでデジタル画像をピクトログラフィーで出力してもらったことがある。今その出力物を見ると、白い部分は全く無い。全体が淡い黄色に被っており、見るからに古そうな雰囲気。 別段、直射日光に曝(さら)したわけでもなく、ただ、薄暗い部屋で本棚の奥に寝かせておいたものだった。それが1年程度で変色するとは、短期間での使用を前提とした業界向けの仕様と言える。 ピクトログラフィーはフジフィルムの出力機らしいが、同じフジフィルムが「メディアプリント」というサービスをやっている。これは、出力センターと同じことを、DPE店を窓口にして行うというもの。客が持ち込むデジタルデータを指定サイズにプリントしてくれるという。 メディアプリントがピクトログラフィーと同じ技術のプリントであるかは分からないが、1つの会社が全く違う2つの技術を開発・運用するのは負担が大きいと考えられ、我輩の勝手な想像では、業務用ピクトログラフィーがダウンサイジングされたものがメディアプリントではないかと思っている。 もっとも、一般向けということもあり、冒頭に書いたような問題については耐候性が向上されているに違いない。 さて、2週間ほど前、我輩は家族や親戚連中6人でディズニー・シーへ遊びに行った。その中でカメラを持参した者は我輩を含め3人。我輩以外のカメラの写真がすでに出来上がり送られて来た。しかし困ったことに、我輩のフィルムはリバーサルのため焼増しが得意ではない。ダイレクトプリントにしても階調が潰れることは必至。また、それ以前の問題として、プリント料が非常に高い。 そこで思い付いたのが、リバーサルフィルムをフィルムスキャナに取り込み、デジタル化してメディアプリントで焼増しすることだった。幸い、我輩のフィルムスキャナは半自動化され、50枚近くのカットを寝ている間に連続スキャンしてくれる。もちろん、スキャン後の微調整が必要だが、レタッチソフト「フォトショップ」は複数枚のバッチ処理が可能であるから、デジタル化についてはほとんど人力が要らない。 だが問題は、メディアプリントが本当に有用であるかどうかだ。 そこでまず、メディアプリントを知るためにテストを行うことにした。パソコン上で、フィルムからスキャンした画像やデジタルカメラの画像、そしてカラーチャートを貼り込んだ。 <<画像ファイルあり>> これがその画像を縮小したものである。カラーチャートなどがあからさまに入ってイヤミたらしいのだが、評価用だから、それはまあ仕方無い。 各コーナーにトンボのようなものも入れてあるが、これは「どの範囲までプリントされるのか」ということをドット単位で知る指標となる。というのも、メディアプリントは裁ち切りになるらしい。 メディアプリントの説明書きによると、「料金は店頭で聞け」とのことで、目安は「基本料金+プリント料金」だという。基本料金が必要だということは、まとめて焼増ししないと割高になる。 ヨドバシカメラで訊いてみると、基本料金は500円だと言われた。高いな・・・。 家に帰って、画像をメディアプリントの形式に変換した。この変換ソフトはフジフィルムのサイトからダウンロードしたもので、注文サイズや枚数なども設定出来るようになっている。サイズはA4では大き過ぎるので、2Lサイズにした。これならまあ、そこそこ大きく、写真を受け取ったほうも喜ぶだろう。 元となる画像は、2Lサイズでは300dpiで1536x2138画素で作れということなので、その通りにした。また、特にCMYKかRGBかという記述が無かったが、一般向けということでRGBしか無かろう。しかもピクトロの親戚ならば尚更か。 次の日、再びヨドバシカメラに行き、メディアプリントの注文をした。店員は2Lサイズの値段が分からないと言った。手持ちの資料は古いため、2Lサイズは料金表の記述が無いというのだ。 「メディアプリントはあまりやる人がいませんから・・・。」と店員は苦笑いした。ナヌ?あまりいないのか?! それは意外・・・。 <<画像ファイルあり>> 受付が金曜の夜で、仕上がりが次の週の木曜夕方だった。土日を挟むとそれくらいになるのだろうか。 基本料金を含めると千円近いだろうと考えたが、意外にも150円だという。伝票を見ると、基本料金が「\0」となっており、2Lサイズ\150のみの請求だった。基本料金が無いとは、サービス期間中か? とりあえず写真を見ると、そこそこにキレイなものであった。同時プリントの仕上がりに比べれば雲泥の差。 しかし全体的にマゼンタが僅かに被っている。そのことは、グレーのグラデーションを見るとハッキリ分かる。何度焼いてもらっても同じように被るのかは不明だが、もし次に出す時にはマゼンタを少し抜いておこうか。 パソコンのCRTや液晶画面では、画素と画素の境界が格子として目にウルサイために気付かないのかも知れないが、メディアプリントで見ると画素が連続しているのが気持ち良い。その分、デジタルカメラで撮影した「ルアーの写真」や「交通事故の写真」については、意外にシャープさが無いということに気付いた。ディスプレイ上ではシャープに見えたのだが、やはり格子のせいでシャープに見えるのか? そういう意味で言うと、デジタルカメラの画像が印刷クオリティとして十分とする印刷屋の意見は、あくまでもモニタ画面上での評価なのかと思わせる。 まあともかく、メディアプリントは意外と安く高画質にデジタル画像のハードコピーが可能だと分かった。問題は耐候性だが、こればかりは今すぐには分からぬ。 それよりも当面の問題は、ディズニー・シーの写真を早く焼増しして送らねば・・・ということ。 ---------------------------------------------------- [319] 2001年11月14日(水) 「他力本願なテスト撮影(35R)」 最近、土日は仕事の疲れもあって寝てばかりいる。そのため、先日購入した「RICOH 35R」のテスト撮影をなかなか行うことが出来なかった。一応、リバーサルフィルム(感度100)は装填してはいたものの、撮影枚数はゼロのまま。 営業業務であっても、こういう時に限って外出が少ない。 ある日、この「RICOH 35R」をカバンに入れて出社、そして机に溜まった伝票処理を続けていた。やはり、外出しての撮影は出来そうもない。 ところがその日、先輩社員が「東京モーターショーへ行く」と用意を始めた(業務上必要な見学であった)。そこで我輩はとっさに「RICOH 35R」を先輩に渡し、何でも良いから写真を撮ってくるよう頼んだ。まさに、先輩が事務所を出る寸前のところであり、カメラの使い方説明も十分でなかったが、とりあえず全自動で撮れるセッティングをしてカメラを渡した。 次の日、先輩がカメラを返してくれたが、フィルムカウンターは25を指していた。かなり撮った様子で楽しみではあったが、リバーサルフィルムを装填していたため恐らく半数は失敗であろうと予想した。 その日は偶然にも本社へ行く用事があり、そのついでにヨドバシカメラに現像を出すことにした。とは言っても、まだフィルムは残っているのであるから、それを利用して露出補正の操作性とその結果を見ようと上野の駅前を撮影。 「RICOH 35R」は国内向けとは違い、AEB撮影が出来ないが、露出補正機能を使うことによって手動段階露出が可能であろうと考えていた。実際の撮影では、露出補正のボタンとシャッターボタンを交互に押すことで、ファインダーから目を離すこと無く「+1」,「0」,「-1」の撮影が迅速に行えることを確かめた。 さて現像結果だが、リバーサルのスリーブを広げて一覧すると、意外や意外、露出を外しているものは2〜3カットくらいしか無かった。他のカットは理想的な露出具合である。 見たところ、ストロボが発光したと思えるカットはあまり無い。このカメラは1/4秒までスローシャッターが利くため、距離のある被写体にはストロボが発光しにくいのかも知れぬ。感度100のフィルムでは厳しい条件であるが、露出具合はなかなか良いと言える。とは言っても、屋外の逆光・半逆光などの条件で撮影すれば、また違った結果となるだろうが。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> ※全てノートリミング この掲載画像は、フィルムスキャナで取り込んだ後、原版と見比べながら、なるべく忠実な濃度になるように調整したものである。暗い部分がツブれるのは仕方無いものの、全体的な雰囲気は原版に近い。 小さな掲載画像からは判らないだろうが、画像はそこそこにシャープ。高価なレンズの写りと並べられると違いが分かるのかも知れないが、単独の写真を見る限り、十分に満足と言える。仮に「一眼レフで撮った」などと言われても、我輩レベルでは見分けがつかない。これならば、当初考えていた「中級デジタルカメラの代替」という目的以上の用途にも耐えよう。 しかしそれにしても、ストロボが発光しなかったとするならば、絞りは開放であろう。それでも周辺部はにじみもせず流れもせず、期待した以上の描写を持つ。何より、スローシャッターでもブラさず写真を撮った先輩の腕には感服した。あるいはブレにくいカメラの形状が貢献したのか。 ただし、全てのカットに於いて、画面の上部の枠(つまりカメラ側では下部)がケバ立っているのが判明した。一眼レフで言うところのミラーボックスに相当する部分を見ると、内面反射防止用として貼られた人工植毛のシールがあり、それが僅かに光路をジャマする位置にあるようだ。 まあ、リバーサルフィルムをコマごとに切り離してマウントしてしまえば完全に隠れてしまう部分であるため、実質的な不都合は無い。これによって内面反射が抑えられるのであれば良しと考える。 ところで、このカメラはAFであるのだが、どうもそんな感じがしない。 店頭で他のコンパクトカメラを操作してみると、シャッターボタンを押してもすぐにはシャッターは切れず、AF動作でレンズが「ウィイン」と駆動する間がある。サーボモータを使っているのだろう。 しかし、この「RICOH 35R」はシャッターボタンを押すとすぐさまシャッターが切れる。レンズの駆動も感じない。果たしてこれでAFが利いているのだろうか。まさか、AFというのはウソっぱちで、広角レンズであることをいいことに、本当はパンフォーカスで誤魔化しているのではないのか。 だがその疑念は、次の写真を見れば払拭される。中心のコンパニオンにピントが合い、背景が少しボケているのが判る。一応、真面目にピント合わせしている様子。 恐らく、バネ駆動でレンズを動かし、係止爪で適当な位置で止める方式なのだろう。昔ながらの安っぽいAFだが、すぐにシャッターが切れる心地良さは格別。30mmの広角レンズにはこの程度のAFで十分と思う。 この例では近付いて撮ったように見えるかも知れないが、単にトリミングしたものだ。もっとコンパニオンに近寄れば、背景のボケも大きかったことだろうが、モーターショーという状況を考えると、いかに営業のプロたる先輩であっても、人垣を割って近付くことなど出来るものではない。 <<画像ファイルあり>> 掲載サイズが小さいので、ボケ具合が判るようにトリミング拡大してある。 さて、ついでに上野で撮影した手動段階露出のものも見てみた。 とりあえずは、段階露出の効果が現れている。1段単位なので、その違いは分かり易い。 逆光気味のシーンでは、補正0のものはアンダーになっていた。そういうことは通常ならば予測可能であるから、段階露出などで無駄に浪費せず、素直に露出補正を利かした1枚だけに済ませたいと考えてしまう。 だが、レンズ横の小さな窓から覗いている、たった1個のCdS素子が何とも頼りない。多分割測光素子を「昆虫の複眼」と例えるならば、このCdS素子はさしずめ「クモ類の単眼」とでも言うか。フィルターの枠の影に入ると露出が変わるのではないかと心配になる。 さらには取扱説明書にも、「リバーサルフィルムの厳密な撮影には適していません」などということを書いてあるのだから、あまり露出計は期待しないほうが良さそうに思う。そんな曖昧な露出計に補正を加えるよりも、何も考えずに段階露出で弾幕を張っておくほうが簡単でお気楽と言える。 先輩に撮らせた他力本願のテスト撮影が中心だったが、この結果を見ると、我輩の要求する範囲内では「RICOH 35R」は十分使える。これからデジタルカメラに代わり、我輩のカバンに常備されることになる。 ---------------------------------------------------- [320] 2001年11月22日(木) 「メディアプリントを実用する」 先日試したメディアプリントの件、画質としては満足出来るものであったため、今度は実用しようと考えた。 焼増しを考えているのは、例のディズニー・シーで撮影した記念写真である。 カット自体はそれほど多くはない。確かにシャッターは多く切ったかも知れぬが、使える写真を選ぶと50カットくらいとなる。しかもその中で、焼増しすべき記念写真については15〜20枚しかない。 だが、人数分を焼増しすることを考えると、結局は100枚を越えることになろう。 メディアプリント用データへの変換作業は、フジフィルムのサイトから専用ソフトウェアをダウンロードしてそれを使う。プリントサイズやプリント枚数などをそのソフトの画面上で指定出来る。 しかし、せっかくデジタルデータを介するのであるから、写真に手を加えて工夫も出来よう。そう考えると、他の者が送ってきた写真に差を付けるために、ディズニー・シーのロゴに似たマークを画面の隅に配置することを考えた。 前回、2Lサイズ1枚で¥150であった。基本料金は無い。 今回、Lサイズと2Lサイズを混在させて発注した。内訳はLサイズ102枚、2Lサイズ3枚。2Lサイズは前回の注文で¥150だと分かってはいたが、Lサイズの単価が分からない。 しかし、どのみちディズニー・シーの写真は焼増ししないわけにもいかぬ。計算無しで焼増しに出した。 月曜日の夕方に出して、上がりが次週の月曜日の夕方。まる一週間の納期となる。 仕上がりを受け取ると、料金はそれほど高くはなかった。料金明細には、Lサイズの単価は¥40と書かれている。ただ、前回は無料だった基本料金が今回は¥500取られていた。 その辺のアルゴリズムがどうなっているのか分からないが、我輩が勝手に想像すると、焼増し料金が基本料金を下回る場合には、基本料金を取らないということか。 店頭で訊いてみても、古い料金体系しか知らないという(利用者がほとんどいないらしい)。仕方無いので色々なパターンで試し、その背後にある法則を読み取ろうかと思う。 そもそも、メディアプリントのパンフレットにも「プリント料金=基本料金+プリント料金」としか書かれていない。具体的な料金は店頭で訊けとのことだが・・・。 しかし、揚げ足を取るわけではないが、この計算式を変数で置き換えると「X=Y+X」となる。これで何度もループされると困る。 焼増しした写真を、写っている人物ごとに分けようとしたが、そこでふと、手に取ったプリントの表面に気付いた。 「ピクトログラフィーの親戚にしては、やけに指紋が付くなぁ。」 メディアプリントに関する技術的な情報についてほとんど知らない。勝手な想像で「ピクトログラフィーの親戚」だと考えていた。だが、それにしては普通の銀塩印画紙のような肌触りが気に掛かる・・・。 また新たに勝手な想像を巡らせるとすれば、もしかしたらメディアプリントというのは銀塩システムなのかも知れない。単なるデジタル出力機のような乾式ではなく、現像液中で像を現す湿式のシステムなのか。 最近のラボは、通常の同時プリントでさえも、ネガフィルムの画面をスキャンして一旦デジタルとして取り込み、そのデータから印画紙に焼き込むこともあるというほどだ。 以前、ネガフィルムのフィルム現像だけを頼んだら、インデックスプリントを勝手に付けられたという話をした。このようなインデックスプリントも、デジタル化して簡単に出来るようになったと言える。 しかし、最終的に銀塩印画紙に焼き付けるということならば、いくら自分で調整したデジタルデータを持ち込もうとも、現像処理の条件によっては色や濃度の偏りも出てこよう。銀塩システムの品質とは、そのシステムを管理する人間の質でもある。そのため、ラボごとにプリント料金が違う。手を抜けばコストが下がるが、クオリティも同時に下がることになる。 ・・・メディアプリントの料金を店頭で訊くしか無いというのは、やはりそういうことなのか? 今までリバーサルフィルムを主に使ってきて、「面倒で思い通りにならぬプリントなど、別に知る必要も無い」などと馬鹿にしていた。 しかしメディアプリントによってリバーサルフィルムから安価にプリント出来るようになった今、プリントについての勉強・研究・調査が必要となりそうに思う。 さーて、今までの不勉強がどこまで取り返せるか。 (2001.11.25追記) フジフィルムには「メディアプリント」の他に「ピクトロプリント」というリバーサル向けのサービスをやっていた。詳しいことは広告には何も書かれていないが、恐らくそれがピクトログラフィーのプリントだろう。ということは、メディアプリントはピクトログラフィーではないということになる。 ---------------------------------------------------- [321] 2001年11月30日(金) 「我輩に丁度良い店」 写真(カメラ)を趣味としていると、必然的にカメラ店と接触する機会が出来る。 当然ながら、カメラ店にはそれぞれに店員がいて接客をしている。カメラ店を訪れれば、その接客を受けることになる。だが、中には客を不愉快にさせるような店員もいる。 我輩も、過去に何度か不愉快にさせられた経験がある(特に中野あたりの店)。 店員というのはモノを売るのが商売であるから、少なくともそれが機能していれば何の問題も無いと言えるかも知れない。しかし、全国どこでも同じ製品が手に入るという業界となると、「自分の店で買ってもらうにはどうすれば良いのか」という話になる。少しでも付加価値を高めて他店との差別化を図り、自分の店で買ってもらうための必然を創り出す。 そのためにはいくつかの方法があろうが、「接客態度の向上」というのは、その方法の1つと言えよう。 接客というのは、同じ対応であっても相手を間違えると全く違う印象を与えることもあり、微妙な加減がなかなか難しい。 解りやすい初級的説明から始めると「バカにするのか、それくらい知っとる!」と怒鳴り散らす客もいれば、逆に分かり切った説明を省くと「難しいこと言っても解らねえよ!」と暴れ出す客もいる。いや、実際に怒鳴ったり暴れ出すような客はあまり無かろうが、店員が意図せず客を不機嫌にさせることはある。 ただし、全ての客に嫌悪される店員ならば、もはや言い訳の余地は無い。 接客の問題は店員それぞれの問題として考えても良いのだが、やはり店ごとにイヤな店員に遭遇する確率が違うと感ずる。それぞれの社風ということか。 社員教育も、店の責任である。 ところで最近、我輩のメイン機Nikon F3/Tがどうにも不調である。 露出計の表示がおかしい。シャッターをチャージしている時は正常なのだが、シャッターをレリーズした後に露出計の表示が「8秒」となってしまう。 巻き上げてシャッターをチャージすれば正常に戻るのであるから、撮影機能そのものには実害が無い。だが、その小さな不調が大きな不調の前ぶれであるかも知れぬ。以前、ニコンにて落下事故を起こされた時に、電子回路に何かの影響が残ったという可能性もある。どこかが断線しはじめている兆候だとするなら気持ちが悪い。 そう考えると、メインカメラだけに撮影に使うのが恐ろしい。風邪をこじらせる前に、鼻風邪を治しておこうという気持ちでヨドバシカメラ上野店経由で修理に出した。 数日後、意外に早く修理が完了した。前回の修理から保証期間を少し過ぎていたのであるが、無料修理の対応となったようだ。 修理明細書によると、電子基盤が交換されたとのこと。なんとなく、新品の電子機器のニオイがする。早速露出計を見ながらシャッターを切った。表示に変化は無く安定している。修理したばかりだから当然か。 しかし翌朝、再びシャッターを切ると、また「8秒」の表示が出た。何度確認しても、修理前の状態に戻っている。わざわざ電子基盤を換えた意味などあったのか・・・? しかし、修理から戻ってきて数時間は正常な状態を保っていたというのも不思議な話。まるでタイマーでも入っていたかのように完璧に元の状態に戻ってしまった。 あまり何度も修理依頼するとクレーマーのように思われそうなのだが、あまりに露骨な現象であるため、再度ヨドバシカメラ上野店に持ち込んだ。 店員は現象を確認し、もう一度ニコンに調べさせると言ってくれた。 「今度はこんなことが無いように強く言っておきます。」 この言葉が心強かった。 それから1週間後、カメラ雑誌「写真工業」を買うためにヨドバシカメラ上野店に寄った。そのついでにカメラコーナーで「CONTAX G1,G2」を触っていた。その日の用事はそれだけであり、修理に出したF3のことは頭に無かった。 帰り際、店員が近付いてきて我輩に声を掛けた。 「F3、まだ修理が上がってないようですねぇー。」 我輩はその言葉に驚いた。 自分が物覚えが悪いだけに、数回接客しただけの相手を覚えているというのは感心する。のべ来客数が一日あたり数千人の大型店舗にて、たった1人の客(しかも時間を空けて2回接客しただけ)を見つけるというのも、我輩にとっては驚きである。しかも、下手をすればクレーム相手となる可能性があるから、「忙しい時間帯に、わざわざ自分から声を掛けてヤブヘビにすることもあるまい」と普通ならば思うはず。 あまり書くとヨドバシカメラの宣伝になってしまうだろうが、今のところ、現像受け取りの際に一度イヤな思いをしたくらいで、それ以外は十分満足しており、多少贔屓目(ひいきめ)に書くのは仕方ない。 逆に、何かあればここで書いてやろうと思っているのだが、ここ最近は我輩の目に余るようなことは起きていない。 いずれにせよ、例え商品知識が浅くとも一生懸命に調べてくれたり、親身になってくれたりするとやはり嬉しい。同じく接客に力を入れるにしても、あまりに知識豊富で妙な押し付けをしたり、客につきまとってきたりすると、こちらのほうが疲れてしまう。その点、ヨドバシカメラ上野店は、我輩に丁度良い。言い方を変えれば居心地が良いので、どうせ買うならヨドバシカメラ上野店に行こうかと思う。 繰り返すが、これはあくまでも我輩にとって丁度良いのであり、中には「ディープな会話に長時間つきあってくれる店でないとダメだ」という者もいよう。それはそれで求めるものが違う。 ---------------------------------------------------- [322] 2001年12月05日(水) 「本末転倒の節約」 今年も早いもので12月。 冬のボーナスが出たばかりであるが、それは家計の中に混ざってしまうため、我輩自身が直接恩恵を受けることは無い。あくまで与えられた小遣いの中で金を計算するのみ。 独身時代には、ボーナス支給日というのは非常に待ち遠しいものだった。それが今では、何も感慨も無く過ぎて行く・・・。 もっとも、薄給でのやりくりに苦悩するヘナチョコ妻の立場を考えると、気軽に小遣い値上げを要求するワケにもいかぬ。 しかも最近はヘナチョコの体調が非常に悪く、昼の弁当は自分で作るしか無い。横着してコンビニで調達しようものなら、それだけで\300前後の出費となる。たかが\300とはいえ、これが毎日となると痛い。実働20日と考えると、1ヶ月あたり\6,000の出費となる計算。意外な金額の大きさにショックを受ける。 ただでさえ古本屋で本を買い漁る生活であるのに、これ以上無計画な出費は抑えねばならない。 そんなことでもあり、最近はインターネットでのオークションを利用してカメラ関連の物件を捜すことが多くなった。 オークションは、上手くすると非常に安く品物を得ることが出来る。低い入札価格だと落札出来ないことも多いが、タイミングによっては逆に思わぬ低価格で品物を得ることもある。貧乏人には有り難い。 ただ、オークションはパソコン画面で検索して表示させるため、検索キーにヒットした物件がいくつも引っ張られてくる。そうなると、そこに表示された別の品物が気になってくる。 インターネットのオークションというのは、個人対個人の直接取引であるため、カメラ店での下取りで買い叩かれたり買取りを拒否されることも無い。そのため、中古市場には出てこないような、ほとんど価値の無い物件が数多く出品されている。「価値が無い」と言うのは、あくまで一般的な価値のことであり、それを欲する少数の人間にとってそれは宝物である。 そういうワケで、ちょっと検索するだけで購入予定に無い掘り出し物がどんどん見付かり、時間を忘れ深みにハマっていくことになる。 そんな時、ふと我に返ることがある。 金を節約するためにオークションを利用しているはずが、その副作用によって金を多く浪費する・・・。これこそ、本末転倒と言う他無い。 ---------------------------------------------------- [323] 2001年12月08日(土) 「恥知らず企業ニコン」 我輩は現在、印刷営業をやっている。 主に部品カタログなどの少部数印刷を担当し、「印刷スケジュール管理」、「原稿・校正のやり取り」、「納品」と非常に忙しい。部数が少ない代わりに種類が多く、間違いが起きないように常にチェックが欠かせない。 特に納品時は、最終段階であるために時間的余裕が無く気を遣う。 制作現場から届けられた印刷物の部数をチェックし、納品書を作って客先へ納入するのであるが、その場になって不具合に気付く時がある(滅多に無いが)。 例えば先月は、1冊だけ表紙のコーティングにキズがあった。いくら中身に問題無いとは言っても、商品であるからこのようなものを納品する訳にもいかぬ。営業判断というよりも常識的判断である。 幸い、控え分として余分に1冊あったのでそれと差替えたのだが、もし控え分が無かったら危ないところであった・・・。 仕事というのは、それぞれにプライドを持つべきだと我輩は思う。 今の時代、「プライド」などと言うと「唯我独尊」という意味に取られるらしく、以前、他の営業の人間と話した時に我輩がプライドについて触れると、ソイツは「客商売にはプライドは邪魔になる」という意味の言葉を言っていた。 ソイツの言っている「プライド」と我輩の言っている「プライド」とは明らかに意味が違うのであるが、文脈から判断しても取り違えられるほどに「プライド」という言葉は安っぽくなったのかと思った。 仕事にプライドを持つというのは、自分の仕事を自慢するというのでは無い。自分の仕事にプロ意識を持ち、こだわりを以て仕事を為すことである。 もしかしたら、顧客は「あぁ、この程度のキズなら別にいいよ」と言ってくれるかも知れない。だが、そんなことに甘えるようではプロとは言えぬ。そもそも自分が気付くべき不具合を客に指摘されることになれば恥である。 「プライドを持たぬ」というのは、即ち「恥を知らぬ」ということなのだ。 先日、我輩の主力機「Nikon F3/T」をヨドバシカメラ上野店経由で修理に出したという話をした。それが昨日、やっと修理が上がってきた。 手元には修理票があるが、今回で4枚目となった。これらは差戻し修理の結果である。 1回目は普通の修理に思えた。 F3のAEロックボタンが取れたために修理に出したのだが、修理完了したものを見ると、巻き戻し部分が落下破損していた。クランク部分はメリ込み、固い地面に叩き付けられたかのように金属部が削られていたのである。ウラブタさえ開かぬ。 2回目の修理は当然、その落下破損の差戻し修理である。その際、オーバーホールを希望したが、ニコン側はそれは必要無いと判断したようで動作確認のみでお茶を濁していた。巻き戻し部にはガラス基板の「金属薄膜抵抗体(FRE)」が入っているので、ひび割れ(クラック)などによって後々断線など起こりはしないかと不安が残った。 3回目は半年後である。 急に露出計の表示がおかしくなった。修理に出すと正常に戻った。明細書には「FRE基板を交換」との記載があった。 4回目はその翌日である。 3回目の修理で全快したと思われた露出計の表示が、再び元の不具合に戻っていた。修理に出すと「電子部品基板部交換」と記載されて戻ってきた。 ところが今回、4回目の修理を受け取りにヨドバシカメラ上野店に出向いたところ、シャッターダイヤル部分にキズが付いているのに気が付いた。シャッタースピードを刻印表示している金属板の部分である。 最初、それは汚れか何かだと思った。なぜならば金属色が見えなかったからだ。しかしよく見ると、まるで黒マジックペンで塗りつぶしたかのようにそこの黒だけ違う色になっていた。まさか、修理中にキズを付けてしまい、ごまかすために塗りつぶしたか・・・? ヨドバシカメラ店員は、すまなさそうに我輩に謝罪した。我輩はその店員の姿勢に恐縮し、「悪いのはヨドバシカメラではなくニコンである」と言った。そして、「機能上支障が無いのであるから、もうこれは諦める」と伝えた。 金にもならぬ仕事に対してヨドバシカメラはよくやってくれている。他の店ならば「最初から付いてたキズじゃないんですか」などと言われたかも知れぬ。だから我輩はクレーマーにならぬよう気を付けたのだ。 ヨドバシカメラ店員はそれでも、「もし気になるようでしたら、修理票に一筆書いておきますので、いつでもお持ち下さい」と言ってくれた。 我輩はその言葉に感謝し、店頭を去りながらニコンに対して拳(こぶし)を握った。 もし我輩がサービスセンターに直接持ち込んで修理を依頼したならば(時間的には無理だが)、単刀直入に苦情をぶつけることも出来たろう。しかし前にも書いたように、サービスセンターでは接客は二の次である。再修理となっても、無償対応ということで許される。何度修理しようが、最終的に機能すればそれで良い。小さなキズのことを言っても、「動くじゃないですか」の一言で終わろう。「多重露出レバーが使えなくても支障無いでしょう?」などと言うくらいである。キズなどは技術的に不具合には入らない。プロカメラマン相手ならばそれで良い。 だが我輩は、一般客のチャネルを選択し、ヨドバシカメラ経由で修理を依頼した。だから、ニコンは外観にも気を遣うべきである。いくら機能が戻ろうとも、一般客向けならば外観がボロボロになって良い訳は無い。ましてや、再修理に再修理を重ねた挙げ句、客にキズを指摘されるというのは、プライド無しの恥知らずという他無い。 前回雑文で落下破損の件を書いた時、読者のひとりからニコンの修理についての別のケースについて報告頂いた(修理票の画像も添付)。それによると、やはり修理から返ってくると他の部分が不具合を起こしていたらしい。しかもその時のニコンの対応は、とても一般客相手とは思えないものであり、まさに「再修理すれば文句無かろう」と言うような、全く納得いかないという話だったという。 逆に我輩は、「まさに恥知らずの企業らしい対応だ」と納得した。 昔はよく世話になったニコンであり、心の中では見上げていたものだった。しかし、今は全く違う。足で踏みつけてもまだ足りぬ。 恥を知らぬ企業に未来は無し。 ニコンよ、恥を知れっ! ---------------------------------------------------- [324] 2001年12月13日(木) 「小さな野火」 15年くらい前だったろうか、レンズ付きフィルム「写ルンです(110フィルム)」と「写ルンですHi(35mmフィルム)」がヒットした直後、各社こぞってこの市場に参入した。さすがにPanasonicブランドのレンズ付きフィルムを知った時には驚いたが、外側の紙箱を取り替えるだけでOEMになるのは面白い。 ところでこの時期、千趣会の通販カタログにコダックのレンズ付きフィルムが登場した。魚眼レンズ風に写るものや、画面上下をマスクした疑似パノラマ写真が撮れるものなどがセットになっていたと記憶している。確か、「遊び心で写真を撮る」という位置付けの商品だった。 実はその商品、我輩の母親が購入していたために気付いた。当時は「相変わらず、新しモノ好きだな」とよく見もしなかった。 それからしばらくしてふと気付くと、世間はパノラマ写真ブームの真っ直中にいた。それは例えるならば、「小さな野火だとバカにしていたものが、いつの間にか大きな炎となって囲まれてしまった」という感じか。正直言って、ここまで延焼するとは思わなかった。 パノラマブームの炎はその後勢いを強め、最初はコンパクトカメラを飲み込み、ついには一眼レフさえも焼き尽くした。一時期、「パノラマ機能の無いカメラはカメラではない」とさえ言われたものだった・・・。 最近、ロモ(LOMO)というカメラが静かなブームらしい。 ロモはロシア製のカメラで、いわゆるトイ・カメラ(TOY CAMERA)である。その作例を見る限り、トイカメラにしては結構写る。ただし、レンズ付きフィルムよりは、写りはかなり悪い。 レンズ付きフィルムの場合、最初の「写ルンです」が110フィルムを使う遊び半分のトイ・カメラであった。だがその後、35mmフィルム化やストロボ搭載によって見事にトイカメラからの脱却を果たした。もし「写ルンです」がトイ・カメラのままであったら、110フィルムの衰退と共に息絶えたに違いない。 では、ロモも同様に発展の道を辿るのだろうか。トイ・カメラから脱却するのだろうか。 いや、その可能性は全く無いと言い切れる。 ロモを支えている愛好家を見ると、カメラどころか写真の基礎を知る者は少数派であるように見える。彼らは、ロモの写りの悪さを「味」や「作風」ととらえ、中には意図的にピンボケ写真を撮る者すらいる。さらには、カメラを通じたコミュニティに加わることが主たる目的だという者もいる。そしてロモを持ち歩くことがファッションとも言われ始めた。 このような愛好家相手では、メーカー側も「カメラを改良しよう」などという気持ちは消え失せる。いや逆に、愛好家を利用すれば、実質5千円程度のカメラを2万円で売ることが出来る。 彼らは「楽しければ良いじゃないか。」と言うだろう。 その発想自体が、飽きっぽい人間の証拠である。いくら趣味のレベルと言えども、苦労を避けて楽しさだけをつまみ食いばかりしていては、長続きなどするワケがない。うわべにばかり奇をてらい、それが自分らしさであると勘違いする。結局はそれが与えられたものだということに気付かないだろう。 普通の国産カメラを使うと当たり前に写りすぎて、とても自分の個性を出せない。そういう中で個性を出そうと思っても、自分のスキルが伴わない。もちろん、写真の勉強を一からやるのもかったるい。ならば、手っ取り早く写真に味付けが出来るようなカメラに頼ろうと思い付く。恐らくそんなところか。 だから、意図せず普通の写真として写ってしまうと「ロモらしさが出なかった」ということになる。せっかくの高性能フィルムも、ロモ愛好家にかかれば期限切れのフィルムと大差無い仕上がりとなろう。 もちろん、「結局は写真を趣味とする人間とは種類が違う」などと吐き捨てることも出来よう。雑文225でも「我輩は、自分の趣味のスタイルを強要せぬ。他人の趣味のスタイルを否定せぬ。」とは書いているが、ロモは趣味というよりもファッションの流行と言える。 しかし、だからと言って我々とは関係無いとも言えぬ。寧ろ趣味の世界をかき乱す。 ロモの話題に触れるたび、小さな野火が大火となったパノラマブームの記憶が蘇り、思わず身震いするのだ。まさか、ロモ的描写を再現する撮影モードが一眼レフに組み込まれるということは無いだろうな・・・。ロモ的描写をするフィルムが発売されたりしないだろうな・・・。 今、小さな野火が燻っている。 <参考リンク> ●ロモジャパン ●ロモジャパンのBBS (少しでも批判めいたことを書くと警告無しに削除されるから気を付けろ) ●ロモジャパンのBBS(旧) ---------------------------------------------------- [325] 2001年12月17日(月) 「ロシア製デッドコピー」 ロシア製のカメラというのは、非常にユニークでオリジナリティあふれるものか、あるいは逆に、外国製品を真似て作ったものか、そのどちらかしか無い。 有名なデッドコピーカメラと言えば、ライカD2型をコピーした「ゾルキー」、ハッセルブラッド1000Fをコピーした「キエフ88」、ペンタコン6をコピーした「キエフ60」、ニコンF2フォトミックをコピーした「ロモ・アルマス102」、そして今回の主役である「ロモ・LC-A」は、コシナCX-1(あるいはCX-2か?)のコピーである。 普通、製品のコピーというのは、我々が思っているほどたやすい事ではない。それは、以下に挙げる問題点があるからである。 <工作技術の問題> 戦時中、日本はドイツから技術提携を受けるために高速魚雷艇エンジン「ダイムラー・ベンツMB501」を潜水艦イ-8に積み込んで持ち帰った。しかし、現物を部品単位にまで分解して調査した結果、それは当時の日本の技術力ではとうてい製造不可能であると結論せざるを得なかったという。特に、精密さを要求されるクランクシャフトが製造不可能であり、20もあるピストンがそれぞれに協調してシャフトを回すには、少しの誤差を残してもエンジンが振動して破壊する。 いくら構造が判ったとしても、それを形にする技術力が無ければ、そもそもどうしようもない。 <材料の問題> 同じく戦時中、アメリカ軍の主力爆撃機「ボーイングB-29スーパーフォートレス」のエンジンには排気タービン過給器が搭載され、空気の薄い7,500メートル以上の高々度でも、十分な出力を以て日本本土に爆弾の雨を降らせた。 日本側には、エンジンの高温排気に耐えられる金属材料開発が十分ではなく、性能の良い排気タービンは作れなかった。スパイ活動によってアメリカから現物を持ち込もうとした事件もあったが、仮にそれが手に入ったとしても、大して貢献することはなかったろう。 そもそも、排気タービンなどの大物でなくとも、何の変哲もない金物(例えばバルブなど)がダイキャストによって大量生産されているということも生産性に差を付けた。当時の日本には、ダイキャストで作れるほどの品質を持った材料が無く、全てが手作りに近い生産であった。 ロモの場合では、レンズに使われるガラス材の性能が十分ではない。そのため、いくらコピーであってもロシアで手に入るガラス材に適した再設計が必要であったと思われる。それが「ロモグラフィー」を創り出す要素の一つとなったのは皮肉である。 <設計の問題> 機械製品では、設計図が無く現物のみが存在する場合、いくら現物の部品を厳密に測って模造しようが、完全に同じように機能するものは作れない。 電子部品では、高度なリバースエンジニアリング技術さえあれば回路を分析して再現することが出来る。しかし機械製品では、その現物は元となる設計図からある程度の誤差を以て製造されたものである。その現物を計測してコピー品を作ろうとすると、誤差(個体差)を更に上乗せさせて製造することになる。そうなると実際に組み立てる時になって穴の位置が合わなかったり、歯車がキツくて回らなかったりする。そうならないようにするためには、手間であっても図面を引き直して再設計する必要がある。そういった手間を惜しめば、欠陥品が大量に出てくるのは当たり前。 ロシア製カメラは当たりハズレが激しいというのが定説である。それは、機械部品の製造誤差がたまたま正常値に触れたか、あるいは逆に遠ざかったかという問題である。 確かに、ロシア製は製造技術が劣っているとも言えるかも知れない。しかし、日本が技術大国になったのは、いくら粗悪なものが作られていても品質管理の徹底によって、それが工場の外に出ない。それがロシア製の場合では、良い品質も悪い品質も等しく出荷されてしまう。その傾向は、ソ連崩壊後に顕著であるという。 我輩は10年前にロモ・ルビテル166Bを購入したのだが、その機能は安定しており、とてもベークライト製(プラスチック製ですらない)のカメラとは思えない。ルビテルはセルフタイマーのガバナーが調子が悪くなることが多いらしいが、我輩のルビテルに関してはそのようなことは無かった。たまたま、当たりの個体だったらしい。 このように、ロシアカメラを買うということは、ある程度のリスクを伴う。それがデッドコピーのカメラならば、正常に動作するもの自体が珍しい。 製造元は、自分たちで開発したものではないのであるから、カメラを改良することはおろか、カメラの修理すら難しい。その結果、故障品は一律に新品取り替えとなる。原価が異常に安いのであるから、手間を掛けてまで修理しようなどとは思わない。 我々のようなカメラに入れ込んでいる人間がロモやキエフなどに手を出すならば、まだ自力でメンテナンスが可能であろう。あるいは、壊れても後悔しないような購入の仕方が出来る。それらは決してメインカメラとはなり得ないのであるから。 しかし初心者の場合には、カメラが壊れれば何も出来ない。しかもそれが唯一のカメラである。 ロモの場合、代理店の「ロモジャパン」もカメラについての知識はあまり無いようで、結局は修理不能である。故障の場合は新品と交換となるのだが、それは根本的解決にはならないということは言うまでも無かろう。 フィルム送りが十分ではなくコマが重なってしまうという不具合も、作品の味として受け入れられるうちは良いのだが、今までに2度も交換するハメになったという話は、ロモジャパンの掲示板等で見掛けた。欠陥品を欠陥品で補うことの無意味さが解っていないのだ。 もし、初心者がロシア製デッドコピーに手を出そうと言うならば、ハッキリと止めてやったほうが良い。もし本当に欲しいのならば、我々の制止を押し切ってでも購入するだろうが、その場合には我々に責任は無い。 「キサマが自ら選んだ道であろう。」と吐き捨てれば良い。 ただし、初心者にロシア製デッドコピーを薦めた場合には、その責任は薦めた側にある。責任を持ってその者の精神的サポートを努めよ。 <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [326] 2001年12月24日(月) 「覗き」 昔、ヒッチコックの「裏窓」という映画を観た。 細かい部分は忘れたが、確か、怪我をしたカメラマンが療養の暇つぶしに望遠レンズで自宅の窓から近所の生活を覗き見るという話だったと思う。そしてそのカメラマンは、思いがけず殺人の現場を目撃してしまい、命を狙われるようになる・・・。 人間というのは元来、遠くのものを近くに見たいという覗き本能があるのかも知れない。「覗き本能」などと言うと抵抗があるかも知れないが、言い換えれば「好奇心」ということか。 高いビルや山の展望台に行くと、たいてい有料の双眼鏡が設置してある。そして、大して珍しくもないはずの建物を双眼鏡を覗くことによって引き寄せて見る。 やはり、遠くのものが近くに見えるのは面白い。 それは、中学の時に初めて望遠レンズを覗いた時のことを想い出させる。あの時のレンズもまた、ミラーレンズだった。 先日、某タレントが風呂場を覗いて捕まった。この場合は、遠くの映像を引き寄せるというよりも、自分自身が近付いて行き、ついでに風呂場の窓まで開けてしまった。これなどは、見えないところを見ようとする覗きで、非常にタチが悪い。 このタレント、一年前にも隠しカメラで女性のスカートを逆さ撮りした容疑で捕まっている。好奇心による覗きというよりも、明らかに性欲による覗きであり、痴漢行為と言えよう。 正統派の覗きとは、近くで見ようと思えば見えるものを、わざわざ遠くから離れて望遠レンズによって映像を引き寄せることである。 我輩は普段、24mmレンズをよく使うが、このような広角レンズを用いると、ゴチャゴチャと色々なものが写り込むことがある。以前雑文に書いたように、写真の情報量には驚かされるのであるが、その写真を高倍率ルーペによって部分拡大して見ていると、まさに時間を忘れることがある。これなどはまさに「覗き」と言える。 ただ、やはり写真の情報量には限界がある。いくらルーペで拡大しようとも、フィルムの粒子よりも小さなものは見えない。 そこで、写真に写ったものをルーペで拡大するのではなく、実風景を拡大してみたいと思う。実風景を拡大するルーペ、それが望遠レンズである。 さて、先日我輩は、ヤフーのオークションで望遠レンズを手に入れた。以前、ケンコー製ミラースコープについて書いたのだが、このレンズはなかなか見付からない。ロシア製のミラーレンズなどはよく見掛けるのだが、当たり外れの激しいロシア製であるから、手を出すのは避けたい。 そんな時、1つのレンズが目に留まった。チノン製ミラーレンズ300mm F5.6。我輩の探していたケンコーミラースコープが300mm F5.0であるから、ほぼ同じ仕様と言える。注目すべきはそのコンパクトなサイズにあった。これならば85mmくらいのレンズにしか見えない。携帯性は抜群。 その後、我輩はこれを1万5千円で落札し手に入れた。 このレンズは交換マウント式で、各社の一眼レフに装着出来る。我輩は顕微鏡撮影用にニコン用のマウントを持っていたので、それを使ってF3に装着した。 いずれCanon EOS用やFD用のマウントも手に入れようかと思う。 <<画像ファイルあり>> Canon用500mmのミラーレンズと並べてみたが、これほどの違いがある。300mmのほうは、まるでテレコンバータのよう。 <<画像ファイルあり>> F3に装着してみるが、比較的小柄なボディと比較しても、やはりコンパクトに変わりは無い。これで300mmというのだから驚く。F4やF5などに装着すれば、ほとんど違和感無かろう。 実際にファインダーを覗いてみたが、ピントの山がなかなか掴めない。ファインダースクリーンを全面マットに換えてみてやっとピントが合った(ような気がした)。そもそもミラーレンズは、ピントを合わせにくいものなのだが、このレンズはコントラストの低い被写体にはピントの山が見えない。 「これがAFだったらなあ」と思う数少ない瞬間であった。 まだ具体的に何かを撮ろうと考えているわけではないが、携帯性が優れている利点を活かし、どこかで面白そうなものを見付け、じっくりと覗いてみたい。 ---------------------------------------------------- [327] 2001年12月29日(土) 「Nシステム」 「コンタックスN1」をベースにしたデジタル一眼レフカメラ「コンタックスNデジタル」が、いよいよ来年発売されるという。 しかしこのNシステムは最初からデジタル一眼レフカメラを前提としていたため、もしかしたら「コンタックスNデジタル」のほうをベースにして「コンタックスN1」が作られたという可能性もある。まさか、デジタルカメラの発売がCCDの開発期間に左右されたため、その間を埋めるために銀塩カメラもとりあえず発売することにした・・・? まあ、いくら背水の陣で臨んだNシステムの開発であっても、デジタルカメラオンリーというまでは割り切ることは出来まい。オリンパスのように、失うものが無いというならまだしも。 さて、この「コンタックスNデジタル」のCCDは、待ちに待った35mm判と同サイズの面積を持つフルサイズCCD。3枚のCCDを貼り合わせて1枚とした。 これで一眼レフカメラの能力をフルに発揮出来ることになる。これだけでコンタックスを選ぶ価値が生まれた。まさに、Nシステムならではの価値となろう。 これで、ようやくデジタル一眼レフカメラでも広角レンズが使えるようになる。特に、全周魚眼レンズはフルサイズCCDでしか撮影不可能。 コンタックスはAF後発メーカーであるため、システムの開発時点で考えられる限りの可能性を考慮したことだろう。ニコンFマウントが作られた時代にはデジタルカメラのことなど想像も出来なかったに違いないが、コンタックスのNマウントが作られた時は、十分にデジタルカメラの可能性が検討されたに違いない。 もちろん、コンタックスがAF後発とは言っても、京セラブランドの安っぽいAFやコンタックスAXの力技的AFはあった。その時の経験を活かして今のシステムを作り上げたと思う。またそうでなければ、コンタックスの存在自体が危うくなる。マウントを変更までして従来からのユーザを絶ち切ったのだから、それなりの必然性が無ければならぬ。「何となく気分でマウントを変更してみた」などと言われては、ユーザはたまらないからな。そういう意味では、コンタックスには大きな期待がかかっていると言える。 このように、今後の技術発展に十分対応出来るよう考えられたであろうNシステムであるがゆえ、図体が大きいのは仕方無い。しかしどうせ大柄ならば、横位置ホールドのままで画面の縦位置・横位置の切替が出来るようにして欲しいと思う。 カメラというものは、どれも横位置ホールドで使うことを前提として作られている(しかも右利き用)。確かに「Nデジタル」では縦位置グリップも利用可能であるが、ファインダーを覗く位置が変わり、同じ調子で撮影出来るかというとそうでもない。 横位置・縦位置を同比率で撮影する者ならば良いが、横位置が多い者にとっては縦位置グリップが無駄であり、縦位置が多い者にとっては通常のグリップが無駄である。これら撮影時に必要無い部分は死加重と言うべきか。 銀塩カメラならば縦位置グリップの存在は仕方無いと言えるかも知れないが、デジタルカメラならば工夫次第で何とかなる。こういう部分で銀塩に差を付けなければ、デジタルカメラならではの便利さを広げることは出来まい。 そもそも、縦位置用のグリップはカメラの小型化を阻んでいる。技術が進歩すれば小型化出来るような部位とは違い、グリップというものはその出っ張りの存在自体が機能である。 しかし、もし横位置のままで縦位置フレーミングが可能となれば、もはや縦位置グリップなど不要となり、カメラの小型化の余地が出てくる。 CCDを正方形にし、スイッチ切換えによって縦と横のフレーミングを瞬時に変更させる。もちろん、今以上の大サイズCCDが必要となる他、シャッターやミラーも大きくする必要がある。しかし、正方形フレームの中判カメラが存在しているのであるから、不可能だとは誰も言えまい。どうせCCDをフルサイズにするならば、今度は正方形を目指してもらいたい。フィルムサイズにとらわれないデジタルの利点がそこにある。そして、Nシステムはそのような構造を受け入れることの出来るシステムだと信じたい。 Nシステム、我輩の想像をはるかに越える「隠し玉」が多くあることを期待する。 ---------------------------------------------------- [328] 2002年01月12日(土) 「予定調和」 新年が明けて十日以上も経つというのに、この雑文のほうは新年を迎えることがなかなか出来なかった。 それというのも、我輩に新たな試練が課せられたからに他ならない。 今回の話は、いつも以上にクドクドと長くなりそうであるが、それが我輩の苦難を表現することにもなるため、敢えて要約せず書き連ねることにする。言ってみれば、「世界一長い言い訳」とでも言おうか。 もちろん、最後には文の筋を1本に束ねようと思ってはいる。何が言いたいのかだけが知りたいのであれば、文章を色分けしてあるので、もし面倒ならば、白文字の部分だけを読めば一応の意味が通る。青文字は読み飛ばしても良い。 先日、パソコンの増強を果たした。 我輩はスチルカメラを専門にしているため、ビデオ撮影というのは基本的にはやらない。その理由として、「出来ない」ということと「やらない」ということが複合している。 まず、「出来ない」ということについての理由。 ビデオは基本的にカメラの画面の動きが重要であり、スチル写真のように一瞬のフレーミングに集中すれば良いというわけではなく、常にカメラの動きを意識しておく必要がある。思いつきでカメラを動かすのは一番タチが悪い。被写体の動きに翻弄され、観る方が疲れてくる。被写体の一瞬先の動きを予測しながら、どのように画面で動きを追うのかを考えるにはそれなりの訓練が必要とされよう。 次に、「やらない」ということについての理由。 趣味としてやるならば、適当にやってお茶を濁すなどというのは自分自身が許さない。中途半端なものならば、最初から全く手を付けないのが我輩流。右手にスチルカメラ、左手にビデオカメラなどという芸当はとても出来そうにない。 実際、我輩は過去にビデオカメラを2度購入した経験があるが、そのいずれも長続きせず売却してしまった。単に「新しモノ好き」の心を一瞬だけ満たすに過ぎなかった。結局は金のムダであるから、もう二度とビデオカメラには手を出さぬことを誓った。 ところが最近、ヘナチョコ妻の要請でビデオ撮りが必要になってきた。元々、ヘナチョコは習い事の発表会でビデオ撮りが発生することが多いのであるが、今までは他人や業者がビデオ撮影したものを観ていたので、ビデオカメラが必要とされる場面は無かった。しかし色々な事情もあり、「やっぱりビデオカメラはあったほうが良い」というヘナチョコからの要求が強くなってきた。 ヘナチョコ妻はヘナチョコであるので、ビデオ撮影から編集まで全てを我輩に任せようという魂胆である。我輩はそれを頑なに拒んだ。しかしヘナチョコは変なところで頑固になることがあり、双方の言い分は平行線のままだった。仕方無く、我輩が妥協案として「もしパソコンでDVD-Videoを制作する環境が整ったら、編集作業だけは引き受けても良い」と提案した。そしてその際に掛かる費用を見積もってヘナチョコに渡した。 ヘナチョコはビデオの整理が大変だということは理解していたため、その妥協案には即座に同意し、必要と思われる費用が家計からまかなわれることとなった。 面倒な作業が増えるが、自分の小遣いを減らすことなくDVD-Video制作環境が整うというのは願ってもないことだ。 DVD-Videoを作成するには、画像をキャプチャー(取り込み)してMPEG2ファイルにエンコード(圧縮)するボードと、それをDVD-Video形式でディスクに書き込むライターが必要となる。 メインパソコンはPCIスロットの空きが無く、しかも重い処理をこれ以上させるわけにもいかないので、Video-CD作成用となっているセカンドパソコンをDVD-Video作成用にグレードアップすることとした。 そのパソコンのスペックは「Pentium2-350MHz」。「Pentium4」が主流の現在ではかなり非力ではあるが、Video-CD作成用ということもあり、今までは全くグレードアップの必要性が無かった。しかし、そのスペックはDVD-Video作成用とするならばかなり厳しい。 通常、キャプチャーボードはPCIバスという高速なデータ転送可能な接続で繋がれるので、パソコンのCPUによってソフトウェア的にエンコードする。しかし、その場合はCPUにそれなりのスペックが要求されることになる。「Pentium2-350MHz」ごときでは全く歯が立たない。 そこで非力なCPUに負担を与えないよう、特にキャプチャーボードのハードウェアでMPEG2にエンコード出来るボードを選んで買い求めた。しかしこれでも最低要求スペックは「Pentium2-400MHz」となっている。現状では性能的余裕が全く無い。 とりあえず試してみたのだが、一応、動画は正常にキャプチャーされているように見えるが、キャプチャー中のプレビュー画面の動きがコマ送り状態で見るに耐えない。画面と音がズレて見えるので不安になる。 しかも、キャプチャーしたMPEG2ファイルの容量が大きく、ハードディスクの容量がこの先危うい。 次の日、60GBのIDEハードディスクを購入。これでとりあえずの問題はクリア出来るはずだった。しかし、メインボード(マザーボード)が大容量ハードディスクに対応しておらず、BIOSアップデートツールさえも「対象外」と表示される始末。 大容量ハードディスクに対応したメインボードは他にも転がっていたが、そのボードに換える手間を考えると、現在のギリギリスペックを向上させる良い機会だと思い、「Pentium3」にすることにした。 しかし、実際に店頭で探してみると、もはや「Pentium3」関連製品の選択肢は少なく、まさに終点間近の列車に乗ろうとしているのは明白だった。もしグレードアップするならば、「Pentium4」(しかもSocket478)を選ぶしか無かろう。 そうなると、今度はパソコン筐体が問題となった。筐体に付属している電源装置が「Pentium4」仕様ではないので、新たに筐体を購入しなければならない。狭い住宅ではさすがにこれは無理だ。余った筐体は処分に困る。そこで、値段的にはあまり変わらないが、350Wの電源部のみを単体で購入した。もちろん同時に、「Pentium4」とメインボードも購入。金がかかる・・・。 ところが問題はこれだけでは無かった。 新しいメインボードでは、今まで使っていたAGP接続のビデオボードが刺さらないことが判明した。よく見ると、AGPスロットの形状が少し違う。なんと、ちょっと見ぬ間にスロットの切り欠きが1つ増えていたのだ。今度はビデオボードさえも新規に必要となるのか・・・!? 結局は金が続かないので、やむなく古いPCI接続のビデオボードを取り付けた。当面はこれで誤魔化しておくことにする(キャプチャーに失敗することが多くなったが、これが原因か?)。 余談に余談を重ねるが、新しいメインボードはメモリスロットが3つであるため、今まで刺さっていた4つのメモリのうち1つを抜かなければならなくなる。これではグレードダウンとなるので、容量の大きいメモリを1枚買う必要があった(メモリスロットの多いボードであっても、メモリチップの数によっては4枚全てが使えるとは限らない)。 結局はDVD-Videoを作るために15万円も掛かってしまった。 「とりあえずはDVD-Videoが作れれば良い」という動機のグレードアップでしかなかったのだが、ノートパソコンにも負けていたスペックのパソコンが、図らずも我輩のパソコンの中では最強のスペックとなってしまった。 結果的に見ると、ほとんど新規に組み立てたような感じではあったが、外から見れば同じ筐体のパソコンであるのに、段違いの性能には驚くばかりである。 パソコンの場合、CPUを始め、ハードディスク、メモリ、ビデオボードなどのパーツを要求に応じて選択することにより、トータルとしても高性能なスペックが手に入る。パーツそれぞれの性能が向上すれば、全体的な性能も向上するのは当然である。 (もちろん、1つのパーツの性能を向上させてもボトルネックの存在で効果が上がらない場合もあるが、ボトルネックが解消されればその性能は解放される。) もし仮に、カメラもパソコンのようにユーザーが各パーツを取り替えることが出来るとするなら、そのカメラはどんどん進化を続けるだろうか? どんどん使い勝手が良くなるだろうか? そして、良い写真を多く残せるだろうか? しかし、カメラというのは内部処理だけ速くても意味が無い。適度な重量、ボタンやダイヤルのクリック感、そして各操作部の配置は重要となる。前回の雑文にも書いたが、例えばグリップというのはその容積と形状自体が性能である。それは、大き過ぎても小さ過ぎてもいけない。丸過ぎても角張り過ぎてもダメだ。それは人間工学と言われ、人間の形と機能に沿った設計が重要とされている。 パソコンでも、キー・ピッチ(キーの間隔)やキー・ストローク(キーの沈み込み)などで人間工学方面からの要求はある。しかし、それはパソコンの本質的な性能ではない。パソコンはあくまで処理装置である。 カメラの場合では、手に持って使う道具であるということから、人間工学の塊とも言えよう。人間工学という言葉がいつ生まれたのかは知らないが、先人たちは無意識のうちに人間が一番使い易い道具を目指してきたことは、カメラの歴史を見ればすぐに解るだろう。 (ちなみに、これは前にも書いたことだが、人間工学とは「握る形にフィットする」という安易な話ではない。目的によっては角を付けて適度な抗力で手応えを与えることもある。そういったサジ加減は設計思想に依存される。単に指のラインをなぞっていれば良いと考えている設計者がいるとすれば、まったくもって浅い考えと言わざるを得ない。) そう考えると、「最新型カメラ=良いカメラ」とは必ずしも言えない。パソコンならば全体を考えなくとも、とりあえずは部分部分の性能を向上させていれば、今回の我輩のパソコンのように「いつの間にか」高性能なパソコンが完成してしまう。予定調和の最たるもの。 だがカメラは、全体を考えて作られなければならぬ。如何に個々の部品に最新技術を注ぎ込んだとしても、それがトータルとして素晴らしいカメラとしてまとまるとは限らない。 カメラのカタログを読むと、個々のスペックから予定調和の実現が期待されるが、やはりトータル性能が求められる機械であるからには、実際に手に取ってみなければそのカメラの価値は判らぬ。 我輩の場合、時代遅れのカメラ「Nikon F3」でそれを知った。 ---------------------------------------------------- [329] 2002年01月18日(金) 「眼鏡が壊れたら」 「トワイライト・ゾーン」というホラー映画にて、核戦争で1人生き残ったという読書好きの男が話題に出る。 その男は図書館の本を読もうとするが、たった一つしか無い眼鏡を壊してしまい、膨大な本を前にして好きな読書が永遠に不可能となってしまった。 これはホラーというよりもブラック・ジョーク的な話ではあるが、決して他人事ではない恐怖に、素直に笑えなかった・・・。 前回、DVD-Videoの制作環境を整えつつあるという話をした。 今まで撮り貯めたVHSビデオや8mmビデオをDVD-Videoへ整理することが出来る。これにより、可動部が多く故障しやすいビデオテープ機器からの脱却がやっと実現することになる。 しかも、手元には時代遅れのLD(レーザーディスク)の資産がいくつかある。 我輩のLDプレーヤーはもはやトレーが動かなくなり、手動でディスクを出し入れするような状態。それでもまだ再生が出来ているから良いが、もしこれが完全に臨終してしまうとLDを観る手段を失う。何とかその前に映像を移行させねばならない。 今までVideo-CDによるデジタル化を進めてはいたが、Video-CDは画質が決定的に悪い。これではコピー元のビデオテープやLDを処分するのがためらわれる。結局この方法では、「ビデオを手軽に再生する」という意味しか無かった。 これがDVD-Videoであれば、それほど画質の劣化は目立たない。その手段を手に入れた今、沈みつつある船から乗客を救出するかの如く、一刻も早くLDと8mmビデオから映像を救出せねばならない。 ところがその矢先、8mmビデオデッキが故障してしまった。電源プラグを挿しても意味不明な宇宙語の表示が現れるのみ。ウンともスンとも言わない。機械的な故障ならば騙し騙し使える可能性もあろうが、電子基盤的な故障であるので手も足も出ない。故障する直前に挿入したカセットも取り出せない状態。まさに、救出前に船が沈没してしまった・・・。 丁度、ビデオカメラを買うという話になっていたのは前回の雑文でも触れた。この話はデジタルビデオ(DV)が前提であったのだが、もしこの購入計画を8mmビデオカメラへと変更するならば、撮り貯めた8mmビデオカセットも再生出来るというメリットがある。しかも、8mmビデオカメラならば新品で5万円以下のものすらある。これがデジタルビデオならば、軽く10万円は越えてしまう。 せっかくデジタルビデオを購入し、デジタルデータをDV端子で直接パソコンに流し込もうかと計画していたのだが、やむを得ず今回はデジタルビデオは諦めるしか無い。「デジタルビデオであろうと8mmビデオであろうと、結局はDVD-Video化するのだから、どちらにせよ画質の劣化は起こる」と自分を納得させてみたりする。 丸一日悩んだ末、やはり8mmビデオカメラを購入することにした。ヘナチョコ妻にも相談したが、ヘナチョコもその値段の安さには勝てなかった。 今回は我輩特有の事情があるにせよ、データの移行の問題は本当に頭が痛い。 当時は「小さくてハンドリングが良い」という理由だけで導入した8mmビデオだったが、後々このように足を引っ張ることになるとは思わなかった。 そうは言っても、DVD-Videoですらこの先どうなるかは分からない。いくらVideo-CDよりも高画質とは言っても、所詮はMPEGである。画質や編集の面での不自由が残る。その弱点を克服し、ハンドリングやコストパフォーマンスの優れた新たなフォーマットが登場した時、流れはまた変わることになろう。 (次はデジタルハイビジョンの時代か?そうなると青色レーザーを使った次世代大容量DVDに乗り換えねばならぬ・・・。) 如何にデジタルtoデジタルの変換で済むという話であっても、一旦落とした画質が元に戻ることはない。しかし、モタモタしていれば、いずれその画像は取り出せなくなってしまう。沈没しつつある船を前に決断を迫られる。 こんなことに頭を痛めていると、ふと、自分が所有しているビデオをまとめて捨ててしまいたくなる衝動に駆られる。そこまで割り切れるならばどんなに気が楽になることか。 銀塩スチルカメラの場合、そこにしがみついていれば少なくとも我輩の人生の範囲内では沈没することも無かろう。再生機を必要とせず人間の眼で直接読み取れるメディアとしての強みと言える。これは一見、原始的にも思えるが、普遍的な価値というものはいつの時代でも常に新しい。 メディアやデータフォーマットに頭を悩ませることなく、自分のペースでじっくりと作品を作るには、銀塩写真ほど適しているものは無い。 我輩は新しモノ好きであるが故に、過去に何度も悔しい思いをさせられた。だからこそ「安定したものへ落ち着きたい」という願望が強く、それが保守的な方向へと向かわせる。 だが、これは恐らく正しい考え方であろう。結局のところ、ビデオを撮(録)ったり写真を撮ったりするという行為は、そもそも情報を永く保存し利用するという動機を持っている。撮るだけ撮って後に再生環境が無くなってしまうならば、片手落ちと言わずに何と言おうか。 核戦争後に唯一の眼鏡が壊れるのを心配するくらいならば、眼鏡無しで読めたほうが末永く幸せに暮らせよう。 <<画像ファイルあり>> 各種メディアを集めてみた。LP、LD、MD、CD、VHS、8mm、カセットテープ、DAT、DV、DVD-RAM(Ver1)。これにβとDCCが加わればパーフェクトか。中でもLPとDAT、そしてDVD-RAMは再生環境が手元に無い。加えてLDとカセットテープの再生機はいつ故障するか分からない状況。金を出せば何とかなろうが、今さら前時代のものに金を出す気も起きぬ。 ---------------------------------------------------- [330] 2002年01月20日(日) 「映像関係者の知識を問う」 我輩が好きな映画の1つに「カプリコン・1(1977年作品)」というのがある。 最近、DVDでも「カプリコン・1」が発売されたので、そちらも入手して時々観たりしている。 火星有人宇宙飛行計画が、打上げ直前で生命維持装置に不具合が発見され、やむなく地上の秘密スタジオでの撮影によって火星着陸をデッチ上げるという内容。 火星表面を再現したスタジオで、3人の飛行士の動きはスロー処理によって本当に引力の小さな星で活動しているかのように演出された。 だがしかし、宇宙からやってくるはずの電波信号が、なぜか非常に近い場所から発せられている。そのことをNASAコントロールセンターのオペレータが気付く。そのオペレータは上司にそのことを報告するが、なぜか上司は「あの機器は故障中だ」と全く取り合わない。不信感を持ったオペレータは自宅で手計算で確認するのだが、それもやはり同じ結果に。 そのことを友人の記者に話したが、直後そのオペレータは行方不明となり、そればかりかそのオペレータが存在していたという事実さえ抹消されていたのだ・・・。 先週と今週、この話の月バージョンとも言うべき番組が放映された。 「アメリカのアポロ計画はデッチ上げであり、本当は月面着陸は地上で撮られた」というのである。その番組は、アメリカで放映された番組の内容を基にしているという。その中でいくつかの疑問点が挙げられ、それを根拠に「月面着陸はデッチ上げである」と結論付けている。 我輩はこういう話題が好きなほうであるから、期待を膨らませて番組を観た。そして、すぐに落胆した。 月面着陸がデッチ上げかそうでないかはここで議論する意味は無いが、ただこの番組の挙げる疑問点のうち、写真・動画を根拠にしたものについて考えてみようと思う。 <星条旗が風になびいている> 月面に立てた星条旗が、真空であるはずの月面で風になびいているという。 こういう根拠は完璧に「見た目での判断」でしかない。我輩が見たところ、砂っぽい月面にしっかりとネジ込んで旗を立てるために、軸をグリグリと回しているようだ。その回転が旗を揺らしている。少なくとも、我輩には手首の動きがそう見える。 ちなみに、月面用の旗は真空中で旗を立てるために幟(のぼり)と同じく横にも棒が通っている。 <影が平行ではない> 月面上に出来る複数の影は太陽光によるものであれば平行なはずなのに、写真に写っている2つの影は平行ではないという。これは、光源が他にもあった証拠なのだそうだ。 だが、写真や絵画をやっている者にとって、遠近感というものは馴染みの深い概念であり、写真では「パースペクティブ」、絵画では「遠近法」として知られる。要するに、近い物は大きく遠いものは小さくなるということである。 「写真」とは文字通り「真実を写す」。しかし、その真実を写真の表面上からのみ受け取るならば、せっかく写り込んだ真実を見落とし歪めてしまう。この場合、「平行線とは写真上でも必ず平行に表現される」という誤った前提に基づいている。これがそもそもの間違いである。 「平行線は、正対して初めて平行に見える」。これこそが、写真としての真実である。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 問題とされている映像と、その風景を3Dで我輩が再現した画像との比較。撮影レンズは80mm標準レンズ(ハッセルブラッド用)での画角を想定した。光源は、もちろん無限遠光源にて設定。なお、左の画像では補助線が若干主観的に描かれているような気がする。月着陸船に当たっている光の様子を見ると、明らかに逆光気味なのだ。 <逆光でも明るく写っている> 月面で撮影された写真では、強い逆光で撮られたものも多い。そしてそれらの写真では、陰の部分が明るく写っているため、補助照明があったのだという。 だがこの場合も、写真的に言えばごく当たり前のことにしか思えない。 望遠鏡で月を観察した者なら解ると思うが、月面はかなり明るい。言うなれば地面にレフ板を置いているようなもの。注目すべきは、地面に落ちた「影」と、人物の「陰」である。 雑文「貧乏人のための商品撮影(第4段階)」に掲載した写真を見れば解ってもらえると思うが、下から当てるレフ照明は、陰を照らすが影は照らさない。だからこそ、影は真っ黒いままであるが、人物の陰は明るく照明されているということになる。何の矛盾も無い。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> こちらを向いた飛行士のバイザーには、こちら側の様子が映っている。そこには何の照明装置も見あたらない。自分自身が地面に落とす影と月着陸船のみ。陰の明るさを指摘するような者が、なぜここに気付かない? <倍速映像にすると自然な動きに見える> ゆっくり緩慢に動くシーンでは、月の引力が小さいことを表現しているが、これを倍速再生すると、まるで地球上で撮影したかのように自然な動きになるという。 しかし倍速再生するということは、見かけ上重力加速度が大きく見えるということだから、別に不思議でも何でもなかろう。何が問題なのか? 倍速再生でどういうふうになれば納得するのかを逆に問いたい。 <写真に写し込まれた十字線が隠れている箇所がある> 宇宙で撮影されるハッセルブラッドによる写真には、10ミリの幅で25個のレゾークロスと呼ばれる十字線が写し込まれる。この十字線は常に画面に写り込んでいるはずなのだが、なぜか被写体の背後に隠れているものがあるらしい。これは、写真を合成した痕跡だという。 しかし、レゾークロスは極めて細い線であるため、背景が強いハイライトであれば飛んでしまうと思われる。現に、番組で紹介される「被写体に隠された十字線」を見ると、いずれも隠しているのはハイライトの部分となっている。これがもしグレーな部分で隠されているならば納得も出来ようが、これでは何とも判断出来ない。 そもそも番組ではレゾークロスのことを「カメラのフィルターに付けられた模様だと思われる」などとトボケたことを言っているが、フィルターの模様など写真にハッキリ写せないことは写真をやる我々には常識である。そんな単純なことすら理解しないということは、鋭い視点で写真の矛盾点を指摘出来ないということを意味する。つまり、そこから説得力など微塵も感じない。 以上、番組が指摘することについて考えてみたが、映像に関する限り矛盾するところは1つも無い。しかし、これを以て「やはり月面着陸は歴史的事実だ」などと言うつもりも無い。映像の検証と事実関係とはまた別の話である。映像の矛盾点は判断材料としての状況証拠に過ぎぬ。そこから断言出来る事実は極めて限られている。 それにしても情けないのが映像関係者。 番組では、映像のプロを自称する人間がコメントをしていたが、映像のプロというのはどこがどのようにプロなのか解らぬ。その人間がカメラや写真レンズを設計したようにも見えない。ただ単に「映像を扱う業者」と言うだけではないのか。まあ、それで生計を立てているのだから、確かにプロには違いないが。 しかし、以前にも書いたように、画像の理解にはハードに対する理解は欠かせない。それに加えて自然法則についての理解も必要。写真を趣味としていれば、最低限のものは自然と身に付く。いや、必要とされる。 何が自然で何が不自然か、それすら解らぬ者がCG画像を作る時代である。それでプロを自称するのだから、ますますプロの言葉に信憑性が無くなる。 映像関係者は、普段映像を扱っている関係上、映像のことなら分からないことはないと思い込んでいる。それはあたかも、日頃から大量の現金を取り扱う銀行員が自分が金持ちになった気分になるようなもの。 だが、根本を理解していないと、低級な番組しか作れない。最近の「コマーシャル前後で内容がオーバーラップする中身の薄い番組」が増えてきたことからも、そのことが伺い知れる。 映像関係者ども、頼むから頑張って少しは勉強してくれ。見ているこちらが恥ずかしくなる。 (2002.02.13追記) 「月着陸がウソである」という意見に対する反論のページをNASAが作っていたのを見付けた。英語なので詳しくは読めないが、少なくともレゾークロスの件と星条旗がはためく件について我輩と同じように考えているようだ。 しかし繰り返すが、これを以て「月着陸は真実だ」と主張するつもりも無い。ここではあくまで映像についての検証を行ったに過ぎぬ。 ---------------------------------------------------- [331] 2002年01月30日(水) 「ハンドグリップ試用レポート」 まだカメラ雑文が「単なる日記」であった頃、雑文002にて「Nikon F3用の軽量ワインダーが欲しい」と書いた。巻上げ速度を要求されない撮影には軽量なワインダーが良い。 しかし、軽量なるワインダーを欲するのは別の動機もある。それは、グリップとしての要求だ。 <<画像ファイルあり>> 我輩は昔、「Canon AE-1+P」を使用していた。その頃流行しはじめたモータードライブを手に入れようと貯金を始めたのだが、今一歩及ばず、「モータードライブMA」のグリップ部だけしか買えなかった。 電源部が無く、当然ながら巻上げは手動である。しかもモーターとギアのトルクが掛かって巻上げは少し重かった。しかし、それでもグリップ感が飛躍的に向上し、撮影が楽になったように記憶している。 さて、インターネットの情報を色々と辿っていると、個人でグリップを製作しているというサイトが幾つか見付かる。その中で、「digital camera workshop」というサイトと縁があり、今回、そこで製作されたハンドグリップをモニター使用することになった。今回の雑文は、そのレポートいうことになる。 ここで製作されるグリップは主にデジタルカメラ用であるが、銀塩カメラ用の注文も多くあるそうで、「Nikon FE」用や「Canon FT-b」用などの対応もある。 当初、我輩には「Canon FT-b」用しか選択肢は無いと考えていたのだが、よく考えると「Nikon FE」用として作られたグリップはモータードライブ共用の「Nikon FA」も対応するはず。もしFAに付くならば、稼働率の高いFAにグリップを付けたい。 グリップの素材は、「ラバー」、「紫檀」、「黒檀」、「バーロッサ」から選ぶことが出来る。我輩は色合いを重視したため、紫檀を使って製作をお願いした。 <<画像ファイルあり>> 数週間後、それは我輩の手元に届いた。 早速、FAに装着してみる。FE用に作られたグリップであるが、確かにFAにもピッタリと装着出来た。まずは一安心というところか。 紫檀の色合いは実際に見てもなかなか渋い。高級オーディオのウッドパネルのような感じがある。これは使い込むにつれて更に良い色合いとなるという。そしてそれを支えているのがアルミ素材で、鈍い光沢がそれっぽい。 我輩のFAはブラックボディであるが、もしクロームボディならばアルミの色に溶け込み、より一層の一体感があっただろうと予想する。 表面は良くポリッシュ(研磨)され、木部との段差が全く感じられないのが驚く。目をつぶってなぞると、その境目を知るのは温度変化のみとなる。 面取りもしっかりと行われており、金属部には鋭いエッジが無い。これならば手を痛めることも、また衣服に引っかけることも無い。仕上げには手間を掛けている。 木材の加工ならばシロウトでも何とかなろうが、金属の加工はそれなりの設備が無ければ難しい。それだけでもこのグリップの価値があると言えよう。 <<画像ファイルあり>> 元々、FAには着脱式のグリップが付属している。しかし、それはグリップと言うよりも「盛り上がり」と言ったほうが良いくらいの小さなもの。無いよりもマシという程度しかない。それは、「Canon AE-1+P」の場合も同じである。 それに対し、今回のグリップは指が回り込むのが良い。多少、我輩の手には小さいという感じはするが、片手でカメラを提げていても不安が無いくらいのグリップ感がある。 手巻き式のカメラというのは、右手親指で巻上げレバーを操作するようになっている。しかし、右手親指はカメラを捕まえておくには重要な支えでもあるから、片手でホールドしながら巻上げるというのは難しい。もしグリップがあれば、親指の負担を軽減させ、片手で巻上げを行うことも可能となろう。 スナップ写真では撮影時こそ両手で構えるものの、その合間には片手でカメラを提げることが多い。その間にフィルムを巻上げ、次に構えた時には撮影準備を完了させている。確かにこれは、分割巻上げが可能なカメラであれば楽であるが、FAは分割巻上げが出来ないためそれが難しい。モータードライブを使わないスナップ撮影において、このようなグリップの存在は撮影リズムを維持するのに役立つ。 <<画像ファイルあり>> グリップの固定は、カメラ底部の三脚用ネジ穴にグリップのネジを締めて行うオーソドックスな方式。グリップを装着したカメラを三脚等に固定するには、グリップネジの底面にあるネジ穴を使うことになるのかも知れないが、このネジ穴は浅いので三脚を選ぶだろう。また、その場合は接地面積が狭いため安定は難しい。 グリップネジの横にもネジが切ってあるのだが、これはグリップネジの位置に近すぎて干渉するため、三脚固定用としては使えない。また、他のアイデアで使うとすれば、ネジ穴が貫通しているため、深いネジを使うとカメラ底部に傷を付ける恐れがあるので、注意が必要。 ただ、グリップを使う時には三脚など不要であるから、特に気にする必要も無かろう。どうしても三脚が使いたければ、素直にグリップを外せば良い話。 <<画像ファイルあり>> グリップがカメラに接する部分には、全面にラバーシートが貼られており、カメラ側を傷付けることは無い。片手でグリップを持って提げて巻上げ動作を行った時、グリップを握る力が大きくなるためか、微妙ではあるが「しなる」のを何となく感ずる。これは、グリップのネック部分が細くなっているためと思われるが、スナップ的な装備では全く問題は無い。 このグリップはスナップ撮影では十分と言えよう。カメラに付けっぱなしにしておいても苦にならぬグリップであるから、万能を狙って更に大きくすると、かえって利点を失うことにもなりかねない。大口径レンズや長焦点レンズを片手でぶら下げるような場面もあまり無いと思うため、それほど気にする問題ではないかも知れない。 しかし人間とは欲が深いもので、もし今後の改良点を望むならば、更なるグリップ感向上を期待したい。 グリップというのは、適度な直線があればそこが指掛かりとなって持ち易さを与える。そういう意味ではこのグリップは良い。だがそれも、大きさによる限界が当然ある。 あまり大きくせずにグリップ感を向上させるには、指の第一関節辺りで引っかけられるようにグリップの指掛かりの厚みがもう少しあれば良いと感ずる(下図右側)。その分、手のひらに近い部分は薄くても大丈夫であろう。 <<画像ファイルあり>> 以上、少々うるさいレポートだったが、非常に有用なグリップなだけに、注文が大きくなるのは仕方が無い。 (※今回のレポートで触れた点については、改良を検討するとの回答を頂いた。) 最後になったが、今回グリップを製作しモニターの機会を与えて頂いた「digital camera workshop」殿にはお礼を申し上げたい。 ---------------------------------------------------- [332] 2002年02月10日(日) 「旧製品をゲット」 中高生時代、カメラ仲間は皆50ミリレンズを所有していた。 その中でも、開放F値が1.4のものを持っている者は少数派で、比較的裕福な家の息子がその大口径F1.4レンズを光らせていたものだった。その他の者は、F2.0やF1.8などが多かった。 我輩を含むキヤノン派の一般人はF1.8である。 キヤノンNewFDレンズ中、一番安いレンズがこれだった。 「貧乏人ならば新品のNewFDではなく中古で旧FDレンズを選べば良かろう。そうすればF1.4でも手が届くだろうに。」と思われるかも知れない。しかし、中古カメラ屋は街にしか無い。バスや電車を乗り継いで行けばそれだけ交通費も掛かる。それでも目当てのものがあれば良いが、見付からなければ骨折り損となるためリスクが大きい。 我輩の場合も、高価なカメラボディは小倉「井筒屋」の中古カメラ売場で購入したものの、やはり50ミリF1.8レンズは近くの「そごう」店内にある高千穂カメラで新品で購入した。 F1.4とF1.8、実質的にはその明るさの違いが問題になることは無いが、やはりカタログ写真などで見慣れたF1.4のレンズ前玉は魅力的であり、それに比べて手元のF1.8が妙に貧乏臭く見えたものだった。いつかは、自分もF1.4(もしくはそれを通り越してF1.2)を買うことを夢見た。 時代は過ぎ、キヤノンからAFが発表された。その名も、「イオス」。シャープなボディは、カタログに写った女性カメラマンの手の中で精悍に思えた。 しかし、その頃はもはやズームレンズの時代。50ミリレンズはマクロレンズを除けばF1.8しかラインナップには無かった。 我輩は「EOS630」が出るまでミノルタαユーザーだったのだが、キヤノンの50ミリレンズには注目していた。 暫くして我輩もイオスに乗り換えたものの、50ミリレンズには相変わらずF1.4が無い。当時は自由になる金額も大きくなっており、もしF1.4がラインナップされていれば迷わず購入したに違いない。しかし、何年経ってもイオス用レンズにF1.4は現れず、仕方無く「EF50mmF1.8」を購入した。 そのうち、ニコンに手を染め、更にその後、中判カメラを購入するために全てを売却した。その時になってようやく、イオス用のF1.4が出た。それは、まさに皮肉としか言いようが無い。いや、縁が無かったと言うべきか。 最近になって、我輩は再びイオスシステムに戻ってきた。 きっかけはデジタルカメラ「EOS-D30」であった。当然ながらF1.4の購入も検討したのだが、「デジタルカメラなどに余計なコストを掛けたくない」という気持ちから、再びF1.8を購入することにした。どうせ、デジタルカメラで50ミリなど、接写にしか使わぬ。 ところが、接写という用途にこのF1.8レンズは最適だった。自然な描写と絞り込み時のシャープさは、とても安物レンズとは思えない。小さなレンズでもあるため、「EOS-D30」の標準レンズとして使うことが多くなった。 以前ならば、F1.8などF1.4の代用でしか無かった。それが、急に我輩の中で必然性を以て迎えられるようになった。これは自分にとっても思い掛けないことである。もはや、F1.4などどうでも良い。 だがこのレンズ、以前持っていたものと違う。同じくイオス用の50mmF1.8でありながら、仕様変更されて総プラスチック仕上げとなっている。マウント部さえプラスチック製で、何度も着脱をすれば摩耗は避けられない。また、距離目盛りも省略されており、更にはAF/MF切替えクラッチが甘い。要するに、コストダウンタイプとなってしまった。 恐らく、光学系は以前のものと全く同じだろう。だが、鏡胴は全くの別物。前にも書いた通り、外見を見ると完全に萎えてしまう。 コストダウンはもちろん必要であろうが、なぜこのレンズがこのようなマイナーチェンジを行うのか。ほんの僅かなコストダウンのためだけに外観があれほど情けなくなり、操作性が低下するならば、少しくらい高くても以前のようなものが良いと思う。 今どきはズームレンズが主流であり、50ミリレンズなど、意志ある者しか購入することはあるまい。昔の我輩のように中高生が買えるように配慮したとするなら、時代が違うと言いたいところ。 中古を探しても、昔のタイプは見付からない。仕方無く、そんなチープな50mmF1.8を使い続けていた。「写真はレンズが大切であるから」と、なるべく外観や操作性は気にしないことにしていた。 ところがこのたび、ヤフーのオークションで昔のタイプの50mmF1.8を見つけ、手に入れることが出来た。まさか再び手に入れることが出来るとは思わなかっただけに、喜びもまた、大きい。 撮るものも無いのに、あちこち構えてAFを動かして悦に入っている。 <<画像ファイルあり>> EF50mmF1.8(I型) 作りがしっかりしており、AF/MFの切替えも失敗が無い。現行品のものと比べて安心感が全く違う。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 旧製品(左)と現行品(右)を比べてみた。現行品は全体的にプラスチック的テカリに遠慮が無く、ある意味開き直っている。しかし旧製品はそれなりの表面処理があって好感が持てる。また、旧製品ではAF時にピントリングはフリーとなるが、現行品ではそんな配慮は微塵も無い。そもそも現行品では、AF/MFの切替えがスムーズに行かず、クラッチが外れないことも多い。距離目盛りが無いのも、現行品を安物たらしめている要因の1つである。ここまでくると、もはや「手の抜きすぎ」と言わざるを得ない。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 旧製品は金属マウントであるのに対し、現行品はプラスチックマウント。カメラ側もプラスチックならば問題無いのであるが、カメラ側が金属である場合、プラスチック側は摩耗が速く進むことになる。マウントなど、他のレンズと共用にして量産効果で安く出来るだろうに。やはり、削り出し加工がネックということか? <<画像ファイルあり>> EOS630に旧製品を装着してみた。やはりこちらのほうがシックリくる。なにより、安物感が無いのが良い。 ---------------------------------------------------- [333] 2002年02月11日(月) 「時間を掛けた買い物」 我輩が趣味としての写真をはじめたのは小学生の頃だったと思うが、自分専用のカメラを手に入れたのはかなり後のことである。その理由は当然ながら、「金が無かった」の一言に尽きる。 ただ、自分専用のカメラを持たなくとも、写真やカメラに対する知識は蓄えつつあった。それは、買えぬ恨みをカタログを眺めることで解消していたからだ。到底手に入れることは出来ない高級機であっても、機能は全て把握していた。 金が無いとは言うものの、中学生になると小遣いを貯めてカメラを買おうと思った。念願のカメラを手に入れるために、紙に描いた千円単位のマス目を毎月3つずつ塗りつぶしながら、満額になるのを楽しみに待っていたものだった。クリスマスプレゼントには現金支給を要求し、お年玉の時期と併せてどれだけマス目の塗りつぶしが増えるかを予想した。 本来ならばカメラ本体と交換レンズを一括りにすべきなのだが、当時は少しでも目標を小さく刻んで達成したかったため、ちょうど1万5千円に達した時にレンズ無しの一眼レフカメラボディのみを購入した。 交換レンズの無い一眼レフなど今ならオモチャにもならぬが、当時の我輩としては、とにかくシステムの中核となる一眼レフのボディが手に入るだけでも大きな一歩であった。 このように長い時間をかけて買い揃えていくカメラ機材は、無駄なものが一切無い。そもそも必要な機材すら不足しているのであるから、それは当然。 貯金をしていくうちに、自分にはもっと別の機材が必要だと気付く時もあった。実際の撮影で不足していたこと、カタログなどで仕入れた知識で広がった視野。長い時間を掛ける意味がそこにあった・・・。 さて、ここ数年、知り合いの中で大人になってから写真を始める者が何人かいた。 全員というわけではないが、多くはカメラ機材をまとめて揃えようとする。そういう者は決まって「どんなカメラが良いか?」と訊いてくる。それは、自分に適しているカメラを模索しているという風でも無く、ただ単に「一番高級なカメラはどれだ?」と訊いているようだ。恐らく、「一番良いカメラを買っておけば間違い無かろう」という発想であろう。 しかし、自分のカメラくらい自分で決めたほうが良い。そんなのは貯金をする間にゆっくりと決めれば良いのだ。時間をかけてカタログを集め、自分がそのカメラを使っている姿を想像する。そんなイメージを膨らませながら、徐々に自分の必要とするカメラに辿り着く。時間さえかければ、行き着く所には行き着くもの。趣味を急ぐ必要など無い。自分で決めたカメラならば、愛着も一層深いだろう。 ただ、金銭的に余裕のある社会人ならば、まだ何も分からぬうちから道具だけを買い揃えがちである。事前に製品を吟味したりするのが面倒なのか、金にモノを言わせて最高級機をポンと買い揃えたりする。今必要無いものや自分に必要になるか分からないものでも、後でまた買うのが面倒だという理由でゴッソリとまとめ買いをする。 その結果、自分に不要な機能に翻弄され、趣味としての向上する喜びを味わえぬまま、「自分が満足しているのだから良い」などと無理矢理自分を納得させて正当化しようとする。本当にそれでいいのか。 今一度、買い物の前には少し時間を置いて本当に必要なのかを吟味する余裕を持つように心掛けたい。 ---------------------------------------------------- [334] 2002年02月19日(火) 「画像収集(2)」 以前、「YAHOO!オークション」はカメラ画像の宝庫であると書いた。 「ペンタコン・スーパー」や「ロモ・アルマス」などの珍しいカメラの画像はそこで頂いたものである。今までは雑誌に掲載された粗い網点のモノクロ写真でしか見たことが無かったが、オークション画面では、フルカラーの画像でしかもアングルを変えて何枚も撮られた写真を見ることが出来るのだ。 とは言え、いい加減に撮影された写真であるから、その写りはお世辞にも良いとは言えぬ。 「もう少し後ろに下がればピントが合うのだが」とか、「もう少し辛抱すればブレが抑えられるだろうに」とか、「もう少し照明を変えれば鮮明に写るのに」などというものばかり。今一歩及ばぬ写真が多く、とても残念に思う。 これは撮影テクニック以前の話で、もう少し気を回せばソコソコの写真になろう。そうすれば、その物件に対する入札も賑やかになるに違いない。出品者は画像で損をしている。 ところで、そのようなヘタクソな写真でも、なぜか分からぬが我輩の心を捕らえる写真があったりする。何がそう思わせるのか、それはすぐには分からないのだが、じっくりとその写真を眺めていると、急にそれが見えたりする。 丁度良い立体感や遠近感、そのカメラが一番良く見える角度・・・。ヘタクソの中に、ほんの僅かに含まれている要素。 そのような要素を意図的に盛り込んだとはとうてい思えぬようなヘタクソな写真であるから、恐らくは偶然の産物だろうと思う。しかしそのような要素をめざとく見付け、それを自分自身に取り込むことは、貴重なる向上の機会と言える。撮影した本人さえ気付かぬ宝物を、少しずつ盗んでは自分の写真に組み入れるのである。 ただ今のところ、実際にそれを取り込むには至っていない。写真を単純にマネしただけではヘタクソな写真になるだけ。要素だけを抽出して自分のものに出来れば良いと簡単に考えたものの、それを上手く取り込むにはまだまだ我輩に足らぬものがあるらしい。要素の捉え方がまだ甘いということか。 案外、美しい写真をマネして撮るよりも、かなり難しい作業かもな。しかし同時に、楽しい作業でもある。 まあ、どうせ趣味であるから気長にやってみようか。 ---------------------------------------------------- [335] 2002年02月23日(土) 「開放F値優先AE」 優先方式のAEには、「絞り優先AE」と「シャッタースピード優先AE」がある。 「絞り優先AE」とは、撮影者が絞り値を一意に決定すると、それに応じたシャッタースピードが自動的に設定されるというものである。言うなれば半自動とも言うべきもの。 「シャッタースピード優先AE」とは、撮影者がシャッタースピードを一意に決定すると、それに応じた絞り値が自動的に設定されるというものである。これも半自動と言えよう。 我輩が最初に手に入れた一眼レフカメラはキヤノンAE-1であったが、これは「シャッタースピード優先AE」を搭載している。 当時は野鳥などを望遠レンズで狙ったりすることが多く、なるべく速いシャッタースピードを選択して撮影しなければブレてしまう。そんな時、このカメラにも「絞り優先AE」が搭載されていたら便利なのになあと思った。それは何故か? カメラ関連の書籍を読むと、「シャッタースピード優先AE」はスポーツに最適であると記述されている。スピード感を表現したり速い動きを止めたりするには、撮影者がシャッタースピードを決定する必要があるからだ。だが、実際の撮影ではなかなか都合良く行かないことが多い。 スポーツの撮影ならば望遠レンズが主である。もちろん標準レンズや広角レンズも使う場面はあろうが、被写体から距離がある撮影が多く、望遠レンズで引き寄せることは必然となる。 しかしレンズの開放F値は、望遠になればなるほど暗くなる。リーズナブルな価格帯のレンズで言うならば、以下のように長焦点になるにつれて開放F値は大きく(暗く)なってゆく。 焦点距離 開放F値 50mm------F1.4 85mm------F1.8 100mm------F2 135mm------F2.8 200mm------F4 300mm------F5.6 400mm------F5.6 500mm------F8 金持ちならば、この表から外れた明るいレンズを使うかも知れない。レンズの明るさに余裕があれば、好きなシャッタースピードを設定しても受け入れられよう。 だが一般的な貧乏人ならば、おおよそこの表と同じラインに沿ったレンズを使うことになる。暗い望遠レンズならばシャッタースピードも遅くなりがちで、ただでさえ望遠レンズは像面倍率が高いのであるからブレ易くなる。 いくらシャッタースピード優先AEだろうと、レンズの開放F値の限界を越えたシャッタースピードを設定すれば適正露出は得られぬ。まあ一部のカメラには、安全設計として「その撮影条件にて設定可能な範囲のシャッタースピードしか選べない」というものもあるが、大部分のAEカメラは、露出調整能力を越えないようにと撮影者が考えながらシャッタースピードを設定しなければならない。出来るだけ速いシャッタースピードを使うのであるから、露出計を見ながらその場その場の最適なシャッタースピードを選ぶことになろう。これでは、せっかくのAEのメリットが貧乏人には享受出来ない。 もちろん、高感度フィルムを使えば解決する話かも知れぬ。しかしそのために粒子が粗れるのを好まぬ者もいよう。スポーツ写真ならば、描写よりもシャッターチャンスであると解っていようとも、普段から微粒子フィルムを使っているような者ならば、受け入れるにも時間が掛かろう。 そんな時、もしも絞り優先AEがあったならば、開放絞りにセットしておくだけで、その場の条件に於いて最速のシャッタースピードが自動的に設定される。仮に、それ以上の速いシャッタースピードが希望だとしても、適正露出が得られないのならば意味が無いのであるから、ここはAEらしくカメラにお任せするというのがスッキリした使い方だと思う。 カメラ任せによって闇雲に速いシャッタースピードになっても困るが、貧乏人の使う暗い望遠レンズならば、手ブレに困ることはあっても速すぎるシャッタースピードに困るなどということは無かろう。この使い方は、言うなれば「開放F値優先AE」。 貧乏人向けのAE、ここに在り。 ---------------------------------------------------- [336] 2002年02月24日(日) 「手段と目的」 宇宙の全てを吸い込むブラックホール。 ブラックホールの周囲にはシュバルツシルトの重力方程式に基づいた「シュバルツシルト半径」と呼ばれる面がある。それは強力な重力によって光をも外側に出さぬ限界、「事象の地平線」であり、その面よりも内側のことは、外側からは伺い知ることは出来ない・・・。 さて、我々が「手段」としての行動を起こす時、そこには何らかの「目的」がある。手段は、目的に到達するための経路に過ぎぬ。 突き詰めて考えると、我々が目的と考えていることの多くが、途中経路としての手段であることに気付く。 以下にその一例を挙げた。 ・「労働」という手段は、「金」という目的のため。 ・「金」という手段は、「カメラの購入」という目的のため。 ・「カメラの購入」という手段は、「写真を撮る」という目的のため。 ・「写真を撮る」という手段は、「芸術」という目的のため。 ・「芸術」という手段は、「自己表現」という目的のため。 ・「自己表現」という手段は、「己が存在する目的を捜す」という目的のため。 ・「己が存在する目的を捜す」という手段は、「己が存在する目的を捜す」という目的のため・・・(以下無限ループ)。 もちろん、ひとつの手段は複数の目的を持つことも多い。例えば、金は色々な使い道(目的)がある。だがどんな例を挙げようとも、目的を突き詰めて行けば、結局は「己が存在する目的を捜す」という目的を考えざるを得なくなる。なぜならば、「我思う、故に我在り」という言葉どおり、世の中で唯一確かなことは「己の存在」のみである。その唯一確かな存在に目的を求めるのは当然と言えよう。 では、「己が存在する目的」とは? 何のために己はこの世に存在する? 惜しいことに、究極なる目的に辿り着く一歩手前には、ブラックホールの「事象の地平線」の如き境界面があり、そのままでは「己が存在する目的を捜す」という無限ループに陥ることになる。 永遠に、手段は究極目的には到達しない。 もし仮に、究極の目的を開くことが出来たとするなら、それに連なる全ての手段が意味付されることになる。その瞬間、究極の目的を開いた者の目の前から無意味な事象は一つ残らず消え失せよう。それは「事象の地平線」を越えたということであり、悟りを開いたことになる。 世の中には、カメラを購入することに力を注ぐ者がいる。我輩もその傾向があるかと思う。 通常ならば、写真を撮るための道具としてカメラを買う。そして中には、全くカメラに執着せぬ者もいよう。彼らは我輩のような人間を見て「カメラなど道具に過ぎぬものに執着するとは笑止。」と、高みから見下すかも知れぬ。 だがそれを言い訳するならば、結局は悟りを開いた者から見ればどちらも似たり寄ったりで、それこそ笑止千万。「ならば写真は何のために撮るのか」と問われれば何と答える? 写真を撮る者ならばその目的は考えて然るべき。たとえ、究極の目的が開かぬとしても。 ある段階に於いて、次の目的を常に見つめているかどうか、それが問題である。一生をかけて究極の目的が開かぬとしても、手段は目的になり得る。無限ループであろうとも、常に次の目的を求むる心こそ、手段を目的に変える唯一の方法だと我輩は信ずる。 まあ要するに、「高みから見下している者も人のことは言えぬぞ」と言いたいわけだ。その前に考えねばならぬことはある。 −己は何のために存在するか− 存在そのものが目的となるために、常に大きな目的を意識し明日を生きるべし。 ---------------------------------------------------- [337] 2002年02月27日(水) 「最初に水没するのは」 モルディブ共和国は赤道直下の約1200もの小さな島々からなる国で、我輩は行ったことが無いが珊瑚礁に囲まれた美しいところだそうだ。しかし、モルディブの平均海抜は2メートル、最高でも2.5メートルと低く、近年の温室効果による温暖化が引き起こした海面上昇のため、21世紀の終わりまでに国土の80パーセントを失うと予測されている。現時点でも、ちょっとした高波で島全体が海水に浸かる被害が起こっている。 真っ先に温暖化の影響を受ける国の1つ、それがモルディブである。 モルディブに住む人々には切迫した事態となる海面上昇であるが、我々日本に住む者には今のところ緊迫感は無い。日本は島国であるが、モルディブほど海抜が低くはなく、「海に沈む順番としてはまだ先であろう」という気持ちがどこかにあると言える。人間、自分に関係無いことは割と鈍感になる・・・。 カメラの新製品が出ると、我輩も関心を持って見る。新しモノ好きであるがゆえ、店頭にあれば必ず手に取っていじり回す。 我輩が真っ先に調べるのは、シンクロソケット(ストロボをコードで繋ぐための接点)があるかどうか。 最近のカメラはコストダウンのためか、しばしばシンクロソケットが省略されることがある。 特にAFカメラの時代になってからは、シンクロソケットの付いているカメラは高級機以外見られなくなった。我輩が信頼を置く数少ないAFカメラ「Canon EOS630」でさえも、シンクロソケットが無いためにメインカメラとして使えない。 「我輩とは妙なヤツだ。それならば専用ケーブルを買い求めれば済むことだろう。」 このように思われるかも知れない。それも尤もな意見だと言えよう。だがしかし、我輩は専用ストロボなどあまり使わない。その理由は我輩側の事情であるので特にここで詳しく書かかないが、とにかく我輩のニーズとして汎用ストロボをカメラから離して使うことが多い。だから、カメラ側にシンクロソケットが無くてはならない。 現在、クリップオン・ストロボはカメラの機能と共に進化を極め、専用化されてしまった。同じメーカーのストロボであっても、特定の機種でしか使えないものさえある。 専用ストロボでは、シンクロソケットに繋いで単に発光させるということはもはや意味を持たない。カメラとストロボ相互の情報をやり取りし緻密な制御を行うのが現代のクリップオン・ストロボである。レンズをズーミングするとストロボ発光部も自動的にズーミングしたり、シャッターボタン半押しで自動的にストロボのチャージが始まるというのは、専用ストロボならではの機能である。 最新カメラに於いて、汎用ストロボの使用など前提に無い。 今の時代、100人中99人までが必要としないシンクロソケット。それは、日常生活ではあまり接点の無いモルディブのような存在に過ぎぬ。モルディブが海に沈みかけていても、他国の者にはあまり関係無い。シンクロソケットなど廃止されようが、ほとんどの者は困らない。 だが我輩はまさにモルディブに住む人間の如く、シンクロソケットの有り無しに大きな影響を受ける。 コストという海面が上昇すれば真っ先に水没するシンクロソケットである。 「ああ、また新製品にはシンクロソケットは付いていなかった。」 他の皆が新製品に心を躍らせている中で、我輩だけが素直に喜べない。自分だけが海面に沈む気分を味わう・・・。 ---------------------------------------------------- [338] 2001年09月28日(木) 「NewFM2ユーザーが羨ましい」 我輩は保存用「Nikon F3」を何台も所有してあり、おおまかな計画として、どれをどの時代に使い始めるというのを頭の中で決めている。実現性についてはともかく、老後までの間は常に新品のF3を使い続けることを計画している。 もしこのカメラがいつまでも生産が続けられるのであれば、無理なローンやボーナス払いをしてまで買い集めることは無かったろう。だが現実として、いつかは生産が終わるのが運命。 「Nikon F4」が出た時、我輩はニコン広報部に対して文書で「F3はいつ終わるのか」という問い合わせをした。それに対する回答は極めて曖昧で我輩の不安を一層煽ったが、今から考えるとニコン自身もその時点でF3の動向を予測出来なかったのだと思う。精一杯の回答だったことだろう。 最終的に、F3は20年間も販売されたロングセラーとなった。 今思えば、それほど慌てて買い貯める必要も無かったと言えるかも知れないが、それは結果論であり、当時の我輩としてはその時点で出来ることをやったに過ぎぬ。 現時点で、我輩のニーズに応えるカメラは「Nikon F3」である。しかしこれはベターであってベストでは決してない。 もし仮に、F3を越えるカメラ(あくまで我輩の価値観に於いて)が登場したならば、我輩は手持ちのF3を全て売却して新しいカメラに乗り換えるだろう。そしてF3の時と同様に、保存用としても買い貯めるはず。 我輩がF3に認むる価値を自己分析すると、おおむね以下の通りとなる。 膨大なシステム ・絶妙な操作感 ・シンプルで確かな機能 ・コンパクトで重量感のあるボディ ・色褪せないデザイン ・多くの実績 そして同時に、要望点も多くある。 ・ファインダー内表示の位置(上目は見づらい)と表示形態の改善(露出量が判りにくい) ・イルミネータの操作性向上 ・一般的な形状のホットシュー採用 ・高速シャッター搭載 ・フィルム装填の簡素化(PENTAX LXのマジックニードルスプールのようなものを採用) ・DX(フィルム感度自動設定)対応 ・ハイブリッドシャッター搭載(しかもCanon NewF-1のようにメカニカルレリーズと電磁レリーズを共存させる) NewFM2の後継機として登場したFM3Aでは、未だ多くの問題点を残してはいるものの(恐らくはコストの関係)、NewFM2を包含しながらの進化には感心させられた。NewFM2の生産終了を納得させるだけの力がある(アナログメーター採用については賛否両論があろうが)。 もしこれが「NewFM2とF3を一本化する」という意図であるならば論外だが、F3にも同様に後継機(公式にはF4が後継機だが)が控えているということを信じたい。NewFM2に対するFM3Aと同様に、F3に対する新型機。F3を包含しながらの進化を果たした新型カメラの登場を信じたい。 期待されるほうも迷惑だろうが、「F3クラスのカメラの開発にはFM3A以上の期間が必要というわけか」などと勝手に想像させてもらっている。 新型カメラの登場により我輩所有のF3が全て無用となるのは残念でもあるが、逆にそれを望む自分がいることも確か。 我輩は、FM3Aの登場によって手持ちのNewFM2が無用と化したユーザーが羨ましい。 ---------------------------------------------------- [339] 2002年03月02日(土) 「根性」 我輩が一眼レフカメラを初めて手に入れた時、接写リングを買う金銭的余裕など無かった。しかし接写で撮りたい被写体があるのであるから、根性で何とかしようと思った。 そこで、カメラからレンズを離し、手に持ったレンズの光軸がズレないように注意しながらピントを合わせシャッターを切った。カメラとレンズの間を手で遮光しながら撮るのがコツ。当時、これを接写リングならぬ「手写(てしゃ)リング」と呼んでいたものだ。 当時はキヤノンNewFDレンズを使用していたため、絞りをフリーにするのに苦労したものだが(NewFDレンズはカメラから外すと絞りがロックされてしまう)、それも何とかクリアし、見事に機材の不足を補った。このようにして撮られた努力の写真に対して、「像が歪んでいる」とか「光線漏れがある」とか「貧乏クサイ」などと言ってはならない。チャレンジ精神こそが真に尊い。 最近、我輩はあるレンズが欲しい。 具体的に言うと、「Canon TS-E90mm F2.8」というアオリレンズ。定価\185,000(実売\150,000前後)と非常に高く、すぐには手が出ない。 だが、このレンズは他のレンズでは決してマネ出来ない写真が写せる。それは、レンズのカタログに掲載された作例を見れば判るだろう。 通常の撮影レンズの場合、ピントはレンズに対向した面にしか合っていない。その面の前後には被写界深度に含まれる範囲があるのだが、これは「ピントが合っているように見えるが実はピントは合っていない」という状態であり、許容錯乱円の範囲内にあるに過ぎぬ。 奥行きのある被写体を撮影しようとする場合、どうしてもピントは一部にしか合わない。 (用語集の「許容錯乱円」の項目参照) 確かに、目一杯絞り込むことによって錯乱円を小さくすることは、深いピントを得る有効な方法の1つである。だが、モノには限界というものがある。長焦点であればあるほど、そして撮影距離が近付けば近付くほど、被写界深度は浅くなる。そうなると、もはや絞り込むことによって奥行きのある被写体全面にピントを合わせることは出来ない。 ところが撮影レンズの光軸を傾ける(ティルトする)と、このピントの合っている面も傾く。この面の傾きを被写体の傾きに合わせることによって、被写界深度が浅いままで奥行きのある面にピントを合わせることが出来るのだ。この撮影を「ティルト撮影」と言うが、35mmカメラの場合は専用のレンズを使わねばならず、普通のカメラやレンズでは不可能である。 だが我輩は、根性で何とかしようと思う。貧乏人ならではの発想だが、それを恥じるつもりも無い。結果は問題ではない、チャレンジ精神こそ人を向上たらしめる原動力である。・・・と強引に正当化させるのは我輩の得意とするところ。 今回我輩は、少年時代のテクニック「手写リング」のチャレンジを想い出し、いま再び、そのテクニックを使うことにした。レンズをカメラから外して手で保持するまでは一緒だが、今回はレンズの光軸を意図的に傾け、ティルト効果を根性にて再現する。 <<画像ファイルあり>> 50mmF1.8にて開放絞りで撮影 <<画像ファイルあり>> 50mmF1.8にて開放絞りで撮影(根性ティルト撮影) 右側の写真を見ると、開放絞りで撮ったとは思えぬ出来映えである。しかしいくらレンズをティルトしたからと言って、被写界深度が浅いのであるから、ピントの合っている面から外れた部分はボケている。少しばかり絞り込めば更に仕上がりが良くなろう。 但し、キヤノンEFレンズは電磁絞りのため、レンズ単体での絞り込みは不可能。だがよく考えると、レンズをカメラに装着するわけではないのだから、別段、EFマウントにこだわる必要も無い。今度はニッコールレンズで挑戦することにしよう。 しかしながら、「根性ティルト」で撮影されたこの写真にも欠点はある。それは、「同じ写真を二度と撮れない」ということだ。 ファインダーで覗きながら手に持ったレンズを傾けていく・・・。そしてピントが合った瞬間にすかさずシャッターを切る。これほどシャッターチャンスを求められる撮影も無いかも知れない。シャッターが切れる一瞬のブラックアウトの後、焦点板に映る画像は既にピントが合っていない。このような撮影では、微妙な位置関係を再現することは生身の人間では不可能と言える。 「根性」で撮影する写真、裏を返せば「疲れる撮影」とも言える。今はまだ根性が維持されているから良いものの、この先を考えるとやはり楽をしたくなり機材に頼ろうとする軟弱な発想が出てこよう。 ティルト撮影の有効性を実感出来た今、ますますアオリレンズが欲しくなってしまい、節約しようとした目論見が見事に裏目に出てしまった・・・。 ---------------------------------------------------- [340] 2002年03月08日(金) 「手段と目的(2)」 我輩はボンクラサラリーマンである。サラリー(月給)を得るために仕事をしている営業マンである。 営業業務は何かと大変で、「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」の精神が無くてはならぬ。風邪を引くにも予定を立てねば務まらない。時に、納品物を運ぶ腕が筋肉痛になることもある。 (我輩のような親会社向け営業業務はまだ楽なほうで、外販営業(新規開拓)はもっとツラいだろう。あまり「自分の仕事は大変だ」などとこぼしていると、外販営業の猛者(もさ)に「それくらいで何をぬかすか」と怒鳴られるに違いない。) サラリーを得るための仕事であるから、ツラくても何とかやらねばならぬ。金という目的のための手段だから仕方無い。 ・・・とは言うものの、これではあまりに救いが無い。100のツラい作業のうち、1つでも楽しみに変えたい。 そこで、客先に出向く時はわざと古本屋に寄れる道を通り、電車に乗ると読書をするようにした。客先に行くことが読書に繋がる。 このようにすると、客先に行くのが待ち遠しくなる。事務所からの往復は2時間半くらいあるので(昼間は乗換えの接続が悪い)、十分に読書が楽しめる。 サラリーを得るためのツラい作業のうち、たった1つではあるが、苦難が楽しみに変わった・・・。 我輩が最初に写真撮影に使ったカメラは祖父のキヤノネットであるが、最初の頃は失敗写真ばかりだった。 そもそもフィルムを入れることが出来ず、フィルムを買ったカメラ店で装填してもらっていた。それでも、ネガでも救えぬほどの露出過不足があったり、巻上げ過ぎてフィルムが切れたりした(子供であるから力加減が分からず、とにかく巻上がれば写真が撮れるという意識しか無かったように思う)。 我輩は、「こんなに失敗が多く面倒であるならば、写真を撮るのはもうやめようか。」と思った。 露出や構図などの知識は皆無で、更にカメラの知識さえ無い。しかし「写真を眺める」というのが我輩の目的であり、そこに至るまでには当然ながら「カメラ」という道具が必要であるし、「撮影」という行動も必要となる。これは避けて通れない。当時の我輩にとって、それはまさしく苦難であった。 しかし、たまに母親と長崎や別府に旅行に行ったりすると、やはりその景色を持ち帰ってゆっくりと眺めたいという気持ちが強まる。 その結果、我輩はついに壁を越えた。 次第に「撮影」という行為に興味が広がり、そして「カメラ」についても興味が及んだ。 どういう過程を辿ってそのようになったのかは覚えてはいないが、とにかく壁を越え、「写真を眺める」という目的のために、今までは苦難でしかなかった手段そのものを楽しみへと昇華させたのである。 今では当たり前のように写真撮影を楽しみ、当たり前のようにカメラを楽しんでいる。時には、写真を眺めることよりも楽しむ場合もある。しかし、それが結果的に目的を達成させることに繋がっていることを考えれば、本末転倒ということでもあるまい。 先日の雑文では、「常に次の目的を求むる心こそ、手段を目的に変える」と書いた。その言葉に込めたる意味、今日の雑文で上手く表現出来たならば良いが・・・。 ---------------------------------------------------- [341] 2002年03月10日(日) 「Canon TS-E 90mm F2.8」 先日、根性によって克服したはずのティルト撮影であったが、皮肉なことにそれによってティルト撮影の有用性を実感し、アオリレンズの購入を考えるようになってしまった。 アオリレンズとは、「ティルト動作」と「シフト動作」を行うことの出来るレンズのことを指す。 「ティルト」はピント面を傾けて奥行きのある被写体を撮影するのに用い、「シフト」は遠近感による”すぼまり”を補正することが出来る。 それらの機能のため、シフトレンズには独特のメカニズムが必要である。 ティルト動作のためにはレンズが首振りし、シフト動作のためにはレンズが上下にスライドせねばならない。そのような構造のため、カメラからの機械的連動制御をレンズ側に届かせることは不可能である。故に、一般的なアオリレンズというのは自動絞りではなくプリセット絞りとなっており、撮影直前にプリセットした値まで手動で絞り込まねばならない。 ところがキヤノンEFレンズの場合、カメラとレンズの接続に機械的連動が一切無く完全に電子化されている。機械的リンクが不可能であるアオリレンズでも電子的リンクならば比較的簡単である(導電されていれば良い)ため、自動絞りも実現される。その気になれば、実用性は無いが構造的にはAFさえ組み込める。 キヤノンは、思い付き戦略のニコンとは違い、先を読んだシステム作りをしているのである。 当然ながら、我輩のアオリレンズ購入計画としては、キヤノンの「TS-Eシリーズ」しか眼中に無い。だが、やはりこの手のレンズは特殊な位置付けであるため、価格も実売\150,000前後と非常に高価。しばらく貯金をしなければ購入は難しい。 そんな時、ヤフーのオークションにて「Canon TS-E 90mm F2.8」が\80,000で出品されていたのを発見した。いつもならば定番の広角系アオリレンズしか見掛けなかったのだが、その日に限って90mmという中望遠のアオリレンズが出品されていたのだ。もし誰とも競うことが無く\80,000で落札出来れば、新品で買うよりも\70,000の節約となる。これならば現在の貯金の範囲内に収まる。 広角系レンズのアオリレンズの出品を見ると、入札件数が結構多い。一般的用途ではないアオリレンズながら、供給が少ないので需要が集中するのだろうか。もしこの90mmの場合も入札者が複数現れれば、我輩の予算を簡単に越えてしまうだろう。 だが、その心配は無用であった。結局、誰とも競うこと無く、\80,000にて我輩が落札。やはり、アオリ撮影は風景で使うことが多いらしく90mmレンズは不人気のようだ。 <<画像ファイルあり>> <Canon TS-E 90mm F2.8> ティルト動作の様子。 <<画像ファイルあり>> ピント面を傾けることにより、絞り値に関わらず奥行きのある被写体にピントを合わせることが出来る。移動量が目盛りで確認出来るようになっており、定位置に固定させるためのストッパーが備えられている。 シフト動作の様子。 <<画像ファイルあり>> 遠近感による”すぼまり”を補正することが出来る。こちらも移動量が目盛りで確認出来るようになっており、定位置に固定させるためのストッパーが備えられている。 ただ90mmレンズでは、元々遠近感を感じにくいため、あまりシフトによる有り難みは感じないかも知れない。 <<画像ファイルあり>> レボルビング機構により、アオリの方向を変えることが可能。 <<画像ファイルあり>> <通常撮影> (1/180sec. F11) <<画像ファイルあり>> 銃口部分の拡大 <<画像ファイルあり>> <ティルト撮影> (1/180sec. F11) <<画像ファイルあり>> 銃口部分の拡大 あまりにアッサリと入手してしまった「Canon TS-E 90mm F2.8」。もっと時間を掛けて購入すべきだったかも知れぬが・・・、オークションというものはタイミングがすべて。しかも値段が魅力的であった。それ故つい、手を出してしまった。 今後は自らを戒め、欲望に喰われぬよう気を付けることにしよう。 ※ アオリ撮影は大判カメラを使うのが一般的。だが、35mmカメラでアオリ撮影出来るならば可能性が広がるのは間違いない。一方、中判カメラの場合、我輩所有のゼンザブロニカにはアオリレンズが用意されておらず、考える余地すら無い。 ---------------------------------------------------- [342] 2002年03月17日(日) 「イモ増殖中」 デジタルカメラだけの話ではないが、デジタルカメラにも責任の一端はある。 何の責任か。 それは、ACアダプタの増殖問題の責任である。 電気製品には、家庭用100ボルト電源に繋ぐための電気コードが付いている。テレビや冷蔵庫、洗濯機などはその代表であろう。電気掃除機やトースターなどは、昔からコードが巻取り式になっていて便利である。 ところが最近、電池で動くような小型の電子機器が増えてきた。 電池式の機器では、消耗した電池を交換せねばならない。これは経済的にも地球環境的にも良いことではない。 そこで、通常は家庭用電源が使えるようにACアダプタが用意されている。製品に同梱されていたり、別売り専用品だったりする。充電池も充電可能なものもある。結局は電気コードが必要というワケだが、これならば少なくとも家庭内で使うには電池を消耗せずに済む。 しかし、そのような機器が少ない状態はまだ良かった。時が経つにつれ、知らぬうちにACアダプタが増えてきた。ちょっとしたものにもACアダプタが付属しており、どのACアダプタがどの機器のものかが区別がつかなくなってしまうことがある。 最近は、ACアダプタの機器を購入するたび、タメ息を一つつく。出来ることならば、他のACアダプタと共用出来れば良いのだが、それが原因で機器が故障してしまえば保証の対象外となる。結局どうあがいても、ACアダプタは増える運命にある。 そもそも、ACアダプタは邪魔で仕方ない。電源タップにACアダプタを挿そうものなら、その巨体が隣までハミ出してしまう。これではACアダプタは1つおきにしか挿せぬ。 更に、ちょっと横着しただけでいくつかのコードが絡まり本当に苦労する。1本のACアダプタを引っ張ろうとすれば、まるでイモを収穫したかのように大量の他の"イモ"が採れてしまう。結局、機器側のコネクタを抜いてそこから解(ほど)いていくしか無い。 しかしそれにしても「Canon EOS D-30」のACアダプタは、本当にどうしたのかと思うくらいにデカイ。巨大イモそのもの。それでいて軽いから中身は空っぽのようだ。 確かに、バッテリー充電装置も兼ねているのだから、設置面積の関係から設計上仕方無いのかも知れない。だが、充電しながらの通常使用が出来ないというのはあまりにヒドイ。タップのように内部で分電すれば良いだけだと思うが。あんなに大きな図体であれば、どんな大きな装置でも収まり切れよう。 ・・・まあともかく、バッテリーを全く使用しない者にもこのような大きなACアダプタを強要されるのは最悪最低。 一体誰だ、こんなのを設計したのは?! ただでさえイモが増殖中だというのに・・・。 <<画像ファイルあり>> EOS D-30のACアダプタと一般的なACアダプタを並べてみた。大きさの違いは一目瞭然。 実は、自宅にある全てのACアダプタをここに集めて撮影しようかとも思ったのだが、家中に散在しているACアダプタであるから、集める労力を考えるとウンザリしてしまった・・・。 ---------------------------------------------------- [343] 2002年03月24日(日) 「モデルを選ぶ」 ポートレートの場合、「モデル選びで作品の半分が完成する」という話がある。 モデルを選ぶということは、シャッタースピードや絞りを選ぶということと同じく重要な選択要素であるということだ。 もちろん、モデルを選ばず撮影者のテクニックだけで勝負するという思想もあろうかと思うが、被写体を吟味するということは、即ち作品全体の味を決める重要なるプロセスである。腕の良い料理人は、調理の技量だけではなく素材選びにも気を遣うものだ。 女性の写真だけではなく、自分のイメージに合った被写体に出会うということは、どの撮影分野に於いても重要である。そのために、風景写真家は野山を歩き回り、鉄道写真家は時刻表にチェックを入れ、スポーツ写真家は試合中のドラマを読む。 我輩の場合、スケールモデルを好み、今までにいくつかのオモチャを購入してきた。その中でも「ロータス・エスプリ」については雑文「オモチャ」と「オモチャ2」で取り上げた。今回は「BMW X5 3.0d」と「デロリアン」を手に入れ、それを被写体として撮影を行った。 BMW X5 3.0d <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> DeLorean <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> これら2点は、前回のもの以上に手の込んだ仕上がりで、ドアーやボンネット等が全て開閉することはもちろん、ステアリング操作で前輪が左右に動く。またインテリアでも、カーペットに相当する部分には植毛仕上げが施されている。 通常、模型を撮影する場合は、手を抜いて作られた部分が写真に写り込まぬよう、上手く隠すように注意をはらう。 しかしこのモデルの場合、どこも隠す必要は無く、好きなアングルでの撮影を可能としている。撮影テクニックでのフォロー以前に、モデル選定に於いて成功している。 良いモノを見つけるということは、ブツ撮りにとっても重要。モデルの選定により、作品の半分が完成する。 写真撮影とは、写真以外の興味と研究を必要とする。だから、写真ほど良い趣味は他に無い。 ---------------------------------------------------- [344] 2002年03月31日(日) 「長期休暇計画」 我輩よく子供の頃から大分県の別府温泉に行ったものだった。 実家は福岡県にあるのだが、県内の博多に出るよりも、別府のほうが特急で1時間と近かった。そのため我輩は別府温泉がお気に入りで、ここ数年、何度か撮影のために足を運んでいる。しかし、それらはすべて35mmカメラで撮影したものであり、情景描写には少しツライものがある。やはり情景を空気感を込めて描写するには、テクニック以前にフィルムの面積が欲しい。写真を眺める自分がその情景に入り込めるよう、キッチリと写真に収めたい。 別府温泉は観光地らしく昔から同じ情景を保っているが、小さな部分を気にすれば、やはり時の移り変わりを感ずることも多い。そんな小さな変化の積み重なりが、我輩の別府の想い出を過去の物とする。写真を撮るなら、早ければ早いほうが良い。 だが、観光地は連休に混むのが運命。年末・年始やゴールデンウィーク、そして盆休み。そんな日しか旅行に行けないサラリーマンであることが悔やまれる。 ところが今年度、我輩は勤続年数が一区切りを迎えることとなり、特別長期休暇を取ることが出来る。土日を加えれば1週間の連続休暇となる。この制度を利用するとオフシーズンに行動出来るため、観光地でもかなり動きやすい。 多くの観光客で混んだ場所で慌ただしくシャッターを切るよりも、ゆっくりした時間の中で一枚一枚を噛みしめるようにシャッターを切る。そんな自分の姿がイメージとして浮かんでくる。 まだ漠然とした計画ながらも、ちょっとしたヒマがあれば撮影アングルなどを考えたりし始めている。 そんな時、大阪の万博記念公園にあるエキスポ・タワーが、老朽化のため今年の夏から来年にかけて取り壊されるというニュースを目にした。 なんということか。 我輩は、大阪万博EXPO'70フリークでもあり(正確に言うなら'70年代フリーク)、当時の万博写真集や特集記事のある週刊誌、ガイドブックなどを手に入れて飽きずに眺めている。 我輩の頭の中では大阪万博は開催中のようなものだった。いずれ、万博跡地(万博記念公園)へ赴き、万博の残り香を写真に収めて持って帰ろうと考えていた。 だが、万博のシンボルの1つ、エキスポタワーが消滅するとなれば、のんびりと構えているわけにはいかぬだろう。 一つの案として、別府温泉撮影のために帰省する新幹線を新大阪駅で途中下車しようかと思う。 エキスポタワーが撤去開始され始める8月まであと4ヶ月。それまでに何とか撮影計画を立て、アングルシナリオを絵コンテにまとめねばならない。 さあ、にわかに忙しくなってきた。 ---------------------------------------------------- [345] 2002年04月07日(日) 「写真を遺そうと思う者へ」 パソコンの性能は、一昔前のものと比べればまさに「ベラボウ」である。 5年前に40万円だったパソコンでも、今なら数千円である。そもそもそのようなパソコンは、今の時代では使い道がほとんど無いほどに低性能。それほどパソコンの進化は速い。 ハードディスク1つとっても、その容量も飛躍的に伸び、今や100GBクラスのものが主流となりつつある。40MBが大容量だとされた時代が昔に思える。 だが、いくら大容量であっても、パソコンはデジタルデータを取り扱う機械である。その性能の論理的限界はハッキリしている。その代表は、LBA(Logical Block Addressing)によるハードディスクの容量制限である。 パソコンのハードディスクは、セクタが番号で管理されている。その論理アドレスをLBAと言うが、そのアドレス番号の桁は有限であり、現在のLBAは28bitである。1セクタが512バイトであるから、2進数のデータを扱うパソコンが取り扱うことの出来るハードディスクの最大容量は、228x512Byte=137.4GBとなる。BIOSのアップデート等によってLBAを拡張しない限り、いくらハードディスクを物理的に改良しようが、これ以上の容量アップは無理な話。極めて論理的である。 さて、以前も書いたように、パソコンで取り扱うデジタル画像というのは、銀塩写真の画質に勝ることは無い。これは論理的な結論であり、エコヒイキでは決してない。デジタル写真を取り扱うパソコンのアーキテクチャそのものの論理的限界である。 確かに、デジタルカメラの性能向上は認める。最近のデジタルカメラは1000万画素にも手が届きつつある(FUJI FinePix S2 PROの記録画素数)。 だが、写真を単にパソコン上でのみの利用に限定するならば、デジタルカメラの画質はパソコンのアーキテクチャの中では充分に飽和している。限界の低いアーキテクチャの中で比較するのであるから、デジタルカメラで撮影した写真と銀塩カメラで撮影してパソコンに取込んだ写真は、その違いがほとんど認められない(もちろんデジタルカメラには平面CCD特有の眠たい描写があるが)。両方とも同一アーキテクチャの中では画質が飽和しているのだから、当然と言えば当然。 しかしこのことを、「デジタルカメラは銀塩カメラのクオリティに並んだ」という意味として取るならば真実を見誤る。 この問題は、ハードディスクのLBAのように拡張によって解決する話でもない。画像というのは結局、人間の目に映るように「光」というアナログ信号へと変換されねばならない。いくら色数を論理的に増やそうが、その信号がディスプレイで表現出来る範囲を越えれば意味が無い。 デジタルデータを印刷出力することによって銀塩プリントと競うことも出来るのかも知れぬが、プリンターの機種(グレード)によってクオリティに天地ほどの差があるのは問題である。クオリティを一定に保ちたい場合には、余程同じ条件で印刷することに注意しなければ難しい。気を抜けば普通紙などに試し刷りをしてしまったり、新しいプリンターを導入したりするかも知れない。新しいプリンターだからキレイだとは限らない。プリンターにはそれぞれ味があるため、それに慣れるまでは違和感を持つのだ。 これは、プリンターが発展途上であることが原因と言える。昇華型やインクジェット型など多くの印刷方式があるのは、それぞれに一長一短があることを示している。確かに、今後の改良によってこの問題は解決するとも言えるが、逆に、目指す画質へ永遠に漸近するだけで終わる可能性も否定出来ない。どの時点で妥協しそのクオリティを受け入れるか、それが悩み所でもある。 銀塩プリントならば、どれほど安い引伸し機であっても印画紙でなければプリント出来ないため、引伸し機それぞれの味の違いを感ずることも無く、クオリティはある一定以上には揃っている(色や濃度調整は別だが少なくともプリンターほどの味の違いなど存在しない)。 デジタルカメラなどはそもそも作品作りのためのカメラではない。少なくとも、デジタルデータのまま単に保存するためではない。 デジタルの利点は即時性とハンドリングの良さである。デジタルカメラで撮影した後は、速やかに利用・消費せねばならない。少なくともその点に於いて銀塩システムに負けてはならない。そうでなければデジタルカメラを使う理由を失う。 僅かな利便性のためにクオリティを妥協した写真なのだから、その価値を高める唯一の方法は、デジタルであることの利点を最大限に発揮するしか方法は無いのだ。 そのように考えて初めて、デジタルカメラが常に発展途上であることの正当性が得られる。 写真を使い捨てれば使い捨てるほどデジタルカメラの価値を高め、写真を遺せば遺すほどデジタルカメラの価値を貶める。 その時代のみで消費される写真ならば、その時点で得られる性能のデジタルカメラで十分である。次の時代に持ち越すような使い方をせぬ限り、デジタルカメラの写真は、生産・消費の永遠なる循環を以てその価値を維持出来る。 今後、1000万画素を越えるデジタルカメラが次々に登場してくることになる。中にはレンズを交換出来る一眼レフタイプのものもあるだろう。しかし、そんなものに心を惑わされてはならぬ。それらは、その場で写真を利用し消費する立場にある出版業界の者や、写真日記でホームページを飾るのみの写真を撮る者、そしてオークションなど使い捨て用の写真を撮る一般人への用途である。写真を趣味として作品を作る者に対する製品ではない。 だが、そのような製品が我々の趣味を浸食するのも事実である。きちんと棲み分けが出来ていれば良いのだが、業界人や一般人の合理的用途が、写真を楽しむという我々の領域を狭めて行く。 それはあたかも、建物が増えて行くにつれて遊び場を失う現代の子供のようだ。仕方無く街のゲームセンターでたむろするようになる。 だがもし、写真を遺そうと思う者がいるならば、悪いことは言わぬ、デジタルカメラを使うのは止めておけ。間違って銀塩システムが絶滅するようなことがあろうとも、少なくとも今まで撮った写真は時代を貫いて遺る。しかしデジタル写真ならば、絶滅せずとも活発な新陳代謝により、旧い皮膚の如く垢となって剥がれ落ちるしか無い。 ---------------------------------------------------- [346] 2002年04月15日(月) 「ズームレンズが欲しい」 我輩がズームレンズに初めて触れたのは、今でもハッキリと覚えているが中学生の頃だった。 当時、通称「クラッシャー・ジョウ」という友人がいたが、ソイツのオヤジさんはカメラに入れ込んでいるようで、ジョウもそのお下がりを使っていた。ジョウのメインカメラは「PENTAX K2-DMD」。当時の我輩はカメラの種類などあまり知らなかったのであるが、事あるごとにジョウがそのカメラのフルネームを連発するので、妙に脳裏に残っているカメラ名である。 ジョウはその日、自慢のカメラにズームレンズを付けて来た。 当時はまだズームレンズは馴染みの無い珍しいものであり、ジョウもそのことで少しは自慢モードに入っていたように思う。 我輩はそのレンズに触れてみたかったが、自慢する相手の機材に関心を示すのはシャクでもあり、大して興味もないフリを装った。そのため、貴重なズームレンズとの出会いはニアミス程度に終わったが、それだけにかえってズームレンズに関心が高まった。 事実、その後我輩は貯金の末にキヤノンの望遠ズームレンズ「NewFD100-300mmF5.6」(参考:「雑文055」)を購入した。 ところが、仲間内でも70-210mmレンズなどを購入する者が現れたり、メーカー(特にレンズメーカー)がズームレンズを多く発売し始めたことにより、だんだんとズームレンズに対する物珍しさが薄れていった。現在に至っては、もはや単焦点レンズのほうがマニアっぽいとさえ言われる。 少なくとも、35mmカメラに於いてズームレンズは食傷気味でゲップさえ出る状態なのだ。 さてここ最近、我輩は長期休暇の計画を立て、撮影機材の調整(機材選定やテスト撮影)などを始めている。今回は中判66サイズでの撮影である。 ところが、中判カメラのレンズというのはどうにも大きくて仕方が無い。フィルムサイズが面積的に大きくなると、それに必要なカメラ機材は容積的に大きくなる。つまり、平面は長さの2乗に比例して大きくなるが、体積は3乗に比例して大きくなる。 フィルムサイズがちょっと大きい中判カメラでは、1つ1つの機材がどれもこれも3乗に比例しているので、当然ながらレンズ本体は大きく重い。 他はどうか知らないが、ゼンザブロニカSQ用の交換レンズは金属製でガッシリとしている。強度を持たせるために仕方無いことであろうが、その大きさと相まって重さはゆうに35mm一眼レフカメラボディ1台分ほどもある。 (確かに標準80mmレンズならば490gと軽量であるが、同じ標準レンズが何本もあっても意味が無い。) 我輩は、今回の撮影目的として情景描写を考えており、比較的広角なレンズを使うつもりでいる。だが、滅多に行けぬ時間と場所であるために、撮り逃しの無いように万全の準備をしたい気持ちもある。従って、広角レンズと共にもう少し長焦点のレンズも持って行きたい。その選定が悩み所。 そんな時、ゼンザブロニカのホームページを見て、「50-100mm F4-5.6」が5月に発売されることを知った。50mmと言えば、66サイズではそれなりの広角で文句は無い。35mm換算で言うと27.5-55mmに相当する画角だそうだ。 重さは1kgとそれなりに重いが、長焦点レンズ(例えばマクロ110mm F4.0)でもそれくらいするので、そのようなレンズを更に追加するよりも、このズームレンズ1本だけで済むならば有り難い。写真で見る限り、全長もそれほど長くない。 そうは言っても値段は20万円に近く、購入には一大決心が必要となる。そもそも、決心しようが今はそんな金が無い。5月発売とのことだが、我輩にとってみれば来年の5月発売でも同じである。どうせ買うにしても、それくらいの時間がかかる。 それに、開放絞り値が固定ではないというのも使いづらい。このレンズは、TTL露出計を装着することを前提にしている。だから、ファインダー倍率の高いウェストレベルファインダーは使えないのが残念。 更に、最短撮影距離が1.5mだというのは、いささか長過ぎる。せっかくの一眼レフカメラなのに、距離計連動式の「New MAMIYA-6」の最短撮影距離1mにも及ばないとは情けない。 せっかくのズームレンズの登場であったが、調べて行けば行くほど、問題点が次々と出てくる。もちろん、この問題点は我輩の使い方に於いての問題点であり、素直にその仕様の範囲内で使うのであればこれほど便利なレンズも無かろう。 事実、久しぶりのゼンザブロニカSQ用のズームレンズの登場は、我輩にズームレンズと初めてニアミスした時の心の高鳴りを思い出させた。あと少し性能が良ければ、我輩は借金をしてでもこのズームレンズを手に入れるに違いない。 ああ、ズームレンズが欲しい・・・。 ---------------------------------------------------- [347] 2002年04月20日(土) 「デジカメは露出計となり得るか(テスト編)」 今度の長期休暇では、オフシーズンの閑散とした観光地の撮影を計画しているが、そのために露出の失敗は何としても防ぎたい。失敗しても何度も撮り直しが出来るのならば良いが、長期休暇は何度もあるわけではないのだ。 以前、デジタルカメラ「Canon EOS D30」野外テストについて書いた。その中では「液晶パネル」の件について触れた。 露出が合っているかどうかをモニタリングしようと思っても、明るい屋外では液晶パネルの濃度が暗く見えるため、適正露出を見誤ったのである。 D30はヒストグラム表示が可能であるから、それを参考にすれば良いとの意見もあろうが、ヒストグラムは単に画面上にあるピクセルの輝度分布を表示し、白飛びや黒ツブレを数値的に知るだけであり、そこから露出の加減を知ることは難しい。 その証拠に、元画像を見ないままヒストグラムだけを見て画像調節に挑戦すると、思い通りの結果にはならない。それはつまり、そのピクセルが「暗い」のか、あるいは「黒い」のかという判断は、ヒストグラムのみからは読み取れないことを意味する。よって、ヒストグラムは常に元画像との比較が欠かせず、画像のどの部分がヒストグラムのどの部分に相当するのかということを考えねばならない。 だから、単純にヒストグラムを見ただけでそれが適正露出であるのかという結論は下せない。そもそも電子画像の狭いラチチュードでは、フィルム上で微妙に表現されるような白や黒は、容易にヒストグラムの両端からハミ出してしまう。 <<画像ファイルあり>> 「Canon EOS D30」のヒストグラム表示 このようなことに腐心するならば、単体露出計で幾つかのポイントを測り、写真露出的数値から計算して適正値を導き出しても同じ手間だと思われる。 それよりももっと単純に、液晶パネルに表示される画像から直感的な比較が出来れば嬉しい。 以前のD30撮影テストでは、周囲の明るさに影響されて適正露出を見誤る場面もあった。しかしこれは、液晶パネルを見易いように特に工夫したワケでもなく、時には直射日光が当たったような状態もあった。そのため今回のテストでは、明るい場面では液晶パネルに手をかざし、出来る限り同じような条件で画像を見るようにした。 もちろん、屋外のような明るい環境に於いて、液晶パネルの描写をそのまま受け取るわけには行かぬ。そこは想像力を働かせ、これが適正露出であろうという「読み」を行う必要がある。 そして、液晶パネル上で適正露出だと思われる露出条件(シャッタースピード及び絞り値)にて、リバーサルフィルムでの撮影を行った。 その結果は、予想外に良好であった。 (画像を掲載しようかと思ったが、液晶パネルの見え具合をここで忠実に表現することは不可能であり断念した。) D30の液晶パネルにて判断した露出値が、ほぼ適正露出となってフィルム上に現れていた。ラチチュードに狭い電子画像であるが故、適正露出の山が掴み易かったのかも知れない。 この様子では、露出計代わりにデジタルカメラを使ってみても良さそうだ。フィルムの現像が上がるまでの間、デジタルカメラの画像を見て楽しむことも出来る。 だが今回、120フィルム1本分(12枚撮影)という僅かなテスト撮影であったため、どのような場面でも等しく使えるかどうかはまだ判断出来ない。例えば、液晶パネルは見る角度によって濃度が変わって見えるため、撮影疲れからそのことに気付かず露出を誤ることも考えられる。 液晶パネルを参考にしつつ、結局はいつも通り、適正露出が不安な場面では段階露光でカバーすることになろう。 今回はテスト編だったが、実践編ではどうなるかが期待される。 ---------------------------------------------------- [348] 2002年04月30日(火) 「デジカメは露出計となり得るか(実践編1)」 長期休暇計画の件、それがいつになるかはまだ未定である。しかしゴールデンウィーク中の今、その予行演習を行う絶好のチャンスである。 現在、我輩は営業の職務に就いているため、体力と神経と靴底をスリ減らしている。普段の土日はもはや起き上がることすら苦行に思える。そういうこともあり、最近の写真活動は営業中のスナップや室内撮影ばかりであった。 ところが、今回のゴールデンウィークは客である親会社が10連休となることから、我輩も自動的に10連休となる。客が休みならば、親会社担当の内販営業は対応する相手がいなくなり仕事が無いのである。これは好都合。 さて、予行演習とは言っても、テスト撮影などというような味気無いものにするつもりは無い。どんな撮影にも時間が掛かることであるから、今回はあくまで本番撮影としたい。ただ、撮り直しがきく範囲内に於いて、デジタルカメラを露出計として使ってみるのである。 これならば、失敗した場合もう一度撮影すれば良いことであるし、上手く撮れれば時間を無駄にすること無く意味のある写真が手元に残る。 今回、我輩が被写体に選んだのは、総武流山線(そうぶながれやません)というローカル鉄道である。全部でたった6駅しか無い全長5.5kmほどの小さな単線であり、JRからは常磐線馬橋駅(じょうばんせんまばしえき)から乗り換えることが出来る。 JR馬橋駅と言えば我輩の通勤用定期券の圏内であるから、気軽に行くことが出来る。今まで身近な風景を撮り逃してきた我輩であるから、今度の撮影は丁度良い画像採集の機会となろう。 早速、撮影機材の準備を始めた。 出掛ける間際になってから用意を始めるのは我輩の悪いクセだが、その場にならないとヤル気が起きないのだから仕方無い。少し遅い昼飯を終え、「ゼンザブロニカSQ-Ai」と50mm広角レンズ、単体露出計、感度100の120フィルム10本、そしてデジタルカメラ「Canon EOS-D30」と24mm広角レンズをカバンに入れて出掛けた。 昼近くまで寝ていたので、少し頭がボーっとしている。しかし、今は一番過ごしやすい季節であるため、晴れた空気が気持ち良い。 最寄りの駅では昼間のダイヤのためか、なかなか電車は来なかった。ホームのイスに腰掛けて何となく目の前を見ると、線路を挟んだ50mほど先の道路に妙な男がこちらを向いてヘンなリズムを取っていた。最初はヘッドホンか何かをつけているのかと思ったがそうではない様子。ジーっとこちらを見ているかと思えば、思い出したように手をパンと叩き、リズムのような(ブレイクダンスとも思えない)動きをするのだ。 その男の妙な動きは、我輩が到着した電車に乗るまで続いたが、今思えば、我輩の不調はこの時から始まっていたのかも知れぬ・・・。 馬橋駅までは2分で到着した。駅での待ち時間が10分くらいであったから、その2分は早く感じた。 JRの改札を出て流山線の乗り場へ移る。そこには券売機が2台置いてあったが、壁に埋め込まれたような現代風ではなく、ゲームセンターに置いてあるような両替機のような雰囲気だった。 我輩はそのような古臭い妙な雰囲気が好きなので、早速シャッターを押すことにした。 まず、計画通りにデジタルカメラで撮影し、その適正露出を液晶パネルから読み取る。デジタルカメラは撮影が主体ではないので、フレーミングは適当にやった。 軽く小さなシャッター音が響き、液晶パネルに撮影された風景が映し出された。しかし、その画像にオーバーラップする文字が見えた。我輩は一瞬、それは電池切れのサインかと思った。電池切れならば予備のバッテリーがあるので心配は要らない。しかし、それは衝撃的なメッセージであった。 「CFカードがありません」 我輩は思わず驚きの声を上げてしまい、急いで手で口を覆った。 あろうことか、肝心のCF(コンパクトフラッシュ)メモリを装着し忘れて来たのである・・・。 後悔しても遅い。いくら家から近いとはいえ、再び待ち時間を使って家に戻る気も無い。 まあ、メモリは無くとも液晶パネルには2秒ほど画像が表示される。その間に露出を見極めれば良いのだ。何より、カメラ雑文のネタが1つ増える。テレビのヒーローは、ピンチにならないと場面が盛り上がらないからな。我輩も少しはピンチがあっても良かろう。 ・・・などと自分の責任を棚に上げ、良い方向に解釈するのは我輩のもう一つの悪いクセ。 単体露出計があったのでそれで測ってみたが、デジタルカメラとは0.5段くらいのズレがあった。これは、横着して入射光式露出計を被写体のそばで測光せず自分の位置で測光したからだと判断した。念のため、プラスマイナス0.5段の段階露出を行った。 流山駅では、趣のある駅舎がなかなか我輩の心に訴え掛けてきた。そこでは何枚も撮影をしたのだが、昼間のためほとんど人影も無く静かで、ゼンザブロニカ特有の「バシャン!」というシャッター音に10m先の鳩が驚き飛び立った。 しかしまあ、ゼンザブロニカの重さは久しぶりとは言え、肩にズシリとくる。交換レンズがもう1本あったら大変だったろう。ましてや旅行となると、その他の荷物もあり大変であろう。 シャッター音と重さを考えると、旅行には一眼レフ式のゼンザブロニカよりも距離計連動式のNewマミヤ6のほうが良い。しかし、長期休暇の撮影では失敗すれば撮り直しがきかないため(次の長期休暇まで再び10年待たねばならぬ)、パララックスがあり被写界深度も確認出来ない距離計連動式は一発勝負では使いたくない。 現実には距離計連動式が問題になることは無いだろうが、一眼レフ盲信の我輩であるがゆえ、心配事として我輩を悩ませる。 さて、流山駅には車庫があり、そこではいくつかの列車を撮影した。残念なことに、吊り掛け式台車の旧い車両「あかぎ」は去年引退し、カルダン式台車の比較的新しいものしか無かった。それは残念なことではあったが、今目の前にある車両を写真に収めることも重要である。今は珍しく無くとも、時代が変われば貴重な資料となるのは間違い無い。珍しい存在となって初めて写真に収めようとも、日常の表情を捉えるには間に合わぬ。 ところで今回の撮影では、デジタルカメラの映像が残っていないため、ここでその場の写真を掲載することは出来ない。リバーサルフィルムの現像はそれなりに時間が掛かるから仕方無い。まあ、リバーサルフィルムさえ確実に仕上がっていれば・・・と思いながら、自宅でデジタルカメラにメモリを装着しスイッチを入れてみて驚いた。 感度100に設定してあるはずが、カメラの表示には「感度400」の表示が・・・。 おかしい、確かに感度100に設定していたはず。それとも単体露出計で計った時の違いは設定感度の違いだったと言うのか? それにしては0.5段の差というのも変に思う。しかも、デジタルカメラで最後に撮影した画像データは感度100となっており間違い無い。 だが、本当に感度を間違えていたとするなら、感度100のフィルムを現像依頼するには増感指定しないとマズイ。 さあて、どちらを信ずるべきか。カメラの表示か、我輩の記憶か・・・。 しかし一夜明け、昼光の条件で同じ露出にてデジタルカメラでの撮影を行ったところ、感度400の設定ではかなり露出オーバーとなることが判明した。それはつまり、流山線の撮影時は設定感度が100であったことを意味する。 まあ、いつも感度100ばかり使っているのであるから、感覚的にその露出が合っているかどうかというのは分かりそうなものだが、他の要因が思わぬ影響を与えることもあるので、昔のセノガイドのような状況判断での露出決定というのは苦手。あくまで露出計から得られた生のデータを集めてから、そこで初めてカンを使っている。 <<画像ファイルあり>> 参考:セノガイド。 様々な状況的パラメータを計算尺のようにセットすると適正露出が算出される。 ともあれ、撮影したフィルムはこれで自信を持ってノーマル現像で依頼出来る。 現像上がりは連休明けの5月7日となると言われたのだが、予定より早く2日に受け取ることが出来た。多少オーバー目の傾向にあったが、恐らく屋外の明るさで液晶表示が暗く見えたのが原因だろう。メモリを装着しなかったデジタルカメラのため、画像が表示される2秒間という短い時間で露出を見極めるのはさすがに無理があった。 ---------------------------------------------------- [349] 2002年05月01日(水) 「デジカメは露出計となり得るか(実践編2)」 ●今回の撮影準備 さて、前回の撮影について流山線の情報をインターネットで拾っていると、それに関連して色々な路線の情報が出てきた。中にはかなり趣のある駅舎が画面に表示され、我輩はそれを興味深く眺めていた。 実は我輩、子供の頃から駅が好きで、子供向けの「国鉄駅名全百科」「私鉄駅名全百科」など暇さえあれば読んでいたものだ。 列車そのものに対して特にこだわりは無い。技術的なアプローチとしてメカニズムを眺めたり、70年代フリークとして懐かしさを覚えた場合は列車にも興味を持つこともあるが、基本的に鉄道関係としての興味は駅舎のほうに偏る。 我輩の実家近くを走る田川線の豊津駅は、とても趣のあるこじんまりとした建物であった。まさに「田舎の駅」と言うにふさわしい。小中学校での修学旅行はこの駅から出発したことを想い出す。 だがこの田川線豊津駅は、JRから平成筑豊鉄道へ売却された時に取り壊され、カプセル駅のような味気無いものになってしまった。あまりに身近な駅であるがゆえ、我輩の手元には昔の豊津駅の姿を写した写真は1枚も無く、失われた情景を乏しい想像力だけで再構成するほか無い・・・。 このように駅舎の写真は、我輩にとっては昔の記憶を探るようなものであり、インターネット上の粗い電子画像であっても時間を忘れて見入ってしまうのである。 そんな時、秩父鉄道に関する情報にぶつかった。見ると、この路線の駅舎はかなり趣があるように思える。自宅から2時間ほどの場所であり、それほど身近でも無い。だが、日帰りで撮影に行けるという意味では、気軽な撮影圏内にあると言える。いつ失われるか分からぬ風景を後悔無く写真に収めるには、思い立ったその時に行動すべし。 秩父鉄道を調べてみると、駅の数は34駅と思ったほど多くない。しかし、1駅に5カット割り当てると仮定した場合、露光ずらしを含めて120フィルム1本(12枚撮り)必要か。そうなると全体に必要なフィルム本数は・・・34駅分、34本必要になるのか?! そうなると、120フィルム10本入りカートンが4本、単価¥3,800x4カートン=¥15,200必要か。 さらに現像代は、単価¥480x40本=¥19,200となる。 交通費も、各駅で降りることになるので¥160x33区間=¥5,280掛かる。自宅までの交通費も入れると1万円弱か。 その他、プラスチックマウントや収納バインダーなどの費用も加えると、今回の撮影で5〜6万円掛かる。 だが、これも後悔しないようにするためであれば仕方無い。インターネットの粗い画像をダウンロードするよりも、自分で納得した角度から納得する画質で情景を写し取れればそれで良い。 秩父鉄道の運行ダイヤを調べてみると、1時間に2本くらいしか出ていない。つまり30分に1本であるから、全34駅を撮るには少なくとも17時間必要となる。そう考えると「34駅」というのが急に多く感ずる。1日9時間の撮影で2日間必要ということか。これは大変である。 以上のことを考え、撮影機材については一眼レフではなく軽量な距離計連動式のNewマミヤ6とした。一眼レフでは重量の関係上、携行出来る交換レンズは1本のみである。気合いを入れれば広角レンズと標準レンズ2本くらいは携行出来るかも知れぬが、1日9時間で2日に渡って行動するにはとても無理である。営業職で重量物を運搬するのには慣れたが、それはあくまで瞬発力の部分であり、持久力としての自信は無い。 Newマミヤ6ならば、交換レンズは軽く、50mm広角、75mm標準、150mm中望遠の3本共あっても苦にならない。恐らく150mmレンズは使う場面は無かろう。だが、例え死加重となろうとも、万全を期す意味で後悔の無いようにしたい。 レンズが軽いからこそ、それを可能にする。 <<画像ファイルあり>> 今回の装備 ここには写っていないが、レンズにはキヤノン製UVフィルターを装着して保護している。生産終了のレンズであるから消耗させるわけにはいかないからだ。ちなみにキヤノン製フィルターはネジの工作精度も高く、我輩的お薦め品。 ●撮影1日目 5月2日、撮影1日目。 今回はデジタルカメラのコンパクトフラッシュメモリ(340MBマイクロドライブ)は忘れないように何度も確認した。バッテリーも2本共充電満タンである。 フィルムは計算上20本必要であるが、念のために30本入れておく。 朝6時前に家を出て電車に乗った。北千住駅から東武伊勢崎線で行けば、秩父線乗り換えの羽生駅までは1本である。寝ていれば8時くらいには着くだろう。 だが、我輩が乗った電車は「準急新栃木行き」であり、東武動物公園駅から羽生とは別方向に進んでしまった。それに気付いたのは終点新栃木に着いてからだった。急いで東武動物公園まで引き返し、そこから羽生まで急いだ。結果、予定より1時間遅れの到着となってしまった・・・。 「まあ、あまり朝早くとも陽の光が赤く影も長いので撮影には適さなかったろう」と自分を納得させ、撮影を開始した。 撮影のポイントは、「駅舎全体のカット」、「入り口付近のアップ」、「改札の様子」、「ホームの眺め」である。しかし、羽生駅では電車がすぐに来てしまったため、思わずそれに飛び乗り、「ホームの眺め」を撮り忘れてしまった。初っぱなからの計算違いに、気分が少し落ち込む。 次の西羽生駅は何も無い駅で、撮影は最小限で終わった。 次の電車までまだ30分くらい待つので、改札口をストロボ撮影していた。すると駅長殿が出てきて我輩に声を掛けた。 (駅)「写真撮ってんの?お仕事?」 (我)「いや、趣味ですわ。秩父線の駅を全部撮ろうと思って。」 (駅)「ふーん、各駅で降りて?お金が大変じゃない?」 (我)「まー、全部で34駅だから5千円くらい掛かりますかねえ。」 (駅)「1日で撮るの?」 (我)「いやとても。2日間くらいですかね。」 (駅)「そっかぁー、しっかし今日は平日ダイヤだからねぇ。ドサイ(土祭?)ならフリー切符が使えるんだけどねー。」 (我)「まあ、仕方無いですわ。」 (駅)「いや、何とかしてあげたいなぁ。ちょっと待ってて、熊谷駅(くまがやえき)に連絡してあげるから。」 駅長殿は駅員室に戻り、熊谷駅に電話を掛け連絡をとった。 話によると、熊谷駅の管轄は羽生〜武川(たけかわ)までの13駅で、そこまでなら途中下車出来るように手配してあると言う。各駅で我輩の名前を言えば、一時的に駅を出ても良いとのこと。これならば西羽生〜武川間の乗車券¥620だけで済む。実に有り難い。 我輩は西羽生駅の駅長殿に礼を言い、次の電車に乗った。 次の駅からは、切符を見せ名前を言うだけで途中下車出来るようになった。駅によっては「ご苦労様です」と声を掛けてくれる駅長殿もいた。 熊谷駅に着くと、我輩は各駅に手配頂いた熊谷駅長殿を訪ねた。今回の手配に対して礼を言うためだ。ついでに駅員室も撮影させて頂いた。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 熊谷駅の駅員室の中。 その後も撮影は続いたが、武川駅に到着した頃はすでに16時を回っており、陽はかなり傾いていた。露出的にはまだしばらく撮影可能であったが、夕方の雰囲気が写真に出てしまうのはなるべく避けたい。なぜなら、今回の撮影は情報量が全てである。夕方の赤い光や長い影は確かに趣のある雰囲気を醸し出すかも知れぬが、同時に写真に込める情報量を減らしてしまう。長い影に邪魔されず、正しい色で全ての駅を記録したい。情報量の大きな中判カメラを使う理由もそこにある(参考:雑文260)。 そもそも、駅舎そのものを持って帰りたいくらいなのだ。我輩の出来ることと言えば、持てる力の最大を尽くして写真に収めることしか無い。そのために、その風景の時間を感じさせない撮り方をしたい(参考:雑文128)。 そういうわけで、今日の撮影は次の永田駅(ながたえき)で最後としよう。目標の中間地点である寄居駅(よりいえき)まであと3駅(1時間半)だったのだが、それは明日の撮影で挽回したい。 この日、消費フィルム量は21本。帰宅途中、上野ヨドバシカメラに立ち寄り現像に出した。この消費ペースのままではフィルムは足りなくなることが予想されるため、新たに10本買い足した。 ●撮影2日目 5月3日、撮影2日目。 前の日の遅れもあり、4時台の始発で出た。今度の撮影は昨日とは反対側の駅から攻めて行こうと考え、最初に一番遠い三峰口駅(みつみねぐちえき)に行く計画とした。 しかし、三峰口駅までは3時間半も掛かる。しかもそれは秩父線の急行を利用した場合である。朝の早い時間には急行は無く、結局4時間以上も掛かってしまい、到着したのは8時過ぎであった。だが、撮影していくうちに段々遠くなっていくようにしてしまうと帰る時に気が重いので、やはり遠い駅から帰宅方向(中間地点の寄居駅)へ撮影していくのは良い方法なのだ。 この日は祭日ダイヤのため、フリー乗車券(¥1,400)を利用することが出来た。但し、祭日の山登りハイキング客で主要な駅はごった返していたのは計算外だった。時間帯によっては電車は満員状態となり、我輩を含め多くの者は大きな荷物を持っていたので大変な状態であった。まあ、祭日運行のSLに2度遭遇したのであるから、良しとしよう。 <<画像ファイルあり>> 今日の撮影ペースはなぜか遅く、終わってみると昨日より少なく12駅、消費フィルム量は18本にとどまった。こればかりは列車のダイヤに依存する問題か。 結局、残すは8駅。やはり2日間では回り切れず3日目が必要。しかし、さすがに疲労は蓄積し、3日間連続撮影は断念した。最後の撮影は数週間後としたい。 だが考えようによっては、2日間の撮影結果を見てから3日目の撮影を行うほうが、失敗のフォローも出来て好都合と言える(フォロー出来る範囲の失敗であれば良いが)。フィルムの買い足しは、現像結果を見てから考えることとする。 今回の撮影では両日共快晴で、強い光の下でデジタルカメラの液晶パネルを見るのには苦労させられた。しかし、今までの経験を活かし、多少暗めだと思っても階調そのものを見ることにより、適正露出の山を掴めるようになってきた。やはり、液晶パネルによって仕上がりイメージが事前に確認出来るというのは安心感に繋がる。撮影時には気付かなくとも、駅舎の日陰の中で液晶パネルを見れば、より正確なモニタリングが可能である。 さらに、デジタルカメラを使う利点としては、撮影データを確実に残せるという点である。どのカットでどのような設定値で撮影したか、それはファイルに書き込まれている。このデータは今後の撮影に役立つのは言うまでも無い。 しかしながら、ごくまれに同じ露出設定値でもシャッターを何度か切ると極端に違う明るさになってしまう現象が現れた。前回の感度400事件もそうだが、このデジタルカメラEOS-D30の不具合によるものかという気もする。 それにしても露出計代わりにしてはやはり図体が大きい。マニュアル露出で撮影可能なデジタルカメラならば、何も一眼レフ型でなくとも小型のもので十分。例えばオリンパスの「CAMEDIA C-700 Ultra Zoom」では、外光に惑わされる外部液晶パネルではなく、ファインダー内で表示する液晶パネルであるため、常に安定した条件で撮影結果が確認出来そうである。値段も新品で4万円台と比較的安い。 ●撮影3日目 撮影3日目は5月中旬〜下旬を予定。 ※今回の駅舎撮影は「写真置き場」にて展示する予定 ---------------------------------------------------- [350] 2002年05月06日(月) 「写真歴」 我輩は自動車普通免許を所有している。つい数ヶ月前に更新を済ませ、今年もゴールド免許を受け取った。 ゴールド免許は無事故無違反の証明であり、そのドライバーが安全運転を心掛けているということを表している・・・ハズだが、我輩は単に自動車の運転をやらないペーパードライバーなだけ。 それゆえ、ゴールド免許であろうとも、その人間が運転すれば安全だという証明にはならない。 その点、パイロットは飛行経験を「時間」で表す。飛行時間1万時間などと言えばベテランであろう。 我々は普通、時間を24時間の範囲内で考える。たまに「今月は残業時間が100時間越えたよ」とか「開発工数は200時間くらいだ」などという会話もあるだろうが、1万時間などという量になるとさすがにピンと来ない。 だが、数字というのは比較に便利な道具である。1万時間という量そのものが解らなくとも、他のパイロットよりも多い少ないという判断が出来る。すべてのパイロットの飛行時間が1万時間を越えているとするならば、それは「普通レベル」と言われよう。だが現実には、そんなパイロットはあまりいないため、「ベテラン」と言われるのだ。 さて、写真歴はどうか。 写真歴は普通は年月で表す。それは決して、写真撮影の実時間ではない。1枚あたり1/250秒の撮影を250枚撮ったところで、やっと1秒になるだけである。「私の写真歴は1秒です」などと言うのは何ともサマにならない。高速シャッターを多く切る者よりも長時間露光を多用する者のほうが写真歴が長くなるのも不満が出るだろう。「さあ、今日も長時間露光で写歴を稼ぐぞー!」などという風潮は想像するだけでイヤだ。 というわけで、結局は写真歴は「写真を始めた時期から現在までの長さ」とされる。つまり、我輩のゴールド免許のようにほとんど運転経験が無くとも良い。 だが、月に1回撮影に行く者と年に1回撮影に行く者は、写真歴が同じでもやはり明らかに経験が違う。 そこで、我輩は冗談半分に新しい写真歴を提唱したい。それは、「使用フィルム面積」である。 「使用フィルム面積」とは、パイロットの飛行時間のように、今まで使ってきたフィルムの総量を面積で積算する方法である。その面積にピンと来なくとも、他の比較からベテランかそうでないかというのが判断出来る。 なぜ面積かと言うと、35mmフィルムと120フィルム、そしてシートフィルムでは、フィルム面積の大きさによって撮影の苦労が変わるからである。これは優遇措置と考えて良い。「写歴を稼ぎたければ大きなカメラを使え」と言うわけだ。 反対にハーフ判でちまちま撮影している者は、うんざりするほど撮影しなければ写歴が上がらない。 一方、ステレオ写真などは2枚同時に撮影するから効率が良さそうだ。これでステレオ写真ブーム再来となるか。 当然、このような制度を導入するには、カメラ側にも多少工夫が必要であろう。コピー機のようにユーザーが勝手に変えられぬような累積カウンターを設置するのだ。もちろん、このカウンターは空シャッターではカウントしない。これを意図的に改変する者は違法行為で摘発される・・・。 まあ、多少おやじギャグが混ざっていたかも知れぬが、ふと、「自分が過去にどれほどの面積のフィルムに映像を焼き付けてきたのだろうか?」という疑問が湧いたので、ここで書いてみたというわけだ。 深く考えること無かれ。 ---------------------------------------------------- ダイヤル式カメラを使いなサイ! http://cam2.sakura.ne.jp/