「カメラ雑文」一気読みテキストファイル[251]〜[300] テキスト形式のファイルのため、ブラウザで表示させると 改行されず、画像も表示されない。いったん自分のローカ ルディスクに保存(対象をファイルに保存)した後、あら ためて使い慣れているテキストエディタで開くとよい。 ちなみに、ウィンドウズ添付のメモ帳ごときでは、ファイ ルが大きすぎて開けないだろう。 ---------------------------------------------------- [251] 「小さな銃弾」 [252] 「今度こそフィルムスキャナ(前編)」 [253] 「今度こそフィルムスキャナ(後編)」 [254] 「ジンクス」 [255] 「写真だけを知るなかれ」 [256] 「カラーの時代」 [257] 「写真のタイトル考察」 [258] 「メーカーとユーザーの役割」 [259] 「敵ながら見事よ」 [260] 「趣味性」 [261] 「優劣」 [262] 「気心の知れたカメラ」 [263] 「気になるカメラ2」 [264] 「標準レンズ購入」 [265] 「中身の観察」 [266] 「焦点距離を意識する」 [267] 「年の差」 [268] 「ダメ元修理」 [269] 「貧乏人のための商品撮影(序章)」 [270] 「貧乏人のための商品撮影(第1段階)」 [271] 「貧乏人のための商品撮影(第2段階)」 [272] 「貧乏人のための商品撮影(第3段階)」 [273] 「貧乏人のための商品撮影(第4段階)」 [274] 「Canon EOS D30」 [275] 「一度目の失敗」 [276] 「シャッターの切りにくい時代」 [277] 「答合わせ」 [278] 「身近な先生」 [279] 「自分の絵の具」 [280] 「実物の痕跡(前編)」 [281] 「実物の痕跡(後編)」 [282] 「あれこれ考えた日」 [283] 「近視のMF測距能力」 [284] 「EOS-D30による野外テスト」 [285] 「やはり思ったとおり」 [286] 「一度きりという覚悟」 [287] 「写真を殺すデザイナー」 [288] 「昔の敵は今日の友」 [289] 「計画−今年の夏」 [290] 「百害あって一利無し」 [291] 「途上国援助」 [292] 「先祖返り」 [293] 「定点撮影」 [294] 「ゆけ! ゆけ! 川口浩!!」 [295] 「時代はデジタル画像」 [296] 「心霊写真(その3)」 [297] 「挑戦なき者」 [298] 「多重露出の出来ないカメラ」 [299] 「ザ・おやじギャグ」 [300] 「五百羅漢」 ---------------------------------------------------- [251] 2001年04月05日(木) 「小さな銃弾」 その昔、「ザ・ゴリラ」というアクションマンガがあった。 44マグナム(S&W製M29)やバントライン・スペシャルを使う刑事、通称「ゴリラ」が数々の事件に体当たりで立ち向かう。 このマンガでは、44マグナムの威力がかなり誇張されており、筋骨隆々のゴリラでさえ、最初の試し撃ちでは、44マグナムの反動で身体ごと跳ね飛ばされた。 しかも、ある時はマグナム弾で車のエンジンをブチ抜き、またある時はたった1発の衝撃波で4〜5人もの人間を脳しんとうで倒したこともあった。 今考えるとかなり笑える。まあ、ゴリラというキャラクターそのものが誇張された存在であるから、ソイツが使う銃が普通であるはずがないのかも知れない。 しかし、銃器というのは凄まじいパワーを持っていることに変わりは無い。 小さな銃に秘められたパワー。それは、銃弾(火薬)の力に他ならぬ。銃弾の入ってない銃は、単なる文鎮でしかない。 拳銃用の銃弾は、てのひらにスッポリ入る小さなもの。その小さなものが殺傷力を持つ程のパワーを持つ。この中に詰められている火薬が爆発することにより、強大な圧力が発生し、弾頭を高速で発射するのだ。 銃弾のサイズとその強大な力を考えると、そのエネルギー密度の高さが伺い知れる。 それ故、銃や銃弾の取り扱いを誤ると、思いもよらぬ事故によって被害を受けることも珍しくない。銃関係の雑誌(洋書)では、爆発した銃の写真を掲載し、ユーザーへの意識向上を訴えているページをたまに見掛ける。 では、カメラの話に移る。 我輩は、カメラを多数所有している。 筋金入りのマニアから見れば「フン、まだまだ甘いワ」と言われそうだが、普通に考えると、やはり多いほうに入る。 ある程度カメラの台数が増えると、どうしても目の行き届かないカメラやそのアクセサリがあるものだ。我輩の場合、ゼンザブロニカのモータードライブがまさにそうだった。 そのモータードライブは、使う場面が限られており、最後に使ったのはいつだったのかも思い出せない。だが、使った後そのままになっていたモータードライブには単3電池が装填されたままとなっていた・・・。 ある日、我輩は久しぶりにモータードライブを装着することにした。だが、電池ホルダーが取り出せない。ネジをいくら回そうとも、それは全くビクともしないのだ。 よく見ると、電池ホルダーの入っている部分がわずかに膨らんでいる。電池が腐食して膨張しているのが原因だった。 その後、なんとかホルダー部分をこじ開けることに成功。だが、ホルダーとホルダー室は見るも無惨な状態になっていた。しかし発見が早かったこともあり、丹念な清掃によって、外見はともかく機能は復活できた(だが今でも、時々は接点部分を磨かなければ緑の錆が浮く)。 電池は年々高性能化が図られ、写真用として使われるものでは特にその傾向が大きい。 それはすなわち、電池には意外に大きなエネルギーが込められていることを意味する。その扱いを誤れば、込められたエネルギーの行き先が別の方向へ変わるかも知れぬ。 エネルギーというものは、様々な形へ変換される。人間は、自分の都合の良い変換だけを取り出して利用する。カメラの場合、電力をモーターの電磁気力へ、そしてギアを通して物理的な力へ変換する。またフラッシュのように、電力を光に変換することもある。 我輩の場合、本来ならば電力だけを利用するはずのものを別の方向に向けてしまった。それは、電池の腐食と、膨張による圧力だった。 もし発見が遅れれば、その腐食と膨張は修理不能なほどに進んでいただろう。このモータードライブの構造上、ホルダー室とそれ以外の部分はキッチリと仕切られていないように思える。液漏れによってホルダー室以外も破壊されていた可能性は否定出来ない。 AFやワインダー、内蔵ストロボを全て駆動するエネルギー源として、電池はもはや無くてはならぬ存在となった。今や、電池の高性能化を前提としてカメラの性能が決められる。電池の不良はカメラの不良。 そう言えば、我輩が「Canon EOS630」を使っていた時代、一部のメーカーのリチウムパック電池に不具合があり、発火の恐れがあるというアナウンスがあったことを思い出した。 もちろん、電池の高性能化に応じて、電池メーカーも安全策を講じるのは間違いない。だが、どんなに安全と言われる電池があったとしても、扱いを誤れば予想外の結果を生む。 強力なパワーを秘めている小さな電池。 場合によってはカメラ全体を静かに破壊する。それだけの力が電池にはある。銃弾のエネルギーには及ばないかも知れないが、電池はエネルギーの塊であることを常に意識すべきだろう。 ---------------------------------------------------- [252] 2001年04月08日(日) 「今度こそフィルムスキャナ(前編)」 我輩が最初に購入したフィルムスキャナは、「Microtek ScanMaker 35t plus」というものだった。蛍光管タイプで、スイッチを入れればスキャンしなくても常時点灯し続けるタイプ。この常時点灯タイプは、蛍光管の光が安定した状態でスキャンを行うという目的があるのだが、貧乏性の我輩としては、蛍光管の寿命が短くなるのではないかという心配があった。 このフィルムスキャナ、ポジフィルムの取り込みは特に問題無かったのだが、ネガフィルムの取り込みでは、ほとんど救いようが無いほど悲惨な結果であった。しかし、これほどにヒドイ結果なら、何かが間違っているのではないかと考え、日本マイクロテック社に電話をかけて問い合わせてみた(当時はインターネットなど普及してなかった)。 すると、ネガを取り込む時は「ネガ」の設定にするのではなく、「ポジ」の設定で「色反転」の指定をするのだと教わった。その通りにすると、確かに正常な色で取り込めた。・・・だが、「ネガ」という設定は何のためにあるんだ・・・? それから数年後、Nikonから「COOLSCAN LS-2000」という高性能のフィルムスキャナが登場した。これは蛍光管ではなく発光ダイオード(LED)を使うタイプで、光の安定性に優れているという。 我輩は、それまでのマイクロテックのスキャナでネガの取り込みに手間が掛かっていた。異常な色にならなくなったとはいうものの、必ずしも良い色が出るわけではない。しかも自動給送ではないため、6コマのネガスリーブを自動給送できるNikonのものが魅力的に思えた。 我輩は思い切ってCOOLSCANを購入。早速スキャンを試した。 まず、期待のネガフィルムから。 自動的にスリーブのフィルムが吸い込まれていくのは面白い。取り込まれた画像の結果はまあまあだった。 次に、ポジフィルム。 ネガの様子からポジにも当然期待する。だがどうしたわけか、階調(グラデーション)が汚い。一目見て滑らかではないことが判る。これは使い方が悪いのだろうと思ったが、どうやってもダメだった。インターネット上から新しいドライバソフトをダウンロードして使ってみたが、ほとんど変わらない。 それにしても、ニコンのドライバソフトは非常に使いにくい。今まで何気なく使っていたマイクロテックのドライバソフトが、急に使いやすく感じてしまうほどだ。 そうやって何度もフィルムを出し入れしていると、今度は自動給送アダプタがジャムった(詰まった)。これがまた面倒で、詰まったフィルムを取り出すのが一苦労。傷が付かないように慎重にやるのだが、何度もジャムると小さな傷は防ぎようが無い。しかも、使っているうちにコマの位置がズレてくるようになり、それ以降、手動装填タイプのものしか使わなくなった。これで、COOLSCANを購入した意味が1つ消えた。 ポジの得意なマイクロテックと、ネガの得意なニコン。全面的にニコンに置き換える予定だったのだが、当面は2台を使い分けるしか方法は無い。 さて後日、Nikonのサイトに「ファームウェア」というソフトがアップされた。「ファームウェア」とは、スキャナ本体に保存させるためのドライバソフトで、これをアップデートさせると、ハードウェア寄りの不具合が解消されるという。 これを入れれば、COOLSCANでもポジフィルムが取り込めるようになるかも知れない。期待を込めて、ファームウェアを更新。やはりその効果はあった。ポジもうまく取り込めるようになった。 だがやはり、ニコンのドライバソフトの使い勝手が非効率的であるため、その後もマイクロテックを使い続けることとなる。しかも、次にアップデートしたニコンのファームウェアは散々なものだったため、せっかく回復したと思った性能が再びダメになった。バグのあったファームウェアもあったらしいが、我輩は偶然にもそのバージョンのファームウェアは入れていない。だが、それでも結果は「不具合」としか表現出来ぬものだった。そのうち、画面にノイズが走るようになり、それ以来COOLSCANは、電源コードをグルグル巻かれ、部屋の片隅で放置された。 修理や問い合わせも考えてみたのだが、それに浪費する時間があまりに無駄なため、もうCOOLSCANという名前を聞くのもイヤになったのだ。 偶然にも職場で導入したフィルムスキャナもCOOLSCANだったが、症状は我輩のものとほとんど変わらない。これは故障というものではなく、欠陥と言うべきか。自動給送アダプタの調子も悪く、ジャムらないことのほうが珍しいくらいだ。 その後、マイクロテックのスキャナは引退することなく、引き続き使用されることになる。 修行を重ねたことにより、ネガの取り込みも色調整することによって救済出来るようになった。ただ、時間と手間が掛かり過ぎるのが難点。それ故、スキャン前提の撮影では、ネガフィルムを使うことは少なくなった。 さてここ最近、そのマイクロテックも調子が悪くなってきた。 パソコン上でのデバイス認識も失敗するようになり、画像のムラもだんだん大きくなってきた。老体にムチ打って使ってきたから、もう限界なのだろうか。COOLSCANさえちゃんと後を継いでくれたならば・・・。 (後編へ続く) ---------------------------------------------------- [253] 2001年04月09日(月) 「今度こそフィルムスキャナ(後編)」 (前編からの続き) ・・・そんなわけで、我輩はここ数ヶ月間、フィルムスキャナをいろいろ探していた。 どうせならブローニーフィルムも取り込めるものが便利だと思ったが、やはり値段的に厳しい。ミノルタの比較的安価なものを選んだとしても、必要な付属品を揃えると30万円は必要。 当時、我輩の貯金でギリギリ何とかなるくらいだった。しかし、満足出来る性能だと事前に判っているならば思い切って購入してもいいかも知れないが、もし期待を裏切られればそのショックは計り知れぬ。 結局、色々と迷っているうち、我輩の貯金も20万まで減ってしまい、もはやそんな迷いも必要なくなった。 さて、今度は35mm専用のフィルムスキャナに絞って考えることにした。 まず、NikonのCOOLSCANは避けたい。そして、今までの写真をスキャンしなおすことを考え、スライドマウント原稿を連続読込み出来るタイプを選びたい。 だが、スライドマウントを連続読込み出来るタイプは、我輩の知る限りにおいては、皮肉にもNikonのCOOLSCANのみ。前回購入した「COOLSCAN LS-2000」の後継機「SUPER COOLSCAN 4000ED」が新しく発売されたようだ・・・。 さあ、どうするか。 数日後、我輩の手元に1台のフィルムスキャナが届いた。「Nikon SUPER COOLSCAN 4000ED」と、別売りアクセサリ「スライドフィーダ SF-200」。合計約21万円。 前回裏切られた「COOLSCAN LS-2000」ではあったが、インターネット上の様々な掲示板で酷評されていることから、「Nikonも汚名返上のために何らかの改良を施しているはずだ」と敢えて期待した次第である。これで裏切られれば、もう何も信じられなくなる。世を捨て山にこもって暮らすしか無かろう。 <<画像ファイルあり>> 左から、「Microtek ScanMaker 35t plus」、「Nikon COOLSCAN LS-2000」、「Nikon SUPER COOLSCAN 4000ED」。 <<画像ファイルあり>> 「Nikon SUPER COOLSCAN 4000ED」に「スライドフィーダ SF-200」を装着したところ。カバーを開けた状態。 このスキャナはIEEE1394接続タイプであるため、パソコンに接続させるには、付属の「IEEE1394インターフェースボード」をパソコンのPCIスロットに装着しなければならない。しかし、我輩のメインパソコンのスロットには空きが無い。 仕方無く、ビデオ録画/ビデオCD作成用として使っている別のパソコンに装着することにした。 ところが、これがまた認識してくれない。それもそのはず、これは「Windows98SE」以降しか使えないらしい。ハッキリと文章に書かれているわけではないが、説明書にはそれ以外のOSについては書かれていないため、自分でそう判断した。接続しようとしているパソコンは「無印Windows98」。 結局、「Windows98SE」のインストールからやるハメになってしまった。 「Digital ICE」 まず試しに、フィルム上のゴミや傷の影響を軽減する「Digital ICE」という機能を使ってみる。これはLS-2000でも搭載されていた機能であるが、その時は他の不具合に気を取られてそんなものを使う余裕など無かった。だから今回は一応期待を持っていた。 だが結果は無惨なものだった。全体が油絵調になって、とてもじゃないが使えない。 一瞬、虚脱感に襲われた。 しかしよく見ると、スキャンしたフィルムはコダクロームだった。コダクロームの場合、うまく「Digital ICE」が働かないとされている。そこで別のフィルムをスキャンしてみると、今度はキレイにスキャンしてくれた。ゴミもほとんど目立たない。これはなかなか良い。コダクロームさえ使わなければ。 コダクロームで「Digital ICE」が使えないというのは、恐らくコダクローム独特の裏面に原因があると思う。外式フィルムであるコダクロームの裏面は、映像の濃淡がそのまま凸凹として物理的に浮き上がっている。それ故、スキャナが凸凹をゴミや傷と判断して補正してしまうのだろう。これでは、一部分だけでなく画面全体に補正を加えてしまうことになり、画像も変わってくるのは当然だ。 「Digital ROC」、「Digital GEM」 「Digital ROC」は退色したフィルムの色を蘇らせるための、「Digital GEM」はフィルムの粒子のざらつきを軽減するためのものである。いろいろと試してみると、「Digital ROC」を無効にすると、ほとんど色が乗ってこない。だからこれは常に有効にしておくようにした。 だが、この処理が一番時間が掛かる。スキャン作業自体はそこそこ早いだけに残念だ。 「給送アダプタ」 6コマのスリーブ状フィルムを装填できる給送アダプタ(付属品)は、前回のLS-2000ではよくジャムった。今回もそれを懸念していたが、今回のアダプタは前回のような巻込み式ではなく、貫通式でフィルムがカーリングするのを防いでいる。 しかも、前回のものはジャムった場合にコインを使ってネジを外す必要があったのだが、今回のものは素手で簡単に外せる。これは、前回のタイプがジャムりやすいものだったことによる反省の結果なのだろう。 しかし、基本的に給送自体は安定している。これはクレームが一番多かった部分なのかも知れない。 「スライドフィーダ」 別売りのスライドフィーダは、マウントされたポジ最大50枚を連続的に読み込むためのアダプターである。 最初、全く動作しないため、故障しているのかと思った。このアダプタはスキャナに装着するとLEDランプが点灯するのだが、接続不完全状態でも点灯する。だから騙される。実はもっと深く差し込まねばならない。かなり強く押し込んで初めて動き出す。 さて実際のスキャン作業では、1コマ1コマの調整をドライバソフトの自動露出に委ねるしかないため、余程同じ条件で撮影されたポジでしか連続読み込みはさせたくない。違う撮影条件のポジを何枚か読ませると、階調がトンでしまうものがいくつかあった。それでもまあ、試してみた限りでは7〜8割ほどは満足出来る。調整無しで使えるものは滅多に無いが、それでも夜間稼働で無人取り込みが出来るというのは素晴らしい。 それにしても連続読み込みは時間が掛かりすぎる。「Digital ICE」、「Digital ROC」、「Digital GEM」を有効にしておくと、3000dpiで1枚あたり10分は掛かる。これは演算時間がほとんどを占めているため、パソコンの性能によってかなり違いがあろう。 しかし、我輩がメインパソコンにこのスキャナを接続しなかったのは正解だった。もしメインパソコンに繋いだならば、スキャン作業中は他の作業が何も出来なかったろう。メインパソコンには、書籍を取り込んでもらうという大事な任務があるのだ。 「全体的な感想」 このスキャナは、現時点ではまあまあの性能と言える。驚いたのは、ネガフィルムの取り込みがかなり良いということだった。これなら、スキャン前提の撮影でもネガフィルムを使うことが出来る。 とは言っても、50枚の連続読込みが出来るのはマウントされたポジであるから、これからネガに移行するつもりは無い。それよりも、過去のネガ写真を生かせるという意味が大きい。 LS-2000で味わった不自然な階調表現も無く、フィルム上の情報を全て拾っている感じがしてよろしい。 ただ、説明書が分かりづらいのが困る。 冊子の説明書も添付されているが、PDF形式で保存されたCD-ROMの説明書も添付されている。そして両者は同じものというわけでもない。どこに何を書いてあるのか分からず、結局両方とも見なければならない。 しかも冊子のほうはスミ1色で刷っているのだが、薄いインクを使っているようで、捜しモノをしている眼には見づらい。スライドフィーダーの説明書のほうは、しっかりしたスミで刷っているのに、なぜ本体の説明書のほうはこのような余計なことをするのか理解に苦しむ。 ※ もしLS-2000で満足している者がいるならば、それは、そのスキャナのファームウェアが最適なものが入っていることを意味している。その場合、下手にファームウェアをアップデートすべきではない。いったんファームウェアをアップデートすれば、古いバージョンには戻れないことは知っているはずだ。 もしアップデートしたならば、我輩のように無限地獄へと足を踏み入れることとなろう。手当をすればするほど、傷は広がってゆく・・・。 -------------------- 2001年4月12日追記 -------------------- スライドフィーダーによってバッチスキャンした画像を開いてみると、時々素晴らしく美しい写真があるのに気付いた。リサイズ以外には何もやる必要が無いのだ。最初、それは単なる偶然かと思われたが、どうも濃度の濃い(ローキー)のポジという共通点があるように感じる。 まだコダクロームでしか試したことがないので一概に結論付けるのは危険かも知れないが、現時点の印象では、「濃度の濃いコダクロームで最良の画像を得られる」という感じだ。そう言えば、画面上でコダクロームを選択するメニューがあったな。 (ただし、本当にアンダー露出の失敗作品では、暗部が濁って使えない) 反面、コントラストの高いポジは階調がかなり失われる。スキャン前にコントラストの調節しようとも、ヒストグラムを見るとスキャン後にレタッチするのと同じ結果だった。 それにしても、夜間稼働でバッチスキャンをさせると、朝起きてまずスキャナを見に行くようになった。50枚もの写真が画像ファイルとなって画面上に並んでいると嬉しくなる。あとはレタッチするだけで良いのだ。今までなら、貴重な時間を割いて取り込んでいたものだったがな。 根を詰めてやっていると、色が解らなくなるので、取込み作業だけでも解放されると余裕を持ってレタッチ出来る。 しかし、ハードディスクの容量が足らなくなった。何しろ、各色16ビットで取込んでいるため、1ファイルあたり85MBにもなる。 ということは、これが50ファイルだと・・・。 ---------------------------------------------------- [254] 2001年04月14日(土) 「ジンクス」 他の者はどうか知らないが、我輩は子供の頃から下らないこだわりを持っていた。 例えば、「横断歩道の白いラインを踏み外してはならない」とか、「ゴミ箱に投げ入れようとしたゴミが外れたら、もう一度同じ場所に戻って投げ直す」とか・・・。 そういうのはこだわりというよりも、一種のジンクスと言ったほうがいいかも知れぬ。 そして大人になった現在でも、我輩はジンクスをいくつか持つ。その中には当然、写真に関するジンクスもある。 「トリミングしなければならない写真は失敗である。」 これもそのジンクスの1つだ。 ジンクスというのは、端から見ると実に滑稽なことだろう。当の本人でさえも、そのジンクスが本当に影響あるものとは思っていない。だが、そのジンクスを破るのはどうにも気持ちが悪い。だから、ジンクスが継続してしまう。 ジンクスには理由など無い。「ただ、そう思っただけ」ということでしかない。これは右脳的判断(感性と無意識の感情)に基づいた行動である。 一方、左脳的判断(論理的思考)に基づいた行動が強い人間には、恐らくはジンクスなど笑い話に過ぎないだろう。理屈に合わないことでなぜ行動を制限されるのかと考える。 普通に考えると、トリミングすればそれだけ写真の拡大率が大きくなるために画質が粗くなる。しかしフィルム性能の向上した現代、過去に撮影したノートリミングの写真よりもトリミングした現代の写真のほうが圧倒的に高画質な場合がある。だから、単純に画質の問題ではないことが解る。 これは、完全に我輩のジンクスなのだ。 もっとも、リバーサルフィルムの場合では、マウントして鑑賞(スライド映写)することが前提となり、ノートリミングは当たり前のことと言えるだろう。 しかし今では、パソコンへの写真取り込みが手軽に出来るようになり、そのような簡易的用途ならばトリミングも納得出来るようになってきた。 だがそれでもまだ、理屈でムリに納得させられているような気持ちがあり、やはりトリミングせねばならぬ写真はどうにも悩ましい存在だ。 もし同じ撮影シチュエーションを与えられたならば、もう一度撮り直したいと思う。 (例外的に、6x6サイズで撮影した写真は、真四角な写真をトリミングする前提で使うこともある。例えばカメラを写した写真などは、カメラの横長に合わせたトリミングをするつもりで撮影した。) さて、我輩は先日、心霊騒動がらみで二枚ほど写経をした。 写経というのは、言わずと知れた、「般若心経を書き写す作業」である。 写経は、一気に書き切らねばならぬ。途中で筆を置けばそれで終わりだ。その後用事を終え、続きを書き始めたとしても、それはもはや写経ではない。仕上がりが同じに見えても、書いた本人が中座したことを自覚している。その心が違う。 自分が妥協無く書いたかどうか。妥協しない姿勢を自らに問う行為、それが写経の真の意味である。その心を以てして初めて、先祖霊の成仏が叶うのだ。 写経などは、書くこと自体がジンクスと言えなくもない。だから、書く者の心が一番重要なのは当たり前と言える。 「ちょっと間違えたくらいならいいか」と思うこともあるが、書き進めていくうちに、だんだん気持ちが落ち着かなくなる。気になって仕方がない。自分を誤魔化すことは、写経というジンクス自体の意味を失わせることに気付く。だから、誰も見ていなくても最初からやり直すのだ。 我輩は、写真も写経のように考えることがある。 何でもないことであっても、自分のジンクスに触れている部分については、自分を許すことが出来ない。それを許してしまえば、自分のやっていることの意味を失ってしまうことだろう。 他人から見れば下らないジンクスに囚われた哀れなバカ者と映っても、我輩はジンクスに無理な理由を求めない。それは、続けることに意味を持つ。 ジンクスを破ってしまえば、今までの努力は無となるしかない。無にしないために続ける。それがジンクスである。 ※ ダイヤル式カメラを使うのは決してジンクスじゃないぞ。確たる意味を持ち、信念を以て選び使う。 ---------------------------------------------------- [255] 2001年04月16日(月) 「写真だけを知るなかれ」 人間は有限の時間を与えられた存在である。それ故、永遠に学び経験し続けることは叶わぬ・・・。 しかし、人間は考えることが出来る。古代の賢者たちは、考えることによって、限られた知識と浅い経験の中から大きな力を得た。 古代と比べて遙かに大量の知識と様々な経験(長寿命化と地理的短縮による)のある現代において、果たして古代人よりも賢くなったと言えるだろうか? 少し前、掛け算や割り算の出来ない大学生が話題になったことがあるが、これは例外だと自分を納得させてみたとしても、学生の学力低下には驚きを禁じ得ない。彼らは、「計算などは電卓やパソコンでやれば済むだろう」と主張する・・・。 雑文044でも書いたのだが、「ゆとり教育」の一環で、学ばねばならぬことがどんどん減っていく。円周率については3.14のままで行くそうだが、そんなことよりも他の知識がゴッソリと抜け落ちているので意味が無い。 人間の脳というのは、関係無い知識や経験を互いに結びつけ、そこから全く新しい結論を導き出すという驚くべき機能を持っている。遊びの中にさえ、人生を左右する芽が潜んでいたりする。 知識、経験、遊び。そう言ったものが脳内で垣根無く相互に結びつく。これが「洞察」の源泉である。 「一を聞いて十を知る。」 それは単に、線形的で予測可能なものを理解するという意味ではない。非線形のものですら、人間の脳は「洞察」により理解可能だということを示している。 それには深い知識が必要であり、全く役に立たずに脳の中で沈んでゆく知識も中にはあろう。だが、役に立つか立たぬかは、結果が決めることであり、人間が事前に決められることではない。 「社会に出ても役に立たないような勉強をなぜしなければならないのか」と言う児童がいるらしい。実は我輩もそのように思った口だった。それに対し、大人はハッキリとした理由を示さない。だから、子供はますますその思いを強くする。 なぜ、子供の質問に答えない? 「必要なものを理解し自分のモノとするためには、土台となる脳が成長する必要がある。そのために使われる学問なのだ。」と。 もし、実用的と思われる勉強だけを選んで勉強したならば、社会に出て当面の間、それは大いに役に立つであろう。しかし、不測の事態が起これば、人間の総合的判断によって切り抜けなければならない。偏った知識で育った人間は、プログラミングされた機器のように、想定外の仕事は出来ずに、ただ指示を待つのみ。 さらに、時代というものは変わる。それにつれて人も変わらねばならない。 例えば、現在はIT(情報技術)の波が押し寄せ、一昔前まではマニアのオモチャでしかなかったパソコンが仕事の中核を成すようになっている。 パソコンを使いこなすには、人は無意識のうちに頭の中でイメージマップを作る。多くのウィンドウで重なった画面を混乱無く見たり、深い階層のファイルを探し出したり、処理画面の推移を理解したり、コンピュータ特有の観念的な言葉を理解したりするには、頭の中でイメージマップが出来ている必要がある。 それには、空間的思考が欠かせない。例えば歴史の年表を学んだときに作ったイメージマップが役に立つかも知れない。ジャングルジムで遊んだときのイメージマップが役に立つかも知れない。図書館で本を探した時のイメージマップが生きるかも知れない。どれか一つでも経験があれば役に立つだろう。 しかし全てに於いて空白であるならば、その人間に未来は無い。また小学校へ戻り、新たに必要となった勉強をしなおすことになるのだ。 如何に多くの情報を得たり、如何に貴重な経験を積んだとしても、それを受けるネットの目が粗ければ、そのほとんどを取りこぼしてしまうだろう。それを防ぐには、脳を多くの情報で充填し、ネットの目を密にしておかねばならぬ。 写真を撮るにはそれなりの写真的知識が要る。だが、写真を撮るための本当に必要な知識とは、写真の分野には存在しない。それは禅問答のようだが、理由は先に述べたもので間に合うだろう。 1つの知識を理解し自分のモノとするには、全く関係ない他の知識が数十倍必要だと我輩は見る。そのバックグラウンドの数が多ければ多いほど、脳内のニューロンの関与が多いということになり、洞察鋭い見方が出来るものと信ずる。 そういう人間は、発想が枝分かれして様々な結論が出せるため、それに対する面白味が強まり、深く追求して行くことが出来る。 逆にバックグラウンドが少なければ少ないほど、関与するニューロンは少ないということになり、撮影テクニックもうわべだけとなり、発想は貧弱で自分の身にならない。 そういう人間は、自分に得られる結論が少ないため、それに対する面白味も薄く、概して飽きっぽい。 限りある人生であるからこそ、貴重な知識や経験を取り逃がしては勿体ない。そのために、色々と写真以外のことについて多くの興味を持つことが大事だ。 写真が好きであるならば、写真だけを見続けてはならぬ。 これは決して、我輩の雑文の前置きが長いということの言い訳ではないぞ(?) ---------------------------------------------------- [256] 2001年04月17日(火) 「カラーの時代」 我輩は携帯電話の類は所有してはいないが、電車内で見掛ける限りにおいては、ディスプレイ画面がカラフルになってきたと感ずる。 携帯電話が普及し始めてそれほど経っていないというのに、モノクロLCD(液晶ディスプレイ)の7セグメントデジタル数字だけの表示の頃に比べれば、今は全く別物と言える。 ところが、液晶表示式カメラのこととなると、これがまた、悲しいくらいに進歩が無い。 液晶表示カメラが本格的に使われるようになったのは、確か「MINOLTA α-7000」や「Canon T-90」の頃だったと思う。おおよそ15年くらい前だったろうか。 その頃のものと比べても、今の液晶表示はほとんど変わらない。たまにドットマトリクス形式のものも出てきたりするが(NikonやMINOLTA)、それらはただ単純にモノクロディスプレイを格子状にしただけで工夫が無く、低コントラストで非常に視認性が良くない。言うなれば一昔前のノートパソコンである。鈴木亜久里がCMをやっていた頃のダイナブックのような感じだ。そんな前時代的な液晶パネルが現代でもよく作れたものだと感心する。 現在はもうカラー液晶の時代である。それは携帯電話の世界が示している。使用者側に立った見方で言えば、モノクロ液晶にはカラーに勝る利点など1つも無い。ノートパソコンや携帯電話の移り変わりを見れば、モノクロは消える運命にあると言うしかない。 カメラが旧いモノクロLCDを使い続けているのには何か訳があるのだろうか? まず考えられるのが、銀塩カメラを使う者は保守的であるということか。しかしそれならば、そもそも我輩のように最初から液晶表示カメラを拒絶するはずだが。 コストがかかる? しかし、高校生でもカラー表示の携帯電話を持っている現代に於いて、数十万円もするカメラにコストの問題でカラー液晶が搭載出来ないという話は全く通らない。これは万が一にもあり得ない。カラーのノートパソコンですら10万円で買える時代だぞ。 では、消費電力の問題なのか? AFやAE、AW、さらには内蔵ストロボなど、大消費電力の塊であるカメラであるのに、今さら何を言うのか。携帯電話のようにメールを延々と打つ訳でもなし、ちょっと表示させるのに電力が不足するというのは言い訳にも足らぬ。 野外で使う前提のカメラであるから、バックライトが必要な表示パネルは辛いのか? しかし、デジタルカメラには立派に搭載されているじゃないか。しかも、今は反射式のカラー液晶もある。ドットマトリクスでは視認性が良くないのであれば、スポットカラー(セグメントごとの単色カラー)で表示してもいいのでは?少なくともモノクロよりはマシになる。 ・・・このように、モノクロLCDでなければならない理由は見付からない。結局は怠慢の結果なのだろう。カメラ業界はいつでも横並びだった。どこかが抜け駆けしてはじめて、進歩が起こる。 我輩は中途半端な進歩は好きではない。高い金を払うのであるから、メーカーはそれなりの進歩を要求されていると思わねばならない。チマチマとした進歩で新機種を出す価値は無い。新機種を出すからには、技術者として誇りを持って進歩したカメラを造れ。 (昔のミノルタは積極的だったが、操作性の進歩よりもカメラロボットを目指したために失敗した) 以下にカラー化による提案を考えてみた。 アンダー露出の場合は赤、適正の場合は緑、オーバー露出の場合は青などと、直感的に分かるような色の変化があると面白い。もちろん、正確な露出量は従来通りバーグラフで表す(もちろんこれもカラー化)。 フィルムの残り枚数に応じて、色が変わると良い。直感的に「残りが少ない」というのが感覚出来る。 モードも色分けされていると良い。レバー式の時代には、モードごとに色分けは当たりまえであった。 暗い時は白色バックライトが点灯出来る。 全セグメント点灯時 <<画像ファイルあり>> 露出アンダーの場合の表示例 <<画像ファイルあり>> ※これは我輩が勝手に考えて作ってみただけである。熟考すれば、もっと良い効果的なる配置があるだろう。 もしこのようなカメラが登場すれば、ダイヤル式と併せて液晶表示式カメラも使ってやっても良いと思う(かも知れない)。 元々、我輩は新しモノ好きである。そういった者たちを刺激するようなカメラを出せば、メーカーも間違いなく潤うぞ。 この際、カラーへの世代交代を果たし、モノクロ液晶表示のカメラを一気に旧式化してしまえ。 ---------------------------------------------------- [257] 2001年04月20日(金) 「写真のタイトル考察」 写真のタイトルというのは、写真そのものの位置を想像以上に左右する。良い効果を与えるのはなかなか難しいが、写真そのものを貶(おとし)めることは比較的たやすい。 ここでは、我輩の思う範囲内で、良くないタイトルの例を2つほどまとめてみた。 −−−(その1)−−− 大学生の頃、我輩は大学祭実行委員会広報局に所属していた。 そして皆で、よく帰り道に居酒屋へ寄ったりしたものだった。 遅くまで残って活動をやっている者は、大学祭にかなり入れ込んでいる者である。我輩もその一人であった。いわば「似たもの同士」、先輩後輩も無く楽しく飲んだ。 大学生であるからまだ二十歳前後の若者たち。ベタなギャグでも十分に盛り上がる。我輩もよくバカなギャグを飛ばした。 テーブルに事務局長がオーダーした焼き魚が来ても普通には渡さない。 「局長ご注文の、魚の死体が来ましたぜ!」 「オイオイ、勘弁しろよ〜。確かにそうだけどよぉ!」 時と場所を間違えればかなり寒いギャグであるが、ノリが違うのでウケる。 「魚の死体」・・・。今考えれば、よくこんなことを思い付いたものだなぁと思う。 ギャグ抜きで考えると、確かに見方を変えれば「焼き魚」は「魚の死体」に違いない。だが、食べる立場からすれば、それは料理であり、死体という認識など無い。だから、「死体」と認識させられてしまうと困惑するというわけだ。 写真のタイトルにしても、同じように言葉ひとつで観る者の見方をガラリと変えてしまうこともある。 全く同じ写真でも、タイトルをヒネリ過ぎてせっかくの「料理」が「死体」にもなり得る。意図的に意外性を導入するならいいが、少なくとも寒いギャグにならぬよう気を付けなければならない。 −−−(その2)−−− 大学の講義では、理数系でも一般教養課程として英語と第二外国語学(独語・仏語・中国語のいずれか)を学ぶ。 第二外国語では初めて学ぶ者がほとんどであるが、英語ではそこそこに知識のある者たちがいるようだ。そういう者の中には、教師が話す英語を聴いて何度も何度も頷いたり、ちっとも面白くない英語のジョークを聴いてゲラゲラ笑ったりする。そのジョークは鼻でフッと笑う程度のジョークであるのに、なぜかソイツらはゲラゲラと笑うのだ。そしてそれを日本語に訳している時には何度も頷く。まるで、自分が「英語をよく理解しているんだゾ」とひけらかしているようにも見えて非常に見苦しい。 こういう連中は目障り以外の何者でもないのだが、そういう人間は、普段の会話からして勿体ぶって気持ちが悪い。 「この英文、なんて言う意味?」と訊いてくるので 「えっ? *****だろ?」と答えると、 「やっぱ、普通の人はそういう意味に取っちゃうんだなぁ。」 そう言って一人で納得して去って行く。自分だけが分かっているというのを強調したかったのか。 コイツの手口は、ワザと質問し、相手が間違えるのを見届けてから初めて自分の意見を言うのだ。いわば「後出しジャンケン」。下衆(ゲス)な方法で優越感に浸るのだが、相手に正解を言われた場合はそれ以上何も言わない。 まあ、これは極端な例だったが、写真にしても英語のタイトルを付けているものを時々見掛ける。 いや、別に英語のタイトルが悪いと言っているわけではない。外来語として広く認識されている英語ならば、タイトルとして誰もが理解可能であろうかと思うし、効果的な場合もあるだろう。 だが、普通の生活でほとんど接しないような英語や、ともすれば発音さえ分からないような英語を選んで使っているものがある。同じ意味の平易な英単語も他にあるのに、なぜか馴染みの無いほうを選ぶ。 最近のポップミュージックは洋楽の影響を受けて英語のタイトルが多いが、そのミュージシャンのイメージに合わせた結果なので、それは許されるだろう。 だがどう見ても、外国の風景でもなく、外国人が写っているわけでもない写真に「instantaneous」とか「immortality」などの長くて見づらい単語を使っているのを見ると、写真を観るほうの眉が歪む。 もし本人の前でこの英単語の読みを間違えたり、意味を訊いたりなどしたら、それこそどんなレクチャーが始まるか・・・。本人の前でなくとも、そのようなタイトルを付けた心理状況を察して気持ちが悪くなり、写真どころの話ではない。 ---------------------------------------------------- [258] 2001年04月22日(日) 「メーカーとユーザーの役割」 我輩は仕事でデジタルコンテンツを制作することがある。マクロメディア・ディレクターなどのツールを使い、いろいろな取扱い説明用CD−ROMを作ったりする。 制作にとりかかる前、この仕事を出した顧客との打ち合わせを行い、「どのようなシナリオにするか」、「画面構成はどのようにするか」などを協議する。そしてその結果に基づいてデモンストレーション用の画面を制作し、実際に画面上で顧客に確認してもらった後、実際に制作が行われることになる。 さて、制作途中で顧客から「制作状況を知りたいから、現時点での完成分を見てみたい」と言われることがある。断る理由は無いので見せると、その場で注文が出てくる。 「ボタンのデザインを変えて欲しい。」 「表示する配置を変えてみよう。」 「メニュー画面を追加してみよう。」 このように言われると、今まで制作したものが全て変更となる。デモンストレーションの段階で手直しが出来たはずの問題であり、あまり上手くない仕事の進め方だ。 顧客は制作側の苦労はあまり認識していないのかも知れない。金の折り合いが付けば問題無いと考えているだろう。そのように軽く考えてもらうと、制作現場は辛い。 だが、完成品を考えるならば、やはり悪いと思われる点は改良せざるを得ない。苦労が伴うが、やる以外無いのだ。中途半端な製品などを作っても、結局は意味が無くなってしまうからな。少なくとも我輩はアルバイトではないのだから、製品という目的を考えるならば、苦労を飲み込み、より良い製品を作るよう努力するだけだ。 先日、カメラのカラー液晶についての雑文を書いた。 それについて色々な反響があり、大変嬉しく思った。しかし少々困惑したのは、その多くがカメラメーカー側の立場に立ったものであり、消費者の要望という立場が少なかった点である。 カメラを趣味としている者は紳士が多いのかも知れない。 相手の苦労を知ると、どうしても強く要求することが出来ずに、自分の要求を既存のラインナップの範囲内で収めてしまうのだろうか。我輩の仕事の時のように、相手の苦労も知らずに要求だけを突きつけるような者はほとんどいないのだろう。 しかし、どんなに枯れた技術であっても、新しい分野に盛り込むためには、いくつかの改良無しでは不可能である。これは当然のことだ。そのような改良を施す苦労を消費者に悟られるようになってはならぬ。ましてや、消費者にその苦労を同情されるようになってはおしまいだ。 苦労するのがメーカーの仕事ではないのか? そのために我々が高い金を払っているんじゃないのか? あまりメーカーを甘やかせると、ますますその進歩はニーズとかけ離れたものとなり、「出来るからやる」「出来ないからやらない」という風潮を助長させることになろう。その結果が、使いもしない多機能のオンパレードである。そして、必要な改良については「出来ません」のひとことで済まされる。 出来ないならば、出来るように工夫するのがメーカーとしての、そして技術者としての使命である。偉大な先人たちは、そうやって日本をカメラ大国にのしあげてきた。 我々消費者は、難しく考える必要など無い。どんなものを盛り込むにせよ、苦労は必ず伴うものだ。ユーザーが心配する苦労とは表面上のものでしか無く、そんな一部だけを心配してもあまり意味は無い。それは1000の苦労のうち、たった2〜3の苦労でしかないのだ。それならば、ユーザーは軽く考えることにしようではないか。 単純に、「こういう製品も欲しいな」と要求するのみ。メーカーはそれを貴重な意見として受け止めるべきだ。 少なくとも我輩は、「出来ません」で納得するような物分かりの良いユーザーではない。「自分に必要かどうか」、それだけが判断基準である。 カラー液晶というのは賛否両論があるのは当初から判っていた。しかも正直言って我輩にとっては液晶の問題など、どうでもいい話である。しかし、だからと言ってメーカーの怠慢を許すわけには行かない。ダイヤル式カメラを潰してまで登場させた「最新型」のカメラがこの程度なのか? カラーディスプレイの件は、問題を具体的に考えやすくするための材料に過ぎぬ。 ニーズは多様化しており、「これが全てのユーザーを満足させる」という究極の1台などあり得ない。選択の余地の無い今、製品のバラエティを増やすためにとにかくカラーディスプレイ(液晶でも何でもいい)を出すべきだ。モノクロ液晶だけしか無い現状は、消費者の選択の機会を奪う行為である。ボディカラーだけを変えるような現状では意味は無い。 カラーディスプレイの問題は、我輩がかなり譲歩してメーカー側の立場で考えたつもりである。闇雲に不可能なことを要求してはいない。ゼロの状態から液晶を開発せよなどと言う話ではないのだから。 消費電力の件にしても、液晶ディスプレイを採用すればカラーはモノクロとそれほど消費電力は変わらないはず。暗い場面でバックライトが必要になるのは、モノクロもカラーも同じこと。 製造コストにしても、最初は高くつくだろうが、携帯電話やパソコン、携帯端末に使われることを考えれば、数十万円のカメラで吸収できないとは考えにくい。 耐久性にしても、ニコンF3で初めて液晶を導入した根性があるなら問題無く改良出来るはず。何もドットマトリクスでなければならないわけでもあるまい。逆にドットマトリクスにしないほうが、反射式液晶としては視認性が良くなるだろう。 高性能のカメラを上から与えられるだけで満足し、それで一喜一憂するという姿勢はもう終わった。 ユーザーがそれぞれの要求をメーカーに突きつけ、メーカーがそれを実現させるべく努力するということが、製品の健全なる進化に繋がると信ずる。努力しないメーカーは淘汰されるだけ。実に単純な原理だ。 ユーザーは金を出して口も出す。メーカーは金を受け取り努力する。それが、メーカーとユーザーの役割というものだ。 ---------------------------------------------------- [259] 2001年04月24日(火) 「敵ながら見事よ」 我輩は、基本的には液晶表示式カメラを必要としない人間である。データのカラー表示も果たせないそれらのニブいカメラを横目に見つつ、自分の大脳に直結したダイヤル式カメラで写真を撮る(参考:雑文228「マジック・ショー」)。 しかし、我輩が一目置く液晶表示式カメラがある。 それは「Canon T-90」。初期の代表的液晶表示式カメラである。 T-90は15年以上も前に登場したにも関わらず、現在のカメラと比べても全く遜色は無い。もちろん、評価の視点が違えば全く価値が変わることは理解しているが、T-90の思い付く限りのスペックを並べるだけで、その多機能・高性能ぶりを垣間見る。 電子ダイヤル採用 3種の測光方式 後幕シンクロ 最高8点のマルチスポット測光 ハイライト・シャドーコントロール 秒間4.5コマモータードライブ 「多機能」と言うと「てんこ盛り」というイメージが強い。簡単なことをわざわざ複雑にしてカメラの機能に加えている最近のカメラの影響と言えよう(参考:雑文134「スパゲティ」)。 だが、T-90の多機能は、手動では難しいことを簡単にしようとしている。特に、8点マルチスポット測光の搭載は、現代のカメラでもほとんど無い。現代のカメラでは、マルチスポットを自動化した「多分割測光」を搭載しているものの、意図を持って撮影に臨む者には、「どう表現されるか現像するまで判らない」という不安が常につきまとう(参考:雑文238「摂関政治」)。 それはつまり、簡単操作を目指したために、意志ある者に対しては不自由を強いているのだ。 技術は進歩したと言えるが、写真哲学は逆に後退したとも言える。 カメラを信じていれば、自分は結果を待つだけである。それは国民が政治に参加出来ない間接民主主義にも似る。政治はお偉いさんに任せておけばいいということか。 そういう意味でマルチスポット測光は、露出の決め打ちが可能な優れた道具である。慣れれば、現像する前に大体の仕上がりが予測出来る。 外装は使い込めば使い込むほどテカリを増すプラスチックボディー、デザイン原案はあのルイジ・コラーニ作T-99であるが(ルイジ・コラーニのデザインが特別悪いというわけではないが、デザインの常識を破った罪は重い。その後、他社が堰を切ったように融けたデザインに走ることになった。参考:雑文005「部外者デザイナー」)、それでもT-90の完成度を認めざるを得ない。「敵ながら見事よ」と言わせしむ。 ただ、T-90はシャッターの劣化が始まっているものが多く、今ではおいそれと手を出せないのが残念だが・・・。 ---------------------------------------------------- [260] 2001年04月25日(水) 「趣味性」 我輩は今まで、コンテンツ制作業務に於いて写真やカメラの技術を利用することはあっても、それを専業とする仕事に就こうと思ったことはあまり無い。 「あまり無い」ということは、少しはあったと言うことだが、ちょっと考えてすぐに諦めている。今思うと、自分の中で趣味性を失わせたくなかったからだろう。 写真だけの話ではなかろうが、趣味と仕事は違うもの。 「仕事」の本質とは、「求められる」ということである。 日本に住む我々は、金さえあれば不自由の無い生活を送れる。住居に住み、食べ物を食べ、電気を使ってテレビを見たりエアコンを付けたり音楽を聴いたりする。 それらの全ては他人が為した仕事の結果である。我々は、金を出してそれらの恩恵を受ける。なぜなら、我々1人1人は家を建てることは出来ない、食べ物を作ることは出来ない、電気を作ることは出来ない、テレビを作ることは出来ない、音楽を作曲することは出来ない・・・。 複雑に発展した現代の社会に於いて、全てのことを1人の人間がまかなうこと、つまり「自給自足」は不可能であり非効率的である。だから、それぞれに担う役割を分担し、それを「仕事」とするのだ。それ故、仕事とは「求められる」ことだと言える。 さて、我輩が写真を専業としなかったのは、「趣味性を失わせたくなかったからだ」と先ほど書いた。もちろん、写真を専業とするには「技術」や「感性」や「熱意」などが必要となるだろうが、そこを考慮する以前に我輩が突き当たった問題が「趣味性」の問題なのだ。 仕事では「求められる」ものを生産しなければならない。そうでなければ対価を支払われない。仕事での評価は、「売れてるカメラマン」か、「売れてないカメラマン」かのどちらかしかない。いかに信念を以て写真を撮ろうとも、売れなければ生活は成り立たない。 売れてないカメラマンが写真を仕事とするためには、気の進まない撮影も受けざるを得ない。その分、自分の撮りたい写真は撮れなくなる。 写真に於ける「趣味性」とは、端的に言えば「独りよがり」と言える。 たとえ、多くの者から共感を得たり、「趣味が高じて・・・」ということがあったとしても、それはあくまで、たまたまそうだったということに過ぎない。 前にも紹介したが、鉄道写真を撮る者の中で、都市部の車両の記録写真を撮る者がいる(参考:雑文015「写真というものは・・・」)。 都市部の車両は、ちょっとしたパーツの違いでいくつもの分類に分けることが出来るという(我輩自身は詳しく知らない)。そのような細かいところを突き詰めて資料写真化しようとすると、どうしても同じ背景や同じアングルで数をこなすことになり、写真的に見ると単調にならざるを得ない。 しかしそのような写真は、誰かに求められている訳ではない。撮影者本人が、自分だけの資料として求めているだけである。故に、それは疑いもなく趣味性の高い写真と言える(後世において貴重な資料として位置付けられることはあるかも知れないが、撮影時点に於いては趣味性以外のものではない)。 我輩も、写真には自分の趣味性を求める。 北九州の平尾台や山口県の秋吉台などのカルスト台地と石灰岩、大分別府の地獄巡り、島根県の鬼の舌振(おにのしたぶるい)などの写真を撮ったことがある。それは、我輩の地質学的興味を引く。しかしそこは観光地であるため、自分自身も観光的な気分になってしまう。そうやって撮った写真は、表面的にはそこそこキレイな写真に写った。 だが、何か物足りない。それは、写真の情報不足と視点の甘さが原因だった。 キレイな光、工夫ある構図・・・。そんなものは我輩が求めているものではなかった。しかし、自分の求めるものに気付かなかった我輩は、しばらくは「キレイな風景写真が自らの欲するものだ」と思い込んでいた。 夕日で紅く染まった山々の美しい姿・・・。だがそれによって見えなくなる情報があるとするならば意味は無い。如何にキレイな写真であろうとも、自分の求める情報の乗っていない写真には趣味的価値を見い出せない(もちろん、必要な情報を盛り込んだうえでキレイな写真というなら言うことなし)。 自然の造形を、十分な情報と視点を込めた写真で表現したい。それを自分自身が鑑賞することによって、表面的には判らない自然の動きを頭の中で再現させる。 それは、砂丘に現れる風紋の形を通して目に見えない風を見るかの如く、地形というものを通して目に見えない自然を見るということだ(参考:雑文037「ネイチャー・フォト」)。我輩が風景写真を撮る動機として、それは一番大きく重要なものである。 そのために、放送大学の「日本の地形」や「固体地球」などの講義をテレビで視聴したり(受講手続きはしてない)、竹内均の地質学・地勢学の著書などを読み、それによって知識を広げるたびに、あらためて自分の写真の中に再発見をしたりする。自然のダイナミズムについての驚きと共に、写真の持つ情報量にも驚くのだ(参考:雑文081「写真の情報量」)。 そういう意味で、我輩が趣味性を以て撮影した写真は、基本的に見飽きることなどあり得ない。そして我輩のそういう写真は他人とは感覚を共有出来ない。それは我輩だけの写真の愉しみである。 一般的に見る美しくキレイな写真は、多くの者の共感を得るだろう。そして、その共感を得ることが、自分の喜びにも繋がる。そういう意味で、インターネット上で自分の写真を公開することは、写真を撮る原動力ともなるに違いない。 だが、本当にそのようなキレイな写真を撮ることが自分の趣味に合うのかを、突き詰めて考えたことがあるだろうか。自分の本当に撮りたいものを撮れているだろうか。 「写真を撮りたい」と最初に思った時、何が自分にそうさせたのか。それは、自分が写真を趣味とするために常に頭に置いていなければならぬこと。 もし自分を偽り、単に共感を生むだけの写真を撮るようになったならば、それはもう「無償の仕事」である。自身を追求することを止めたものに、趣味性はもはや存在しない。 我輩は写真を趣味としている。だから、他人の共感を考慮せず、独りよがりで邁進する。 自分自身を知り、その要求を満たすため、我輩は迷い無くシャッターを押し続ける。 ---------------------------------------------------- [261] 2001年04月27日(金) 「優劣」 第二次大戦中、ドイツはナチスによる洗脳によって、「純粋なるゲルマン民族こそが地球上で最も優れた存在である」と信じた。そして、民族浄化と称してユダヤ人を劣族と位置付け、地球上からの消滅を謀り、大量虐殺が行われたのだ。 先住民の迫害にしても、黒人差別の問題にしても、あるいは身近な例として男女差別の問題にしても、その根本は「どちらが優れているか」という意識が根本にある。そして、劣っているとみなしたもの(実際には劣っていなくとも)は消滅あるいは排除しなければならないという理論が働くのである。 昔、「AEかマニュアルか」という議論があった。現代では、「AFかMFか」とか、「金属ボディかプラスチックボディか」とか、「液晶式かダイヤル式か」とか、「銀塩カメラかデジタルカメラか」という議論が起こる。 これらは要するに、どちらが優れているかという議論であり、その議論の目的のほとんどは、一方が一方を排除しようとすることを動機としている。 「モノクロ液晶をカラー液晶にする」というような、片方の性能を包含した上での性能向上ならともかく、タイプの違う「液晶式とダイヤル式」などの優劣を決めることは出来ない。それはもはや、使う立場ごとに異なる価値観である。 たまに「銀塩カメラを全廃し、デジタルカメラ一本にすべきだ」などという極論を論じる者がいるが、我輩の目には、他人のニーズを無視した狭い視野の愚かな人間と映る。概してそのような者の主張は一見論理的のように見えるが、実際は独りよがりで説得力が無い。 我輩がここで「ダイヤル式カメラを使いなサイ!」と主張しているのは、市場の全てをダイヤル式で支配しょうなどという考えでは決して無い。だからこそ、「我輩の主張が気に入らなければブラウザを閉じよ」と冒頭で明言しているのである。 我輩の真意は、ニーズに応じたラインナップを求めているということだ。そのために、もっとダイヤル式の操作性の良さを伝えようとしている。 ダイヤル式の良さを知らず、選択の余地無く液晶式を使っていた者に、液晶式の他にダイヤル式というものがあることを知らしめることが自らの役割と考えた。ダイヤル式を熟知してもなお液晶式を好むならば、それはそれでよいのである。 だが現実の市場には、選択の余地がほとんど無い。ダイヤル式のカメラを買おうと思ったならば、その条件だけで製品が特定できるほどに選択の余地が無いのだ。これはダイヤル式に限った話ではない。 このような多様性の無い市場は異常と言える。いくらニーズが無いからと言っても、作らなければますます売れない。まさしく悪循環。 カメラメーカーは、売るための努力を知らない。「ただ、作ればいい」と思っている。作れば量販店が売ってくれる。だから量販店には逆らえない。量販店の要請によりどんどん価格が下げられ、そのぶん製品がチープになっていく。一時期、カメラマウントがプラスチック製になったことさえあった。 しかし、カメラメーカーにはやるべきことが残されている。 カメラに対する消費者の価値観を広げ、一方向の見方では優劣を語れないということを啓蒙しなけらばならぬ。 ただ求められるものを競争して作るのではなく、ユーザーを育てることこそがメーカーの役割ではないのかと思う。それが巡り巡ってメーカーに利益をもたらす。そして、メーカー間の適度な競争原理を残しつつ棲み分けを可能にするだろう。 ---------------------------------------------------- [262] 2001年05月05日(土) 「気心の知れたカメラ」 書籍の電子化を進める我輩がこのたび、自分の所有する「月刊CAPA」の完全電子化をすべて完了した。 これで「月刊CAPA」は心おきなく廃棄処分出来る。大きな紙の束が消えるのは気持ちがいい。CD-Rに記録すると15枚分にもなったが、CD-Rがいくら増えたところで紙の容積と重さには勝てぬ。しかも「月刊CAPA」はここ5〜6年くらいは購入していないため、この雑誌についてはこれ以上増えることは無いだろう。 さて、書籍の電子化は閲覧頻度を向上させることにも繋がる。 以前ならば物理的に探し出すのが億劫で、余程の動機が無ければ過去の雑誌を開くことは無かった。しかし、デジタルデータになると、物理的制約が消える。 我輩自慢のノートパソコンで閲覧すれば、縮小することなく横幅が等倍表示で見渡せる。 そうやって見ていると、時間が経つのを忘れ、過去の記事に自分の意識が入り込むような錯覚に陥る。 1989年4月号には、「Canon EOS630」が「電撃的に登場」となっているのを見つけ、懐かしく読み入った。 ------------ 回想モード ------------ 当時、我輩は「MINOLTA α-7700i」ユーザーだった。2台のボディにそれぞれ24mmと100-300mmを装着していた。しかし、その使い方が少し荒かったのか、アップダウンレバーがよく誤作動を起こした。撮影中、もう一台のカメラを持ち替えると、それが1/2秒などという設定になっていたりしたのだ。 恐らく、レバーが身体のどこかに当たってしまったのだろう。 我輩は一度露出を決めると、それをそのままマニュアルモードで固定させる(参考:雑文042)。ライティング(太陽)が同じならば、露出が変わらないのは当然であり、同じようなシチュエーションならば露出を変える意味は無い。 たまに雲で翳ったりする時には加減を行うが、基本的にマニュアルで固定する。そして、保険の意味で自動段階露出(AEB)で押さえておく。 現在以上にバラつきの多い当時の分割測光では、これは露出をハズさないための方法だった。 しかし、その露出固定はアップダウンレバーの誤作動で台無しとなる。1度や2度ならば目をつぶるが、我輩のカメラの提げ方が悪いのか、かなりの頻度でそれは起こった。 それ以外の点に於いては「MINOLTA α7700i」は良いカメラだったが、やはり我輩とは相性が良くないと考えざるを得ない。 そこで、我輩は別のカメラを探すことにした。しかし選択肢は多くなかった。 ミノルタ以外で信頼出来るAFカメラはキヤノンしか存在しなかった。しかし幸いなことに、キヤノンには電子ダイヤルという強力な武器があった。我輩はこれに期待をかけた。 しかし妥協すべき点が無かったワケではない。 当時のキヤノンEFレンズに100-300mmレンズはあったものの、それはミノルタのものよりかなり大柄で気が萎えた。そこで70-210mmレンズで我慢することにした。もちろん、当時は超音波モーター(USM)内蔵レンズは20万円以上のレンズにしか採用されていなかったため、その70-210mmレンズは非常にやかましいノイズの発生源でもあった。 だが、それでも電子ダイヤルのメリットで十分に元がとれた(その後、他社も一斉に電子ダイヤルを採用するのはご存知の通り)。 アップダウンレバーでは、レバーを左右どちらかにスライドしてそのままにしておくと、設定値がどんどん変わる。1/250秒に設定させていても、いつの間にか1/2秒になる可能性がある。電子ダイヤルならば、回転量に応じた変化しか起こらず、仮に起こっても復帰は迅速である。 しかもある程度のクリック感があるため、設定変更には相当量のトルクが必要であり、事実、我輩の使用した限りにおいては誤作動は皆無だった。 ------------ さて今回、我輩は過去の記事を読むことによって、当時の意識に戻っていた。 「最新・最速イオス」の見出し。確かにEOS630は当時の最速だった。だが、今ではその名前を覚えている者は少ない。EOS650/EOS620とほぼ同じデザインに埋もれた名機。 だが、いくら過去のカメラであろうとも、当時は最速として実際に使っていた。もし本当に隠居老人のように力が衰えたとしたら仕方無いことだが、カメラの性能は昔も今も変わらない。EOS630が使えないカメラだとするならば、当時でも使えないカメラだったはずだ。そうではないことは、過去のオーナーだった我輩が一番良く知っている。 どこで線を引くかは、写真を撮る自分自身が決めることだ。Nikon F5レベルでなければ使えないと言う者もいよう。あるいはMINOLTA α-7000で十分だという者もいよう。我輩の中では、AFカメラの中でEOS630が一番バランスのとれた良いカメラだ。これより前でも後でもいけない。 惜しむらくは、中央部重点測光かスポット測光が無いことか。スポット測光ではなく部分測光はあるが、やや中途半端で使いにくい。分割測光(6分割評価測光)については、そのクセを掴むのが難しく、AEBでカバーする以外ない。 前にも書いたが、分割測光は想定に無いシーンでは意外な予測値を出すことがある。カメラ側のアルゴリズムがシーンを取り違えば、全く期待に沿わない結果を出すのだ。いくらカメラが「これが適正値だ」と言おうとも、撮影者が違うと思えばそれは適正値ではない。だから、サブマシンガン的使い方しか出来ない(参考:雑文234)。露出の加減を自分の表現手段として捉えるならば、カメラ任せの分割測光にはAEB機能は欠かせないことになる。 EOS630は、今までのEOS620とは違い、AEB機能が1回ごとにキャンセルされない。一度設定しておけば、解除するまでAEB機能が保たれる。これが、同じように見える600系イオスの中でもEOS630を選ぶ理由なのだ。精密射撃が出来なければ、このEOS630はサブマシンガンとして位置付けよう。 そうなると必然的に、秒間5コマの連続撮影スピードという条件は外せなくなる。もしこれが毎秒3コマだと1回のAEB撮影に1秒かかることになり、無視できない問題だ。その意味でもEOS630は実戦的と言える。 だが、600系イオスのマニュアル露出のやりにくさは否定出来ない。ボタンを押しながらダイヤルを回すという絞り設定や、ファインダー表示の「CL,OO,OP」という表示も直感的ではない。 だが、我輩がマニュアル露出を使うのは、「露出値を固定させる」ということが目的であるから、物は考えよう、不用意に動かない絞りは逆に好都合だと受け取る。EOS630はカスタムファンクションの設定で、絞りとシャッタースピードの操作も入れ替え出来るのだ。露出量の増減ならばどちらかのバリューが可変であれば問題は無い。 更に、現在では当たり前の「内蔵ストロボ」についても、我輩にとってはジャマなだけだ。ストロボが必要ならば、最初からデカいのを付けるさ。カメラのバッテリーに寄生する軟弱なストロボなど要らぬ。 そもそも、ストロボ内蔵型カメラは無意識にかばってしまい気疲れするのが困る。ぶつかりやすいペンタ部がシンプルであれば安心していられる。我輩の初代のEOS630は、ペンタ部の塗装がハゲて銀色(恐らく電磁波を遮断するための金属皮膜)が見えていたものだ。頼もしい面構えだった。 我輩に気を遣わせるカメラなど、使い捨てカメラにも劣る。 シャッター音については、モーター音よりもミラーのバタつきがうるさい。だから、レンズを装着してマウントが塞がると音が変わる。外付けモータードライブとは音質が違うが、最近のAFカメラのようなマイルドで頼りない音ではないから、まだ許せる。 ただ残念なのは、シンクロターミナルが無いことだ。 もちろん、ホットシューからシンクロターミナルを増設するアクセサリも発売されているだろうが、それではスマートじゃないな。そうなると事実上、ストロボでのライティングは楽しめない。これだけが残念。 話によると、T90の時のように、シンクロターミナル増設改造が出来たそうだが、今でもやってくれるとは考えにくいし、だいいち面倒くさい。 さて、今回なぜこのようにEOS630のことを長々と書いているのかというと・・・、実は、そのEOS630を手に入れたのだ。 <<画像ファイルあり>> ほとんど新品同様 <<画像ファイルあり>> このレンズは付属していた これ以上カメラボディを増やさないと心に決めていたのだが、このカメラだけは特別としよう。 この頃のカメラは、現在シャッターに油(恐らくショック吸収用のモルトプレンが劣化したものか)が付いていることが多いのだが、このカメラは既にシャッターの交換を終えているもので、当然ながらメーカーでも同じような不具合が再発しない対策はとっているはず。 同一マウントに対してカメラ1台だけというのは戦略的な使い方が難しいかも知れないが、あくまでサブマシンガンの位置付けであるから、作品をじっくり作ろうとするような場合ではなく、何も考えずにバースト的に撮りっぱなす用途に使おう。 せっかくのAFであるから、広角ではなく望遠寄りの大口径レンズだけに絞ろうか。以前使っていた「EF100mmF2.0」が一番バランスが良い。気心の知れたカメラとレンズの組み合わせだ。昨日まで使ってたかのように手に馴染むだろう。 ---------------------------------------------------- [263] 2001年05月06日(日) 「気になるカメラ2」 以前、「フジ・クラッセ」について書いた。そして、「気になるカメラだ」と書いた。しかし、定価\77,000という値段のため、なかなかお近付きにはなれなかった。 そうこうしているうち、さらに気になるカメラが登場した。 「リコー・MF−1」。 このカメラ、情報通ならばかなり前にその存在に気付いていたはずである。実際、我輩もちょっと前から雑誌で見つけて気になってはいた。 ただ、そのカメラのイラストを描く心の余裕が無かったため、今まで雑文に書くのを延ばしていた。しかしやっと、イラストを描く気分になった。 網点の粗い雑誌の不鮮明な写真を基にして描き起こしたにしては、なかなかよく雰囲気は出ていると思うが。 <<画像ファイルあり>> リコー・MF−1 さて、このカメラのスペックで我輩が気になる部分を挙げてみることにする。 プログラムAE/絞り優先AE 自動段階露出(AEB)機能 露出補正+-2EV 多重露出 外部ストロボ用ホットシュー装備 AF/MF(目測式)切替可 ケーブルレリーズソケット装備 単3電池2本使用 フィルター径37mm 定価\35,000 プログラムAE/絞り優先AEについては、必ずしも一人の人間が両方を使い分ける必要は無い。どちらか好きな方を選べば良い。 安価なカメラながら選択肢があるということに注目したい。 自動段階露出(AEB)機能については、リバーサルフィルムを使う撮影の場合、適正露出というのを決定付けるのは難しい。明るめの写真が良いと言う者もいれば、暗めのものが渋くて良いという者もいる。さらに写真の内容によってその評価は変わるのであるから、いかに正確な露出計を搭載したカメラであろうとも、すべての人間が満足する露出は得られないということになる。いくらカメラが「これが適正露出です」と言おうとも、人間が違うと思うならばそれは適正露出ではないのだ。 どこをどのように測光しているかが見えないコンパクトカメラでは、弾幕を張るサブマシンガンの如く、その命中率をカバーするために露出をバースト的に散らすほうが確実。そのために自動段階露出というのは有用である。 露出補正については、初っぱなから露出補正を使うことは無いだろうと思う。露出計のクセを掴む前に露出補正をするのは単なるヤマカンでしかない。しかし、長く使い続けるうちに、露出補正を使う機会が出てくる。オート専用機では露出補正が唯一の露出加減法なのだ。 また、自動段階露出と組合せて使うことも、露出補正の重要な使い方のひとつであることを思い出そう。 多重露出も出来るらしいが、これはほとんど使う機会は無いかも知れない。我輩に限って言えば、今までに多重露出を使ったことは両手の指で足るほどしか無い。だが、他のコンパクトカメラでは不可能な機能を持つということは大きなことだ。もし、多重露出だけのために一眼レフを持ち出さねばならないシーンがあるとすれば、代わりにこのコンパクトなカメラで済む(実際は多重露出だけ出来ればいいというシーンはあまりないだろうが)。 外部ストロボ用ホットシュー装備は、外見上も強い特徴となっている。これにより不釣り合いなほどの大型ストロボさえも装着出来る。あるいは市販のアダプターをかまして多灯ライティングしてもいい。 実用的な使い方としてまとまるかはともかく、色々と遊べる余地があるのはコンパクトカメラとしては貴重な存在であることに違いない。 AF/MF(目測式)切替可である。MFはAFのタイムラグを嫌う場合に使うと良いかも知れない。MFに切替えると本当にタイムラグが短くなるかは分からないが、迷いを無くすためにMFを使っても良い。何しろコンパクトカメラは撮影時にはピントが確認出来ないのだから、敢えて前向きに目測で使うのは心配事を無くすという意味がある。 昔の安価なコンパクトカメラは目測式が当たり前であったため、目測でも十分に実用に足る。 最近は一眼レフでさえ省略されているケーブルレリーズソケット装備だが、このようなコンパクトカメラに装備されているというのは驚きに値する。何でもかんでも専用品で固める現在のカメラでは、シャッターのレリーズさえも専用リモコン無しには不可能である。そんな中で、汎用のケーブルレリーズが使えるというのは、今までのカメラに対する反発心のようなものを感ずる。これは、「カメラ好きが設計したカメラなんだ」というシルシのようなものか。 (2001.11.03追記:実際に購入してみると、ケーブルレリーズではなく専用のレリーズスイッチのコネクタであった。雑誌写真工業の情報は間違いだ。・・・ガッカリ。) 電源は単3電池2本を使用する。どこでも手に入る単3電池が使えるのが良い。急場しのぎで他の電気製品から電池を持って来ることも出来る。 フィルター径37mmということだが、最近のコンパクトカメラはレンズ収納式でフィルターなどの余計なものは装着出来ないようになっている。しかし、これはフィルターネジが切ってあり、必要ならばフィルターが使える。 定価\35,000というのは我輩にとっては大きなスペックと言える。大事に使うべきカメラならば気安く使えない。高級カセットデッキを大切に使うよりも、実用に徹したラジカセを使い潰す。そういう使い方をするためのカメラを欲している。それにピッタリなのがこのカメラなのだ。 安くて十分な機能を持ったカメラ。壊したらまた新しいのを買えばいい。 レンズは30mmF3.9だということで、色々なニーズの中間をとったという感じがする。24mmの視点を持つ者、28mmの視点を持つ者、そして35mmの視点を持つ者それぞれに示された和解案。それが30mmということか。 もしこの和解案を受け入れないならば、その人間は一眼レフでなければダメということかも知れない。 まあ、ズームレンズが付いていれば、もっとユーザー層が厚くなるのだろうが、そのために高価なカメラになっては意味が無い。 ムービーカメラにズームレンズが付いていないのは致命的だが、スチルカメラにズームレンズは無くても何とかなる。どれがズームレンズで撮影したものかという区別は、出来上がった写真を見ただけでは判らないのだから、当然と言えば当然だ。 しかし危ういところだった。もしフジ・クラッセを急いで買っていれば、今頃は後悔していたところだ。もっと安く、もっと遊べる、もっと実用的なカメラが現れるなどとは、その時は夢にも思わなかった。 危ない、危ない。 ---------------------------------------------------- [264] 2001年05月08日(火) 「標準レンズ購入」 昔は「標準レンズ」と言えば50mmが当たり前であった。 安く、コンパクトで、明るい。カメラを買う時はセットで購入する、カメラの付属品のようなレンズであった。 だが今は50mmと一緒にカメラを購入する者はほとんどいない。たいていはズームレンズを購入する(もちろん50mmにこだわる人間もいるに違いないが、そういう者は50mmをカメラとセットで買うことはしないだろう)。 そういう意味で、もはや「標準レンズ」という定義は焦点距離の問題ではなく、強いて言うならば「カメラに付けっぱなしにしておくレンズ」というところか。 昨日の会社帰り、EOS630用に使うレンズを購入するためにヨドバシカメラ上野店に寄った。カメラに付けっぱなしにするためのレンズ、「標準レンズ」を買うためである。 狙うは、「EF100mmF2USM」。 我輩が最初にこのレンズを購入したのは何年前だったろうか。当時は新製品だったため、もちろん中古での選択肢は無く、新品で購入した。 だが、中判カメラへ全面移行するタイミングと重なってしまい、ほとんどその性能を引き出す間もなく売却された。ほぼ同時期に購入したEF200mmF2.8USM(初期版)も同様であった。 今回の購入では、中古を選択するという方法もあった。ところが中古店の値段を見ると、新品の値段と1万円前後しか変わらない。この程度の差額を節約するくらいならば、新品の確実さを選択したほうがいいに決まっている。 そういうわけで、ヨドバシカメラに寄ったのだが、店頭では他のEFレンズも展示されており目移りしてしまう。特に気になったのは「EF28mmF1.8USM」、「EF50mmF1.4USM」、「EF85mmF1.8USM」、そして「EF135mmF2USM」だった。 28mm。広角で超音波モーター内蔵というのは珍しい。今までは高級レンズにしか無かった。だが、EOSで使うレンズで広角というのはイメージ(自分が撮影しているイメージ)が湧かない。やはりAFを堪能するためにも少し長い焦点距離のレンズを選びたく思う。 50mmF1.4というのはメーカーの基準となるレンズのため、「まずはこの1本」という意識がある。しかし今回は必要最低限に絞ろうと思っているので止めよう。必要性を感じた時に買えばいい。 85mmは100mmとほぼ同じ外観であり、同じく中望遠。だが、いずれ50mmを購入した時に85mmの存在感を保てるかが心配だ。これも止めておこう。 135mmはかなりコンパクトに凝縮されたような印象を受ける。昔、「Ai-Nikkor135mmF2」を使った時に、あまりの径の大きさに持て余し気味だったものだが、このレンズは実にスマート。だがそれでも、カメラに付けっぱなしにするレンズとしては大きい。 結局、バランスの面で100mmで納得し、店員をつかまえて要求した。 <<画像ファイルあり>> まるで水がいっぱいに溜まった容器のよう。ガラスの塊という感じで思わず手に取ってしまう魅力がある。 <<画像ファイルあり>> カメラに装着すると、カメラそのものの迫力を倍加させる。レンズを通ってくる光を後ろから覗くことよりも、前から見たいと思わせる。 店員が「保護用フィルターはお付けしますか?」というので、「要らない」と答えた。もしこれが貴重なMFレンズならば必ず付けてもらうところだが、AFレンズならばいつでも新品が手に入るのだから、特に気にすることも無い。 しかし新品のうちに外観写真を撮ることは忘れない。レンズのその大きな前玉は、大きく深呼吸をして光を溜め込んでいるかのように見えた。 このレンズ、写真写りがなかなか良い。フィルターでレンズの曲面を隠してしまうのがもったいない。 よく、「車を運転する時、乗っている間はその車のデザインを楽しむことが出来ないのが残念だ」という話がある。 カメラの場合も、撮影をしている時はレンズを通った光をカメラの裏側から覗いているため、カメラやレンズの外観を楽しむことが出来ない。それが実に残念に思う。 くだらない話でもあるのだが、このレンズを装着したEOS630は、まじめにそんな話をしてしまいそうな雰囲気を持っている。 ゴールデンウィークも過ぎたことであるし、このレンズの性能を引き出すのは後のことになろう。まあ、あまり一つの機材に入れ込むと、他の機材がヤキモチを焼くであろうから、そのうち必要になった時に使うことにしようか。 どのみち、EOSを使うにはこのレンズしか無いのだからな。いずれ、世話になるEOS630の標準レンズ。 ---------------------------------------------------- [265] 2001年05月10日(木) 「中身の観察」 先日購入した「Canon EOS630」、購入後しばらくしてバックライト用EL照明が点灯しなくなった。まあ、実用上問題無いと思ったが、少し気になったのでカメラ内部を見てみることにした。 もちろん、修理出来ればそれに越したことは無いのだが、とりあえず中身を見てみたかったという軽い気持ちでカバーを開けてみた。 ELが光らなくなる直前、まるで接触不良のようにチラついていたため、もし本当に接触不良であるなら、その箇所を見つけてハンダ付けすれば我輩でも直せる。 そう期待をもってネジを弛めていった。 <<画像ファイルあり>> まず、前面カバーが外れる。メカ駆動用のモーターとピニオンギアが見える。最初、これは巻き戻し専用モーターかと思ったが、レリーズすたびに回転するので、シャッターチャージにも関係するらしい。 <<画像ファイルあり>> トップカバーを開けた状態。カバー内面は金属皮膜が蒸着されている。ちなみに、液晶パネルは取り去った状態であり、その代わりにバックライト用のEL(エレクトロ・ルミネッセンス)が見えている。 <<画像ファイルあり>> 電子ダイヤル部。二重接点となっているのが見える。位置をずらしたブラシにより、ダイヤルの回転方向を知るらしい。その上に写っているのはレリーズ用接点。 <<画像ファイルあり>> 液晶パネル。上部に電気接点があり、導電性ゴムによって接触される。パネルそのものは、バックライトの光を透過させるためにスリガラス的に半透明である。 <<画像ファイルあり>> ついでに下部カバーも外してみた。ELの配線が下部まで伸びているため、ここにEL駆動部(インバータ)があると思われる。 結局、ELの接点は表面上で見える範囲では異状無かった。もっと奥に入り込んだ部分での不具合か。あるいはELそのものの問題なのか。 EL自体は、防湿処理のためかラミネートパックされている。もしかしたら、どこか空気漏れがあるのかも知れない。いや、それが原因であるとするならば、そもそも最初から光らなかったはずか。最初は不安定ながらも明るい光を放っていた。やはり電気的な不具合だろう。 まあ、今回は深追いするのはやめておく。EL照明のためにカメラそのものを壊してしまっては意味が無い。 ・・・その前にメーカーに修理に出すべきか。それは分かってるが、とりあえず好奇心が勝(まさ)ったのでな。 今回はその好奇心のおすそ分けというところである。 (参考までに、「Canon AE-1P」の分解はこちら) ---------------------------------------------------- [266] 2001年05月23日(水) 「焦点距離を意識する」 オリンパスのデジタルカメラの新製品、「OLYMPUS CAMEDIA C-700」の広告が電車内に大きく貼られていた。銀塩カメラの350mm巨大レンズと並べて、38〜380mmレンズ搭載の新デジタルカメラのコンパクトさを謳っている。 しかし、我輩はその焦点距離の数字に違和感を覚えた。それはどう見ても、コンパクトタイプのデジタルカメラの焦点距離の数字ではない。恐らくその焦点距離の数字は、35mmカメラ換算時の値であろう。 想像するに、小さな文字でそのことについて注釈が入っているのだろうが、我輩は目が悪いのでそこまで読むことは出来ない。大きな広告に小さく入った文字など、読むなと言っているのと同じだから、敢えて気にすることもないのかも知れぬ・・・。 レンズの焦点距離というのは、フィルム上に写る倍率(いわゆる画角)の目安となる。 一般的には、24〜35mmあたりを広角レンズ、50mmあたりを標準レンズ、100mm〜300mmあたりを望遠レンズと分類しているようだ。 しかし、これらの分類は、あくまで35mmカメラの話であり、当然のことながら中判カメラなどでは映像を捉えるフィルムの面積が大きいので画角も違ってくる。 我輩の場合、中判を使う時は6x6サイズオンリーである。 6x6の場合、標準レンズは80mm付近となる。フィルムのサイズが大きい分、35mmカメラに比べて長焦点側にシフトしている。50mmにもなると、超広角レンズという分類になってしまう。 最初こそ戸惑うものの、人間の持つ適応能力が有効に働き、そのうち無意識に頭の中で切替えが行われるようになる。 つまり、中判カメラを手にした瞬間、50mmレンズが「標準レンズ」から「超広角レンズ」に見えるのだ。 最近は中判カメラを始める人間も増えてきたそうで、AF化など動きが活発になっていることからも、中判カメラの浸透がうかがえる。 中判カメラのカタログには、35mmカメラから乗り換えてきた者のために、レンズの焦点距離についての換算が載っていることがある。 「35mmカメラ換算では〜mmとなります」 これは、中判の画角が感覚的に理解出来るようになるまでは、自分の頭の中でズレを修正するのに役立つ。 しかし、やがてその換算は必要ではなくなり、自ずと中判カメラの焦点距離に馴染んで画角の目星がつくようになる。 35mmカメラ換算を使わなくなるということは、単に「便利」というだけでなく、描写に重点を置く中判カメラを使う上では大変重要なことなのだ。中判では中判でのレンズ感覚があり、35mmカメラのそれとは明らかに異なる。 さて、デジタルカメラの場合に於いても、中判カメラと同じような問題がある。 一般的にデジタルカメラでは、フィルムに相当する受像素子(CCDなど)の大きさが35mmカメラよりも小さい。 そのため、今度は中判カメラとは反対に、レンズの焦点距離が短焦点側にシフトしている。例えば我輩が使っているコンパクトタイプのデジタルカメラでは、焦点距離が10mm前後とかなり短い。画角は実際に見てみるまで分からない。しかしこれを35mmカメラに換算すると50mmくらいに相当するらしい。そう言われるとなんとなく画角が想像出来る。そして、そのまま深く考えずに納得してしまう。 <<画像ファイルあり>> 6.5〜19.5mmズームレンズ (35mmカメラ換算:35〜105mm) <<画像ファイルあり>> こちらは5.4〜10.8mmズームレンズ (35mmカメラ換算:35〜70mm) 冒頭のデジタルカメラの広告の件では、35mmカメラに換算した焦点距離のみを大きく載せている。そのほうが広告としては分かりやすくインパクトも大きい。注意深く見れば、欄外に本来の焦点距離を小さく載せているのかも知れないが、気付く者は誰もいない。 デジタルカメラに使われる受像素子のサイズは製品によって様々であり、レンズの焦点距離から画角を推測することは困難だ。1つの製品の画角に慣れたとしても、次に新しい製品を導入した時には、焦点距離と画角の関連がまた変わることになる。 それゆえ、デジタルカメラでは焦点距離の数字は、画角を推し量る目安としての意味が無くなってしまった。だから、デジタルカメラの広告では35mmカメラ換算値のみの表記となるのだろう。 画角を知るという観点から見る限り、デジタルカメラでは、正直に記述された焦点距離の数字の意味は完全に失われたと言える。 しかし、焦点距離とは画角の目安として利用されてきたものの、それぞれの焦点距離特有の描写というものもあることを忘れてはならぬ。 例えば50mmレンズならば、どのサイズのカメラで使っても50mmの描写である。画角が違うのはフィルムや受像素子のサイズの違いによるトリミング効果に過ぎず、ボケの具合はあくまで50mmのそれである。 それに気付かず画角のみに意識を置くならば、手にする写真は意図しない結果となるだけだ。 ここでは例として、同距離・同絞り値で撮り比べた写真を以下に掲載した。両者のカメラはそれぞれ受像素子のサイズが違う。そのため、同距離で同じような画角にするためには焦点距離を変えねばならない。 <同距離・同絞り値での撮り比べ> (レンズの焦点距離と受像素子の面積が違う) <<画像ファイルあり>> カメラボディ:Canon EOS D30 レンズの焦点距離:50mm (1/60sec. f4.0 FLASH) <<画像ファイルあり>> カメラボディ:OLYMPUS CAMEDIA C-2020Z レンズの焦点距離:恐らく10mm付近 (1/60sec. f4.0 FLASH) 通常ならばレンズの焦点距離を変えると画角も変わるのだが、この撮り比べの場合では、受像素子のサイズが違うため、トリミング効果によって同じ画角で撮影されている。 一見して判るとおり、背景のボケ具合は決定的に違うものの、遠近感については両者とも全く同じと言っても良い。これは両者とも同距離からの撮影だということに関係する。 いくら両者のレンズの焦点距離がかけ離れていようとも、同距離ならば遠近感は一定である。これは錯覚しやすいので注意が必要だが、ズームレンズで試してみればすぐに判る話だ。超広角レンズで撮ろうとも超望遠レンズで撮ろうとも、撮影位置を変えない限り、両者の遠近感に変化は無い。遠近感とは、唯一、撮影距離に応じて変化するのである。焦点距離で変わるのは、背景のボケ(被写界深度)のみ。 広角レンズの使い方で、よく「主要被写体に接近せよ」と言われると思うが、それは「遠近感のコントロールを撮影距離によってコントロールせよ」ということの現れである。 比較のため、同じフィルムサイズのカメラで焦点距離を変えて撮り比べたものを以下に並べてみた。撮影距離は両者で異なるため、遠近感はかなり違う。 <同カメラからの撮り比べ> (レンズの焦点距離と撮影距離が違う) <<画像ファイルあり>> カメラボディ:Nikon F3 レンズの焦点距離:50mm <<画像ファイルあり>> カメラボディ:Nikon F3 レンズの焦点距離:17mm そういう観点から言うと、やはりレンズの焦点距離を正直に記述することには大きな意味がある。レンズの焦点距離に応じた描写を活かすために、35mmカメラに換算する前の「素」の焦点距離を意識せねばなるまい。 焦点距離の問題に於いて問われることとは、メーカーの焦点距離の記述などではなく、我々の焦点距離に対する意識そのものだ。メーカーから提供される換算値はあくまで目安であり、その焦点距離の描写を保証するものではないと常に意識すべきであろう。 ---------------------------------------------------- [267] 2001年05月27日(日) 「年の差」 我輩とヘナチョコ妻との年の差は7歳。 この差を大きく感ずるならば、まだ若い証拠である。これから年齢を重ね、互いに100歳と107歳になったとしたら、その差をほとんど感じなくなるに違いない。いつまでも不変である年の差は、全体から見た割合が年々小さくなっていくのである。 さて、前回の雑文では、レンズの焦点距離について意識したわけだが、遠近感については文章で簡単に流してしまった。しかし後で読み返してみるとなかなかイメージ的に理解しづらい面があるように感ずる。 そこで、今回は図を盛り込んで遠近感について解説しようと思う。 以下の図は、レンズの焦点距離を変えずに撮影距離だけを変えた場合のケースである。 図を簡単にするために、ここでは凸レンズの代わりにピンホールレンズで示した。ピンホールカメラでは、ピンホールからフィルム面までの像点距離が焦点距離となる。 また撮影距離の問題では、カメラやレンズ鏡胴の厚みは考慮しないこととした。 <撮影距離可変・焦点距離不変> 遠 距 離 か ら<<画像ファイルあり>> の<<画像ファイルあり>> 撮 影 距離aと距離bの差は小さく見える 人物が一定の大きさになるようにトリミングした写真 近 距 離 か<<画像ファイルあり>> ら<<画像ファイルあり>> の 撮 影 距離a’と距離b’の差は大きく見える 人物が一定の大きさになるようにトリミングした写真 このケースでは、当然ながら、撮影距離に応じて被写体のフィルム上の倍率は変化する(像の倍率=像点距離/物点距離)。 しかし、人物の大きさが同じ大きさになるようにトリミング拡大すると、遠距離からの撮影と近距離からの撮影では、明らかに遠近感が異なることが判る。 これは年齢差と同じ原理で、撮影距離が十分に長ければ、背景までの距離「a」と人物までの距離「b」との差が無視できるようになってくる。反対に撮影距離が短ければ、「a’」と「b’」との差は無視できないほど大きな距離と感ずることになる。 これが遠近感の本質である。全ては、差が全体に占める割合の問題なのだ。 次に、撮影距離は同じままで、レンズの焦点距離を変えて撮影した場合を考えてみる。 <撮影距離不変・焦点距離可変> 望 遠 レ ン ズ<<画像ファイルあり>> で<<画像ファイルあり>> の 撮 影 人物が一定の大きさになるようにトリミングした写真 広 角 レ ン ズ<<画像ファイルあり>> で<<画像ファイルあり>> の 撮 影 人物が一定の大きさになるようにトリミングした写真 先程と同じように、人物の大きさが同じ大きさになるようにトリミング拡大してみるが、遠近感については全く変化が無いのが判るだろう。これは、レンズの焦点距離が遠近感に全く変化を与えないことを意味している。 ここでの例は「人物」と「背景」の2点を画面に入れたケースを扱ったわけだが、この2点を奥行きのある物体の端と端に置き換えても理解が広がるだろう。 写真に現れた物体の遠近感による歪みとはすなわち、撮影距離の近さが生み出すものに他ならない。 年齢差(遠近感)を感じさせたいならば近付き、年齢差を感じさせたくないならば遠ざかる。それが写真手法の基本である。そのために必要となるのが、レンズの焦点距離の選択によって適切な像面倍率を調節することである。 厳密な遠近感のコントロールをするには、まず撮影距離を決めるのが先となる。これで遠近感が一意に決定される。そして、その距離で最適な焦点距離のレンズを後から選ぶのだ。 もし、レンズを決めた後に撮影位置を変えるならば、その時点で遠近感はデタラメになる。 もちろん、実際の撮影では選択出来るレンズに限りがあるだろうから、遠近感のコントロールはアバウトにならざるを得ないだろう。しかし、現在は像面倍率を自在に変化出来るズームレンズという強力な武器があるのだから、まず自分の意志を以て撮影距離を決め、それに応じたズーミングで倍率調整を行えるはず。 たまたまその場所にいて、動くのがイヤだからズームで調節する・・・少なくともそんな使い方は止めた方がいいぞ。それならまだ単焦点レンズのほうが撮影位置を調節しなければならない分、遠近感の勉強にはなる。 年の差、意識せずとも忘ることなかれ。 ---------------------------------------------------- [266] 2001年05月23日(水) 「ダメ元修理」 デジタルカメラ「Canon EOS D30」を先日購入した。そのため、今までメインで使っていたデジタルカメラ「OLYMPUS C-2020Z」は使う機会が無くなるだろう予想された。最後に「EOS D30」の外観を撮影した後はその役目を終えることとなる。 気軽なメモ撮影ではもっとコンパクトな「Canon IXY DIGITAL」を使い、本格的な用途では「EOS D30」を使う。 もはや中途半端な存在となった「OLYMPUS C-2020Z」は、友人にでも譲ることにしよう。 ところが、役目を失ったそのデジタルカメラは、自分の運命を察知したのか、突然に異状を起こした。 メインスイッチ兼モードダイヤルには強いクリックストップがあり、「カチッ、カチッ」と設定が出来るようになっている。しかし、ある時それをカリカリッと回すと「ピンッ」と小さな音がしてクリックが全く無くなった。ダイヤルが完全にフリー状態の無段階となってしまったのだ・・・。 それでも動作的には問題ない様子。試しにそのまま使ってみようとしたが、メインスイッチを入れていても、ちょっとダイヤルに触っただけでも回転位置が移動し、いきなりスイッチが切れてしまうこともあった。これには困った。 「ピンッ」という小さな音とクリックが無くなったダイヤルを考えると、クリックの感触を作っているバネが飛んでしまったことが予想された。 もちろん、役割を終えたカメラは故障してもそのままにしておけば良いのかも知れぬ。高い修理代を払うことを思うと、余計な金を掛けず放置するのが一番合理的な方法だ。 だが、その時すでに友人にこのデジタルカメラを譲る約束をしていたため、そういうわけにもいかなくなった。何とかして金を掛けずに元に戻す方法・・・、自分で修理する以外に方法は無い。 というわけで、忙しい時にも関わらずカメラの分解を始めた。 コストを抑えた作りであるためか、分解は意外に簡単で、トップカバーなどはたった3つのネジを外しただけで外れた。 よく見ると、ダイヤル基盤の奥に小さなバネが見えている。もしかしたらこれかも知れないと思い、精密ドライバーでつついてみるとコロンと手元に落ちてきた。 一方、ダイヤル部を見てみると、そこにはバネが入っていたであろうと思われる空間が存在した。奥を覗いてみると、クリック用によく使われるような金属球が入っている。こちらも一叩きすると落ちてきた。 <<画像ファイルあり>> ダイヤルとシャッターボタンのユニット <<画像ファイルあり>> 中央下にバネとボールがある バネとボールの拡大 とりあえず、ダイヤルのユニット部を取り外したままで、バネとボールを組込んでみた。すると、クリック感が戻った。 「なんだ、案外単純な修理だったな」 そう思ったのも束の間、一番端に位置する画像再生のクリックまで回転させると、バネが再び「ピンッ」と跳ね飛んだ。 それにしてもこれでバネが飛ぶならば、なぜ今まで飛ばなかったのか不思議だ。確かにバネが逃げないようにする構造は無いのだが、最初から無いとすればそれは一体どういうことなのだ? まあ、それは考えるだけ時間の無駄というもの。我輩はそれでなくとも下らない仕事で忙しいのだ。 バネが逃げるのは、逃げる方向に何も障害物が無いからだ。それは一目瞭然である。だから、単純に考えてそこにフタをすればいい。適当なフタが無いので、プラスチック片で代用することにする。 接着剤で固定するのは時間が掛かるうえ、いつ取れるか不安でもあるため、ハンダコテを使ってフタを溶接した。多少見た目が良くないが、隠れてしまう部分であるため問題は無かろう。 <<画像ファイルあり>> バネとボールを組込んだ状態 上面 <<画像ファイルあり>> 裏面 <<画像ファイルあり>> バネが外れぬよう、プラスチック片でフタをして溶接 上面 <<画像ファイルあり>> 裏面 <<画像ファイルあり>> カメラ本体 <<画像ファイルあり>> ここにダイヤルユニットが入る 結果は良好。どんなに勢い良くダイヤルを回したとしても、バネが飛んで行くことはなくなった。最後にそのユニットをカメラ本体に組み付け、その修理を終えた。 文章で書くと簡単なように見えるかも知れないが、構造を調べながら修理するため、意外に時間だけは掛かっている。正確に計ったわけではないが、体感で2時間ほどか。 このカメラはそのうち、友人の元で余生を過ごすことになろう。しかし、1つ間違えればゴミになるところだった。 ---------------------------------------------------- [269] 2001年05月30日(水) 「貧乏人のための商品撮影(序章)」 ●商品撮影テクニックの必要性 最近は、インターネット上のオークションで多くの商品写真が並んでいる。それらは全て、出品者自ら撮影したものばかりである。 実際、デジタルカメラが安価に手に入るようになり、誰もが現像処理無く、スキャン処理無く、手軽に写真をパソコン上に展開することが可能になった。数年前には考えられなかったことだ。 しかし、商品撮影が一般的になったとは言っても、撮影する機会が多くなったというだけで、その技術が向上し世間で広く一般化したということではない。 商品撮影というのは一般的な撮影とはやや性格が異なり、少なくともカメラ任せだけで撮影することは出来ない。カメラ側でコントロール出来る範囲を越えた工夫が必要なのである。 さて、ここで言う「商品撮影」とは、いわゆる「コマーシャル・フォト」ではない。広告で使用する写真としてのイメージ演出などは考えず、ただ純粋に「少し工夫を加え、今よりも良い写りの写真を撮ろう」という発想である。本格的商品撮影ならば、もっと考えるべき点がいくつもあり、手応えのある深い世界だ。ある程度のスキルがあり、本格的商品撮影を目指す者がいるならば、ここでの記述は参考にならないだろう。もっと参考になる専門書が他にある。 料理に例えるならば、ここはシェフの料理を目指すのではなく、あくまで家庭料理に少し手を加えてプロっぽく仕上げようという趣旨なのだ。 ●商品撮影に求められる要件 商品撮影に求められる要件はいくつか考えられるが、ここでは「商品を分かりやすく正確に表現する」ということに重点を置くことにする。 そのためには、以下に挙げられる条件をクリアする必要がある。これは、例えば自分のカメラ機材を撮影したり、オークションに出品する商品を撮影したりする場合を想定した。 ピントが全面に合っている(被写界深度内に入っている) 照明光が十分にまわり込み、詳細が確認出来る 立体感がある 商品の形が歪んでいない 必要ならば、大きさが比較できるものを同時に入れる ●必要な機材 さて、商品撮影について書かれた書籍を見ると、やはりそれなりの装備を前提としているのが分かるだろう。コマーシャル分野での撮影がほとんどであるから、カメラも中判以上(ほとんどが大判カメラ)が常識となっている。もしも本格的に商品撮影を行おうとすれば、恐らく最低でも100万円近くのコストがかかることになる。 <内訳> ブローニー判カメラ : \200,000〜 ブローニー判レンズ : \150,000〜 (シフトレンズならば更に高価) 120/220フィルムバック : \30,000〜 ポラロイドフィルムバック : \25,000〜 三脚 : 既存のもの使用 ストロボ装置(2灯ヘッド付) : \400,000〜 ディフューザー、 スタンド等アクセサリ一式 : \60,000〜 フラッシュメーター : \30,000〜 だが、単価\1,000の商品をオークションに出さんがために、撮影機材を新たに揃えるのもバカバカしい話だ。何とか手持ちの機材で済む方法を考えよう。 まずカメラ本体についてだが、これはデジタルカメラを前提にする。撮影した写真をその場で利用するならばこれ以外に無い。 可能ならば手元のデジタルカメラが使えれば良いのだが、残念ながらどんなデジタルカメラでも良いとは言えない。少なくとも絞りを手動で設定出来、かつ外部ストロボを接続出来るものでなければならない。 外部ストロボについての対応は2種類考えられ、ストロボとカメラをシンクロコードと呼ばれる電気コードで繋ぐことが出来るカメラ、あるいはホットシューを備えたカメラだ(ホットシューに接続してシンクロコードを利用できるようにするアダプタが市販されている)。 シンクロコードが接続出来るカメラとして、例えば我輩所有の「OLYMPUS C-2020Z」などがこれに該当する。今なら中古やオークションでも安く手に入るだろう。ただし、このシリーズ以降のものは専用コネクタとなったと聞くので注意が必要。 <<画像ファイルあり>> 市販のシンクロコードが接続出来るカメラなら、ただ単純にカメラとストロボを繋げばいい。コネクタ部はオス・メスの違いがあって繋がらない場合もあるが、市販の変換コネクタを別途購入すればいい。 <<画像ファイルあり>> シンクロコードを繋ぐコネクタが無いカメラでは、ホットシューからコードが引けるアダプタが必要になる。左の写真に写っているアダプタはキヤノン専用だが、汎用アダプタも各社から出ている。 次にストロボだが、40万円以上もするスタジオ用ストロボなど、ここのレベルでは必要ない。1万円前後で売っている汎用ストロボが1つあれば十分だ。こんなストロボならば、それこそ足下に転がってるのではないか? サンパックなどから発売されているストロボでは、シンクロコードが組み込まれているものが多い。これに延長コードを接続し、カメラの端子に繋ぐ。 要するに、シンクロコードで繋いだカメラとストロボを使うことにより、カメラとストロボを別々な位置にセットするのだ。もちろん、内蔵ストロボを光らせることによって外部ストロボを発光させる「スレーブユニット」というアクセサリも市販されてはいるが、内蔵ストロボが写真に与える影響を防ぐには苦労が伴うだろう。それは最後の手段と考え、極力そのような事態に陥らないようにしたい。 露出の調整は、基本的にカメラ側の絞り調節で行うことになる。ストロボ側に発光量の手動調節機能が付いていると、絞りを変えないで露出調節することも可能になる。 また、ストロボの設置距離を前後させることでも光量調節は可能だが、影の柔らかさや方向が変化するのであまり勧めない。 さて、撮影にデジタルカメラを使うとなると、露出のおおまかなチェックも液晶画面にて可能だろう。そうするとフラッシュメーター(ストロボの瞬間光が測れる露出計)やライティングチェック用のポラロイドバックを必要としなくなる。 貧乏人のための簡易商品撮影法、買わずに済むものは買わないでおこう。 ●4段階の工夫 写真の見栄えを良くするために、ここでは4つに絞ってまとめてみた。考えるべき点は他にもいろいろあるが、デジタルカメラで撮影する貧乏人の商品撮影であるから、とりあえず次の4点で十分だろうと思う。 (第1段階)背景の工夫 (第2段階)照明光の工夫 (第3段階)遠近感の工夫 (第4段階)補助光の工夫 次回は、その第1段階として「背景の工夫」から始める。 ---------------------------------------------------- [270] 2001年05月31日(木) 「貧乏人のための商品撮影(第1段階)」 ●背景の工夫 背景が変われば写真全体の雰囲気がガラリと変わる。だから背景は重要であり軽視出来ない。背景の問題は、商品写真では避けて通れない課題である。 背景とは、映画に例えると「撮影セット」のようなものだ。 写真はごく一部分のみの視野を切り取り記録するもの。そのため、写真に写る範囲内だけは、別世界を用意する必要がある。 逆に言うと、いくら部屋が汚く散らかっていようとも、撮影するための撮影セットだけはクールにしておけばいいということだ。極端な話、暑ければパンツ一枚で撮影してもいい。ただ、そのパンツ姿が被写体の光沢面に映り込まぬよう注意してくれ。 下の作例は、散らかった机の上で小さな商品撮影を行ったものである。商品の大きさによって、要求される撮影セットの広さが決まってくる。この場合では、ノートパソコン程度の広さの撮影セットがあれば事足りる。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 撮影の様子。わざと机の上を散らかしてみた(わざとじゃねーだろ)。土台はノートパソコンであり、ここに最も金が掛かっている。上部を覆っているのは、ショッピングセンター「ハローマート」の最高級買い物袋。それを端で押さえているのはコンパクトフラッシュアダプタの重要な役割である。これはIBM製が一番いい。下方にはレフ板としてCD-Rのインレイカードの切れ端がある。さすがに反射率は最適化されている。 ・・・とまあ、撮影に場所や道具は選ばない。 さて、小さい商品の場合はノートパソコン程度の広さの土台があれば事足りるが、もう少し大きなものになると、やはり撮影用とした土台や背景を用意しておきたい。 我輩は日曜道具店などにある黒や白の化粧板を土台として使ったりしているが、写真用品店で背景紙(プラスチックシートのものもある)を手に入れればまた応用範囲が広がる。値段は数千円くらいであるから、それくらいは買っておいても損はなかろう。グラデーションのかかった背景紙1枚あれば、今までとは全く違う写真を手にすることが出来るのだ。 数万円かけてカメラを買い換えたとしても、写真に劇的な違いは出ない。しかし、背景用に数千円をかけただけで写真が見違える。 では背景の工夫についてだが、これには「地平線あり」か「地平線なし」かの2種類の方法がある。 地平線あり 地平線なし <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 地平線を使う場合は、画面の真ん中に地平線が来るとウルサく感じる。下の方に地平線を持っていくと安定感が出るので、なるべく低いアングルでの撮影が適しているかも知れない。もちろん、シチュエーションによっては上の方に地平線を持ってくるほうが効果的な場合もあるだろう。 地平線を使わない場合は、単純に上から見下ろすように撮れば必然的に土台しか写らなくなる(地平線がフレームから外れて見えなくなる)。また、大きな背景紙を使えば、土台から背景を連続した1枚にすることも出来る。 これらの選択は、撮影者の好みで選べばよい。商品の性格を掴み、一番それらしい背景を選ぶのもまた楽しい作業となるだろう。 背景の問題は、難しく考えれば難しく、簡単に考えれば簡単だ。 いずれにせよ、写真のフレームは視野を区切る。その区切りの中だけで通用すれば、どんな材料でも背景として使える可能性がある。 以前紹介した写真では、その写真はまるでショーウィンドウを写したように見えるが、あれは実は食器棚を横に倒して使っているだけなのだ。 ---------------------------------------------------- [271] 2001年06月01日(金) 「貧乏人のための商品撮影(第2段階)」 ●照明光の工夫 商品撮影などのブツ撮り撮影では、まず重要になるのが「照明光の組み立て(ライティング)」である。 野外の自然光での撮影の場合、ライティングは自然任せとなる。そのため、自分のイメージに合ったライティングを求めるために、移動したりタイミングを図ったりする。それは太陽や天候など、人間の力ではコントロール不可能なものであるため、必然的にそのような受け身にならざるを得ない。 しかし、商品撮影に於いては、いくら待っても最適なライティングはやってこない。自分自身が己の意志を以て照明光を組み立てねば話が始まらないのだ。 しかし逆に、照明光さえ工夫すれば、それらしい写真がすぐに出来上がる。しかもそれは、ちょっとした手間をかけるだけで可能なのだ。 通常は複数の光源を使い多灯にて照明光を組み立てる。しかしここでは、手元にある1台のストロボを有効に利用し、1灯のみで可能な限り多灯ライティングの効果に近付けることが目標だ。 さて、ここで様々な照明方法による撮り比べをしてみた。「室内蛍光灯」、「ストロボ正面照射」、「ストロボ上面照射」、「天井バウンス」、「アンブレラ使用」、「トレーシングペーパー使用」の6パターンである。 <照明光の違いによる撮り比べ> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 3sec. F2.0 室内灯(蛍光灯)をそのまま利用し、3秒・開放絞りで撮影。光量が決定的に不足しているため、絞り込むことが出来ずに被写界深度が浅くなっている。この作例ではレンズがボケているのが判る。また、照明光の色がそのまま被写体に被るなど、撮影条件をコントロールすることが難しい。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 1/180sec. f16 クリップオンストロボをカメラの頭に装着し、そのままダイレクトに発光させた。撮影方向と同じ角度の照明光であるため、影は出来ず平面的な描写となる。ちなみに、カメラ内蔵ストロボでも同じ結果となる。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 1/180sec. f16 ストロボをカメラから離し、シンクロコードで繋いだ。そのため、照明光に角度が付き、立体感が生まれた。しかし発光はダイレクトであるため、強い影が出来て全体的なコントラストが高い。ゴミが最も目立つライティングでもある。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 1/180sec. f2.0 白い天井に向けてバウンス撮影。発光面積が大きくなる分、光量は低下し、被写界深度は浅くなる。暗黒中でストロボを何度も発光させて蓄光させるのも手だが、バルブシャッターを備えたカメラでないと不可能。そもそも、部屋全体を照明する方法であるので、被写体の光沢面(この場合はレンズの反射面)には余計な映り込みが避けられない。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 1/180sec. f11 ストロボにアンブレラ(反射傘)を装着して撮影。天井バウンス撮影と同様に、発光面積が広くなった分、光がまわりこんで影が柔らかくなっている。しかし、被写体の光沢面(この場合はレンズの反射面)には傘の形が映り込んでおり、かなり見苦しい。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 1/180sec. f11 被写体にトレーシングペーパーや乳白色アクリル板で覆い被せ、その上からストロボ光を照射。光が十分にまわりこみ、しかも光沢面の映り込みが美しい。ちなみに、光の拡散度が大きい分、光量低下も大きい。 一見して判るとおり、上の作例の中で最初の4点は話にならないので、これ以上の解説はしない。問題は、残りの2点「アンブレラ使用のもの」と「トレーシングペーパー使用のもの」だ。 アンブレラは人物撮影時には有効である。眼球以外に光沢面は無く、アンブレラの形がそのまま映り込むことが無いからだ。しかも雨傘と同じように折り畳みが可能であり、収納性やセッティングの柔軟性も大きい。ちょっとしたスタンドがあればすぐに設置出来る。 その流れに乗って商品撮影も同じようにアンブレラを使いがちになるが、やはり光沢面のある商品にはアンブレラの形がそのまま映り込んでしまうため、貧乏人にとっては幸か不幸か、アンブレラは使いたくとも使えない。 それよりも乳白色アクリル板やトレーシングペーパーを被写体に覆い被せるようにセッティングすると、安価で、かつ効果的な照明を得ることが出来る。 これはちょうど、曇り空での撮影に似ている。 曇り空の場合、雲一面が太陽の光を分散させているために発光面積が大変広い。発光面積が広いということは、光がよく回り込み影が柔らかくなるということである。そして、光沢面の映り込みがフラットな状態になる。商品撮影では、この「曇り空」を再現すればいいのである。 ちなみに、コマーシャル分野ではストロボヘッドに装着する「バンク(ソフトボックス)」がこれに相当する。普通の大きさのバンクで3〜5万円くらいするだろうか。バンクは大きくなくては意味がないので、金が掛かることは必至。 露出については、前にも述べたように、ここではデジタルカメラでの撮影が大前提であるため、何枚か撮影しながら最適値を探っていくことになる。結果がすぐに確認出来、不要なカットを即座に消去できるデジタルカメラならではの使い方が活かせる。 (もし、フラッシュ光を測光できる露出計を既に所有しているのであれば、勉強のために敢えて使うのも良いだろう。) 基本的に商品の全てに渡ってシャープに写すことが必要であるため、絞りは出来るだけ絞りたい。ストロボの光量に余裕があるなら、絞れるように光量を増やすようにする。 しかしいずれの照明法を用いたにせよ、イメージに合う効果を得るには試行錯誤が欠かせない。「アンブレラを使ったから」とか「トレーシングペーパーを使ったから」ということで単純に話が済まないところが悩ましくもあり、面白くもある。その部分のノウハウは個々人で積み上げる以外に無かろう。 ・・・続けて補助光の話もしなければならないが、優先順位としては第3段階「遠近感の工夫」のほうが重要であるため、それは最後に回すことにする。 ---------------------------------------------------- [272] 2001年06月03日(日) 「貧乏人のための商品撮影(第3段階)」 ●遠近感の工夫 「遠近感」というと、主要被写体と背景との距離感のことを思い浮かべると思うが、被写体自身の遠近感もあることを忘れてはならない。 立体写真ではない平面状の写真から立体形を頭に描くには、遠近感というものが唯一の手掛かりとなるのだ。 奥行きのある立体物を撮影する際、被写体の手前の部分は距離が近く、奥の方は距離が遠くなる。列車など極端に長い被写体などでは、撮影距離によってその遠近感がかなり変わることになり、印象も当然変わってくる。 しかし、列車や自動車など身近にあるものは大体の形が容易に想像出来る。どれほど遠近感によって形がデフォルメされようが、列車本来の形を取り違うことは無いだろう。だが、元の形を知らないものについては、遠近感の問題はそれを見る者それぞれの認識の違いを誘う可能性を持つ。 以下に挙げた作例は一眼レフカメラの交換レンズを撮影したものである。 交換レンズというのは数え切れないほどの種類があり、そのデザインも様々だ。特に、広角をカバーしたズームレンズや大口径レンズなどでは、その形が先太りしていたりと、通常とは違うものが多い。そのため、その形が遠近感によるデフォルメによるものなのか、それともそのレンズ固有の形なのかハッキリしない。 このような、製品ごとに形状が個性的であり実際の形が分からないものを撮影する場合、遠近感に十分に注意して撮影を行わねばならない。写真機材に制限があり不自然な遠近感にならざるを得ない場合は、複数の写真で表現する他なかろう。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 1.5mほど離れて撮影した。十分に撮影距離をとってあるため、遠近感の影響を受けずに円筒形が素直に表現されている。(1/180sec. F16) 30cmほどの距離から撮影した。遠近感が付いて、上が膨らんだように写ってしまった。芸術的な視点では面白い写真かも知れないが、説明写真としては商品の情報が正しく伝わらないため、不適当な写真と言わざるを得ない。(1/180sec. F16) ちなみに、商品撮影とは話題が外れるかも知れないが、ミニチュアを本物のように撮影するには、「背景としてのジオラマの距離感」と「被写体自身の距離感」が一致していないと不自然になる。 なぜこのようなことになるかというと、ジオラマは実際の地形をそのまま小さく再現させることはスペース的に難しいからだ。いくらミニチュアとはいえ、遠くに見える山々はかなり奥行きのある風景である。例えば山までの距離が50kmあると想定したとする。これがもし1/1000スケールのミニチュア世界であっても、山までの距離は実に50m。如何にミニチュアと言えど50mもの奥行きのあるジオラマなど作ることはなかなか出来ない。そのため遠近感を利用して、あたかも遠くに見えるかのように、想定距離に応じた小さな山を作るしかないわけだ。 ミニチュア撮影では、ミニチュア自体の精巧さはもちろんのことだが、遠近感のコントロールを間違うと全ての努力が水泡に帰すので、慎重な計算の上でとりかかる必要がある。無計画に撮影すれば、ジオラマで作った遠近感と被写体自身の遠近感が狂うことになる。そしてそれが「不自然さ」となって作品を殺す。 以下の作例では、全長7cmほどの1/60スケールミニカー(トミカ/TOMY)を使った。ここではジオラマが無いのであまり参考にならないかも知れないが、撮影距離による被写体そのものの遠近感を撮り比べてみた。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 20cmほどの距離から撮影。肉眼で見た実車の遠近感に近い。(1/180sec. F22) 50cmほどの距離から撮影。遠くから望遠レンズで撮影した遠近感に近い。(1/180sec. F22) <<画像ファイルあり>> 撮影風景。押入れを利用して撮影セットを作った。例によってハローマートの買い物袋を使っている。土台はキングジムファイル。光が広く拡散するよう、ストロボの発光部と買い物袋とは密着しないように注意する。袋はミニカー上部ギリギリまで接近させている。絞りは限界まで絞るため、多少の収差があるレンズでも問題にならない。 1/60スケールのミニチュアであるから、視点も1/60の距離を考えねばならない。この場合、実車の10m前方から見た遠近感は、1/60スケールでは17cmから見た遠近感だというのが計算から導き出される。 撮影者がどのような狙いで撮影しているのかを考えれば、その撮影で必要となる遠近感が分かるはずだ。 さて最後に、遠近感によるデフォルメを積極的に利用した例をここで紹介する。 お馴染みのモデルガンであるが、かなりの重量物であるために手元の道具では保持方法が無い。仕方なく左手で持って撮影したのだが、必然的に手の長さ以上に離れることは出来ない。それならばと、それを逆手にとって遠近感を誇張させて撮影することにした。 映像イメージとしては、映画「ドーベルマン」といった感じだ(笑)。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 銃のスゴみを出すために、遠近感を誇張させるというのも1つの方法だ。本来ならばアオリレンズを使ってティルト機能により全面に渡ってピントを合わせるべきだが、我輩は今のところアオリレンズは所有していない。(1/180sec. F22) 撮影風景。銃のグリップ下部に金属板を取り付け、撮影時にはそこを持った。照明光はアンブレラ使用。 ---------------------------------------------------- [273] 2001年06月04日(月) 「貧乏人のための商品撮影(第4段階)」 ●補助光の工夫 我輩にとってカレーライスに福神漬けが不可欠なのと同様に、ライティングに必要不可欠なのが補助光の存在である。 補助光とは何のためのものか。 それは自然光の下でのポートレート撮影においても必要とされるので、それを考えると理解が早いだろうと思う。 まずライティングの基本は、「光は1方向からのみ」ということである。これは地球上の暗黙の了解である。もし連星系の惑星に生まれたならば、太陽が2つあり影が2つ出来るのが当たり前であったろう。我々地球人は、地球の事情により、太陽を1つという前提を掲げねばならぬ。 光は1方向からのみという話があるならば、ライティングに補助光が不可欠な存在であるという話は矛盾するように聞こえる。太陽が1つという状態を再現するならば、ライトも1つだけで良いのではないか、と。 しかし重要なのは、人間の見た目と写真の仕上がりとは必ずしも一致しないということである。 人間の眼は実に巧みに出来ている。暗い部分は感度が増し、明るい部分は感度が鈍くなる。その能力は、同一視野内においても発揮される。明るい部分と暗い部分が同時に見えるのは、人間の眼が柔軟性に富んでいるからに他ならない。 そんな人間の眼のような柔軟性を持たないフィルムや撮像素子では、再現出来ない輝度幅をカバーするために暗い部分を人工的に照り起こさねばならない。さもなくば、その暗い部分の表現は黒一色の中に埋もれてしまうだろう。 見た目に近付けるという作業、それが補助光の役割である。 それ自身が出しゃばることなく、さりげなく主役の光を立てる。それはまさに福神漬けの役割そのものである。 さて、我々貧乏人は補助光を当てるために別のストロボを用意することは出来ない。手元にある、たった1つのストロボを活用しなければならないのだ。そのために、光を反射させるためのレフ板が必要になってくる。ここまで言えば、ポートレートを撮る者ならば「了解、了解。」と全てを理解することだろう。 以下の作例は、前回登場したミニカーの場合である。さりげなく小さなレフ板をそばに置いていたわけだ。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> レフ板を使用しないで撮影。側面が妙に暗く落ち込んでいる。(1/180sec. F22) レフ板を使用して撮影。ボディー側面やタイヤ部が明るく表現出来た。(1/180sec. F22) <<画像ファイルあり>> 撮影風景。文庫本の1ページを引きちぎり、適当な大きさに折って被写体側面に反射光が当たるように置いた。 次に示すのはカメラの写真である。 ここでも「レフ板あり」と「レフ板なし」の写真を比較してもらおう。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> トレーシングペーパーをかぶせただけの撮影。メインとなるトップライトにより、一応、右側のレンズには映り込みがある。(1/180sec. F22) <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> カメラと被写体との間に白い化粧板を設置し、ストロボの光が反射するようにした。メインの補助として側面を照り起こしている。この作例では、反射光が多少強すぎたかも知れない。(1/180sec. F22) この場合、上向きに置いた交換レンズの反射面に映り込みを表現する関係上、照明光はトップライトを基本とした。そうなると当然、側面部(この場合、カメラ前面部)には光がまわり込まずに暗く落ち込む。それを防ぐために面積の大きな白い化粧板を間に立ててレフ板とした。 仕上がりは一目瞭然と言える。カメラ前面の描写が全く違うのが分かると思う。2本のレンズ面に映り込みが入り、明瞭な写真になった。 (もちろん、全体を暗く落としローキー気味にして雰囲気を出すという描写もあろうかと思う。) レフ板の効果は、撮影してみるまでは分からない。撮影経験を積んで行けば、だいたいの見当はつくようになるだろうが、やはり実際の影の具合や露光値を見るには、デジタルカメラの即時性が大いに活きてくる。 現状では、鑑賞を目的とする趣味の分野でデジタルカメラを利用するにはまだまだ大きな障害(表示解像度、色数、フォーマット、保存性、互換性、・・・等)がある。それは過去の「カメラ雑文」でも触れた。しかし即時性というメリットは何物にも代え難い。 もしインターネットのホームページで使用するという限定付きならば、現状のデジタルカメラでも十分使えると言い切れる。 ---------------------------------------------------- [274] 2001年06月07日(木) 「Canon EOS D30」 <<画像ファイルあり>> いきなり広告モドキの画像を載せてみた。なかなかイイ感じに写っているこのカメラ、先日中古で購入した「Canon EOS D30」である。こういうふうに撮ると、安物レンズ「EF50mmF1.8」もそれなりに見えるから不思議だ。 しかしこのカメラ、中古とは言うものの25万円もしたのであるから我輩としてはかなり思い切りを必要とした。 何しろ、デジタルカメラである。永く使えるものではないということは最初から分かっている。そんなものに25万円出すというのは、どう考えても道楽以外のなにものでもない。 それを敢えて購入に踏み切らせたのは、今まで使っていた「OLYMPUS C-2020Z」に限界を感じたからに他ならぬ。レンズ着脱式の一眼レフなら簡単な撮影であるのに、「C-2020Z」ではかなりの苦労を伴う。また、全く対応出来ない撮影もあった。それが「EOS D30」を導入することによって一挙に解決出来る。 我輩がこの「C-2020Z」を購入した動機が、それまで使っていた「FUJI FinePix」で撮れない写真を撮りたかったからだということを思い出すと、今回の購入も同じ動機だということを皮肉に感じた。 デジタルカメラは銀塩カメラとは違い、システムそのものが発展途上。これからも先代の足りない部分を部分的に補う動機を常に与えられ続けねばならないのか。そこが理不尽に思える。 デジタルカメラは表面上の世代交代は目まぐるしいものの、成熟度という意味では他の工業製品と比べて進化の度合いはかなり遅いと言わざるを得ない。それ故、我輩のようにしびれを切らし、つい買い換えてしまう者も出てくるようになる。未だ不完全だと知りながらも、完成されるのを待つことが出来ないのだ。これがデジタルカメラ出荷数増大の一要因である。 さて、デジタルカメラに対しての恨み言はここで止め、「EOS D30」について感じたことを書いてみようと思う。 Canon EOS D30 <<画像ファイルあり>> ●シャッター速度 1/4000〜30秒、バルブ、X=1/200秒 ●レンズ焦点距離 レンズ表記焦点距離の約1.6倍に相当 ●撮像素子 単板CMOSセンサー 約311万画素 (2,160×1,440) ●記録媒体 CFカード(Type I、II準拠) ●ファインダー倍率 0.88倍 ●大きさ 149.5x106.5x75.0mm ●重量 750g <全体的デザイン> まずデザインだが、グリップ部にはシボ革風のゴムが貼られており、デジタルカメラにしては高級感が少しある。外装もプラスチック的なテカリが無いのが良い。多分、キズが付きにくい表面処理ではないかと思う。 しかし欲を言えば、「EOS55」のようなシルバー外装のものがあればいいかと思った・・・、いやいや、商品撮影ではシルバーボディが被写体の光沢面に映り込む危険性がある。やはりブラックボディでなければな。 カメラを自分に向けて見ると、マウント部がかなり右側に片寄っているように見える。これは、フィルムのパトローネを格納する必要が無いデジタルカメラならではのデザインと言える。 グリップが少し太く感じるが、それはEOS630と比べたものであり、最近のEOSと比べれば普通と言える。逆に言うと、EOS630のグリップは非常に指掛かりが良く握り易い。 <<画像ファイルあり>> <操作系> モードダイヤルは傾いていて精密感というか真っ直ぐ感が無いのが残念に思う。もしダイヤルが取れかかったとしても、最初から傾いているのだから気付くことはない。どうせ傾けるならば、ペンタックスの新型カメラのように手前に傾けたほうが機能的であり、必然的であろう。横への傾きが操作性を向上させたとも思えないため、単にデザイン上の意味しか無いらしい。EOS7でも同じデザインであるため、これはキヤノン内部で流行っているらしい。もしEOS7のダイヤルの傾きと完璧に角度が同じならば、その時はポリシーがあると見なし、誉めてやってもいいと思う。 モードダイヤルのクリック感については「Nikon F3」に慣れた手には馴染まない。誤動作を恐れてクリックを重くしているのか。確かに我輩はほとんど回すことは無いので、それはそれでいいのかも知れぬ。 電子ダイヤルはメイン・サブ共、銀塩EOSとほとんど変わらない。 また、メインスイッチが入ってから撮影可能状態になるまで起動が遅い(メモリへのアクセスのためか)。正確に計ってはいないが、タイムラグが2〜3秒くらいありそうだ。メモリへのアクセスは頻繁に起こり、メインスイッチOFF時でも例えばレンズを着脱しただけで何故かアクセスランプが点く。 <<画像ファイルあり>> <コネクタ類> コネクタ類は、デジタルデータ出力としてUSB(Canon専用ミニコネクタ)が装備されている。ここからパソコンに接続し、専用ソフトによりパソコン側からカメラの制御が行える。他にシンクロターミナルとリモコン端子、そして映像出力端子がある。特に、シンクロターミナルについては、外れ防止のためのネジ切りがあり、かなり重宝する。それまでの「OLYMPUS C-2020Z」ではすぐにコードが抜けそうになり、ストロボ不発がよく起こった。 <<画像ファイルあり>> <シャッター> シャッター音は普通の音。通常のスクェア型シャッター(俗に言う「縦走りシャッター」)であるため、チャージするための巻き上げ動作は銀塩カメラの場合と同じように行われるのだろう。単にフィルム巻き上げが無いだけで、そのぶん音の切れがシャープに感ずる。 連続撮影は記録媒体に依存するのか、マイクロドライブ(コンパクトフラッシュサイズのハードディスク)を装着した場合、次のレリーズまでしばらく待たされることがあった。これは撮影リズムを狂わすことになり、実質性能はともかく、使用者のストレスを増大させるだろう。この点はデジタルカメラの盲点と言える。 <長時間露出> CMOSセンサーの欠点と言われていた長時間露光時の画像ノイズについて、キヤノンでは「改善された」ということだが、試しに5秒ほどの露光時間を与えてみると、それでも暗部のノイズが多い。これで改善されたということなら、元々はかなり酷かったということだろうか。まあどちらにせよ、通常の撮影(我輩の使う範囲内)では全く問題無い。 −2001.06.09追記− ノイズの問題は、CCDでも試したところ、同じくらいのノイズが出ることが判った。また、条件によってCMOSとCCDでのノイズの出方に違いがある様子。かなり使い込まないと傾向は判らないだろうと思うので、この件についてはあまり深く触れない。 <ファインダー> 撮像素子の面積が35mmフルサイズよりも小さいので、そのぶんファインダーを覗くと画面が小さく感ずる。無理な要求だとは思うが、ファインダー倍率は等倍以上あるといい。もちろん、撮像素子が35mmフルサイズであれば、そもそもこんな問題も無い。 <AF> AFフレームは横3点。だが実質的には、一番距離の近いものにピントが合うことが多い。どこに合うかカメラ任せというのは困るので、我輩は最初からセンター1点だけに設定している。しかし商品撮影ではMFでなければならないため(シャッターを切るたび測距することになってしまう)、我輩にはAF性能の問題点は気付きにくい。 <画像表示> 液晶画像表示による撮影済み画像の表示は並。メモリから読み出す時間がかかるので、サクサクと画像を閲覧することは出来ない。操作はボタンとサブ電子ダイヤルを使うので、他の機種よりは良いかも知れない。だが、サブ電子ダイヤルに慣れてないせいか、最良の操作性とは言い難い。 ただ、閲覧途中でもレリーズボタンに触れればすぐに撮影モードに切り替わる。いちいちスイッチによる切り替えをしなくても良いので便利だ。 <ホワイトバランス> ホワイトバランスはシーンごとに選択出来るようになっているが、撮影者が撮影光源を撮影してそれを登録することが出来る。多少露出アンダー気味のものを登録すると良い結果になった。 <ACアダプタ> 室内で使用する場合、ACアダプタでの稼働が必要となる。我輩の場合、今のところ仕事が忙しく外出もままならないため、室内でしか使用したことは無い。そのぶん、ACアダプタのちょっとしたことが気になる。 ACアダプタはバッテリー充電器も兼ねているため、余計なものがコードの中間に挟まっているという感じだ。それがまたデカイ。しかもAC駆動中はバッテリー充電が行えないというのも困りもの。なんとか充電器とは別の、線一本のACアダプタが用意されないだろうか。 <作例> 一眼レフタイプであるということから、従来では不可能だった「接写」と「超望遠」の撮影が可能となった。そのうち、ビクセンのEOS用カメラマウントを購入して顕微鏡撮影も挑戦してみたい。 ここでは、接写リングを装着して撮影した接写を紹介する。使用レンズは全て「EF 50mm F1.8」。 (長辺400ドットにリサイズした) <<画像ファイルあり>> 冷蔵庫で出来た氷の結晶。氷が解けるまでの1〜2分間のうちに撮らねばならない。ストロボ使用。 <<画像ファイルあり>> 蚊(ガガンボじゃないぞ)。頭部にピントを合わせるべきだったか。ストロボ使用。 <<画像ファイルあり>> 腕時計。撮影時間を示してはいるが、6分30秒進んでいる。ストロボ使用。 <<画像ファイルあり>> 電話のジャック。ツメの折れていないものを探すのは案外難しい。ストロボ使用。 ---------------------------------------------------- [275] 2001年06月14日(木) 「一度目の失敗」 結婚披露宴にて、その日のために奮発して購入した大きなズームレンズを使った者がいた。その場の雰囲気を写せるように、明るいズームを使おうと思ったのだろう。 だが、式場は予想外に暗く、仕方無くカメラの内蔵ストロボも使うことにした。少々ストロボ光が弱くとも、大口径ズームレンズでカバー出来る・・・、そう思った。 だが、結果はそれ以前の問題であった。 大口径ズームレンズは、そのデカさゆえ、内蔵ストロボの光を遮り、ほとんど全てのカットでケラれてしまっていた。 これは他人の失敗談であるが、使い慣れていない機材をいきなり本番で使うのはリスクが伴う。しかし一口に「使い慣れる」とは言うものの、それは単純に操作が慣れていないことだけが原因ではない。 確かに、新しく導入した機材は使い勝手が違うだろう。慣れないと操作がおぼつかない。操作手順が今までと少し違うということが失敗の原因となることも考えられる。 だが、一定以上の写真歴の持ち主ならば、新しい機材でも大抵の製品はそつなく使いこなすに違いない。 それでも、思わぬ失敗は起こり得る。なにゆえか。 それぞれ個々の機材やテクニックに問題が無くとも、それらの組み合わせが失敗を作り出すことがある。概してそのような食べ合わせの問題は、頭で考えただけではなかなか気付きにくい。 先に紹介した結婚式写真の場合、「暗い状況で内蔵ストロボを焚く」ということと、「暗い状況で大口径レンズを使う」ということをそれぞれを独立して考えていた。それらは、何の問題も無い、ごく当たり前の対処である。 だが実際にその状況を組み合わせると、巨大レンズがストロボの光を遮ることとなった。過去にそのような失敗をしていない者にとって、それは青天の霹靂以外の何ものでもない。 「失敗しないに越したことはない」と思っている者もいるかも知れぬが、我輩は「失敗は、許される時にやり尽くしておくべきだ」と考える。実際に色々な撮影をやって色々な失敗を重ねる。それは、頭の中だけで考えても辿り着かないような問題点を現場で洗い出すことである。 月並みな言い方で申し訳ないが、大事なのは同じ失敗を繰り返さないということだ。一度目の失敗は、失敗であって失敗でない。「こういうことをすれば、こういう結果になるんだな」ということを知る大事なプロセスである。一度目の失敗により、二度目以降の失敗が防げると考える。 「若いうちの苦労は買ってでもしろ」 この言葉は、最初の失敗経験が如何に重要かということを端的に表している。 若いうちは、当然ながら全ての場面が初めてのことである。だからそこでの失敗は、全てが「一度目の失敗」ということになる。失敗を恐れずそれを乗り越える苦労をする。「何でもいいから苦労せよ」という話では決してない。 よく耳にする言葉だけに、あまり深く受け止めないこともあるかも知れない。 今一度、この言葉を残した先人の気持ちを想い、自らの内にその気持ちを再生させよう。 ---------------------------------------------------- [276] 2001年06月19日(火) 「シャッターの切りにくい時代」 シャッターチャンスというのは、スポーツ写真だけの問題ではない。写真を撮るという作業は、動いている現実世界の一瞬の時間を切り取る作業であるため、どれほどゆっくりとした動きであろうとも、シャッターチャンスというのは大事である。 露出やピントが自動化された現代に於いて、もはや「シャッターチャンス」というのが撮影者の感性を盛り込める数少ない要素でもある。 前にも書いたように、その場の情景というのは一期一会の無常の世界と言える。ほんのちょっとの時間差が、イメージを捉え損ねることになるかも知れぬ。ほんの小さな違いであろうとも、表現者の意図に関わる部分ならば、決して容認出来ることではない。 風になびく稲の穂、道を歩く人、風に流れゆく雲・・・。どれほどのんびりとした風景であろうとも、心にピンとくる瞬間というのは、タイミングを合わせた一瞬にしか無い。それを感ずる部分が、一人一人の感性というものなのだ。 稲穂の動きに風を感じ、それを写真に捉えようとしてシャッターを切る。しかし、タイミングに気付かず適当にシャッターを切るならば、稲穂から感じ取るべき風の存在が表現出来ない。 <<画像ファイルあり>> 次の風が来るまで、およそ5分くらいは待った。 我輩がAFについて消極的だというのは、やはり事実かも知れない。それは、タイミングの掴みづらさを無意識の中で感じ、それを避けているということだろうか。 AFカメラというのは、通常はピントが合うまでシャッターは切れない。フォーカスフレームの合わせ方を間違えると、微妙な位置で迷ってシャッターがなかなか切れずにイライラすることがある。見た目にはピントは合っているのだが、カメラのほうが「コレで良いのか?う〜ん・・・」と迷っているのだ。いくら我輩が「それくらいで良い」とは思っても、なかなかシャッターを切らせてくれない。 いい加減な性格のカメラも困るが、真面目すぎるカメラもまた困る。 「ピントが合わねば、いくらシャッターが切れても意味は無い。」 確かにそうだ。だが現在のAFカメラでは、シャッターを切る権利はカメラ側に奪われ、人間側は「用意が出来次第、シャッターを切って下さい。」と陳情するのみ。だから、シャッターボタンは別名「陳情ボタン」と言える。押せばすぐさまシャッターが切れるとは限らない。それが聞き入れられるかどうかは、カメラ側の気分次第。 そのことを知らぬ撮影者は、タイミングがズレて調子が狂うことになる。ここぞという場面でシャッターボタンを押したが・・・、シャッターは切れない。「ん?」と思った途端にシャッターが切れる。これではタイミングが図れないのは当然と言える。 AFの使い方に慣れれば、陳情することも苦にならぬかも知れない。だがやはり、シビアなシャッターチャンスにタイミングを合わせるのはかなりの予知能力も必要とする。 もし、従来のように人間が最終決定権を持つならば、そのタイミングは自分の指にかかっている。タイミングを逃せばそれはすなわち自分の責任である。だが、押して確実にシャッターが切れるというのは、微妙なタイミングを図るには必要不可欠だと思える。少なくとも、シャッターを切ったつもりで切れないというのでは、石につまづいて前のめりになるような感じで、あまり気持ちの良いものではない。 もちろん、レリーズ優先可能なカメラもあることはあるが、それはやはりスポーツ撮影を前提としたプロ用カメラにしかない。そうなると、フォーカスモードをAFからMFに切り替えるしか無いが、それではAFカメラを使う意味も無くなる。 我輩は最近、一眼レフ型デジタルカメラの「Canon EOS D30」を室内撮影で使うことがあるが、このカメラはデジタルカメラ特有のタイムラグを持っている。それは、デジタルデータの記録という動作が大きく関係する。 このカメラで連続的に何枚か撮影すると、記録媒体(超小型ハードディスク)にデータを書込む作業が入り、撮影が一時的に止められてしまうのだ。もちろん、連続撮影モードで撮れば、カメラ本体のバッファに一時的にデータをホールド出来るのだろうが、1コマ撮りのモードで立て続けに撮るのはダメらしい。数枚分まとめてハードディスクに書込むよりも、1枚撮るごとに書込む作業が入るのだから、遅くて当たり前か。 まあ、我輩の用途では、ストロボチャージの時間のほうが長いので実質的な問題は無いのだが、試し撮りで人物を撮った時はやはり撮影テンポが乱される。妙な間が入るからな。 人物撮影ではやはり1コマ撮りが基本であるから、いくら連続撮影モードで何コマ撮影出来ようとも意味は無い。 少しでも早くデータが書込まれるように、ハードディスクではなく半導体メモリを使うべきなのだろうが・・・、やはりそれなりの出費は覚悟せねばなるまい。 ただ、それでもメモリの早さにも限界はあり、この方法は「解決」ではなく「緩和」にしか過ぎぬ。単に「テンポ良くシャッターを切りたい」というだけの話であるはずが、デジタルカメラでは話がだんだん大げさになってくる。 いやはや、シャッターの切りにくい時代になったものよ。 ---------------------------------------------------- [277] 2001年06月24日(日) 「答合わせ」 学生の頃、よく問題集を解いたものだ。一区切りついたあと、即座に巻末の解答を見て答合わせをした。答が載ってなければ問題を解く意味が無い。もし自分の答が間違っているなら、それを訂正し自分にフィードバックしなければならない。 テレビのクイズ番組でもそうだった。たまに解答が次週に持ち越されるようなものもあったが、そういうのが一番気持ちがスッキリしない。考えさせるだけ考えさせて、突き放された感じだ。とても次週まで待てるか。 さて「次週」と言えば、我輩は次週より町屋勤務から田町勤務に変わる。そうなると、せっかく最近出来た町屋の古本屋に行く機会も減るだろう。そういうわけで、今のうちにめぼしい本を漁っておこうと思った。 オープン当時はそれほど趣味系の雑誌は無かったのだが、今では結構取り揃えられている。ただし、写真系の雑誌はアサヒカメラなどの分厚く嵩張るものしか無い。 目を移すと、鉄道関連の雑誌が並んである。その中でいくつか手に取ってみた。それは「鉄道ジャーナル」という雑誌だったが、値段を見ると50円と書かれている。おお、安いな。 しかし、同じ鉄道ジャーナルでも、興味深い記事が載っているものは200円となっている。この古本屋は、1冊1冊の中身を見て値段を決めているのか? 結局、50円のを2冊、200円のを1冊購入。 普段はあまり鉄道雑誌など読んだことは無い。だから、その本はなかなか新鮮である。写真もふんだんに使っており、専門的な説明など読めなくとも、写真だけで楽しめる。 中には、さりげなく面白い構図や遠近感、露出のコントロールを駆使したようなものもある。鮮やかな色彩の写真に、どんなフィルムを使っているのだろう、どんなフィルターを使っているのだろう、と気になったりするものもある。写真の欄外に答を見つけようとするが、そこには何も書かれていない。 普通、写真雑誌ならば写真の下の欄に撮影データが書いてある。例えば「Nikon F5 Nikkor50mm F1.4 1/500秒 F2.8 PKR」などと言うように。だが鉄道雑誌は写真雑誌ではない。当然ながら撮影データなど書いてありはしない。 写真雑誌の写真は、我輩から見ると全てが「作例写真」のように感じる。専門的で実践的なものは少ない。紙面の関係上、鉄道ページなど見開きカラーで2ページもあれば良いほう。あまりにも省略が著しい。 だが、鉄道雑誌では「まるごと鉄道特集」という感じで(当たり前だが)、余裕のある写真掲載が見応え十分。 もちろんそれは、鉄道だけではなく航空関係やファッション関係、銃器関連の雑誌でも同じこと。 前にも書いたが、写真雑誌というのは導入段階で読む程度で、後は各人が専門分野に散って錬磨すべきことだと思う。その証拠に、写真雑誌を長く購読していると必ず同じ特集のパターンに戻ってくる。読者はそのサイクルごとに新陳代謝されるということである。 総合的な立場の写真雑誌が勝手に設定する分野に自分を無理に押し込める必要など何処にあろう。 我輩などは、「月刊CAPA」や「月刊カメラマン」は何十冊もある(先日CD-Rに格納した)。そして、もはや新しい号が出ても目新しいものはほとんど無い。別にそういう雑誌を見下しているわけではないが、新たに買って読むほどの新しい情報が無い。今まで買いだめてきたもので十分なのだ。我輩所有分だけで何サイクルも巡っている。 (もちろん、新製品レポートや総合カタログ特集などのハードウェア面については資料的意味はあろう。) さて、専門分野の雑誌に目を移すと、写真がさりげなく使われ過ぎていて、そのデータが全く分からない。言うなれば、問題集の解答が載っていないのと同じこと。これは気になる。かなり気になる。 しかし考えようによっては、これらの専門雑誌の写真を手本にするには、自分自身に実践を強いることだと思う。掲載されている写真に近付けるべく、色々と自分で試しながら答を見つけ出す。その答を見つけ出す過程に於いて、自分の選んだ分野での実践的なテクニックや思想が積み重ねられる。それが鉄道雑誌で見た写真の解答であるかということは、もはやどうでも良いこと。それは自分なりの解答だ。答合わせをする必要も無い。 受験世代の我輩は、今までの問題集のような雑誌に慣れすぎて、答合わせがしたくて仕方がない。この状態はしばらくは続きそうだ。 ---------------------------------------------------- [278] 2001年07月01日(日) 「身近な先生」 写真が手軽な趣味となり、インターネットで同好の人間の繋がりが出来たこの時代、分からないことがあれば訊けば済む。まさに一問一答。簡単である。どこにでも写真にウルサイ先生がいて、相手に失敗させないような教え方をする。まあ、それは当然といえば当然だが、大事なプロセスを経ずに安易に結論に導くのは、「手軽」という言葉に隠された弊害の一つであろう。 (関連として雑文233参照) 我輩が最初に写真に触れたのは、モノクロプリント写真であった。 小学生の頃のことであるから、別段芸術的な要求からモノクロを選んだ訳ではない。ただ単に小遣いが足りなかったからだ。モノクロならばフィルムやプリント代が安く済む(現在ではカラーのほうが安くなってしまったが)。 それからしばらくして、カラープリントが当たり前になった。 家に置いてあるカメラ「ピッカリコニカ」にカラーフィルムが装填されており、それを時々使った。庭木にやってくるアゲハチョウやトンボなどを撮った。撮影した写真は忘れた頃に現像されていた。 そのうち一眼レフを手に入れ、交換レンズなども購入した。これで自分の写真が少し変わった。 しかしたまに、お気に入りの写真を引き伸ばすと色や濃度が変わってしまうということがあったが、それは運が悪かったのだと思った。 この時代は6〜7年くらい続いた。 ある時、ちょっとしたきっかけでリバーサルフィルムを使うことがあった。それはコダクロームというフィルムで、感度が64と低く使いにくいものだった。だがそれを現像に出して戻ってきた時、我輩はその色の鮮やかさに呆然となった。 「なんこれ?!はよこんフィルムで撮っちょきゃよかったそに!(なんだこれ?!早い時期にこのようなフィルムで撮っておけばよかったのに!)」 我輩がリバーサルフィルムで感動したのは、初めて一眼レフで写真を撮った時に匹敵するほどだった。 一眼レフは、ファインダーで見たままが写る。ピントがボケた様子がファインダーで見えるのは新鮮だった。そして今度は、リバーサルフィルムによって、見たままの色が写った。長い間諦めていたことが、リバーサルフィルムとの出会いによって改善可能なものとして考えられるようになった。 それ以降、我輩はそれまでネガフィルムで撮っていた分を取り戻すかのように、コダクロームを使いまくった。何かのイベント時(例えば陸上大会や菓子博覧会など)には1日に20本以上も撮り、フィルム購入は常にカートン単位であった。 その頃はまさに我輩にとっての戦争であった。 何も考えずにただ撃ちまくる。そして大量に発生する失敗写真。何が悪いんだ、と考える間もなく別の問題が発生する。それを補おうと、さらに撮影枚数は増えて行く。累々と積み重なる死体(失敗写真)の山。まさに泥沼の戦場だった。 今まで長い間鬱積(うっせき)していたカラーネガ写真の不満が思った以上に強く、リバーサルのポテンシャル(秘めたる能力)を目にした以上はそこに突き進むしか無かったのだろう。失敗写真が発生するたび、「こんなはずやない、もっといい写真が撮れるはず!最初に我輩を感動させたような写真を、ここでは撮れんちゅうのはおかしいワ!」とがむしゃらになった。 今、その頃の自分を静かに想い出す。 前にも書いたとおり、失敗は必ず1度は通過する。それがあの時期だった。カラーネガ写真という長いトンネルを抜けた後、新しいものに出会った衝撃。その新しいものとの付き合い方を自分だけの力で見出すには、戦争しか方法は無かった。 結局は人からアドバイスを受ければ安上がりで苦労も無かったろう。だが、失敗をしてそこから這い上がるために、いくつもの道を試した。それこそ「しらみつぶし」な努力である。この努力により、「遠近感の強調=広角レンズ」などというような一問一答形式になりがちな問題を、いくつもの経路の中の小さな問題であると俯瞰(ふかん)出来るようになった。 「全ての現象は密接に繋がっており、個々に取り出す意味は無い。」これは戦争で得た結論である。 頭の良い人間ならば、そのような無駄な戦争などせずに統一場理論によって全ての現象を事前に計算し尽くすことが出来るだろう。だが、我輩のような人間は、全てを失敗することによって、その背後に潜む大きな繋がりを感覚的に掴むことしか出来ぬ。それが我輩のやり方だから仕方無い。 もし我輩が、カラーネガ写真に不満を持つ前にリバーサルフィルムと出会っていたら、どうなっていただろう? 不満を持たぬ者に、新しい物の利点を説いても無意味である。我輩がそこから得る感動など無かったろう。カラーネガ写真を撮っていたからこそ、「見たままの色がそのまま写る」ということに感動した。最初からリバーサルフィルムに出会っていれば、「見たままの色がそのまま写る」などということは、実に当たり前のことであり、感動する理由など無い。 我輩の身近に写真にウルサイ先生がいたとしたら、感動するヒマ無くリバーサルを勧められていたかも知れぬ。そうなれば、今の我輩はここにはいない。 いやはや、そんな先生が身近にいなくて本当に良かった。 ---------------------------------------------------- [279] 2001年07月03日(火) 「自分の絵の具」 ある日、120フィルムからコダクロームが消えた。 それ以来数年間、我輩はコダクロームを使っていない・・・。 我輩が最初に使ったリバーサルフィルム、コダクローム。それは、我輩にとって大きな衝撃だった。深みのある色と緻密な描写。それは、現実の世界そのままを切り取ったかのような奥行きを感じさせた。 この場合の「深みのある色と緻密な描写」とは、コダクロームの特徴を見たという深い意味ではなく、それまで撮っていたプリント写真との比較の印象である。まさに「真実を写す」という意味の写真に思えた。 以降、我輩の常用フィルムがコダクロームとなった。 (厳密に言えば、最初に使ったのはフジクロームだったが、それは中学時代の文化祭で説明図のスライド上映をするために使ったものであり、単に「スライド映写用のフィルム」という認識でしかなかった。それ故、これは最初のリバーサルフィルムとしての想いは無い。) 中判カメラを使うようになったのは社会人になって経済的余裕が出来た時だった。 120サイズにコダクロームはラインナップされていなかったため、最初は中判だけはエクタクロームを使っていた。35mm判はコダクローム、中判はエクタクローム。かなり使いづらかったことを覚えている。 だがそのうちコダクロームが120サイズで登場した。なぜもっと早く発売してくれなかったのだろうかと思いながらも徐々に使い始めた。 35mm判と中判、同じ種類のフィルムを使うということは、我輩にとっては重要である。 常に同じ条件で撮影を行うことにより、人間に起因するもの以外のバラつきを最小限に抑える。これにより、自分の未熟さを浮き彫りにさせ、修行の必要性とその方向を示すのだ。言い訳の出来ない「結果」を突きつけられれば、我輩はそれを重く受け止めねばならぬ。フィルムのせいにすることは出来ないのだ。 「コダクロームはスミが汚い」と思うこともあったが、そんなことは最初から分かっていたことである。そのフィルムの良い部分を活かし、悪い部分を目立たせない使い方をしなければならないのは、他でもない自分の責任だ。 性能が良いと言われるフィルムが発売される度に乗り換えていくならば、自分の能力とフィルムの特性との境界線が曖昧になり、どちらが悪いのかが見えなくなる。そうなると、人はますますフィルムのせいにして自身の努力範囲を狭めてしまう。 我輩は、高性能なフィルムよりも、気心の知れた安定した付き合いを望む。だから、コダクロームを使い続けていた。 そんなコダクロームは、数年前に120フィルムの発売を中止した。 それ以降、我輩は35mm判もコダクロームを使っていない。 違うタイプのフィルムを併用することはそれほど難しくはないかも知れない。だがやはり、撮影前に自分が納得出来るようになるためには、1つの種類のフィルムを使い込む必要がある。そうでなくとも、乳剤番号の違いによって色がガラリと変わる。それが数種類のフィルムごとにまた違うのであるから、我輩には1つの種類だけで精一杯と感ずる。 我輩は現在、エクタクロームを使っている。もちろん、35mm判と中判の両方だ。まだまだそのフィルムに馴染んだようには思えないが、それも時間が解決してくれよう。永く使い続けているうちに、いやがおうにも見えてくるものがある。そういったものが少しずつ貯まっていき、だんだんとそのフィルムが自分にとって無くてはならぬものとなろう。 いくらキレイに写るフィルムがあろうとも、事前に予測のつかないフィルムなど使う気にはなれぬ。 頭の堅いヤツだと思われるのは仕方が無い。だが、我輩は写真を撮る動機として、「撮りたいものを、撮りたいふうに撮る」という原点を大切にしたい。それは、我輩が最初に使ったコダクロームで感じたことだ。自分の感じた現実映像を、写真の枠でそのまま切り取る。 画家は、昔から使い続けている絵の具や油のことをよく知っている。絵の具が固まった時、どんなふうな色やツヤになるのかを想像出来ている。それと同じように、我輩はコダクロームに代わるエクタクロームを早く自分の絵の具としたい。 ---------------------------------------------------- [280] 2001年07月08日(日) 「実物の痕跡(前編)」 レンズを使わない写真と言えば、レントゲン写真(X線写真)やフォトグラム(印画紙上に物を置いて直接露光する手法)が思い浮かぶだろう。もちろん、ピンホールカメラや電子顕微鏡写真というものもあるが、あれはピンホールや磁界がレンズの役目をして結像させている。 レントゲン写真とフォトグラムの共通点は、被写体となる物体に直接影を落として露光させる点である。当然ながら、背景などは一切写り込まず、被写体のみが映像化される。この点はレンズを用いる写真との決定的な違いと言える。だがそれでも写真には違いない。 厳密なる「写真」の定義がどんなものか、我輩は詳しく知らない。だが、レントゲン写真やフォトグラムを考えると、必ずしもカメラやレンズによって映像を結ぶものではないと考える。 では、どういったものが写真と言えるのか。感光体(剤)を使って得た映像か? しかし感光体が必須だとしたら、原子サイズの探針で物体表面を探る「走査トンネル型顕微鏡」の映像は写真とは言えなくなる。あれが写真でないとすれば、絵か? 確かに文字にこだわって考えるならば、「Photo−Photon−光」ということで、「光を使って生成した画像」と言うことになろう。だが、言葉に限界があるのは誰もが認めることである。その言葉だけを見て結論を出すならば、真実を見誤ることとなる。 我輩が勝手に考えるに、写真とは「途中経路で人間の主観に触れず、物理的に存在する被写体の相似映像を得ること」と解釈する。そう考えるならば、レントゲン写真やフォトグラムは立派な写真と言える。それに対し、コンピュータの計算によって画像を生成する3D画像は写真とは言えない。 要するに、「対象物が実在し、その痕跡を光や接触によってなぞることによって印象を得る」ということだ。それは実物の写しであるため、証明や証拠としての価値を持つことが出来る。 実物を印象した「魚拓」や「足跡」や「指紋」などは、それぞれに証拠的な意味を持っている。実物があったからこそ、それらが存在したという証になる。 それらは一般的な意味での「写真」とは言えないものの、広い意味での「写真」に入れてもいいのかも知れない。 <<画像ファイルあり>> 長崎・広島で投下された原爆で、原爆が炸裂して発する強烈な熱線により、家屋の板壁に人の輪郭がくっきりと焼き付けられたものがある。また、石橋の欄干の影が地面に焼き付けられたものがある。これも写真の一種と言えよう。 それは確かに存在し、その形を熱線がなぞることで痕跡を残した。だからこそ、それを見る者の心に訴える力を持つ。 写真が真実を写すかどうかは別として、何かの痕跡を残すという意味に於いては、写真は他には無い力を持っていると言える。例えそれが光の反射や屈折によるものだとしても、何らかの現象が忠実に映像化されたということは間違いない。 ※ ここは我輩が勝手に写真の定義を決め、それを前提として行った考察であり、「これが写真の定義だ」などと言い切るものでは無い。念のため。 ---------------------------------------------------- [281] 2001年07月13日(金) 「実物の痕跡(後編)」 恐竜ブームというのは何度かあったが、脊椎動物の化石は一般的には骨格しか残されていない。だから、我輩自身は恐竜にはそれほどの興味は無い。 骨だけの化石は肉体の輪郭がハッキリせず、その復元像を見ると復元者による主観が入り込むユルさがかなりあって頼りない。まあ、想像力をかき立てるという意味では、興味の対象としては悪くない。だが、その恐竜が生きていた時代の風景をも想像するとなると、それはもはや想像の上塗りとなる。 限られた情報量で想像するには、あまりにも漠然とした頼りない骨格の化石。それが、化石好きの我輩において、恐竜があまり好きではないという理由である。 それに比べ、三葉虫に代表される古代の節足動物の化石は、生前の姿をそのまま留めていることが多い。もちろん、学者の考える「生前の姿そのまま」とは違うだろうが、少なくとも映像的な意味においてはこれ以上のものは無い。本来ならば、絶対に知ることの出来ない古代生物の姿形を、主観の入り込む余地の無いほど正確に(保存状態の良い化石に限られるが)、現代に生きる自分に伝えてくれるのだ。 もし化石というものが無ければ、我々は太古の地球でどんな動物が生きていたのかを知ることは無かったろう。 厳密に言えば、それは「画像」と言うよりも「レリーフ」と言ったほうが良いかも知れない。しかし、堆積した泥によって鋳型を作られ、死骸は別の物質に置換される。その場合、鋳型を形成する泥の粒子が粗ければそのディテールが失われ、逆に粒子が細かければ精細画像が得られる。この過程は何となく写真の現像・プリントにも通じるようにも思える。 まあ、「これが写真との類似点だ」などとまとめるつもりは無い。ただ、実物の姿そのままに転写されているということや、過去の失われた時代の生物の姿をビジュアルに今に伝えるという意味で、我輩はそこに写真的価値を感ずるのだ。 人間が現れる遙か以前の世界を想像できるか? そこでは、ゆっくりと流れる時間の中で小さな生命たちが確かに活動していた。誰も見ることの無かった世界が確かに存在した。 地質的な変化を残さない限り、そこで起こったことは誰にも分からない。その様子を記録したり伝え話す者はただの1人さえもいない。 「生きた化石」と呼ばれる生物はいくつか見つかっている。しかし、長い時間の間に、微少な部分は多少は変化している。昔の姿そのままを見るには、やはりその時代で固定された化石の意味は大きい。 化石が写し取ったその生物は、我々にその生物の生きた姿を見せてくれる。それは、自然が残した記録映像である。我輩が曾祖父の顔を知っているのは時を越えて情報を伝える写真のおかげであるが、化石もまた数億年を貫いて情報を伝えるという意味ではその延長上にあると言えなくもない。 <<画像ファイルあり>> シルル紀のウミサソリ想像図 ---------------------------------------------------- [282] 2001年07月14日(土) 「あれこれ考えた日」 我輩は今年6月28日より、技術から営業へと転属となった。そして、雑文123で登場した「営業の課長」が、我輩の現在の上司となった。課長は我輩の能力(営業能力のことではない)を買ってくれている数少ない人物の一人だが、その課長が1件の仕事を持ってきた。 それは客先の某システムを紹介するためのPRビデオを撮るという仕事であった。その紙パンフレットとして写真が3枚必要だという。その撮影はビデオ撮影隊と同行して行うので、営業から撮影要員としておまえを送り込むと言われた。 正式にはまだ受注していないので、明日決定した時に、また改めて話をするとのこと。 よくよく聞くと、ビデオ撮影隊のプロデューサーは、つい1月前に我輩と一緒に仕事をした人物だった。これなら撮影もやり易いだろう。撮影は屋内と屋外両方があるという。場所は軽井沢であるから、1日仕事となる。 次の日、課長はこのビデオ撮影の話を受注したことを伝えてきた。課長は「これから客先に連絡をとって、スケジュールなどについて具体的な打ち合わせをする」と電話をかけた。 我輩は、詳しいシナリオや紙パンフレットのデザイン案を受け取り、撮影機材についてあれこれと考え始めた・・・。 印刷用ならば35mmサイズよりもブローニーサイズだと思ったが、パンフレットのデザイン案を見ると写真1枚の大きさは10x7cm程度である。これなら35mmでも十分だろう。 そうなると、「Nikon F3」を持って行きたいところだが、バックアップ用とするであろうデジタルカメラ「Canon EOS-D30」を考えると、レンズを共用する意味で「EOS630」しか無い。だがこのカメラは中古で購入したばかりであるので、不具合が無いかどうかが不安である。時間がある時にでもテスト撮影するか。 いや待てよ、同じレンズを使ったとしても、「EOS630」と「EOS-D30」とでは画角が違うので同じようには使えない。それならば、別々のメーカーのカメラを使ってもあまり違いは無かろう。やはり慣れたF3を持ち出すか。 室内撮影があるのならば、ストロボが必要となる。だが、軽井沢までストロボセットを担いでいくのも辛く、かといってクリップオンタイプの小型ストロボでは、部屋の広さが不明なだけに不安である。一応クリップオンストロボは持って行くことにするが、やはりストロボ撮影は無理だろう。そうなると、蛍光灯の色カブリを消すためのフィルターが必要か。必然的にフィルムも少し感度を高めのものを使わねばなるまい。 露出計は絶対に必要となる。これは「素人ではない」ということを示すための道具である。如何にプロっぽく見せるかということは顧客に対して必要なのだ。 もちろん言うまでもなく、露出を測るという意味においても露出計は重要である。だが実際にはそれほど何度も測る必要も無い。結局は安全を見て、露出をズラして複数枚撮ることになるのであるから。特にフィルターを付けた撮影では、露出計での測光は時間的に余裕が無い。 そうなると三脚は必要となる。同じ角度・アングルで何枚も撮るならば、三脚は無くてはならぬ。 ・・・大体のイメージは固まった。あとはスケジュールを聞いて調整するだけである。 課長は電話を切り、こちらを向いた。 「ビデオ撮影はあるが、カメラ撮影は無くなった。」 どうやら最初のデザイン案が良くなかったらしい。 我輩は机に向き直り、やり残した伝票作業を再開した・・・。 ---------------------------------------------------- [283] 2001年07月21日(土) 「近視のMF測距能力」 我輩は目が良くない。 先月までは開発に携わった業務に就いていたため、長時間パソコンを注視し続けていた。そのような職業ゆえ、まばたきの回数も極端に減り、無意識のうちに3回/分くらいまでにも低下する。 太平洋戦争中、レーダー(いわゆる電探)が無かったため、索敵には目視が重要とされた。いち早く敵を察知することが、戦闘を有利にするための必須条件であった。 そのため、波浪の波飛沫の中でもまばたきせずに索敵する訓練が行われたと聞く。まばたきをすれば、せっかく認めた敵影を次の瞬間には見失うこととなるのだ。 我輩の場合、パソコン画面上を高速で移動するマウスポインタに視点を追随させるためには、やはりまばたきは禁物である。仕事の効率とまばたきの関係は密接で、忙しく意識の集中した時ほど、まばたきを忘れる。 そういうわけで我輩の視力は年々低下し、今や数メートル離れると人の顔がよく判らない。眼鏡を掛けるのは好まぬゆえ、カメラのファインダーを覗く時も裸眼である。大抵のカメラには視度補正レンズを装着しているものの、やはりファインダーのピントが見づらくなるのは避けられない。 我輩の主力カメラ「Nikon F3」はMFである。そのため、合焦操作は目視と手動による他無い。まあ手動は良いとして、目視によるピントの確認には苦労がある。しかもその苦労は、視力の悪化と共に極めて緩慢に増えていったものであるから、その苦労が意識に上るまでに時間がかかった。 その苦労を自覚した当初、我輩は視度補正によって完璧に補正することを目指した。しかし、視力というものはその日の体調によっても随分変わる。近視であるからピント調節の機能が低下し、体調の変化を補正しきれない時がある。だから、完璧なる視度の補正は無駄な努力だということに気付いた。 そこで我輩は、「ピントを合わせる」という目的について考えてみた。 我輩が分析するに、MFでピントを合わせるという動作は、次のような動作があると考える。 まず第一に、ピントのボケているファインダーを見ながら、レンズのピントリングを回転させていく。ファインダーの像がだんだんハッキリしてくるが、ある程度行くと今度は再びボケてくるようになる。ピントの山を通り越したわけだ。 ピントリングを操作する時に、ある範囲内でピントリングを行ったり来たりさせるのは、ピントの山がどの辺りにあるのかというのを事前に頭にインプットし、その山型の曲線を無意識に思い描いているのである。最初からそれが山の部分であることは判らない。そこを通り過ぎて初めてピントの山に気付く。 だが、その山の位置は指の位置に関連付けて記憶されている。だから、慣れた者ならば1回は山を通り過ぎても、次の操作で一気にピントの山の位置まで戻ることが出来る。 (AFの場合では、ボケの量からあらかじめ合焦位置を割り出し、一気に合焦点までレンズを駆動する。測距点での像のコントラストが十分に高ければ、ピントリングが行ったり来たりすることは無い。) さて我輩の場合、視力が低下しているとは言え、大きなボケと小さなボケの違いは判る。その比較によって、ピントの山を見つけることも不可能ではない。当然ながら視度補正レンズを用いてなるべく視度を合わせることは必要である。しかし、体調によって若干ファインダー像がボヤけて見えても、ピント合わせ自体には影響無い。 もちろん、現代はAFの時代だ。だが、これまで何度も書いたように、AFにはまだ多くの欠陥がある。思い通りのポイントに合焦出来ないということもその1つと言えよう。人間の視線は揺れ動くため、視線による選択も決定的とは言い難い。視線を気にするあまり、画面全体を見回してファインダー枠を視野とすることを忘れる。 しかも、AFに頼ろうにも、全てがAFでカバーできる訳ではない。中判以上となると645サイズがかろうじてAF化に乗り出した程度でしかない。 MFでなければ撮れないものがある以上、MFでの測距能力を枯らすわけにはいかぬ。 ---------------------------------------------------- [284] 2001年07月24日(火) 「EOS-D30による野外テスト」 日曜日、葛西臨海公園へ出かけた。 ここへは何度も行っているが、最近やたらデカイ観覧車が竣工したとのことで、「Canon EOS-D30」の野外テストを兼ね、行ってみることにした。 デジタルカメラはイマイチ信用ならぬため、魚眼レンズを装着した「Nikon F3」も同行させた。 「JPEG最高画質」で260枚撮影可能なマイクロドライブを装着しているが、果たしてバッテリーがそこまで保つだろうか? 一応、スペアバッテリーを持っていくことにする。購入時は野外使用を考えていなかったため、バッテリー一体型グリップは持っていない。そのため、バッテリーが切れれば入れ替える必要がある。まあ、大した手間でもないが。 この葛西臨海公園は、東京ディズニーランドのすぐ隣にある。公園だけあって、ゆったりとした造りが好印象である。東京ディズニーランドのような閉じきられた窮屈な空間ではない。 ここはヘナチョコ妻と最初にデートした場所であるが、その時の映像記憶は断片的でしか残っていない。やはり写真は想い出として残すには重要である。 さて、観覧車の間近で写真を数枚撮った。魚眼レンズを装着した「Nikon F3」で撮影したのだが、さすがの大観覧車もかなり小さく見える。 当初、「かなり混んでいるだろう」との予想で観覧車に乗ることは考えていなかったが、実際に行ってみるとテレビで見たような行列は無かった。ちょうど良いタイミングなのか、あるいは一時期混んでいただけなのか。とにかく切符を買って階段を上がった。そこにはフジのデジタルカメラ「(型番調査中)」を持つスタッフ。 「記念写真をお撮りします」ときた。背景は何も無いところ。こんなところで記念撮影とは・・・。大体のオチは分かってはいるが、面倒なので素直に撮られた。 観覧車はゆっくり回るので、乗ってしばらくはヘナチョコを撮ったりして過ごす。数分後、かなり高く上ったところで魚眼レンズで撮影を始めた。魚眼レンズはNikon用しか無いため、銀塩でしか撮れない。しかし、魚眼の面白い景色を早く見たいので、Nikon用レンズを強引にCanonマウントにくっつけて撮影した。ピントは苦労するが、我輩のテクニックをもってすれば何の問題も無い。露出も最初からマニュアルであるから簡単である。 さて、観覧車から降りてくると、先ほど撮られた写真が出力されていた。1枚800円だったろうか。フチが飾られている程度だが、頼みもしない写真を買うなどということは我輩のプライドが許さぬ。結婚式の時と同じだ。 <<画像ファイルあり>> わりとサッパリした印象の観覧車。だが夜間イルミネーションでダイヤモンド形が浮かび上がるらしい。 <<画像ファイルあり>> Nikon F3に装着していた魚眼レンズを使ってEOS-D30で撮影。フルサイズでないので、画面の上下がケラれるのは仕方ない。 魚眼レンズを使うと、自分たちが宙に浮いているのが実感出来る。 <<画像ファイルあり>> 117メートルの高さの景色。あまりに込み入った画像では、細部が妙に劣化しているように感ずる。「JPEG最高画質」の設定であってもダメらしい。かといって「RAW形式」ではハンドリングが悪い(ハッキリ言って面倒くさい)。 <<画像ファイルあり>> ポートレートは特に問題なし。 さて、葛西臨海公園には有名な「葛西臨海水族園」がある。ここはマグロの回遊が見られるのが特徴である。 水槽の撮影は、照明が暗いためにかなり苦労した。デジタルカメラでは感度を上げることが出来るものの、あまり感度を上げるとノイズが乗って画面にザラつきが出る。 また、帰宅してから気付いた問題だが、ブレがあっても小さな液晶画面ではそれが判らない。いや、上手く写っているように見えるので、逆に安心してしまうという弊害がある。その場で確認出来ない銀塩写真ならば、もっと慎重に用心深く撮ったろう・・・。液晶モニタはあくまでフレーミング確認用だと割り切らねばならない。 <<画像ファイルあり>> 水族園の入り口のドーム。青空が濃いためか露出は理想的。 奥行きのある水槽を移動する魚を写真に捉えるにはMFで撮影する以外ない。さもなくばシャッターさえ下りない。 <<画像ファイルあり>> 暗い室内では、液晶画面で露出の見当が付く。だが、ブレててもその場で判らない。 さすがに、ほとんど動いていない被写体についてはブラさずに撮れた。 <<画像ファイルあり>> 小さな液晶画面では一見流し撮りが成功しているように見えるので注意が必要。(画面中央縦線はアクリル水槽の繋ぎ目) 水鳥「エトピリカ」。寄生虫で身体がかゆいため、水面を激しく暴れまくる。 <<画像ファイルあり>> 水中を羽ばたくように泳ぐため(上下にジグザグに泳ぐ)、流し撮りではどうしても上下のブレが出る。もっとも、これは修行(通いつめること)によって克服可能な範囲と見た。 <<画像ファイルあり>> 今回判明した問題点 (1)バッテリー能力 バッテリー能力は予想以上。1個だけで260枚を撮り切った。途中、ディスク容量が足らなくなり、液晶画面にて明らかに失敗と思われるカットを探して消去をしていた。時々このような作業を行いながらの撮影では、当然電力を余計に消費すると思われる。そのことを考えると、バッテリーの保ちはまずまずと言える。 (2)液晶パネル なぜかこのEOS-D30は、ほとんど当てにならない露出計を搭載している。背面の液晶画面では、強い外光によって液晶の確認が不可能となった。直射日光が当たれば、それこそ画像は見えない。晴天の野外では、液晶パネルの画像は、フレーミングの確認にとどめておくべきだ。我輩は液晶画面の濃度に惑わされてかなりオーバーな露光を与えてしまった。やはり単体露出計は必須だ。 また先ほども書いたように、ピンボケやブレの確認は、よほど極端なものでない限り不可能。 (3)自動OFF機能 一定時間無操作となれば、電力消費を抑えるためにカメラのスイッチが自動的に落ちる。しかし、いざ撮影しようとシャッターボタンに触れると起動時間が長いためなかなかシャッターが切れない。これはカスタム機能で機能を無効に出来るので、一般撮影ではぜひ自分の意志でカメラのスイッチをON/OFFしたい。 (4)画面ノイズ 水族館内は暗く、明るい望遠50mm f1.8を使わざるを得なかった。もちろん、EOS-D30では感度を1600まで引き上げることが出来るが、ノイズが乗って画面を粗くすることになる。 (5)AF補助光 暗い場所でAFをさせると補助光が投光される。しかしながら水族館の水槽に補助光を当てても無意味であり、周囲に迷惑でもある。これはカスタム機能で無効に出来るはずだが、撮影に忙しくMFに切り替えることで対処した。 ---------------------------------------------------- [285] 2001年07月27日(金) 「やはり思ったとおり」 ハインリッヒの法則によると、「重篤事故が1件発生する背景には、軽微な事故が29件、ハッとする出来事が300件ある」という。予測不可能な事故に見えても、それが起こる前段階として、表面に出てこない小さな出来事が起こっているのである。 それら小さな出来事に気付かない限り、事故は予測出来ない。 どこかで同じようなことを書いたのだが、ウチの近くの水戸街道は信号無視が非常に多い。信号が黄色になっても止まらないのはどこの地域でも同じだろうが、赤になっても全力で疾走する車は後を絶たない。 これは、信号待ちをしている我輩(歩行者)の目の前で起こったことだが、ある日、右折しようと交差点中央で待っている車が、信号が赤になって対向車が止まるかと思ったのか右折を始めた。しかし、対向車は逆にスピードを上げて交差点に進入した。右折車は急ブレーキを踏み、車体が前後に揺れた。そのわずか前を暴走車が抜けていった。 あれは本当に危なかった。少しでも右折車の揺れが大きければ、暴走車との接触は免れなかったろう。 このケースでは、当然ながら事故として記録されることはない。 <<画像ファイルあり>> また、これも同じ交差点の出来事であるが、街道側の信号が赤になり、気の早い者は横断歩道を渡り始めようとしていた。 「水戸街道を渡るのに見切り発進するとは命知らずなヤツめ」と思って見ていると、1台のトラックがタイヤをきしませ、道路から煙を吹き上げながらそいつらの前をかすめて行った。 「キュキュキュキュ!」と壮絶な音を立てながら、斜めに傾いていて走るトラック。もう少しで片輪走行になるかと思われた。運転手の姿がスローモーションのようによく見えたが、かなり焦っている様子が手に取るように判って笑えた。 理解出来ないのが、街道側の道路を直進してきたトラックではなく、街道を横断する側のトラックだったということだ。しかも、駅のロータリーから出てくる道路なので、向こうのほうからスピードを上げて突っ込んできたということも考えにくい。 我輩が考えるに、このトラックも歩行者と同様に見切り発車して、横断歩道に歩行者が出る前に急発車で強行左折しようとしたのかも知れない。横断者がいれば、左折したくても手前で待つしかないからな。だが、歩行者もまた見切り発車したので、お互いに衝突の危険があり、急ハンドルでトラックが斜めに傾いたのだろう。 その道路には、真っ黒なタイヤ跡と白い煙が残った。トラックはその先で数秒止まっていたがすぐに発車して去った。 このケースでも同様に、事故として記録されることはない。 <<画像ファイルあり>> これらのケースは事故に至らなかったものだが、水戸街道は前頭葉の未発達な無法者が多く存在するため、特定場所に限っても、1日に何度も同様なことが起こっているに違いない。たまに、交差点に細かいガラス片や何かの積み荷が散乱していることがあるが、我輩の見ていない時に事故でも起こったのだろう。 警察もたまには気にすることもあるのか、交通整理をやったりすることもある。しかし、それもすぐ止めてしまうので意味が無い。 そのような状況から考えると、このような出来事に遭遇するのは偶然として片付けるにしても不自然だ。先の「ハインリッヒの法則」を考えてみると、このような事件が300件ほど続くと、重大事故が起こると予想出来る。 だからこそ、我輩はメモカメラの必要性を感じていたのである。 さて、7月27日朝、いつものように出勤しようと駅へ向かった。水戸街道の信号が遠くに見える。しかし、そこには救急車の回転灯が見えている。何事か? 近付いてもあまり様子が分からない。消防車のような赤塗りの車両も停まっている。火事でも起きたか? ふと手前を見ると、前部をぶつけた乗用車があった。交通事故である。緊急車両に気を取られ、事故車を目の前で見るまで気付かなかった。 我輩はとっさにカバンの中を探した。幸い、営業に配属されて大きなカバンを持ち歩いていたこともあり、メモ用としてデジタルカメラは常に携帯していた。カメラのスイッチを入れたが、撮影可能になるまでの時間がもどかしい。最初の1枚目はシャッターの切れるタイミングが合わずフレーミングがズレてしまった。もう一度ゆっくりとシャッターを切った。 <<画像ファイルあり>> 7月27日8:00頃 やはり我輩の思った通りだ。いつかはこのような事故に遭遇すると思っていた。それは当て推量やカンなどではなく、今までの状況から自ずと推測されたことであり、ある意味必然とも言える。 ハインリッヒの法則が正しいとするならば、恐らくこの日までに300件の小さな出来事が起きていたことになる。 やがて信号が青になり、我輩はその様子を見つつ駅へ向かった。 負傷者がいたのであろうか、背後で救急車のサイレンが鳴り始め、その音は急速に移動し小さくなっていった。 ---------------------------------------------------- [286] 2001年07月28日(土) 「一度きりという覚悟」 死後の世界があるのか、それとも無いのか。それは今のところ証明しようが無い。少なくとも死んでしまえば生き返れないことはハッキリしている。だから、死というものは怖い。人生一度きりだという意識が常に働き、自分の身を守ることが最優先される。それが生物としての本能である。 人生一度きりならば、その人生を精一杯生きねばならない。やり直しがきかない人生であるから大切に生きたいと思う。余命いくばくもない者が、劇的な人生を送ることがある。それは、残された人生を精一杯生きようとするからだ。 だが、死を恐れるあまり、不老長寿を願う者も中にはいる。秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めたように、永遠に生き続けようとすることは、すなわち死から遠ざかろうとすることである。 しかし、永遠に生きようとも、そこから真の力は出てこない。「次がある」という甘えが永遠に続くだけのことだ。 我輩は最近、デジタルカメラの手軽さに翻弄されている。特に、一眼レフ型のデジタルカメラを購入して以来、どんな失敗も怖くなくなった。デジタルカメラは失敗写真をその場でいくらでも帳消しに出来るのだ。 適当に、何の考えも無くシャッターを切り、そして気に入らないものがあれば消去する。どんなふうに撮ったかさえ印象に残っていない。失敗がその場で判明するため、液晶画面を見ながらうまく写るまで撮り続ければいいだけのこと。 確かに本体の液晶モニタだけでは確認が難しく、まさか1枚撮影するごとにヒストグラムを表示させて確認するわけにもいかないだろうが、それでも決定的な失敗は事前に確認出来る。 そのような撮影では事前の検討はほとんど無く、結果を見て修正するのみ。露出計の読みをどのように行うか、どのように写真として表現するか・・・、前もってイメージを頭の中で起こそうとしても、今撮影した大量の写真から選り分ければ済んでしまう。 何が原因で失敗したのか、何が原因で成功したのか。それを追求する間も無く結果を得て満足する。そこには「ダメなら何度でも撮り直せばいい」という意識が常に働いている。 銀塩カメラは、現像処理を経て初めて失敗かどうかが分かる。しかし、その時点ではもう撮り直しがきかない。あらためて撮りに行ったりセッティングをしたりしなければならない。だから失敗が怖い。例えるならば、まさに「一度きりの人生」。 失敗が怖いからこそ、自分の持てる能力を最大限に使って全力で撮る。そこに甘えは一切無い。 別に、デジタルカメラが良いとか悪いとか言っている話ではない。要は、それを使う者がデジタルカメラの利点を十分に消化しきれず、ただ手抜きするということだけに気を取られてしまうことが問題なのだ。 「一度きり」という覚悟も無くシャッターを押すこと。それは、写真を写すという楽しみを半減させてしまう。我輩としたことが、今頃それに気付くとは・・・。 これからは撮影直後に現れる液晶画面を表示させないようにする。そのほうが、撮影時に不便であっても自分自身の力を引き出すことになる。「一度きり」の撮影であることを意識させることで、緊張感を以て撮影に臨むことが出来る。 ---------------------------------------------------- [287] 2001年08月03日(金) 「写真を殺すデザイナー」 最近我輩は、極めて硬い甲鉄で覆われた戦艦大和が簡単に沈められたことを不思議だと思い始めた。 大和型戦艦は46センチ主砲を搭載し、魚雷攻撃はもちろんのこと、同クラスの砲弾を撃ち込まれても防御出来ることを想定して造られたはず。不沈艦と呼ばれた大和がなぜ沈められたのか。 確かに10本以上の魚雷を受ければたまらないというのもあるだろう。だがもう少し技術的な面での理由を知りたい。厚い甲鈑はなぜに破られたか・・・。 そんな疑問から、我輩は戦時中での造船に関する本や戦史などを調査してみた。 それら書籍の中には、興味深い貴重な写真資料が多く掲載されているものもあり、我輩は静止したモノクロ写真から爆音や煙のにおいを感じとった。 古びた写真ながらも、それは確かに存在した風景をフィルムに焼き付けたものである。それは、今自分を取り囲んでいる現実世界と同じように、色や音や動きを持っていたのだ。 このように、過去を記録した写真の重要性は以前にも書いたと思う。 だがいくつか購入した書籍の中で、そんな写真を台無しにするようなレイアウトをしている本があり、かなり不愉快に思った。それは、見開きレイアウトを安易に多用したもので、明らかに思慮を欠いている。 <<画像ファイルあり>> 特攻機によって炎上した米空母。船体が見開きの間に埋もれてしまっている。本が割れるくらい開くと、ようやく艦橋部分が見えてきた。 <<画像ファイルあり>> 「特攻機が火に包まれて落ちていく」という解説が載っている。だが、どんなに見開きを開いても煙のスジは見えるものの、火の部分はほとんど埋もれて見えない。 <<画像ファイルあり>> 攻撃を受けている戦艦「伊勢」だそうだが、肝心の戦艦の姿が見開きの間に埋もれていて、艦首と艦尾がかろうじて見えるのみ。 我輩は、基本的に見開きの写真は好きではない。もちろん、それは個人的な好みの問題も多分に含まれているだろう。しかし、それでも写真を見開きページの真ん中で分断するのはあまり見易いとは言えないと思う。いくら面積的に迫力があるように見せようとも、本の綴じ方によってはほとんど真ん中が見えなくなる。 手元に鉄道関係の写真集があったので、試しに見比べてみた。こちらは意味の無い見開きレイアウトを多用せず、スッキリと見易い写真集であった。たまに見開き写真もあるのだが、それは問題無い写真で構成してあり、表現に無理が無く素直に観ることが出来る。 デザイナーは、本の綴じを意識しながら、如何に効果的で見易いレイアウトにするかを考え抜かねばならない。そうでなければ、写真を切り刻む必然性を失い、写真家からも反感を買うことになる。 恐らく経験の浅いデザイナーがDTPを用いて組版をやる際に、モニタ画面上で見る見開きページの迫力に影響され、その勢いで版を組んでいったのだろう。確かにモニタ画面上では、見開きの中心部へと目が行く。 だが実際に「本」という物理的な形が完成してみると、その見開きがことごとく裏目に出た。経験の浅さ故、モニタ画面上で全てのことが完結出来ると思い込み、製本のことまで想像が及ばなかった。 本人は大胆なレイアウトだと思っていただけに、虚しさはまた大きいと言わざるを得まい。 画面上でスマートにデザイン及びレイアウトしているつもりが、現実を無視したユーザー不在のレイアウトとなった。出版社側は単に売れれば良いと考えるかも知れないが、金を出してその本を買った消費者と、貴重な写真を提供した者の信頼を裏切る行為である。 デザイナーとしてのセンスを認めさせようとして出しゃばるのも理解出来ないわけじゃないが、あまりに視覚効果を無視した、フィーリングだけに頼ったデザインはやめてもらいたい。別に特別なことを要求しているわけではないんだ。これは消費者である読者の立場からの願いである。 貴重な写真を、切ることなくそのままの姿で伝えて欲しい。 (参考関連雑文) ---------------------------------------------------- [288] 2001年08月04日(土) 「昔の敵は今日の友」 我輩は、少年時代に漫画家になりたいと漠然と思っていた時期があった。目標は藤子不二雄。もし我輩に才能と根性があれば、手塚治虫を目標とした藤子不二雄のように、藤子不二雄を目標とした漫画家の我輩が存在したかも知れぬ。 成人した今では、我輩はほとんど漫画を読まなくなったが、それでも気に入った漫画や興味深い漫画は読んだりする。昔の漫画でも、復刻版として書店に並んでいたりするので、思わず買ってしまうこともある。 我輩の読む漫画としては、「ドラえもん(藤子不二雄)」、「ブラックジャック(手塚治虫)」、「ゲームセンターあらし(すがやみつる)」、「北斗の拳(武論尊/原哲夫)」、「ドラゴンボール(鳥山明)」、「カメレオン(加勢あつし)」といったところ。 何がその漫画を「面白い」と思わせるのか。 自分の気に入った漫画を並べてみると、いくつかの共通点があるように思える。 その共通点の中でハッキリと分かっているのは、「以前敵同士だった相手が更に強大な敵を前にして手を組み共に闘う」というパターン。最初は仕方なく手を組んだものの、いつしか友情が芽生えてくるのである。その友情は、新たな敵が強大であれば強大であるほど強くなるようだ。 ここでは、「ゲームセンターあらし」、「北斗の拳」、「ドラゴンボール」、「カメレオン」がそのパターンに該当する。 さて、このような構図はカメラの分野にも見られる。では、ちょっと昔を思い出してみよう・・・。 昔は「キヤノン派」「ニコン派」などという単位で陣形が分かれていた。 メーカーそのものも、数字の順列やマウントの回転方向などが全て逆の造りになっており、対立関係をそこからも感じたものだ。 しかし、AFという新しい勢力が台頭してくると、「MF派対AF派」というものになった。もはやキヤノンであろうが、ニコンであろうが、MFならば等しく同志である。共に手を取り合い、陣形を固めた。 特に、AF化されてマウントが変更されたキヤノンでは、AFとMFの間にハッキリとした境界線が引かれている。同じ民族でありながら軍事境界線で分断された南北朝鮮のように。 さらにここ数年を見てみると、新しい脅威が急速に立ち上がってきた。デジタルカメラがそれである。 最初の頃はまだビデオカメラ用のCCDを流用した程度のものでしかなかったデジタルカメラであったが、今では印刷原稿にも耐えるクオリティを持つものさえ現れている。 そうなると、もはやAF派だのMF派だのと言っていられなくなってきた。「銀塩カメラ対デジタルカメラ」というところまで戦況が変化している。ここはひとまず手を組むしかない。 「銀塩不要論」を唱える者すら現れ、その極端な主張に対し、AF派もMF派も共通の敵をそこに見たのである。今、新たなる闘いが始まろうとしているのだ。 もし将来、銀塩カメラとデジタルカメラが手を結ぶ時が来るとするならば、一体どんな強大な敵が現れるだろう? その芽は目立たないながらもすでに現れているのかも知れない。 「昔の敵は今日の友」。ケンカできるのも今のうち。 ---------------------------------------------------- [289] 2001年08月05日(日) 「計画−今年の夏」 盆休みが近付いてきた。 今年は霊になったオバチャンの初盆であり、親戚中が集まって寺で供養も行うらしいので、我輩も帰省することにした。 さて帰省するとなると、必要になるのはカメラ。 今年はデジタルカメラという選択肢が増えて、我輩を更に悩ませる。 限られた手荷物の中で、どのカメラとレンズを持って行くのか・・・。これは最後の最後まで悩む問題である。今回はなるべく早く心を決めたい。 前回、デジタルカメラ「EOS-D30」の野外テストを行った。その経験によると、どうもデジタルカメラを使うとシャッターを押す回数が増えるようだ。気安く撮影出来るのが原因か。従って、我輩が所有する記録メディア最大の260枚(高画質JPEG記録)ではとても足りない。36枚撮りフィルムに換算すると7〜8本程度でしかない。そうなると、ノートパソコンを持ち運び、データが一杯になったらパソコンから吸い上げるしかない。 パソコンは持ち帰るつもりでいたのだが、さすがに撮影時まで携帯したくない。葛西臨海公園に行った時には途中で一杯になったことを考えると、デジタルカメラを丸一日使うには追加のメディアが必要となろう。1GBのマイクロドライブだと5万円弱か。・・・やめておこう。 まあ、「EOS-D30」は基本的に室内撮影を目的にしていたのだから、今さら屋外で使用することなど考えるべきではないとも言える。もしデジタルカメラを持って行くとするなら、メモ用として小さなものをカバンの片隅にでも入れておこうか。なまじメインカメラと張り合うようなものを持って行くと、それこそ目的を失う。 そうなるとやはり「Nikon F3/T」の出番となる。 F3というのは一般人にもその良さが分かるカメラのようだ。今年の正月、別府に遊びに行った時に一組の中年夫婦にシャッターを押してくれと言われたことがある。ヘナチョコ妻がシャッターを押してやったのだが、チラッと見るとオイちゃんが渡したカメラは「Canon EOS700」のように見えた。どう見てもカメラにこだわっているとは思えない。 今度はオイちゃんが「こちらもシャッター押しましょう」と言ってきたのでF3/Tを渡した。オイちゃんはシャッターを何気なく切ったが、そのあとF3/Tをビックリした顔で眺めてひとこと言った。 「なんやこのカメラ、シャッターが感触ええわ!」 「そらそうよ、20万すんやもん」 「ほあ〜、かいこせん?(とりかえっこしない?)」 そして皆で笑った。憎めないオイちゃんだった。 久しぶりにF3のシャッターを切ってみた。なかなか切れが良い。本来なら当たり前のことであるが、シャッターボタンを押した瞬間にシャッターが切れるのが新鮮。EOS-D30ならば、AFや記録メディアの用意が出来て初めてシャッターが切れる。 いつでも気軽に行ける近場ならまだしも、新幹線で7時間くらいかかる場所へ持って行くカメラなら、撮影者に心労をかけない癒やし系カメラが最適なのだ。 それからフィルムについてだが、帰省時の撮影の目的とは、現時点の風景を記録し固定させるということである。現時点ではあまり価値を感じない地元の風景であるが、年月を越えた風景は貴重なものとなるはずだ。そのためにもリバーサルフィルムならば耐久性は心強い。24mmF2.8と万能レンズ50mmF1.8で映像を焼き付けることにしよう。 ・・・結局、今度の帰省も同じ結論になったなあ。 ---------------------------------------------------- [290] 2001年08月11日(土) 「百害あって一利無し」 我輩は中学生の時の弁論大会でタバコの害について訴えたことがあった。我輩の熱のこもった弁論は時間を延長して続いたが、ほとんどの奴らは低知能のバカヤロウばかりだったので、我輩の声も虚しく体育館に響くのみだった。 おまけに教師による採点も、時間を延長してしまったということで最低に近い点数だった。 写真をやっている者でタバコを吸う者も中にはいるだろうと思う。中学の弁論大会の時にも言った言葉であるが、悪いことは言わん、タバコは止めておけ。 ここでは、タバコを吸う者には大きな反発があるということは承知で、写真活動に影響を与えると思われるタバコの害についていくつか述べてみたい。 経済的な害 タバコは経済的圧迫を加えてくる。 我輩はよく人に、「カメラにつぎ込む金がよく続くなあ」と言われる。当たり前だ。酒やタバコやバクチをやらない。昼飯も外食は避け、どんなにノドが乾こうが自販機の前では止まらない。 そのような努力が、金の浪費について写真やカメラへの指向性を上げているのである。どんなに小さな出費であろうとも、それらの出費に指向性が無ければ全くの無駄金なのだ。 一箱たったの二百数十円。その低価格がワナである。レシートで残らないちょっとした買い物というのは、普段気にとめていないと意外に多くなる。タバコはその中の1つである。それはそのうち、写真活動へも影響を与えるだろう。 安いものほど、節約が必要だ。 精密機器に対する害 我々が趣味とするカメラ周辺の機器は、光学製品が主体である。カメラやレンズは言うに及ばず、画像処理で使用するパソコンの分野も、スキャナやMOドライブ、CD−Rドライブなど、光学装置を持つものがある。これらの機器は、当然ながら汚れに弱い。特にMOドライブはホコリに弱く、初期のMOドライブはホコリが侵入しないようにファンの前には交換可能なフィルターが付いていたくらいである。 ハードディスクなどは密閉されているので問題無いが、もしタバコの煙が入り込めば、煙の粒子は磁気ヘッドとディスクとの隙間に引っかかる大きさである。 我輩の職場(正確には以前の職場)のフィルムスキャナでスキャンした画像は妙に霞んで見える。購入当初は問題無かったのだが、ここ最近、その霞は度を増していった。その後、ちょっとカバーを外して調べてみる機会があったが、スキャナの心臓部とも言うべき対物レンズがタバコの煙で曇っていた。恐らくCCDのほうも密閉されていないようなので少なからず影響があったと思われる。 マナーについての害 また、タバコを外で吸う者も見掛けるが、そのタバコはほぼ間違いなく路上へ棄てられる。中には我輩の目の前で火のついたままで棄てるヤツがいた(ソイツは足でモミ消そうとしたが踏み違えてしまい、面倒だったのだろうか火が消えぬままで立ち去った)。もしかしたら、ニコチンは良心回路を焼き切るのかも知れない。 そのような不心得な行為に慣れ切ってしまうと、フィルムケースをその場に棄てることも抵抗無くなる。 持久力と依存性についての害 タバコは自らの肉体的持久力を奪うばかりか、精神的依存性をも生み出す。これは、粘り強く取り組まねばならない写真活動には大きなマイナスである。そのマイナスを補うため更にタバコを吸う・・・。完全なる循環である。 それから、タバコは非常に依存性が高い。禁煙が失敗するのは依存性のためである。「それが無ければ何も出来ない」というのは、一つの弱点でもある。そんな弱点をわざわざ作り出すのも愚かな話とも言える。 非喫煙者はタバコが無くても生きていける。しかし、喫煙者はタバコが無くては生きていけない。それはあたかも、我輩がF3に依存しているように実に面倒くさい話だ。 結論。タバコは、良くない。まさしく「百害あって一利無し」。 ---------------------------------------------------- [291] 2001年08月12日(日) 「途上国援助」 日本の途上国に対する援助は中途半端なものが多い。金や資材だけ出して、あとは知らん顔。 物資が途中経路でピンハネされて末端まで届かなかったり、高度な知識を必要とする複雑な機械のために活用出来なかったり、あるいは特殊な部品を使っている器具のためちょっとした故障で使用不能となって放置されたりしている。 そうならないためにも、きちんとした計画に則った援助を行う必要がある。長い目で見た長期的プログラムを考え、何が本当に相手に必要であるのかを見極めること。 ・・・大げさな前振りだったが、何のことはない、我輩が以前実家に土産として持ち帰った「ミノルタα-7000」のその後についての話だ。 我輩は今、九州の実家に帰って来ている。 そこでふと、「ミノルタα-7000」がどうなっているかを見てみようと思った。カメラケースを開けると、長い間使われていなかったかのように、グリップのゴム部が白い粉を吹いていた。 思わず手を止めてしまった我輩だったが、気を取り直してシャッターを切ってみた・・・つもりだが切れない。 液晶表示は出ているが、ウンともスンとも言わないんだ、コレが。 AFさえも全く動作しない。 そのカメラを見つけたのは、夏の暑い気温に即座に同調する部屋である。高温多湿なその部屋は、いくらプラスチック製カメラであろうと酷であったろうと予想出来る。事実、数少ない金属部品であるビス(小さなネジ)表面が赤茶色に錆びていた。 「これは、壊れたかも知れん・・・。」 動かなければ何もせず、放っておく。それはまさに途上国に援助された機械のように見える。いくら簡単なカメラとしてα-7000を選んだとはいえ、やはり一眼レフというのはそれなりに難しい。そんなカメラが動かなくなれば、それこそ何も出来ずに放って置かれるのは当然。 結論から言えば、単に電池が切れただけの不具合であった。だがそのような単純な問題であっても、未知の機械に対する適切な対処が出来ようはずもない。 良かれと思って与えたものでも、それを活用出来なければその援助は「無」に等しいのである。 我輩は再びカメラが使えるようになったことを伝え、フィルムを入れてやった。これがデジタルカメラであったならば、事態はもっと複雑だったろう。 だが、今回の件でα-7000が本格的に活躍する見込みは薄いと感じた。我輩の考えの浅さが招いた結果だった・・・。 ---------------------------------------------------- [292] 2001年08月13日(月) 「先祖返り」 生命の発生過程において、その生物種が辿ってきた進化の道のりを、形態変化として再現する。これは「個体発生は系統発生を辿る」としてよく知られている。 地球上のすべての生物は、突然それぞれの姿を以て登場したわけではない。それぞれに辿った道を、個体それぞれに確認しながら生まれてくるのである。 感材を用いた写真撮影法を発明したのは、フランスのニエプスであるが、ピンホールを使ったカメラオブスキュラ(いわゆる暗箱)で正確なデッサンが出来ることを最初に提唱したのは、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチである。 ピンホールと反対側に映る逆さまの風景を何も考えずになぞっていけば、いつのまにか精密画が出来上がる。 我々はそのような写真の歴史のことは全く関心を持たず、ただシャッターボタンを押してあたかも自分の力だけで写真を得ているかのような錯覚に陥る。描画作業そのものはあくまでもフィルムや印画紙の化学変化を利用しているに過ぎない。我々はただ、感光面に対してレンズからの光を投影させているだけであり、本来ならばここから鉛筆やペンを使って描画するという作業があったはずである。 写真について自分なりの哲学を持つためには、一度「自分の手で描画をする」ということをやってみるのもいい。 まさにこれは「個体発生は系統発生を辿る」そのものである。 現在十分に発展を遂げた写真界であるが、その時代の知識だけでは、、全体を俯瞰し自分の位置を見ることは出来ない。1人1人の個体が成長するためには、系統発生的に写真の歴史を追体験するのも意味があろうかと思う。 まあ、今の時期はほとんどの者は夏休みに入っているだろうと思うので、ちょっとお遊びで「暗箱スケッチ」をやってみるといい。暗箱スケッチとは言っても、少し簡略化して写真を下地にしてトレースすることを提案しよう。 「トレース」などというと面倒な気がするかも知れないが、今はパソコンという便利な道具があり、ソフトさえあれば手軽に始められる。 まあ、CADのように精密にやる必要もないので、手元にあるグラフィックソフトでやってみるのもいい。ペンタブレットがあれば簡単。もしマウスだけで描くならば、「アドビ・イラストレーター」や「マクロメディア・フラッシュ」などのベクトル加工ソフトを用いると、修正も楽で良い。 ここでは、比較的低価格なマクロメディア・フラッシュを利用し、マウスを使って写真のトレースに挑戦してみることにする。 ----------------------------- <<画像ファイルあり>> マクロメディア・フラッシュで、下絵となる写真を読み込ませたところ。 ベクトルデータは拡大縮小が自由に行えるので、作業のやりやすい大きさで読み込ませれば十分。 <<画像ファイルあり>> 新しいレイヤーを追加し、そこで描画を始める。下絵と区別させやすくするために、トレースは赤などの目立つ色でするといい。 もちろん、込み入った部分の線は画面を適宜拡大させながら作業することになる。 <<画像ファイルあり>> トレースしたあと、下絵を削除する。その後、トレースした線の色を黒に変換させれば良い。ここまでの工程、およそ15分ほど。慣れればそれくらいで描ける。 しかしこの程度のトレースならば、プロのフラッシュ使いやイラストレーター使いであればほんの5分もあれば一気に描き切ることだろう。 ----------------------------- いかがだったろう?今まで「撮る」というほうにウェイトを置いてきたがために、あまり「見る」ということを重視してこなかったことに気付かされたのではないだろうか? 見たとしても、考えもなく漠然と全体を「眺める」だけにとどまっていたことだろう。それは、色彩に惑わされた視点であり、人間が本来得意としている「輪郭線の認識」を刺激しない。だから、気付くべきものが目に入っても認識出来ないのだ。 例えば遠近感などは、実際に自分の手で描いてみて初めて「こんなに物の形が変わって写るのか」ということを自覚させられる。これは、他人に教わるよりも実際にやってみて初めて体感することなのである。 写真の祖先である絵画の世界では、輪郭線がデッサンの出発点であり、基本中の基本である。仮に色だけで構成しようとも、色と色の境目で輪郭を表現しようとする意識が常に働く。輪郭線は、人間が物の形を認識するために絶対不可欠な概念なのだ。 無駄なお遊びに見えても、それが自分の視点を変えるきっかけとなるのは珍しくない。まあそうは言っても、そうなるかそうならないかは、人にもよるがな。 ---------------------------------------------------- [293] 2001年08月16日(木) 「定点撮影」 異なる時代に撮られた2枚の同一地点の写真。 そこには、それぞれ1枚の単体写真からでは得られない情報がある。2枚の写真を比べることによって初めてあぶり出される情報。それが、定点撮影の面白さと言えよう。 だがしかし、定点撮影は簡単に出来る撮影ではない。比較のための昔の写真が必要であるし、もし今から撮り始めようとするならば、写真を数年から数十年ほど寝かせて置かねばならぬ。実に気の長い話である。生産性という意味では、全く話にならない写真なのだ。 そしてもう一つ、定点撮影を難しくしているのが、風景の移り変わりのタイミングである。 あまりに風景の移り変わりが早いと、比べる手掛かりすら無い。また逆に移り変わりが遅すぎても、発見が乏しく面白くない。いかに風景が無常と言えども、一方向に変化する風景の移り変わりというのは、それぞれに速度が違っている。 まあ、それはそれなりに面白いかも知れないが、2枚の写真を見比べるという楽しみに丁度良い写真を撮るには、少しずつ確実に変わりつつある風景を選ぶのが重要。 さて、8月13日に北九州市の皿倉山へ登った。そこからは洞海湾一帯が見渡せ、スペースワールドや現在開催中の北九州博覧祭会場などが見える。 狭い頂上を一周すると、洞海湾とは反対側に平尾台方面が見えた。 平尾台は石灰岩で出来たカルスト台地であり、山口県の秋吉台とともに知られている。そこでは、セメントの材料として石灰石の採掘が行われており、その山肌を深くえぐり取った跡は、直線距離にして13km離れたこの皿倉山からも容易に確認出来る。 <<画像ファイルあり>> 左は住友セメントの採掘場、そして右は三菱マテリアル採掘場であり、それらはまるで虫歯のように深く削られている。特に、三菱マテリアルのほうは、3本並んだえぐれが特徴的である。 我輩は、その風景を見て感ずるところがあった。 単に、以前見たことのある風景というだけではない。昔、平尾台に行った時にその採掘現場をカメラに収めたことがあったという記憶が蘇ってきたのだ・・・。 次の日、我輩は西鉄バスで小倉側から平尾台へと向かった。そこには、皿倉山から遠くに見えた景色が眼前に広がっていた。 まずは、住友セメントの採掘場を撮影。 <<画像ファイルあり>> 1983年時点での住友セメント鉱山 <<画像ファイルあり>> 2001年時点での住友セメント鉱山 一見して分かる通り、石灰石の採掘が進んで山の稜線が削り取られている。丁度、包丁でリンゴの芯をサクッと切り取ったかのような感じか。 面白いことに、20年近く隔てられた2枚の写真から丹念に岩肌の模様を見比べていくと、その模様はほとんど当時と同じであることが判る。それ故、模様を手掛かりとしてどのラインで切り取られたのかというのが判るのだ。 次に、三菱マテリアルの採掘場を撮影した。 撮影角度が2枚で多少違うものの、一見3本の溝に変化は無いように見える。 <<画像ファイルあり>> 1983年時点での三菱マテリアル鉱山 <<画像ファイルあり>> 2001年時点での三菱マテリアル鉱山 だが、よく見てみると、溝の高さが減っていることが判る。おそらく溝はそのままで、山の上面を削り取った結果なのだろう。このまま行けば山はどんどん低くなり、溝は完全に消えてしまうことになる。 溝が完全に消えてしまった後に写真を撮ったとすれば、あまりに違いすぎる光景に、同一地点での写真だとは誰も気付かないことになる。それでは定点撮影の面白みも半減する。 次にここを訪れる時、その山はどんな形になっているだろう? 2枚の写真からの延長上の風景を想像するのも、また定点撮影の楽しみでもある。 ---------------------------------------------------- [294] 2001年08月17日(金) 「ゆけ! ゆけ! 川口浩!!」 嘉門達夫が歌う曲「ゆけ! ゆけ! 川口浩!!」は、当時の探検番組をモチーフにしたパロディである。 歌詞を正確に覚えているわけではないが、確か「前人未踏の地を行く川口浩を前方からカメラが撮影している」とか、「洞窟の中のシャレコウベは磨いたようにキレイだ」とか、「行きはあれほど毒蛇や険しい道があったのに、帰りはすんなりと帰っている」というような内容だったと思う。 前回の雑文で平尾台へ行った話をした。 だが、ただ単に石灰石採掘場を見に行っただけで帰るわけがない。今回我輩が平尾台へ行った主たる目的は、平尾台のカルスト地形の調査である。 羊群原(ようぐんばる=九州以南では、地名に「原」という文字が付くと「ばる」と読む)や鍾乳洞、窪地、そして露出している石灰岩の再結晶と浸食の具合を見るためである。 平尾台の石灰岩の特徴は、中生代の火成岩による熱変成で再結晶化が進み、方解石となって美しい。我輩はその石灰岩の浸食について興味があった。 まず、平尾台のカルスト台地へ行くには、バスを乗り換えねばならない。 石灰岩採掘場が見える地点から平尾台行きのバスでスイッチバック状の道路を登って行く。気を付けねばならないのは、そのバスは3時間ごとにしか出ていない。無計画に訪れれば、最悪3時間待つハメになる。帰りもまた同様。 途中の停留所には「平尾台三合目」や「平尾台七合目」というのがあるが、全く山道の途中という場所であり、こんなところで降ろされたらどうしようもないというところに停留所がある。おそらく近くに民家でもあるのだろう。 さて、バスは唸りを上げて平尾台のカルスト台地を登ってきた。 我輩はまず、平尾台自然観察センターへ行き、どのようなルートで調査を行うかを考えた。そこには立体地図があり、「千仏鍾乳洞」という文字が目に入った。では最初にそこへ行くことにしよう。 千仏鍾乳洞は、昔から名前だけは聞いていたが、実際に訪れるのは初めてだった。 鍾乳洞の入り口には小さな売店があり観光地の様子があった。脇には鍾乳洞の行程図があり、「途中から水流に入るので草履に履き替えて下さい」と書かれてある。見ると、無料の貸草履(サンダル)があった。 「暑い日であるから、冷たい水に足を浸して歩くのもええわ。」 最初は完全に観光気分だった。 草履に履き替え、入り口で800円を払ってそこから石段を上った。しばらく上ると、ようやく鍾乳洞の口が見えてきた。 <<画像ファイルあり>> 千仏鍾乳洞の入り口。すでにこの時点で屈(かが)んで入らねばならぬ。 そこで数枚の写真を写したあと、鍾乳洞に入って行った。 入ってすぐ、我輩の顔に冷気が当たり、今までの息苦しさが無くなった。ここは冷房がきいているかのようにヒンヤリとしている。 最初の入り口の狭さに比べて内部は案外広い。足下を見ると、一応整地されている様子で、ちょっとした上り下りには石段があった。 <<画像ファイルあり>> 入り口付近では、鍾乳洞の見事な造形に目を奪われる。だが、そんなものに目をくれる余裕は長くは続かない。 しばらくは立ち止まってカメラを構えたりしていたが、そのうち足下がゴツゴツとして道も狭くなってきた。もはや石段など無く、自然の岩を上り下りしている。カメラを構えるとバランスを崩してしまいそうになる。 そうやっていると、ついに水流が流れる道に到達した。ここからは道というよりも小川の中を歩いて行くような感じだ。一足突っ込むと、その水は確かに冷たかった。しかし痛いくらいに冷たい。我輩などは冷たさに対する耐性はあるが、前後にいる観光者はしきりに「冷たい冷たい、足が痛い」とはしゃいでいる。 <<画像ファイルあり>> 冷たい水流をジャブジャブ遡る。水の冷たさは足が痛くなるほど。 我輩の肩には「Nikon F3/T」が下がっているが、ストロボを装着していないので出番が無い。ポケットに入れているデジタルカメラのみがこの様子を記録している。しかし、暗闇でのAFはなかなか合わず、ほぼ半分はピントを大きく外している。 それに、撮影は両手を使えないような険しい場所では不可能となる。何度か撮影を試みたが、体勢を崩して手や足をすりむき、そのたびに血をにじませた。 当然ながら、肩から下げたF3は何度も岩肌にぶつけてしまった。だが、そちらに気を取られると鍾乳石に頭をぶつけたり水中の石に足を取られそうになるので、放っておくしかない。 ・・・ここは本当に観光用の洞窟なのか? <<画像ファイルあり>> 狭い洞窟は行きと帰りの人間が混雑する。向かいの人間を避けるために立ち止まった時が唯一の撮影のチャンスである。 この時点で、気分はもはや川口浩の探検隊。このような狭い場所に入って行って、果たして帰ってこれるのか不安になる。 ・・・と雑念が頭をよぎった瞬間、深みに足を取られ、膝まで水に浸かってしまった。せっかく捲り上げたズボンの裾が一気に水分を含んだ。泣けてくる・・・。 <<画像ファイルあり>> 縦が広けりゃ、横が狭い。一つのことに気を取られているヒマなど無い。 前後に人がいるため、立ち止まってゆっくりと鍾乳洞を観察出来ない。我輩は一体何をしにやってきたのだろう。そんな疑問を振り払うかのように、シャッターを押せる時はとにかく押した。 途中、非常に狭い場所にやってきた。まさしく「ボトルネック」という表現がピッタリくる。向こう側に何があるのか全く判らない。しかしここまで来て引き返すのもバカらしく、意を決して入ることにした。 水に浸からず身体を屈めるのはつらかったが、ズボンを濡らしながらもなんとかくぐり抜けた。屈めた姿勢から頭を起こすと、目の前に1つの注意書きがあった。 「照明はここまで 引き返して下さい」 ・・・なんとも言えぬ疲労感。それならばボトルネックを越える前に教えて欲しかった。 洞窟の先はまだまだ続くようだ。照明が届かぬ暗黒が広がり、それが余計に不気味に見える。何も見えない闇から流れてくる水が、足下を通って行く。 我輩は、再びボトルネックをくぐって引き返した。 <<画像ファイルあり>> この先は、暗黒の闇があるのみ。今までに何人の者がこの闇で迷い息絶えたろうか・・・(?)。 戻りの道は覚えていない。ただひたすら歩いた。 川口浩の探検のように、帰りの映像はほとんど無い。その気持ちは何となく分かったような気がした。 明かりが見えてくると、じんわりと暑く重い空気を感じた。外気が近い。 ようやく外に出て、一息ついた。入って行く時よりも木漏れ日が明るく差し込んでおり、もう一度鍾乳洞入り口をF3で撮影することにした。 ところが、見るとF3に装着したレンズ表面が完璧に白く曇っていた。もちろん、アイピースも白い。これにはさすがの我輩も「うっ」と思った。レンズは24mmであったが、いつものようにフィルターは付けていない。レンズ表面を扇いで乾かそうとしたが一向にラチがあかない。 カメラに触ってみると、ヒンヤリと冷たかった。洞窟内部の冷気に芯まで冷やされたようだ。外の蒸し暑い空気で冷たいレンズ表面が結露したのである。 ティッシュでもあればいいのだが、ハンカチすら忘れていたのであるから、どうしようもない。仕方なく衣服でレンズを拭いた。 <<画像ファイルあり>> 見事に白く曇ったレンズ表面。あらためてカメラに触れると、ヒンヤリと冷たくなっていた。 しかしトラブルはこれだけではなかった。 シャッターを切ろうとしたら、ファインダー内液晶表示が消えてしまう。何度やっても同じだった。まさか水滴が内部にまで及び至ったのかと思ったが、防湿仕様であるはずのカメラがいとも簡単に機能障害を起こすだろうか。まずは電池消耗を疑うのが先決。あのような涼しい洞窟内であるから、消耗直前の電池がボーダーラインを越えた可能性がある。 予備の電池ならば、確かに事前に用意していた。ガサゴソとカメラバッグの中を探してみるが・・・見つからない。そういえば、実家に置いてあるデカいバックに入れていたような気もする。もしそうなら、緊急作動レバーを初めて使うことになろう・・・。 だが電池を取り出し、しばらく手で握り暖めていると、電池が復活したのかシャッターも無事に切れるようになった。 とりあえず何とか急場をしのいだものの、これから撮影を続けられるか心配である。確かに前人未踏の地ではないものの、売店にはさすがにボタン電池までは置いていない。 外はとにかく暑かった。水滴が滴るほど濡れたズボンであったが、外の暑さによって一瞬で乾いてしまった。 その暑さのおかげかF3の電池は、その後の羊群原などの撮影などに支障無く機能し、その日一日は保ってくれた。いくらヘビーデューティーなチタニウム仕様カメラであっても、電力が無ければ撮影が困難になる。こうなるとツライ。 ちなみに、カメラにはぶつけた痕は残っていなかったが、レンズフードは先端部に傷が付き金属色が覗いていた。 ・・・物理的にも精神的にも、探検隊気分を味わった一日だった。 ---------------------------------------------------- [295] 2001年08月20日(月) 「時代はデジタル画像」 8月11日、霊になったオバチャンの初盆のため、寺でお経をあげてもらった。我輩はそのために帰省したのであるが、久しぶりに会う親戚数人も同席した。 同席したのは皆、歩いて行ける範囲に住んでいる親戚同士であるが、我輩は高校を卒業してから地元を離れているので、本当に久しぶりの再会である。我輩は持参したデジタルカメラで一同の記念撮影をした。 なお、デジタルカメラで撮影した理由は、我輩の母親のパソコンから皆に1枚ずつプリンターで印刷して配ってもらえば良いという判断からである。それなら現像処理や写真の郵送の手間も省ける。 ただ、プリンターで印刷した時のクオリティが気になるところ。インクジェットプリンターであるから、さもパソコンで出力したというようなものになるのではないかと思った。 しかし、その心配は無用であった。母親の購入したプリンターはエプソンのロール紙印刷のもので、光沢が写真印画紙的で、パッと見た目に美しい。 だが、やはりじっくりと見るとプリンター出力というのが分かる。本物の写真印画紙と比べては身もフタも無い。 しかし、一般人にとっては、そんな違いは気にならないことだろう。いや、むしろ今までの粗製濫造のプリントに比べれば、こちらのほうがよっぽど良い色に見える。このままでは、写真の持つ実力(ポテンシャル)を知らぬ一般人は、いずれ銀塩写真を見限る。 最近はラボでもデジタルデータをピクトログラフィーなどで出力するサービスをやるところが増えてきたらしい。一昔前ならば、ピクトログラフィーは「バンフー」や「リスマチック」などの出力センターなどでしか出力出来なかったものである。しかもA4サイズ以上であり、400dpiのTIFF形式に加工しなければならなかった。 それが小さなプリントサイズでどのラボからも出力出来るようになれば、銀塩写真というのは特殊な趣味となってしまうかも知れない。そうなると、銀塩写真にこだわる者は肩身が狭くなる。 ここで、モノクロ写真を振り返ってみる。 モノクロプリントが自家処理中心となったのは、時代の流れによってモノクロからカラーが一般的になったからである。当然、少数派のモノクロはラボ処理が高価となり、自家処理のほうが安くあがるのだ。 モノクロにこだわる者にとって、大量処理による廉価の恩恵に浴することが出来ず、歯がゆい思いをしたに違いない。 (もっとも、自家処理によって表現のコントロールが容易になった) 今、デジタル画像が一般に浸透しつつあり、モノクロと同じような図式が再現されようとしているように思える。多数派に相乗りすべきか、それとも自分のこだわりを貫き通すか、それが問題だ。 デジタルデータはそれだけでは高画質を堪能出来ない。出力して初めて人間に解る。 パソコンモニターでは解像度が100〜150dpiと比較的低く、高解像度のデータを表示させると画面からハミ出す。 一方紙プリントでは高解像度で印刷出来るものの、反射原稿のために階調表現に限りがある。 やはり解像度、階調ともに優れるリバーサルに代わるものなど無い。 だが、そのこだわりをいつまで持ち続けていられるか我輩には分からない。いずれ画期的な出力機が登場するか、あるいは我輩が性能を捨て利便性と値段へ妥協するか・・・。 ただ、我輩の思想とは無関係に、時代は確実にデジタル画像へと進んでいる。 ---------------------------------------------------- [296] 2001年08月26日(日) 「心霊写真(その3)」 「心霊写真(その2)」からだいぶ経ったが、今回は(その3)である。 8月11日、霊になったオバチャンの初盆のため、寺でお経をあげてもらったという話をした。 我輩はその様子を後ろの席から小型デジタルカメラで何枚か撮影した。記録的な意味だったが、「もしかしたらオバチャンが写るかも知れない」という意識も同時にあった。 帰省後、自宅でその画像をチェックしていると、何か変なものが写っているのに気付いた。 それは一見、発光ダイオード(LED)を思わせるような赤い光点であった。それが線香立ての位置で写っている。 2枚目の写真を見ると、そんなものはどこにも写っていない。CCDのノイズだったか? だが3枚目を見ると、今度は仏像の辺りに赤い光点が写り込んでいた。しかもその3枚目は多少手ブレしていたのだが、その光点も周囲のブレと同じ軌跡を描いていたのである。これはCCDのノイズではなく、確かにレンズを通ってきた映像と言える。 そのような写真は合計3枚あったのだが、それらの写真を比べてみたところ、その光点はフラフラと移動しているように思えた。ますます気味が悪い。 <<画像ファイルあり>> このデジカメ写真では[A点]に赤い光点が現れているが、次の写真では[B点]に移動していた。 だが間もなくその写真は心霊とは無関係であることが判明した。 というのも、次の日に撮影した夜景の写真にも、同様な赤い光点が写っていたのである。街灯のような光源が画面内にあると、レンズ内で反射して写り込むらしい。そういえば、初盆の祭壇にもロウソクやその他の光源が画面内にあった。撮影のシチュエーションとしては似ている。 さて、最近はテレビ番組で心霊を扱ったものが多いように思う。その中で、心霊写真特集もよく見掛ける。ただし、その中の多くは写真的に説明がつくようなものが多い。 典型的なものでは、五角形の霊光が写り込んだという写真。これなどはレンズの絞りの形が逆光によるハレーションによって写り込んだだけである。写真に詳しくない者でも分かりそうなものだが、たまに心霊写真として騒がれることがある。 他にも、夜、旅館で撮った写真でガラス窓に手形が写っていたものがあるが、あれはガラスに手を触れた時に脂が付いてしまったものだろう。よく電車の窓におでこや鼻の脂が付いているのを見掛けたりもする。 また、昨日か一昨日見た番組では、エレベータの中で鏡の壁に向かって撮った写真に謎の手が背後に写っていたというが、それは明らかに本人の手の影だった。本人はピースサインをしていたが、鏡に反射したストロボ光がそのピースサインを横から照らし、1本指に見えていた。 こういう、光と影の問題は、位置関係を作図してみればすぐに分かることである。霊能者はそれを「白人の霊」だと鑑定していた・・・。 我輩には霊感は無く、霊を目撃した事も無い。だから、霊能者の言うことが本当であるかという判断は出来ない。いつも半信半疑という気持ちである。 つまり、霊能者の言うことをそのまま信ずるわけでもなく、また写真的に説明が付いたとしても霊とは関係無いと断言するわけでもない。 その昔、下駄の鼻緒が切れた時、人は不吉なものを感じた。下駄の鼻緒が切れるという現象自体は別に不思議な事ではない。「形ある物は壊れる」のだ。だが、下駄の鼻緒が切れるタイミングが別の出来事とシンクロしているとするならば・・・。 心霊写真も同様に、その写真がどんなに説明が出来るものであろうと、我輩には100パーセント霊とは無関係だと言い切れない。どんなに説明可能な写真であろうとも、それが何かの因果関係を以て現れたものかも知れないと思うのだ。 初盆の写真に撮られた赤い光点が、亡くなったオバチャンの意志によるものなのかどうか。それは我輩ごときには判断出来ぬ。もはや信ずる度合いの問題でしかない。 ただ、写真をやる者としては、冷静にその写真の成因を考えねばならぬ。いたずらに「不思議な写真」と騒ぎ立てても意味は無い。色々な角度から検討し、それでもなお不思議な写真ならば興味深い。また、結果的に完全に説明の付く写真であったとしても、霊の関与を信ずるか信じないかは、そこから分かれていくことであろう。 余談だが、心霊番組では写真を公開する瞬間にCMに行くのは人を馬鹿にしているな。あまりに唐突で不愉快に思う。 また、心霊写真がアップになったと思ったら、それを見て驚くタレントの顔が画面に切り替わって肝心の心霊写真が見れない。一体、何のつもりだ? ---------------------------------------------------- [297] 2001年08月31日(金) 「挑戦なき者」 最近、我輩は失敗写真が少なくなったように思う。 ポジのスリーブを並べてみれば、保険のつもりでやったプラスマイナス3枚の段階露出でも、だいたい真ん中のコマで露出が合っている。 ここで、「我輩の能力がさらに向上したな」などと話をまとめてしまうのはまだ早い。 能力云々の話ではないということは我輩自身が知っている。これは、「失敗せず写した」というのではなく、「失敗するものは写さなかった」というのが真相である・・・。 我輩は今までに写真の経験を積んできた。それは特別な経験というものではないが、自分の範囲で積み重ねた経験である。少なくとも自分には役に立つ経験と言える。自分のスタイルを続けていれば、それ相応の経験が蓄積されるのは当然のこと。 経験の浅い頃ならば、「とにかくシャッターを押せば写真が撮れる」というような向こう見ずなところがあった。しかし経験を積むと、前もってどんなふうに写るのかという見当が付くようになる。それは作業の効率を上げ、先の予測を立てるのに役立ち、その結果、ムダや失敗を予防することにも繋がる。 だが、趣味の創作活動に於いては、経験はむしろ抗力となり自由な行動を阻害することは少なくない。雑文「一度目の失敗」では、最初の失敗経験が如何に重要かということを書いたのだが、その失敗経験によってかえって失敗から逃げるようになっては意味が無い。 先日の千仏鍾乳洞探検では、我輩はストロボの装着していない「Nikon F3」での撮影を最初から諦め、代わりにストロボ内蔵のデジタルカメラで撮影をした。 「ストロボ無しではどうせ写らん。」 我輩の場合、なまじ失敗を予知して最初からムダな撮影を諦めてしまった。今更ながらに腑抜けた気持ちが情けない。 失敗を承知でシャッターを切る無謀さが今の我輩に欠けているところである。早い話、若さが足りないのだ。 我輩は今まで、手持ちで10秒のスローシャッターを切ったことは無い。しかしあの時、それくらいの無謀さがあっても良かったのではないか? 手ブレだの、相反則不軌だのと考える前に、目の前の映像にただレンズを向ければ良かったのだ。例え失敗率99パーセントであっても、残り1パーセントで面白い映像を手にするとすれば・・・。 挑戦なき者に、それは与えられぬ。 ---------------------------------------------------- [298] 2001年09月02日(日) 「多重露出の出来ないカメラ」 我輩は、商品撮影にはストロボを使用している。 ストロボは瞬間光であるため、部屋の明るさ(定常光)の影響をあまり受けないという特長がある。シャッタースピードが1/180秒であれば、部屋の光はほとんど真っ暗に近いと言える。 だが、何かの事情で写真用電球などの定常光で商品撮影を行う者もいるだろうと思う。そのような撮影では、ライティングを目で見て確認しながら行えるのが利点でもあるが、発光物を同時に画面に入れる場合にはかなりの苦労を強いられることになる。 発光物とは、例えばテレビやパソコンの画面や、カメラの液晶表示のバックライトなどである。 通常、発光物は撮影用の照明と比較すると暗い。目で見るとそれほど違いが無いように見えるが、それは人間の目が明るいものと暗いものを同時に見ることが出来るからだ。目は明るさに対する調整力が高い。 だが写真に写す場合は、それぞれに必要な露出量を正確に与えねばならない。 ストロボ撮影の場合では、瞬間光であるストロボ光そのものが露出量を決定する(絞りが一定のとき)。そのため、暗黒中でストロボを発光させれば商品本体の露光は完了する。そしてその状態でカメラのシャッターを開いたまま発光物の露光を与えれば良い。 <<画像ファイルあり>> 1/180秒シャッターにてストロボ発光。淡い液晶照明光はほとんど写り込まない。 (1/180sec. f22) <<画像ファイルあり>> ストロボ発光後、暗黒中で3秒間シャッターを開けたままにして液晶照明光を写し込んだ。 (3sec. f22) だが、写真電球のような定常光では、カメラ側のシャッタースピードで調整することになる(同じく絞りが一定のとき)。こうなると、商品本体と発光物の露光量を別々に調整することは難しい。 この場合、多重露出による撮影しか無い。 まず第一露光で商品本体を定常光で撮影する。次に暗黒中で発光物を光らせ、第二露光を行う。無論、第一露光と第二露光では露出量は違う。 そこで、ふと気付いた。 「Canon EOS-D30には多重露出機能が無かったなあ。」 本格的な撮影が出来るはずの一眼レフ型デジタルカメラも、案外基本的な部分で弱点を持っていた・・・。 ---------------------------------------------------- [299] 2001年09月04日(火) 「ザ・おやじギャグ」 昔、前の職場で下らないギャグを言うおやじがいた。そのおやじのギャグというのはディープなものがかなり多く、そのようなギャグは我輩くらいしか通じない。その中でお得意のギャグは、「もしも〜だったら」というような「ドリフ大爆笑的ギャグ」だった。 ある時、おやじが我輩の席に近付いて来て、パソコンのハードディスクの話になった。「最近のハードディスクは昔と比べて凄いよなぁ。」というような出だしだったのだが、おやじはいつもの調子で「もしも話」を始めた。 「もしもよ、モーターが発明されてなかったら、今頃はどうやってハードディスク回したんだろうな?まさか、ガソリンエンジンってか?!」 「けど、エンジン単体じゃ、そんなに高速回転は難しそうだから、やっぱギアチェンジが必要かもなあ。クラッチペダルがあんのかな?」 「いや、最近はオートマらしいぜ!」 「ところでセルフスタート出来んのか?」 「オイオイ、それじゃモーターが必要じゃねえか。ヒモだよ、ヒモ!ヒモ引っ張ってエンジン掛けんだよ。」 おやじは勢い良くヒモを引っ張る動作をする。 あまりに下らないギャグに、周囲の人間は、聞いて聞かぬふりをする。いや、引いてしまっていると言ったほうがいいかも知れない。 さて先日、「Canon EOS630」を見ていて、ふと思った。 「EOSシステムというのはモーターの塊だな。」 元々、AFカメラはモーター力に頼っており、フィルム巻上げ・巻戻し、ミラー上下運動(スプリングによる場合もある)、シャッターチャージ、フォーカスリング駆動、ズームストロボなどをモーターで動作させている。もちろん、1つのモーターで複数の仕事をこなすことはある。だがそれにしてもモーター無くしてAFカメラはあり得ないことを実感するのである。 中でもEOSの場合は、絞りさえもステッピングモーターを使って制御している。これは昔、「Canon F-1(旧)」や「Nikon F2」などでサーボEEと呼ばれるモーター駆動の絞り制御機構そのものである。それを現代風にアレンジしたと言うところか。 だが、おやじギャグで行くと、その現代風アレンジを逆撫でしたくなるのである。 「ザ・おやじギャグ」。 タイトルは、「もしもモーターが発明されていなかったら、EOSのスペックはこうなるに違いない」。 4気筒EOS登場! 形式 エンジン駆動式35mm一眼レフレックスカメラ 巻上げ 水冷式マイクロ4気筒エンジン使用。従来の単気筒に比べてスムーズに巻上がります。 (警告!室内撮影の場合、換気を十分に行って下さい) 巻戻し クラッチボタンを押しながらシフトレバーを「R」に入れて行います。 絞り制御 絞り駆動は油圧によって正確かつ確実に行われます。油圧ホースがあればベローズ使用時にも自動絞りが働きます。 AF AFは油圧によって正確かつ確実に行われます。油圧ホースがあればベローズ使用時にもAFが働きます。 燃料タンク 燃料タンクはグリップ部に。縦位置での撮影でも確実に燃料を送り、エンストはほとんど起こらなくなりました。ゲージ付きで残り燃料の確認も容易です。 (警告!タバコを吸いながらの燃料補給はご遠慮下さい) 自動OFF機能 一定時間操作せずにアイドリング状態が続くと、燃料供給を止めてエンジンを停止させます。 おやじギャグ、・・・好き嫌いはあろうから、あまり真剣に捉えないほうがいい。 ---------------------------------------------------- [300] 2001年09月07日(金) 「五百羅漢」 山手線と京浜東北線は途中まで併走している。そのため朝の通勤時には、我輩は空いているほうを選んで乗る。 電車の窓から見ると、併走している電車が隣に見えることがある。そして、ちょっとした加速・減速のタイミングでその電車の1つ1つの車両がゆっくりと移り変わっていく。そこには色々な顔が次々と現れて消えた。 「色々な顔の人間がいるなあ。」 それは、向こう側の列車に乗っている者も同様に考えていることかも知れない。 我輩はふと、「五百羅漢」を思い出した。 それぞれに違う顔を持つ五百体の羅漢像の中には、必ず見知った顔が見つかるという。古代中国の兵馬庸もそうだが、それらの像の中に1つとして同じ顔が無いというのも興味深い。 もし写真の話に絡めるならば、500人の顔写真を撮って写真版の五百羅漢を作るのも面白い。 ただ、他人を無断で撮影するのは良くない。人物を風景の一部として撮影するならば許されるが(それでも裁判沙汰にでもなれば、その区分けは裁判官の裁量に任されることになる)、明らかにその人間の警戒範囲内で狙いをつけて撮影するならば、場合によっては殴られたりカメラを破壊されることもあろう。子供相手ならば安心だと公園でバシバシ撮っていると、その子の親が出てくることもあるので気を付けろ。最近はどこもピリピリしているからな。 しかしまあ、人間観察ならば必ずしも写真に撮る必要も無い。よほど第三者にメッセージを伝えんがための撮影ならともかく、人の観察には危険を冒さずとも目で見るだけでも十分だと考える。 ただ、肉眼で見る「モノの見方」というのは、実は非常に主観的である。客観的に見ているつもりでも、何かの器に当てはめないと認識出来ないのが厄介だ。 昔はよく「ガイジンは皆同じに見える」と言われたものだった。日本人の中に、それを当てはめる器(うつわ)の種類が少なかったのが原因だった。金髪で鼻が高く目が青い。それだけしか認識せず、細かい顔の違いなど分からなかったということである。 だがそれは昔の話に限ったことではない。気を入れずただ眺めているだけでは、日本人の顔についても同じような見方となっている。ただちょっとばかり、当てはめる器の数が多いだけに過ぎない。余程の特徴が無い限り、目に映る通行人の印象は文字化されて映像としては残りにくい。 例えば「髪が薄くて眼鏡を掛けているオヤジサラリーマン」というパターン。一旦、このような器に当てはめると、もはや元の忠実な映像に復元するのは不可能。文字化は不可逆な映像圧縮である。 我輩などは茶髪の女性などについ目が行ってしまうこともあるが、それでも「茶髪」という一括りの器に押し込めているだけかも知れない。いや、確かにそうだ。 自分の持っている器の種類がもっと増えれば、人の顔を見る時にもさらに違った視点が持てるに違いない。違った発見があるに違いない。そのためにも、もっと顔というものを興味を持って見るようにしたいと思う。 あたかも五百羅漢の1つ1つを見て歩くように、興味深さは見る対象物の質を変える。 しかしまあ見るだけとは言っても、あまり人の顔をジロジロ見るのもトラブルを生むかもな。何事も程良く。 ---------------------------------------------------- ダイヤル式カメラを使いなサイ! http://cam2.sakura.ne.jp/