「カメラ雑文」一気読みテキストファイル[151]〜[200] テキスト形式のファイルのため、ブラウザで表示させると 改行されず、画像も表示されない。いったん自分のローカ ルディスクに保存(対象をファイルに保存)した後、あら ためて使い慣れているテキストエディタで開くとよい。 ちなみに、ウィンドウズ添付のメモ帳ごときでは、ファイ ルが大きすぎて開けないだろう。 ---------------------------------------------------- [151] 「冒険野郎マクガイバー」 [152] 「7年目」 [153] 「風を切るオイちゃん」 [154] 「女は好きか?」 [155] 「Nikon F4」 [156] 「デジタルカメラは不良品」 [157] 「35mmカメラのニッチ」 [158] 「闘うための道具」 [159] 「撮れない写真」 [160] 「未来人としての視点」 [161] 「記念撮影の暗黙の了解」 [162] 「映像と文字」 [163] 「要するに、使い方の問題」 [164] 「関心があるから書く〜デジタルカメラ」 [165] 「人類の存在する意味」 [166] 「ラインナップ」 [167] 「我輩の子供時代の風景」 [168] 「雑記」 [169] 「感覚」 [170] 「町の写真屋はキライだね」 [171] 「F3のサブカメラ」 [172] 「印象付けられたビジョン」 [173] 「声掛けモードラ」 [174] 「ついに分解AE-1P」 [175] 「自由の象徴」 [176] 「ナマナマしい」 [177] 「練習」 [178] 「auto110」 [179] 「煮詰まった時の雑念」 [180] 「我輩のストロボ事情」 [181] 「我輩の場合」 [182] 「自作DOS/V機のすすめ」 [183] 「ヘナチョコ」 [184] 「名前」 [185] 「本当の色が判らない」 [186] 「マシン隼」 [187] 「ボーナスの季節の雑念」 [188] 「冬の匂いに想い出す」 [189] 「写真を観る時には」 [190] 「貧乏脱出大作戦」 [191] 「無常なり」 [192] 「貧乏脱出大作戦2」 [193] 「カメラの基本原理」 [194] 「誘導」 [195] 「プリインストール」 [196] 「好性能」 [197] 「開運なんでも鑑定団」 [198] 「警戒範囲」 [199] 「だから、何?」 [200] 「感動の素」 ---------------------------------------------------- [151] 2000年 9月29日(金) 「冒険野郎マクガイバー」 「冒険野郎マクガイバー」という洋物番組がある。昔は深夜放送でやってたが今はCS番組でやってたりする。 簡単に言うと、この主人公マクガイバーは、悪い奴らをこらしめるために素手で立ち向かうナイスガイだ。 彼は、相手がどんなに悪い奴らだとしても、正当防衛であったとしても、絶対に殺したりはしない。そして、マクガイバーの偉大なところは、「不可能を可能に変える」というところである。いくら素手で立ち向かうとは言っても、もちろん何も使わないわけではない。マクガイバーは、その場で手に入るものを利用して、何でも作って事件を解決してしまう。 ある時は、大型送風機とカーテンを使ってパラグライダーを作ったり、またある時は、化学肥料や鉄サビを使って爆薬を作ったり、またまたある時は、チョコレートの化学反応を利用して硫酸の漏れ出るタンクのヒビを塞いだり。 ちょっとまあ、出来すぎた感のあるストーリーかも知れないが、マクガイバーのキャラクターで上手くまとめているところがいい。そして毎回観ていると、どんなに絶体絶命でも、マクガイバーならばなんとか切り抜けると思わせるのだ。さすがは冒険野郎と言うだけのことはある。 マクガイバーが利用する材料は、そこら辺にある、何でもないものばかりだ。そう考えると、不可能というものは絶対的なものではなく、本当は相対的なものなのかも知れない。「他のヤツには出来ないがマクガイバーならやれる」。つまり、方法が分からないだけだと。 この番組は我輩のお気に入りなのだが、よく考えると我輩の中学時代の体験にタブる。 もっとも、我輩が手近なものを材料にして工夫するというのは、単に金が無かったり、恐い物知らずということが主な動機である。しかし、本来の目的でない使い方をするというのは、想像力を刺激して気分が高ぶる。 家には「コニカC35EF」というカメラがあった。別名「ピッカリコニカ」というヤツ。 ある時、夜空に向けシャッターを開きっぱなしにすると、星の日周運動が写ると知り、さっそく実行に移した。 祖父のキヤノネットは別のフィルムが入っていたので使えず、ピッカリコニカを使わざるを得なかったのだが、これは「バルブ」撮影が出来ない。しかし、ウラブタを開けると、レンズシャッターがムキ出しになっているのが見える。そこで、そのシャッターを指で押し開き、セロハンテープで固定した。まるで、まばたきできないようにまぶたをセロハンテープで留めているような感じだ。 実際の撮影では、レンズキャップを外して露光を行った。フィルム送りは問題ない。シャッターボタンを押してもカチッと音はするがシャッターは動かないのだ。普通ならば「壊れるかも知れないな」などと思うのだろうが、そんなことは壊れてから心配すればいい。その時の我輩は「今、星夜写真を撮る」ということに集中していたのだ。 またある時など、5円玉を画面いっぱいに大きく写そうとしたが、接写リングなど持っていないので、やむなくカメラとレンズを外して、光軸がズレないように手に持ったレンズを調節しながら写真を撮ったりした。名付けて「手写リング」。レンズを持った手で光を遮るのがコツだった。 思い出せば、まだまだ貧乏くさいテクニックはあったと思うが、あの頃はとにかく、「手持ちの限られた機材でどうやって撮るか」ということばかりを考えていた。なんとか工夫すれば必ず出来るハズだと思っていた。その気持ちがマクガイバーとダブる。 今なら接写リングをポンと買ってしまうところだが、金で解決するのは想像力の刺激を少なくしていることが多い。 あの頃は、恵まれていなかったが・・・、楽しかったなあ。 ---------------------------------------------------- [152] 2000年10月02日(月) 「7年目」 あれは7年前だった。 目黒の「三宝カメラ」でニコンF3の中古を衝動買いした瞬間、我輩のAF熱がチュンと音を立てて冷めた。 カタログ上のスペックでは、F3は最新AF機には全く歯が立たない。当時の我輩の主力機キヤノンEOS630を使っている限り、F3は必要ではないと感じていた。以前からもF3は欲しかったが、もはや実用的とは思えなかった。 その観点から言えば、7年前の中古F3の衝動買いは、完全なる無駄買いとなるはずだった。 しかし、それは小さな起爆剤であったのだ。 間もなく、新品でF3を購入すべきだと悟ることになる。 ただし、当時でさえ過去のカメラとも言えるF3はいつ消えてもおかしくない。手に入るうちにストックすべきだと思った。 高価なカメラとその膨大なシステム。生産完了がアナウンスされてから行動しても遅い。 給料が出るたび、ボーナスが支給されるたび、コツコツと少しずつストックしていった。時にはローンや借金もした。「いつ消えるか分からない」という強迫観念がそうさせた。 途中、パソコン関連の設備投資で、かなり足踏み状態が続いたが、先日届いたファインダーで目出度く完了することになった。7年目の一区切りである。 正直な気持ち、もうニコンが倒産しても大丈夫だという感じだ。 計画としては、ニコンF3関連のストックが終われば、次はペンタックスLXのはずだったが、ペンタックスはMFレンズを中心にシステムが破綻しているため、ストックというほど買うモノが無い。 先週土曜日、ストックしたアクセサリー類を撮影し、災害時にも素早く持ち出せるよう幾つかのまとまりに分けて梱包した。 我輩のF3システム 長い努力の成果であるから、誰かに見せたい気持ちは・・・分かるだろう? ※ そうそう、書くのを忘れていたが、実際に使っているF3のシステムは別に一財産ある。 ---------------------------------------------------- [153] 2000年10月03日(火) 「風を切るオイちゃん」 今回は、直接カメラに関係無い話かも知れないが、男の趣味として通じるものがある気がするので敢えて書いた。 そこから何を感じ取るのかは、個々人で異なるだろうと思う。 営団地下鉄町屋駅近くに、一軒の古びた青果物店がある。いかにも下町の店という感じで、店の床は土っぽい。 そこはオイちゃんとオバちゃんが2人でやっている。 よく見ると、店の奥のほうにボロ布や毛布に包まれた「何か」がある。ときにはミカン箱が上に乗っていたりする。 あまり清潔っぽいイメージがしない店内(実際には清潔なのだろうが)にあっては、その存在は周囲に溶け込んでいてあまり目立たない。事実、我輩もその存在を知ったのは、つい最近のことである。 ある日の事だった。我輩はその青果物店の前を通りかかると、「ドゥルルルン!」と爆音が轟いた。見ると、店内に大きなバイクの後ろ姿があり、オイちゃんがその横に立ってエンジンをフカしているのだ。 ボロ布や毛布に包まれていたのは、このバイクだった。店の雰囲気とは正反対に、そのボディは渋い光沢を放っている。 我輩はバイクに詳しくないのだが、あれは多分、「ハーレー・ダビッドソン」ではないかと思う。 オイちゃんは、仕事の合間に時々エンジンをかけて楽しんでいるのだろうか。 常に出し入れしやすい場所にはないため、恐らく外で乗ることは無いのだろう。大型バイクの免許すら持っているか怪しいもの。 乗るわけでもないバイクに金を使って、さぞかしオバちゃんは理解に苦しんだろう。配達にも使えるように、「ホンダ・カブ」でも買ったらどうかと説得されたかも知れない。 しかし、オイちゃんは「いつか免許を取ってやる、コイツがあれば必ず取れる」と言った。そして、男のロマンを語って聞かせた。そうでなければ、こんなところにこんなバイクが在ろうか。 それにしても大したもんだ。 「オイちゃん、やるなぁ。」 我輩は店の前を通り過ぎながら、オイちゃんのバイクのスロットルを握る後ろ姿を見ていた。 死ぬ前に1度コイツに乗ってやるんだ、それまでの動作確認なんだ、と思っているオイちゃん。 その心は、バイクに乗って風を切っていた。 ---------------------------------------------------- [154] 2000年10月05日(木) 「女は好きか?」 「女は好きか?」 こう聞かれて人それぞれの答が返ってくるだろうと思う。 「もちろん」 と即答する者もいれば、 「女と言っても、いろいろいるじゃないか」 と言う者もいるだろう。 「妻のことならば、もちろん愛している」 と言う愛妻家もいたりする。 「私は女だからそういう質問は・・・」 という者もいるかも知れない。 それはそうだ。一言に「女」とは言っても、それに対する色々な見方や立場がある。当然な反応であろう。 しかし写真の話となると、女を写した写真は「ポートレート」という中の一括りとして捉えてしまうことがある。そうなると、自分の表現したいことがボヤけてしまい、「ただ写っただけの写真」になりやすい。そういう写真は、我輩の手元に多くある。 なぜ、女を写すのか。その女を前にし、何が我輩にシャッターを押させるのか。 その「動機」が、表現しようとすることへのヒントになりそうな気がした。 ここでは我輩なりに勝手なカテゴリを作ってみた。 <カテゴリ1> まず、男の視線としては「モデルが自分好みかどうか」ということが関心事の1つだろうと思う。それは撮影テクニック以前の話として、モデルそのものへの関心のことだ。 例えばアイドル写真集などはその典型のように思える。宮沢りえがヌードになっただけで話題になった写真集があるのだから、もはや写真的な見方はしない方がいいし、撮る方もそのつもりでなくてはならないだろう。ヘタにテクニックに凝って、見たい部分が写っていなければ、観るほうはイライラする。美しい「写真」が見たいのではなく、美しい「女」が見たいからだ。逆に、いくら撮影テクニックが絶妙でも、好きでもないアイドルの写真集へはなかなか手が伸びない。 この手の写真は、好みの問題以前に、観る側が男か女かによっても写真に対する評価がかなり変わる。少なくとも観る側が女なら、興味の対象、あるいは性欲の対象としては見ず、憧れの対象などとして見る場合が多いように思う。 このような写真を撮ろうとするならば、あくまでモデル主体の写真として撮らねばならない。目立つようなテクニックを使い、観る者にそれが写真であることを意識させるようなことはしないほうがいい。主役の料理をさしおいて調味料が出しゃばるようになってはマズイ。写真テクニックは、あくまでも主役である女性の魅力を引き立たせるために使うのだ。 「汝、女を愛せよ。」 <カテゴリ2> 次に、写真的な美しさを求める場合を考えると、基本的にモデルは誰でもいいことになる。ただし女を撮る以上、平均的に美しい女のほうが画(え)になりやすい。誰もが認めるような、クセのない無色無臭のモデルのほうが、写真的な意図を伝えるのが容易になる。 ファッション雑誌の写真がその典型と言える。主役は衣服であってモデルではない。モデルの役割は着こなすことにあり、その写真を観る者に自分の姿とのイメージを重ね合わせる対象となる。「このように着こなすこともできますよ」という、文字通りモデルケースとしての役割である。 モデル撮影会では、撮影テクニックを主体とするほうがやりやすい。モデルは自分の頭に描くイメージに近ければ誰でも良い。 逆に言うと、よほど特定のモデルに入れ込んでいる「追っかけ」でない限り、他に撮りようが無い。お気に入りのモデルがキャンセルになっても他のモデルにレンズを向けられるのが、撮影会的な撮りかたである。 「汝、写真を愛せよ。」 <カテゴリ3> 最後に、モデルとの関係を写そうとするもの。 これは、笑顔や仕草、そして撮影者の存在が感じられるような写真が効果的となる。 例えばカメラ目線であったり、画面に撮影者の影が入り込んだり、あるいは広角レンズで肉迫して臨場感を出したりする。それによって2人の距離(物理的な距離という意味ではない)が掴みやすくなる。 どんな関係を表現したいかによってその方法は異なるだろうが、基本的にはモデルのルックスは関係ない。夫婦や恋人という関係が一目で判るような写真が大事だ。その関係が良かろうが悪かろうが、2人の関係を感じる写真が、観る者の関心を引くのである。シチュエーションが何より重要というわけだ。 よく写真のアドバイスで、「雇われモデルよりも身近な妻(恋人)を撮りなさい」と言われるのも、このような「関係」を写しなさいということだと思われる。 しかし、妻(恋人)であっても、その女性的魅力を重点に置きたいのならば、その場合は<カテゴリ1>の写真になろうか。 「汝、妻を愛せよ。」 以上、我輩の勝手な判断により、3つのカテゴリに分類してみた(他にあるかも知れぬ)。 恐らくは、このような区分けを意識しないで撮ると、写真を観る立場としては価値のよりどころが分からず混乱してしまう。 「いい女」と見るのか、「いい写真」と見るのか、あるいは「いい関係」と見るのか。撮るほうが分からなくては、観るほうも分からない。 意図しない目で観られるのを嫌うならば、撮影の時点でハッキリさせたい。 例えばヌードを撮る際、照れ隠しに撮影テクニックのほうへ視線を逸らそうとするならば、ヌードはやめておいたほうがいい。裸体を物体としてクールに見ることができるか、またはその反対に人間の探求という立場で、裸体への視線を通してそれをストレートに表現するのか、それを事前に整理しておかねば、後々迷いとなって自分を翻弄することになろう。 もし興味本位で女を撮るならば、徹底的にその興味というものを写真活動によって探求すべきだと考える。カッコつけて自分を誤魔化しても意味は無かろう。 「汝、女を愛せよ」 <<画像ファイルあり>> ZENZA BRONICA SQ-Ai/PS65mm/Ektachrome100 顔が写っていなくても、ポーズや脚などの一部分にも「女」を見る。その「女」を表現することがこの写真の撮影意図。ハッキリ言ってこの脚を写すためのセッティングであり、この脚を写すためのライティングである。それ以上の意図は無いのであるから、それ以上の評価も意味無し。 ---------------------------------------------------- [155] 2000年10月06日(金) 「Nikon F4」 我輩がニコンF4が嫌いな理由はいくつもある。 まず、デザイン。 丸みを帯びたと言われるそのボディ、どうみても「角が取れている」ようには見えず、「膨らんでハミ出している」ように見えてしまう。 次に、その大きさ。 我輩は基本的に、レンズマウント下部が底面に近くなければカメラとして認めたくない。以前使っていたキヤノンEOS630はマウント下部よりもさらに厚底であり、そこが唯一気に入らなかった。F4も同じである。 そして質感。 刻印ではなく印刷で手を抜いた各部材の表示、プラスチック外装のテカリ、滑り易いグリップ。 遅いAF。 AF速度に寛大な我輩でも、このクラスのカメラへの期待は大きく、その分遅く感じることになる。 さて、今回なぜこのようにF4のことを書いたのかというと、最近F4が気になって仕方がないのである。どう考えても嫌いなカメラであるし、必要でもない。しかし気が付くとオークションで「Nikon F4」などと検索してたりする。 いろいろ考えてみると、どうも、F4のシャッターダイヤルが気になるらしい。ワインダー内蔵のAFカメラで、ダイヤルを備えているカメラはかなり少ない。そういえば、同じくダイヤル式の「F−401」や「F−501」を検索していたことを思い出した。 やはり、我輩はダイヤル式でなくては絶対にダメな人間なのだ。 その中にあって、F4は素晴らしく見える。F−401やF−501がF4の引き立て役というわけか。 そんなわけで、今、当サイトで紹介しているF4の写真を見て検討している。まさか自分の購入に役立つとはおもわなかったぞ、このカメラカタログのコーナー。 いやいや、まだ買うとは決まったわけじゃない。これ以上書くと、自己暗示に掛かってしまいそうだ。 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まず電源が必要な箇所を挙げていくと、「液晶モニタ」、「メモリの読み書き」、「CCD」、「ズーム、焦点調節」、「ストロボ発光」というところか。 まず、液晶モニタは必ず必要かと言えばそうでもない。確かに、あれば便利には違いない。撮影後の映像をその場で確認できるのは、デジタルカメラならではの特長の1つだ。しかし冷静に考えてみると、最も基本的な機能である「撮影」という動作で必要不可欠と言えるほど重要ではない。液晶モニタが無くとも撮影自体には関係無いのだ。少なくとも、従来の銀塩カメラと同じくらいの使いにくさに戻るというだけの話である。 しかしながら、こんな液晶モニタが一番電気を食うのも事実。 次に、メモリの読み書きについては、最近は小電力化されたとは言うものの、メモリIDの照合やエラーチェックなどを頻繁にやって電気を浪費し、固体記憶としての利点を生かし切れていない。しかし、メモリ周りはデジタルカメラの心臓部であるため、ここでは見逃す。 CCDについては、シャッターを切るまで寝かせておけばよいだけの話。 ズームや焦点調節については、手動で行える機種は現状では皆無である。業務用の高価なデジタルカメラは別として、基本的にコンパクトカメラのコンセプトを引き継いでいるのであるから当然なのかも知れない。 しかし、本質的なことを言わせてもらうと、ズームや焦点調節が手動であっても、写真の仕上がりに差はない。焦点調節ならまだ仕方無いとしても、ズームは電動であることのメリットが見つからない。ズームリングを操作するよりも電動ズームレバーを操作するほうがはるかに便利だとは思えない。微妙かつスピーディーな操作を比べるならば、手動のほうに軍配が上がる。 最後にストロボについてだが、これもかなり電気を食う。しかし、これは単なる照明であって、やはり写真を撮るという基本的な動作とは関連が無い。「内蔵されていれば便利」というだけのこと。 以上、電源を必要とする箇所を挙げたが、問題は、パワーソースが共通であるということに尽きる。その限られた資源を様々な機能が「早い者勝ち」とばかりに食い合うのである。撮影の本質とは関係無い機能であっても、電池食いならばどんどん電気を浪費する。その分、電力資源は枯渇してゆく。 通常、外付けストロボのバッテリーがあがったとしても撮影には関係が無い。しかし、内蔵ストロボが使えなくなった時、それはカメラ全体の機能停止を意味する。理不尽極まる現象だ。 例えるならば、水不足で飲み水にも事欠く時に、湯をたっぷり張った風呂に入って残りの水を使い切ってしまうようなものだ。飲み水を確保して命を繋げるということと、風呂に入るということについて、優先順位が同じであるはずが無い。しかし、デジタルカメラはそれを平気でやってのける。我輩には理解できない考え方だ。こんなカメラを作るメーカーは、企業そのものの危機管理すら出来てないんじゃないのか? もし、デジタルカメラを満足に使える製品にしようとするならば、カメラの基本部分を出来るだけシンプルに構成することだ。そうすれば、付加機能としての液晶表示部が電池を消耗しようとも、本体としての肝心な撮影機能は維持できる。機能が限定されるということはあっても撮影が不可能になるという事態は防ぐことができるわけだ。 優先順位の低い「液晶モニタ」、「電動ズーム」、「AF」、「ストロボ」については、専用の大電流バッテリーを用意する。それは比較的早く枯渇するのであるが、別電源の基本撮影機能はそこから更に数日間の連続使用に耐えるだろう。 もちろん、コンパクトカメラ的な手動操作不可能なデジタルカメラもあっても良いだろうが、それだけしかない現状のラインナップにはどうにも納得がいかない。 デジタルカメラは、バッテリーの問題を解決したあとに、やっと銀塩カメラと並ぶことになる。今はまだ、それすら達成出来ていない。 デジタルカメラが不良品でなくなるのは、一体いつのことやら・・・。 [2000.10.21追記] 調べてみると、「フジ・ファインピクスS1プロ」という一眼レフタイプのデジタルカメラは、内蔵ストロボと本体の電源を別立てにしているらしい。やはり、それが理にかなった配電だよな。 ---------------------------------------------------- [157] 2000年10月10日(火) 「35mmカメラのニッチ」 「ニッチ」と言う言葉は、生物学などによく登場する。元々、「niche=ふさわしい場所」と訳されるが、要するに「自分の居場所」ということである。 生物は自然界でシステムを構成し、そのシステムが動くことによって自然が不自然にならずにいられる(我々は、自然とは形のあるものではなく仕組みそのものであることを忘れがちである)。 生物界では、多様な生物が環境に存在し、それぞれの存在がバランスをとっている。もしそこに別の種が入り込もうとするならば、システムの環に入る必要がある。システムに入れない種はいずれ消えてゆく。 もしシステムの中に入ることが出来たとすれば、それは独自の役割を担い、システムにとって無くてはならない存在となったということに他ならない。これこそが自分の居場所、「ニッチ」である。 さて、カメラの話に入るが、我輩は元々、カメラ機材についてはあまりこだわらないほうだ。写真が撮れれば何でもいい。 そのため、最初はキヤノンFD系、次にニコン、そしてミノルタα系、さらにキヤノンEOS系へと、その都度その都度、自分の要求スペックに合致したカメラをメーカーにとらわれることなく選択してきた。 カメラの使い方も荒く、更には、隠しスイッチをカバーした邪魔なフタもペンチで引きちぎったり、カスタムファンクションの覚えにくい番号をボディに刻みつけたり、縦位置シャッターボタンを新設すべくハンダコテで溶接したり(月刊CAPAの読スペで掲載された)、水が浸入しないよう継ぎ目をボンドで目張りしたりと、ムチャな改造をやったものだった。 そこにはカメラへの愛情など微塵もなく、ただ「中古として売る際の修復が面倒だな」という程度の認識しか無かった。 あの頃は、カメラはリースで使っているという感覚だったかも知れない。新製品が次々に出ている時期だったから、それも仕方ないのだが。 35mmカメラから6×6判カメラ(中判)へ移行する際も、単なる画質アップを狙ったもので、特に35mmに対する未練も無かった。それ故、一時期は35mmカメラシステムは完璧にゼロの状態になったものだった。あたかも、ミノルタαからキヤノンEOSへ鞍替えした時のように、要求性能を満たさない旧いシステムはガラクタという認識でしかない。フィルムフォーマットの違いは、単なる機種の違いとしか感じなかったわけである。 世間的には、35mmカメラと中判カメラではその役割も違い、棲み分けが出来ている。それは承知しているが、我輩の撮影範囲に限って言えば、35mmカメラで撮れた写真は6×6判でも十分に撮れるものであり、中判によるデメリットはMFだということだけ。 ちなみに、使用した中判の機種も様々だった。 最初はブローニーフィルムの運用に問題が無いかどうか、つまり、「(1)フィルムの入手」、「(2)現像の日数・料金」、「(3)鑑賞方法」などの一連の流れを知るために購入した「LOMO・ルビテル二眼レフ」から始まった。 次に「ビューティーフレックス」というかなり旧い二眼レフ。 そして安価な一眼レフとして「ゼンザブロニカSQ」、さらにメインとして「ゼンザブロニカSQ−Ai」。 更に、距離系連動式で沈胴レンズの「ニュー・マミヤ6」。 また、機械制御の「コーワ6」。 写真が撮れれば、機種など関係ない。 そんな、写真結果主義だった我輩だったが、たった1つ引っかかっていたものがあった。それは、保存版「ニコンF3HP」の存在だった。 前にも書いたが、製品としての素晴らしさに感動し、もうすぐ生産中止となるであろうそのカメラを今後に残すべく購入したもの、それが存版F3だった(実際の生産中止はそれから7年後)。 保存版F3は、他の35mmカメラを全て売り払っても手元に残してあった。ローンで買ったということも、手放さなかった理由の一つだが、やはりこのカメラの新品は手放すには惜しい。ここで手放せば、もう二度と手に入れるチャンスは無いと思っていた(こんな旧式カメラなど明日にでも生産中止になると思っていたからな)。 そして、そこから徐々に35mmカメラに対する愛が育まれていった。しかしどうしても、使わないカメラというのは気になる。将来使うというのが分かっていればいいが、金輪際使わないというのであれば、いくら貴重なカメラであっても、残しておく意味など無い。少なくとも我輩がやることではない。 そこで、35mmカメラを我輩の第一線に戻す必要が生じてきた。そういうわけで、とりあえず中古で35mmカメラを購入した。中古で購入したF3やペンタックスKXなどはこの頃導入した戦力である。 最初はかなり戸惑った。35mmカメラと中判カメラとの棲み分けがなかなかうまく行かず、再び35mmを処分しようかと思ったことさえあった。 しかし、パソコンの導入がその状況を変えた。パソコンに取り込む写真というのは、35mmサイズが理想的である。逆に言えば、最初からパソコンで取り込むというのが分かっていれば、35mmで撮る以外に無い。 もちろんブローニーフィルムでもスキャン出来ないことはない。しかし、我輩所有のフィルムスキャナは35mmフィルム専用だった。フラットベッドスキャナに透過原稿用ユニットを付けてみたが、反射原稿を前提とした家庭用スキャナ(EPSON GT-9600)ごときでは、フィルム専用のスキャナの画質には足下にも及ばない。そもそも、フィルムスキャナとフラットベッドスキャナではCCDの読取り密度が違う。 フォトCDにするにしても、ブローニーサイズは何かと不都合である。35mmならば多数派のメリットが享受できる。 またデジタルカメラにしても、「レンズ交換できない」、「撮影をバックアップするアクセサリが無い」、「トータルコストが掛かりすぎる」、「バッテリーに問題がある」、「一眼レフタイプが少ない、または一眼レフであっても透過ファインダーでピントの確認が出来ない」などという致命的問題点がかなり多い。 現在、我輩の中では、35mmカメラは特別なニッチを獲得している。 デジタルカメラが貧弱な現在、その地位は当分は揺らぎそうには無い。 ---------------------------------------------------- [158] 2000年10月11日(水) 「闘うための道具」 戦艦大和は、日本人の心の中に今でもその勇姿をとどめている。しかしその想いは、「戦争に勝つ」ということとはまた別の気持ちであると感ずる。 太平洋戦争では日本はアメリカに負けた。戦艦大和がどのように活躍しようと、圧倒的な力(資源)を持つアメリカを相手に、どう戦局が有利になろうか。 しかし、最高の艦を造り上げた日本人にとって、例え戦争に負けようが大和がその本領を発揮して欲しかったと思うのは当然のことである。 実戦では、その最強の主砲は、対艦用の徹甲弾ではなく対空弾を撃つしかなかった。敵艦船を1発で撃滅可能な46センチ砲を、蚊を追い払うことにしか使えなかったことはさぞ無念であったろう。 当時の最高技術を注ぎ込んで作られた世界最大の戦艦「大和」。起工時から国家機密のベールに覆われ、敗戦後は関係資料の多くが処分隠滅された。そのようなナゾの多い戦艦ながら、いまだに多くの書籍が発売されていることを思うと、今更ながらに日本人の戦艦大和に対する想いを感じさせる。 史上最大の46センチ三連装主砲は、ガンワイヤと呼ばれる鋼線で何層にも巻かれ、高圧で締めて仕上げられる。このような構造は、330kgの火薬の爆発力に耐えられるようにするためであり、逆にそのような構造を知ることによって大和の強大な力を垣間見る。 甲鈑材料は、ドイツから導入した技術を更に改良し、製造効率向上と耐弾効果に優れたVH甲鈑やCNC甲鈑を生み出した。 また、革新技術を盛り込む一方で、機関は航続力のあるディーゼルではなく実績のある保守的な蒸気タービンを採用し、どんな時でも確実に動くことを第一とした。 また、大和は主舵の他に小さな副舵を持っていた。主舵が破壊された際の予備である。 これらの仕組みは、通常の船には必要ないものである。まさに、闘うためのメカニズムであると言えよう。それ故、それらメカニズムを生かせぬまま艦を沈めることになったのは、戦争の勝ち負け以前の哀しみである。 プロ用カメラの場合、チタンで外装を固めたり、普段は必要ない緊急作動シャッター(F3)や巻き戻しクランク(F4)、そして2重接点(EOS−1)を装備しているという点では、闘うための道具に近いと言える。 一般家庭向けのカメラを「商船」と例えるならば、プロ用カメラは「戦艦」だ。単に撮影するだけの道具ではなく、闘うための道具なのだ。 もちろんカメラの場合、明確な敵はいない。しかし、過酷な自然環境、争乱、劣化や各種トラブルなど、あらゆることを想定し、それに耐えるように設計されている。まさに「闘うための道具」だ。 実際にはそのような目に遭うことのほうが珍しいのかも知れないが、工夫を凝らしたメカニズムは、いつでも戦闘可能で頼もしい。 「闘うカメラ」。それは機能だけでは推し量れない。 闘い方で次第でその価値を左右する、特殊な存在である。 ---------------------------------------------------- [159] 2000年10月12日(木) 「撮れない写真」 秋葉原のハズレにあるメガネ屋の前を通りかかった。店頭には天体望遠鏡が並んでいる。どれも手が届く値段で驚いた。 我輩が中学生の頃、天体望遠鏡というのは非常に高価なイメージがあったが、社会人として見ると、無理すればなんとか買えそうな値段に思える。 中学時代、我輩はよく友人と天体観測をやっていた。 メンバーは大体決まっており、「クラッシャー・ジョウ」、「オカチン」、「強がり者K」であった。その中でも、オカチンの家の近所には、自分で反射鏡を研磨するほどの天体オヤジがいて、ニュートン式反射望遠鏡を借りることができた。 我輩も、貰い物だが6センチ屈折望遠鏡を持っており、自転車の荷台にくくりつけて集合した。 天体望遠鏡で見る星や惑星は魅惑的で、リアルタイムな感動があった。星からの光は何百何千年もかけて地球に届くわけであり、リアルタイムという言葉は適切ではないかも知れない。しかし、その星の放つ光が望遠鏡を通して我輩の目に直接像を結ぶことを考えると、ロマンを感じずにはいられなかった。 <<画像ファイルあり>> オカチンの自宅裏で観測の予行演習しているところ。写真の少年はオカチン。向こうの黒っぽい望遠鏡は天文オヤジの手製。手前のはオカチン所有のビクセン製望遠鏡。 <<画像ファイルあり>> 中学校の校庭で月面観測を行っているところ。オカチンが月面マップを地面に広げている。背景には我輩の望遠鏡が見える。 初めて土星を見た時は、やはり感動した。あの有名な土星の輪が、本当に肉眼で見れるとは思わなかった。その光景を写真に残しておきたいと思ったのは当然のことだろう。目の前の土星は、放っておくとだんだん視野から外れていく。もっと時間が経てば、夜が明け、明るい光の中に土星は霞んでゆく。天体写真の撮影は必然的な行為だった。 当時、キヤノンAE−1を中古で手に入れたばかりだった。望遠鏡に接続しようと思ったが、カメラマウント(カメラ本体とカメラアダプタを介するための各社用マウントリング)を持っていなかったため、ヒモでくくりつけて撮影したりした。 望遠鏡を直接覗いていた時はクリアに見えた星が、カメラのファインダーではザラついて見えた。ピント合わせも一苦労で、現像が上がってくるまで心配で仕方なかった。 星が良く見える夜というのは、決まって冷え込みが厳しい。今でも、寒い夜には、あの頃の空の匂いを思い出すような気になる。 いろいろと苦労の絶えない撮影であったが、またあの時のように天体撮影をしてみたいものだ。 しかし、現在は星空を見ることが出来ない。夜空を見上げても空は真っ暗ではなく、その中に数えるほどしか星が認められない。 車でもあれば、星の見える場所へ遠出することも出来るだろうが、今は自転車すら持っていない。カメラバッグに入る程度の望遠鏡、赤道儀、三脚、モータードライブでもあれば、電車でも行けるのだろうが・・・。 いくら高価な望遠鏡を手に入れたとしても、ここでは何の役にも立ちはしない。撮りたくとも撮れない写真。書店で手にした天文雑誌を、買うこともなく棚に戻す寂しさを今日も繰り返す。 いつか、田舎に住むようなことがあれば、きっと天体望遠鏡を買おうと思う。それがいつのことなのか、我輩には分からない。 ---------------------------------------------------- [160] 2000年10月13日(金) 「未来人としての視点」 世紀末大予言。それはノストラダムス(正確にはノストラダムスの研究者)にはじまり、ジーン・ディクソンやその他の霊能者・超能力者、そして火に油を注ぐかのようなエセ科学者によって1つのジャンルが確立した。 超常現象の中でも、この予言関連はかなり異質なものであり、その性質上、宗教的な匂いを持つ。端から見れば皆同じように見えるのだが、本人たちは「いや、ウチはここが違う」と言い切る。そこもまた宗教的に感ずる。 さて、手元に面白い本がある。「宇宙人が警告している〜199X年地球大破局」という本。確か1989年の出版だったか。著者は工学博士という肩書きの深野一幸氏。 そこには、これから起こるであろう様々な出来事が予言されている。それは、色々な意味で実に興味深い。一部を紹介すると・・・、 世紀末大破局と地球再生のプログラム ●1991年 我々の周りの空間に無尽蔵に存在するエネルギーの存在が確認される。 ●1992年5月 関東地方に巨大地震(M8.5程度)が起こる。 ●1992年〜 世界的に異常気象が激しくなる。 ●1993年 アメリカは隠蔽していた宇宙人を公表する。 ●1993年〜1994年 世界各地の火山が次々に爆発する。 ●1994年 宇宙人が公然と地球人の前に姿を現わす。 ●1994〜1995年 寒冷による世界的大飢饉が起こる。 ●1997年 宇宙エネルギー発電機が実用化される。 キリストが再臨する。 ●1997〜2000年 第三次世界大戦が起こり、これが最終戦争へと発展する。 ●1998年 空中携挙が起こる。空中携挙とは、宇宙連合の宇宙人が、一時人間が住めなくなる状況に陥った地球から、UFOで一部の地球人を救いあげ、他の天体に避難させることを意味する。なおこれは、いずれ彼らを地球に戻すことを前提とした緊急避難的措置である。 戦争には世界的規模で核兵器が使用される。 ローマ法王庁が滅亡する。 極移動が起こり地球が横転する。極移動は、太陽系に大きな惑星が突入し、それによって惑星の軌道が乱されるために起こる。 ●1999年 世界的大洪水と低地への浸水が起こる。 以上、一連の世紀末大破局の結果、地球人の三分の二以上が死ぬ。 −−−(西暦2000年以降略)−−− 信じるか信じないかは読者の判断にお任せする。 (146〜149頁より) 今、西暦2000年の後半。解説するまでもなく、この予言は全く当たらなかった。実際にその年が過ぎたのであるから、これほど確かなことはないと言える。 地震や噴火、異常気象にしても、小さなものは毎年のように起こっている。例えるならば、「2001年、大きな交通事故が起こるだろう」と言っているようなものだ。いつも起こっていることならば、予言が当たったことにはならない。 とにかく、少なくとも無尽蔵のエネルギーは見つからないし、キリストは再臨しなかったし、宇宙人も公然と現れることはなかった。 1989年の時点でこの本を読むならば、少しはドキドキしたかも知れない。そこに書かれていることが「信用出来る・信用出来ない」に関わらず、「一寸先は闇」であることに変わりない。交通事故で死にゆく者も、ほんの数分前までは自分が死ぬなどということは考えてもみなかったことである。 予言された時代をクリアし2000年に生きる我々にとってみれば、その戯言(たわごと)をおもしろおかしく読むことが出来る。それは、未来人としての視点である。 しかし、まだ見ぬ時代に対する期待や恐れは、その時間に生きる人間には、とても笑い事で済まされる事ではない。 さて、カメラの方面でも、似たようなものがある。 ここに一冊の本がある。「ダメなカメラ採点」という20年前の本だ。著者は写真家・山田照男氏。我輩以上に辛口カメラ批評をしている。その内容は、今見るとかなり面白い。それは未来人の視点で読んでいるからである。 ここでも少し内容を紹介してみよう <ニコンF3> 新型ミラーに不安あり 飛行機などの応用構造を少しは知っている私としては、ボディにあんなにデザインのための曲線を多用しては、衝撃に対してへんな歪みが起こりやしないかと、ちらっと心配する。 −−−(中略)−−− こんなに芸術品のように精緻に仕上げてしまっては、壊れた時直すのが大変だろう、とやはり心配だ。 −−−(中略)−−− それかあらぬか、独特の苦心の作らしい、中枢をなすあのミラー(一部半透明)の件だが、肉眼には見えぬその透過孔に、ゴミが詰まって機能を害するものと聞いた。「いや、クリーナーとティッシュで除去できますから」とメーカーは言うが、素人が旨く拭けるかどうか。 (126頁より) ロングセラーのF3が生産終了という節目を迎えた現在からすると、それは聞いたこともないような心配事である。20年前にそんなことを知ったならば、F3の購入をためらったかも知れない。そんなにゴミの詰まりやすい(笑)デリケートなミラーを使ったカメラなど恐くて使えるか、という気持ちにもなる。 しかし、それが杞憂であることは、20年の実績が何より証明している。 また、F4の形を知っている今の自分にとって、F3のデザインを「曲線を多用」などと言っている部分はかなり笑える箇所である。 当時の視点としては、F2でさえ「カドの取れた丸いカメラだ」という認識があったくらいであり、それならばF3も確かに丸いと言えるだろう。しかし2000年現在のカメラは、当時の丸いカメラが角張って見えるほど丸さに磨きをかけている。だから、当時のカメラ批評を見るとおかしく思える。 いやあ、古い本は楽しい、楽しい。そうやってまた、未来人は今日も古本を漁る。 ---------------------------------------------------- [161] 2000年10月17日(火) 「記念撮影の暗黙の了解」 記念写真には、いくつかの「暗黙の了解」がある。それは一般常識なのだとは思うが、我輩の常識ではなかったため、これまでかなり困惑してきた。それは今でも変わらない。 故に我輩は撮影係になることを意識的に避ける。 では、「暗黙の了解」とは何か。それはその団体によっても変わってくるかも知れぬが、少なくとも我輩が今までに感じた、記念写真の要件について書いてみる。 (1) ネガフィルムを使うべし プリント写真にするのは絶対条件。ネガではなくリバーサルからのダイレクトプリントだと、割高なうえに画質も硬調ぎみで反感を買う。間違ってもリバーサルは使ってはならない。 また、「焼き回ししてくれ」などと言われても、いちいち「焼き増しだろ」と間違いを指摘して相手に恥をかかせてはならない。 (2) 日付を入れるべし 日付が写り込まない記念写真は価値が半減する。 「高そうなカメラなのに日付も入らないんだねえ」と言われる。 (3) 風景を入れ、複数人を写すべし 人物はもちろんだが、風景を同時に入れるのは必須条件。どこで撮ったかという情報が写り込んでいなければ、記念写真の意味が全く無い。 また、いまどき「3人で写真を撮ると真ん中が早死にする」などと言う人間もいないので、それは気にしない。ただし、一人だけを写すと、本人がその写真だけ半強制的に買い取らされるという意識を持つのでなるべく(リクエストが無い限り)それは避ける。 写真には自分が写っていなくても良いが、他に洩れた人がいないかを常に気を配らなければならない。 (4) 失敗写真も含め、全て公開すべし 露出の過不足やピンボケなどの失敗写真であっても、一応見せなければならない。写りの悪い写真は許せるが、全く写っていない(あるいは見せない)というのは問題である。 失敗写真を見せるのが恥ずかしいなら、失敗しないように2〜3枚撮っておく必要がある。 目つぶり写真については、それだけで本人以外に面白がられるので、必ずしも失敗とは言えない。 (5) 悪役を引き受けるべし 写真には容姿端麗の女性ばかりが写り込むわけではないため、写真を言い訳に使われることもある。 「あたしヘンな顔になってる〜、あんまり写りが良くないね!」 また、見た目は普通の化粧であっても、ストロボ撮影の関係で顔だけが真っ白になる人もいる。その人物だけに露出を合わせるワケにもいかないため、これは不可抗力。しかし見た目は普通の化粧に見えるからこそ写真のせいにされる。 それを否定すると、その人間の容姿を否定することに通ずるため、それはやってはいけない。カメラマンは、ただ、耐えるのみ。 (6) 評価を気にするべからず 一般人の評価は天と地。 写真の構図を少し工夫して人物を中心からズラすと、なかなか絵になる構図が出来る。しかし真ん中が重要だと考える者もいるため、「なんか人物が中心からズレてるなぁ」という評価も下されるだろう。いちいち気にしてはならない。 (7) こまめで太っ腹であるべし 写真を回覧して焼き増し希望者を募る場合、注文の集計と会計を面倒だと思ってはならない。 また、写真を見ながら写っている人を洗い出す方法では、写真を無償でプレゼントするくらいの気持ちのほうが、未払いの者がいても気にしなくて済む。 以上、挙げてみたが、この項目全てが我輩の苦手なことである。普通ならば特に意識せずとも撮れるような写真なのだろうが、我輩はあまり気の利かない人間である。これらの要件を満たすのは非常に難しい。 最初は、「それならば、気合いを入れたカメラとは別に、記念写真用としてコンパクトカメラを持っていけばいい」と思ってしまう。しかし、「なぜその高そうなカメラで撮ってくれないんだ?」と言われるのがオチだ。 出来ることなら、撮影係はご辞退申し上げたい。 そうは言っても、「写真をやっている」という理由だけで推される場合も無いとは言い切れない。こういう場合、「とにかく餅は餅屋、写真ならアイツだ」という単純な発想があるのだろう。しかも、上手い写真を期待されているわけで、記念写真の要件を満たしながら、上手そうに見える写真を撮らねばならない。 そこで最後に、撮影係を避けるための方法をいくつか考えてみた。 (1) ヘタにカメラを持って行かない カメラを持って行かなければなんとかなる場合もあるが、それでも人のカメラを預けられることはある。ただしその場合、少なくとも現像・プリントに関する面倒は無い。 (2) 自分のカメラを人に預ける 逆に、持って行ったカメラを人に(後輩などに)押し付けるという方法もある。「酒を飲まされたくなければこちらから飲ませる」という戦法の応用編か。ただし、現像・プリントに関してはやらねばならない。 (3) 村八分にされる 皆に相手にされない状況を作る。自分の好きな風景をゆっくり撮れるが・・・、かなりツライぞ。まあ、これは論外か。 ---------------------------------------------------- [162] 2000年10月19日(木) 「映像と文字」 「百聞は一見にしかず」 これは、映像というものが直感的で分かりやすく、文字(言葉)よりもはるかに多くの情報量を持っていることを表した言葉である。 こう考えると、映像と文字は全く別の概念の情報であるかのように思えてくる。しかし、必ずしもそうではない。 文字を読んだ時、我々はその言葉に一番近いイメージを自分の頭の中に探す。 また逆に、過去の風景を思い出す時、記号化されている記憶を元に映像を組み立てる場合がある。人間は、必ずしも写真のように客観的な画像を記憶しているとは限らない。例えば他人の言葉が刷り込まれて映像記憶になってしまうこともあるのだ。 このことから、人間が受け取る情報というのは、文字と映像では同じ概念を持つと我輩は考える。 写真というのは、それを観ている者に判断を委ねる部分が多い。 女性のポートレートを写したとしても、それが美しい女性かそうでないかは、観る者それぞれが感覚する。 一方、文章で「美しい女」と書けば、それは誰にとっても「美しい」という共通認識となる。 よく「絵にも描けない美しさ」という表現があるが、これはつまり、読者の頭の中でそれぞれの美しさを想像させるわけだ。 しかし、もし映像と文字が同じ概念を持つとするならば、写真でも似たような表現が可能なはずだ。 例えば女性の後ろ姿だけを写す。そうすると、正面の姿は写真を観る者の想像任せになる。いや、それでも好き嫌いが発生するなら、手や脚だけの写真だけでもいい。究極的には人物さえも写さず、ルージュや指輪、靴などの小物だけで「美しい女」を表現することが出来るかも知れない。 こういった表現は、一般に「想像力をかきたてる写真」と呼ばれているものであろうか。 これは文学的な表現と言える。人間の感覚が映像と文字とで同じ概念を持っているからこそ可能な表現方法なのだ。もし仮に、映像と文字とを別の概念で感覚する異星人が存在したら、「想像力をかきたてる写真」というものは、あくまで情報不足の画像でしかない。彼らにとって、我々の想像力は、「不確定な情報に基づいた価値の無い幻影」と感ずるだろう。 もちろん、特別な意図も無くそのような表現を多用することは避けたい。写真であることの必然性を薄めてしまう結果になるだけだ。それならばいっそ、素直に文字表現に切り替えたほうがいい。 ※ 特に具体的な作例が手元にあるわけではないが、こういった表現は我輩の持つ1つのイメージである。もちろんそれは女性写真と限ってはいない。 もしイメージ通りの写真が撮れれば、ここに載せることにしよう。 ---------------------------------------------------- [163] 2000年10月20日(金) 「要するに、使い方の問題」 最近のカメラは自動化が進み、更にデジタルカメラの出現によって手軽に画像を得ることが出来るようになった。 こういった流れによって、どんどん便利になっているということは間違いない。心得のある者が使えば、どれほど頼りになる道具であろうか。 しかしそれらを思想無く使えば、安易な方向へ流れがちとなる。問題は、それらの機器の善し悪しではなく、どのようにそれを使いこなすかが重要である。 ここでは、いくつかのケースについて考えてみた。 「単焦点レンズとズームレンズ」 近頃はズームレンズの描写性能も向上し、金さえ出せば大口径の明るいズームレンズも手に入る。レンズラインナップもズームレンズが主という感じで、カメラを買う時にはズームレンズを一緒に付けるということが当たり前になった。 ズームレンズの製品自体について否定的な要素は1つも無い。任意の焦点距離を選べる非常に便利なレンズだ。 しかし、思想無く使えば、安易で中途半端な画面になる。自分が今何ミリにセットしているのかさえ分からずに撮ってしまう。結果、そのレンズの焦点距離に応じた効果も生かせない。 「MFとAF」 AFが出た当初は、画面中央でしかピントが合わないものだった。当然、思想無く撮れば、常に被写体が真ん中に配置されてしまう。 最近は中央以外でもピントが合うカメラが出ており、人間の能力を越えたスピードも持っている。AFをうまく使えば、ピントの失敗は確実に減るだろう。 しかし、ピントは1点(カメラに対向した面上)にしか合わない。どこにピントを合わせたいのかということを考えずにカメラ任せにすれば、自分の表現したいポイントも曖昧になる。 撮影後、「あれ、さっきどこにピント合わせたっけ?」と考えるくらいならば、まだ救いがあるが。 「自動露出とマニュアル露出」 自動的にカメラが露出を決定してくれれば、人間はシャッターを切ることに集中出来る。最近の測光精度は素晴らしく、ヘタに手動で合わせるよりも正確だったりする。 しかし、ただ単に「面倒だから」という理由で自動露出に任せたのであれば、本当にそのシャッタースピードと絞りの組み合わせで良かったのかという疑問が残る。もしかしたら、もっと効果的な組み合わせが他にあったのかも知れない。後で考えてみても、撮影時に吟味し意識して露出を決めたわけではないのだから、自分が納得することはない。 「デジタルカメラと銀塩カメラ」 便利さではデジタルカメラのほうが圧倒的。だが、そこに罠がある。 デジタルカメラでは、失敗写真があればその場で判明するため、かなり安心して撮影を進めることが出来る。その面では効率的だと言えよう。 しかし、思想が無ければ気の弛みが起こる。 その場で失敗が判らない銀塩カメラならば気を入れて撮っていたのだが、デジタルカメラでは何も考えず、ただ結果だけを見て微調整しがちになる。 我輩は、外部ストロボを使って撮影する場合、いつもならばフラッシュメーターで測定するところだが、デジタルカメラで撮る時は液晶画面で結果を見ながら光量や絞りの調整をする。フラッシュメーターなどは使わない。その結果、デスクトップPCのディスプレイで見ると、影の部分の描写がツブれていたり、ハイライトがトンでいたりする。 そのような安易な撮影方法では、液晶で確認出来ない部分のことは切り捨てることになる。 更には「パソコンで調整すればいいや」と考え、それによって微妙な階調を殺してしまう。 結局、道具を生かすのは使う人間の側である。使う人間に明確な目的があれば、道具は頼もしい味方となるだろう。 もし明確な目的が無いのであれば、高級な自動カメラよりも低級な自動カメラのほうが、余程お気に召す写真が撮れると思うが。 ---------------------------------------------------- [164] 2000年10月22日(日) 「関心があるから書く〜デジタルカメラ」 我輩が今まで使ってきたデジタルカメラはショボいものばかりだった。 「オリンパス・C-1400L」、「フジ・ファインピクス700」、「オリンパスC-2020Z」。 当時としては驚きの機能と性能を持ったカメラたちだが、やはり絶対的な性能が十分ではなく、結局は妥協の選択でしかなかった。 一昨日は「写真工業」の発売日だった。今回のテクニカルレポートは「キヤノンEOS D30」という一眼レフ型レンズ交換式デジタルカメラ。 このカメラ、ちょっと見ると銀塩カメラのEOSに見える。いや、ジッと見てもやはりそう見える。 ここまで来ると、今までデジタルカメラに我慢を強いられてきた部分も少なくなっている。 「EOS」の名を語るだけあって、既存の銀塩カメラのシステムを利用することによって、様々な撮影シーンに対応出来る。大きさや形、操作系も銀塩カメラとほぼ同じで使いやすそうだ。 正直言って、「欲しい」。 雑文に書くからには、関心が無いワケはない。 ただし、我輩のシステムを生かすならば、Nikonマウントでなければならぬ。そうなると「Nikon D1」か「FUJI FinePix S1 Pro」か・・・、と欲望は転化してゆく。 しかし、まだまだ不満はある。「価格」と「CCDサイズ」、そして「データ保存」である。 安くはなってきたとは言っても、十分に高価だ。製品寿命の短いものの価格とは思えない。これが適正価格であり、これ以上下がりようがないとするなら問題は深刻。 CCDのサイズについては、銀塩カメラの交換レンズ群を利用するには不都合である。現時点のCCDサイズが最良の選択だとは誰も思ってはいまい。同じ画角を得るには焦点距離の短いレンズを選択することになり、被写界深度も当然変わる。 CCD製造の歩留まりがフルサイズ化を阻むのは容易に想像出来る。現時点での妥協点がこのサイズなのだろう。だから目標はまだ先にあるのだ(CCDのサイズの問題で、画素数の話ではない)。 あとは、フィルム媒体への書き出しをサポートすれば完璧と思われる。デジタルデータのまま30年以上保存する方法はまだ開発されていないというのがその理由。それらがクリアされなければ、フィルム媒体によって長期保存をする以外に方法は無い。 前にも書いたが、「ファイル形式の普遍性」、「記録媒体の安定性」、「エラーの混入」など、不安材料は尽きない。 こういった長期保存性は、ユーザーが求めているかどうかという問題ではなく、写真に求められる必要条件である。 それはなぜか。 話題が転換するので、それは次の雑文で続けよう。 ---------------------------------------------------- [165] 2000年10月23日(月) 「人類の存在する意味」 「人類の存在する意味」とは何ぞや? 最先端科学でも解明出来ない。それは哲学や宗教の範疇になろうか。 宇宙に存在する物全て、「存在」自体に理由は無いのかも知れない。ただし、存在することによって、相互作用を引き起こす媒体の1つになりうる。1つの存在は別の1つのため。そのためにそれは存在し続ける。 引き合い、反発し合い、衝突し合い、反応し合う。物質の存在は、原子それぞれの相互関係の具現化したものである。原子1つの存在だけを見ても、何も分からない。原子同士の関係が世界を創り出す。また、現在の関係が未来の関係の始まりを創る。 ミクロな関係は、マクロな関係と相似である。そしてそれは、我々人類の社会構造や文化に繋がっている。我々は決して、自身のためだけに存在を理由付けることは出来ないのだ。 ・・・たいそうな前置きだったが、写真の話題に入ろうか。 デジタル写真の保存性について、昨日の雑文で触れた。 プロ用として印刷原稿として使うならば、長期保存の必要は無い。それは印刷物へと形を変える。しかし、個人需要ならば、画像保存は重要である。いつの時代でも、貴重な資料というのは個人の持ち物から見つかる。その時に価値を認めなくとも、後世ではかけがえのない貴重な画像となるかも知れない。それが写真の、「記録」としての役割であるはずだ。それを満たせない写真というのは、もう写真と呼べるものではない。 後世に伝えられぬ文化などに、人間の生きている意味など込められているだろうか。 その時代でのみ消費され、その場で消えて行く。貴重な資源を消費して存在することを許された人類のあるべき姿ではない。 古代、絵を描く時にミイラの粉を絵の具に混ぜたという話がある。こうすれば絵がヒビ割れることなく、長い期間に渡って美しさを保つと考えられていた。ミイラの魔力にあやかった迷信なのだが、現代の人間にそのような大きなスケールの時間を見通そうとする努力は見られない。 子供を残し、自分の生きた証にするということは今どき流行らないのかも知れない。だが少なくとも、何かをこの世に残し、次代に伝えてゆくということは、文化を持つ動物、人類の最大のテーマではないのか? 一体、何のために人間はこの世に生まれ、そして死ぬだろう。少なくとも、地球上の「酸素」や「食料」や「石油」や「電力」を消費している限り、この世に何か跡を残すべきだと思う。 デジタルの小さなピット(窪み)に跡を残そうとも、それが波に洗われる砂のごとく脆くあらば、やはり何か方向が間違っている。 「またまた、大げさな話になってきたなぁ」と思われるだろうが、文化というのは日々の積み重ねであり、自然体であると我輩は思っている。どれほどくだらないものであっても、それは現代の価値観による評価でしかない。 写真は極めてプライベートな文化と言えるかも知れない。しかし文化の始まりはいつでもプライベートなものである。だからこそ、その文化に「人間」を見るのだ。 自分が撮る写真を、自分しか使わないからと粗末に扱う(執着しない)のは、何か寂しさを感じると共に、人間としての本能的な危機感を抱く。 古代人は、自分の一生を越えたタイムスケールで世界を見た。何百年か後に自分の魂が復活した時のことを心配していろいろな準備をした。 しかし現代人は、自分の生きる時間だけしか見ていない。自分の死後、何がどうなろうと関心は無い。完全になげやりになっている。安易さだけを追い求め、現代の終わりを次代の始まりとは認識しない。 画像の長期保存は現代人の義務だと思う。結果的に長期保存ならずとも、そのための努力は怠るべきではない。昔は意識しなくてもよかったことだが、現代の技術は、意識し努力しなければ次代へ残ることは無いのだ。 大昔の動物の姿を伝える「化石」は貴重な資料である。しかし、死んだ動物が全て化石になったのではない。ほんの数パーセントが運良く化石化したのだ。それと同じく、我々の画像のどれか数パーセントでも残れば貴重な資料となるだろう。今のデジタルでは、努力無しでは生存率0パーセントは確実。努力して初めて、化石のように運良く残るものが出てくる。 何も残せず無に帰すのは、最初から無かったことに等しい。 我輩自身、無に等しい存在となる可能性は高いが、それでも努力だけはしたい。人間としての本能がそうさせる。 何を文化と認定するかは後世が決めようが、そもそも残るものがなければ話にならぬ。 ※ 「努力」とは、メンテナンス無しで放って置かれてもクオリティ低下のみに留めるようにする努力のこと。メンテナンス自体に努力を払っても、自分が消えればデータも消えるので意味が無い。 ---------------------------------------------------- [166] 2000年10月24日(火) 「ラインナップ」 ここで言う「ラインナップ」とは、メーカーの用意する製品ラインナップのことではなく、各個人が買い揃えたラインナップのことを意味している。 一眼レフのシステムには、カメラ本体やレンズ、各種アクセサリがある。それらを隅から隅まで全て揃える者などいないだろう。例えば、「35mm F1.4」、「35mm F2」、「35mm F2.8」と、明るさの違うレンズが3本発売されていたとしても、普通は「どれか1本」という選び方をする。望遠レンズで、明るさと重さの妥協点が微妙な場合、用途に応じて2本くらい持っていたりすることもあるかも知れないが、それでもメーカーが用意する製品全てを揃えるわけではない。 今までも、雑誌等にはプロカメラマンの機材紹介があったりしたが、最近ではインターネット上で1ユーザーの機材を目にすることも多くなった。そして、そのラインナップには、各人の個性が垣間見えるような気がする。 確かに、撮影対象が機材を決めさせるのかも知れない。しかし、同じ対象物を撮るにしても、やはりそれぞれに考え方の違いが現れる。 我輩はイラク空軍的な買い物をしているので、あまり組織的な力を発揮しないような気がする。しかしまあ、少なくともNikon F3と、24mmと135mmのレンズは外せないという気持ちは持っている。実を言うと、それだけあれば不自由しない。他に持っている機材は、言うなれば贅肉機材と言えるか。贅肉というのは意識して運動しないと減らない。同じように、贅肉機材は意識して使わねば贅肉であり続ける。 今は自分自身に「後々、考え方が変わった時のため」などというもっともらしい言い訳をしている。「ダイエットは明日から」と言っているのと同じかもな。 我輩の場合、中判カメラのラインアップが贅肉の無いスッキリとしたラインナップであろうかと思う。機材に執着する事もなく、純粋に実用面でしか考えていない。 ゼンザブロニカのケースだが、広角40mmは風景用に、マクロ110mmはブツ撮り用に、中望遠180mmはポートレート用に無駄なく使っている。レンズはこの3本だけ。そう考えると、余程、中判のほうが金が掛からず済んでいる。そうでなければ、今頃は破産だ。 ---------------------------------------------------- [167] 2000年10月25日(水) 「我輩の子供時代の風景」 写真が「便利だなあ」と思うのは、写す範囲を限定出来るということだ。見せたくない部分は写さない。 写した写真のみで構成すれば、撮影者の意図によってイメージを作ることが出来る。 時にはそれが真実をひっくり返したり、特定のイメージだけを強調してしまったりすることもある。 例えば、外国人が日本に旅行に来て写真を撮る。しかし、どんな国にもあるようなものにはシャッターを切ったりはしないだろう。外国人にとって珍しいと思われるもの、あるいは日本的だと思われるものが被写体として選ばれることになる。 それは「スシ」、「ゲイシャ」、「フジヤマ」、「カブキ」の写真かも知れない。 だが、その写真を見た本国の知人・友人たちは、日本という国の印象を、その写真から受け取ることになる。まさか、「日本人はスシを主食とし、カブキやゲイシャの恰好をしてフジヤマを崇拝する民族である」とまでは思わないだろうが、少なくとも印象としてはその光景が浮かんできても不思議ではなかろう。 我輩などは、アメリカ人はハンバーガーを主食にしているというイメージが「無意識に」浮かんでくるからな。 このように、イメージの力というのはかなり大きい。前にも似たようなことを書いたと記憶するが、逆にこれを効果的に使えば、イメージの再認識に大いに役立つ。 去年(1999年)と今年(2000年)の夏、我輩は実家の風景を撮ってきた(参考「雑文128」)。 そこには、子供の頃からすっかり変わってしまった風景もあれば、全く変わらない風景もあった。我輩はその両方を撮ってきたのであるが、変わらない風景だけをピックアップして並べてみると、子供時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。 もし、この土地を知らない者にこの写真を見せれば、我輩の子供時代の風景を垣間見せることが出来る。余計な所は見せない。これが大事。 以下の写真は、我輩の子供時代の風景をイメージしたもので、全て現在形で説明することにする。 ----------------------- 我輩の子供時代の風景 (福岡県京都郡豊津町) ----------------------- <<画像ファイルあり>> 「今川」の下流付近。ここでは、セキレイの他、カワセミを見ることが出来る。 <<画像ファイルあり>> 学校の授業でよく写生をする国分寺の三重の塔。 <<画像ファイルあり>> 「祓川」の中流付近。ここは急に深い場所があったりするので、子供たちだけで泳いではいけないことになっている。 <<画像ファイルあり>> 同じく「祓川」の中流付近。どんな魚が獲れるのか見に行ってみたいが、オイちゃんに見つかると怒られるので、ここから見るだけ。 <<画像ファイルあり>> 友達の家へ行くのに近道をする時には、坂の多い道を行くことになる。自転車だとかなりキツイ。 <<画像ファイルあり>> 通行禁止になっていると余計に行ってみたくなる。「強がり者K」を誘って探検してみようか。 <<画像ファイルあり>> 国鉄田川線の線路。遮断機が無いから、ディーゼル音がしたら気を付けろ。 <<画像ファイルあり>> 稲穂が風にそよぐ夏。クマゼミの声が遠くの林から聞こえてくる。 <<画像ファイルあり>> 夏休みは静かなもんだ。全国の小学生を苦しめる逆上がりの練習、この鉄棒で何度もやって、やっと出来るようになった。 <<画像ファイルあり>> オカチンの家で遊んだ帰り道の風景。ここから自宅までは下り坂である。楽チン、楽チン、オカチン。 <<画像ファイルあり>> この前、ここでオカチンと一抱えもあるライギョを捕まえた。この近くに住む「八ちゃん」の家に持って行くと、「一週間前、オレが逃がしてやったライギョだ」と言われた。我輩とオカチンは疲労の中で力無く言った。「もう一回逃がしてやってくれるか・・・?」 この前、蓑島(みのしま)に来た時は満ち潮だったが、今は引き潮。今ならここから海を渡って蓑島に行けそうだ。 ---------------------------------------------------- [168] 2000年10月27日(金) 「雑記」 -------------------- 見積り!魚眼レンズ -------------------- シグマのMF8mmフィッシュアイレンズをマップカメラに見積りしてもらうと、メーカーで生産終了とのこと。仕方なくAFのほうのフィッシュアイレンズを注文する。 しかしまあ、レンズメーカーというのはカメラメーカーが用意できないようなラインナップを揃えておくのが存在意義だと思うのだが、やはりMFというのはそれほど売れないんだろうな・・・。 さて、このレンズはMF、AFとも円形画像の魚眼レンズである。ちょうど、ドアスコープで覗いたような映像を見ることができるわけだ。 これは肉眼を越えた世界であり、シャッターを切らずともファインダーを覗いているだけで楽しめるに違いない。しかし困ったことに、フルサイズではないデジタルカメラ、「Nikon D1」や「FUJI FinePix S1 Pro」に装着すれば、当然のごとく円形画像が欠けてしまうだろう。 デジタルカメラがフルサイズでないと困ると実感するのはこんなところだ。 今のところ、魚眼レンズをカバーしたズームレンズは存在しない。だから、レンズ固定式のデジタルカメラでは魚眼レンズ特有の映像を撮ることは出来ない。 なに?フロント・コンバージョンレンズで魚眼レンズにするものがあるって? よしてくれ、そんなの。 魚眼レンズをカバーしたズーム、例えばFishEye8mm〜300mmレンズ(35mmフィルムサイズ相当)なんていうものがあれば、レンズ固定式のデジタルカメラでも使えるだろうが・・・、構造上無理だな。 ちなみに、このMF8mmフィッシュアイレンズは、現時点でもシグマのホームページに掲載されたまま。シグマよ、紛らわしいから早く削除せえや。 -------------------- カメラに似合う服装? -------------------- FAゴールドを使う時、どんな服装が似合うかを考えてみた。 ゴールドであるから、フォーマルが似合うだろうか? いろいろ考えたり試したりしたが、どうやら同系色の服装が似合うような感じだ。 <<画像ファイルあり>> どうだろう?ゴールドのイヤミが少しは緩和され、他と協調性を持ったような気がするが。 それにしても、FAを操作したあとでF3を操作すると、結構感動してしまう。やはりF3の重量感と巻き上げ感、シャッターの安定感がよろしい。まさしく再認識という感じだ。 -------------------- 欲望の転化 -------------------- タナカカメラのサイトで、「ペンタックスLX-2000」が1台売りに出されている。説明によると、注文がキャンセルされたものらしい。 値段は「要問合せ」だということで不明だが、3秒ほど迷ってしまった。もしそれがチタンだったら買ったかも知れない。 しかしそれで終わればいいものを、なぜか「その代わり」を無意識に探してしまうのが悪いクセ。 ヤフーのオークションで「F2 チタン」や「F3 チタン」などと検索してしまう。だが、もう35mmカメラはこれ以上あっても意味が無いということに気付く。使う人間はたった1人であることを自分に言い聞かせると、なんとか冷静になれる。 今から考えると、我輩のイラク空軍的装備は、このような欲望の転化という心理状況の中で構築されていったものであろうと想像する。 もう、よほどのことがない限り、35mm一眼レフのボディを買うのは止めようと思う。そうでないと、保存カメラの順番さえ回ってこなくなるという笑えない状況に陥るかも知れない。 では、自分が買えないのなら、この物欲を他の人間に譲ることにしようと思う(「欲望の転化」ならぬ「欲望の転嫁」?)。 今、Nikon F3のステレオ写真を撮った。これを見れば、カタログでは得られない臨場感を目にするだろう。そしてキミも画面に手を伸ばしてF3を手にしようとするはずだ。 新品F3を買うのは今しかない。札束を持って走れ、カメラ屋へ! <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 左目 右目 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 左目 右目 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 左目 右目 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 左目 右目 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 左目 右目 ---------------------------------------------------- [169] 2000年10月30日(月) 「感覚」 人によって感覚が違うというのは、今さら我輩が言うことでもない。 そうは言っても、やはり感覚の違いというのは面白いもので、我輩にとって当たり前のことが他の者にとっては当たり前ではなかったり、その逆のこともあったりする。 また、自分が今まで当たり前だと思っていたことが、再認識させられることによって、あらためて新鮮に思うこともある。 先週の土曜日、職場の人間と「相模湖ピクニックランド」でバーベキューパーティーをやった。記念写真ギライの我輩なのだが、観光地を歩き回って撮るものでもないので、テスト撮影を兼ねてニコンFAを持参した。 FAはF3に比べて感触は良いとは言えない。しかし、写真やカメラにこだわりを持たない一般人には新鮮に見えるらしい。 「ちょっと覗かせて下さい!」と言われ、FAを渡す。 「うわー、重ーい!」 そうか、FAでも最近のカメラに比べたらかなり重いんだろうな。 せっかくだからとシャッターを切らせてあげると、また驚いた様子。 「すごーい、シャッターがすぐ切れる!!」 なるほど、最近のAFカメラはAF動作やストロボチャージなど、色々な前準備があるから、押した瞬間にはなかなかシャッターが切れない。それが当たり前のようになっている一般人にとってみれば、我輩のニコンFAの動作はキビキビしているように感じるに違いない。 一方、我輩は我輩で、帰宅したあとF3/Tを触ってみて驚いた。なんとまあ感触の良いシャッターだろう。しかもチタンのザラついた金属感が刺激的。いつも使っているカメラだけに、そのことが当たり前のようになっていて、素晴らしさに慣れてしまっていた。 もちろん、今までもF3は「良いカメラ」だとは思ってはいたが、今回の再認識によって、もっとF3を使いたいという衝動が湧いてきたように思う。 それはまるで、新しいカメラを買った時のような感じだった。 使い慣れたカメラながら、新しい気持ちを持って接する妙な感覚。このように感じる瞬間は、今しか無いかも知れない。もしそうなら、この気持ちが維持されている間に写真を撮りたいと思う。 そう、F3のシャッターでテンポ良く撮りたいものがある。 何を撮るのか、それは来週のお楽しみ・・・と言いたいところだが、うまく撮れるかは我輩にも分からない。 ---------------------------------------------------- [170] 2000年10月31日(火) 「町の写真屋はキライだね」 以前、ネガフィルムの「フィルム現像のみ」の処理を頼んだら、インデックスプリントを勝手に付けられたという話をした。 今回、勤務先のバーベキューパーティーで撮った写真を焼き増しするため、近所のフジ系ラボで現像のみを頼んだ。そして、ダメ元で「インデックスプリント無しで」と要求したところ、あっさり承諾してもらえた。 まあ、考えてみれば当然のことなのだろうが、やはり小さなラボや写真店では、それぞれの決まり事があるような印象を受け、あまり細かいことを要求するのは気が引ける。 「同時プリントは0円だが、焼き増しの場合はベラボウに高く時間が掛かる」 「特に指定しない限り、インデックスプリントが当然のように付けられる」 「安い代わり、ネガのキズについてのクレームは受付けない」 「昼休みは店主がおらず、詳しくない者が店頭にいる」 他にも何かあるかも知れない。 しかしながら、上野に出向いてヨドバシカメラなどに現像を頼む時間が無い時、つい、町の「**写真店」などと書いてある所に出してしまう。 実際の現像処理はその店がやるわけではないため、ミニラボでない限り、どの店に出しても品質に問題は無いだろう。だが、窓口として見るとかなり憂鬱である。 そういう店は多分、限りなく100パーセント近くの現像依頼がネガフィルムだと思われる。別に確たる統計データがあるわけではないが、店員の対応を見ていると、そうとしか考えられない。 まず、撮影済みフィルムをカウンターに出そうとすると、すぐにプリントサイズを訊いてくる。リバーサルフィルムの現像を依頼されることなど想定していない。 「おいおい、これはエクタクロームだぞ。」と思うが、ハッキリとは言わない。それとなくリバーサルフィルムであることを伝える。 それでもすぐに対応してくれれば良いのだが、中にはDPE袋の必要事項を書き込む時に悩む者もいる。リバーサルに慣れていないのがここでも分かる。 その場合は我輩も手伝って「ここに丸印を付けて」とか「スリーブ仕上げと書いて」と教えることになる。かなりイヤな気持ちだ。 職場近くの写真屋のオバちゃんには何度も教えたが、それももう疲れた。 「別にイジワルしようとして面倒くさいフィルムを頼んでいるワケじゃないんだぞ」 我輩は店を出る時、いつも思う。 よくいるよな、小難しい言葉で優越感に浸ろうとする面倒な客。我輩もこんな人間として見られているんだろうな。 「今度からここに来るのは止めよう。」 結局、我輩は交通費と時間を使って、ヨドバシカメラ上野店で現像処理を頼むことになる。そのような大手になると、我輩の頼みたいことは別段珍しい要求ではない。安心して要求し注文を付けることが出来るのだ。 ハッキリ言って、町の写真屋はキライだね。 ---------------------------------------------------- [171] 2000年11月01日(水) 「F3のサブカメラ」 F3はコンパクトであるが、モータードライブを装着すると、途端にデカくなる。比較したことは無いが、この図体はF5に負けないくらいだと思う。 我輩の場合、F3のサブカメラはF3であるのだが、モータードライブを使用して使う場合、2台ともモータードライブを装着して携行するのはかなり無理があるし、スマートとも言えない。 ワインダー的な性能で良いから、もっと軽量なモータードライブを発売して欲しいものだが、F3生産終了の今となってはそれも絶望的。 極限状態で撮影に臨むプロフェッショナルは、サブカメラは「メインが故障した時のバックアップ」としての意味合いが強いと思う。 一方、我輩の場合は、「別のレンズを付けておくカメラ」ということがサブカメラの位置付けとなる。 もしズームレンズを使っているならば、1台のカメラで十分だろう。しかし、単焦点レンズを主に使う我輩にとっては、2台のカメラがあると便利に思う。いちいちレンズを交換する手間も省け、撮影リズムを崩さない。 では、F3よりも軽いサブカメラ候補とは? 通常はFM2が思い浮かぶだろう。しかし、なぜかFAが気になる。専用モータードライブ「MD-15」も、F3用の「MD-4」に似ている。全体的に、「F3ジュニア」という感じで、ちょうどF5に対するF100のような雰囲気を感じる。 もしFAが現行製品ならば、迷わずそれを買ったろう。しかし、今買うなら中古しかない・・・。 というわけで、「ニコンFA」+「モータードライブ」のセットをヤフーのオークションで落札してしまった。 あれほど35mmカメラはこれ以上買わないと決めていたのに、何やってるんだか・・・。 では、何か1台カメラを売ってしまおうか。 使う場所と使う服装を選ぶ「FAゴールド」を売るか。しかしそんなカメラ、安い値段を付けても買い手が付くか問題だな。 ---------------------------------------------------- [172] 2000年11月02日(木) 「印象付けられたビジョン」 印象というものは、結構単純化されている。 例えば人物について。 その人の名前を聞くと、最初に浮かんでくるビジョンがある。 郷ひろみは「まゆ毛」、明石家さんまは「前歯」、森進一は「渋い声」、黒柳徹子は「タマネギ頭」・・・。 身近な人物でも、最初に「目」が思い浮かんだり、「歩き方」が思い浮かんだり、「鼻毛」が思い浮かんだりと、それぞれに印象付けられたビジョンがあるのが分かるだろう。 モノマネというのは、そのような部分を強調して表現する。 元々、人間というのは情報を選択的に取り込むため、印象付けられた部分さえ似せれば良い。逆にそこだけ強調してモノマネするものだから、妙にハマり笑ってしまうのだ。 モノマネの上手い人というのは、万人の認める共通認識を上手く押さえている。 さて、カメラにも印象というものがある。 一眼レフの黎明期には、トンガリ頭のペンタ部が印象が悪く、両肩を高くしてペンタ部の高さを相対的に低く見せようと努力が為された。 一部で有名な「フォカ・フレックス」は、性能を下げてまでトンガリ頭を隠した。 今ではその印象も変わり、それは一眼レフらしさの象徴とされている。 非常に大きな括りで言うと、一眼レフカメラの印象とは、良くも悪くも「ペンタ部の出っ張り」と言えよう。つまりそれが、カメラをあまり知らない一般人にとっての印象だ。 「どのカメラも同じように見える」というのは、その印象に留まっているからで、例えば、「どの外人も同じように見える」というのと変わりない。「青い目」をして「金髪」であるということで認識が終了してしまうからだ。 カメラのことを少しは知っている我々は、それ以上に認識を進めることが出来る。 ここでは、各カメラに対する我輩の印象をまとめてみた。 カメラ名を聞けば、最初に頭に浮かぶビジョンである。それは道具であるから、使う立場や出会いによってビジョンが変わってくることは当然のこと。 「自分ならば、このカメラはこの部分だなぁ」などと思いながら見て欲しい。 −カメラ名− −我輩の印象− 「OLYMPUS OM-1」 セルフタイマー 「OLYMPUS OM-4」 シャッターボタン 「Canon nF-1」 表面仕上げ 「Canon 旧F-1」 ペンタ部デザイン 「Canon A-1」 グリップ 「Canon AE-1P」 PROGRAMの緑の文字 「Nikon F2」 厚いマウント 「Nikon F3」 ペンタ部デザイン 「Nikon EM」 キン肉マンのような額のマーク 「Nikomat EL」 電池 「Nikon FA」 ペンタ部の採光窓 「Nikon FM(FM2)」 額の狭さ 「Nikon FE(FE2)」 シャッターダイヤルの緑のAマーク 「Nikon FG」 Nikonプレート止めビス 「Nikon FM10/FE10」 ゴム張りボディ 「PENTAX LX」 ストラップ取付金具 「PENTAX MX」 大口(おおぐち)マウント 「MINOLTA MF系」 シャッターボタン 以上、とりあえず思い付く範囲内で挙げたが、他にも色々あるかと思う。 こういうことを自分でまとめてみると、自分の好きなカメラについての傾向が分かったりするかも知れない。 無意識の領域を文字化するのは難しいが、やはりクリエーターとしてのカメラマンには必要なことだと思うぞ。 ---------------------------------------------------- [174] 2000年11月05日(日) 「声掛けモードラ」 昨日、表参道へ撮影に行った。 先週、F3のシャッターを再認識したということを書いた。F3のシャッターでテンポ良く撮ろうと思ったわけである。 本当は、前日の祭日に行く予定だったのだが、曇りのため光量が足らず断念した。 昨日は朝から良い天気で、その日を逃すと次の日は再び曇りや雨となると天気予報が言っている。 さて、表参道では道行く女性を撮ろうと思った。何人かに声を掛け、表参道の雰囲気をバックに数枚撮らせてもらった。 F3のシャッター音とモータードライブのリズミカルな音が撮影をやり易くする。それくらいの音でなければ、開かれた空間ではシャッター音というのは意外と聞き取りにくい。 もしF4などの巻き上げモーター内蔵のカメラなら、音がマイルドなため、なかなかメリハリを利かせることが難しい。F3やFAなど、外付けモータードライブで派手な音が出せるものならば、「撮影している」ということが相手にも自分にもハッキリと感覚出来る。 今回は、オークションで手に入れたニコンFAとモータードライブの到着が、出掛けるまでに間に合わなかったため、2台のF3(F3/TとF3リミテッド)を使用したのだが、モータードライブの装着は1台のみである。 一方に50mm、もう一方に24mmを装着している。つまり2本のレンズで撮影したのだが、一方が手巻きというのはリズムを維持するのが難しい。2台とも派手な音で撮りたかった。 ところで、表参道はカメラマンが多いな。女性も一眼レフを持っていることが多い。その通りはそういう雰囲気なのだろう。そうでなければ、逆に我輩も声掛け写真は撮れない。 そうは言っても、季節的にも時間的にも条件が良くなかったかも知れない。結局撮れたのは4人だけだった。そばにいた美容院の呼び込みマンも、何人か女性にアタックしたが、結果は芳しくない様子。女性を止めるのは難しく、彼は歩きながら話しかけ、我輩の前を何度も往復した。さすがに我輩はあそこまで押しが強くない。 夕方になると、散策する人よりも帰宅する人の流れが大きくなり、声すら掛けられなくなった。もう足が急いでいるのが分かる。 しかし何より、陽が短いのが撮影を切り上げたきっかけとなった。ストロボは持って行ったのだが、うっかりガンカプラーを忘れ、F3に使うことが出来なかったのだ。FAがあれば、少なくともそれには使えたのだが。 ん・・・?待てよ、書いていて思い出したが、F3リミテッドのペンタ部には汎用ストロボを取り付けるシューが付いていたんじゃないか。迂闊だった。 まあ、いずれにせよ今度はもっと早い時間に、F3とFAのそれぞれにモータードライブを装着してみようかと思う。 しかし、モータードライブで撮っている時はなかなか楽しかったなあ。これこそ外付けモータードライブの醍醐味。 この日撮った写真を載せたかったが、まだ2台のカメラにフィルムは入ったまま。数回撮影に行ってやっと現像に出せるという感じかもな。忘れた頃に載せることになろうか。 帰宅後、FAが届いた。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [174] 2000年11月06日(月) 「ついに分解AE-1P」 キヤノンAシリーズのカメラは、シャッターが油切れで鳴くことが多い。むしろ鳴かないものを探すのが難しいくらいだ。 我輩が中古で手に入れた「AE-1P」については、購入時には鳴かなかったのだが、その後1年以内で鳴き出した。 「まあ、撮影には支障はなかろう」と気にしなかったが、先日モータードライブを装着してシャッターを切っていると、どうも連写音が遅いのに気付いた。 ファインダーを覗いて見ると、シャッターを切った瞬間のブラックアウト状態が長いようだ。マウント部を見てみると、ミラーの動きが鈍いのが判る。いったん上がったミラーが、まるでスローモーションのように降りてくるのだ。当然シャッターは終始鳴いている。 モータードライブの巻き上げ速度は以前と変わらずだが、ミラーが降りてくるのを待つ時間があるため、実質的には秒間2コマ程度でしかない。 「こりゃー、支障が無いなどとは言えないなぁ。」 修理に出そうかとも考えたが、稼働率が低いカメラであるから、修理代を出すのが惜しい。 油が切れたのだから、油をさせばなんとかなろう。部品の交換など必要なければ、自分で修理出来るかも知れない。まあ、外観もボロいし、壊れたとしても惜しくはない。 早速ドライバーを取り、片っ端からネジを外していった。 まずは、トップカバーが外れた。やはりカバーはプラスチック製。 <<画像ファイルあり>> 次にミラーボックスを分離しようとするが、配線が絡んでいるので完全に離れない。 矢印で示したところが、原因と思われるミラー関係の歯車。 <<画像ファイルあり>> 指でレバーを操作すると、矢印の歯車が高速回転し、擦れてキーキーと音を出す。ここにシャッターオイルをしみこませたキムワイプ(テッシュ)を当て、何度か回転させる。そうすると、たちまち音がしなくなった。成功だ。 <<画像ファイルあり>> シャッターの鳴きが止まり、連写速度も本来の性能を取り戻した。 ・・・とまあ、簡単そうに言うが、実は本当に面倒なのが、ミラーボックスの取付だった。これはかなり手を焼いたが、結局、レバーの動きなどの仕組みを理解して初めて正常に組み込むことが出来た。 メカの動きを丹念に追って行き、あるべき位置を推測するということは、かなりの忍耐力が必要かと思う。実を言うと、我輩は何度もあきらめかけた。もしAE-1Pのリペアマニュアルがあれば、こんな苦労は無かったかも知れないのだが。 以前はシャッターを切るたびにイヤな音がしていたのだが、今はとてもいい音だ。もしかしたら稼働率が低かったのは、このシャッターの音のせいだったかも知れない。無意識にシャッターの鳴きを避けていたのだろうか。 ダメ元で分解したAE-1P、九死に一生を得たカメラであるから、そのうちまた使ってやろうかと思う。 ---------------------------------------------------- [175] 2000年11月07日(火) 「自由の象徴」 我輩がシャッターダイヤルに固執するのは、今思うと「ピッカリコニカ」のせいかも知れない。 最初に使ったカメラは祖父のキヤノネットだったが、主に使ったのは家族で買ったピッカリコニカだった。確か、行橋そごうの「高千穂カメラ」で三脚付き1万円だったと記憶している。 誰でも撮れるカメラが来たということで、結構みんなで使った。 <<画像ファイルあり>> ピッカリコニカ しかし、露出に関しては「シャッターを押すだけ」ということで、自分が何も関与出来ないという苛立ちがあった。確かに「押すだけ」というのは楽な場合もあるが、逆に撮れないものはどんなに努力しようが絶対に撮れない。EE(今で言うAE)に支配され、痒い所に手が届かない。 自由を奪われ、与えられた人生を生きているようなものだった。 そんな時、ついに救世主が現れた。それが、最初に買った中古一眼レフ、「Canon AE-1」だった。 革命は、そのシャッターダイヤルにあった。1/1000秒から2秒まで任意に選べ、しかもシャッターを開きっぱなしにも出来る。それまではセロハンテープでピッカリコニカのシャッターを固定していたのだが、今度からはダイヤルを「B」の位置にセットするだけで良い。 AE-1のシャッターダイヤルは巻上げレバーと同軸で、必ずしも少年時代のイメージとしては格好良いものとは言えなかったが、やはり自分の意志でカメラを思いのままに操ることが出来るという意味で画期的だった。 つまり、我輩はダイヤルによって自由を得ることが出来たのである。 我輩にとって、ダイヤルに刻まれた数字の多さがカメラの自由度を示す尺度と感ずる。 当時は「ニコンF3」や「キヤノンNewF−1」が憧れであった。レンジの広いシャッターダイヤルは、一目見ただけでその高性能ぶりを想像させた。特にF3のダイヤルは全周回転可能で、多くの数字が並んでいるのが素晴らしく思えた。しかも、今まで学校の理科室にある顕微鏡撮影装置でしか見たことのなかった「T(タイム露出)」という設定が可能であることも、F3が大人の道具であるということを強く感じさせた。 どんなに安物カメラであっても、ダイヤルさえ持っていれば、それが自由の思想の基に作られたカメラであると認めることが出来る。 「ダイヤルさえ付いていれば何とかなる」と思わせるところが素晴らしい。 ダイヤルとは、我輩にとっては自由の象徴である。 ---------------------------------------------------- [176] 2000年11月09日(木) 「ナマナマしい」 東京近辺で生活するようになると、地方局のローカルCMが見れなくなった。 ローカルCMとは、1〜2枚ほどの静止画(パネル)を録画し、それにナレーションを加えるという簡単なコマーシャルフィルムのことである。制作費がほとんどかからないため、中小企業や商店街が主なスポンサーとなる。 深夜になるとラブホテルのCMが何度も入る。昼間はニュースを読んでいるカタそうな地方局アナウンサーが、「2人の間に言葉は要らない、ただ吐息が欲しいだけ・・・」などとナレーションを読んでいたりする。 他にも、フンパツして動画でCMを作るスポンサーもいるが、登場人物がシロウトくさかったり、テロップのフチが滑らかでなくジャギーが入っていたりする。 こういうローカルCMは、全国区のCMと比較すると製作コストの違いはさすがに隠せない。 反面、ローカルCMはやけにナマナマしく、距離を近くに感じる。それは単純に所在地が近いということだけではない ポートレートも同じような場合がある。 スタジオでライティングや衣装、ヘアスタイルなどに凝ってみたりしても、得られたキレイな写真には身近に感ずるような距離感が写っていないことが多い(もっとも、そういう意図で撮影したわけではないだろうが→関連雑文)。 巷には、キレイに撮られた写真は当たり前のように溢れている。「雑誌」、「ポスター」、「中吊り広告」、「看板」・・・。 ともすれば、目の前のポスターに何の印象も持たず通り過ぎるかも知れない。キレイに撮れば撮るほど、それは大勢の中に埋もれて目立たなくなってしまう。 撮影意図や工夫次第(例えば個性的なモデルを使うなど)で人の目を引く写真も撮れようが、少なくとも何も考えずにキレイな写真を目指すと、リアリティを打ち消す方向に働き、その写真の印象も薄れよう。 しかし、例えば正面からストロボ撮影した生写真では、妙なリアリティを感ずるものがたまにある。生写真なだけに「ナマナマしい」と言うべきか。 作品としてのクオリティは決して高くはないのだが、距離感は圧倒的に近くに感じる。それは、写真のために創り出した世界ではなく、現実の空間にカメラを持ち込んだと思わせるからだろう。 単にキレイなだけの写真では、ガラスを隔てた世界を見てしまう。錯覚として、そのガラスには写真の枠外にあるはずのライトやレフ板が映り込んでいるように見える。それゆえ、同一空気に触れていると感じさせるナマナマしさは無い。 そう考えると、写真家アラーキ(荒木経惟)の撮る写真などは、そういったナマナマしさを狙っているかのように思える。 まあ、アラーキの写真は、彼なりの思想に基づいて撮られたもので、我輩の推測とは違うかも知れない。前にも書いたように、「答えが同じであっても、その論理は異なる」。 たまにアイドルの写真集でも、ポラロイドで撮ったカットが並べられていることがある。シロウトでも撮りうる写真。しかし、目を引くものがそこにある。 このような効果を生む写真を、我輩は「ナマ写真効果」と勝手に呼んでいる。 ローカルCMのケースでは、意図せず「ナマ写真効果」が現れたのかも知れない。確かに、中には「浮いている」だけのものもあるが、ローカルCMの身近さには独特のものがある。 念のために強調しておくが、我輩は「キレイな写真を撮るな」などと言ってはいない。それは撮影意図が決める問題だ。写真を撮る主体がどのような意図で写真を撮るかがハッキリとしていなければ目的を失う。だからこそ、色々な撮影スタイルが存在する。 ローカルCMの場合、クオリティの高いものを放映できればメジャーなイメージを打ち出すことが出来るだろう。しかし、それによって「身近さ(地域性)」や「インパクト」というものを取りこぼしてしまうかも知れない。どこに価値を置くかは、その企業の方針が決めることである。 写真も同様に、どのように見せるのかという意図が大事だ。 我輩は、「ナマ写真効果」を侮れない存在と見る。もし仮に、緻密な写真技法が生み出す効果よりも「ナマ写真効果」が意図に合っているならば、ローンで購入した虎の子の大型ストロボ装置をしまい込み、クリップオン・ストロボを選ぶだろう。 <<画像ファイルあり>> 「姑のパソコンでソリティアをする嫁」 ---------------------------------------------------- [177] 2000年11月12日(日) 「練習」 来週、職場で消防避難訓練が実施される。非常ベルを鳴らし、隊列を組んで建物から避難する練習である。 訓練を実施する意味というのは、人間の行動というのはパターン化されていれば、その行動が迅速で確実となるということ。いくら頭で方法を理解していてもダメなのだ。 例えば敬語にしても、いくら知識として持っていたとしても、普段から使い慣れていなければとっさに出てこないことがある。 まあ、避難訓練というのは、1年に1回しか行われず、行動のパターン化までには至らない。とりあえず、「何が役に立つか分からない」という程度で捉えてはいるが。 さて、昨日は原宿で写真を撮ってきた。・・・とは言っても、慣れていないということや、時間的に短かったということもあり、2人しか撮影出来なかった。ノリのよい茶髪娘のピース写真のみ。 しかし、2台のうち一方のカメラ(Nikon FA)ではストロボを使ったが、これは失敗した可能性が高い。撮影後ふと見ると、シャッターダイヤルが500分の1秒になっていた。ストロボ同調速度を超えている。 カメラのモードはマニュアルになっているので、シャッタースピードは設定値の通りだろう。しかし、気付くのにしばらく時間があったため、もしかしたら撮影後に無意識に動かしたのかも知れぬ・・・。 最近はストロボなどあまり使っていなかったこともあり、絞り値のことばかり気を取られていた。だから、シャッタースピードのことについては覚えていない。 もし日頃から操作練習をしておけば、行動はパターン化され何の苦労もなく自然にやれたであろう。 結果は現像が上がってくる火曜日まで分からないが、ストロボで撮影したものについては失敗率80パーセントと予想する。残りの20パーセントについては、ハッキリ覚えていないことに対しての期待と言える。「もしかしたらきちんと設定していたかも知れない」などと甘いことを考える。 カメラの場合、普段から空シャッターを切ったり構えてみたりするような「愛でる行為」というのは、ある程度、カメラ操作の練習にはなっていると思う。カメラの取り扱い説明書を読んで理解していても、実際の撮影では、思い出しながら操作するのでは要領が良いとは言い難い。考えた瞬間に指が動くようにしたいもの。そのために、カメラやアクセサリを日頃から触っていることが重要であろうかと思う。特にそれがダイヤル式カメラであるなら、操作ミスは撮影者の練習不足を示している。 日頃からカメラに触るには、そのカメラを気に入っている必要がある。思い入れがあるカメラならば、自然と手にとって空シャッターを切ったりするだろうと思う。そういった魅力も、カメラに必要な資質なのだ。プラモデルのようなカメラでは、なかなかこうはいかない。 今回の撮影ではとりあえず、もう1台のカメラでちゃんと撮れていると思う。サブカメラの意義はこのようなことにもあるのかなと今更ながら気付いた。 ---------------------------------------------------- [178] 2000年11月13日(月) 「auto110」 我輩は中判カメラにそれほど思い入れは無い。中判には画質要求に対するウェイトが大きく、それ以外の要求は無いのだ。 元々、その大柄なボディに緻密感を感じないということもあるが、それ以上に35mmカメラの発達は頂点を通り越えて蛇足の域にまで及ぶほどの勢いである。失敗に終わったカメラから名機と言われるカメラまで、各メーカーから様々なタイプのカメラが無数に出ている。メカニズムとしては35mmに勝るカメラは無いだろう。 だから、35mmカメラというのはハードウェア的に面白い。 しかし、我輩が時々気になっているカメラとして、「PENTAX auto110」がある。これは、昔懐かしのポケットフィルム(110サイズ)を使う一眼レフカメラだ。 当時はポケットカメラというと、横長の安いカメラしか無かった。フィルムカートリッジ形状の制約もあって、それほどメカニズムにバリエーションは生まれなかったのだ。 しかし、この「auto110」は35mmカメラをそのまま小さくしたようなものだった。 ペンタックスというメーカーは、中判カメラでも35mmカメラをそのまま大きくしたようなものを作っている。フィルムサイズが違えばカメラのサイズも変わるということを、ここまで素直に具現化するのもスゴイと思う。 それぞれのフィルム規格によってもちろん苦労があろうが、大きな中判に「苦労したろうな」とはなかなか思わない。しかし、ポケットフィルムを使う一眼レフというのは、話を聞いただけで「苦労したろうな」と思える。そしてカタログなどで写真を見たり、店頭で現物を見たりすると、その思いはより一層強くなる。 あんな小さなレンズが交換式だということ、色々なレンズが用意されているということ、生意気に外付けワインダーが用意されていることなど、どうして感動せずにおれようか。 最近、ニコンFなどをミノックスサイズのフィルムを使うミニチュアカメラとして再現したものが出ているが、やはり小さな再現物というのは、メカニズムファンには気になる存在であろうかと思う(残念なことに、これは外見だけの再現だが)。 余談だが、銃器の世界でも、ミニチュア・ガンのファンは存在する。それは実物と全く同じメカニズムを持っている。そこが楽しいのだ(そのため、日本では銃刀法に引っかかる)。 さて、記憶に新しいと思うが、1980年代の終わり頃、ポケットフィルムを使う「ヤドカリカメラ」が流行ったことがあった。 「ヤドカリカメラ」とは、ポケットフィルムよりも小さなオモチャカメラのことである。フィルムを装着すると、フィルムカートリッジがカメラからハミ出すためこう呼ばれた。 各社から色々発売されたが、結構OEMと思われるような酷似したカメラが多かった。その中でも「セルビ」というカメラ名はよく耳にした。 多くはフィルム交換可能カメラであったが、フジフィルムだけは「写ルンです」という使い捨てタイプであった。その後、フジフィルムは35mmバージョン「写ルンですHI」と展開を広げ、独自の市場を作ることになる。 しかし結局、ポケットフィルムの市場は、この「ヤドカリカメラ」の流行の廃れの渦に巻き込まれて根絶してしまった気がする。 今では、ポケットフィルムは大きなカメラ店でしか手に入らない。あるいは小さな店で10年前に期限が切れたものがあるかも知れない。 いずれにせよ、現像環境も良いとは言えず、事実上絶滅したと考えたほうがいい。 もし我輩がこのような環境の中で「PENTAX auto110」を買うならば、これは単なるオモチャにしかならないだろう。それはカメラとして全く意味が無い。そこが悩ましい。 そこで、フィルムメーカーに対して実現不可能な提案を1つしたい。 わざわざ「実現不可能」と書いているのは、採算が取れないということが明らかだからだ。それを承知で敢えて言わせてもらうとするならば、ポケットフィルムカートリッジ形のデジタルカメラを発売して欲しい。 それをポケットカメラのフィルム室に装填すると、古い110カメラがデジタルカメラとして甦る。もちろん、他に消えて行ったフィルムフォーマットについても、同様の製品を発売する。 これはフィルムメーカーとしての責務だと思うが・・・、やはり無理過ぎる要求だろうな。いや、ただ言ってみたかっただけだ。 ---------------------------------------------------- [179] 2000年11月16日(木) 「煮詰まった時の雑念」 人間、煮詰まると何もうまくいかなくなる。 ここ2日ほど職場のWeb環境の調子悪く、全く仕事にならない。FTPで客先のサーバにファイルを転送しなければならないのだが、いつも途中で切断されてしまう。完全復旧も見通しがつかないとのこと。繋がったかと思い作業を始めると、途中でまた切断されてしまう。 それ故、他のことが考えられなくなってしまい、当サイトの「カメラ雑文」更新までも滞っている。帰宅すれば即、思考は停止。 そんな時ふと、思った。 これは我輩に限ったことかも知れないが、1つのことに思考が囚われ過ぎていると何も出来なくなることがある。根を詰めると他の事が考えられなくなるのだ。 我輩は飽きっぽいクセに、いったんハマると根を詰めて取り組む。それは子供の頃から変わらない。 プラモデルの組立て、モデルガンの木製グリップ製作など、作業が順調な時ならばいつでも中断する事が出来るのだが、一度困難な部分に入ると、もう手が放せなくなってしまう。 こうなると時間が経つのも忘れる。「ご飯だよ」と言われても聞こえない。 結局、それが逆効果となり諦めてしまうことも多かった。そして後日改めてやってみると、すんなりうまくいくことがあった。 写真のことでも、あまりに1つの観念に囚われ過ぎていると行き詰まることがあるような気がする。何でもないことにこだわり過ぎ、他の事が目に入らなかったりするのが原因か。 もっと発想の転換をすれば、写真についての何か新しい可能性を見出せるかも知れない。その「何か」とは、現時点の我輩には分からない。ただ何となく、そう感じる。 もしこの文章を読む者が、ここから何かが思い当たり、そして自分なりの解釈で新しい地平を見ることが出来るなら、それはそれでいい。 また反対に、我輩が将来この文章を読んだ時、この文章を書いた時に気付かなかったようなものをそこに見るかも知れない。 結局、何が書きたいのか分からなくなってきたが、人間、煮詰まると、肝心なことは考えられない代わりに妙なことを考えてしまうのか。 それは我輩だけに限ったことかも知れない。 ---------------------------------------------------- [180] 2000年11月14日(火) 「我輩のストロボ事情」 先日の雑文でストロボ撮影をX接点以上のシャッタースピードをセットしてしまった件は、やはり気のせいではなく、1/500秒でシャッターを切っていたことが判明した。 ニコンFAはスクェア型シャッターのため、画面上部が切れていた。しかし、FAはシンクロスピードが1/250秒のため、1/500秒でもトリミングすれば何とか使える。 さて、ストロボ関連の話題として、我輩のストロボ事情をここに書こうかと思う。 我輩がEOS630を使っていた頃、専用ストロボ「420EZ」を2台使っていた。 これをTTL延長コードで接続し、多灯撮影としていた。 しかし、ストロボの電池はすぐに無くなる。2台のストロボで8本の単3電池を使うことになるが、使用済み電池を大量に生産することになり、これでは資源の無駄だと心を痛めた。 少なくとも室内では家庭用電源を使いたい。そうすれば廃棄物の問題も解決でき、更には安定したチャージも可能となる。もちろん、経済的にもありがたい。 そこで早速、ストロボを改造することにした。 ストロボの電池が4本であるからと、どこからか探してきた6ボルト用のACアダプタを無理矢理接続した。 結果は良好。チャージも早く、何枚撮影しても調子が変わらないのが良い。 ある日、このストロボにアンブレラを付けてテーブルトップ撮影をしていた。なかなか構図がうまくいかず、ストロボは電源が入ったまま待機状態であった。 どれ程時間が経ったろう、突然大きな音で「パンッ!!」と破裂音がした。見ると、2台のうち1台のストロボから煙が上がっている。大慌てでスイッチを切った。 キナ臭い匂いが立ちこめた室内でしばらく様子を見ていたが、落ち着いたので外観を見てみると、特に変わったところは無かった。 試しにもう一度電源を入れてみると、パイロットランプが点灯した。 「なんだ大丈夫か。故障したかと思ったぞ。」 しかし次の瞬間、またもや「パンッ!!」と音がして煙が上がった。 後日ストロボを分解してみると、主コンデンサーの端子部分が黒く焼け焦げていた(ビニール皮膜が多少融け、周囲にカーボンが付着)。高い電圧によって端子間で放電が起こったのか。原因といえば、我輩の改造しか考えられぬ。 我輩は、ストロボが使えなくなったことよりも家庭用電源が使えないということのほうが心残りだった。また電池を消費する生活に戻らねばならない。 <<画像ファイルあり>> そんな時、サンパックのストロボに家庭用電源が使えるものがあると知った。「B3000S」というものがそれだ。 これによって我輩は、電池の浪費を最小限に抑えることができるようになった。改造品ではないため、またあの時のような事故は起こらないだろうと思う。 さて、2台あった専用ストロボ「420EZ」のうち1台はまだ使える状態である。しかし、肝心なEOSを下取りに出してしまい、専用ストロボは活用出来なくなった。さすがに改造ストロボは下取りには出せない。 カメラを失った専用ストロボというのは、言うなれば「未亡人」である。他のカメラと再婚させようかとも思うのだが、専用ゆえに前のカメラへの未練が断ち切れず、もらい手は誰もいない。 <<画像ファイルあり>> そんなわけで、しばらく出番のなかった「420EZ」だったが、先日、その未練を断ち切るべく、新たな改造を行った。 それは、専用ストロボを汎用ストロボに変える改造である。 専用ストロボを専用たらしめているのは、沢山の電気接点である。余計な電気接点を取り除いてしまえば、単に「発光する」ということに専念出来るはずだ。 早速分解し、トリガー接点以外は全て取り除いた。 <<画像ファイルあり>> ニコンF3(ガンカプラー経由)やニコンFAに取り付けてみたが、特に問題は無い。ただしこのストロボは外光式ではないため、自動調光は出来ない。露出はフラッシュメーターで測ることになる。 一応、光量調整は背面パネルで段階的に行えるので、毎回無駄にフル発光しなくともよい。 また、ガイドナンバーと撮影距離で絞り値を割り出す「フラッシュマチック」による方法でも撮影も可能だ。面倒くさいのが難点だが・・・。 さて、家庭用電源を使うストロボ撮影の話に戻るが、いくら家庭用電源を使っても当然ながら光量が増えるわけではない。逆にアンブレラなどを使えば光は拡散して光量は小さくなる。 もし、絞り込んで被写界深度を深くしようと思っても、ストロボの光量が小さければどうしようもない。いくらシャッタースピードを遅くしようとも、ストロボの光は一瞬なので意味が無い。 やはり絞り込むにはもっと光量の大きいストロボが必要となる。そこで、スタジオ用のストロボを調べてみた。 どれも大きく、値段も40万を越えるものばかりだった。その中で1つ、コンパクトで安いものを見つけた。それが、「COMET ダイナライトM1000」だった。 それでも35万円くらいはしたが、執念のボーナス払いでなんとか買うことができた。出力は1000W/S。我輩にとってはそれでも充分過ぎる。 <<画像ファイルあり>> 噂では、コメットのジェネレータはあまり評判が良くないと聞く。しかしこれは、製品そのものは「メイドインUSA」。7年くらい使っているが、特に問題は無い。 よく人には「バクダンの起爆装置かと思った」などと言われるが、これでもなかなかデザインが良いと思っている。 高い買い物だっただけに、今までは少し大事にしすぎたきらいもあるが、もっと使う機会を増やして自慢できるような写真を撮ろう。 自慢できる写真とは・・・? 決まっているじゃないか、生産中止となったニコンF3を美しく撮り、F3を持たぬ者を悔しがらせるのだ。 F3を持っていなかったら、多分買わなかったろうな。 ---------------------------------------------------- [181] 2000年11月20日(月) 「我輩の場合」 フィルム(銀塩)画像とデジタル画像の画質劣化の違いは、フィルムのほうは徐々に変退色するのに対し、デジタル画像の場合はある日突然読めなくなるということだ。 そうなると、現時点では長期保存はフィルムに頼らざるを得ないことになるが、それでもフィルムが変退色するのを手をこまねいて見ているわけにもいかぬ。 そこで、「我輩の人生において利用する範囲」という限定で、フィルム画像の電子化を行いつつある。しかし、ただ闇雲にスキャンするのは我輩の性に合わない。我輩なりのスキャン画像のガイドラインを決める必要がある。これを基にして作業を行うことによって、その場その場の迷いある判断を無くすのである。 これはあくまで我輩なりのガイドラインだが、以下の理由に基づいて決定された。 まず、要求する条件は以下の通り。 長辺を統一する フォトCDとの併用を前提とする フィルム上の情報を出来る限り全て取り込む 普遍性の高い画像フォーマットを選択する(圧縮無し) 保存はCD-Rとする 「長辺の統一」については、「フォトCDとの併用」を念頭に入れて考える必要がある。そうなると必然的にフォトCDの最大サイズ「2048×3072ドット(16BASE)」が上限となる。 ただし、既に電子化された画像に斜め補正(回転処理)を施すと、周囲の画像を断ち切る必要がある。そのため、ある程度の余裕が必要か。 今までの作業上、長辺を2700ドットとしておけば問題無いだろう。そして短辺は「なりゆき」とした。しかし、一応基本としては「2700×1850ドット」を決めることにする。これが電子データの「元」という位置付けとなる。 写真画像の「元」としてはサイズが小さめかも知れないが、これでも高感度フィルムを使用すると粒子が確認できるくらいであるから、まあ十分だろうと思う。 我輩のフィルムスキャナーは、比較的小さなサイズを取るとスキャン方向にスジ状のノイズが乗ってしまう。しかし不思議なことに、大きなサイズではそれが消える。そのため、なるべく大きく取ってソフト上で縮小するクセがついた。 3900dpiくらいでスキャンすると、長辺が5500ドットくらいになり、それを長辺2700ドットに縮小すると約1/2に縮小されることになる。少なくとも2ドット使って1ドットを生成したいので、1/2よりも縮小率が小さくならないように(わずかな縮小にならないように)している。 実際の使用では、この「元」を縮小処理して利用するわけだが、画像縮小は最終段階で行う。説明の必要は無いと思うが、画像の回転、拡縮、色調整などは画像の情報量を削っていくことになるため、十分大きな情報量のうちにこれらの調整を行い、縮小結果で最大限の情報量を持てるようにするためだ。 一方、「元」に加え、画像表示用として縦辺(長辺、短辺関わらず)を768ドットに縮小したものを格納している。これは、パソコンディスプレイのXGA(1024×768ドット)で全画面表示させることを前提としており、色や濃度を確認するためとした。このファイルがあれば、いちいち大きな元画像を開く必要が無い。 「普遍性の高い画像フォーマット」というのを見極めるのは非常に難しいが、現時点では「ビットマップ(BMP)」か「ティフ(TIF)」というところか。しかしティフはいくつかバージョンがあるためビットマップに決めた。単純なフォーマットのため、比較的永く利用出来ると思われる。 圧縮する場合は可逆圧縮でなければならないが、やはりエラーが恐いので圧縮は前提としない。 カラー写真の場合は、当然フルカラーでの記録となるが、モノクロ写真でもパレットを持たせぬようフルカラー保存とする。 これによって得られた画像ファイルでは、1画像当たりの容量はおよそ17MB。これが36枚あったとすると612MBとなり、フィルム1本分をCD-R1枚に収めることでキリが良い。 多少余った容量には画像一覧ソフトなどをコピーしておいたりする。 繰り返すが、これはあくまで我輩の場合である。 他に合理的な決め方があるかも知れぬが、「1度決めたら変えない」というのが安心感に繋がる。そういう意味では、ガイドラインの内容よりも、ガイドラインの存在そのものに意味があると言える。 ---------------------------------------------------- [182] 2000年11月22日(水) 「自作DOS/V機のすすめ」 ここはパソコン関連サイトではないので、あまりこのような話題は馴染まないかも知れないが、前回の雑文の補足として書いてみた。 パソコンの達人ならば、「言われずとも分かっている」というものであろうかと思うが、とりあえず参考情報として捉えてもらえればいい。 <まず最初に結論から> 我輩の考えでは、写真画像を取り扱うのなら自作DOS/V機(PC/AT互換機)が適している。なぜなら、写真のような巨大画像を取り扱うには、パソコンの性能が貧弱というのは致命的である。 しかし自作DOS/V機なら比較的安価に高性能が得られ、拡張性も格段に高い。 <他のパソコンと比較> さて、パソコンには幾つかの種類があり、自作DOS/V機の他に「市販DOS/Vパソコン」と「Mac(マッキントッシュ)」がある。 NECの「PC-98」というのもあったが、今は絶滅しているため考慮しない。 「市販DOS/Vパソコン」は最もメーカーが多く、価格も安い。しかし、余計なソフトが詰め込まれていることが多く、そのためにせっかくの性能がスポイルされている。 最適な環境を構築するためOSからインストールし直そうとしても、メーカー独自のユーティリティソフト(環境設定用ソフト)などを必要とする場合もあり、処理スピードと引き替えに使い勝手が悪化する場合がある。 また、そのような独自ユーティリティソフトはOSのアップグレードに対応しないこともあり、注意が必要。 本当に安い製品などは、電源部容量が必要量を下回っているというような信じられないようなこともあり、新たな増設を行うと起動すらしないこともある。最悪の場合、火災の危険もある。 もし画像処理用として使うなら、ハイエンドクラスを狙うしかないだろう。そのかわり、他の余計なものもハイエンド志向となり、不必要な性能にまで出費を強いられる。つまり無駄が多い。 当面必要もないような「DVDドライブ」、「MPEGエンコーダ」、「3Dグラフィックボード」、「3Dサウンドボード」、「TVチューナ」などに金を使うくらいなら、メモリを増設したりCPUをアップグレードしたほうがいい。 自作DOS/V機ならば、必要な部分だけの性能を突出させることが可能なのだ。 次にMac(マッキントッシュ)について。 一時期、「画像ならMacだよ」と言われていたが、これは2つの意味がある。 1つは、元々GUI(グラフィカルな操作体系)はMacOSが最初に採用し、そのOS上で動くグラフィックソフトが豊富に存在したということが理由である。しかし、現在ではWindowsとその上で動くソフトはMacと遜色無いものとなった。 もう1つは、カラーマネジメントのことだ。ディスプレイ画面の色と印刷物の色を同じものにするには大変な努力が必要である。Macが初めて印刷業界で導入される時、それは大きな問題だった。しかし今ではMacが印刷業界での標準となり、Macのカラーマネジメントによって印刷物の色を指定するシステムが確立されている。そういう意味で、「画像ならMac」ということが言われる。 しかし、今ではWindowsベースのDTP(デスクトップパブリシング)も徐々に浸透しつつある。顧客から画像データを直接支給される機会も多くなり、それらのデータの多くがWindowsベースであることから、これは当然のことだろう。 さて、これでMacとWindowsが並んだことになるが、ここではさらにMacの悪口を書く。 Macはソフトも高価(気軽なソフトが少ない)なうえ、マウスがワンボタンで操作性がすこぶる悪い。もちろんホイールマウスなども無い。それゆえ、片手は常にキーボードの上。マウスに右ボタンさえあれば、すぐにメニューダイアログが表示できるのだが。まるで1つのボタンに幾つもの機能を詰め込んだAFカメラのようだ。効率がなかなか上がらない。 ハードウェアの拡張に関しても、ユーザーサイドのメモリ増設は「保証外」となってしまう。純正でないメモリなどもってのほか。我輩のMac(Power Macintosh 7600/120)は中古であるから構わず自分で増設したが。 しかも、現時点でのMacOSはマルチタスクでないので、同時に複数のソフトを動かすのが難しい。Windowsならば、擬似的なマルチタスクとは言え、バックグラウンドでの同時処理が可能となる。 同時に複数の作業をしない者には有り難みは無いかも知れないが、これは大きな違いである。 我輩の行っているカメラカタログのスキャンについては、複数のカタログを同時に作業する場合が多い。それぞれ「スキャナ作業」「画像縮小・減色」「マルチドキュメント化」の工程を分けて同時処理する。つまり、カタログAをスキャン中の時、同時にカタログBの減色処理が行われ、また同時にカタログCのマルチドキュメント化が行われているということになる。これらは全てバッチ(一括)作業で行い、手作業をしない。 <何の性能が必要か> 通常、パソコンの性能を見る場合、CPUの性能ばかりに目が行くだろうと思う。しかし、ここではCPUよりもメモリやハードディスクの容量のほうが重要である。 CPUの性能が多少低くとも、時間さえ掛ければ何とか処理が完了出来るだろう。しかし、メモリやハードディスクの容量が小さければ、途中で処理不能となる場合が発生する。十分に性能が低ければ最初から画像が取り込めないのだろうが、生半可な性能だと、取り込んだファイルを保存出来なかったり、サイズを縮小出来なかったりして立ち往生するのだ。その結果、せっかく取り込んだ画像を放棄することになる。 そもそも、パソコン上で大量のメモリを消費する作業を何度も行えば、メモリ領域が細分化されリソースが足りなくなる。そうなると、「メモ帳」すら立ち上がらなくなったりする。 制限速度が80キロの高速道路を走るのに、最高速度80キロちょうどの自動車を走らせる者はいないだろう。同様にパソコンでも、要求された性能があれば絶対に安心というわけではない。やはり可能な限り性能には余裕を持たせるべきだと考える。 メモリが足りないと、OSはハードディスクの領域をメモリ代わりとして使う。これがスワップ(仮想メモリ)であるが、メモリよりも格段にアクセスの遅いハードディスクへスワップが発生すると作業効率が極端に低下するため、それを回避するにはメモリ増設しかない。 「フォトショップ」などで複数のドキュメントやレイヤーで作業するならば、少なくとも128MBのメモリは必要となろうか。写真画質を扱うなら512MBは欲しい。今なら128MBのDIMMメモリが1万円前後で手に入るので、4万数千円でこの環境が整う。今どきのパソコンなら512MBくらいは拡張出来るだろう。 もしメモリ増設が対応外でも、メインボード(マザーボード)を交換すれば問題無い。それこそ1GB以上のメモリが積めるようになる。 <なぜそんなにメモリが必要か> 画像ファイルの容量が10MBだからと言って、必要メモリも10MBで済むわけではない。ちょっと考えただけでも次のような要求がある。 (1)画像本体を収める量(複数ファイルを開く場合もある) (2)コピー&ペーストに必要な量 (3)画像加工を施す履歴 (4)レイヤーの情報 当然、OS本体が使用するメモリ容量が不十分ならば、スワップが発生して効率を格段に下げる。 CPUの速度を2倍にしたとしても処理全体がCPUをフル稼動させているわけではないので、単純に作業効率が2倍にはならない。しかし、メモリ容量を増やせばスワップ頻度が確実に減るため、数十〜数百倍の効率アップが望めるのだ(元々スワップ頻度が低ければ効果は低いが)。 <そもそもなぜそんな大きな画像が必要か> 「Webでしか使用しないので大きな画像を必要としない」という考え方もある。しかし、どうせ手間を掛けてスキャンするならば、二度とスキャンしなくてもいいようにデジタル原版を作ったほうが効率が良いと思う。そうでなければ、将来的にもっと大きな画像が必要になった時、再び同じ写真をスキャンすることになる。 スキャンの手間とは、スキャニング時間だけではなく、原版写真のセッティングや色調整など細心の注意を要する部分が大きい。 色調整などは、前回スキャンした画像と全く同じにすることは至難の業。もし微妙に違えば、どちらを「正」とするか悩みを抱えることになる。 そういう手間は1度で済ませておきたいものだ。 <結局のところ> ハードディスクは日々性能が向上している。今では30GBなどは1万5千円くらいで手に入る。80GBでも5万円以下だ。ただし、これら汎用品はMacや市販DOS/Vパソコンに使えるかどうか分からない。普通は「純正品以外はサポート外です」となるが、純正品ではかなり割高となろう。 しかし、自作DOS/Vパソコンならば、汎用品の恩恵が受けられる。もしインターフェースが違っても、インターフェースそのものを増設すれば接続可能となる。DOS/Vパソコンのパーツの規格は全世界共通のため、必要となる周辺機器はどこかにあるものだ。 新しいパソコンを買い換えると言っても、余程グレードを上げない限り、ディスプレイやフロッピーディスク、CD-ROMドライブ、キーボード、マウス、メモリなどは同じようなもの。それならばちょっと勉強して、本当に必要な部分だけを強力にグレードアップできるように自作DOS/Vパソコンにチャレンジしてみたほうが良いと思う。 どうせ、メーカーのサポートなどあてにならぬ。DOS/Vパソコンの自作は、最初は色々な失敗もあり、予想外の出費となることもあるかも知れないが、トータルコストは格段に自作のほうが低い。 勉強が必要だと書いたが、どのみち、パソコンで画像を扱うならそれなりの勉強は必然だろうがな。それはカメラも同じか。 ---------------------------------------------------- [183] 2000年11月24日(金) 「ヘナチョコ」 先日、客先から直帰することがあり、そのついでに秋葉原へ寄った。秋葉原では「カメラのにっしん」という有名な中古カメラ店がある。 「35mmカメラはもう買わない」と決めた我輩だったが、今回は妻が使うカメラを探すのが目的。 以前、大分の別府に夫婦で旅行に行った時、それぞれのカメラを持って行った。我輩はNikon F3、妻はフジフィルムの安い単焦点コンパクトカメラだった。しかし、妻のフィルムは露出の過不足がひどく、ピントも中抜けしている。そこに写っている我輩の写真にまともなものは少なかった。 そこで、今回は少しでも良く写るようにと、AF一眼レフを持たせることにした。 我輩の持っているAFカメラは、ミノルタα-9000しかない。しかしこれを持たせると「重くて持てない」などとぬかす。 仕方がないので新たに軽いカメラを買い求めることにしたというわけだ。 最初、「AFならキヤノンしかない」と思ったが、既に所有しているミノルタのαレンズがあるため、ミノルタから選ぶことにした。 店頭では、まず最初にミノルタα-3700iが目についた。これはかなり小型であり、どんなにヘナチョコであっても、これくらいなら大丈夫であろう。しかし、ストロボが内蔵されていないというのは、シロウトには煩わしい。 そこで次に目を付けたのが、ミノルタα-303siだった。これはボディのみで1万4千円也。手持ちが2万円しかなかったので、この値段は魅力的である。 店員を呼んで棚から出してもらい、いろいろとチェックした。 我輩もこのカメラについては勉強不足だったが、なんとマウントがプラスチック製。そういうのがキヤノンやミノルタにあるとは知ってはいたが、これがそのカメラだったとはな。 そして、更に驚いたのが、電子音が無いということだった。普通、AFカメラは合焦した時に「ピピッ!」という音を発する。しかしこのカメラは何の音もしない。 店員に訊くと、「え?あ、ホントだ。」などと言う始末。 しかしまあ、1万4千円。 結局そのカメラを包んでもらった。 さて、買ったカメラを家に持ち帰り、24mmレンズを装着して妻に渡した。 「どうだ、軽いだろう!」 妻は両手で受け取り、しばらく考えていた。 「軽い・・・だろ?」 何も言わないのでもう一度言ってみた。 すると一言、「よく分からない。」 結論:ヘナチョコには何を渡してもダメなんだな・・・。 <<画像ファイルあり>> さて、α-303siの印象についてだが、これがまた意外と楽しい。 α-9000で慣れていると、α-303siのAFは実に速く感じる。そして電子ダイヤルが懐かしい。 見ると、液晶パネルにホコリがたくさん付着している。指で拭ったが取れない。どうやら内側に付いているようだった。どこから入り込んだのか不思議だったが、試しに爪でパネルカバーを剥がそうとしたらバリッと剥がれた。よく見ると2枚の両面テープで固定しているだけだった。これが安さの秘訣か。 しかし一応、フルモードが入っている。 気軽にコンパクトカメラ的に撮りたい場合は、妻に借りて撮るのもいいかも知れない。 ここまで書いてふと我に返った。 中判で撮らなくてもいいようなものを気軽に撮るために35mmサイズのF3を買ったハズだった。このままではどんどん安易なほうへ流れてしまい、F3でさえ大げさな撮影用のカメラと位置付けられることになりかねない。 いやはや、人のことをヘナチョコだと言えた義理か。 ---------------------------------------------------- [184] 2000年11月26日(日) 「名前」 人の名前というのは、親が付ける。 本人の好き嫌いなどは聞けないから、親の願いや夢を託されたりする。最近ではマンガの主人公から名付けることが多いと聞く。 昔ならば、最初に生まれると「太郎」、次が「次郎」、3番目が「三郎」、4番目が「四郎」、5番目が「五郎」・・・・という番号制もあった。 カメラの場合もそれに似ている。 カメラ本人に好き嫌いを聞くことは出来ないから、メーカーが名付けることになる。「キヤノンF−1」は、一眼レフの頂点という希望を込めて「フレックスNo.1」というのが語源らしい。一方、ニコンの「F」〜「F5」は「太郎次郎」のノリか。 しかしそれも時代と共に変わってきた。 少し前、「サムライ」というハーフサイズカメラが登場した。初めて聞いた時、何が「サムライ」なのかは分からなかった。慣れると違和感なく受け入れられるだろうが、「サムライ」とか「ショーグン」、「ニンジャ」、「ハラキリ」などというエキゾチックな語感は、どちらかというと外国人好みだと思う(そういえばバイクの名前が含まれているな)。 それにしても「サムライ」などという単語は、受け取る側のイメージを強烈に固定するような気がする。もしあれが「SA-M1」などという名称だったら、もっと違うユーザが得られたと思う。なぜなら、少なくとも当時は「サムライ」という名前のカメラを使う自分の姿をイメージすることが難しかったからだ。だから名前だけでシロウト向けだと判断してしまう者もいるだろう。我輩などは、今頃になってサムライの中古が気になったりする。当時はそのネーミングに惑わされ、マジメにスペックなど見なかったからな。 まあ、そういうのは逆に、新しい購買層を開拓するという意図があるのだろうが・・・。 それから「EOS-1」という名称にはかなり違和感を持った。まるでアニメロボットのヒーローの名前のよう。 当時はEOSのプロスペック機がどのような名前になるのかということで雑誌などで話題になっていた。しかし、いざ登場した時には拍子抜けした。「イオス・ワン」とは・・・。 時間と共に皆は慣れたかも知れないが、我輩はいまだに「イオス・ワン」という語感には引っかかりを感ずる。しかもデザインが当時の最先端のままで止まっている。 そうこうしているうち、ついに「EOS-Kiss」が出た。あまりのネーミングにぶっ飛んだ。 カメラに「キス(いわゆる「チュー」)」などと名前を付けて、誰が使うんだと思った。外国ならば、家族の関係でキスは日常的挨拶であろう。しかし「EOS-Kiss」というネーミングは日本仕様だけだ。日本の家庭用カメラに「キス」はどうかと思う。 けれども、CMなどで慣れたのか、誰もが気にせず使っている。 ・・・しかし、何度見ても「イオス・キス」という言葉は恥ずかしいなぁ。分かってるのか?「キス」だぞ「キス」。英語圏の人が見たら、「接吻」と書いてあるんだぞ。 「ヘイ、ミスター。キミのカメラって、なんて名前だっけ?」 「マイ・カメラ・イズ・キス。」 「What?! キス?! Youはカメラにニックネームなんて付けてんの? アブないヤツだね! どうせならアレキサンダーとかにしなよ。」 かたやミノルタも負けてない。「α-Sweet」だと。確か、「スィート」って「甘い」とか「愛しい人」っていう意味じゃなかったか? 全くどいつもこいつも・・・マジメにやれよな。 聞き慣れているからということが判断を鈍らせているのなら、同じコンセプトで名前を付けてやろうと思う。 ・「EOS-Pink」 (読み:イオス・ピンク) ・「EOS-Lovely」 (読み:イオス・ラブリー) ・「EOS-Adult」 (読み:イオス・アダルト) ・「α-angel」 (読み:アルファー・エンジェル) ・「α-Touch」 (読み:アルファー・タッチ) ・「α-heart」 (読み:アルファー・ハート) 売れない詩集でよく使われそうな言葉を集めてみた。なかなか雰囲気出てるだろう? しかし、ミノルタも「登録」や「パノラマ」など日本語表記に力を入れ始めたから、もしかしたら次のカメラ名は日本語で攻めてくるかも知れない。 「αー情熱」 「αー友情」 「αー愛情」 どこかのみやげ屋にぶら下がっていたら似合うだろうな。 ---------------------------------------------------- [185] 2000年11月27日(月) 「本当の色が判らない」 2年前、別府の「地獄めぐり」で写真を撮ってきた。「地獄めぐり」とは、様々な色をした温泉噴出口のことだ。よく見ると水の色ではなく沈殿物に色がついているものもある。 「地獄」はいくつもあり、地獄巡りの回数券を買うと、「山地獄」、「海地獄」、「血の池地獄」、「竜巻地獄」、「白池地獄」、「金竜地獄」、「かまど地獄」、「鬼山地獄」に行くことが出来る。 別府は子供の頃には何度も何度も行っているのだが、大人になって行ったのはまだ2回目だった。 1回目は年末年始の頃で陽も短く、ろくに写真は撮れなかった。 しかし2回目は夏だったため、良い条件で写真に収めることが出来た。 ただ、問題はフィルムだった。旅行ということでネガフィルムを使用した。 ネガをスキャナで取り込むと、その色調整に苦労する。なぜなら、どんな色で写っているのかが判らないからだ。もしかしたら調整前の色のほうが真実に近かったりするかも知れない。 色の手掛かりとなるのは、「人間の肌の色」など、最初から判っている色である。しかし我輩が撮影した写真にはあまり人間が写っていない。また、岩や土の色も温泉の沈殿物で何層にも色が付いていて、これも色の手掛かりとはならない。 しかも地獄の色は、日によって変化する温泉中の成分によっても変わる。同じ地獄であっても、ある時は緑、ある時はコバルトブルーだったりするのだ。現象としては興味深いが、スキャン作業としては厄介な話だ。 地獄めぐりの写真、近いうちに「写真置き場」のコーナーで紹介しようと思うが、そういうわけで地獄の本当の色が知りたければ、ぜひ実際に現地へ行って確かめて欲しい。 硫化水素の臭いもしてくるぞ。 ---------------------------------------------------- [186] 2000年12月04日(月) 「マシン隼」 昔、「マシン隼」というアニメ漫画があった。「マッハGo!Go!Go!」と似たようなもので、特別仕立てのレーシングカーを使ってレースするアニメだった。 あまり詳しくは覚えてはいないのだが、たった1つだけ鮮明に覚えているシーンがある。 「マシン隼」の主人公(「隼」だったか?)は、お約束通り、仲間の中では一番カッコイイ車を運転する。そしてその車は、まるで飛行機のジェットエンジンのようなものを後部に付けているのだ。そしてそのエンジンは交換式となっており、エンジン・ナセルの数に応じて「V1エンジン」、「V2エンジン」、「V3エンジン」、「V4エンジン」、・・・という。 さて、これらエンジンの中で「V3エンジン」だけはクセがあった。隼の父親もレーサーだったのだが、このV3エンジンの爆発事故で亡くなっていた。走行途中で異常な振動が発生し、止める間もなく爆発したのだ。 しかしこのエンジンは、うまく使いこなせればどのマシンにも負けない素晴らしい性能を発揮すると言われていた。父親は、それに賭けて命を落としたのだ。 ある時、隼はどうしても相手に勝たねばならなかった。詳しくは覚えていないが、もしかしたら、敵がレースに勝ったら世界を征服すると言ったのかも知れない。強引な展開が当たり前だった頃のアニメだから、予想を越えた事情があったのかも知れないが、とにかく隼は絶対に負けられなかった。 そこで隼は、あの「いわく付き」のエンジンを使うことを決心した。周囲は止めたが、かといって他に勝てる手段も無い。 「俺もオヤジの子だ。オヤジと同じようにV3に賭けてやる!」 隼は、レースの途中でV3エンジンに換装した。 案の定、V3エンジンを積んだ車は異常振動を起こした。 「まずい、これが異常振動か。やはりレース続行は無理だ、ピットインしよう。」 仲間もしきりにピットインの指示を出す。 「隼、あきらめろ、爆発しちまうぞ!」 しかし、隼の頭の中に父親が現れた。 「隼、恐れるな。V3エンジンを信じるんだ。車を止めてはならぬ。」 「けど、このままいくと、俺もオヤジと同じ運命を辿ることになる。」 隼はもうレースを捨てていた。 「隼、V3は素晴らしいエンジンなんだ。V3を信じてアクセルを踏め。」 隼は葛藤した。死を覚悟でそのままアクセルを踏み込むのか、それとも仲間の指示に従ってピットインするのか・・・。 隼は、アクセルを踏み込んだ。 マシンの振動は、より激しくなり、隼は覚悟を決めた。 すると次の瞬間、V3エンジンからエメラルド色の光が放たれ(漫画版では「七色の光」)、ぐんぐん出力が上昇したではないか。 隼はレースに勝利した。 隼は、再び父親の姿を見た。 「隼、V3エンジンの振動に怖じ気づいて途中で出力を弱めたらダメなのだ。V3を信じて最後まで出力を出さねばならぬ。」 父親が命を賭けて息子に教えたかったことは、「いったん踏み出したら迷うことなく走れ」ということだったのかも知れない。 隼は、勝利の喜びを胸に、遠い空を見上げるのだった・・・。 とまあ、カメラとは全然関係ない内容だったが、あらすじは分かって頂けたろうと思う。 何事も、素晴らしい性能を持ったものは、クセというものがあり、そこが盛り上がるシーンでもある。 カメラにも、いろいろな名機が存在するが、それらはトータルな性能としては決して素晴らしいと言えるものでもない。人によってはかなり使いにくいものもあるかも知れない。まさか爆発などしないだろうが、使い方を誤ると期待した性能を全く発揮しないというのはよく聞く話である。そしてそれが「クセ」と呼ばれ、使い手を選ぶことになるのだ。 (もちろん、カメラの使い方にとどまらず、撮影テクニックにも通じる話だ。) そういうクセを克服して使いこなすということ自体に「やりがい」や「喜び」を感じることもあろうかと思う。それが如何に使いにくくとも、他では得られない性能や効果を手にすることができるならば、苦労が苦労ではなくなるのだ。 ある意味、趣味とはそういった困難を克服し、達成感を得ることではないかと思う。それが動機の全てではないにせよ、重要な動機には違いないと我輩は思う。 だからこそ、今どきの「フィルムを入れてシャッターボタンを押すだけ」というカメラは、趣味の道具として抵抗を感ずる者も出てくることになる。 「誰もが楽しめるように」という流れは止めようがなかろうが、それによって「楽しみのレベル」が低くなるのは避けられない。しかし、こだわりを持ち、各自それぞれが別の頂点を目指せるような、そんなレベルの高い楽しみが得られるというのは、写真という趣味の素晴らしいところだと思う。少なくとも我々は、そんな魅力を見失わぬよう、常に目線を上に向けるべきだろう。 自分の要求するものを満たすために、ただひたすら努力と時間を注ぐ。妥協する部分もあるだろうが、ここだけは譲れないという部分は、1つでも自分にあったほうがいい。そしてそこを克服すれば、「ここだけは人には負けない」という自信にもつながり、それは自分の人生を豊かにするに違いない。 カメラ界・写真界のV3エンジンは少なくなったが、要求を厳しくすれば、まだまだ奥は深い。それぞれに高い目標を持ち、ひたすら精進し、他のヤツらの味わえないような達成感を味わおうではないか。 我輩も、皆に負けぬよう、努力を続けるつもりだ。 ---------------------------------------------------- [187] 2000年12月06日(水) 「ボーナスの季節の雑念」 カメラというのは、いくつあっても結局は使う人間が1人でしかない。 我輩は何台もカメラを購入してきたが、もうこの辺が限界であろう。これ以上カメラが増えても、使うことなく終わるカメラが出てくるに違いない。 我輩の保存版カメラは、将来使うためのストックであることは前にも書いた。 いくらプレミアムがつくようなカメラであっても、そこから金儲けなど期待出来るものではない。金儲けとは、継続的に利益が出ないと意味が無いのだ。いくら瞬間的に数十万円が手に入ったとしても、そんなものは別のアルバイトでも手にしうる金額。それよりも、貴重なカメラを手放すという損失は大きいと考えるべきだろう。 手にした「はした金」などすぐに消え、カメラも手元に残らぬ・・・。空しいことだ。 せっかく何十年も大切に寝かせていたカメラを、他の方法で稼げるくらいの金額で売るというのは、まさしく愚行以外の何ものでもない。手に入れる難しさを考えれば、売ることなどとても出来ないはず。 本当に不要になった時や生活苦になった時は仕方ないだろうが、最初からプレミアムを期待し、売ることを前提としたカメラ収集は止めておいたほうがいい。もっと効率の良い金儲けは他にある。 せめて、数千万円で売れるようなカメラなら、投資する価値はあろうが・・・、そんなカメラ、誰に売りつけるんだ? 話は逸れたが、我輩の所有カメラは全て、使うためのカメラであることが前提のため、これ以上カメラを増やすわけにはいかぬ。 もうこれ以上、カメラを買うのは止めようと思う。 せっかくボーナスの季節であり、何か新しい買い物を考えるという楽しみがあるのだが、少なくともカメラを買うという選択肢は無くなった。 しかしその分、アクセサリが気になって仕方ない。 買おうと思えばいろいろ考え付く。「モータードライブ」、「交換レンズ」、「ベローズ」、・・・。 他にもノートパソコン購入も検討中である。 ボーナスの季節の雑念であった。 ---------------------------------------------------- [188] 2000年12月07日(木) 「冬の匂いに想い出す」 最近、寒い日が続く。暑がりの我輩でも、さすがにコートを着るようになった。 冷たい風は、冬の匂いを感じさせる。そして、その匂いは、我輩が一眼レフカメラに目覚めさせた時のことを想い出させる。 我輩が一眼レフカメラを始めたのは中学の頃だった。 最初のきっかけは、学校のクラブ活動である。 当時、週に1度「必須クラブ」の時間があり、生徒は誰でも何かのクラブ活動に参加しなければならないことになっていた。それは学期ごとに決めなければならず、3学期は何にしようかと我輩は迷っていた。 友人の「クラッシャー・ジョウ(以下、ジョウと略す)」は、当時既にK2−DMDを所有しており、当然「写真クラブ」に入った。我輩は写真に興味はあったものの、特別、写真機というものを意識したことはなかった。 しかし他に魅力あるクラブも無かったことから、我輩はジョウと共に写真クラブに入ることにした。 写真クラブの顧問は、天然スキンヘッド先生(理科の教師)だった。中学では、カメラや時計を持ってくることは禁止されており、当然、クラブ活動でもカメラを持って撮影することは出来ない。結局は写真についての授業を毎回受けることになってしまった。 「写真クラブちゅーても、全然オモロないワ」と思い始めたある日、スキンヘッド先生は自分の一眼レフカメラを持ってきて三脚に据え、我々生徒に順番にシャッターを切らせてくれた。最初は外に出るのが寒く、面倒くさく思えた。 そのカメラは「オリンパス」だった。今思うとそれは「OM−1」だったろうか。そして、そのボディにはミラー望遠レンズが付けられており、我々は運動場でサッカーをしているクラスメートを撮影した。 今考えると何でもないような撮影である。だが、当時の我輩としては驚きの瞬間だった。 一眼レフカメラは、中学で備品となっているフジカST−801を操作したことはあったが、そのレンズは標準55mmであり、今回のような超望遠の世界を味わったのは初めてである。 それまでは、写真というのは「見たままの世界を写真に残す」ということしか知らなかった。人物を撮影すると、相手がそれに気付くのは当然だと思っていた。けれども、超望遠で撮るクラスメートの姿は、我輩がカメラ越しに見ていることに気付かないのだ。これはおもしろい。 そして、シャッターを切った瞬間、家のピッカリコニカでは得られないような高級なメカニズムの音がした。我輩は、カメラというものがどれも同じではないということを初めて知った。 後日出来上がった写真は、当時は珍しいフチ無しプリントであり、何よりクラスメートの背景がボケて人物が浮き立っているのがプロっぽかった。 ジョウは、オリンパスのカメラをバカにしていたようだったが、その後ジョウの家に遊びに行った時、色々なカメラを披露してくれたのが印象に残っている。 北向きの暗い部屋の畳にズラリと並べられたカメラたちは、何かしら不思議な妖気を放っていた。 どんなカメラがあったかは今では思い出せない。いや、当時はカメラの名前を聞いてもピンと来なかったのだろう(しかし中古屋でペンタックスMXを見ると妙に懐かしい思いがするので、その中にMXはあったかも知れない)。 その多くがジョウの親父さんの所有カメラだったようだが、ジョウは全てが自分のもののように説明してくれるのだ。それはいつもの調子なので気にしなかったが、暗い部屋で見たカメラの輪郭というのは、とても威厳をもった存在に映った。 帰り道、「もし自分がカメラを買うとしたら、絶対に一眼レフにするぞ」と心に決めた。 木枯らしの吹く寒い日の夕方だった。 ※その後は雑文085のエピソードへと続くわけだ。 <<画像ファイルあり>> クラッシャー・ジョウ ---------------------------------------------------- [189] 2000年12月11日(月) 「写真を観る時には」 写真というのは、必ずしも真実を表していない。 それは今までもよく言われてきたことだが、例えば、広島と長崎で炸裂した原子爆弾の「きのこ雲」の映像が、実はそれぞれ取り違えていたことが最近分かったということを聞かされると、あらためてその思いを強くする。 しかし、写真が伝えることは象徴的であり、そこに写っているものを細かく詮索しても意味は無いのかも知れない。 写真に写っているものは、撮影者やその写真を選ぶ編集者によって「メッセージ」を込められることになる。何かを強調したり、省いたりして、直感的に伝えられるような写真を作る。それはすなわち、「象徴化」に他ならない。 伝えたい事実やテーマは理解可能だ。しかし、その写真に写り込んでいる事物は、どういう場面のものなのかは、説明無しに読みとることはかなり難しい。気を抜いて観ていると、その写真の絵が真実であると刷り込まれることにもなる。 よく引き合いに出されるのが、湾岸戦争の時に原油流出を象徴したウミドリの映像だ。全身をタールにまみれたウミドリの映像を見て、原油を流出させたフセイン大統領に怒りを燃やした米国民も多い。しかしその映像は、湾岸戦争とは全く関係の無い、別の原油流出事故の1シーンだった。 よく雑誌の記事やテレビの特集番組では、「掲載写真はイメージで、記事とは直接関係ありません」と注釈が入っていることがある。しかし、それに限らず写真というのは、どれもイメージに過ぎないという見方も出来る。 奇抜なファッションをした若者を写真に撮った時、撮影日が2001年をちょっと越えてしまったとしても、「世紀末のファッション」というタイトルを付けてしまうこともあるかも知れない。しかし、伝えたいメッセージに合う絵ならば、あえてその写真を使うこともあり得る。 我輩は、写真の象徴性については否定も肯定もしない。それは元々写真が持っている宿命のようなものだとも思える。 ただ、こういうことがあるという認識は頭の片隅にはあるのだ。多少は写真への感動を薄らげることになるのかも知れないがな・・・。 ---------------------------------------------------- [190] 2000年12月12日(火) 「貧乏脱出大作戦」 会社帰り、いつもの道をショートカットしようと路地裏に入ると、その店はある。 広島風お好み焼きの店、「ひな」。 以前は目立たない居酒屋だったような気がするが、正直、昔の様子は記憶にない。店の前を通っても意識にのぼらないような、そんな存在だった。 しかし1年くらい前に、みのもんた司会の「貧乏脱出大作戦」という番組で取り上げられて以降、店が繁盛するようになった。 この番組は、極貧に喘ぐ店を救うべく、料理人を繁盛店の修行に行かせるという企画である。たまたまその店が出た時はテレビを見逃してしまったのであるが、やはり厳しい修行を積んだに違いない。 店も改装されてあか抜けし、今でも程々に客が入っているのが見える。 我輩は、この番組は大抵見ている。 やはり焼き物関係は、「焼き」の具合がなかなか難しい。焼き過ぎたり、半焼けだったり、焼きムラがあったりして、修行者はその都度師匠に怒鳴られる。今までろくに自分で調理したことが無かったような者ばかりなのだ。 恐らく、お好み焼きの修行も、「焼き」が一番の関門だったに違いない。 それほど「焼き」というのは、重要な要素の一つなのだ。 さて、写真で「焼き」と言うと、プリント(暗室)作業ということになる。 やはり写真の世界でも、「焼き」は難しい。 モノクロネガの場合、焼き付けのコントロールは明暗のコントロールのことだ。現像液や印画紙の種類、露光及び現像時間などは、白から黒への階調のコントロールである。明暗差が印画紙のレンジを越えるようならば、それを補うために部分的に焼き込んだり(覆い焼き)して収まるようにする。 しかし、カラーネガでの焼き付けは、それに色の要素が加わることになってややこしい。 我輩はカラーネガの現像はやったことはないが、オレンジ色ベースのネガの反転色を、見たままの色に戻すのは、無調整というわけにはいかないらしい。 手間を掛けて自分の思い通りの結果になるように調節・焼付けしたものを「ファイン・プリント」と言うのだが、それはまさに「渾身の焼上がり」と言える。 そのような調整を自分でやるにせよ、ラボに依頼するにせよ、焼き付けが完了するまで気を抜くことは出来ない。 これがモノクロネガならば、カラーに比べて調節要素は少なく自分が直接コントロールすることは容易である。しかし、カラーネガとなると、そもそも自分で焼く環境が無い。薬液の処理すら出来ない。必然的にラボに焼いてもらうことになるが、難しい「焼き」を他人に適切に指示するというのは至難のワザだ。同じ指示でも、よほど具体的に言わないと、ラボマンの解釈の違いで写真の仕上がりも変わってくる。 そして焼き直しをするたび、フィルムに傷が付くリスクが増えることにもなる。 我輩は基本的にはカラーネガをやらない(スキャナ取り込み用途には使うことがあるが)。なぜなら、我輩は面倒くさがりなのだ。 これがもしポジフィルムならば、撮影後はお決まりの処理が行われるだけであり、処理が忠実ならば、誰がやろうとも結果に違いはない。 仕上がりは、撮影時の努力が全てであり、逆に言えば他に気を配る必要は無い。いかにも我輩向きである。 撮影時に全力を尽くしたとしても、さらに焼き付け指示作業が残っているとしたら気が重くなる。 ラボマンとの意思の疎通というのは、もしかしたら写真の一番難しいテクニックの1つなのかも知れない。 相性の良いラボマンを見つけ、顔つなぎのために頻繁に通い、お互いの言わんとすることが目を見ただけで分かるという関係。それはまさに恋愛の時のような努力と情熱だ。 もし、ネガカラープリントで微塵も妥協せずに素晴らしい作品を創る者がいたら、それは本当にスゴイと言えよう。もちろん、皮肉ではない。 「貧乏脱出大作戦」では、苦労の末に理想の焼き具合を体得した瞬間、師弟共に涙する。 しかし、我輩は根性無しであるから、もし「貧乏脱出大作戦」に出るとしたら、焼かずに済む料理(ポジフィルム)で修行することにするが・・・。 ---------------------------------------------------- [191] 2000年12月13日(水) 「無常なり」 最近、かなり寒くなった。角度の浅い太陽光に、吐く息の白さが輝く。 いつものように通勤路を歩いていると、景色が妙にモノクロチックに感じる。よく見ると、それは落葉樹のせいだった。 最近までは街路樹のイチョウの葉が黄金色に染まっていたのだが、その日の朝は大量に地面に堆積しており、残された枝には黒っぽい枝がむき出しとなっていた。 段々と冬の色へと変わって行くようだった。 しばらく歩くと、ある倉庫の脇に1本の柿の木が見えた。黒い枝の先にたった2つ、朱色に染まった柿の実がぶら下がっている。周りのモノトーンの中で、ここだけがとても光っているのだ。 それは、我輩の子供の頃に枯れ草の中で見た、燃えるような色に熟したカラスウリの記憶を呼び起こした。 暗い色の中にある朱というのは、とても映えて見える。もしこれが青や緑であったなら、これほどまで輝いて見えはしない。 我輩は「この光景を、いつでも見ることが出来るように残しておきたい」と思った。写真を撮る動機として、実に純粋な気持ちに思えた。 しかし、週末を挟んだ数日後、その情景から「朱」は消えていた。 情景とは、動いていないようで、常に動いている。それは不可逆であり、その一瞬を逃すと、もう二度と同じ世界に戻ることは出来ない。「一期一会」と言えよう。 「一期一会」というのは、茶道では主に人間の出会いということについての教えだが、しかし「四季の表現」、「自然の表現」は、茶道にとっては非常に重要である。千利休が情景の中にも「一期一会」を見なかったはずはない。いや、そもそもこれこそが茶道の源流なのかも知れぬ。 同じように見えて、実は同じではない情景。観察力の鋭い利休は、そこに無常を感じたろう。 「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず(方丈記より)」を、光で見、音に聴き、風に感じた。 その世界観が昇華し、人をもてなす心構えとして茶道が確立した。 不覚にも、我輩が茶道に触れていた大学時代には、そんなことなど思いつきもしなかった。しかし、今ならそれが解る。なぜなら、今までに多くの後悔をしてきたからだ。 この世にあるものは、どれも例外なく無常なり。 目の前にある情景は、今後再び出会うことは無い。今を撮れ。後悔無く生きよ。 ---------------------------------------------------- [192] 2000年12月15日(金) 「貧乏脱出大作戦2」 毎週月曜日の夜に放映される番組「貧乏脱出大作戦」を観ていると、こちらもつい口を出したくなるような場面がよくある。 前にも書いたが、この番組は、赤字続きの飲食店を繁盛店で修行をさせ、店を立ち直らせようというもの。繁盛店の師匠のもとで厳しい修行をすることになる。 よくいるのが、脱サラでこの世界に入り、料理の基本も知らぬままやっていた者。それから、赤字ながらも長年やってきたというプライドのある者。そして、厳しい修行に耐えられずに妥協する者。 このような者は、師匠の与える課題を真剣に取り組もうとはしない。 基本を知らぬ者は、「なんでこんな面倒なことをやるのか」と思う。 プライドのある者は、「オレにはオレのやり方がある」と思う。 妥協する者は、「これだけ出来ればもういいよ」と思う。 これらの者は、師匠が見ていないところで自分のやり易い独自の方法でやり始める。 しかし師匠が教えることは、基本が出来ていないと難しい修行ではあるが、基本さえ出来ていれば難しいものではない(傍目からはそう思う)。 この番組に登場する修行者は、基本中の基本が出来ない者ばかり。中華料理屋が鍋振りも出来ない、寿司職人がシャリを切ることも出来ない、小料理屋が魚をさばくことも出来ない。 結局、師匠の教えることをやらない者たちは、「やらない」のではなく「出来ない」のである。修行者たちは自分の出来ないことを無意識に避け、自己流から抜け出そうとしない。それを本人たちが自覚していないため、修行がどんどん遅れて行くのである。これが、この番組のお決まりパターンだ。観ている側もハラハラする。 しかし、師匠はそんな甘えを鋭く指摘する。料理という結果だけを見て、修行者の心の中を見抜く。さすがだ。師匠はその長い経験の中で、修行する者たちが感じることも全て、過去に通過してきたのだろう。 師匠に突き放され、修行者たちは、自分たちが足りないものを気付かされる。そして本当の意味で、そこから修行が始まる・・・。 基本が出来ていないと何をやっても上手くいかないというのは、ごく当たり前の話だ。それは、未熟な者ほど理解していなければならぬ。そうでなければ、誰も上達することはないだろう。 写真の世界でも、やはり基本は大切だ。 「写真の基本」とは、露光とピント合わせだ。他にはマナーといったところか。 しかし、最初からそんな面倒なことには背を向け、感性だけで勝負しようとする者がいるらしい。それはデザイナー寄りの者だと思われる。 前にも書いたが、底の浅いデザイナーがやっていることは、結局何のイメージも持たない。 そんな前衛的な写真は、自由な発想から生まれたものであり、一律に否定されるべきものではないだろうが、「それしか出来ない」というのと「敢えてそれをやった」というのとでは全く意味が違う。 絵画をやっていて、たまたま写真の手法を取り入れたという者もいるかも知れない。しかし、他のものを取り入れるためには、その基本を理解する必要がある。 最近は勉強をするのが流行らないのか、別のものを取り入れるにしても、単純にうわべだけをつまみ食いしているようだ。 ベビースターラーメンを食べやすいように一口サイズに固めた開発者は、東京名物の「雷おこし」をヒントにした。しかし、固める技術というのは思ったほど簡単ではなく、雷おこしの製法の基本から学ばなければならなかったという。 これがもし、うわべだけのつまみ食いならば、斬新なアイデアも簡単にほぐれてバラバラになってしまっただろう。 結果だけをマネしてもダメなのだ。それを構成している単純な法則、「基本」がカギを握る。人の心を動かす要素となるものは、意外に単純で明快だろうと思う。それを「表現力」によって、意識させずに人の心の奥に送り込むのだ。送り込むものが無ければ、そもそも表現力があっても何の意味がある? 意図的にカラーバランスを崩す、意図的にピントをボカす、意図的に焼きムラを作る、意図的にスクラッチ(キズ)を入れてみる・・・。 そんなものは、一瞬の奇抜さに流れて消えて行く。同じ手法は二度と通用しないだろう。 当たり前の言葉だが、敢えてここに書く。 「基本は大事だ」。 ---------------------------------------------------- [193] 2000年12月20日(水) 「カメラの基本原理」 生物の進化は段階的であるとする説がある。 今までの生物学の定説では、生物というのは連続的にゆっくりと進化を続けているとされている。しかし、段階的に進化するという説では、ある時期に突然進化するまで、生物の形態というのは安定して存在し続けるという。 このことは大変興味深い。なぜなら、我々の文化の1つである「科学技術」の進歩も段階的であるからだ。 我々人間の社会では、数十年もの間、全く変わらない技術は意外に多い。ハイテクとされる技術でも、冷静に考えると原理そのものはいつまでも変わっていないことに気付く。 「飛行機」、「自動車」、「ロケット」、「コンピュータ」、・・・。 「飛行機」については、翼によって空気に乗るという原理は100年以上前のリリエンタールの頃から全く変わらない。大きな進歩として動力が付いたくらいであり、以後ほとんど進歩は無い。そのため、リリエンタールのグライダーも、コンピュータ制御のハイテク航空機も、同じように滑走して飛び、同じように失速して墜落した。 「自動車」については、車輪を回して移動するという原理は全く変わっていない。車輪そのものの原理を発明したのは誰なのか分からない。それほど古い時代に発明された原理である。あと数日で2001年になるが、昔よく見たような「21世紀の未来世界」の絵に登場するエアカーなどは全く現れる気配は無い。 「ロケット」については、フォン・ブラウンやロバート・ゴダードが趣味でロケットを作っていた頃と原理は全く変わっていない。燃焼ガスの噴射による反作用を利用する原理は、イオンロケットを使おうが、原子力ロケットを使おうが、あるいは光子ロケットを使おうが、反作用により推進するという原理は同じことである。 例えば電磁気的に重力の影響を逃れるような方法が発明されれば、それこそ改良の域を越えた「進歩」となろう。 「コンピュータ」については、固定された規則(プログラム)にデータを流し込むことによって処理結果を得るという原理は、フォン・ノイマンの頃から全く変わっていない。 (オシロスコープで計算結果を波形として読み取るアナログ計算機もあったが、計算というのは手動であってもデジタル的であり、これは完全なる亜流と言うべきか) このようにして考えると、科学技術というのは改良の時代が極めて長く、進歩というのはなかなかやって来ない。それはカメラの世界でも同じことだ。 現代のカメラは、エレクトロニクスに包まれたハイテク機器である。しかし、その原理は暗箱そのものである。それは150年前と全く変わらない。少なくとも、35mmフィルムのパトローネが装填できるカメラならば、おジイちゃんの古いライカであろうと、最新視線入力EOSであろうと、同じ現像機で処理出来る。 原理が同じであるということは、それを利用するには同じ効果しか得られないことを意味する。 確かに改良された技術を使うことによって効率が全く変わってくる。しかし、逆立ちしても出来なかったことが出来るようになる訳ではない。そのことを錯覚してはならぬ。 昔、公衆電話が置かれるようになった頃、電話線に荷物をくくりつけて送ろうとした者がいたという。しかし、電話の技術が進歩した現代に至っても、電話で荷物を送ることは不可能だ。電話の原理が同じならば、当然と言えよう。改良して実現するレベルではない。 この先、カメラがどんなに改良されようが、それは改良以上のものではない。 カメラはいつまで経っても「カメラ」であり、使う人間はそのことを忘れてはならない。見掛けの多機能や新機能に踊らされても、例えば「その場に行かなければ写真が撮れない」ということは変わらない。いくら高倍率ズームレンズで被写体を引き寄せたとしても、結局は広角レンズで被写体に近付いたほうが良かったということもあろう。 カメラを使う以上、人間が撮るという原理は変わらない。 「恐竜は絶滅したのではない、鳥類に進化したのだ」という説がある。恐竜が姿を変え、翼を持つ・・・。それはもはや恐竜ではないのだ。 同じように、カメラがカメラの原理を越える時、それはもはや「カメラ」と呼ぶべきものではないかも知れない。 だが少なくとも、カメラがカメラであり続ける限り、主役は人間。 これは、カメラの基本原理の1つである。 ---------------------------------------------------- [194] 2000年12月22日(木) 「誘導」 年末年始の頃によく見るのが「欽ちゃんの仮装大賞」。 審査員も何かに仮装しているのが笑えるが、その審査はいい加減だ。もちろん、お遊びでやっているのであるから、別にそんなことはどうでもいいのだろう。 しかし、予選を勝ち抜いてきた出場者にしてみれば、自分は不合格なのに、隣の者が1点差で合格だったりするのは面白くないだろうと思う。それが特に、「子供だから」という理由だけで1点加算されたとしたら、どうにも納得出来ない。道楽でやっているとはいえ、仕事を犠牲にし、家族にも煙たがられながら一生懸命仮装を作っている。しかしそんなオヤジが作る仮装のアイデアと努力も、子供の笑顔には太刀打ち出来ない。 全般的に、「欽ちゃんの仮装大賞」は子供が出場することが多い。子供が悪いと言っているわけではない。しかし、親が子供をダシに使って点を稼ごうとすることがかなり多い。中には赤ん坊に仮装させて「かわいらしさ」をあからさまに強調させる者さえいる。そういうのに限って内容はお粗末であり、赤ん坊を使う必然性も、仮装であることの意味も希薄であったりする。 ところが、審査員はその「かわいらしさ」に点を与えてしまう。 「あと1点で合格なのに・・・」という場面では、同情票が必ず入る。しかしオヤジに同情票は無い。 単に子供のかわいらしさに点を与えても、喜ぶのはその子供の親だ。子供が自分の意志とアイデアで出場したものならば点を与えることには意味があろうが、子供をダシに使ったものに点をやっても無駄。 ・・・話が多少ズレてしまったかも知れないが、要するに何が言いたいのかというと、出場者が「ウチの子供を出せば、プラス5点は堅いね!」などと計算するようになったことだ。 もちろん、全てがそんな仮装ではないにせよ、昔の仮装大賞に比べると、どうもそんな安易なものが多くなったような気がする。 それは、審査員が誘導した結果なのだ。もっとも、仮装大賞の審査員はそんなこと気付いてはいないだろうが。 写真のコンテストではどうか。 コンテストでは、写真を観る眼を持った者が審査する(と思われる)。だから、そういう問題は無さそうな気がする。しかし、どうにも引っかかるのは、その分類の仕方と格付けだ。 普通、「小中学生部門」、「高校生部門」、「社会人部門」に分かれていたりする。そして、それぞれの中で格付けをする。 「小中学生部門の1席と、高校生部門の1席と、社会人部門の1席では、どちらが上なのか」と質問したら、どう答える? 年齢の分だけ、社会人部門のほうが上とでも言うのか? こんな比較は何の意味もない。 例えば高校生部門では、いかに「高校生らしさ」が現れているかがキーとなるように見える。少なくとも我輩の目にはそう見える。 そうなると、応募者が「クラスメイトなど写せば少しは点が稼げるかも知れない」などと考えても不思議ではない。 我輩の考えでは、「らしさ」という見方は非常に良くない。 写真というのは、老若男女等しく結果を出せる趣味だと思う。それなのに、撮影者によって分類し、それぞれに「らしさ」を求めるということは、審査員の価値観の押し付けに他ならない。 実際にはそう考えていなくとも、現に撮影者の年齢ごとに分けているじゃないか。そして掲載された写真は、いかにも高校生の写真ばかりである。「えっ、この写真、高校生が撮ったの!?」と思えるような意外性などカケラも無い。 高校生ならば、元々そういう写真を撮るのかも知れないが、審査員の誘導も少なからずあると我輩は見る。 コンテストというのは、評価する者がいて初めて成立する。そうなると、その評価によって写真の方向性を決められる者もいるに違いない。 個々の写真のレベルは高いとは思うが、コンテスト全体としては、とても新しいものが生み出されるような気風が感じられない。 専門学校を出てカメラマンになったような(写真しか知らない)人間がお気に召すような写真とは一体何か。応募者がそんなことに腐心するようになったら、写真をやっていることの目的そのものを見失う。 もう、意味の無い分類や作品の格付けなど、やめたらどうだ? 単なる個別評価で十分だろう? 明らかな傑作と駄作を比較するのは簡単だが、1席と2席のような僅差のものに優劣を付けるのは、どう考えてもおふざけが過ぎる。 もっとも応募者のほうが、優劣を付けて評価されないと落ち着かないのかも知れないがな・・・。まあ、写真教室代わりにはちょうどいいか。 話題は変わるが・・・。 雑文の風を切るオイちゃんで紹介した青果物店の話だが、ここ1ヶ月ほど前からハーレーダビッドソンの姿が消えている。 最初は「修理か何かに出しているのだろうか」と思ったが、ハーレーが置いてあった場所に2台の自転車が置いてある。自転車に化けたか? オイちゃんの表情を見ても、特にいつもと変わりは無い。しかし、顔には出さないだけなのかも知れない。商売人の性(さが)だろう。 エンジンをフカした時のオイちゃんの得意そうな顔を想い出すと、その無念さは耐え難いものであろうと思う。 不況に負けず、ガンバレ、オイちゃん! ---------------------------------------------------- [195] 2000年12月24日(日) 「プリインストール」 新しいノートパソコンを購入した。 シャープの「メビウスPC-RJ950R」。解像度1400x1050ドット(SXGA+)の大画面だ。これは、我輩の持つデスクトップパソコンの解像度を上回る。 この原稿を書いているのも、そのノートパソコン上だ。 さて、このパソコンが届いたのは1週間前だった。しかし、それを使い始めたのはそれから数日後である。 なぜすぐに使い始めなかったのか? ノート型に限らず、最近のメーカー製パソコンには非常にたくさんのソフトウェアがあらかじめインストールされている(プリインストール)。 「ワープロ」、「表計算」、「グラフィック」、「インターネット関連」、「ゲーム」、「データベース」、「アニメ・音楽・3D簡単作成」、「動画取込み・編集」、「辞書」、「各種ユーティリティ」・・・。 それだけでパソコンのハードディスクは一杯。 しかしそれらのソフトの全てを必要としているわけではない。もし全て使い切る者がいたら、いったいどんな人間なのか見てみたい。 だいいち、そんな付属ソフトなどはゴミ同然。例えば3Dソフトにしても、簡単に作れるのはいいが本格的3Dソフトとの互換性など無く、結局はその場で完結させるだけの「お遊び」に過ぎない。 昔のパソコンは、OSやアプリケーションソフトは自分で買い求めたものだった。そこには自分の意志があった。「確かに欲しい」という意志があるからこそ、そのソフトを指名し、財布から金を出し、重いパッケージを持ち帰った。 しかし、今は違う。なんとなくソフトが入っていて、暇つぶしに1回起動してみるだけ。あとは二度と使われること無く「死加重」となる。 不必要で使えないソフトをてんこ盛りにするくらいならば、もっと素(す)の状態にしてパソコンを安くして欲しい。そうすれば、本当に必要なソフトだけを厳選して購入出来るだろう。 今回、我輩は自力でソフトウェアの入れ替え作業をやることにした。ソフトの一新とその状態のバックアップだ。 OSは、その時初めて使った「ウィンドウズMe」だったため、なかなかクセを掴めず時間を浪費した。 それにしても、メーカーのお仕着せというのは、本当に有り難迷惑である。あらかじめソフトを組み込んだ「プリインストール」であるため、いくらウィンドウズ98を使いたくても最初からウィンドウズMeが入っている。当然、LANやモデムのドライバソフトもウィンドウズMe以外は動かない。メーカーではアップグレード用ドライバソフトは用意してあるが、ダウングレードには全く対応していない。仕方なく、単体のウィンドウズMeを手に入れるしか方法はなかった。だからメーカー製パソコンは困るんだ。 今回の苦労は、何となくカメラの分野を彷彿とさせた。 現代のカメラは、まさしくハードウェアの「プリインストール」状態だ。これでもか、これでもか、というふうに機能を詰め込んでいる。良いものを厳選するでもなく、カタログに掲載する項目を1つでも増やすために、「とりあえず」入れる。 最近はおとなしくなったとも言われる、いやいや、それでも十分に食傷気味。 昔ならば、使う用途(ユーザー)に応じてカメラもクラス分けされていた。そしてそれぞれに必要とされる機能も違っていた。 しかし、今は全てのモデルがフルモード搭載であり、中にはローエンドクラスのカメラがハイエンドクラスのカメラの機能を食っていたりもする(もちろん精度や信頼性は違うだろうが)。メーカー内でも、モデルごとの位置付けに混乱をきたしているようで、カメラのネーミングの混乱からもそのことが伺える。 我輩は、実はAFカメラは嫌いではない。しかしAF機能と抱き合わせになっているモノがイヤなんだ。くだらない機能を入れたばかりに他に制限が出てくるのは許せぬ。例えば、ワインダー内蔵によって、それと引き替えに電池の呪縛に縛られるようになってしまった。 この前、ミノルタα-9000を購入したのは、その現れである。理想的なAFカメラの形態ではないにせよ、今のAFカメラに比べればまだ素(す)に近い。その証拠に、α-9000はバリバリに使えるAFではないが、それでもそこそこフィルムは通している。使っていて楽しさがある。AFが使えないほど電池が消耗しても、シャッターだけはまだ切れるという「しぶとさ」がいい。今のAFカメラならば、少しでもハラが減ると全く仕事をしないというのに。 少なくとも、カメラの多機能はメーカー製パソコンのプリインストールと同じくお仕着せだ。そして、どちらも平均的なユーザーが想定され、そこから外れた者は「サポート外です」とされる。 言っておくが、人間というのはそれほど単純じゃない。おまえら(パソコン及びカメラメーカー)は人をナメてるんじゃないのか。企業ならば、金儲け以外の理念(ポリシー)を持たんかっ! <補足説明> ※ 最近のメーカー製ノートパソコンにはLAN(NIC)やモデムなどのパーツが内蔵されており、それらパーツのメーカー名や型番は明記されない。そのため、別のOSをインストールしようとすると、ドライバソフトの入手が困難となり、事実上、別のOSのインストールは不可能となる。 ※ メーカー製パソコンでは、通常はOSのみをインストールすることは出来ない。付属のCD−ROMは「リカバリディスク」であり、プリインストール(てんこ盛り)に戻すだけ。 ※ ウィンドウズ98とウィンドウズMeは、同じ9X系ウィンドウズであるが、ドライバソフトは共有出来るものと出来ないものがある。つまり「似て非なるもの」なのだ。 ※ ミノルタα-9000は、総合的に見ると堅牢性や信頼性は低いと思う。しかし、基本的なポリシーがそれを補っている。 ---------------------------------------------------- [196] 2000年12月26日(火) 「好性能」 我輩は、通勤に地下鉄千代田線を使っている。 今朝はなかなか巡り会わない新型列車に乗ることが出来た。 我輩はだいたい同じドアから乗るのだが、その新型列車はいつも同じ場所にキズや汚れが見られる。ということは、新型列車は1編成しか無さそうだ。 新型列車は、全体が曲面で構成され、いわゆる「カド」が無い。まあ、外見上はともかく、音と振動が少ないのがよろしい。 普通、地下鉄というのは台車の音がトンネル内で反響するため、かなりうるさく感ずるものだ。しかしこの新型列車では、高音の部分が少しマイルドになっている。振動も固くない。 さすがに新型だけのことはある・・・とまとめたいところだが、性能の良さが裏目に出て乗客のほとんどを不快にさせた。 というのもこの新型列車、かなりブレーキの効きが良く、ちょっとした減速でも前のめりになるくらいブレーキがかかる。 それは例えるならば、アナログではなくデジタル的である。ブレーキがだんだん効いてくる・・・というのではなく、ブレーキのON・OFFしかないような感じだ。だから、駅に入る時でも、何度かブレーキをかけたり放したりする動作があり、その都度乗客は前後に揺さぶられることになる。 このブレーキのON・OFF動作が小刻みであればあるほど(インバータ制御のように)、そのショックが小さくなろうが、手動ブレーキでは限界がある。ブレーキ操作を失敗して乗客が将棋倒しになることは珍しくない。 最初のうちは運転手の技量のせいかと思われたが、この新型列車は過去にも何度か乗っており、乗ると必ず加速・減速で苦しめられる。やはり、新型列車のブレーキが効き過ぎるのだろう。車体も軽そうで、それも制動性を高めている要因に違いない。 ここまで書けば、何を言わんとしているかは分かるだろう? 単純に機械的性能が良いものが、人間寄りのいわゆる「好性能」とは言えないという1つの例だった。 ---------------------------------------------------- [197] 2000年12月28日(木) 「開運なんでも鑑定団」 「開運なんでも鑑定団」という番組がある。簡単に説明すると、石坂浩二と島田伸介が司会をする「骨董の価値当てクイズ」のようなものだ。有名人から一般人までいろいろな者が持ち込む「お宝」に、鑑定団が容赦無く値段を付けてゆく。 そしてたまに「これは数百万の価値がありまっせ!」と持ってきた骨董が実は全くの贋作(いわゆる偽物)で、数千円の価値しかなかったりすることもあり、ガックリ肩を落として帰っていくシーンもある。 贋作は銘を偽ったりすることはもちろんだが、年代を古く見せるためにワザと汚したりもする。しかし、汚しただけでは鑑定団の目をごまかすことは出来ない。鑑定士というのは、歴史的背景を基にした総合的な判断を行う。見た目だけでは引っかからない。 やはり、鑑定はシロウトには難しい。「見る目を養う」という言い方をしているが、実は時代背景やその他の勉強が、「見る目」の視点を変えているのだ。 さて、年末年始は大分の別府へと遊びに行く。そこから近いので、臼杵(うすき)に寄るかを検討中である。 臼杵は、崖に彫り込まれた石仏が有名である。土産物のお菓子の箱にも印刷されている。 しかしこの石仏は、風化しやすい岩石を彫って作られているため、20年ほど前から10年以上かけて修復工事が行われたと聞く。 壊れた部分の補修と、風雨を避けるための屋根を付けたそうだ。 そのことについて、当時のカメラ雑誌には、「修復されることによって、石仏の雰囲気が壊れてしまうことが心配だ。屋根を付けると水分が行き渡らなくなり、苔も乾いて石仏が白っぽくなる。」という記事が載っていた。要するに、「苔むした雰囲気そのままに保存出来るようにしてくれないか」という意見だった。 確かに修復すれば石仏の雰囲気は壊れよう。しかし、その石仏が造られた当時は、ツヤツヤした石の表面が美しかったに違いない。それが年代と共に風化され、現代のような姿になった。言うなれば、溶け始めた中間状態である。 我々のような一般人には、その石仏の本当の価値は理解出来ない。それゆえ、見かけの雰囲気にその価値を見い出そうとする。それっぽい雰囲気さえあれば、「張りぼて」でも何でも騙されるだろう。 歴史を感ずるためには、知識の無い一般人にとっては古びた様子だけが唯一の手掛かりとなる。苔むした石仏を前にすると、乏しい知識からでも容易にその有り難みを実感するということだ。 しかし、写真を撮る目というのは、そんな表面上のものだけでいいのか? 写真家とは、普通の人間よりも少し目の付け所が違うと思っていた。しかし、この記事に書かれた意見を読む限り、案外一般人と変わりないということが分かった。 だからこそ、雰囲気だけを求めて捏造写真を撮ったりも平気でやってのける者も現れるのだろう。 我輩は、「写真を撮るのにはイメージが必要だ」と何度か書いた。しかし、そのイメージが現実と違うからと言って、現実のほうに難癖を付けるのは知能の低さをPRしているようなものだと思う。 誰もが想像出来るような表面の「らしさ」だけでなく、見る者に岩の中心の硬さを感じさせるような写真を撮る意気込みが欲しい。 修復されたなら、それが本来の石仏の姿に近いはず。誰も苔をかぶせて仕上げたわけではないのだ。 石仏のことを色々と調べて行けば、造られた当時の風景が心の中で再現されるに違いない。写真家ならば、そんな風景を写真で表現しないのか。一般人では表面しか見ないようなものでも、プロの目で石仏の真の価値を写真で炙り出して、シロウトの我々に見せてくれ。 そんな底の浅い写真家、無理に苔むした様子を再現しようとも、その写真を鑑定士に見せれば「贋作ですな」と言われるだけだぞ。 ------- 話は変わるが、我輩はもう明日から九州に帰省する。もしかしたら今年はもう、雑文を書くヒマは無いかも知れない。 カメラ雑文、当初は単なる日記帳のようなものだったが、だんだん思想に染まった文となってきた。色々な方から激励も頂き、お陰様で今日まで続けることが出来た。 「今年はどうもありがとうございました。そして、来年もよろしく。」 ---------------------------------------------------- [198] 2001年01月02日(月) 「警戒範囲」 人間には、一人一人の警戒範囲があると聞いたことがある。それは半径1〜2メートルほどの範囲内であり、満員電車でもない限りその範囲内に入ることは、相手の警戒心を起こさせることとなる。 街角のスナップ写真というのは、通行人が写り込んでいることがある。通行人が風景の一部として写るならともかく、明らかに人物にレンズを向け、その警戒範囲内でシャッターを押していると思わせる写真を雑誌などで目にすることがある。 そういう場合、その人間の了解を得ていないことがほとんどだと思われる。少なくとも、撮影前の了解は得ていない。 もし自分が了解無しに撮られたりしたら、いい気分ではない。同じように、それら写真に写っている人間の表情はカタい。 街角スナップとはそういうものなのだと言われれば、確かにそういうものかも知れない。写真を撮る先生方は、スナップの独自の理論を持っていらっしゃるようだが、人間を相手にするならば、マナーを守ったらどうかと思う。 我輩などは、池袋を歩いていたらいきなりテレビカメラを向けられ、下らないナゾナゾを問い掛けられたことがあった。ナゾナゾの内容などはどうでもいいが、いきなりテレビカメラで人を撮るのは許されることではない。 我輩はソイツらに名刺を要求したが「持っていない」などとウソをつく。結局、その映像を使わないように約束させたが、我輩としては実に不愉快だ。どうせあんなものは下らないバラエティ番組用で、一般人をコケにするために使われる。 ・・・話はズレたが、得られた写真がいかに良い作品であったとしても、それが相手の意志を無視したものであれば評価は考え直されるべきだと思う。 スナップ撮影の記事には、そういうマナーについて書いたものは1つも無い。 そんなことを言うと、「そうか?もしオレなら別に撮られても気にしないぜ」とか、「声を掛けたりなどしたら、自然な雰囲気が出ないじゃないか」などと気の抜けたことを言うかも知れないが、そんなのは別にどうでもいいんだ。自分がどう考えるかというよりも、相手がどう考えるかということのほうが重要だ。そんなことも分からない人間が写真を撮っていいはずがない。 少なくとも、行きずりの人間に対して警戒範囲内でシャッターを押してはならない。いくら良い写真が欲しくとも、他人を利用する限りにおいては、マナーが不可欠となる。 人を無断で撮るなら距離を置かねばならぬ。いくら写真界の大先生が「スナップでは人物に接近しろ」などと言っても、そんな規則を一般人に押し付けていいわけはないだろう? スナップの大先生よ、人の気分を害してまで撮らなければならない理由をぜひ、ご説明願いたいものだ。 ---------------------------------------------------- [199] 2001年01月05日(金) 「だから、何?」 年賀状に写真を使う者は、必ずと言っていいくらいに子供の写真を載せている。これは、自慢する気持ちもあるかも知れないが、単純に自分の子供を多くの人に見てもらいたいというのもあるだろう。 何しろ、そこに写っている子供は特別何かが違うということでもないのだ。見るほうとしては、「だから、何?」という感想だけ。 去年、我輩は自分にしては多くの機材を購入した。それらのいくつかはストック用であったが、実用として購入したものも多かった。今回はそれらを写真に撮ってお見せしようと思う。 実用機材だけにレンズも半分ほどは純正品ではないレンズメーカー製。全般的に特に自慢出来るようなものは無いが、そこは年賀状に子供の写真を載せるような心境。我輩にとってはカワイイのである。 結局、このページは他人よりも我輩自身がよく閲覧することになるだろう。どの場面でどの機材を使うか、そのイメージを広げるために役に立つに違いない。 <<画像ファイルあり>> 我輩の実用機材「ニコン編」。そう言えば、モータードライブを持たない「FG」の稼働率がかなり低い。 <<画像ファイルあり>> 主力機「F3 Limitedハンマートーン」と「F3/T」。気軽な撮影から気合いの入った撮影まで広範囲にこなす。「F3 Limitedハンマートーン」は、シャッターボタンがゴムで覆われて使いにくいため、モータードライブでしか使ったことが無い。 <<画像ファイルあり>> 予備機「FA」と「F3HP」。「FA」は主力機と組んで使い、単独で使うことを想定していない。「F3HP」は、別の種類のフィルムを同時に使用する場合に使う。 <<画像ファイルあり>> ニコンマウントの実用レンズ。「500mmF8」、「300mmF2.8」、「135mmF2.8」、「35-135mmF3.5-4.5」、「50mmF1.8」、「50mmF1.4」、「24mmF2.8」、「20mmF3.5」、「Fisheye 8mmF4」 パッと見ると高そうなレンズも、レンズメーカー製の中古ならばかなり安い。例えば「300mmF2.8」は10万円未満だった。新品で購入したものは「Fisheye 8mmF4」の1本のみ。 おお、聞こえる、聞こえるぞ。このページを見る者の声が。 「だから、何?」 まあ、深く考えるなかれ。これは我輩の年賀状のようなもの。チラッと見たら、次へ。 ---------------------------------------------------- [200] 2001年01月07日(日) 「感動の素」 映画を観て感動することがある。 しかし、後日あらためてその感動シーンだけを観てみると、感動が薄れていることに気付く。おかしいなと思い、今度は頭から通して観てみると、最初の感動がよみがえった・・・。 我輩の好きな映画の1つに、「アポロ13」がある。これは、実際に起こったことを基にした映画である。 この映画を観るまでは、アポロ13号でどのような事故が起こったのかという詳細を知ることはなかった。ただ単に「アポロ13号が事故によって命からがら地球に帰還した」という短い文で伝え聞くのみだった。 世界では、紛争や犯罪、交通事故などで毎日多くの人々が命を落としている。それは特に珍しい出来事ではない。 しかし、たった3人の宇宙飛行士の命を救うために、地上スタッフの努力、そして全世界の人々の祈りが1つになった。普段は「自分のエリアの仕事さえやっていれば良い」と考えているエンジニアたちも、「3人の命を救う」という共通の目標のために、それぞれに出来ること以上のことをやった。 そういった多くの人の努力が実を結び、3人の飛行士は無事に太平洋に着水した。 もちろん、こんな簡単な文章だけでは映画の感動は伝わらない。 それはつまり「感動」の本質というものは、それに至るまでの「過程」の部分にあるのだ。そしてそこで蓄積された「感動の素」が、クライマックスで一気に解放される。 それゆえ、過程の部分が困難であればあるほど、クライマックスが盛り上がることになる。 「アポロ13号が事故によって命からがら地球に帰還した」という短い文を読んだだけでは、何の感動も無い。結果的に3人の宇宙飛行士が生還したという事実は同じく伝わるのだが、感動というものは過程を踏まない物語からは生まれない。 写真の場合、写真を撮る者はその現場に居合わせることになる。当然、シャッターを押すまでの過程をリアルタイムに感覚する。そして撮影者は、出来上がった写真を見て、その時の気持ちをよみがえらせることになる。 しかし写真を観る第三者は、そんな事情を知らない。 「説明が必要な写真は、写真としての価値が無い」と言われることもある。もちろん、その写真自身に説明を必要とするならば、そういうことも言えるかも知れない。しかし、その写真の背景という意味での説明ならば、その写真の価値を大きく変えうるのだ。 背景の説明に文章を用いるのか、それとも別の写真で構成するのか。いろいろと方法があるだろうが、1枚だけの写真で明快な感動を生む作品がある一方で、それなりの過程を通過して感動を呼ぶ写真もあっていいと思う。 ※ 「感動」というと大げさに聞こえるかも知れないが、ほんの些細な事であっても、観る者(それは自分自身であってもいい)の心に何かの変化を与えられれば、写真を撮った意味があると我輩は考える。 ---------------------------------------------------- ダイヤル式カメラを使いなサイ! http://cam2.sakura.ne.jp/