「カメラ雑文」一気読みテキストファイル[201]〜[250] テキスト形式のファイルのため、ブラウザで表示させると 改行されず、画像も表示されない。いったん自分のローカ ルディスクに保存(対象をファイルに保存)した後、あら ためて使い慣れているテキストエディタで開くとよい。 ちなみに、ウィンドウズ添付のメモ帳ごときでは、ファイ ルが大きすぎて開けないだろう。 ---------------------------------------------------- [201] 「印象と信用」 [202] 「吹けば飛ぶよな」 [203] 「受賞」 [204] 「得難いものを得た」 [205] 「画像収集」 [206] 「アイディア商品」 [207] 「プラガン」 [208] 「復活の日」 [209] 「我輩の写真」 [210] 「良い想像・悪い想像」 [211] 「もしもの時のため」 [212] 「タコ星人」 [213] 「お持ち帰りの風景」 [214] 「銀座での収穫」 [215] 「必然のニコン」 [216] 「健全なバージョンアップ」 [217] 「眼中無し」 [218] 「カレンダー」 [219] 「ミラーレンズ」 [220] 「撮っても観れない」 [221] 「変わったものとは」 [222] 「AFを使う者の心得」 [223] 「渡る世間・・・」 [224] 「パソコン使えぬ者、人間にあらず」 [225] 「趣味のスタイル」 [226] 「向かい合う2人」 [227] 「年間天気予報」 [228] 「マジック・ショー」 [229] 「撮りたい衝動」 [230] 「無くてはならぬ一眼レフカメラ」 [231] 「ニコン純正の破損」 [232] 「ニコン純正の破損(その後)」 [233] 「初心者に与えるもの」 [234] 「気になるカメラの登場」 [235] 「ヤスリ代わり」 [236] 「何も考えてないんだから」 [237] 「嬉しくないソフトフォーカス」 [238] 「摂関政治」 [239] 「町工場(まちこうば)」 [240] 「光の点」 [241] 「メーカーと消費者」 [242] 「普通のデジタルカメラを作らんか」 [243] 「テクニックを自分のものにせよ」 [244] 「ピノキオ」 [245] 「お好み」 [246] 「自覚があるか」 [247] 「時代のインデックス」 [248] 「花は桜」 [249] 「写真で見る話」 [250] 「目的」 ---------------------------------------------------- [201] 2001年01月08日(月) 「印象と信用」 年末に別府で撮ってきた写真をヨドバシカメラに現像に出した。 よく、「大型連休の直後には現像を出すな」という話を聞く。なんとなれば、連休中に撮られた写真の現像依頼が多くあるため、処理がいい加減になるという。 まあ、それも今は昔。最近なら自動処理で品質は一定のレベルを保っているハズ・・・と思ったら甘かった。 今回、コダック「DYNA」を10本現像したのだが、その8割に異常が認められた。その異常とは、フィルムの乾きムラだった。信じられないことだが、フィルム表面に液体の滴った痕がハッキリと残っていたのだ。これはヒドい。 <<画像ファイルあり>> 下の写真は、問題の部分が判りやすくなるように青色表示させたもの <<画像ファイルあり>> フィルム関係のトラブルとしては、昔、フジのリバーサルフィルムで、コマの真ん中から裁たれた経験がある。それはスリーブ仕上げではなく、マウント仕上げだったため、数コマ連続で裁ち切られていた。それに対する補償は、代替フィルムのみだった。 今回のケースでは、「ハァー」と息を吐いてティッシュで拭けばなんとか取れるものだった。しかし、さすがのコダックであっても、やはり忙しい時期に出すべきではなかった。 もちろん、時期とは関係無く特定の現像機の調子が悪かったのかも知れないが、それでも品質チェックが行われていないということは、やはり手を抜いたことは明らかである。 我輩の中では、コダックの現像処理は要注意だということになった。 先日、ミノルタα-303siが故障した。 ある日何度かシャッターを切っていたら、「ガー、ギリギリギリ」というような何かが噛み合う音がしたかと思うと、絞り機構が動かなくなった。シャッターそのものは、電池を入れ直した直後に1回だけ切れるのだが、妙なガリガリ音がして液晶表示が「HELP」と出る。 ミノルタは以前、α-9000でも絞り機構の不調が起こった。 「二度あることは三度ある」という言葉が頭をよぎる。この言葉は、「一度ならば偶然とも言えるかも知れないが、二度あるということは因果関係があると判断するほうが自然である」という理論だ。 そういうわけで、我輩の中で「ミノルタは絞り機構が弱い」という結論に達した。 このトラブルは、撮影中でなかったということだけが幸いだった。しかし撮影中に起こっては困るので、もうミノルタを重要な撮影で使うことは無いだろう。 ニコンF3でもトラブルはあったが、それでも撮影に支障をきたすものではなかった。もちろん、ミノルタを支障無く使っているユーザーがほとんどだと思われ、我輩の場合はタイミングの問題であろうかと思うが、少なくとも絞り機構の脆弱さは否定しようも無く、二度目を経験した我輩ならば三度目を迎えることは必至。 このトラブルは、我輩の無責任なカンによると、設計上の問題ではないかと感ずる。恐らくAFマウントを新設計する際に、AFカプラの位置との兼ね合いで、絞り機構が充分に検討されなかった。その結果、不自然な動きを強いられる複雑な絞り機構は、ちょっとしたことで機能を失うのではないか・・・? そう言えば、α-9000のプレビューレバーの動作も機構的に無理をしているような怪しさがある。もしそうならば、どんなに修理しようが不安は拭い切れぬ。 まあ、結局はミノルタを選択しないということが一番簡単で確実な方法だ。 「疑わしきは罰せず」ならぬ「疑わしきは使わず」。 企業にとって、信用とは何ものにも代え難い。 判断材料の限られた消費者にとっては、自分の限られた経験や印象によって判断するしかない。不当評価と言われようとも、そのような印象を与えたということは事実である。信用を失う企業というのは、その点を全く理解していないことが多い。 とりあえずコダックとミノルタ、我輩は少し冷めた目で見させてもらう。 ---------------------------------------------------- [202] 2001年01月09日(火) 「吹けば飛ぶよな」 日本が電卓戦争の真っただ中にあった頃、電卓は低価格・小型化を突き進んでいた。その結果、カード型電卓や腕時計型電卓なども登場した。 そういった小型のものは、携帯性に優れている。常に持ち歩いても苦にならない。しかし、常時使うことを前提とすれば、小さい機器というのは使いにくいものだ。 カード型電卓はキーボード全体がフラットでクリック感が無く、腕時計型は小さすぎてペンの先でしかキーを押すことが出来ない。 人間が手に触れて使う物であるなら、それに適したサイズというものがある。人間工学の分野でも、使い易いキーボードの大きさが決められているくらいだ。 デジタルカメラは便利である。それゆえ、その扱いが気安くなる。 我輩のデジタルカメラ「オリンパスC-2020Z」はスマートメディアというメモリカードを使用する。容量は、当時一番大きな64MB。値段が張ったが、そこそこの撮影枚数を確保するためには仕方ない。 このスマートメディア、かなり小型で薄い。まさしく、「吹けば飛ぶよな」メモリである。接点も剥き出しで取り扱いには注意を要する。事実、ほんのちょっとの接点汚れでもエラーを起こす(この現象は、フジのFinePixでは経験したことが無いので、単にオリンパスC-2020Zがデリケートなだけか)。 先日、このメモリを部屋のどこかに落としてしまった。ちょうど散らかっている所に落としたようで、探す前から途方に暮れた。 幸い、1時間ほどで見付けることが出来たが、もし書類の間に挟まったりなどしたら、数ヶ月後に見付かったり、最悪の場合ゴミ箱行きとなったかも知れない。 小さいことは良いことなのだろうが、あまりに小さいと困る。 メモリはフィルムに比べて高価なものであるため、そのままポケットに入れることも出来ない。結局、それなりの大きさのケースに入れることになり、小ささのメリットも半減する。 最近、更に小さな「SDカード」なるものが出てきたが、もうそれくらいでやめておけと言いたくなる。リカちゃんごっこをやってるんじゃないんだぞ。そんなミニチュアを作ってどうするんだ? 小型化をする前に、もっと容量を増やしてデジタルカメラのメリットを生かせるようにしてもらいたいと思うのは我輩だけなのか。もし、フィルムカメラでは実現出来ないような大量撮影枚数を確保出来るなら、それだけで大きなメリットになると思うが。 まあ、撮影枚数に見合うだけのバッテリが確保出来ないのだから、それは触れてはならぬ問題かもな。 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ふさわしい機種が無ければ、「該当無し」とする年もあっていいじゃないか。それがカメラ業界の刺激にもなろうかと思う。 正直なところ選考人も、「他に良いカメラも無いしな」などと妥協した年もあったんだろう? ---------------------------------------------------- [204] 2001年01月11日(木) 「得難いものを得た」 戦国武将山中鹿之介は、三日月を拝して「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と念じた。 これは、言葉として前から知ってはいたのだが、最近、「試練を自ら求めそこから得難いものを得る」ということを、我輩は少し実感したような気がした。 年末年始、九州での写真はリバーサルフィルム(ポジ)で撮ってきた。早速、スキャン作業に入っているが、作業スピードはかなり早くなった。なぜだろう。 今まではパソコンへ取り込むことを前提としたものはネガで撮影していた。なぜなら、「どうせパソコン上で調整するのであるから、露出決定の楽なネガで十分だ」という気持ちがあった。スキャンしたあとはネガだろうががポジだろうが、データとしての成果物は同じなので、楽なほうを選んだつもりだった。 しかし、パソコン上での調整はかなり難しい。もちろん、適正露出で撮られたものならば調整は楽である。ところが「ネガ」ということへの油断が露出決定を甘くした。通常、ネガの濃度の過不足はプリント時に補正される。だから露出が甘くても大丈夫だった。強いて言えば、補正するラボマンが苦労するだけである。 しかしネガフィルムを直接スキャンするならば、フィルムの状態がそのままスキャン画像に反映される。その分、色調整に苦労することになった。撮影で楽をすればするほど、スキャン時に苦労する。ラボマンの苦労が我輩の苦労となったのだ。 これがリバーサルフィルムならば、撮影時の苦労はあるものの、失敗写真は最初から除外されることになるので、結果的に色調整も楽になる。しかも原版の色が見本となるので、前に書いたような余計な迷いが無いのがいい。 撮影時の苦労にしても、注意深く露出を決めればそんなに難しいこともない。画像調整の労力に比べれば、撮影時に調節するほうがかなり効率的だ。 しかし、今までのスキャニングの苦労がムダだったのかと言うとそうでもない。冒頭の山中鹿之介の言葉のように、我輩は苦労を積み重ね、以前と比較して明らかに画像調整の腕が上がった。そうでなければ、リバーサルフィルムのスキャン作業も早くなることも無かったろう。 得難いものを得た。 ---------------------------------------------------- [205] 2001年01月12日(金) 「画像収集」 最近、「YAHOO!オークション」は毎日チェックしている。 それは、物欲による行動だけではない。 今さら我輩が言うことでもないだろうが、オークションには商品の画像が添付されている。中には珍品カメラなどもあり、それらの画像収集するだけでもなかなか楽しめる。 しかしそれだけではなく、カタログやカメラ雑誌などでは見られないような角度で撮影されたカメラもあり、いろいろと参考になったりする。 確かに、個人のサイトで所有カメラの写真が掲載されているものも多いが、オークションではサイトを持たぬ者のカメラも閲覧出来る。 当然、写りが良いものは少ないが、それでもダウンロードした画像が増えてくると、数が価値へと変わるのだ。 そうは言っても、これには相当な修行が要求されるだろう。 オークションを見ていると、どうしても欲しくなってしまうことがあるが、それを堪(こら)える強い精神力が必要なのだ。もし買う場合、事前に買いたいと思うものを決め、それ以外は絶対に手を出さないことだ。いくら購入資金があったとしても、置き場所まで考えねばなるまい。 それにしても、「YAHOO!オークション」に登録されている物件数はかなり多く、1つ1つ見て行くわけにもいかぬ。当然、キーワードを入力して検索することになる。これがまた思案のしどころ。同じモノでも、「ニコン」と「Nikon」では違う。また、「F-1」となっているものもあれば「F1」となっているものもある。 そういったものも、楽しみの1つとなればいいのだろうが・・・、家庭のダイヤルアップ接続で見るには、なかなか苦労もある。 ---------------------------------------------------- [206] 2001年01月15日(月) 「アイディア商品」 アイディア商品というのは昔からあった。その多くが妙ちくりんなものだったりするが、中にはキラリと光るアイディアも混ざっている。 有名なものに、洗濯機の糸くずを取るものや、曲がるストローなど、地味ながら役に立つものもある。 写真用品のカタログを見ると、そこにもアイディア商品とも言えそうなものが多くある。中には笑えるものや、思わず「使ってみたい」という気にさせるものもある。 そういうものを見ていると、写真というものはアイディア次第で色々に楽しめるということが分かる。 こういうのは、純正品ではとてもカバー出来ないものだろう。 さらには、アイディアを人から与えられるだけで終わらず、自分でも何か考えてみるのも良い刺激になるだろう。困った時に「冒険野郎マクガイバー」のように、写真的危機を切り抜けることにも役立つかも知れない。 以下は、「エツミ」、「ユーエヌ」、「ハクバ」、「ケンコー」のカタログから、面白そうなものを抜粋したものである。 カタログを見るだけでも楽しめるのは、創意工夫に溢れたアイディアが、創作本能を刺激するからだろうか。 ●ヘッドスタビライザー カメラのシューに取り付ける「額(ひたい)当て」。ここに額を押し付けてカメラを固定すれば、手持ちでもブレが抑えられる。 ●ツインポッド 一脚ならぬ「二脚」。一脚同様に狭い場所で使用でき、上下のブレだけでなく左右のブレも防ぐ。その姿は、カメラから脚が生えたようでカワイイ。 ●デジタルカメラ用ビューファインダー 液晶では決めにくい構図も、ビューファインダーで解消。手持ちのカメラの画角にセットできる。固定はマジックテープ式。液晶モニタをOFFにして、バッテリーの節約にも良い効果をもたらすだろう。 ●デジタルカメラ用バックスクリーン 画像加工で切抜きが簡単に行えるようにするための背景用スクリーン。ブルーとグリーンのリバーシブルタイプ。ただ、「プリントアウト時、背景のない分インク代の節約にもなる!!」というキャッチコピーは、営業のやりすぎでハナにつく。 ●標準カラービュアー 反射原稿(印刷物)と透過原稿(ポジフィルム)を同一の照明光で閲覧する装置。かなり手作り的に見える力作。 ●セルフサンシェード フードでは効果が薄いような強い光を、伸縮アームで固定した「日除け」でハレ切りする。外見はマンガ的で面白い。 ●マクロハンド ブレやすい接写で、カメラと被写体を同一の雲台に乗せて相対的なブレを無くすために使用する。 ●フィルターホルダー フィルターねじの無いコンパクトカメラにもフィルターが使える。ズームによってレンズが繰り出しても、ホルダーも伸縮可能。 ●レインブラケット 傘に装着して雨の中で撮影できる。 ---------------------------------------------------- [207] 2001年01月16日(火) 「プラガン」 「東京マルイ」というと、そこそこ名の知れた玩具メーカーだ。 昔はかなり怪しくマイナーな玩具(例えばアダムスキー型UFOなど)も作っていたが、最近はトイガン(エアガンやガスガンなど)の分野でシェアを広げ、電動エアガンという独自の世界も切り拓いた。 ところで、我輩がマルイと初めて出会ったのは、小学生の頃だった。 金属モデルガンが中高生向けだったのに対し、マルイやLSなどはプラモデルという形でモデルガンを子供たちに提供してくれた。 中でもマルイのプラガンは、当時珍しいABS樹脂を使用し、キャップ火薬で発火も可能だった。 ハンドガンというのは通常、撃鉄(ハンマー)を指で起こした後に引き金(トリガー)を引くという動作の「シングル・アクション」と、引き金を引くことによって撃鉄が自分で起きて落ちるという動作の「ダブル・アクション」がある。 ダブル・アクションは、引き金を引く力を利用して撃鉄を起こすため、かなりの力がメカニズムに掛かる。 もちろん、このメカニズムが金属製ならば問題は無い。しかしプラガンは、いかにABS製といえども所詮はプラスチック。力一杯引き金を引くと、なんとなく引き金が「しなる」のを指に感ずる。 そして起きた撃鉄が落ちると、引き金の「しなり」が元に戻るのが分かった。 ・・・まあ、ハッキリ言うと、チープな感触。 しかも、あまり何度も撃つと撃鉄が破損したりもした。強化プラスチックであっても、繰り返し掛かる衝撃には弱かったのだろうか。 そんなことから、我輩は亜鉛合金のメカニズムを持ったモデルガンに憧れたものだった。 リッチな友人に金属モデルガンを持たせてもらったのだが、その重量感はもちろんのこと、メカニズムの「切れ」にも大いに感動した。 その時、我輩は悟った。 「金属製というのは、見掛けよりもメカニズム内部に使ってこそ、真価を発揮する。」 <<画像ファイルあり>> 金属メカニズム(上)とプラスチックメカニズム(下)。プラスチックではどうしても動きにネバりがあり、金属のような切れが無い。さらに衝撃に弱い。 さて、先日のミノルタα-303siの絞り機構が故障したという件だが、我輩は中古保証が1ヶ月しかないと勘違いしており、ヨドバシカメラを通じて修理に出してしまった。 実際は中古カメラ店での保証は3年あった。そちらに出すべきだったのだ。 それからしばらくしてヨドバシカメラから電話があり、修理代の見積りは8,100円だと言われた。 まあ、値段としては安いほうに入るだろう。工賃だけでも5,000円は越えるはずなのだ。 もちろん、中古カメラ店の保証が効いているあるため、修理作業をキャンセルさせたことは言うまでも無い。あらためて中古カメラ店に持って行くことにする。 それにしても、ニコンF3やFA、ペンタックスLXくらいならば修理で金を使うことはあまり抵抗感は無い。ところが14,000円のカメラとなると、修理で8,100円も払う気になれない。確かに安いのだが、高い。 このカメラはヘナチョコ用に買ったものであるため、出来るだけ軽くて安いものを選んだ。しかし、こうも簡単に壊れるとは・・・。 まあ中古品であるため、我輩が手に入れた時は既に壊れる寸前だったと言えるかも知れない。 ただ、このカメラのマウント部はプラスチック製である。 購入当時は、とにかく「安くて軽いものを」ということにしか頭に無かったため、あらためてそのマウントを見ると寒気がした。 「まさか、これはカメラ界のプラガンなのか・・・」 我輩はこのα-303siの中身を知りたくない。 そこには、プラスチック製のギアや軸、そして軸受けがあるだろう。それらはコンピュータ上のシミュレーションではうまく動いていた。しかし、それはプラガンのメカニズムのように気持ち悪い動きを続け、ある時そのメカニズムが破損した。その破損は、必然であった・・・。 プラスチックのマウントは、我輩に余計な想像を誘う。 プラガンは壊れるものだと子供ながらに納得したものだが、このカメラも同じことを我輩に教えているのか。 ミノルタは多角経営が進んでいないメーカーの1つだが、もし商売を広げるとするなら、得意な技術で「プラガン」を作ることを勧める。 そこでマルイを越えてこそ、初めてカメラを作ることを許そうぞ。 ---------------------------------------------------- [208] 2001年01月17日(水) 「復活の日」 昔観た映画で、「復活の日」というものがあった。角川映画だったろうか。 我輩の頭の中ではかなり風化した記憶なのだが、確か、戦争か大異変か何かで、たった数人の人間だけが南極基地で生き延びるという映画だったような気がする。 太陽を背に、杖に寄りかかりながら歩く姿が目に焼き付いている。 ところで生物種というのは、ある個体数を下回ると絶滅の危険に晒される。例えオスとメスが2匹が生き残っていたとしても、個体間の多様性が生まれなければ生物は先細りすることは避けられない。2匹がどんなに子供を生もうとも、同じ親から生まれた子供ばかりでは、繁殖のしようが無いのだ。 「復活の日」で生き残ったわずかな人間は、いずれにしても種としては消え行く運命にある・・・。 さて先日、我輩は主力機F3/Tでヘナチョコを何枚か撮ったりしたのだが、撮影後ふと気付くと、露出ロックボタンが少し飛び出ていた。 「はて、こんなに出てたか・・・?」 我輩はその露出ロックボタンを爪で弾いてみた。すると、それは勢い良くカメラから発射され、コロリと床へ転がった。 <<画像ファイルあり>> 我輩は自分の目を疑ったが、何度やりなおしても、そのボタンは勢い良く飛び出してしまうんだ。 これはもしかしたら、敵に襲われた時に発射する「緊急発射ボタン」かも知れない。 ボタンをよく見たが、何かが折れたような跡は認められなかった。これは元々どうやって固定されていたのだろう? 穴のほうを見ても、接点があるだけでよく見えない。 我輩はこのボタンを気に入っていた。 他のF3のものとは違い、ボタン表面のアールが緩く手触りが好きだった。だから何とかして元に戻したいのだが、これは指を離すと飛び出てきてしまう。 「F3リペアマニュアル」で調べてみたが、なぜか露出ロックボタンの取り付けについての記述は無い。 しかし撮影そのものが不可能となるような故障ではないのはさすがだ。 もちろん、これはヒイキ目には違いないが、絞り機構が故障するようなどこかのメーカーとは違う。 とはいっても、接点剥き出しの状態で使い続けるのも良くない。これはサービスセンター行きか。 一番近いニコンのサービスセンターは銀座であるが、自分の勤務時間が終わった後に行っても、ニコンのほうも終わっている。仕方ないので、仕事で外出する時を狙って持ち込むしかない。 そうなると、いつ外出となるか予測出来ないということもあり、F3/Tは常時職場に置いておかねばならぬ。 これからしばらくは、F3/Tが使えなくなる。メインが一時いなくなるのは、脱皮したてのカニのようで、何となく心細い。 そんな時、タナカカメラのサイトでF3HPが在庫ありというのを知った。 以前、我輩は「これ以上カメラを増やさない」と心に決めた。だからこそ、F3は買えない。 ・・・いや待てよ、カメラが増えなければいいんだろう? ということは、何かをリストラすればいい。 そこで、稼働率の低い「FAゴールド」が頭に浮かんだ。 数日後、「FAゴールド」はYahoo!オークションにて11万円にて落札された。半年前の購入価格が13万円だったのであるから、ひと月当たり3千円と少しのリース料という感じか。まあまあだな。 今回の購入は、F3/Tの代わりという訳ではない。他にもカメラがあるから、撮影という面では問題無い。しかし、F3という種を存続させるためには、ある一定の個体数が必要だと感じた。 まあ、理屈をこねてはいるが、正直なところ「あともう1台あったほうが安心する」という強迫観念に囚われたに過ぎない。 いかにも貧乏性の我輩らしい。 今回、露出ロックボタンのような小さな部品であっても、それが無ければシマらないと感じた。 時が経ち、メーカーでも部品が無くなれば、この程度でも「補修部品が無いため修理不可能」とされるだろう。 基本のF3さえ1台余分にあったなら、そのパーツは全てのF3シリーズに流用出来ることになる。 我輩は、カメラ1台分の予備パーツを手に入れた。 ---------------------------------------------------- [209] 2001年01月18日(木) 「我輩の写真」 以前、街で声を掛けて写真を撮らせてもらったことについて書いたが、過去に1度、我輩自身が声を掛けられて写真を撮られたことがあった・・・。 アルバイトというと、どんなイメージがあるだろう? 我輩は学生時代にいくつかアルバイトをやった。 「和菓子屋の製造現場」、「コンサートホールの補助員」、「デパートの販売員」、そして「警備員」。 警備員のアルバイトは地元の北九州でやったのだが、そこではいくつかの現場を担当させられた。片側一車線の交通整理や、土木作業現場のダンプの誘導、深夜の見張り、夏祭りの警備。 今考えると、肉体派ではない我輩がよくやったものだと感心する。あの頃は体力も有り余っていたのかも知れない。 我輩の所属した警備会社というのは、その制服がヘルメットを着用した警官に似ていた。そのため、祭りの警備では警官と間違われたりもした。 北九州の夏祭りとは言っても、各地方の祭りが集結して「わっしょい百万夏祭り」と呼ばれるイベントと化している。小倉の市庁舎周辺の4車線道路を封鎖し、ハンパじゃない人間が溢れかえるのだ。 そんな祭りの警備の中、我輩は1人の青年に声を掛けられた。 「あのー、写真撮っていいですか?」 青年とは言っても、当時の我輩も学生だったので、同じ年代だったかも知れない。 我輩は突然にそんなことを言われたので何だろうと思ったが、深く考えもせずに了承した。 青年がカメラを構えた。 その瞬間、我輩は反射的にピースサインを出した。 青年は少し苦笑いしたような気がした ピースサイン・・・あの頃は学生だったから仕方無いだろう? 青年は、働く人間の姿を撮りたかったのだろうか。もしかしたら警官と間違えたということも考えられる。 我輩のピースサインが青年の意図に合ったかどうかは別として、彼は我輩に向けて確かにカメラのシャッターを切った。 その写真が今もあるのかは分からないが、写真などそんなに簡単に棄てるとも思えない。もしネガフィルムであれば、その1コマだけ棄てることもないだろうからな。 我輩の写真、この世のどこかにあると思うと何となく不思議な気分になる。一体どんなふうに写っているのか。 見たいような、見たくないような・・・。 ---------------------------------------------------- [210] 2001年01月19日(金) 「良い想像・悪い想像」 ミノルタα-303siの絞り機構が故障したという件、修理をキャンセルしたものの、いまだにヨドバシカメラから「取りに来て」という電話は無い。 単純に、留守の時に電話を掛けたのかも知れないが、それでも掛け直したりはするだろう。 印象というのは怖いもので、こういう時にも妙な想像を巡らしてしまう。 ミノルタが自社で修理しているのか、あるいは外部に委託しているのかは知らないが、それでもミノルタの印象がそのまま想像にも適用されることになる。 まず、悪い想像が先に来る。 (1)既に修理してしまった 「ま、8,100円ごときでキャンセルはしないだろうから、返事を待たずに修理に取りかかろう。」 しかし、キャンセルの返事が来たので、仕方なく元の状態に戻すことにした。だから時間が掛かっている。 (2)後回しにされた そこでは、「キャンセルなら後回し」という慣習がある。梱包作業が面倒くさいので、気が向いた時にやるのだ。前向きな仕事じゃないからな。 (3)紛失した ゴミと間違えて棄てられた。あるいはパーツ取り用と間違われて他のカメラの臓器提供者となった。いくら何でも・・・。 (4)忘れ去られた 棚の奥でひっそりと忘れられている。 ・・・まあ、ちょっとひねくれた想像だったかも知れないが、あり得ない内容でもない。後の精神的ショックを少しでも軽くするために、悪いほうへ想像するのは仕方のないことなのだ。 しかし、もし(1)が本当だったとしたら、これほど無駄なことは無い。 我輩はこのあと、保証の効いている中古店から修理を出すつもりなのだが、結局は同じところへ修理に出されるだろう。 「何だよ、またこのカメラか。」 そんな声が聞こえてくるような気がする。 修理して、また元に戻して、そして修理する・・・。こんなにイジくられては、華奢な絞り機構は更に寿命を縮めてしまう。 最悪のケースと言える。 次に、良い想像を無理に考えてみようと思ったが、これはなかなか難しい。強いて言えば、サービスとして無料で修理してくれているとも思えなくもないが、他の客への言い訳が出来なくなるため、その可能性はほとんどゼロと言える。 「タダで修理してくれたっていう人がいたんだけど。」 などと客に言われれば、金が取れなくなってしまうからな。普通はそんなことはやらない。普通はな・・・。 まあ、真相は(2)というところだろうな。 いいから早く返してくれよ。 ---------------------------------------------------- [210] 2001年01月22日(月) 「もしもの時のため」 ガシャーン! その日の夜7時頃、我輩が帰宅しようと町屋駅近くを歩いていると、数十メートル離れた背後で、壮絶な音が響き渡った。 我輩は「博多屋」の回転焼きを買って帰ろうとしていたのだが、そんなものは頭から吹っ飛んで、音のするほうへ急いだ。 そこは交番のある交差点のすぐ近くだったが、人だかりがあってよく見えない。そのうち交番の警察官もやってきた。 そこに横たわっていたモノを見た時、我輩は思わずカメラをカバンに探した・・・。 我輩は昔、通勤カバンの中に小さなカメラを入れていた時期があった。 ハーフサイズの「オリンパス・ペンD」というやつで、一眼レフではないが絞りとシャッタースピードが任意に変えられる。 なぜそんなカメラを入れているかと問われれば、「もしもの時のため」と答えたろう。 「もしも」というのは、漠然とした「もしも」であって、特に何かの使命を感じていたわけではない。いつも片手にアメを持っていないと落ち着かない子供のように、突き詰めて問われれば大した理由があるわけでもない。強いて言えば、交通事故かUFO目撃くらいなものか。 そう言えば、夢の中でUFOを目撃することがある。そして必ず、必死になってカメラを探し回るのだ。 「早くしないとUFOが遠くに行ってしまう・・・。」 「オリンパス・ペンD」を選んだ積極的な理由は無く、ただ単に我輩の手元にあるカメラの中で一番小さいものだったからだ。そうは言ってもこのカメラ、意外にズシリと存在感がある。 最初はまだ良かったが、そのうち荷物が多い時にカメラを出したまま、忘れ去られた。 オリンパス・ペンD <<画像ファイルあり>> ハーフサイズのコンパクトボディながら、絞りもシャッタースピードも任意に選べる。ピントは目測式で、レバーの位置で大体の距離を手探りで設定出来る。露出計はセレン式で、ボタン電池さえ必要としない。 ・・・ほんの数分前に横断歩道を渡った町屋駅前交差点だったが、引き返してみると歩道に人だかりが出来ていた。自転車で通りかかったオイちゃんも、首を伸ばして覗き込んでいる。 そこには何かが横たわっているようだった。白くて大きいモノ・・・。冷蔵庫か? よく見ると、それはうつ伏せに倒れた自動販売機だった。それが歩道の真ん中で道をふさいでいる。日常ではあまり見掛けない光景であり、一瞬、我輩はカバンの中からカメラを探そうとしたが、そんなものは都合良くあるはずもない。 その奇妙な光景は、あたりを見回すとなんとなく理解出来た。 その歩道の隣には駐車場があった。そして駐車場と歩道の間には自動販売機が3〜4台ほどあり、そのうちの1台が歩道に倒れこんでいるように見えた。 よく見ると、駐車場に駐車しようとした車が歩道側に少しハミ出ている。そうか、バックしすぎて自動販売機を押し倒したのか。 まあ、ちょうど歩道を歩く人間には当たらなかったようで、笑い話のネタにはちょうど良かったが、手持ちにカメラは無く、こんな光景を残しておけないのが少し残念だった。 いつも通る道だとはいえ、1日に2回通る程度で数分もその場に留まることはない。少しでも時間がズレていればその光景には出会わなかったろう。自動販売機も警察官の協力ですぐに起こされるに違いない。 そう考えると、このような場面に遭遇するのは「巡り合わせ」と言うに足る。 今なら軽量なデジタルカメラを常に持ち歩けるかも知れないが、電子手帳のように電池のチェックを頻繁にやらなければならないのが苦痛だ。面倒くさがりの我輩向きではない。もしもの時に使うカメラであるのに、もしもの時に使えないのでは困る。 今度は使い捨てカメラでも入れておくかな、と思わせる出来事だった。 ---------------------------------------------------- [212] 2001年01月24日(水) 「タコ星人」 電卓のデザインはどれも似たり寄ったりだ。四角くて、キーの並びもどれも同じで面白くない。同じ計算をすれば、同じ答えしか返ってこない。そこには個性は無い。 そこで、我輩は自分なりに電卓をデザインしてみた。それが下のイメージ図である。 <<画像ファイルあり>> まず、形に丸みを持たせ、左手で握った時に一番安定するようにした。色も派手な配色にし、存在感を強調。さらにキーの配列を、数字キーが手前に来るようにデザインした。 それらは、すべて人間工学に基づいている。 ・・・さて、下らない冗談はこのくらいでやめておく。 電卓が何のためにあるのかということを考えれば、このデザインの愚かさは理解出来よう。 オリジナルグッズという位置付けで奇をてらうデザインならともかく、使うための道具としてのデザインではないことは誰の目にも明らかだ。 キーの配列は、オーソドックスな配列のほうが使いやすい。仮に、もっと使いやすい配列を見つけたとしても、それはオーソドックスな配列に慣れた者にとって何の助けにもならない。 しかも、丸みを帯びたデザインは机に置いた時にグラつき、キーを打つたびに電卓が動く。もしこの電卓が実在するならば、これが効率的な計算をする道具とはとても思えない。 未来的なイメージはいつの時代でも流線形であった。しかし実際に使う時、それはもはや未来とは呼ばない。 未来の代名詞であった「21世紀」も、今では「現代」となった。そんな今、あえて未来を意識したデザインを行う意味とは何なのか。 「宇宙人」をイメージする時、一昔前はタコのような姿が一般的だった。 本物の宇宙人を見たことがない、見ようと思っても見ることが出来ない。だから貧弱な発想の中では、H.G.ウェルズのSF小説「宇宙戦争」に登場したタコ型宇宙人が、宇宙人の固定されたイメージとして確立されてしまった。 (現在は、矢追純一の「リトル・グレイ」という頭デッカチの宇宙人がポピュラーか) 未来のイメージも事情は同じだ。見ることが出来ない世界。それはあたかもタコ星人を思い浮かべるように、「未来というイメージは、流れるようなデザインでなければならない」とされている。 新幹線が流線形としてデザインされ、スーパーカー・ブームの時にはその流れるようなフォルムが目をひいた。そして、曲面というものが未来的であるという無意識なイメージが植え付けられてしまい、どうにもそこから抜け出せないのである。 その結果、空力特性など縁の無い機器にまで未来のイメージを重ね合わせ、無理矢理に流線形へネジ曲げられた。 恐らく、曲面を多用する日本のデザイナーは、新幹線やスーパー・カーに心を躍らせた世代に違いない。未来というイメージが貧弱な発想力で固定化された世代。しかも本人たちは、その発想が創造的でオリジナリティ溢れるものだと信じているからタチが悪い。 人間が直接手に持って操作する製品のデザインは、デザイナーが自由に表現するためのキャンバスではない。独りよがりで使い手不在のデザインでは、全く説得力が無い。そこを勘違いしたような、自分に酔っているデザイナーが多いのは、裸の王様のように、それを支持する者がいるからなのか。 つい最近でも、ルイジ・コラーニがデザインしたという中国製一眼レフが発表された。 ルイジ・コラーニ。その名前を聞いただけでどんなカメラか想像出来るに違いない。言うまでもなく、タコ星人的デザイン。もう、既に通過したはずの未来デザインだ。 未来を意識したデザインというのは、それを意識した時点で安っぽくなる。珍しがられている最初の数ヶ月間で売り切るというだけの下らない製品ならお似合いだろうが、何年も使い続けるような成熟した製品には普遍的で使い手に立ったデザインが必要で、それはとても難しいものなのだ。 「人間工学(正確にはエセ人間工学)」だとか、「若い発想力」だとか、そんなものに踊らされて製品のコンセプトを簡単に捨てるメーカーが理解出来ない。 数年後になって使うのが恥ずかしくなるようなカメラなど、いかに故障しないものでも意味が無い。いや、むしろ早く壊れてくれることを願うことになろう。 ---------------------------------------------------- [213] 2001年01月25日(木) 「お持ち帰りの風景」 写真というのは、一瞬の時間を切り取る。 だから、おジイちゃんやおバアちゃんの若い頃の写真を見ることが出来る。子供の成長記録として、その時その時の姿を固定しておくことが出来る。さらには、亡くなった者の生前の姿も、写真の中にとどめておくことが出来る。 これは、誰もが知っている写真の特性だ。わざわざ言う必要も無いほど当たり前のこと。 しかし、もしも写真が時間をとどめておかないとしたら・・・? 写真に写った人物も、現実とリンクするように老い、そして消滅するとしたら・・・? 写真を撮る行為というのは、「対象物をコピーする」という意味合いも含まれていると思う。 美しい風景や珍しい風景、遠い外国の風景。それ自身を移動させることが出来ないものだから、せめて写真に収めて持ち帰る。 しかし撮影時に、曇っていたり、余計な枝があったり、邪魔な人間が入り込んでいたりすると、それを一瞬だけでも避けたいと思う。なぜなら、写真はその瞬間の風景を永久にとどめることになるからだ。 写真に撮るほんの一瞬だけでも、雲が切れて青空が覗いて欲しいと思う。その一瞬さえ捕らえれば、理想的な景色が写真の中で永久に維持され続ける。 しかし、中には不届き者がいる。 平気で立ち入り禁止の湿原に入り込んだり、構図上ジャマな枝をヘシ折ったりする。 自分が立ち去った後、湿原が破壊されようが、枝を折られた木が枯れようが、そんなことはどうでもいい。キレイな瞬間だけを切り取れば、あとはどうなろうと知ったことじゃないのだ。 だから、撮影前には捨てなかったフィルムのパッケージなどのゴミでも、撮影後には心おきなくその場に捨てることが出来る。 それはあたかも、高山植物を無断で摘んで持ち帰るかのごとく自然をむしり取る行為だ。それはもはや「対象物のコピー」ではなく、「対象物の搾取」である。 しかし冒頭に書いたように、もし時間が切り取られずに、その後の風景の姿が写真に反映されるとしたらどうだろう? 写真に写した風景が、現実の風景とリンクして変化してゆく。自分の行為による影響も、その風景に反映される。それだけでなく、他人がゴミを捨てたり、無用な開発が行われるようになれば、さらにその写真の風景は変貌するだろう。 そうなれば、「撮影する瞬間さえキレイであれば良い」という考えも無くなるに違いない。自分たち1人1人の行為が、写真の風景を壊してゆくのだから、自分たちの問題として関わることになるのだ。 写真というのは、対象物の一面を投影した「影」に過ぎない。それを意識すると、いくら写真で美しい風景などを撮ったとしても、それは無数にある美しさの1つでしかないことが理解出来るはずだ。その場に何百回通ったとしても、全ての姿を写し込むことは不可能である。 そういう意味では、瞬間を収める写真というのは、本当は風景を固定させるものではないのかも知れない。 何度もその地を訪れ、そのたびに新しい発見をする。そしてそのことが、動かない固定された写真を動的なものへと昇華することになろう。 次にまた来る時のため、なるべく自分の足跡を自然環境の中に残さないようにする。それが、写真を撮る行為としてふさわしく、また合理的だと思うが。 ---------------------------------------------------- [214] 2001年01月26日(金) 「銀座での収穫」 昨日は客先へ行く用事があり、その帰りに銀座のニコンサービスセンターへ行った。 F3/Tの露出ロックボタンの件は、待ちきれずに既にヨドバシカメラ経由で修理に出している。今回は、FAの件で行った。 実は、FAの多重露出レバーが機能していない。もしかしたら全く使う機会の無い機能かも知れないが、やはり気持ちが良くないので修理しようと考えた。そこで、外出の機会を狙っていたのだ。 我輩はカメラをカバンから出しながら「FAなんですけど・・・」と言った。 しかしニコンのオヤジは、「FA」という言葉を聞いた途端に「あぁ、FAですかぁ〜」と苦笑いした。その一言で、「部品もほとんどないので修理できないこともあるんですよねぇ。」と聞こえた。だから我輩はすかさず「ま、ま、とりあえず見るだけ見てっ、とりあえずっ!」と言って渡した。 「フィルム、入ってませんよね?」 「入ってません。」 ニコンオヤジがパカンと裏ブタを開けると、そこにはコダック・ダイナのパトローネが見えた。 「うわっ!」 ニコンオヤジは一瞬ビックリしたが、それが既に巻き戻されたパトローネだと確認して安心した様子だった。どーだ、驚いたか。我輩も驚いたぞ。しかし、このまえから探していたフィルムがこんなところにあったとはな。見つかって良かった。 チェックの後、ファインダー内部の液晶表示部が少し難があるとのことを指摘された。それは我輩も分かっていたが、特に支障は感じていなかった。それでも安くあがれば修理してもらっても良いとは思ったが、調べてもらうと1万2万かかるとのこと。それだけ金を注ぐ価値は無いと判断し、それには手を付けないことにした。 結局、そのFAの多重露出レバーは2週間後に修理が完了するとのことだった。見積りでは\6,300。ただし、「部品が必要になった場合、もしかしたら修理不可能かも知れません」とクギをさされた。 「分かりました。」 「でも、あんまり撮影には支障が無いでしょう? 多重露出レバー。」 コラコラ、メーカーの人間がそんなこと言うなよ。 修理票に「バン!」と押されたハンコ <<画像ファイルあり>> このハンコ、欲しくなってしまった。何かのジョークに使えるかも知れない。 FAを修理に出したあと、ついでに、F3の底プレートを\2,048で手に入れた。その時、「取り付けはビスだけではなくてモータードライブの連結部も外さなければいけませんけどいいんですか?」としつこく聞かれた。そんなこと何度も言わなくても分かっておるわ。知らない人間が、そんな部品の要求などするかい。 そもそもおまえらがF3を生産終了さえしなければ、このような部品を確保しなくても良かったんだ。FAの件もそうだが、修理というのは時間が経った後に必要になるものだ。けれどもそうなったらメーカーでも部品が無いだろうから、結局はユーザーが可能な範囲で部品を確保せねばならない。その追い詰められた気持ちを解ってくれよ。 しかしまあ、普通は修理不能になったら新しい製品を買うんだろうが・・・、けどF3は別の機種への代替がきかないカメラだからなぁ。 ちなみにF3/T用の底プレートもねだってみたが、それは交換修理のみだと言われた。 さて、せっかく銀座に来たのだから、中古カメラ店でも寄って行くか。 近くの中古屋(名前は覚えていない)を覗いてみると、F3HPの新品が置いてあった。値段は17万ちょっと。 先週、我輩がタナカカメラで購入した時は14万円だったが・・・。う〜ん、生産終了の品だから、値段の格差が広がりつつあるのかも知れない。 カツミ堂を覗いてみると、F3Hが置いてあった。しかし値段は75万円。昔見た時よりも20万円も高くなっているなあ。こんな値段で誰が買うんだ? しかし、出すヤツは出すんだろうな。 今度はレモン社へ行き、未使用のF3/T(白)を見つけた。・・・それにしてはキズっぽいものがいくつか見える。単なるゴミなのか? まあいい、レモン社へは逆輸入の「Ai50mmF1.8」を買うために行ったのだ。 値段はフードも含め\16,569だった。 このレンズはなかなかいい。これで3本目となるが、1本ストックしておく価値は十分にある。恐らく、F1.4よりも利用価値は高いと思う。何しろ、接写リングをかましても良い具合に写るからな。 ・・・というわけで銀座での収穫は、F3の底プレートと50mmF1.8。 以上。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [215] 2001年01月27日(土) 「必然のニコン」 我輩はニコンを主に使用している。 その理由はいくつかあるが、「他に選択肢が無い」ということも大きな理由として無視出来ない。 もしニコンに「F3」や「FA」という魅力的なカメラボディが存在しなかったとしても、それでもキヤノンは選びにくい。なぜかと言えば、MFとAFのレンズマウントに互換性が無いからだ。 確かに、キヤノンにも魅力的なボディは多くある。「F-1」、「newF-1」、「EF」、「AE-1」、「AE-1P」、「A-1」。 特に「AE-1P」は、その性能と精悍なデザインが我輩の中では高い位置にランクされている。 しかし、それら全てのMFカメラはキヤノンによって見放され、忘れられた存在となった。ボディはもちろん、アクセサリやレンズなど、何一つ新品で手に入るものは無い。 キヤノンファンになろうとしても、もはや手遅れなのだ。遅すぎる。 中古カメラを毛嫌いするつもりも無いが、中古でしか手に入らないものを自分の機材の中核に据えることは難しい。なぜなら、故障したり紛失したりすると二度と手に入らないかも知れないからだ。 例えば「AE-1P」用のフォーカシング・スクリーンなどは、交換可能な構造ながら、事実上交換するモノが無い。そういうレア物は、概して欲しい時には手に入らない。 ニコンについては、新品のF3とアクセサリ、そしてレンズを新品のうちに必要数確保した。しかも、現時点ではMFレンズは現行品であるし、またいざとなればAFレンズも使用可能である。昔ながらのダイヤル式カメラボディを使い続けようとする者にとって、ニコンという選択は必然なのだ。それは、好き嫌いの問題以前の話である。 ちなみに、ペンタックスはニコンと同じくMFとAFのマウントに互換性があるが、MFレンズのラインナップはほぼ壊滅状態。AFレンズを使うのは、本当に最後の手段であるため、LXの新品ボディは確保したものの、やはり我輩の中核に加わることは難しい。 まあ、ペンタックスのKマウントはリコーのレンズなども使えるから、色々と遊べるボディでもある。そういったことは、老後にのんびりと撮影する時に必要となろう。 ---------------------------------------------------- [216] 2001年01月28日(日) 「健全なバージョンアップ」 パソコンソフトの「ウィンドウズ」や「ワード」、「インターネット・エクスプローラ」は、ここ数年で驚異なる進化を遂げた。過去のバージョンと並べてみると、「これが本当に同一ソフトのバージョン違いなのか?」と思わせる。 多くのヘルプ機能や、画面の質問に答えながら設定するウィザード機能を備え、基本知識すら必要なく「一応のレベル」で使える。本当に手取り足取りな機能が使用者を助けるのだ。 日本語ですら打ち間違えると、「ら抜き表現です」。ほら、怒られた。 そんな中、我輩はいくつかのソフトをバージョンアップするのはやめた。 昔からそのソフトを使っている人間にとって、ヘルプやウィザード機能などは無用の長物。それこそ余計な手順が増え、以前と比べて効率が格段に下がっている。 GUI(視覚的操作体系)とマウスの多用も、初心者には有り難い反面、我輩にはとてもじれったく感ずる。 さらにソフトウェアは、ある程度のバグ(不具合)を宿命的に持っている。そしてそのバグは、次のバージョンアップで修正されることとなる。 その考えに基づくと、バグというものはいくつかのバージョンアップを経れば根絶出来そうな気もしてくるのだが、なかなかそうならないのが現状。 なぜなら、バージョンアップというのはバグの修正を行う一方で新機能を盛り込むことが当然とされている。新機能が加われば、その分だけバグが増えることになる。修正しても修正しても、どんどん新しいバグが追加されるのだから、永久にバグが根絶されることは無い。 カメラの場合、「バージョンアップ」とは言わずに「新機種」と呼ばれる。しかしまあ、呼び方が違うだけで、抱える問題は似ている。 ボタンや液晶表示板を持つカメラには、まだまだ改良の余地がある。現状では、全メーカーが共通に採用する標準的操作体系には辿り着いていない。メーカーの試行錯誤は終わらず、「こんな感じで作ってみましたが」という試作とも思えるようなカメラが多く世に出てしまった。 前の機種の問題点が十分に消化されたわけでもないのに、小手先の技術で流行に乗ろうとしてユーザーを翻弄させたメーカーの罪は重い。 しかし、従来からの「絞りとシャッタースピードを調節するだけ」の操作体系は、1つの形態として安定(ユーザーに定着)している。この型を継承して、ソフトのバグを取るがごとく、完全な形に仕上げて欲しいと我輩は願う。 単なるマイナーチェンジと言うような地味なものになるかも知れないが、それはそれでいい。 先日生産中止になった「Nikon F3」も、理想的なMFカメラだと言われながらも、シンクロスピードの遅さやホットッシューの位置、ファインダー内表示の位置、イルミネータのスイッチ、露出補正の操作性などについて改良を求める声が大きかった。 そんなことを考えながら過去を振り返ってみると、いくつかのカメラが目に止まる。 「FE」をベースにした「FE2」、「FM」をベースにした「FM2」と「NewFM2」、「F401」をベースにした「F401S」と「F401X」、「EOS620」をベースにした「EOS630」、「EOS-1」をベースにした「EOS-1N」と「EOS-1V」・・・。 それぞれ、ベースとなったカメラに改良を重ね、派手な新機能の搭載よりも「バグ取り」に専念したマジメなバージョンアップと言えよう。 F3とFM2が消滅するこの時代、次に控えるバージョンアップが健全であることを、皆が望んでいる。 ---------------------------------------------------- [217] 2001年01月29日(月) 「眼中無し」 最近は、保守的なプロでさえAFカメラを当たり前のように使っている。デジタル表示にも慣れたのか、F4のダイヤルがF5の液晶板になった。 「プロがAFや液晶を使う時代に、MFやダイヤルにこだわる意味などあるのか?」 もしかしたら、このように思われる者もいるかも知れない。まさに正論だな。 確かに、そう思う者はそうすればいい。これは個々人の問題であって、我輩が強制出来るものではない。ただ、自分の意志を持たず闇雲にプロに倣おうとすることには異議申し上げる。 だいいち「プロ」と言っても、どんなプロのことなんだ? スポーツを得意とするカメラマン、ポートレートを得意とするカメラマン、商品撮影を得意とするカメラマン、ドキュメンタリーを得意とするカメラマン・・・。 皆、それぞれに機材への要求性能が違う。 「だが、全員とは言わないまでも、AFや液晶表示式を使うプロがいるという事実には変わりない。そんなカメラを否定出来るのか?」 確かにそうだな・・・。 だがここで言っておくが、我輩はAFについては否定的ではない。しかし、MFとAFのシステムを混在させることには苦労を感ずるため、あえてAFをミノルタαだけに留めているのが現状。それはつまり、現在のMFというものが「AFに取って代わられるもの」、あるいは「単に補助的なもの」として扱われていることによる。 我輩の中では、MFとAFはあくまで対等なのだ。 だが液晶表示については完全に否定的な立場にいる。 もちろん液晶が悪いとは言わない。ダイヤル式では難しい1/2段でのシャッター制御も可能である。そして、それはプロが求めるスペックでもある。 プロには、限られた時間(つまりコスト)内に要求される写真を撮らなければならないというプレッシャーがある。我々が仕事上で改善を迫られるのと同様に、プロも常に改善を続けなければ利益が薄くなり生活が成り立たなくなる。 裕福なプロカメラマンというのは、ほんの一部だと想像する。中にはかなりハングリーなカメラマンもいるだろう。好きでなければ出来ない。 そういうプロにとって、仕事に穴を空けることは何としても避けねばならない。そんな事態になれば、次から仕事が来なくなる。だから、なるべく効率のいい撮影法、なるべく安心な撮影法を選ぶ。我々が「念のためにあと1枚撮っておこうかな」というところを、プロは「念のためにあと1本撮っておこうかな」となるわけだ。液晶表示式カメラならば、1/2段のシャッター調節や自動段階露出(AEB)も行える。 失敗によって被る損失額を考えれば、フィルム1本程度の値段は安いもの。しかし、我々が失敗しても被害額は無い。ゼロだ。なぜなら、他の職業で給料をもらっている。失敗によって給料カットになるわけではないだろう? 我々はむしろ積極的に失敗を重ね、たくましく成長出来る。それにふさわしいのがダイヤル式のカメラではないかと思う。 基本的に失敗出来ないプロと、自分の納得の行くまで何度でもチャレンジ出来るアマチュア。それは腕の違いなどではなく、立場の違いなのだ。 ダイヤル式ならば、そこには「前回の失敗」、「前回の想いが届かなかったところ」がハッキリと刻まれているだろう。それが見えるくらいダイヤル式カメラを使いこなせるようになった時、もうプロの姿など眼中に無くなるに違いない。 自分の立場に誇りを持ち、歩み進め。 ---------------------------------------------------- [218] 2001年01月30日(火) 「カレンダー」 新しい年になって、新しいカレンダーを職場で使い始めている。 ちょっとした予定ならば手帳に書かずにカレンダーにシルシを付けて済ます。いやむしろ、いつも見えているカレンダーに書き込んだほうが、取り出して見なければならない手帳よりも便利かも知れない。 隣の作業室では、日めくりカレンダーを壁に掛けているようだ。 日めくりカレンダーは、確かに「今日は何日か」ということは一目で分かる。しかしこれは我輩には向かない。月全体が見渡せないため、なかなか計画が立てにくい。 ・・・そんなことを考えていたら、ふと、似たようなものが思い当たった。 「キヤノンA-1」や「フジカAX-5」、「ミノルタX-370S」などはダイヤル式カメラではあるものの、当サイトではカタログ化していない。 特に「ミノルタX-370S」のシャッター感は値段に似合わずなかなか具合が良く、出来れば当サイトのカタログに掲載したいところだ。しかし、それをためらわせる理由がある。 それは、シャッターダイヤルが一度に見渡せるようにはなっておらず、小さな窓の奥に隠されているからだ。これはカレンダーに例えると「日めくり」に相当すると言えよう。 <<画像ファイルあり>> 「一覧」型ダイヤル <<画像ファイルあり>> 「日めくり」型ダイヤル その点、ダイヤルが外部に露出しているものでは、全てのシャッター数値が一覧することが出来、ちょっとした加減を行う時にもどちら向きに回せば良いのかがあらかじめ分かる(もっとも、ダイヤルを見ることなく設定出来るなら問題は無いが)。 しかも色分けされているダイヤルは、まるで土曜・日曜・祝日のようでメリハリが効いている。平たく言えば、「目に楽しい」。 そういうわけで、ダイヤル式カメラであっても、これらの「日めくり」型ダイヤルカメラは当サイトでは紹介していないというわけだ。 ---------------------------------------------------- [219] 2001年01月31日(水) 「ミラーレンズ」 我輩が中学生の頃、仲間内で天体望遠鏡を持っている者は何人かいたが、その中でも反射式望遠鏡を持っている者はたったの1人、オカチンだけだった(本当は借り物だという)。 反射式望遠鏡は、望遠鏡の底にお椀型の反射鏡が取り付けられている。そして、その反射鏡は上から覗き込むと何の障害物も無く間近に見えた。 何よりそのバズーカ砲のような太い鏡胴は、とても子供が触れることを許されていないような雰囲気をまとっていた。言うなれば、我輩には縁のない別世界のものだったのだ。 それから5〜6年後、我輩は大学生となり一人暮らしを始め、家計を自分の裁量でコントロール出来るようになった。つまり、生活を切り詰めれば、比較的大きな買い物が出来る。 そんな時、ケンコーからミラーレンズが発売された。 それはスポッティングスコープの形態のミラーレンズで、焦点距離は300mmと500mmの2タイプが用意されており、カメラ接続用のアダプタを介せば交換レンズとしても使用可能だった。 商品名は確か「ケンコー・ミラースコープ」だったような記憶があるが・・・。 値段は5万円前後と当時の我輩にとってはかなり高額だったが、昔から憧れていたミラーレンズが手に入るならばと無理をして購入した。 我輩が購入したのは、300mmのタイプだった。500mmよりもコンパクトで、開放F値5.0とまあまあの明るさだった。 下図は、頼りない記憶を基に作画したものである。多少の間違いはあるかも知れないが、だいたいの雰囲気は出ている。 <ケンコー・ミラースコープ> <<画像ファイルあり>> スポッティング・スコープの形態 <<画像ファイルあり>> 交換レンズ(300mmF5.0)の形態 このレンズ、ずんぐりとしているがかなり軽い。補正レンズが何枚か入っているものの、基本的には主鏡と副鏡の2つだけの構造だから当然か。 キヤノンAE-1Pに取り付けてみると、まあF5.0に見合う明るさだった。AE-1Pのファインダースクリーンは、F5.6までの明るさならスプリット・プリズムが翳らないので、ピント合わせに支障は感じられなかった。 ただ、ミラーレンズ特有の問題として、絞り機構が無い。もっとも、レンズの明るさの問題から実質的には絞り込む必要性は無いだろうが。 今度はカメラから離して接眼レンズを装着してみる。すると、カメラで見た時よりも映像が大きく見える。しかも、ファインダースクリーンのザラザラ感の無い透明感のある映像が直接目に入ってきた。 その瞬間、中学生時代の気持ちが甦ってきた。 「反射望遠鏡の映像を、今見てるんだなあ。」 そして、しばらく飽きずに景色や月を見ていた。 このミラーレンズ、鏡胴が白色でカメラの交換レンズっぽくなかったため、黒い粘着シートを貼り込んで使っていた。 その後、ミノルタα-7000やα-7700iを手に入れ、αレンズも「100-300mmF4.5-5.6」のような全長10センチのコンパクトなものが発売された。そのため、MFで、しかも絞りも変えられないというミラーレンズの欠点だけが目に映るようになり、やがてαレンズと入れ替わるようにして我輩の手元を離れていってしまった・・・。 (下取りして少しでも安くしてもらわないと買えない) 今思うと、あのミラーレンズを手放すとは惜しいことをした。マウントアダプターでニコンにも付けることが出来たものを。今なら、白い鏡胴がF3/Tの白いボディとお似合いだったかも知れぬ・・・。 ---------------------------------------------------- [220] 2001年02月01日(木) 「撮っても観れない」 我輩が去年末に死ぬ気で購入したノートパソコン「SHARP/Mebius PC-RJ950R」。その液晶表示パネルは1400x1050ドット(SXGA+)にもなり、我輩のデスクトップパソコンの1024x768ドット(XGA)を上回る解像度だ。 なぜこんなものを死ぬ気で購入したのかというと、ノートパソコンというのは拡張性が低く、今まで何度も貧乏臭い買い方をして後悔してきたので、ここらでハイエンドを狙って永く使おうと思ったからなのだ。 さて、このパソコンの液晶は1ドットのきめが細かい。写真を表示させるとかなり緻密に見えるのが素晴らしい。2年前にハウステンボスへ旅行に行った時の写真などを表示させていたのだが、タワーから見下ろした写真に小さな人影や運河を泳ぐ白鳥の姿を見つけて喜んでいた。 「すげえ、こんなものまで見える。」 この感動を、ハウステンボスに一緒に行ったヘナチョコ妻にも共有させてやろうと思ったが、ヘナチョコはコタツから出るのが寒いので見に行けないという。我輩の部屋は北向きで寒い。 しかし、いくらノートパソコンとは言え、ACアダプタやLANケーブル、マウスなどがぶら下がった状態をいちいち外して持って行くのは面倒。 「じゃあ、そっちのパソコンに画像を転送するから受け取れ。」 我輩はLAN経由でヘナチョコのパソコンのハードディスクに侵入し、画像ファイルを置いた。 そして、ヘナチョコのパソコン画面でその画像を表示して見せた。 「・・・くそぉ。」 ヘナチョコのパソコンは800x600ドット(SVGA)表示だった。すっかり忘れていた。 全体を見せようとすると、細かい部分がよく見えず、拡大すると画面から全体像がハミ出る。画像の大きさは理解出来るが、緻密感などはどうやっても表現出来ない。 結局、普通に写真を見せるにとどまり、我輩の感動はヘナチョコには伝わらなかった。 前にも書いたが、こういう緻密さというのは、やはり並のディスプレイでは体験出来ない。ということは、画像ファイルを送ったりしただけでは、相手は自分の写真を正しく見てくれていないということになる。いや、それがデジタルカメラでダイレクトに撮影したものならば、自分自身がその緻密さに気付かない。 我輩の最新ノートパソコンは相対的な緻密さは高いものの、絶対的な評価として言うならば、まだとても緻密と言えるレベルには及ばない。 フィルムで写真を撮れば、その緻密さに息を飲む時がある。初めてブローニー判のリバーサルを見た時の感動は今でも想い出す。 しかし、初めからデジタルカメラで画像を電子化してしまえば、例え600万画素のデジタルカメラを使おうとも、その画像の緻密さを肌で感じることは不可能。 我輩は今まで、画素数アップのために何台かデジタルカメラを買い換えてきたが、単にディスプレイ上の画像サイズが大きくなるだけで緻密感に変化は無く、写っている内容についてはともかく、画質について感動した覚えは1度も無い。 確かに頭の中では「これは画質がいいんだろうな」と想像は出来る。だが決して体験することは出来ない。画素数や画像サイズの大きさを論理的に理解しているだけで、感動は出来ない。しかし、一般の人間はそのことに気付かず、画素数の大きさに有り難がるのみ。 現時点では、唯一、メッシュの高い線数で印刷物を刷るしか方法は無い。ということは、デジタル画像というのは業界向きなのか。 現在、高画質と謳われているデジタルカメラでは、その画質を「画素数」でしか垣間見ることが出来ない。実際にその画像を見ても、従来の画質と全く変わらない。同じディスプレイで見てるならば当然と言える。 将来、アルバムを見せるように気軽に持ち歩ける高解像度液晶パネルが開発されれば、その時初めて、積極的な意味でデジタル画像を撮影する意味が生まれよう。 しかし、それが当たり前の世の中になる日はまだまだ遠い。今はまだ、デジタル画像の高画質を撮ることは出来ても、観ることは出来ない・・・。 久しぶりにマミヤでも引っぱり出し、緻密さを楽しむことにするか。パソコンごときでは決して味わえぬ緻密さをな! ---------------------------------------------------- [221] 2001年02月02日(金) 「変わったものとは」 同じカメラを前にして、それに触れた時代によって印象が異なるのはどうしてだろう・・・? 答えは1つしかない。 我輩が昔から関わっているカメラに「キヤノンAE-1P」がある。このカメラほど、我輩に色々な印象を与えたものは無かったろう。 ここでは、年代ごとにその印象を書いてみようと思う・・・。 <<画像ファイルあり>> −−−<中学時代>−−− 中学生当時、我輩は初めて買った一眼レフ「キヤノンAE-1」を、オカチンに「1年間の買い食い」という条件で譲り、自分は「AE-1P」を購入した。 これを購入するまでは、カタログの写真を眺めて暮らしていたものだった。 ブラックボディとクロームボディの2種類が用意されていたが、ブラックボディの姿には心底惚れ、「いつかこのブラックボディを手に入れるぞ」と決めていた。 当時は「AE-1P」よりも高性能のフルモード一眼レフカメラ「A-1」が人気だった。しかし、我輩にはゴチャゴチャした「A-1」よりも、スマートでムダの無い「AE-1P」のほうに魅力を感じた。決して金が無いから「AE-1P」にしたのではない。 その証拠に、次のようなエピソードがある。 強がりモノの友人Kは「A-1」を持っていた。そしてカメラ仲間に自慢したりしていた。しかし我輩は、自分の「AE-1P」に誇りを持っていたので、このカメラの素晴らしさについて語って聞かせた。 「A-1のダイヤルは固いが、AE-1Pのダイヤルは軽くスピーディーに設定出来る」 「デザイン的には似ているが、よく見ればAE-1Pのほうが洗練されている」 「電池の保ちがいい」 「ファインダースクリーンがニュータイプのスプリットプリズムになっていて暗いレンズでも翳(かげ)らない」 「A-1と同じアクセサリが使える」 確かにその場では、友人Kは「A-1」よりもランクの低い「AE-1P」を認めなかった。しかし、我輩が事あるごとに「AE-1P」の素晴らしさを語って聞かせると、友人Kも少し考えが変わったようだった。 そしてある日、友人Kは「A-1」が「AE-1P」よりも高価であることをさりげなく言ったあと、「・・・交換してもいいぞ」と言った。 あろうことか、自分のカメラと我輩のカメラを交換しようと言ってきたのだ。「A-1のほうが高いんだから文句は無いだろう」とでも言うつもりか。 交換なぞするか、バカモノ。 ・・・とまあ、我輩にとっては「AE-1P」は最高のカメラだった。もちろん、「ニコンF3」はそれ以上に素晴らしいカメラだったが、それは大人の道具であるという意識があり、最初からそれは頭に無かった。 −−−<高校時代>−−− 「ニコンF3」を意識し始め、我輩の中の「AE-1P」の位置が相対的に少しランクダウンした。しかし、受験に忙しかったこともあり、全般的にカメラとは縁が薄い時代だった。 −−−<大学時代>−−− 大学時代にはミノルタのαを導入した。 しかし、金銭的に余裕が無かったため、「AE-1P」を手放すことにした。 この時になると、AFカメラの派手さに「AE-1P」は色褪せて見え、前時代的にしか思えなかったのだ。 当時は「α-7700i」の時代で、まだそのデザインや機能に知性が感じられた時だった。だからもう、「AE-1P」に用は無い。 今思うと、その時は中学時代の「AE-1P」に対する憧れの気持ちは全く忘れていた・・・。 −−−<社会人時代>−−− AF熱が冷め、初めて「ニコンF3」を手に入れた。その流れで、その後いくつかのMFカメラを買うようになる。その中に、「AE-1P」が入っていた。 初めは懐かしさで購入したのだが、ある日実家に帰った時に発売当時のカタログを持ち帰り、あの頃の憧れの感情を取り戻した。 カタログには宇崎竜童が「AE-1P」を構えている。そのカタログを前にした我輩は、一瞬、中学時代に戻ったかのような錯覚にとらわれた・・・。 「キヤノンAE-1P」。それは、我輩の青春時代の空気を胸一杯に吸い込んだカメラである。その姿は、昔も今も変わりは無い。 しかし、これほど印象が変わって見えるカメラも無いだろう。一体何が変わったのか。 変わったものは・・・、他でもない、それを見る人間そのものであった。 ---------------------------------------------------- [222] 2001年02月05日(月) 「AFを使う者の心得」 仕事に於いて、納期を守れないというのは致命的である。 業務上、自分の担当範囲でないものや、自分の容量に余るものは、別の部署や外注業者に頼むことになる。納期に余裕の無い業務では、とにかく手分けしてやったほうがいい。 しかしごくまれに、納期直前になって「やっぱりウチでは出来ません」などと言ってくる場合がある。そんな時は大変だ。時間を浪費した分、状況は確実に深刻になっている。もっと早く分かっていれば、無理をしてでも自分でやったものを・・・。 「AF(自動焦点)」というのは、結構異質な自動化だと思う。 というのも、他の自動制御「自動露出」、「自動巻上げ」、「自動巻戻し」、「自動感度設定」などは、どの場面でも機能する。自動露出では失敗もあるが、それでもその傾向を理解して露出補正すれば済む。 それらは決して仕事を投げ出したりはしない。それなりの結果は出してくれるのだ。 しかしAFというのは、出来る時と出来ない時がある。 AFで撮影しようとしても、コントラストが低かったり、網戸越しやガラス越しだったり、動きの速いものについては、AFが途中で諦めてしまうことがある。 そんな時は、目一杯ピントを外したかと思うと、ファインダー内に非情な赤いバツ印が点滅する。 それはまるで、「やっぱり出来ませんでした」と言われているようだ。 そういう場合は手動(MF)に切り替えねばならぬが、ギリギリになってそんなことを言われても困るというもの。そんなことなら、最初から手動でやったほうが良かった。 結局、通常よりも上級テクニックを要求される状態に追い込まれることになる。 「AFには苦手なものをやらせるべきではない」という意見もあろう。しかし、この「苦手なもの」というのがまた微妙で難しい。 似たようなシチュエーションであっても、前回は上手く行ったのに、今回はダメだったということがある。例えば、走る自動車でも動体予測フォーカスによってピントが合うというカメラでも、人の歩く速さ程度でシャッターが切れなかった時もあった。光量や使用レンズなど、カメラから見れば決定的に違う要素があるのかも知れないが、それを人間が汲み取るのは、なかなか難しい。 AFの性能が向上し、今までは任せられなかったことでもAFで行える範囲が増えた。しかし、やはり使い方やシチュエーションによっては、意外なところで仕事を放り出す。 なんとかしようと努力しているのは分かるのだが、その努力に時間を掛けすぎて、結局は時間を浪費し状況を悪くする。 まあ、滅多にそんなことは無いのかも知れないが、得てして大事な時にまれなことが起こりうる。これは、「マーフィーの法則」の大原則である。 ギリギリの状況に追い込まれた中で仕事を戻された時、そこで自分の力量が問われることになる。諦めて済むようなものならいいが、もしそうでなかったとしたらどうする・・・? 結局は逆説的な結論が出る。 AFを本気で使おうとする者は、MF派以上にMF操作に長けていなければならぬ。 ---------------------------------------------------- [223] 2001年02月06日(火) 「渡る世間・・・」 ヘナチョコ妻がテレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を観ているので、同じコタツに入っている我輩も何となく観てしまう。 このドラマ、個性的な俳優「えなりかずき」が出演する。彼は結構特徴的な雰囲気を持ち、一度見たら忘れない。 あるトーク番組で、えなりかずきが出演していた。 えなりかずきの父親は、自分の顔にコンプレックスを持っていたらしい。ところが、その父親そっくりの子供が産まれてしまった。父親はショックを受けたが、この顔を世間で広く認知し慣れてもらうために、テレビに出すべく自分の子供を俳優にしたのだという。 そう言われれば、人の顔というのは慣れることによって身近に感じる。 読売ジャイアンツのゴジラ松井も、最初は「ゴッツイなあ」というイメージだったが、今は「松井らしいな」というふうに変わったな。 「ニコンFM3A」、ペンタプリズムの頭頂部が狭いデザインになっている。ホット・シューがあるので気付かないが、そのラインは「ニコンF」に近付こうとしているかのようだ。 今時のカメラはペンタ部にストロボを内蔵しているものが多く、新製品のほとんどはペンタ部上部が平べったい。そういう目で見ると、とがったFM3Aのペンタ部は目に慣れない。 第一印象というのは、やはりデザインだ。 そういう意味で、FM3Aの個人個人に与える印象というのは、真っ二つに分かれるだろうと想像する。斜めの「Nikon」ロゴも評価が別れそうだ。正直言って、我輩好みのデザインではない。 しかし、このスペックはタダ者ではない。今まで期待されていたものの、本心では作れないだろうと諦めていたスペック。それが新方式のハイブリッド・シャッターである。 今までのハイブリッドシャッターのように低速側を電子式、高速側を機械式と分けているわけではなく、「マニュアル露出時の機械式」と「絞り優先AE時の電子式」が完全に切り替わるらしい。 今まで電池には泣かされてきたからな。そういう呪縛から解き放たれる解放感というのは、何モノにも代え難い。電池が切れても何も心配する事は無いのだ。機能は100パーセント保証される。 自然の美しさを写真で訴える人間が、カメラによって電池を大量に使い捨てるという現代の矛盾。しかしFM3Aによって、その矛盾に悩むことも少なくなる。電池切れを恐れ、必要以上に電池をストックしておく必要がない。これからは、電池が切れても許せるだろう。このカメラは、使う者を寛大にさせてくれる。 そもそも原理的に電力を必要としない写真であるはずが、電池が無ければ写真が写せないというのは明らかに変だろう? もちろん露出計は使えなくなるが、あんなのは元々、カメラとは別の機械のはずだ。原始細胞に取り込まれたミトコンドリアのように、いつの間にかカメラに寄生し離れなくなったに過ぎない。その機能が死のうが生きようが、撮影の本質には関係ないこと。まさか、画質が悪くなるとでも言うのか? (あまりに高度に発達し過ぎると、ミトコンドリア無しでは細胞は死滅するだろうが・・・カメラもそうか。) フルメカニカルで使うことを覚悟して購入するFM2とは違い、FM3Aは広いユーザーに向き合うことが出来る。そういう面で、貴重な存在だと言えよう。 シンプル過ぎず、複雑過ぎず、高過ぎず、安っぽ過ぎず。バランスがうまく取れた場所を狙っているのが良い。これなら、人にも安心して勧められるというもの。 ただ最初は、我輩のように「新製品は1年くらい様子を見るか」という者もいるかも知れない。我輩のように「デザインに違和感がある」という者もいるかも知れない。 しかし、まじめに作られてさえいれば、なんだかんだ言っている者もその存在を気にすることになろう。 そのうちFM3Aのデザインは目に慣れてくるはず。少なくとも、無駄なラインが無いのがマジメで良い。「えなりかずき」のように、それが良い特徴となり安心感を生む要素となることを期待する。 第一印象による評価が悪くても、必要な人間はいずれ購入するものだ。 渡る世間に鬼は無し。心おきなく生まれ出よ。 ---------------------------------------------------- [224] 2001年02月07日(水) 「パソコン使えぬ者、人間にあらず」 人間というのは、自分の感覚を中心に考える。無意識にそう考えるのだから、自分では気付かないことが多い。 「ジョーシキだろ」、「変わってるなあ」、「普通はね」、・・・。こういう言葉を発する人間は、それが本当にそうなのかを考えたことがあるのだろうか。自分の感覚だけを基準にしてはいないだろうか? ちょっと前、知り合いがカメラを買いたいという話をしていたので、デジタルカメラを勧めてみた。 しかし、そいつは憮然として答えた。 「パソコンは持ってないよ。」 我輩は、自分がパソコンに依存して生きているということを当たり前のように感じていた。それ故、誰もがパソコンを持っているものと錯覚した。 しかし、それは全く違う。冷静に考えれば、パソコンを持っている友人というのは、そんなに多くない。ましてや、親戚の中で考えれば、唯一、母親が持っているくらいだ。 ところで、我輩は留守番電話を持っていない。 ある日、叔母から留守番電話にメッセージ残しておくと言われた時、我輩は少しムカついて言った。 「ルス電とか持っちょらんワ。」 留守番電話があることが、さも当然かのように言われることが面白くなかった。 そうだ。あの時、あいつが不機嫌に「パソコンは持っていないよ」と言ったのと同じ心境か。 デジタルカメラの出荷量が銀塩カメラの台数を越えたとか越えないとか、そういう話は聞く。しかし、陳腐化しやすく壊れやすいデジタルカメラが出荷量を増やすというのは、多くの人間が使っているという意味には必ずしも直結しないのではないかと考える。 現実に、我輩の母親が上京してきた時、EPSONのデジタルカメラが故障して、砂嵐のようなノイズしか写せなくなり、代替機が必要になった。ここでまた1台、デジタルカメラの普及が進んだということにされよう。 また、3年以上前の銀塩カメラを使っている者は多く知っているが、同じく3年以上前のデジタルカメラを使っている者は知らない。たいてい、性能向上につれて新機種へ買い換える。 もし、正確な普及率を知ろうとするなら、国勢調査あるいは無作為な電話調査などをやらねば数字の意味を簡単に取り違え、自分の都合の良い解釈に偏ることとなろう。 インターネットの普及率や、パソコンの普及率なども、1人で複数アカウント、複数パソコンを使っているケースもあることを考えると、意外に多くはないのかも知れない。少なくとも、我輩の周りを見回すとそう考えたほうが自然に思える。 そうでなくとも、パソコンというのは操作が難しい。慣れも必要だが、概念が日常生活と全く違うので、入りにくいのである。 例えば我輩の場合、「作成したファイルには名前を付ける」ということが解りにくかった。 大学時代に友人からパソコンを教わった時、ファイルを保存する時に名前を付けろと言われた。 「おいおい、ペットじゃないんだから、名前なんか付けてどうしようってんだ?」 目の前のバナナ1つ1つに名前が付いていないのと同様に、ファイルに名前を付けることはバカバカしく思えた。 だが、ファイルは名前を付けなければ保存出来ないのだ。「そういうものなんだ」と納得するしかない。そういったパソコン特有の慣習があるため、リアルな世界しか知らない一般の人間は、なかなかパソコンには馴染めない。 「パソコンを立ち上げて下さい」と言ったら自分が立ち上がったという笑い話があるくらいだ。年寄りなどにパソコンを教える時、「ファイルの名前を付けて下さい」などと指示すれば、姓名判断の本を取り出してくるかも知れない。名付け親というのは責任重大だからな。 ・・・現在では、当時の我輩ほどに無知な者もいないかも知れないが、もしいたとしたら、まさか「パソコンを使えぬ者、人間にあらず」とでも言うか? さすがにそれは言い過ぎだろう。 パソコンというのは、理解している立場から見ると至極簡単だが、未経験の者からすれば、全てが未知で理解の手掛かりさえ無いのだ。 「こんな事も理解出来ないのか」などと思うのは、パソコンを使うことが出来る者の傲(おご)りでしかない。 もし将来、デジタルカメラが銀塩カメラに取って代わるとされるなら、カメラ自体の性能よりも、もっと考えねばならないバリアがある。 プリントアウトしようにも、肝心なプリンターはパソコンに繋がっている。たった1枚の写真を得るのに、パソコン相手に何時間も奮闘する毎日。 ラボや出力センターでプリントしてもらうにしても、焼き増しのコマを探すのが一苦労。余計な操作をしてデータが消えてしまう。 20年経った後に昔のデジタル写真を焼き増ししようとしても、「そのメモリは対応してません」と突き返される。便利だからと勧められた結果がこれだ・・・。 デジタルになって便利になったと言われることは、結局はパソコンを使えない者にとっては何の意味も感じられない。そういう者たちにとって、「写ルンです」で撮り切り、そのまま写真屋に渡す以上の便利さがあるのだろうか。 もしあると言うのなら、近所の旅行好きのオバちゃんに、デジタルカメラへの買い換えを勧めてみろ。果たしてオバちゃん、説明書だけで使いこなせるか? 「昔は良かったのう。写真はもっと簡単じゃった。」 我輩には、人間と認められぬ者のつぶやきが聞こえてくる・・・。 ---------------------------------------------------- [225] 2001年02月08日(木) 「趣味のスタイル」 我輩が小学生の頃。 漢字書き取りの宿題が出た時には、我輩は右手に鉛筆を2本持ち、一度に2列の漢字を書いていった。これはなかなか効率が良く、10ページの宿題ならば5ページ分の労力で同じ効果が得られた。 我輩は、努力はあまり得意ではなかったが、そういうことについては器用だったのだ。 誰に手伝ってもらったのでもなく、その漢字はすべて我輩の筆跡である。書き終わったものを見て、それが10ページ分の努力なのか、5ページ分の努力なのかの判断はまず不可能。当時は、そのテクニックが先生に発覚したことは一度も無かった。 社会人である今の自分の立場から言えば、それは「費用対効果が高い」と言える。投入コスト(労力)に対して、得られる成果が大きい。50パーセント節約であるから、改善案としてはかなりのものと評価されよう。 ただし、成果とは何かということを深く突っ込んで考えるならば、その評価はひっくり返ることとなる。 もし「書き込まれた漢字帳」という物だけに成果を見るならば、その漢字帳の書かれた経過などどうでも良いことである。しかし、漢字書き取りの労力を惜しんだ我輩は、手書きで漢字がなかなか書けなくなってしまった・・・。 我輩は以前、「キヤノンEOS630」2台をメインに据えていた。最新最速AF、定評のある評価測光、自動段階露出機能(AEB)、秒間5コマの高速モータードライブ内蔵。 同じクラスのカメラでは、当時、これ以上のものは望めなかった。 交換レンズも、50mmF1.8(当時50mmF1.4USMは未発売)以外は全て超音波モーター(USM)内蔵タイプ。撮ろうと思った瞬間に、音も立てずにククッと焦点が合う。 露出決定のシビアなリバーサルフィルムを使おうとも、評価測光に自動段階露出を組み合わせれば、まず露出を外すことはない。しかも、秒間5コマのハイスピードが3コマの段階露出など意識させることはなかった。もちろん、フィルム・現像のコストが3倍となるが、失敗を考えれば安いもの。 このようにして得られた写真は、成果物としては上々であった。 ・・・しかし、何かが違う。我輩の中で、何かが反発していた。 それは最初、無意識の中に聞こえる声であったが、時間が経つにつれ、だんだんと意識のレベルに上がってきた。 「このように効率的に写真を撮ったとしても、それで我輩が何を得られたというんだ?」 我輩は、自らの問いに答えられなかった。 もし、写真という成果物そのものが最終目的ならば、それは別に自分が撮る必要もない。 仕事上のことならば、プロを雇って撮らせれば良い。自分のイメージを的確に伝えれば、プロはイメージに近い写真を撮ってくれるだろう。 契約や報酬をきちんとすれば、その写真の所有権・著作権すら自分のものになる。それは法律上からも「自分の写真」と言えよう。 当時の我輩が「キヤノンEOS630」に期待したものは、ロボットカメラマンだったと言える。ただ単に写真の所有者となるために、このロボットカメラマンに依頼して写真を撮ってもらった。構図とシャッターチャンスさえ伝えれば、あとはこのロボットカメラマンが全てをやってくれた。 そして、結果的に我輩は多くの写真を所有するに至ったのである。 これは、効率的な仕事とは言えるが・・・、果たして趣味と言えるのか? 「趣味」とは、自らを磨くことこそ真髄なり。 自らの向上に手応えを感じ、そこに喜びとやりがいを見る。 向上を期待しないものならば、それはもはや趣味ではなく、単なるヒマ潰しでしかない。 もし、物理的な成果物のみに意義を求めるならば、趣味の喜びとは、限られた一部の者にしか味わえないものとなろう。 だが趣味というものは、それぞれの個人によって求める到達点が違う。 確かに、上級者を目標にしたり、ライバルに競争心を燃やすというのは、向上するための強い原動力となるだろう。しかし、自分よりもテクニックに劣る者を見て優越感にひたるだけならば、それは傲(おご)り以外の何ものでもない。 初心者は、自分の未熟さを恥じる必要は一切無い。むしろ、向上する喜びを素直に感じることが出来るという意味では、うらやましい立場と言えるかも知れない。 上級者になればなるほど、行き詰まりに悩む経験をするものだ。そこで苦しみ抜いて初めて得られた達成感は、また別の喜びであろう。 当時の我輩は、ある程度の到達点に達し、他の者の未熟さを探して悦に入るような卑しい存在だった。 自分の喜びとは違うという理由だけで、人の写真を否定したり見下したりしてはならぬ。 もちろん、初心者は低い目標で満足してしまう場合もあるだろう。だが、もっと上の喜びがあるということを示せば、さらに目標を高く持ち、自分を向上させようとする者も出てくるに違いない。 上級者は、自分の写真を自慢するためだけに公開するのではなく、初心者に目標を与えるために、大きな世界を見せてやるべきなのだ。 自慢とは、自分1人しか味わえぬ満足。だが、皆で向上していくことは、多くの者に満足を提供することに通ずる。それこそ、さらに大きな喜びややりがいに繋がり、他人を高めることが気付かぬうちに自分も高めることとなるだろう。 我輩は、自分の趣味のスタイルとして、ダイヤル式カメラを使う。 成果物としては同じものであっても、漢字を1文字1文字噛みしめて書くかのごとく、自分でダイヤルを動かす。この作業によって、自分の意志を確認し、それが自分の内に何かが残るのを強く感じるのだ。 我輩のスタイル、それは、ダイヤルを通して自身の内に成果物を残すことを目指す。 それは、他の者が追求する喜びとは種類が違うかも知れない。ダイヤル式でなくとも自分を磨くことが出来るかも知れない。だが、こういう喜びがあるということを広く知らしめることは、我輩の立場として当然の行為であり、その行為自体が、また新たなやりがいとなるのだ。それが、このサイトを運営する唯一のエネルギー源である。 我輩は、自分の趣味のスタイルを強要せぬ。他人の趣味のスタイルを否定せぬ。 共感した者だけが耳を傾けてくれさえすればいい。我輩のスタイルに異論ある者は、それはすなわち独自のスタイルを持っているということに他ならない。その時は、ブラウザを閉じてくれればいい。我輩はそれに敬意を払おう。 ---------------------------------------------------- [226] 2001年02月10日(土) 「向かい合う2人」 先日の雑文「AFを使う者の心得」を読み返してみると、まるで「AFが実用に耐えぬものだ」というような書き方だったかも知れない。 しかし、我輩自身はAFカメラの能力を見下してはいない。 事実、現在のハイエンドクラスのAF性能は、大抵の場面では最大限に発揮され、AFの苦手なシーンそのものが少なくなっている。ただし、万が一の時には自分の能力だけが頼りであるということを忘れてはならない。先日の雑文で我輩が強調したかったのはこの点だ。 MFが使えないから選択の余地無くAFを使っているのか、あるいはMFが使える腕でAFを使っているのか。同じAFカメラを使っていても、その違いによってAFの価値が変わる。 恋愛と同じように、一方的に相手に依存する恋というものは、いつかは裏切られる。対等な立場として、大人の付き合いをしたいもの。 我輩が求めているのは、このような対等の立場を維持出来るAFカメラである。 確かに、EOS-1やF5のAF性能の素晴らしさは我輩が語るまでもない。しかし、ピントを合わせたい部分にフォーカスフレームを重ね合わせたり、複数のフォーカスフレームから1つだけを選んだりする手間と時間を加味し、トータルな作業量を考えるならば、場合によっては手動のほうが確実に早い場合がある。 フォーカスリング駆動の「速さ」だけではなく、それを含んだ全体の作業としての「早さ」のことである。 AFのほうが効率良いと考える者は、AFの「速さ」を律速とする撮影を多く行い、MFのほうが効率良いと考える者は、MFの持つトータルな「早さ」を律速とする撮影を多く行うのだと想像する。 (「律速」とは、全体の速度を決定づける要素のこと) そのような立場を理解しないならば、AF支持者とMF支持者は互いに相手の主張を理解出来ないだろう。 向こうが自分自身の立場で論ずる一方で、こちらはこちらの立場で論ずる。 それはあたかも、向かい合った2人が右へ行くべきか左へ行くべきかを議論しているようなものだと言える。相手にとっての「右」は自分から見れば「左」であり、その関係を理解しなければ、相手を理解することは出来ない。 向かい合う2人が主張する方向、それは言葉としては互いに逆である。しかし、指さす方向は同じだということを忘れてはならない。 ---------------------------------------------------- [227] 2001年02月13日(火) 「年間天気予報」 子供の頃、天気の良い日に母親と行橋(隣町)の商店街へ買い物に行った。 買い物の前に金を引き出そうとしたのか、母親は銀行に寄り、手続きをしていた(当時は現金自動引出機などは無い)。 子供は銀行では用事が無いので、ただひたすら待つしか無い。待合所には灰皿とマッチ箱が置いてあり、我輩はそのマッチ箱で遊んでいた。 そのマッチ箱は屋根の形をした三角形で、下の引き出し部分にマッチが詰まっている。そして、屋根の側面には年間天気予報表が印刷されていた。 我輩は、「1年も先の天気があらかじめ決められているのか」と不思議に思ったが、そのカレンダーに書かれた天気のマークを今日の日付まで追ってみると、「お陽さまのマーク」が付いていた。 「へぇ〜、スゴイな。」 我輩は子供心に感心した。 それが、過去の天気データから統計上作成された天気予報だと知ったのは、それから10年以上も後のことだった・・・。 <<画像ファイルあり>> 現代の最新カメラは、分割測光(多分割測光)を行っている。これは、画面内を一様に測光するのではなく、画面をいくつかのエリアに分けて測光する方法である。 ここで重要なのは、分割測光は従来の測光方式(中央部重点測光や部分測光など)とは決定的に異なり、測光エリアごとのデータを比較・演算し、過去のデータを基にした統計上の正解値を出すことである。 実際にその作業を行うのは「マイクロプロセッサ」。つまり、カメラの中には「マイクロプロセッサ」という予想屋がいるということになる。 その本質は、どれだけ細かく分割されているかということではなく、どういう過去のデータを用い、どういうアルゴリズム(規則)で予想を行うかということである。 現代の科学力では人工知能の開発は未だ成功していない。それ故、ファインダーに映っているものが何であるかということをカメラが認識することは不可能だ。 しかし、エリアの明暗の組み合わせを統計的に見ることによって、ある程度の傾向が見えてくる。 そうなれば、ファインダーに映っているものが何であるかということをいちいち判断する必要が無い。シーンはそれぞれ単純化され、明暗の組み合わせを材料として過去の統計から、例えば「暗部が中央にある時は暗部に露出を合わせよう」という切り替えが行われる。 それは、「日付け」という単純な情報を得て天気を統計的に予測することと似ている。手間は掛かるが、高度な判断をしているわけではない。規則に従ってマジメに計算して行けば出る答なのだ。 しかし、予想が外れることももちろんある。想定されたシーンと違ったり、撮影者のイメージが違うところにあったりすると、過去の事例は全く役に立たない。 元はと言えば、「逆光条件において明暗差のある主要被写体と背景の補正をする」という思想の基に開発された分割測光であるから、そもそも画面のほとんどが主要被写体の場合、明暗差がそれほど極端ではない。このような微妙な光の表現をどのようにコントロールするのか。分割測光にこだわるならば、事前にテスト撮影して傾向を知るほか無い。 そのアルゴリズムはメーカーによって違ってくるだろうが、我輩の予想では、結局それは各エリアの平均値を取るだろうと思っている。 もし、測光に行き詰まりを感じたならば、単体露出計(主に入射光式露出計)を使ってみるといい。ピンポン玉のようなものがついた、アレ。 <<画像ファイルあり>> これは、使い方によってはかなり悲惨な失敗をすることがある。単純に「こう使えばいい」と一言では言えないのだ。 もちろん、基本的には被写体の位置でピンポン玉をカメラの方向に向けて測光することになっている。しかし、トップライトが強かったり、透過光が組み合わされたり、定常光とストロボ光がミックスされていたり、微妙な光量比の多灯ライティングだったりすると、いろいろと工夫が必要になる。場合によっては光源を一つ一つ測光して参考にすることもある。そして総合的な見地から、最終判断を人間が行うことになる。 ハッキリ言ってこの単体露出計は、イメージと意志を何も持たずに使っても良い結果は出ない。これは、単に光を測る道具であって、演算する頭脳ではない。表示される値をそのままカメラに移すようなことをやっても意味が無い。その値は単なる情報の一つであって、最終的な答ではないのだ。 しかし、光の状態を把握し、どの部分をどれくらいの明るさに表現しようかというイメージと意志を持てば、これほど強力なる情報も無い。ヘタな意見が加味されず、生の情報がダイレクトに撮影者まで届くのだ。 それは、光をどう表現するかというイメージと意志が必要とする情報。 単体露出計を使うことにより、光を意識するようになる。いや、意識せざるを得ない。 単体露出計は、いくつもの失敗を与えるだろう。しかし、失敗は成功よりも自分に与えるものが大きい。失敗に正面から立ち向かい、勉強し研究し、見事に乗り越えるべし。失敗は、全ての始まりと思え。 そうすれば、更に強く具体的なイメージと意志を自分の中に見つけることとなろう。 機械の出す答と自分の出す答は、仮に最終的に同じであったとしても、その理論は異なる。同じ写真を得られても、自分がどこに表現を置いたかということを思い出しながら写真を見れば、写真の見方も当然変わってくる。そしてそれが次の目標や課題を作り、自らに力を与えるに違いない。 年間天気予報の分割測光、安易に予報結果だけを求めるならば、天気図の微妙なニュアンスを取りこぼすことになろう。 どれだけ的中率が高くとも、それがメーカーのアルゴリズムというブラックボックスに浸っている限り、その限界から抜け出すことは出来ない。 志(こころざし)ある者、天気図という生の情報から天気を予想するかの如く、己を高め、鍛えよ。 ---------------------------------------------------- [228] 2001年02月14日(水) 「マジック・ショー」 我輩は去年末に別府へ旅行した。 宿泊先の「杉乃井ホテル」では、大ホールで「演歌ショー」と「マジック・ショー」をやっていた。 我輩は、マジックショーをあまりナマで見たことが無い。わざわざ出掛けて見に行くものでもないという意識があったのだが、実際にその場で見るとなかなか楽しい。 ところで、マジックというのは必ず仕掛けがある。 「タネも仕掛けもございません」というのはマジックの常套句だが、見ている者は皆、仕掛けがあることを知っている。ただ、その仕掛けが見破れない。 仮に仕掛けを知ったとしても、それをシロウトが真似するのは至難のワザ。余程の鍛錬を積んで初めてマジシャンになれる。 スゴイのはマジックの仕掛けなどではない。マジシャンの鍛錬された手の動きなのだ。もし、誰もが1日でマジシャンになれるのであれば、マジックなど何の驚きも無い。 見えないところで確実に動くその手。マジックの極意とは、手で物を見ることにあると我輩は読む。 一般的に、男の脳は女の脳よりも大きい。その理由は、単純に身体のサイズの違いによるとされる。 動物を見ても、やはり身体の大きい動物は脳も大きいという傾向がある。 世間では「脳=知能」という考えがあるかも知れないが、動物が身体を動かしたり、感覚器官から刺激を受けたりするのも脳の重要な働きであることを忘れてはならない。 人間の場合、手がとても器用に動く。 細かい作業を実現させるため、脳は多くの脳細胞を「手」に割り振っている。そして鍛錬を積むことにより、脳細胞どうしの神経ネットワークはさらに複雑化し、手の鋭敏な知覚と高度な制御を可能にするのだ。 冒頭のマジシャンの例は、鍛錬による人間の可能性を示している。 現代の液晶表示カメラは、マイクロ・プロセッサがカメラ全体の制御を行っている。 つまり、人間がそのカメラを使おうとすれば、そのマイクロ・プロセッサに働きかける必要がある。どんなことをしたいのかをマイクロ・プロセッサに伝え、それをマイクロ・プロセッサが理解した後、そこからあらためてシャッターや絞り、フォーカスなどの制御が行われる。 <<画像ファイルあり>> 液晶表示カメラ。正確で操作ミスが無いかわりに、全ての操作がカメラのマイクロ・プロセッサの検閲を受ける。 <<画像ファイルあり>> 手動式カメラ。ダイレクトに各部を操作出来るが、操作ミスによる間違いも起こり得る。 マイクロ・プロセッサは機械の制御が人間よりも得意である。何も知らない人間がモード選択によって「風景を撮りたい」とマイクロ・プロセッサに伝えるだけで、それに適した絞りとシャッタースピードを自動的に選んでくれる。実に楽チンだ。しかも、操作は正確でミスが無い。 だが、人間の意志がなかなか伝えられないこともある。 単純な誤解もあれば、マイクロ・プロセッサに理解させるには撮影者のイメージが複雑すぎる場合もある。そんな時は、撮影者が自分の手の延長としてカメラを操作することが一番手っ取り早い。 いちいち、マイクロ・プロセッサを介することなく、絞りやシャッター、フォーカスなどに直接働きかけ、まるで自分の手のように操るのだ。 もちろん、これには鍛錬が必要となる。時には間違った操作により失敗することもあろう。 しかしマジシャンが1日でマジシャンになれないのと同様に、カメラも思い通りに手動操作するのは鍛錬が必要だ。それが出来るようになった時、カメラは確実に撮影者の手となる。 カメラを通して被写体を知覚する実感は、人間の器用な手でなければ難しい。眼は見ることしか出来ぬが、手は見ることと働きかけることを同時に行える。 人間の手は、まだまだ可能性があり、鍛錬する価値があるのだ。 ---------------------------------------------------- [229] 2001年02月17日(土) 「撮りたい衝動」 最近、「Canon EF」にモノクロフィルムを装填して気軽にシャッターを押している。 このカメラのシャッターの感触はなかなか切れが良いので好きだ。Aシリーズのシャッターのような軽さが無く、程良い響きがある。また、巻き上げの感触も安定していて好感が持てる。いつの間にか、何気なく手に取るカメラとなった。 まだ本格的に外に持ち出す撮影では使ったことは無いが、機会があればぜひ使いたい。その時はモノクロ専用として使おうと思う。 写真というものは、画像そのもののイメージももちろん必要とされる。しかし「Canon EF」は、それだけではない何かのイメージを我輩に送り込んでくるように感じる。 雑文「ススけた小倉の記憶」でも書いたが、昔の小倉で見た中古カメラ屋のシルエットに、この「Canon EF」が重なるような気がする。 もちろん、単純なる「一眼レフカメラに対する憧れ」という心もあっただろう。それよりも、当時既にそういったカメラを使う自分自身の姿を無意識に描いていた。 小倉の街で「Canon EF」を構える我輩の姿。そこで響く大きなシャッター音・・・。 写真の枠の外まで見えてくるようだ。 <<画像ファイルあり>> 「Canon EF」とFDレンズ。昨日購入した「NewFD28mmF2.8(\11,000)」と「NewFD100mmF2(\20,000)」で一通りのシステムとなった。「レフレックス500mmF8」はEFで使うことは無いと思うが、これは「AE-1P」に使うために購入したと記憶している。 これは「Nikon FA」の時と何か共通するものを感じる。 街での声掛け写真では、それを撮る自分の姿と「Nikon FA」の派手なモータードライブ音がイメージとして浮かんだ。そして、その自分の姿を見つけるために出掛けて行った。 そう言えば、撮る内容によって選ぶカメラが違う気がする。 もちろん、使うカメラを選ぶにはいくつかの要素が絡む。装填されているフィルムの種類、そのカメラに使えるレンズやアクセサリの種類などは、選定に関わる大きな要素だ。しかしそれを除外しても、やはり自分の中でカメラを無意識に選んでいることに気付く。 カメラにはそれぞれ個性があり、そのカメラを使う自分自身がその個性に影響を受ける。その結果、撮る前から撮影する自分自身の姿が見えてくる。 カメラによってそのイメージの強弱は変わるが、もし自分の姿がハッキリと見えた時、写真を撮りたいと思う衝動が強く湧いてくる。 我輩にとってカメラ(35mmカメラ)は、写れば何でも良いというわけではない。 ---------------------------------------------------- [230] 2001年02月20日(火) 「無くてはならぬ一眼レフカメラ」 「一眼レフカメラ」は、撮影レンズを通った映像をファインダーで確認出来ることが最大の利点である。そのため、どんなに接近して撮影しようが、どんな種類のレンズを使おうが、どんなフィルターを使おうが、実際に写る状態を事前に見ることが出来る。 このように書くと、「実際のボケの具合がファインダースクリーンによって違う」だの、「偏光フィルターの影響がある」だのと細かいことで突っ込まれるかも知れない。だが、原理的には「見たままが写る」と言って良い。 子供の頃、ピッカリコニカの透視ファインダーを覗いていた我輩にとって、一眼レフカメラのファインダー像の実像感は、驚きと感動の体験だった。 見たままが写るということは、努力次第で自分の思い通りに何でも撮れるということだ。そのことが幼い我輩の創造力に火を付けた。 それまでは、どんなに努力しても、天体望遠鏡で見る土星の写真はピッカリコニカごときでは撮れなかった。もしかしたら望遠鏡の接眼レンズの映像がうまい具合にピッカリコニカのフィルム面に投影出来るかも知れない(露出は全く足りないだろうが)。だが、それは目で見て確認出来るようなことではない。ピッカリコニカのファインダーを見たところで、そこから見える光景は望遠鏡の光軸からズレている。望遠鏡の側面がファインダーの右端に見えているだけ。何の助けにもならない。 我輩が初めて手に入れた一眼レフは「Canon AE-1」だと前にも書いた。しかし子供の我輩には高価な買い物であり、当然ながら交換レンズなど同時に買えなかった。 しかし、そんなことは問題ではない。一眼レフカメラを購入した直接の動機は、天体望遠鏡で見る映像をカメラに収めることだったのだ。 実際、我輩は「Canon AE-1」購入直後に庭で天体撮影を行った。 カメラを望遠鏡に接続するアタッチメントが無かったため、ビニールヒモで強引に縛り付けた。多少グラグラしていたが、そんなのはどうでもいい。 試しに月面に向けてみた。 ファインダーを覗くと、そこには晴らしき世界が広がっていた。我輩の一番好きな月面地形「プラトー」。それをファインダーで捉え、シャッターを切った。 カメラが多少傾いていたため、ファインダーで見た映像では端にピントが合っていなかったのは仕方がない。だが、この片側ピンボケが「ファインダーで見た通りに写った」ということに大きな意味を持つ。 この日は我輩にとって記念すべき日となった。どんなに努力しても越えられなかった壁を越えることが出来たのだ。 それを可能にしたのが、一眼レフカメラなのである。 現在、我輩はたまに「ニューマミヤ6」などのレンジファインダーカメラを使うこともある。しかし余程のことが無い限り、普段は一眼レフタイプを選ぶ。それは、我輩が一眼レフのファインダーのおかげで新しい地平を見ることが出来たという体験が、いまだに影響を及ぼしているからだ。 透視ファインダーの手応えの無さは、我輩に不安を与える。ファインダーがクリアであればあるほど、それは我輩にとって心地良くない。 この気持ちは、同じような貧乏臭い体験をしていない者には恐らく解ってもらえないだろう。最初から何の苦労も無く一眼レフカメラに触れていた者は、我輩の不安感を笑うだけだ。 我輩は、たまにカメラのピントを思いっきりボカして覗いてみる。そしてゆっくりとピントを合わせて像を浮かび上がらせていく。透視ファインダーでは見ることの出来ないボケを見て、一眼レフカメラを使っているという再確認を行う。そしてそれが、我輩の原点となる記憶を呼び覚まし、我輩を刺激するのである。 ---------------------------------------------------- [231] 2001年02月21日(水) 「ニコン純正の破損」 ヨドバシカメラ経由で出したF3/T(白)の修理が完了したとのことで昨日の外出のついでに受け取りに行った。 長い間待たされたが、これでメインカメラが戻ったことになる。 帰宅後、エアキャップ(プチプチ)と、その中のビニール袋からカメラを取り出し、点検してみる。確かに露出ロックボタンが取り付けられていた。当然のことながら、以前のものとは違うアールのキツイ新しいタイプのボタンが付けられていた。 不思議だったのが、何となく、新品の匂いがする。強いて言えば、新品の電気製品の匂いのようだ。サービスで基盤に防湿処理などをしてくれたのか? あるいは基盤そのものを換えてくれたのか? さて、ウラブタを開けてみよう・・・と思ったが、巻き戻しクランクが上方に引っ張れない。いや、それ以前にロックレバーが動かないのだ。 見ると、なんと巻き戻しクランクに激しい傷があり、ひしゃげていた・・・。 <<画像ファイルあり>> 一瞬、我輩の動きが止まった。 「な、なんだ、これは・・・?」 最初、我輩が帰宅するまでの経路でこのようなことになったのかと思ったが、全く思い当たる節が無い。電車の中はそれほど混んではいなかったし、どこかにぶつけた記憶も無い。何より、エアキャップとビニール袋に包まれているはずのカメラにどれほどの衝撃を与えたとしても、曲がることはあっても傷など付けるとは考えにくい。何しろ、単に塗料がハゲただけではなく、ヤスリで削ったように金属部まで傷が達している。明らかに硬いモノとの衝突があったと思われる。 巻き戻しクランクの変形の具合を見ると、どうもカメラを逆さの状態で落下させたような感じだ。 断定するのはまだ早いかも知れぬが、どう考えても我輩の手に渡る以前に既にこのような状態だったろう。 クランクが引き上げられないくらい変形するような衝撃とはどれほどのものなのか。しかもクランクが回らないのに気付いた。想像を越える衝撃だったと言うほか無い。我輩がエアキャップに包まれたカメラにそのような衝撃を与えることは不可能。 ということは、エアキャップに包まれる直前にでも落としたか? もしかしたら、これはニコン純正の破損であるから問題無い・・・? それにしても、修理そのものは完璧だったのに、新たにこのような破損を与えられてはガックリくる。文句を言ってまた修理に出さねばなるまい。まさかとは思うが、クレーマーと思われてはイヤだな・・・。 偶然にも本日、再び外出する用事があり、その時に持っていくことになる。 しかし、無事にこの修理が終わったとしても、落下衝撃の影響が他に無ければいいのだが・・・。 ---------------------------------------------------- [232] 2001年02月22日(木) 「ニコン純正の破損(その後)」 前回の雑文の件、昨日、ヨドバシカメラに問題のF3/Tを持って行った。 クレーマーだと思われるのがイヤで、極めて低姿勢の状態から入った。 「ヨドバシさんの問題ではなくて多分ニコンのほうの問題だと思うんですが・・・。」 もしこれで何か言われたら、いつでも戦闘状態になるつもりだった。 しかし、意外にもヨドバシカメラ店員は親身になって対応してくれた。1人だけ付いてくれれば十分だと思われたが、2人も対応して頂き、1人は電話問い合わせ、もう1人は我輩の対応に当たってくれた。 外出のついで、平日の昼間であるから、人員的に余裕があったのかも知れないが、それでも重大に受け止めている様子が伝わってくる。 電話対応の様子を聞いていると、どうもニコンは「そんなことはあり得ない」と言っているようだ。それはそうだ。我輩でさえ、「ニコンでそんなことはあり得ない」と最初は自分を疑ったものだ。しかし、どう考えてもおかしい。おかしいからこそ、クレームをつけている。 ヨドバシ側は我輩に「無料で修理・動作チェックさせます」と言った。 我輩は、「強い衝撃を受けた可能性が高いから、値段が折り合えばオーバーホールもしてもらいたい」と要望した。つまり、動作チェックだけでは、その時点での不具合しか判明しないが、例えばヒビがあった場合、それが徐々に広がっていくようなことになれば、時間を置いて不具合が出てくる可能性があるため、部品の点検をしてもらいたいということだ。 「分かりました。それも含めて無料でやらせますよ。」その言葉はキッパリと力強く、頼もしかった。 量販店とメーカーとの力関係は、明らかに量販店のほうが大きい。値付けもメーカーは量販店に従わざるを得ない。アップルコンピュータの「iMac」のように、全国一律価格などという押し付けなど出来ない。いくら出荷を止めようが、卸ルートは無数にあって量販店には勝てないのだ。 だから、このように強く言えるのだろう。何しろ、天下のヨドバシカメラだからな。 もし、個人でサービスセンターに行ったならば、このような力関係は無いため、スムースに事が動いたかどうか分からない。 現に、先ほど雑文を読んだ方からメールを頂いたのだが、それによると、サービスセンターに修理を依頼したものの、他の動作に不具合が発生し、その対応で納得行かないものがあったという。 まあ、ニコンにしてみれば、自信を持った修理をしているという自負はあろう。まさか、悪意を持っての対応ではないと思う。しかし、その自信の分だけ、客を疑うことにもなるのだ。 そう言えば、以前、我輩が問い合わせ等で大変お世話になったニコンの窓口は、確か広報関係の部署だった。しかしニコンの中にも色々ある。サービスセンターとなると事情は変わってくるだろう。サービスセンターは、我輩の見たところ技術屋の集まりのような印象を持った。その分、客を思いやる心を教えられていないのかも知れない。 プロカメラマンとのやりとりでは、純粋に技術で応えればそれでいい。いくら原因が不透明でも、カメラが使えるようになっていればそれでいい。ニコンが非を認めなくとも、無料で対応してくれさえすれば済む。 一般ユーザが利用するにはそれなりの割り切りと交渉力が必要だと思われる。 仕事の交渉で疲れた帰りに、更に交渉するのはゴメンだ。今回、ヨドバシカメラを味方に付けたのは正解だったな。 ---------------------------------------------------- [233] 2001年02月23日(金) 「初心者に与えるもの」 我輩が初めてパソコンを購入したのは、社会人になってからしばらく後のことだった。 当時、我輩の信念として、「自宅ではパソコンをやらない」と誓っていたのだが、業務上何かと不便なことも多くなり、そういうわけにも行かなくなった。 さて、それまでは、職場にあるパソコンをただ使っているだけだった。パソコンの機種はそれぞれ微妙に違うが、当時主流のMS-DOSレベルではスペックの差は問題ではなく、使う立場としてはそれほど機種を意識する必要も無かった。 しかし自分で購入するとなると、値段や将来性が気になる。話題のウィンドウズにも、そのうち対応出来るようにもしたい。 もちろん、このような漠然とした要求だけでは、どんな機種が適しているのかということには結び付かない。 自分にとっては意味不明な「SX」やら「DX」などの性能を比べるのは難しい。当然、ハードウェアの知識のある者に「おすすめ」を選んでもらいたいと思うようになる。 そこで、我輩はショップの店員に選んでもらうことにした。 店員は我輩の用途と予算を聞き、それに適合するパソコンを選んでくれた。我輩の使いたいOCR(文字認識)ソフトがウィンドウズ版しか無いらしいので、ウィンドウズをインストール出来るようにハードディスクとマウスを取付け、メモリも増設することにした。 当時の選択肢は、ソフトの互換性や周辺機器の問題から、どう考えてもNECの98シリーズ以外に無かったが、それでも多くの機種が用意されており、我輩1人で選ぶには荷が重い。同じ98でもマウスのコネクタはいくつか種類が違うため、周辺機器を買うにも店員のアドバイスを必要とした。 さて、このようにしてパソコンを導入したわけだが、実際にウィンドウズを動かしてみると、どうもモノ足りない。その原因は表示色にあった。このパソコンは標準状態では16色しか表現出来ないのだ。 もちろん、エディタやOCRソフトを使うには何の問題も無い。しかし、ちょっとお遊びで画像を表示させようとすると、かなり悲惨な色となる。 どうやらウィンドウズを使って256色以上の表示をさせるには、「ウィンドウズ・アクセラレータ」という増設電子基盤が必要らしい。 我輩は、自分の機種に適合するアクセラレータ・ボードを雑誌で研究し、今度は自分で選んで購入した。結果は、たいへん満足出来るものだった。 これをきっかけにして、我輩は自分の必要な部分から知識を押し広げて行った。それは、雪に埋もれた木々が、自分の周りから雪を解かして行くかのように、少しずつ、そして確実に広がって行った。 また長い前置きになってしまったが、これは初心者の気持ちを知るための貴重な記憶である。 初心者は知識が少なく、やりたいことはあっても、それに必要なモノを具体的にイメージ出来ない。だから、知識のある者にアドバイスを求める。 普通ならば、後で買い換えたり買い足したりしないで済むように「大は小を兼ねる」的な発想で選びたくなるものだ。だから、初心者の第一声は「何が一番いいの?」となる場合が多い。 だが、それにどう答える? カメラの場合、「プロが使うハイエンドカメラ」という意味なのか、「搭載機能の数が多い」という意味なのか、「あなたにとって一番適している」という意味なのか、解釈の仕方によって適合機種が激しく変わってくる。 そこで初心者ということを考慮し、「あなたにとって一番適している」というカメラを考えることにする。 手掛かりを求め、「何を撮りたいのか」と訊ねてみるが、ただ漠然と「写真をやりたい」というだけの者もいる。そういう場合はイライラさせられるかも知れないが、自分を抑え、何も言わずにコンパクトカメラを薦めようか。 だが、何もイメージが無い割りに「一眼レフがいい」などと言う場合には、オート専用機にしよう。まあ、最近はフルスペックが当たり前であるから、純粋なるオート専用機は無いかも知れないが、シャッターを押すだけの異常に軽いカメラを選ぶといいだろう。 これなら、初心者でも扱える。簡単で軽いということは、「何のイメージも持たない今のあなたにとって一番適しているカメラ」と言えるだろう。 もし、これでずっと不満無く使っていられるようであれば、その人間はその程度の要求しか無いということだ。マニアでも無い限り、内蔵ストロボや付属のズーム1本で十分。コンパクトカメラと同等な写真が撮れ、しかも一眼レフというステイタスも味わえる。 しかし、もしこれで不満が出るようであれば、その時は初心者に考えさせるきっかけとなる。我輩がウィンドウズを16色で動かすのに我慢出来なかったように、コンパクトカメラと同様な写りに不満があれば、それをきっかけにして原因を知りたいと思うようになるだろう。 大事なのは、「本人が困ること」だ。「問題を意識させること」だ。 最初から手取り足取り教え込み、何の要求も無いのに親切心から「ここはこうするといい」、「このアクセサリが便利だ」などと先走って教えても、初心者にとっては難しく思うだけ。本人がそれでいいと思うなら、そっとしておけばいい。上級者が自分のイメージを押し付けるのは感心しない。 我輩は、初心者とは「自分一人では勉強できないレベル」と解釈する。 ここで言う「自分一人で勉強」ということの意味は、「人に聞かない独学」ということでは決してない。自分の要求を、自分自身で具体的に掴めるか掴めないか、それが初心者とそうでない者とのボーダーラインだと見る。 自分の要求することを具体的に掴み、自分の意志によって上級者のアドバイスを取り入れる。そうやって選んだカメラやアクセサリは、多少重かろうと、多少高かろうと、多少使いにくかろうと、それは自分が納得することなのだ。 自分の要求を具体的にイメージ化させるために、初心者にはとにかく写真を撮ってもらうのが大切だ。何も考えずに撮ってもらい、そして、困って頂く。 困らなければそれでいいし、困ればそれについて考えるきっかけを与えることになる。 もちろん、初心者に困ってもらうためには綺麗な写真を見せる必要もあるだろう。「どうして自分の写真はこのようにキレイにならないのか」と思うようになったらシメたもの。 もし、初心者に最初からフルマニュアルカメラを薦めると、「失敗しない」ということだけが目的となる恐れがある。その結果、単純に露出やピントが合ったということだけに気を取られ、真の目的を失わせることとなろう。 写真にイメージを持った初心者であればフルマニュアルカメラも効果的だが、そうでない限り、フルマニュアルカメラを薦めるのは無謀だと言わざるを得ない。 まずは自分を知ってもらうこと。これこそが、初心者に一番必要なことだ。 ---------------------------------------------------- [234] 2001年02月26日(月) 「気になるカメラの登場」 我輩はよく、カメラを銃に例えたりする。そこにはいくつもの共通点があり興味深い。 SMG(サブ・マシンガン)は、ピストル実包を使うマシンガンである。ワン・トリガーで連続して銃弾を発射出来るため、殺傷能力が極めて高い。 その効果を分析すると、「ヘタな鉄砲数撃ちゃ当たる」的なものがある。もちろん、本当にヘタな人間に使わせても効果は薄い。だがピンポイントの的に当てるには、発射数が多いほど当たる確率が高くなる(目視しながら弾道を修正出来るという効果もあるが、最近はピストルでもレーザーサイトがその代わりを果たしている)。 ピストル実包を使う銃身の短いSMGでは、命中率はピストルと大差無い。それをカバーするために弾をバラまく。狙撃銃のような「一発必中」の使い方ではなく、「どれかが当たればいい」のだ。 さて、今月の「写真工業」の記事、「Nikon FM3A」や「Nikon D1X」などが新製品情報として載っていた。特に「Nikon FM3A」のシャッター制御部やシャッターユニット、巻上げ機構には見入ってしまった。 それ故、後のページにあった「FUJI KLASSE(クラッセ)」に気付くのは3日後になってしまった。 このカメラの第一印象は「まるでデジタルカメラ」。「恐らく200万画素程度の安物であろう」とスペックを見ると「135サイズ」とある。ここで初めてフィルムを使うカメラだと知った。 あらためて見ると、一般コンパクトカメラと高級コンパクトカメラの中間的な印象を受ける。 一般コンパクトカメラのような安っぽさは無く、高級コンパクトカメラのようなクラシカルな雰囲気も無い。 しかしその機能に自動段階露出(AEB)が付いていると知った時、興味が「Nikon FM3A」から「FUJI KLASSE」へ移ってしまった。 <<画像ファイルあり>> リバーサルフィルムというのは、適正露出の許容量としてのラチチュードが大変狭い。もし写真的に言うならば、ラチチュードの幅はゼロと言える。 もちろん被写体によっても変わるだろうが、少しでも露出量が違えば写真の表現が変わるのだ。「ラチチュード」として捉えている許容量は、他でもない、撮影者自身の許容量に他ならぬ。 このような難しいリバーサルフィルムを使うには、細かく露出をコントロール出来るカメラが必要であり、そのためにはAFの距離情報と連動した高度な分割測光や、自分で思い通りの露出設定が可能なマニュアル露出モードを備えたカメラが必要だった。つまり、従来のコンパクトカメラでは不可能だったのだ。 ところが、この「FUJI KLASSE」の違うところは、自動段階露出が付いているという点だ。 冒頭のSMGに例えるならば、これはまさしくカメラ界のSMGと言える。一眼レフタイプではないため、TTLでの測光ではない。つまり、露出の命中率はそれほどではない(正確に言うなら、狙った所を測光出来ない)。しかし自動段階露出によって、命中率をカバーしている。 ピンポイントの露出値を得るために、従来の高級コンパクトカメラは、精度を上げたり露出補正を受け入れたりして狙撃銃を目指してきた。それでも、的を外してしまえば何の意味も無い。仮にそれが適正露出だったとしても、自分のイメージに合う露出であるとも限らない。 しかし、「FUJI KLASSE」は最初からSMGを目指し、自動段階露出によって、ある程度の幅を受け入れた。我輩はそのコンセプトに、自分がそのカメラを使うイメージを見たような気がする。 値段の問題など、他に考える要素は多く、最終的な判断はまだ時間が掛かるだろうと思われる。ただ、同じような兵器ばかりが多くあるよりも、違う性格の兵器が1つあると、作戦範囲が飛躍的に広がるのは確かなのだ。 久しぶりに、気になるカメラが現れた。 ---------------------------------------------------- [235] 2001年02月28日(水) 「ヤスリ代わり」 我輩がカメラに対して実用一点張りの思想を持っていた頃、多くのメーカーのカメラを揃えようとしていた。それは、あくまで色々な中古レンズを装着できるようにするためであった。 中古というのは1点モノであるため、良い中古レンズを見つけたらそれを逃すと二度と巡り会う事は無い。値段の割に良いレンズがあったりしても、所有カメラのマウント違いで泣く泣く諦めることも多かった。そのため、代表的なメーカーのマウントを取り揃えるため、とりあえず各社の安いカメラを買っていたのだ。その中のCanon-FDマウント用ボディが「Canon FTb」だった。 Canon-FDマウントであればカメラは何でも良かったが、「Canon FTb」を選んだ直接の理由は、\6,000と安かったからだ。 我輩はこのカメラのおかげでトキナーのFDマウント17mmレンズを手に入れ、使うことが出来た。そういう意味で実用的だった。 ところで最近「Canon EF」を使い始めた関連で、久しぶりに「Canon FTb」を棚から取り出した。EFのサブカメラとしてもなかなか感触が良い。 ふと、FTbを裏返して底面を見て仰天してしまった。そこには激しく深いキズが・・・。 <<画像ファイルあり>> 最初、なぜこのようなキズがあるのか理解出来なかった。自分でやったことだとも思わなかった。しかし、よく思い出してみると、このキズは確かに我輩が付けたのだ。 記憶を遡ってみると、その時の映像がだんだん浮かび上がってくる。 我輩はその時、何か小さな金属板のエッジをヤスリで削っていた。あるていど粗削りした後、もう少し目の細かいヤスリで滑らかに仕上げようと思った。しかし、手近なヤスリが無い。 そこで目に付いたのが、このFTbだった。 FTbの表面は梨地仕上げで細かくザラついており、しかも硬そうである。これなら研磨出来るかも知れない。 さすがに目立つペンタ部でコスるのは気が引けたので、底面で金属板のエッジをガシガシとコスった。 金属板は思ったほど削れなかったが、FTbの底面は見事に削れてしまった。 当時の我輩は、カメラなどは写真の写りに支障が無ければそれでよく、「EOS630」などの隠しボタンのカバーもペンチで引きちぎったり、グリップに穴を開けて強引に縦位置シャッターボタンを新設したりしたものだった。カメラごとき、ヤスリ代わりに使うことなど何とも思わなかったのだ(名前さえ彫ろうと思ったこともある)。 そしてそのまま、ヤスリの一件は完璧に忘れ去られてしまった。それ故、出し抜けに見せられるとショックを受ける。 しかし、悔やんでも遅い。 今のように、多少なりともカメラに愛着を持つと、とてもそのようなマネは出来ない。 だが・・・、そういえば我輩のデジタルカメラ「OLYMPUS C-2020Z」は、ACコネクタをフタ無しで接続出来るようにするために、プラスチックのカバーをニッパーで強引に切断したりしている・・・。 それはつまり、今度はデジタルカメラのほうが実用一点張りの位置にいるということか。 しかし、さすがにヤスリ代わりに使うには華奢なボディだ。 ---------------------------------------------------- [236] 2001年03月01日(木) 「何も考えてないんだから」 ニコンとキヤノンは、良い意味でも悪い意味でも対照的な存在だと思う。 ここでは、我輩の感じた印象と推測だけで話を進めるが、それでもなるべく論理的に話を進めるよう努力するつもりだ。 AF時代ではどうなのかは調べていないが、少なくともMF時代には、ニコンとキヤノンの操作体系は、双方が全く逆の関係にあった。 例えば、「レンズ脱着時の回転方向」、「シャッターダイヤルの数字の順列」、「絞り環の数字の順列」、「距離リングの数字の順列」、「得意な露出モード」。まるで意識してそうなったかのように、ことごとく逆の関係なのだ。 前にも書いたと思うが、これは、銃のS&W社とコルト社の関係とそっくりである。ライバルというのはそういうものなのか。 さて、ニコンは「Nikon F」の時代からレンズマウントを変えていない。昔のレンズが現代のカメラに装着出来たり、その逆が可能である。AF化の際にマウントを変更したキヤノンには出来ない芸当だ。 また、ニコンのAFシステムは、ボディ内モータとレンズ内モータを使い分けている。小型レンズではボディ駆動、大型レンズではレンズ駆動とし、最適な駆動力でレンズの焦点を合わせる。また、超音波モータもキヤノンだけのものではなくなった。 しかし、我輩の印象を言わせてもらうと、ニコンはあまり先のことを考えていないように思える。 AFでは、まず「F3/AF」でレンズ内モータをデビューさせた。しかしボディ駆動形式のミノルタαシステムが発表されると、他社と競ってボディ駆動のシステムを採用した。その時、キヤノンだけは独り沈黙していた。 数年後、キヤノンはレンズ内モータ形式のEOSで殴り込みをかけた。超音波モータという消費者にアピールする武器でミノルタのシェアを一気に奪ったのは記憶に新しい。 キヤノンの凄いところは、この時既に、自動絞りのPCレンズや、防振レンズなどを構想に入れていたということだ。それ故、初期のEOS600シリーズでさえ、防振機能を活用出来る。 一方、ニコンはキヤノンの成功を見て、「そう言えば、超望遠レンズだとボディ駆動では無理があるなあ」などと今さらながらに気付いた。カタログでは「F3/AF」レンズの制限事項を書いたりなどして、レンズ駆動のAFシステムを忘れようとしていたのだが、ここにきて再びレンズ駆動に戻ってきた。しかもそれは「F3/AF」のAFシステムとはほとんど互換性が無いばかりか、今までのボディ駆動AFカメラすら使えないレンズとなった。 更には、取って付けたように防振レンズを開発したために、従来のAFカメラでは防振機能が利用出来ないという致命的な欠陥を抱え込んだ。もし、キヤノンのように初めから戦略的に商品開発を行っていたら、AFカメラを開発しようとした時点で防振の構想も盛り込んだはず。これは明らかにニコンの「思いつき戦略」の弊害である。 このようなことは他にもある。 例えばAFカメラなら当たり前のように利用しているはずの距離情報を最近まで使っていなかった。それをF90になって初めて「3D測光」などと大層な名前でデビューさせたのだ。他社は前からやってたことであり、特に名前もついていないようなカメラ内部の楽屋裏の仕組みである。 結局、3D測光はF90以前のAFカメラでは利用出来ない。なぜなら、その機能を「思い付いた」のがF90の時点だったから。ただそれだけ。 そのような機能はAFシステムを構築した時に視野に入れておくべきことだろう? そういう意味で、ここでもキヤノンと対照的である。 もしニコンが戦略的に製品開発をやっていたら、AF開発時に全ての可能性を盛り込んだシステムを構築し、「初期のカメラでは利用できません」などという事態にはならなかった。もちろん、マウントを変えずに全く新しい合理的なシステムを作ることは不可能ではないと思う。 なぜキヤノンがマウントを変えたのかというと、径の小さなFDマウントの内側に電気接点を組み込めなかったからだろう。ニコンのように接点を引っ込ませたとしても、装着時にレンズ中心部が回転しないスピゴットタイプのFDレンズは接点の接触がうまくいかない。 だからと言ってペンタックスのようにマウントリングそのものに電気接点を組み込むわけにもいかない。ボディ側の細いマウントリングを見れば、シロウト目にもその困難さは解る。 マウントの変更は、必然だったのだ。 まあキヤノンは今まで、FDレンズのスピゴットタイプは精度が高いだの、摩耗が少ないだの、いろいろと言い訳をしてきたのだが、やはりそれも限界だった。 しかし、キヤノンは転んでもタダでは起きなかった。そういう苦い経験を生かし、今度のマウントは何十年経っても困らないように考え抜いた。だから、純粋にシステムとしての比較では、「ニコンFマウント」は「キヤノンEFマウント」に勝ち目は無い。 かろうじてニコンの戦略の無さを補っているのは、「レンズマウントの物理的互換性」という強みだけである。しかし、ニコンがラッキーだったのは、その強みが意外に大きかったということだ。そうでなければ、今頃はキヤノンに喰われていたに違いない。 今、MFの新機種「Nikon FM3A」と新MFレンズが現れている。しかし、ニコンのことだから、いつもの調子で何も考えずに「ウケそうだから」と出したのだろう。FM3Aの出現によって「これでしばらくはMFが安泰だ」などと思っていると、案外あっさりと裏切られるかも知れぬ。 まあ、その時は許してやってくれ。ニコンに悪気はないんだから。先のこと何も考えてないんだから。 (2004.05.05追記) レンズの距離情報を利用したのはニコンの3D測光が最初だったようであり、ここで訂正する。ただし交換レンズの距離情報の最初の組込みは少なくともキヤノンでは1990年以降と見られ、ニコンが最初というわけでもない。 ---------------------------------------------------- [237] 2001年03月02日(金) 「嬉しくないソフトフォーカス」 我輩のデジタルカメラ、現在使っているのは「OLYMPUS C2020Z」である。以前使っていた「FUJI FinePIX」では単焦点だったため、ズームレンズ付きはフレーミングを微調整する際に役に立つ。 ある日、「OLYMPUS C2020Z」でパソコン内部を撮影しようと思った。接続や設定を記録するためのメモ撮影であった。 しかし、タイミング悪く風呂に入る時間となり、その撮影は風呂から上がった後にすることにした。 さて、風呂から上がり、一段落して撮影に取りかかった。 最初の数枚は何事もなく撮影出来た。ところがしばらくすると、何となく画面が明るくなっているような感じになってきた。どうもおかしい。 しかも、それがどんどん進行し、そのうち画面全体が真っ白にしか写らなくなった。 レンズを前から見てみると、見事に白く曇っていた。 慌ててテッシュで拭いたものの全くのムダ。なぜなら、その曇りは第一レンズの裏側の面で起こっていたからだ。 なんということだ。 風呂から上がった後の、目に見えない水蒸気が、カメラのズーム操作によるピストン的動作で内部に吸い込まれ、そこで結露した。 そもそも、「OLYMPUS C2020Z」はメインスイッチを入れるとレンズがピノキオの鼻のように伸びる。その時にまず空気を吸い込む。 そして更に、ズーム操作によって、レンズエレメントが移動し、そこでも空気の出入りが発生する。 我輩はその曇りを10分ほど放置して様子を見た。しかし、全く変化が無い。 仕方無く、ドライヤーで遠くから熱風を送って徐々に温度を上げていった。すると、曇りが見る見るうちに消えて行ったではないか。楽勝である。 早速、撮影を再開した。しかし、結果は全く変わらなかった。 レンズを覗き込んでみると、確かに第一レンズの裏面は曇りが取れているのだが、今度は第二レンズの表面が曇っていた。単に、曇りが別の表面に移動しただけ。これには参った。 我輩は、スイッチを入れたり切ったり、ズームを前後に動かしたり、あらゆる動作を繰り返した。これによってレンズを動かし、湿った空気を追い出して曇りを取ろうとした。 その甲斐あって、10分ほど続けていると曇りが取れてきた。そして何とか撮影を再開することが出来たというわけだ。 実は、この経験は1回や2回ではない。 我輩の部屋は寒いので、その部屋に置いてある「OLYMPUS C2020Z」を暖かい部屋に持ってくると、たまに曇りが発生する。 もうこうなると、しばらく暖まるまで使えない。電源を入れっぱなしにして暖めようとしても、自動的に電源が切れてしまうので有効ではない。外部から暖める以外に無いのだ。 デジタルカメラやコンパクトカメラというのは、サイズを最小限に抑えるため、レンズの伸縮が激しい。元の長さの2倍も3倍もグーンと伸びたりする。そのため、空気の出入りも激しく、いとも簡単に湿った空気が入り込んでしまう。 もしレンズ交換出来るものならば、別のレンズに交換して撮影する方法もあったろう。しかしこのカメラではそんなことなど出来るはずもない。 高倍率とコンパクトを兼ね備えたズームは、それなりに空気の出入りが大きいと見るべきだ。それを忘れて正しい使い方を怠ると、とたんにソフトフォーカスのレンズに早変わり。 いくら全自動とは言っても、女性ではなくパソコンを写した写真を自動的にソフトフォーカスにしてもらってもあまり嬉しくはない。 ---------------------------------------------------- [238] 2001年03月06日(火) 「摂関政治」 「摂政(せっしょう)」や「関白(かんぱく)」という役職のあった時代、彼らは天皇の代わりに政治的実権を握っていた。これを「摂関政治」と言う。 最高権力者は天皇であるのだが、摂政や関白の言うとおりに政治を行うしか無く、実質的に天皇は操り人形だったのだ。 これは何も歴史上の話だけでは無い。現代にも同じような構図が多くある・・・。 写真において、露出決定というのは難しい。なぜなら、その場で目で見て確認出来ないからだ。 露出を決定する際、露出計が必要となる。露出計の電子的な精度が十分に高ければ、露出計に頼って撮影することについて何も問題無いように思える。 しかし、リバーサルフィルムなど露出的許容量(ラチチュード)の狭いフィルムでマニュアル露出による撮影をする場合、多くの者は何度も測光するだろう。なぜならば、1回だけの測光では心配だからだ。 カメラの露出表示そのままに撮る場合、いくつか心配事がある。 まず、従来の「全面平均測光」や「中央部重点測光」のカメラでは、「もしかしたら余計な光に影響を受けた値ではないか」ということが頭をよぎる。 これは、逆光などによって主要被写体とは関係無いエリアの光に引きずられて露出値が変わってしまうことについての心配事だ。 次に、以前書いたような「分割測光(多分割測光)」のカメラにおいて、「もしかしたら予想が全くハズれているのではないか」ということが頭をよぎる。 これは、分割測光が過去の統計データを元にした状況予測を行っていることから、状況予測そのものが間違っている場合を考えた心配事だ。 カメラを信頼しきっている者は露出補正なしのオートで撮るのだろうが、我々「マニュアル露出人間(露出狂人間ではない)」はカメラの露出計を信用していない。 いや、「信用していない」などと言うと語弊があるので、さらに正確に言うならば、「カメラの指す露出値は最終決定値ではないと思っている」のだ。あくまでそれは、内蔵された反射光式露出計に過ぎない。だから、いろいろなポイントを何度も測光する。 「何度も測光する」という行為は、ほとんど無意識である。 日向、日陰、道路、空・・・。撮影画面に全く入らないようなものでも、光の比率を知るために参考として測ったりする。そしてそれらの値は頭の片隅に置いておき、露出補正の参考とする。 スポット測光や部分測光が可能ならば画面の一部だけを測光したり、ズームレンズならばテレ側で拡大させて測光する場合もある。意識して見れば、撮影フレーミングのまま測光する場合のほうが少ないことに気付くだろう。 我輩などは数字を記憶するのが大の苦手であり、先ほど測った部分を再び測ったりしてしまう。もし単体露出計であれば、メモリー機能によって視覚的に測光値を比較する事が出来るのだが、単体露出計を使えない状況は意外に多い。 そんな時役立つのが、「OLYMPUS OM-3/OM-4」のマルチスポット測光だ。これは、マニュアル露出人間にとって理想的な道具と言えよう。 測りたい部分のみをスポット測光でき、その値をメモリーに記憶しておける。しかも、それら複数の測光値を演算して加重平均の値を求めることも出来る。 分割測光のように確率に任せること無く、中央部重点測光のように光の差に引きずられること無く、自分の意志をそのまま反映させることの出来る強力な測光形式。これは手動の分割測光とも言える。重点を置くべきエリアを自分の意志で決定し、拾っていく。 逆に言えば、分割測光というのはマルチスポット測光を自動化したものだと考えてもいいかも知れない。分割された受光部はそれぞれのエリアでスポット測光している。そしてカメラの統計的判断によって、演算に使うべきエリアをいくつか自動的に拾い上げている。 しかし、撮影者はそのことを意識せず、ただシャッターを押すのみ。マニュアル露出で撮影していても、結局はカメラの露出計による指示のままだったりする。それはまさに、摂関政治そのものである。 「OLYMPUS OM-3/OM-4」のマルチスポット測光は、統計的判断に頼らず、自分の確たる意志でコントロール出来る。そこで得られた測光値は、摂政や関白の指示ではなく、有能なる側近が伝えるナマの情報である。それを基に自らの意志で責任を持って政(まつりごと)を執り行うのだ。 もちろん、強力が故に、使い方を誤ると悲惨な結果となろう。しかし、それは努力次第で克服可能なのだ。 ・・・惜しむらくは、このような理想的な測光形式であっても、我輩所有のカメラの機能ではないということだ。そのことが何よりも悔やまれる。それを補うため、参考となる光をいろいろと測る。 頼りない側近の情報であっても、摂関政治よりはまだ意志の反映が出来ようというもの。 撮影するフレーミングのままで測光するような方法では、いつまでたっても真に思い通りの露出は得られはせぬ。 最高権力者なれば、自分が支配されることなく露出値を支配せよ。 ---------------------------------------------------- [239] 2001年03月07日(水) 「町工場(まちこうば)」 荒川区や大田区には、小さな町工場(まちこうば)が多い。 化学樹脂をローラーで練っているところもあり、風向きによってはかなり激烈な匂いが鼻につく。そういった意味で最初はあまり良い印象を受けなかった。 しかし、そこで働く者の姿を何度も見ていると、「物を作っているのは確かに人間なんだ」と、あらためて実感するのだ。 ガード下などには金属加工業者や、メッキ業者など、関連した業種が線状に集まり、全体として流れ作業のようになっている場所もある。 何に使うのか全く見当もつかない部品が、通函に入れられ重ねられている。その部品は、差し込む陽に照らされ眩しく光っていた。 3〜4年くらい前、NHKで町工場のドキュメンタリーを見た。そこでは、数少なくなった職人たちが活躍していた。 他では真似できないような深い金属絞り加工をする職人、不完全な設計図だけで完璧な試作品を作り上げる職人、注文通りに寸分の狂いもなく金属パイプを曲げ加工する職人・・・。 中でも、指の感触だけで数ミクロンの誤差を読むという者には驚かされた。 外国の場合、「工作機械の精度の限界により、加工精度はここまで」と割り切るという。しかし、町工場の職人たちは、工作機械の精度を上回る加工をやってのける。最小目盛りの百分の一までは確実に読めるというのだ。見えない目盛りが見えるようになるには、どれほどの鍛錬を積んだのだろう。 機械的誤差も飲み込んだ精度出しのためには、単純に細かく目盛りを読むだけでは通用しない。切削音や振動、感触、そういった「雰囲気」とも言えるような微妙な情報が、目に見えない細かい目盛りを浮かび上がらせているのである。 恐らく本人たちは、ただ良い物を作るということだけを考えて努力していたに違いない。それがいつの間にか鍛錬となったのだろう。 前回は「OLYMPUS OM-3/OM-4」の理想的な露出計について書いた。それに対し、我輩の主力機である「Nikon FA/F3」の露出計は、対称的とも言えるほど使いにくい。 元々、視野の上方にあるものは目に入りにくい。「Nikon FA/F3」の露出表示は見事に上方にある。しかも表示はデジタル数字とプラスマイナスの表示だけで、どれだけ露出がズレているのかという感覚的なスケールが読めないのだ。 だが、そのおかげで単体露出計を使う頻度も高くなるのも事実である。 単体露出計は、露出計を搭載していない中判カメラでは必須であり(もちろん、露出計を持つ中判カメラも世の中にはあるが)、何よりも、我輩のイラク空軍的装備を生かすには同じ露出計を使う必要がある。そういう意味で、我輩にとって単体露出計は必然なのだ。 しかしそうは言っても、いつも単体露出計を使えるとは限らない。だから、主力機の「Nikon FA/F3」の露出計を、あるていど使いこなす必要がある。 我輩は、絞り優先オートで示されるシャッタースピード表示を見る。絞りは固定してあるので、これで露出量が判る。しかもそのままフレームを移動させると、それに応じてリアルタイムにシャッタースピードが変化していく。 我輩は、その変化の具合で、不連続な数字による露出表示にアナログメーターをそこに見る。 このように書くと大げさに思えるが、この感覚はなかなか人に説明出来ないから仕方がない。全ては無意識であるから、言葉で説明すると冗長にならざるを得ない。 こんな話を聞いたことはないか。 迷子の老人を保護した警官が、家族に迎えに来てもらおうと自宅の電話番号を訊いた。しかしその老人はどうしても電話番号を思い出せなかった。そこで、試しに電話を前に置いたら、指が自然に自宅の電話番号を押したという。 人間の動作は、頭で考えて行動するのと、無意識に行動するのとでは、少し様子が違う。頭で考えて行動する場合には言葉で説明が出来るのだが、無意識に行動するのは説明が難しい。 我輩の、デジタル数字をアナログメーターに変換する仕組みは、それを同じく会得した者にしか理解してもらえないだろう。 ここまで書くと、恐らく「そんな苦労が何の役に立つんだ?」と思われるかも知れない。確かにそうだ。もっと便利なものに乗り換えるのは進歩の一要件であろうかと思う。 だが、機械を使うというのは、自分の手足の延長とすることではないのか。新製品が出る度に乗り換えては、それを使いこなすヒマなど無いのも事実だ。最初から完璧なる機械が存在すればいいのだが、当分それは望めまい。 結果、そのカメラの「良さ」にも気付くことなく、新製品を迎え入れ、それを永久に続けるしか道は無い・・・。 人間がほんの少し練習すればいいことであるのに、究極のカメラを求めて乗り換えを繰り返す。昔の我輩がまさにそうだった。そしてある日、そのムダに気付き、空しさを感じた。 究極のカメラなど存在しない。たとえ存在するとしても、それは我輩の時代では届かないだろう。だから、今手に持っているカメラとの巡り合わせを大切にし、1つのカメラを使うことを大事にしたい。要するに、使い方が分かっていれば、現状で十分に事足りるのだ。 町工場の職人たちは、人間の更なる可能性を垣間見せてくれた。 「これが限界だ」と自分が認めた時、それが自分の限界となる。我輩の限界は、町工場の職人を見て少し広がったように思えた。 ---------------------------------------------------- [240] 2001年03月07日(水) 「光の点」 光の点というのは美しい。 クリスマスシーズンになると、原宿通りの街路樹がイルミネーションに彩られたりする。 昼間見ると、それは単なる枝にしか過ぎないのだが、夜の闇に浮かび上がる光の点は別の世界を見せてくれる。 しかし、その光は写真に写すことは比較的容易だ。三脚にカメラを固定して写せば何とか写る。それほどにイルミネーションの光は強い。 しかし、本当に心から感動するような光景は、我輩に限って言えば、田舎でしか体験したことが無い。そして、そのような美しい世界は、写真に残すにはあまりに光が淡く、それ故、頭の中の記憶にしか残っていない。それがかえって、我輩の心に深く刻みつけるのだ。 我輩が光の点に感動したというのは、3回ある。 1回目は、初めて本格的に天体観測をした時。 肉眼では見慣れていた夜空が、友人の双眼鏡を借りて見た時に別の世界が広がった。 当時は別居している父親から天体望遠鏡をプレゼントされていたのだが、宝の持ち腐れ状態。望遠鏡で星を見たことは無かった。しかし、双眼鏡に広がる世界は、単に「光る点」としか感じなかった我輩に「宇宙」を意識させることとなった。 「宇宙と我輩との間には、何も障害物は無い。ただ、遠い距離が広がるのみ。」そのことを実感した夜だった。 2回目は、ホタルだった。 島根県にいた大学時代、友人ら数人に誘われて夜道を自転車で走った。 ホタルが見られるというので付いていったのだが、我輩は内心「大したモンじゃなかろうから、面倒だな」と思った。 道はだんだん寂しい所に入って行き、街灯すら無くなった。そこは斜面を拓(ひら)いたような水田で、近くを川か用水路が流れているような音がしていた。確かにホタルがポツリポツリと見えた。 「大したこと無いな」と思っていると、自転車では入れない所に皆が進んでいく。 「おいおい、この場所で充分だろ」と思ったが、仕方なく自転車を降りて歩いた。すると、とんでもないところに出てしまった。 そこは、視界一面にホタルが舞っていた。 あれは信じられなかった。光る点が飛んでいたり明滅していたり、気が付くと我輩の服にとまっていたりする。その光景は、もはやホタルに見えなかった。 帰り道、我輩は後ろを振り向き振り向き家路についた・・・。 3回目は日本海の海だった。 これも大学時代に友人に誘われて行ったのだが、日本海というのは意外に小さな湾が多い。そのため、その場所はほとんど波が無く穏やかだった。 そこは昼間に何度か来たことのある海岸だった。近くに漁港があり、散歩がてら友人と車でやってきたものだった。 しかし、その日は夜に出掛けた。漁港の光以外に何も照らすものは無い。しかし友人は「コッチやで」と言いながら、どんどん暗いほうへ歩いて行く。 我輩が足下に注意しながら歩いていくと、開けた場所に着いた。そこも小さな湾になっており、波はほとんど無かった。 友人は石を拾い上げ、おもむろに海に投げ込んだ。すると、ドボンという音とともに波紋が広がった。 いや、ほとんど何も見えないくらい真っ暗なのに、波紋が見えるのはおかしい。見ると、海が青く光っている。これは夜光虫の光だという。 夜光虫はプランクトンの一種で、体内に光る仕組みを備えている。石を投げ込んだ刺激を受けて発光したのだ。 光る点々は、たくさん集まって波紋の形を作っていた。それはまるで、数千億の星が集まって天の川となるように、調和した1つの画(え)を作っていた。 我輩が感動したものは、今は脳裏にしか無い。その脳裏の映像が蒸発せず残っている限り、我輩の写真は、求める地点に到達出来ないかも知れない。 だが、それでいい。 我輩の感動は、そんなに簡単に写真で表現出来るものではないんだ。それが我輩の中に残っているだけでも、写真の修行を続ける価値があるというものだ。 ---------------------------------------------------- [241] 2001年03月11日(日) 「メーカーと消費者」 以前、巻き戻しクランク部を損傷した「Nikon F3/T(白)」が、やっと全快して戻ってきた。 このカメラは、我輩の主力中の主力であるため、これでようやく心が落ち着いた。 今週の水〜木曜日、我輩は京都へ出張した。持って行くカメラを選んだのは、家を出る数分前というギリギリの時間であり、とりあえず目に付いた「F3L(緑)」を持って行った。 しかし、いつもはモータードライブを装着して使っている「F3L(緑)」だったが、軽量化するために単体の形にした。普段使い慣れていない単体の形態は、メインスイッチの操作をまごつかせた。 もし、メインカメラの「F3/T(白)」があったなら、何も考えずにそれをカバンに入れたことだろう。「メイン」という位置付けは、とっさの時に迷わせない存在と言えるかも知れない。 さて、ヨドバシカメラに修理完了のF3を受け取りに行ったのだが、修理内容は「巻き戻しノブ」、「シュー座部」、「裏ブタロックレバー」を交換し、各部点検したということだった。修理票によると、オーバーホールは行われていない。 ヨドバシカメラの担当者の方は、「ニコンは、お客様にご迷惑をお掛けしましたと言っていました。」と言い、「一応、電子基盤のチェックを行ったそうですが、もし万一、何か不具合が出ましたら対処致します。」と付け加えた。 ニコンが謝っているというのは理解したが、今回の事故の原因がどこにあるのかは判らなかった。とにかく修理して機能を回復させれば問題が終わると判断したようだ。 これは、プロに対する処置としては全く正しい選択である。プロにとっては、結果のみが大事であり、「誰のせいか」などということは別にどうでもいい。誰のせいであっても、機能が回復すればそれでいい。 だが、一般消費者としては、誰のせいでこうなったのかということをハッキリさせてくれなくては気持ちが良くない。もしかしたら自分のせいかも知れない・・・、いや、自分がそう思っていなくとも、メーカーがそう思っているのではないかと心配する。 まあ、ニコンはメーカーであり、サービス業ではない。一般消費者と直接接することは考えないのは当然である。このことを責める意味は無い。 メーカーと一般消費者との間に立つ存在として、販売店がある。今回、ヨドバシカメラは、一般消費者に接する販売店の役目として最大限の働きをし、ニコンの代わりに「すみませんでした」と頭を下げた。 メーカーは製品を修理し、販売店は客の対応とメーカーの交渉をする。ヨドバシカメラは、我輩に頭を下げた分、ニコンを叩いてくれたに違いない。それぞれの役目はキッチリと果たしたと我輩は評価しよう。 直接、メーカーのサービスセンターに行った時に、接客態度を問題にするのはお門違いだと認識すべし。「サービス」と名は付いてはいるが、これは「製品サービス」であり、「接客サービス」ではない。 ニコンはあくまでメーカーである。もし、接客に不満があるならば、直接サービスセンターを利用することは避けた方がいい。 ---------------------------------------------------- [242] 2001年03月13日(火) 「普通のデジタルカメラを作らんか」 今朝、電車の中吊り広告でフジフィルムの新デジタルカメラが載っていた。 600万画素だと言うが、相変わらずの価値観で気が萎える。 例えば、大容量メモリとか、超寿命バッテリー(長寿命というレベルではない「超」という意味)、レンズ交換、シンクロ接点装備、ケーブルレリーズ取付可、プレビュー機能・・・など、基本的な性能を向上させたらどうなんだろうと思う。 価格が12万を越える設定であり、CCDが600万画素であることを考えると、これはコンパクトカメラユーザーが対象ではないことが明らかだ。だから、先に述べた不満点が正当化されるというもの。 もしこれが5万円台のビギナークラスならば文句は言うまい。だが、デジタルカメラというのは勘違いした値段設定をしているものがほとんどだ。機能と比べると値段が高すぎる。 恐らく、消費者として見れば、「デジタルだから」ということで不満を持つことなく金を出すのだろう。だが、冷静に「カメラ」という見方でそれを見ると、とてもじゃないが12万円も出す価値は無い。 確かに、他に選択肢が無いのも事実だ。600万画素のデジタルカメラは業務用しか見あたらない。「もっと安く」と思っても、現時点では、12万円というものは安いほうになる。 デジタルカメラは、値段によって解像度が決められてしまうので理不尽だ。これがもしフィルムならば、解像度ごとの値段の違いはほとんど無い。 しかも、デジタルカメラは時代が変わると陳腐化するため、一定期間内に投入コストに見合う仕事をやり切らねばならぬ。モタモタしているとすぐに後継機が登場し、現在の機種に不満を持つこととなる。 もし、我慢出来ず買い換えたとするなら、1枚当たりのコストはどれくらいになるだろうか? (購入価格+維持費)/撮影枚数=(?) デジタルカメラの撮影枚数は多そうだが、メモリやバッテリー、撮影シーンの壁があり、購入前の思惑とは裏腹に、思ったほど撮れないこともある。 だが、同じ計算を銀塩カメラでやるとどうなるだろう。 もし、壊れるまで自分のカメラを使い続けるならば、撮影枚数は膨大な数にのぼる。維持費はかさむだろうが、そのぶん撮影枚数も増えることになる。 デジタルカメラでは、そもそも「壊れるまで使う」などという発想が無い(壊れやすいにも関わらず)。 CCDの性能はまだ途上段階で、完成されたものではないというのは理解できる。だから陳腐化もする。しかし、少なくともオーソドックスな形態であれば、こまごまとした改良などで買い変えなくても済む。我輩などは、シンクロ接点があるというだけでデジタルカメラを買い換えた苦い経験がある。 市場にある一般向けデジタルカメラは、コンパクトタイプのものしか存在しない。これでは選択肢が全く無いにも等しい。 多少、性能が低くなってもいいから、普通の一眼レフタイプのカメラにCCDを組み込んだだけというような万能カメラを10万円以内で作らんか。シンクロ接点やレンズ交換など、ごく基本的な機能は小出しにせず最初からすべて盛り込め。 これさえあれば、魚眼レンズ写真でも、望遠レンズ写真でも、顕微鏡写真でも、天体写真でも、ピンホール写真でも、思い付くものはとりあえず何でも撮れるようになる。 「技術的な問題がある」と言われそうだが、そんなことは何とでもなる。600万画素のCCDを作るには努力を惜しまないくせに、基本的な機能を入れるにはどうも腰が重いようだ。 何を回りくどいことをやってジラしている?一体、いつになったらそんな普通のカメラを作ってくれるんだ? ---------------------------------------------------- [243] 2001年03月14日(水) 「テクニックを自分のものにせよ」 写真の手法はアイディアの固まりである。 今では当たり前のように使っているテクニックでも、多くの先人たちが考えたアイディアに他ならぬ。我々は、その手法を使わせて頂いているということを忘れてはならない。 それらは特許や実用新案を認めても良いくらいのものだ。 もし、例えば「流し撮り」という手法に特許が認められていたら、どうする? その特許が切れるまで、「流し撮り」が許されなかったとしたら、どうする? そう考えると、我々は先人たちのアイディアに感謝しなければならない。如何に単純なテクニックであろうとも、それを最初にやった者の後を倣(なら)っている。 しかし、先人に倣うためには、写真の仕組みや原理を知る必要がある。 仕組みも知らずにただうわべだけを取り込むのでは、自分の身にならないばかりか、先人に対して礼を失することにもなろう。 もし、写真の仕組みや原理を知ることになれば、その時初めて、そのテクニックを本当の意味で自分のものにしたことになる。状況に応じて、自分なりのやりかたを研究することは、「冒険野郎マクガイバー」の哲学にも通ずる。写真の仕組みや原理を知らずして、自分なりのものは作れない。 ちなみに我輩は、先人が利用した「リングボケ」を使わせて頂いたことがある。リングボケとはご存知の通り、レフレックスレンズで見られる効果である。 レフレックスレンズは反射望遠レンズと言われるように、光学系に反射鏡を使っている。その構造上、どうしても光軸の真ん中を通る光がスッポリと抜けてしまうことになり、ボケる時にそれがリング状に現れるのだ。 我輩は、このリングボケを、「初夏の気持ちの高鳴り」として表現したかった。しかし、当時使用していた中判カメラ「ゼンザブロニカSQ-Ai」では、レフレックスレンズなど用意されていない。 我輩は、リングボケの原理を知っていたので、諦める前に、リングボケを再現するフィルターを作ってみることにした。 原理的には、光がリング状に入れば良いので、フィルターの真ん中に小さな円形の金属板を接着し、それを望遠レンズに装着した。 結果は上々。ほぼイメージ通りの「初夏」を120フィルムに焼き付けることに成功した。 (その時の写真は「写真置き場」の「能書きの多い写真」に掲載してある)。 これは、ゼンザブロニカがレフレックスレンズを用意していなかったからやったのであり、決して金が無かったからやったのではない。故に、今回は「貧乏クサイ」とは言わせない。我輩の工夫心の勝利と言える。リングボケの原理を知っていたからこそ、レフレックスレンズではないノーマルレンズで同様の効果を生み出せたのだ。 もし、テクニックを単純に模倣するだけであるなら、ちょっとした困難によってそのテクニックは利用不可能となろう。 目的をしっかり見据え、写真の原理に立ち帰って見れば、必ず道は開けてくる。 多少、ドロくさい方法であっても、同じ目的地に着くならば、道を引き返すよりもずっと良い。 ---------------------------------------------------- [244] 2001年03月16日(金) 「ピノキオ」 誰もが知っている童話「ピノキオ」。 ピノキオはウソをつくと鼻がどんどん伸びる。どんな言い訳も通用しない。 この話を聞いた子供の頃、なんと恐ろしい現象だろうと身を震わせたものだった・・・。 先日、伸縮の激しいレンズのことについて書いた。その伸縮性により、湿った空気を吸い込んでしまった話だが、世間にはこれ以上に鼻が伸びるカメラが存在する。 5〜6年くらい前だったろうか、友人の結婚式の二次会に行った。 二次会は、ほとんど友人関連の集まりのようなもので、同年代の者が集まっていた。新郎新婦二人分の友人であるから数も多く、赤坂にある店を借り切って行われた。 同年代同士ということもあり、色々なゲームや出し物(音楽演奏)などで大いに盛り上がっていた。そして、その場をビデオで写す者やカメラで写す者がいた。 カメラの場合、そのほとんどがコンパクトカメラであり、押すだけで写るため、お互いに写し合ったり、カメラを借りて写したりする。 我輩は記念写真を面倒に思う人間であるため、その場にカメラを持参しなかった。もっとも、持って来ようと思ったとしても、大げさなカメラしか所有しておらず、このような場にはふさわしくなかったろう。 しかし、我輩がカメラを趣味としているというのは友人も承知で、その時も1台のカメラを渡された。 「なあ、あの娘、かわいくねぇ?ちょっと写真撮ってきてくれよ。」 そいつは我輩に手を合わせ、「お願いポーズ」をとった。 ・・・そういうことか。気持ちは分かるが、我輩1人で行けるわけがない。カメラを返そうとすると、近くにいたヤツが「オレも行ってやるから撮ろうぜ。」と席を立ち、我輩を引っ張って行こうとする。コイツも動機は同じらしい。 仕方無く、我輩はカメラを手に席を立った。 ちょうど、誰かがギターを演奏しており、照明が落とされ、色付きスポットライトがステージを照らしていた。我々は闇に紛れ、腰を落として前進した。 「おい、ここらへんで狙うか。」 同伴者が柱の影でターゲットを指さす。我輩は目が悪いので、ターゲットの存在だけを認め、カメラを構えた。しかし、その姿はファインダーに小さく浮かぶのみ。 「ズーム、ズーム!」 そいつの声にハッとした。そうか。コンパクトカメラだということでバカにしていたが、近頃はこんなカメラにもズームが付いているんだな。 我輩は手探りでズームボタンを押した。軽いモーター音と共に、ターゲットの姿が大きく拡大されていく。そしてそれは限界値まで達したのか、それ以上ズーム出来なくなった。 だが、照明が暗いため、これで写るのか不安だった。 「ストロボが光るから大丈夫、大丈夫。」 同伴者は急かした。 「そうか?こんなに望遠だし、ピントが合ってんのか?照明が明るくなるまで待ったほうがいいだろう?」 そう言った瞬間、ギター演奏が終わり、照明が明るくなった。 薄暗いファインダーの映像もクリアになり、ピントも合ったに違いない。顔も良く見える。我輩とは趣味が違うな。 「よし、写すぞ。」 すると、同伴者が我輩をツツいた。 「おい、何のつもりだ?」 我輩は振り返り、文句を言った。 「おい、カメラ、カメラ!」 「何だ?」 あらためてカメラを見て、我輩はビックリした。なんと、ピノキオのように、ググ〜ンと長く伸びたレンズが・・・。 ソイツは一言、「オレたち、下心見え見えだぞ・・・。」 我々は、周囲を見渡して退散した。 あれはかなり恥ずかしかったなあ。 「違う!これはアイツのリクエストなんだ!」と言いたかったが、「ピノキオ状態」が言い訳を許さなかった・・・。 皆も、十分に気を付けよ。 ---------------------------------------------------- [245] 2001年03月24日(土) 「お好み」 職場の営業課B氏は、我輩に「Nikon F3リミテッド」を安く売ってくれた人である(買い叩いたとも言えるが)。 そのB氏のお好みは、何でもかんでも「立派なもの」。 「立派」という言葉には色々な意味があろうが、B氏の場合、それは即ち「デカくて頑丈なもの」ということを意味する。 B氏の家に行くと、誰もが驚く。 デカい通勤カバンがあり、デカいシステム手帳があり、デカいオーディオアンプがあり、デカいGateway製タワー型パソコンがあり、デカいテレビがあり、デカい車(パジェロ)があり、そしてデカいNikon F4とデカい大口径ズームレンズがある。 我輩はB氏に訊いたことがある。 「なんでそんなにデカいのばかり買うんですか? もっと小さくて良いモノがあるのに。」 するとB氏は照れくさそうに言うのだ。 「いや〜、やっぱりデカいと、買った気がするよね。」 もちろんB氏は少数派には違いない。しかし、軽量・コンパクトなものが必ずしも喜ばれるわけではないということをあらためて知らされたという意味では興味深かった。 そう言われれば、我輩のお好みも一般的なものとは違っている場合があるのに気付く。 カメラの場合、我輩はシャッター音は大きくなければならないと思っている。モータードライブのハデな音は、我輩にとっては一種の効果音であり、撮影時の手応えを感ずる部分だ。 人間を撮る場合ならば、隠し撮りでもない限り相手にもその音が十分聞こえなければ撮影の支障となる。 街頭スナップであっても、「私は今、あなたの写真を撮りましたよ」というサインとなる。相手が音に気付いてこちらを見ても、その時点では撮影が終了しているから、自然な表情に変わりは無い。もし相手からクレームが無ければ、撮影を了解してもらったと判断出来る。 一時期、「Canon EOS100」という静音化技術のカメラが現れ始めたことがあったが、あの時は「将来的に全てのカメラがあのようになるのか?!」と非常に危機感を持ったものだった。 それから、カメラは軽いほうがいいという考え方にも違和感を覚える。もちろん、携帯する道具であるカメラは、重いと撮影者にとっては体力的負担となる。他の荷物のことも考えるならば、なるべくカメラは軽いほうが助かるだろう。同じ働きをする道具ならば、軽い方が良いと考えるのは当然。 しかし、今はプラスチックの多用により、異常に軽いカメラが存在する。カメラというのは、質量が大きいほどシャッターブレが少ない。もちろん、シャッターメカニズムの違いで振動の強弱が変わるだろうが、一般的には慣性の法則によりカメラの質量が大きい方がシャッターブレには有利なのだ。 ちなみにシャッターブレは手ブレとは違い、三脚を使っても発生を抑えるのは難しい。カメラ本体が鐘のように振動するのだから、中途半端なスローシャッターを切るよりも、長めのスローシャッターにしたほうが、かえって振動の影響を逃れることが出来る。 「たかがシャッターブレ」と侮るなかれ。確かにシャッターブレは手ブレよりも振動が小さい。だが、手ブレはカメラを持つ手が揺れるだけであるが、シャッターブレというのはカメラが内部から振動するから厄介だ。フィルム面で起こるちょっとした振動は、画質に重大な影響を及ぼす。あの小さなフィルムサイズから写真を拡大することを思えば、フィルム面上のコンマ数ミリの振動ですら許されないと解るだろう。 もし、自分の写真がシャープでないと思うなら、カメラそのものを疑ってみるのもいいかも知れない。 以上が我輩のカメラに対する「お好み」である。 まあ、B氏のように、デカいカメラは困りものだが、それでも人間の手が操作するのであるから、必要以上に小型化されるのもまた困る。少なくともオリンパスのポリシーのように、「カメラ本体は小型化しても、操作部材は十分に扱いやすい大きさにする」というものが欲しい。 ---------------------------------------------------- [246] 2001年03月26日(月) 「自覚があるか」 雑誌か何かで読んだ話だったと思うが、水面近くで魚の写真を撮っていたカメラマンが、どうしても水中で写真を撮りたい一瞬があったという。そのカメラマンは、その1枚のために、とっさに自分の愛機を水に浸けてシャッターを切った。 当然ながら、カメラはその直後にオシャカとなった・・・。 「カメラは写真を撮るためのものであって、カメラ自体に執着は無い」 たまに、このように言う者がいる。恐らく彼らは躊躇無くカメラを水に浸けることが出来るだろう。彼らにとって大事なのは、カメラではなく写真なのだ。 我輩は知人からよく、「おまえは写真よりカメラの方に入れ込んでるな」と言われることがある。それは当たり前だ。プロではないのだから、カメラを大事にする。使い込んでカドがスリ減ることはあっても、水に浸けたりはしない。 しかし、我輩は過去に、勘違いをして水に浸けるのと同じようなことをした。 それは大学時代のことだったが、マラソンを撮りに行ったことがあった。その日はあまり天気が良いとは言えず、選手たちがゴールに入る頃には雨が降り始めた。我輩は競技場入り口の所で、選手たちが戻ってくるのを撮っていた。 我輩は傘をさしながらシャッターを押していたのだが、雨はだんだん強くなり、傘の中まで降り込んで来た。レンズ鏡胴には水が滴り、それをタオルで拭いながらカメラを構え続けた。 カメラなど壊れても、写真が残ればいいと思った。その時装着していたレンズは、当時新製品だった「Canon EF35-135mm F4-5.6 USM」である。 金の無い大学時代だったが、身分不相応な撮影をやっていたものだと今さらながらに思う。カメラを潰してまで写真を撮るなど、我輩がやるべきことではなかったのだ。 幸い、カメラとレンズには異常が出なかったが、その後別のレンズに買い換えたので、不具合が出ても判らなかっただけなのかも知れぬ。 過酷な条件で調査の目的で使われるようなカメラであれば、何台か潰れるようなことがあっても、必要な情報としての写真が得られれば、調査の目的が達成されたと言える。数千万円単位の高価な調査機材の中にあっては、数十万円のカメラの値段など取るに足らぬ。 また、多くの読者を抱える写真雑誌なども同様に、カメラ数台分の損失など、雑誌の売り上げ向上に繋がれば安いものだ。 我輩の場合、現在の自分の予算(所得)を考えると、数十万円のカメラを消耗品扱いにはとても出来ない。そうなると、「Nikon F3」ではなく「Canon EOS Kiss」あたりを使う必要があろう。これなら、1年に2〜3台くらい使い潰すことが出来る。躊躇無く水に浸け、1枚だけで終わるシャッターを押せるだろう。 しかし、我輩のカメラは「EOS Kiss」ではない。 よほど貴重な場面に立ち会ったというなら少しは葛藤するかも知れぬが、普通なら我輩の愛機「Nikon F3」を水に浸けることはしないだろう。 仮に水に浸けたとしても、カメラ内部に浸水するほうが一瞬でも早ければ、1枚さえ撮れないこともあり得る。全くムダな犠牲かも知れない。そういう状況で1枚の写真に賭けることが出来るかと問われれば、我輩は「出来ない」と答える。我輩にとっては写真も大事だが、カメラもまた、大事なのだ。 我輩には、「カメラは写真を撮るためのものであって、カメラ自体に執着は無い」などと言うだけの財力も無ければ思い切りも無い。ギリギリの予算でやりくりするだけの一般小市民だと自覚している。だからこそ、カメラに対する思い入れもまた強い。 もしカメラが、写真を得る目的だけの道具に過ぎないのだとしたら、カメラとは完全なる消耗品である。もしもの時には、カメラを潰して写真を撮れ。 しかしながら、とっさの場面で迷いが出ないようにするには、自覚が不可欠である。 「必要な1枚を撮るために、自分のカメラを水に浸ける覚悟はあるか?」 それを自分自身に問うてみれば、自分の、写真に対する姿勢が判るはずだ。 ---------------------------------------------------- [247] 2001年03月27日(火) 「時代のインデックス」 消え去って、初めて気付くものがある。写真に撮っておけば良かったと思っても、もうその時には遅い。 北九州市小倉を走る西鉄の路面電車は、我輩にとってはバスと何ら変わりなく、身近で特別な感慨も無かった。 子供の頃、よく到津(いとうづ)動物園や桃園(ももぞの)のプラネタリウムに行くために路面電車を利用したものだった。 しかし、ふと気付くと、小倉の街に路面電車の姿は無かった。今でも不思議に思うのだが、いつ消えたのかさえ意識しなかった。 「そういえば・・・」と街中を見渡して初めて、電車の姿が見あたらないことに気付いたくらいだった。 路面電車の後にはバスが運行され、交通手段に不便は無く、それ故、路面電車が消えたことを意識する機会がなかったのだろうか。 我輩は、基本的に電車を撮る趣味は無い。しかし、我輩にとっては小倉の路面電車は、懐かしい風景の一部を構成していた。それが無くなって初めて、その存在の大きさを知った。 身近であるが故に、その重要性を見過ごす・・・。皮肉なものよ。 そうこうしている2年前、今度は到津動物園が閉園してしまうという話を聞いた。 68年間もの歴史が終わろうとしている到津動物園。路面電車と同じく、ごく身近な場所だっただけに、今度撮り逃せば再び後悔することは必至。 盆休みを利用して、我輩は炎天下でシャッターを押しまくった。 あの撮影では、写真的なことは一切考えていなかったなあ。 「もうこの動物園の姿を見ることは出来ない」と思うと、とにかく写真のフレームに多くの情報を焼き付けようという気持ちになっていた。 いずれ技術が進めば、複数の写真を基にした仮想現実(バーチャルリアリティ)の世界をコンピュータ上で再構築することも出来るようになるだろう。もしそうなっても十分な情報量を確保出来るようにと、何本もフィルムを消費した。 時間は戻らない。今撮れるものは、今、撮っておく。これが、後悔しないための唯一の方法である。そしてこのような写真は、後世にて貴重な資料とされるかも知れぬ。身近過ぎる風景だからこそ、資料が残りにくいのである。 今、我々は時代の流れの中にいる。 新しいものがどんどん流れ込み、旧いものはひっそりと消えてゆく。新しいものと旧いものの境界線は、いわゆる「時代の節目」というインデックスとなる。 単純に新しいものだけを受け入れ続けていけば、日常生活では何の不自由も無いだろう。しかし、その旧い時代が自分にとって大切ならば、時代が完全に変わりきってしまう前に、その姿を留めておくことが重要だ。それによって時代のインデックスが自分の手元にハッキリと残され、自らの生きてきた途(みち)を辿ることが出来る。 まあ、「旧いものにこだわっている」と言われれば否定しようが無い。だが我輩は、自分の要求にただ、シャッターを押すのみ。 ・・・さて、最近は携帯電話が普及しまくっているようだ。この調子では、そろそろ公衆電話でも記念に撮っておいたほうがいいかもな。 ---------------------------------------------------- [248] 2001年04月01日(日) 「花は桜」 花は桜。 日本を代表する花と言えば、誰もが思う桜。 我輩の職場近くには大きな斎場があり、その横の道には桜の木が覆い被さるように並んでいる。その桜が今、満開状態で街道を飾る。 その昔、日本の花と言えば梅であった。それが桜に取って代わったのは、歴史に記されたエピソードがあるという。 だが、いくら歴史的エピソードがあろうとも、これほどまで桜が日本人の心に大きな位置を占めているのはなぜか。 桜とは1つ1つの小さな花の単位のことではなく、多く集まった状態が「桜」と認識される。それ故、小さな花ひとつを取ってきても、それは桜とは呼べない。桜は、枝ごと折り取らねば取って来ることは出来ない。 日本の花が、梅から桜に変わったのは、その木の高さにあると我輩は見る。 梅よりも高い枝に広がる桜の花は、見上げる者の視界いっぱいに広がる。さらに、空の青さに映える美しさが、より一層、人の心を満たす。 元々人間には、数の多いものに気を引かれる性質が備わっているのかも知れぬ。 もしそうならば、我輩が以前、ホタルの群の中で声を失ったのも、それが原因の一つにあると言えるだろう。同じホタルでも、1匹のホタルと数百匹のホタルとでは、与える印象が全く違う。それは程度の差などではなく、印象の質そのものが違うと感じさせる。 人間が感動する要素とは? それを意識の上で知っている場合と、漠然と感覚するだけの場合とでは、写真を撮る時の迷いも違ってくると想像する。 なぜ、「花は桜」なのか。 人間を写すのではなくとも、人間を知らぬ者に桜を撮ることが出来ようか。 桜の場合に限らず、写真に行き詰まったならば、己の内に答を探すことも必要となろう。どれほど外に目を向けようとも、自分が自分である限り、答は己の内にあり、必ずそこに行き当たる。 カメラを置き座禅を組み、心を鏡に映せ。 まわりくどく滑稽に映るかも知れぬが、心ある者ならば、全ての始まりを己の内に見出すことだろう。 <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [249] 2001年04月02日(月) 「写真で見る話」 今回の話では、写真はややこじつけであり、ほとんど関係無いとも言える。しかも長文のため、この話題は読むに値しないかも知れない。 我輩の祖母の姉、通称「オバチャン」が逝ったのは、昨年11月21日(火)午前2時のことだった。 我輩が小学生の頃、オバチャンは東京から我輩の祖母を頼って九州にやってきた。夫に先立たれ、子供もいなかったことから、ここだけが頼りだったと言える。 オバチャンは金には不自由していなかったため、自分のために二部屋増築し、そこで暮らし始めた。今で言う二世帯住宅のようなもので、玄関もあったのだが、母屋へはドアを開ければすぐに出入り出来る。 ちなみに我輩の部屋は、その間にある階段を上って2階にあった。 祖母、通称「バーチャン」は典型的な九州人で、歳のわりにかなり元気だ。外見からは曾孫がいるようには見えない。少なくとも、町内で一番元気で声がデカイのは間違いないだろう。そして、過剰なほど面倒見がいいので、これ以上に頼れる存在は無いと言える。 しかし、そんなバーチャンとは対称的に、オバチャンはだんだん歳を取ってくる。そしてここ最近はボケの症状も出てきたようで、とうとう病院に入院することになった。 見舞人の顔も分からない様子だという。 我輩が去年の夏に実家へ帰省した時、オバチャンの部屋には誰もいなかった。入院していると分かっていたのだが、いつもであれば「東京は暑いでしょ」などと笑顔で出迎えてくれた。それが無いのが不思議な気持ちだった。 その時我輩は、なぜか写真を撮りたい衝動に駆られた。何の変哲も無い扉と階段。そこを魚眼レンズで撮りたくなった。 だが室内はかなり暗く、ストロボでも180度の画角をカバーできない。しかし、なぜか強引に撮りたくなったので、失敗することも構わずシャッターを押した。 それからしばらくした11月、我輩は電話でオバチャンの死を聞かされた。 「ボケてたから、あんまり長く生きてもねぇ。」とバーチャンは笑っていたが、それでもやはり、実際に死んだ時はショックだったという。 ここ最近では親戚に死人は無く、特に我輩に至っては、今まで顔見知りの者があの世に逝ったということは無かった。そういう意味でのショックは確かにあった。 今でも目をつぶると、オバチャンの顔が浮かび、声が聞こえてくる。電話で聞かされてショックは感じても、本当のことだという実感が湧かない。 特別な情も無く、また関東から850キロ離れた九州のことゆえ、我輩は通夜や葬式には出席していない。そのため、一層オバチャンの死がフィクションのごとく思えてならない。 その後、21世紀も無事に迎え、早くも4月になろうとしていた土曜日、1本の電話があった。 バーチャンからだった。 「オバチャンが霊になって会いに来たよ!」 我輩は耳を疑った。死人が出たことも初めてなのに、その上幽霊だと?! 3月21日の夜9時、バーチャンはテレビを観ていた。楽しみにしていたテレビだったらしい。恐らく、いつものように大笑いしながらテレビを観ていたに違いない。 そのうち、背後で「カチャカチャ」という音が聞こえてきた。バーチャンの背後には扉があり、その向こうにはオバチャンが住んでいた部屋へ繋がるドアもある。今はその扉から向こうには誰もいないはずだった。 バーチャンは用心深いタチでもあるので、家中の扉には鍵が取り付けてある。オバチャンの死後、北九州小倉から特別に呼び寄せた鍵職人によって、極めて頑丈な鍵を付けてもらったらしい。 その時も、バーチャンの背後の扉には鍵が掛かっていた。 バーチャンは、テレビに夢中だったため、「せからしいわ(ウルサイな)」とは思ったものの、そのまま放っておいたと言う。 その物音は、およそ1分くらい続いたあと消えた・・・。 翌3月22日、やはり9時頃テレビを観ていると、昨日と同じようにドアノブをカチャカチャする音が聞こえてきた。 2度目だったので、バーチャンはさすがに振り向く気になった。 見るとドアノブは動いていない。音も止んだ。 ふと、ドアに取り付けてある模様ガラスに光が浮かんだ。 そのガラスの向こうは誰もいないはずであり、当然真っ暗になっている。しかしその時、ライトが当たっているかのように何かが照らされていた。見ると、それは亡くなったオバチャンの白い顔だった。 模様ガラスの向こうであっても目鼻がハッキリ判るほどで、もし誰か一緒にいたならば、その人にもハッキリ見えたに違いないと話す。 我輩は、そこまで話を聞いて鳥肌が立ってしまった。 バーチャンはあっけらかんと話すのだが、内容そのものが異質で、話し方がどうあろうとも関係なく伝わってくるものがあったのだ。 それにしても、人間の記憶は曖昧であり、自分の実家ながら扉にガラスがハマっていることさえ覚えていなかった。 「そうだ、写真があったじゃないか。」 その時初めて、夏の帰省時に撮った写真を思い出した。 現場の写真(魚眼レンズのため歪みアリ)。霊が立っていた側から見ている。画面右側が問題の扉で、矢印で示すのが顔が写った模様ガラス。この写真では、向こう側に開いている状態。 <<画像ファイルあり>> 写真を見ると、バーチャンの話がより一層具体的に思えてくるのが不思議である。 よく、雑誌などで読む心霊体験では挿し絵が描かれており、何となくマンガ的な薄皮に隔てられているような印象があった。 しかし、このように写真であらためて見ると、その薄皮を突き破って見ているような、そんな気にさせられるのだ。例え、それが今回のような失敗写真であったとしても、写真のリアリティに勝るものは無い。 それにしても、この写真を撮ったのは単なる偶然だったのだろうか。いまだに納得が行かない・・・。 バーチャンは言う。 「オバチャン、世話になったからってバーチャンに挨拶に来よったんじゃろうねー! そう言えば21日はオバチャンの命日、3月21日はオバチャンの誕生日やったわ。でも、その日は知らん顔してたから、次の日もやって来たんやろう。姉妹やから、全然恐くなかったっちゃね。」 「で?オバチャン、そのうち消えていったのか?」 「知らん。テレビが気になって見て、振り返ったらもうおらんかった。」 「幽霊よりテレビか・・・。」 我輩は苦笑した。 それにしても、顔見知りが亡くなったというのも初めてならば、顔見知りが幽霊になって現れたという話も初めてであり、我輩の鳥肌はしばらく続いた・・・。 その時の状況を画像合成で再現してみるとこのようになる。なお、実際の顔は当然ながら老婆である。 <<画像ファイルあり>> ----- 後日談(2001年4月12日記)----- あれから数日後、バーチャンから電話があった。 今年は帰省するのか訊かれた。 盆休みにはまだ早いのにもうそんな話かと思ったが、どうもそういうことではないらしい。 実は、まだ霊現象が続いているとのことだった。 あの事件のあと、バーチャンはテレビを見るのを邪魔されたくないとのことで、ドアのガラス窓に布を掛けて見えなくしたという。 「音は消えた?」 「うん、ガチャガチャさせる音はせんごとなったねぇ(しなくなったねぇ)。けど、寝る時にラップ音がしだして、せからしいんよ(うるさいんよ)。」 バーチャンはテレビマニア。 みのもんた司会の「おもいっきりテレビ」での心霊コーナー「あなたの知らない世界」が大好きであり、「ラップ音」などという心霊用語なども当たり前のように使う。 (ラップ音とは、霊が現れる時に「ピシッ!」と生木が裂けるような音がする現象のこと) 「それ、ドアの方から音がした?」 「いんや(いや)、天井のほうから。あんまりせからしいけん(あまりにうるさいから)、おらびよったら(叫んだら)静かになったわ。ハハハ!」 「静かになった?なんちゆっておらんだ?(なんて言って叫んだ?)」 「生きちょる時も世話掛けて、なんで死んだあとも世話掛けるんね!っちおらんだわ。」 「そ・・・、それで静かになった?」 「ジーサン、ソレ見て笑いよったけど、それっきり音はせんごとなった(音はしなくなった)。」 しかし、その現象は次の日も続き、バーチャンはそのたびに一喝して寝るのだという。 「霊には甘い態度とったらいけん(いけない)。」バーチャンはキッパリと言う。 しかし、我輩が帰省した時に気味が悪かろうということで、今年は帰らないほうが良いのではないかという話だった。 そうか・・・残念。今年こそ古いカタログを発掘したかったのだが・・・。 ---------------------------------------------------- [250] 2001年04月03日(火) 「目的」 「写真を撮る」という行為は、冷静に考えると、小さく薄いフィルムに映像を焼き付けるだけのこと。全く小さなことだ。 しかし、たったそれだけのために人は様々な努力をする。 映画を初めて観たのはいつのことだったろう。そんな昔のことは覚えていない。だが、1本の映画を撮影するのに、数億円もの金を掛けていると聞かされた時の衝撃は忘れない。 絵が写っているフィルム。たったそれだけのものを得るために、莫大なエネルギーが注ぎ込まれているのだということは、我輩にとっては理解を越えた話だった。 しかし今なら、その努力の価値が解る。 フィルム上に小さな映像を焼き込むだけのことのために、高価な機材を揃え、難解な知識と多くの失敗を重ね、寒さや暑さを耐え、貴重な時間を使い尽くす。これら全ての努力は、たった1つの目的「写真を撮る」ということに支えられている。 戦場でシャッターを切るカメラマンは、カメラを構えると恐怖が消えるという話を聞く。 兵士でもないカメラマンが、なぜに安全な地からわざわざ命を危険に晒すのか・・・。そのことだけを考えると、普通では理解できない話かも知れぬ。 だが、写真を撮るという目的は、それを本人すら自覚しないほどに大きな力を与えるのだ。 我輩は、写真に限らず趣味というものは「目的」だと解釈する。 人間は皆、生きている目的をそれぞれに探している。 自分の一生を捧げうる目的を見た者もいれば、まだ何を目的とすべきかを迷っている者もいるだろう。自分の生きる目的は、すなわちエネルギーの源(みなもと)。目的を持って初めて、人は強くなれる。 その中で趣味は、人に小さな目的を与えてくれる。 しかし、どんなに小さな目的であっても、それは頼もしい杖となろう。途(みち)に迷った時、杖は方向を指し示し、心や身体が消耗した時には、杖は丈夫な支えとなるのだ。 世の中、損得で物事を考えることが多いが、そんなことが結局何の目的を持っているかと問われれば、返す言葉も無い。 金、地位、名誉。 それらは、確かに暮らしを楽にするだろう。しかしそれらが人の心を強くするかは別の問題だ。生きることに目的を持つための道具ではあっても、それ自身が決して目的とはなり得ないのである。 写真が力を与えるということに実感が湧かなければ、過去を想い出すが良い。 カメラを持っていなければ行くことはなかったであろう場所、やらなかった努力・・・。それらは全て、1つの目的「写真を撮る」ということのために行われたことだ。 趣味は、すなわち目的。 趣味を持てば、人は強くなる。 その中でも「写真」は、いろいろなことに興味を持てる、良い趣味だ。 写真という小さな目的を追いながら、人生の大きな目的を考えてみる。たまにはそういうのも良いかも知れないな。 ---------------------------------------------------- ダイヤル式カメラを使いなサイ! http://cam2.sakura.ne.jp/