「カメラ雑文」一気読みテキストファイル[101]〜[150] テキスト形式のファイルのため、ブラウザで表示させると 改行されず、画像も表示されない。いったん自分のローカ ルディスクに保存(対象をファイルに保存)した後、あら ためて使い慣れているテキストエディタで開くとよい。 ちなみに、ウィンドウズ添付のメモ帳ごときでは、ファイ ルが大きすぎて開けないだろう。 ---------------------------------------------------- [101] 「写真という文字」 [102] 「記録としてのカラー画像」 [103] 「墜落しないカメラ」 [104] 「Newsweek誌」 [105] 「6×6を使っている」 [106] 「分類」 [107] 「近所の中古カメラ店」 [108] 「スケール感」 [109] 「日光写真か」 [110] 「デジカメの用途」 [111] 「適正露出は1つではない」 [112] 「真の宇宙カメラ」 [113] 「ホンモノは誰だ」 [114] 「ハンマーフィニッシュF3」 [115] 「初心者向け」 [116] 「帰省写真撮影」 [117] 「後ろ向き」 [118] 「新幹線0系」 [119] 「少しカスタム」 [120] 「くだらない想像」 [121] 「耐久性」 [122] 「外国の風景」 [123] 「カメラつながり」 [124] 「思想」 [125] 「ミノルタα−7」 [126] 「後悔するなよ」 [127] 「ついに終わったか」 [128] 「動かない風景」 [129] 「マニアック」 [130] 「証拠写真」 [131] 「ステレオ写真2」 [132] 「新しいビジネスモデル」 [133] 「One Of Thousand」 [134] 「スパゲティ」 [135] 「大金持ちの買い物」 [136] 「男のプライド」 [137] 「キヤノネットの想い出」 [138] 「ゲリラ活動開始」 [139] 「電卓と炊飯器」 [140] 「怠惰な完璧主義」 [141] 「未確認飛行物体」 [142] 「写真の鑑賞基準」 [143] 「デジタル画像の表現幅」 [144] 「ディスプレイ」 [145] 「雑写真」 [146] 「選ぶべし」 [147] 「ムービー」 [148] 「クリエイティブ」 [149] 「イメージに飲まれる危険」 [150] 「ヘタウマ」 ---------------------------------------------------- [101] 2000年 7月31日(月) 「写真という文字」 我々が今、目にしている光景は、果たして現実世界をそのまま現しているのか。哲学的な問いだが、科学的にも意味のある問いだと思う。もちろん、科学に裏打ちされた写真も例外とは思われない。 以前、「色というのは幻に過ぎない」と書いた。しかし、それは色だけの問題にとどまらない。 人間の眼は2つある。それによって立体視が可能である。なぜ立体視が可能かというと、左右の目が捉える映像の、ほんの僅かなズレを脳が認識するからである。更に突っ込んで言うならば、人間は2つの映像を脳内で重ね合わせて1つに合成する能力を持っている。それ故、我々は2つの眼を持ちながらも、実際に見る映像は1つしか見ない。 網膜に映った2次元の平べったい映像が合成されるということは、脳の中で映像を再構築しているということに他ならない。 例えばここに、自動車の設計図の3面図があるとする。「正面」・「上面」・「側面」の図面だ。これを見ると、何となく自動車の現物が浮かんでくるような気がする。3つの図を基にして頭の中で想像したというわけだ。 立体視も同じことである。目の前のものが立体に見えるのは、脳が2つの画像を基にして、1つの立体映像を頭の中に創り出して(再構築して)いるからだ。 草食動物では左右の眼は離れており、2つの眼が捉えた映像は、ほとんど重なる部分が無い。いち早く敵を察知するために、広い範囲を見渡す必要があるからだ。そのため、我々とは違う世界が彼らの脳内に再構築されていることになる。 その映像は、もし人間がそれを見ても、左右の違う景色が重なって見えるだけで、草食動物の視野は体験出来ない。 逆に、草食動物の左右それぞれの眼に、我々が見るような左右の映像を投影したとしたらどうなるだろうか? 草食動物には2つの映像を重ね合わせるという機能が脳に備わっていないため、恐らく、単に同じ景色が両方に広がっているように見えることだろう。 魚では、「魚眼レンズ」という言葉もあるように、その視野は180度に近い。光学的に見れば、ドアスコープを覗いた時のように、映像が歪んで見えるはずだ。しかし、我輩はそうは考えない。恐らく、魚の脳内では外界の様子が再構築され、網膜に結像されたものをそのままを受け取っている訳ではないと想像する。彼らの見ている映像は歪んではいない。もちろん、細かいディテールまでは見えないかも知れないが、脳内で再構築された世界は、人間の見ている世界を遙かに越えたパノラマが広がっていることだろう。 彼らに立体視が理解できないのと同様に、我々も彼らの見ている世界を理解できない。 魚とは逆に、猛禽類(ワシタカ類)では、人間ではとうてい及ばない視力を持つ。それは、視覚細胞の密度の高さに由来する。視野の中心では視覚細胞の密度は高く、100m先のネズミが1m先のように見えるだろうとも言われている。しかしこれも、彼らの脳内で世界が再構築されるため、見たものをそのまま受け取る訳ではない。そうでなければ、見るものすべてが近くに見え、空を飛ぶにも支障が出る。 彼らが脳内で再構築した世界は、我々の世界とは比べものにならなくらい緻密なものと言える。人間には、見ることはおろか、想像することすら難しい。例えるなら、普通のテレビ画面でハイビジョンの画質を見ようとしているようなものだ。概念が違う。 生物というのは、自分の生存に必要最低限の情報を得、脳内で情報処理をする。処理速度を落としてまで必要以上の情報を入れることはしない。 つまり、我々が見ている範囲では、現実世界を100パーセントリアルに感じているわけではない。肉眼で見、脳で処理する限りにおいて、情報の取りこぼしは必然である。 これらのことを念頭に置くと、例えば、交換レンズなどを駆使して人間の眼を超えた映像を撮ってみたくはならないか? あるいは、長時間露出や高速シャッター、超微粒子フィルムや赤外線フィルム、180度パノラマ写真、マクロ撮影・・・。方法はいろいろと先人たちが考えてくれた。 もちろん、撮影手法に溺れるのも考えものだが、肉眼を超えて真実に迫るには、いろいろな方法を試すことは必要だろう。 写真という文字は「真実を写す」という意味だそうだが、それゆえ、真実が何であるかということを想像することは大切だ。少なくとも我輩はそう思う。 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写真の基本は「記録」であり、対象物に忠実な写真を得ることが無くてはならぬ。そのためにも、前回書いた、写真という文字について考えることが意味を持ってくる。 カラー画像を長い間に渡って保存し続けるには、多大な苦労があろうと想像する。写真の所有者には、これからも貴重な資料を永く保存されることを願うばかりだ。 ---------------------------------------------------- [103] 2000年 8月 2日(水) 「墜落しないカメラ」 エールフランスのコンコルドの墜落事故から1週間経ったが、そのコンコルドが炎を上げて離陸する瞬間を日本人が撮影し、それを約440万円で写真の出版権を売ったという。その写真はレンズ付きフィルムで撮られたらしい。 ・・・今回はこんな話をするつもりは無く、あくまで情報として書いた。 さて、例によって、長い前振りから始まる。 我輩は、コンコルドの事故が起きてから、色々な航空機事故の資料を読み返してみた。その中でも目を引いたのは、1994年4月26日、名古屋空港で起きた「中華航空墜落事故」だった。 事故を起こした機体は「エアバス社製A300−600」。操縦を全面的に自動化したハイテク旅客機である。 事故当日、中華航空140便はとても穏やかな気象のもと、名古屋空港に着陸するためにエンジン出力を順調に絞っていた。 ところが空港の直前でいきなりエンジンスロットルが全開になり、高度がグングン上がっていった。その原因は、コパイ(副操縦士)が誤って「着陸やり直しモード(GO AROUND MODE)」のスイッチを入れてしまったことによる。このスイッチを入れると、設定されたモードに従ってコンピュータが機体を上昇させ、着陸のやり直しを行うことになる。 パイロットとコパイは、上昇する機体を抑えるために操縦桿を押した。しかし、コンピュータがその操作に逆らって水平安定板を動かしたため、機体の上昇を抑えることが出来なかった。 そこでコパイは、モードを切り替えて「着陸モード」に戻そうとしたが、パネルに表示された「GO AROUND MODE」という文字をどうしても消すことが出来なかった。 仕方なく、パイロットは着陸を諦め、上昇の操作を行った。すると、機体は予想以上に機首を上に向け、高度520mという低空で制御不能に陥った。それは、「失速」したことを意味した。あまりに機首が上がりすぎたため、気流が翼を支えることが出来なくなったのだ。 「終わりだ、終わりだ(ボイスレコーダーより)」 急に無重力になるような感覚の中で、パイロットは自分たちの運命を悟った。 264名もの人命はこうして失われた。 この事故は、モードの切り替えが出来なくなり、人間がコンピュータの制御に逆らった操作をしたために起こった。 通常、「着陸やり直しモード」から直接「着陸モード」へ切り替えることはあり得ないため、そのようなモード切替は無効となる。正しい手順は、通常の飛行手順に沿って「機首方位モード」、「高度維持モード」を経由し、「着陸モード」を選ばなくてはならない。 もしこのことをパイロットたちが知っていれば、墜落事故は起こらなかった。 しかし、パイロットたちは、コンピュータが今何をしているのかが理解できず、翻弄され続けた。操縦桿を押しても、機首はどんどん上を向いてゆく。モードを切り替えようと思っても、どうしても切り替わらない。モード選択の迷路に迷い込み、なすすべを失った。 ヨーロッパのエアバス社は「自動化こそ事故を防ぐ」と主張する。それゆえ、容易に自動操縦が解除されないように設計している。それに対しアメリカの航空機メーカーでは、操縦桿を動かせば直ちに自動操縦が解除されるように設計している。コンピュータが何をやっているかが分からない以上、人間に素早くバトンタッチさせることが安全に繋がると考えている。 最終的な判断をコンピュータに任せるのか、人間に任せるのか、航空業界ではまだ結論は出ていない。 カメラの分野では、人命に関わるということがないため、人間とコンピュータとのコミュニケーションは問題にされない。パイロットのようなプロフェッショナルを相手にする航空機ならともかく、明確な目的も持たない一般コンシューマ向けの商品では、コンピュータが何をやっているかなど、人間に知らせる必要などないのだ。 その結果、フィルム感度は自動的に設定されて容易に解除出来ず、カメラに触ってもいないのにレンズが動き、思わぬ場面で自動的にストロボが光り、シャッタースピードを変えようとしても決して変わらない。いくらカメラが良い仕事をしていても、カメラが何を考えているかが分からず、つい余計なことをやって混乱に陥ってしまう。 別に自動化が悪いとは言わぬ。使い方を熟知しない人間のほうが悪いのだ。ただ、コンピュータがどういう判断のもとに行動しているのかを、人間に全く知らせてこないのは納得しかねる。もしそれがエアバスのコックピットだったら、まず間違いなく墜落となろう。 何が気にくわずに言うことを聞かないのか、万能なその液晶表示パネルでなぜ説明しない? 「カメラは墜落などしないから」と軽く考えているのか。 どのような形態になれば一番いいのか。それはまだ、無理に結論付ける段階にない。ただ、コンピュータがいまだ発展途上であることは、否定出来ない事実だ。 現代のコンピュータは、人間が完璧な存在であるということを前提にしている。 ---------------------------------------------------- [104] 2000年 8月 3日(木) 「Newsweek誌」 昨日、雑誌「Newsweek」を買った。 例のコンコルド墜落事故について、事故機の離陸の瞬間を捉えた写真が表紙を飾った。日本人ビジネスマンがレンズ付きフィルム(使い捨てカメラ)で撮影し440万円で売れたという、あの写真だ。 大きく引き伸ばしたと見え、粒子がハッキリと見えている。そしてその粒子の粗さが、逆に緊迫感を伝えているように思えた。まさか、ワザと粒子を粗く現像したわけでもあるまいが、それでも色はとても鮮やかに出ていたのが印象的だった。 粒子の粗い写真は、通常の場合、露出不足のネガを強引にプリントした場合に得られる。その場合、コントラストが低下し、カラーバランスも崩れてくる。しかし、このコンコルドの写真は、露出は十分にフィルムのラチチュードの範囲内に入っているようで、コントラストやカラーバランスが良好だ。 レンズの選べないレンズ付きフィルムで撮影したものであるため、小さく写ったコンコルドはフィルム上で拡大するしかない。粒子が粗れるのは当然ではあるが、それにしても「Newsweek」の表紙の写真はかなり粗れが目立つ。これは、「Newsweek」編集部が意図した効果だと想像する。 「拡大すれば粗れは出るのだから、この際、中途半端ではなく目一杯引き伸ばし、粗れを前面に出すか。」 ヘタに粗れを隠すよりも、積極的に粗れを強調したということが、この表紙をうまくまとめている。 しかしこの写真、もしデジカメで撮られていたとしたら、このような表紙にはならなかったろうと思う。銀塩写真なら「粒子の粗れ」であったが、デジカメならばジャギーが出てモザイク状となり、サマにならなかったはず。 実は連続3枚のうちの1枚らしいが、あとの2枚は記事中に小さく掲載され、粒子もそれほど目立たず普通の写真のように収まっている。しかし、やはり表紙の写真はインパクトがある。 (スキャンして載せたかったが、発売中の雑誌でもあり断念。440万円請求されてはかなわん。) それにしても、レンズ付きフィルムで、コンコルドの離陸を3枚も写したとは、なかなか日本人ビジネスマンも侮れない。懸命にカリカリ巻き上げている様子が目に浮かぶ。 ---------------------------------------------------- [105] 2000年 8月 4日(金) 「6×6を使っている」 我輩が中判カメラを始めたのは、10年近く前のことだった。説明の必要は無いと思うが、中判カメラはブローニーサイズの「120ロールフィルム」を使うカメラの総称である。同じフィルムを使っても、縦6センチに対し、横4.5センチ、6センチ、7センチ・・・と色々な画面サイズのカメラがある。当然、サイズが大きくなれば、撮影枚数が少なくなる。 ちょうどニコンF3の新品を購入し、そのカメラの外観写真を撮っていた時期だった。 最初は、35mmカメラである「キヤノンEOS630」で撮影していたのだが、やはり35mmでは出来上がった写真が小さすぎる。ルーペで拡大しても細かいディテールがハッキリしない。 ブツ撮りの本を見てみると、そこに登場する写真家の使うカメラに、35mmカメラなどほとんど出てこない。一番多いのが、大判カメラ、次いでハッセルブラッド(66サイズ)あたりの中判カメラが使われているようだ。 では、我輩も中判カメラか。 もしそうなれば、35mmなどもはや必要無い。新品のニコンF3以外は全て売り払い、中判カメラ購入資金に充てようと考えた。 しかし、いくらなんでもハッセルブラッドなどは買えない。レンズやフィルムホルダーなどシステムを揃えると、数百万円が必要となる。我輩にはまず無理だ。 それならば、同じ66サイズでも「ゼンザブロニカSQ−Ai」ならかなり安い。レンズシャッターであり、ブツ撮りでは必須のストロボ撮影には最適だ。これなら、最高速500分の1秒でもストロボが使える。 とりあえず、試しということで中古の「ゼンザブロニカSQ」を手に入れ、続いて新品の「ゼンザブロニカSQ−Ai」を導入した。レンズは、ブツ撮りがメインということもあり、マクロ望遠レンズを最初に購入した。その後、風景用にと広角レンズを買い足す。 実際に撮ってみた感じは、撮影枚数が少ないということが気になる点だが、66サイズは縦と横が同じ長さの正方形画面であり、なんとなく不思議な空間を写し込める。 また、縦横を気にしなくても良いということは、ウェストレベルファインダー(カメラ上部より覗き込む形式のファインダー)が使えることを意味する。大きなペンタプリズムが必要ない。ルーペの倍率も高いため、ファインダー倍率は高い。特に広角レンズを装着した場合には、そのダイナミックな映像がそのまま確認できる。 人物を撮影した場合、ウェストレベルファインダーというのは威圧感を与えないらしい。上から覗いているスタイルが、カメラを自分に向けているという印象を与えないのだろう。 F3の交換ファインダーでウェストレベルファインダーを使った者ならば理解できると思うが、ウェストレベルファインダーを使って縦位置のフレーミングはかなり困難である。縦横を気にする状況では、ウェストレベルファインダーは使えないと思ったほうが良い。 それにしても、中判カメラというのはレンズが大きく重い。カメラ自体は35mmとさほど変わらないが、やはりガラスと金属の塊であるレンズが重いのは仕方がないのだろう。イメージサークルが大きい分、レンズも大きくならざるを得ない。 中判の他のサイズもそれぞれに利点があり、特に645ではAF機が選択肢にもなる。しかし我輩は、中判では66サイズ1本だ。あまり他のサイズに浮気すると収拾がつかなくなることが目に見えている。我輩のような面倒臭がりの完璧主義は、余計なモノに手を出さぬことが肝要。 まあ、とにかく、我輩にとって一番バランスの良い中判サイズが66というわけだ。 <<画像ファイルあり>> ウェストレベルファインダーは、ローアングルがやりやすい。 ---------------------------------------------------- [106] 2000年 8月 5日(土) 「分類」 「オタク」という言葉が発明されたのは1980年代だったが、もちろんそれ以前にもオタクに該当する者たちはいた。 しかし、それまでは「コレクター」、「マニア」、「新人類」、etc・・・、など、色々な名称で呼ばれていたのだが、それぞれに何かが共通する性質もあった。そこで、「オタク」という分類が登場し、なんとなく掴みどころのなかった部分で言語化が可能になった。逆に言えば、「オタク」という言葉が発明されるまでは、とても一言で説明が出来ない存在だったわけだ。 例えばある会話で、「アイツ、どちらかというとオタクだよな。」と言われると、今まで見てきたオタクのサンプルが頭の中に次々と浮かび、「確かにそんな感じだね。」となるわけだ。 たった3文字の「オタク」という言葉を通じて、会話の中で共通の認識を持つことが出来る。「オタク」という言葉は、画期的な発明であろう(ちなみに発明者は、エッセイストの中森明夫氏とされている)。 しかし、分類というのは便利なことだけでなく、時に弊害をもたらすことがある。 我輩は仕事上、初対面の人間と世間話をする事がある。例えば、初めて一緒に仕事をする営業の人間や、他社の担当者など。 初対面での世間話は、仕事の話はもちろんだが、天気の話や趣味の話もよく出る。 例えば、「写真を撮ります」などと言うと、「何を撮るんですか」とくる。たまたま前の日に人を撮ったりしたので「人とか撮ったり...」と言うと、「あ、ポートレートですか」と言う。 「でも、旅行とか行くと風景を撮ります」と言うと、「風景写真ですね」と言う。 「動物も撮りたいです」なんて言うと、「じゃあ、動物写真家だ」と言う。 そして、「多才ですね」なんて言われたりするわけだ。しかしまあ、あまり分類にこだわることはないと思うぞ。別にそれくらいの写真、日常で撮る範囲だろう? そこで、「カメラの写真とか撮ったりします」と言ってみる。すると今度は、「カ、カメラ・・・ですか?カメラでカメラの写真を撮るんですか・・・?」と驚いたりする。当たり前だろ。カメラで撮らなきゃ、何を使って撮るというんだ? ちょっとでも自分の分類範囲から外れると、すぐに理解不能となる。文明の発達した時代でも、案外思考の範囲は狭いものだ。 あまり、何でもかんでも分類したがるのも考えものだ。 人のやっていることが理解出来ないということは、よくあることだ。もしそれが、あまりに常識から外れたり、反社会的なことであったりするなら、理解出来ないのも無理はない。しかし、単に「聞いたことが無い」ということだけで理解出来ないのであれば、それは言葉自体に限界があるからだ。 そんなことでは、異文化の理解も不可能だろう。国際化社会たる現代においても、そのような場面はよくある。 写真には多くのジャンルがある。しかし、ジャンルの隙間を埋めるような自分だけの世界を作ってみてもいいと思う。ジャンルに縛られているのは、自分で自分の可能性を閉ざしているのと同じだろう? 与えられた言葉だけで話そうとしても理解に限界があるように、自分だけの新しい分類を作ってみたいものだ。 まあ、最初は理解されないだろうがな・・・。 ---------------------------------------------------- [107] 2000年 8月 6日(日) 「近所の中古カメラ店」 昨日、カメラ雑誌「カメラGET」を読んでいると、中古カメラ店の紹介記事が目に入った。よく見ると、我輩の住む松戸市にあるらしい。電話で確認すると、歩いて行ける距離だった。自転車でもあれば10分くらいで行けそうだ。 店の名前は「明光堂」。松戸駅から新京成線で3つ目の駅「みのり台」のすぐ近くにある。 その町に行くのは初めてだった。雑然とした町で、我輩にはどこか懐かしい感じがした。 店内は、小さな町にある中古カメラ店にしては広く、ショーケースが並べられている。カメラ点数も、比較的多い。 特に、「キヤノネット」に代表されるレンズシャッター機が豊富にある。そのためか、ジャンク品のワゴンにもレンズシャッター機が多い。 他にも、ハーフサイズのカメラもかなり多く、我輩が気になったカメラもあった。たまたま手持ちが無く、購入までは至らなかったのだが、多分、月曜日の会社帰りにでも手に入れるのではないかと予想する。 カメラ雑誌によると、最初は新品を扱った普通の店だったそうだが、量販の時代であるために他店に押され、ついに中古専門店となったらしい。それは1年前のことだというから、知らなくとも無理はない。ただそのせいか、レンズやカメラのディスプレイスタンドなども売っているのが面白い。新品を扱っていた頃の名残だろうか。量販店でこういうディスプレイスタンドを使って商品を展示しているところはあまり見ない。 店の雰囲気としては、その町の様子に溶け込んだ感じがする。こういうのは嫌いではない。しかし、商圏は地元だけというわけでもなく、通販もやっているようだ。我輩の訪れた時も、京都の人間から注文を受けていた。 まあ、在庫が少し他店とは違う様子なので、また何か掘り出し物を探してみよう。しゃがんで見るようなショーケースもいくつかあり多少疲れるが、そのぶん新しい発見が待っているかも知れない。 (追記8月7日) なんだ、我輩のリンク集に「明光堂」は載っているじゃないか!すっかり忘れていた!ハハハ・・・ ---------------------------------------------------- [108] 2000年 8月 7日(月) 「スケール感」 夏休みのためか、書店では子供用の図鑑が多く置かれている。 子供用だとバカにしてはならない。正確な資料を提供するため、鮮明で鮮やかな写真が多い。芸術作品としての作為が無い分、素直に写るのかも知れぬ。 さて、我輩が子供の頃は、昆虫図鑑を好んで見ていた。その中に、あるバッタの写真があった。岩の上に佇むそのバッタは、自然光で撮られたためか臨場感が強かった。順光の日光で撮られ、画面の全てにピントが合っている。 しかし画面の背景は単調な岩だった。大きさを比べるものも無く、写真の臨場感の強さゆえ、我輩は逆にそのバッタのスケール感を取り違え、まるでひとかかえもある巨大昆虫のように思えた。 「こんなでけえ虫、捕まえてぇ!」 もちろん、図鑑には体長は書いてあるが、小さな子供にはピンと来ない。 普通、写真に写った物の大きさを示す必要は無い。なぜなら、日常を写した写真なら、大抵は大きさを知っているものばかりである。知らない人物の写真を見ても、その大体の大きさが判る。新製品の車の写真を見ても、その大体の大きさが判る。観光地の建物の写真を見ても、その大体の大きさが判る。 その写真を見る者の頭の中に、常識的な大きさのサンプルが予備知識として入っているからだ。 米国NASAの打ち上げた探査船「パイオニア10号、11号」は、外宇宙(太陽系外)に出た最初の宇宙船だが、そこには知的生命体に向けたメッセージプレート(金メッキされた15.2cm×22.9cmのアルミニウム板)が装着されている。男女の人間の姿と、パイオニア宇宙船の本体を並べた図である。そこからは、パイオニア宇宙船と人間の大きさが比較できる。つまり、地球人の大きさを知らない異星人がこのプレートを見たとしても、パイオニア宇宙船との比較から地球人のサイズが判るのである。 我々が普通の写真を見た時に、当たり前のようにスケール感を持つのは、実は見る者の知識に頼っているからだ。 たまに新製品情報などで、タバコのセブンスターの箱を一緒に写し込んだような写真を見掛けるだろう?大きさが本当に判らないものならば、あのように日常にありふれたタバコの箱を同席させることによって、スケール感を意識的に導入しなければならない。 写真の実力のある者ならば、そのスケール感を逆に利用し、プラモデルのジオラマなどを見事に等身大の写真に変えることもできる。 普段、我々はスケール感を意識の水面下に置いている。何も考えずにシャッターを押せば自然にスケールが写り込むのだからそれでいい。しかしたまに、スケール的に何の手掛かりも無い場合もあり、子供の頃の我輩のような無知なる人間を混乱させることにもなる。 意図的に非日常性を狙っていない限り、やはり写真にはスケールを写し込むことが重要だ。少なくともそれを意識することによって、自分の作品の普遍性が増す事になる。 写真の、時代を超える価値の一要件とは、「情報が正しく伝わること」である。 ---------------------------------------------------- [109] 2000年 8月 8日(火) 「日光写真か」 昔、子供の頃に買った雑誌の付録には、時々「日光写真」が付いていた。今でも日光写真があるのか知らないが、一応、簡単に説明する。 小さな黒いビニール袋に写真の印画紙に相当する紙が入っている。その紙を取り出し、光沢のある面を上にして、「鉄腕アトム」や「ドラえもん」などのマンガのヒーローが印刷されたビニールシートをその紙に重ね、太陽光にさらす。 しばらくしてビニールシートを取ると、光の当たった所が黒く変化し、紙にマンガのヒーローが転写されたものが得られる。 ただしこの日光写真、黒いビニール袋に戻して時間が経つと、元の白い紙に戻ってしまう。画像は固定出来ない。画像が消えてしまえば、また再利用が可能で、また別の画像を転写することが出来る。 写した画像を利用するというよりも、ただ単に、転写する過程そのものを楽しむためのものオモチャなのだ。 さて、以前CMで見たのだが、パソコン用プリンターで出力した写真は、10年しか保たないそうだ。 我輩が以前使っていた、はがきサイズの熱転写型プリンターは、1年保たずに退色した。これは保存環境が良くなかったためと思われるが、それにしても1年保たないというのはかなり「日光写真」に近い。しかしそうかと言って、再利用できるワケでもない。この点は日光写真に軍配が上がる。 日光写真にも劣るプリントとは、情けない・・・。 これは写真を出力したカラー画像に限らない。トナーを使ったモノクロレーザープリンタでもトナーの変質が起こる。ビニールシートなどにへばりついたトナーはよく見かけるが、ほんの数年であのようになるのだからどうしようもない。 デジタルデータを守るために、プリンターで出力しておけとよく言わているようだが・・・、日光写真にデータをバックアップするような行為は意味があるとは思えない。 銀塩写真の感材は、それに比べれば驚異的な寿命を誇る。 元々、銀塩写真の寿命はそれほど長くなかった。モノクロはそれなりに耐久性があるのだが、カラーの場合、イエロー、マゼンタ、シアンの3原色のうち1つでもバランスが崩れると全体の色調に影響する。 一般的に、熱に弱いのはシアンの色素であり、他の2色に比べて1/10程度しか耐性が無かった。シアンが退色すると、画像が赤っぽくなる。古い写真がセピア色というのは、この理由による。 1984年、コニカは「100年プリント」を登場させた。シアンの耐性を伸ばし、カラーバランスの崩れが無くなった。現在では、200年を越える耐久性を持つに至っている(耐久性の計測についてはアレニウス法による)。 200年というのは、かなりの長さだ。色のバランスが崩れない程度の長さであるから、画像そのものが消え去るためには、更に長い年月を必要とすることになろう。 電子画像は、現像を必要としないのが特長だと謳われているが、長期的な視野に立つと、やはり現像処理の伴う銀塩システムの助けが必要なのではないかと思う。 耐久性では銀塩の足下にも及ばないのであるから、データのプリントアウト処理は感光材を使った方が無理がないのでは? そのようなプリンターの開発は難しいかも知れないが、やろうと思わないから出来ないということもあろうかと思う。 いまどき「10年プリント」などと言っているようでは、デジタル業界も先が暗いな。 ---------------------------------------------------- [110] 2000年 8月 9日(水) 「デジカメの用途」 昨日、会社で、営業の者に「ルアーをオークションに出品するから、デジカメで画像を撮ってくれないか」と頼まれた。我輩はルアーが好きでもあり、快く引き受けた。 「ヤフー!」のオークションは我輩もよく利用する。出品されたものを見ると、ほとんどに写真が添付されているな。しかし、全ての人間が我輩のような者に撮影を依頼しているとは考えにくい。まさか、銀塩カメラで撮ってスキャナで読み込ませていたりするだろうか? 素直に考えれば、それだけデジカメが普及した結果だろうと思われる。 しかしそれにしても、なかなか上手く写っている写真は少ない。近付きすぎてピンボケしていたり、フラッシュ光が真正面に当たってディテールが飛んでしまっている。 デジカメはスナップに使うというのがメーカーの推奨である。もちろんそんなことは明言してはいないが、仕様がコンパクトカメラに準じている以上、それは間違いない。 しかし、デジカメが使われるシーンでは、実際には通常のコンパクトカメラの用途とは少し違う面もあると感じる。以下に、考えられる用途を思い付く限り挙げてみた。 ・オークション用 「説明と違うじゃないか」というトラブルが軽減される。商品が確かに存在するという安心感にも繋がる。 ・毎日の料理 せっかく作った料理を画像に残しておく。なぜなら、食べれば無くなってしまうものであるから。 ・段ボール梱包の様子 家電などを再び梱包する時に、新品時の様子を撮っておけば役立つ。最近のものは、段ボールが複雑に折り込まれて緩衝剤の役割をしているものが多い。 ・植物の成長日記 成長の様子が見て取れる。定点撮影のような楽しさもある。 ・メール送付用 言葉だけでは伝わらないことを画像で説明できる。例えば「新しい髪形にしてみたけど、似合う?」ってな感じだ。 注目すべきは、いくつかの項目では、目的が果たされればすぐに用済みになるものが含まれているということ。それだけ気軽な「揮発性のメモ」であると言えよう。 一時的に保持しておけば良いのだから、写真プリントとして物理的に残す必要もない。その点に限って言えば、ランニング・コストは銀塩カメラに比べて極めて低い。 そこがデジカメの利点でもある。「失敗してもすぐに消せる」と言われるが、「目的が済めばすぐに消せる」というメリットのほうを多く享受しているのでは? しかしそうなると、銀塩のコンパクトカメラとは違う機能が必要となる。 まず、接写機能の充実だ。小物を撮ったりする用途がはるかに多いため、これは必要。現在の製品では、ファインダーとのパララックス(視差)があったり、ピントが合わなかったりする。 視差の問題は、液晶モニタを使うことで解消できそうだが、その分、消費電力が格段に上がる。ピントについては、モード選択で接写が可能となる機種もあるが、シロウト相手ならばモード切替無しにシームレスに使えなければならない。液晶モニタは解像度が低いものしか搭載出来ないようであり(コストの関係か?)、モニタ上でのピントの確認はまず不可能。 次に必要な機能は、外部ストロボの対応である。 これはシロウト向けではないが、やはり商品撮影では必要だと思われる。中古カメラのWeb販売では、ホームページ上で商品の写真が閲覧できるものも多い。しかし、色々なサイトを見ていると、撮影には苦労の跡がうかがえる。やはりカメラの販売であるから、撮影する側も工夫しているようなのだ。正面からストロボを照らすと、カメラのディテールが失われる恐れがあるため、そのまま写したくないのだろう。 しかし現状では、外部ストロボに対応したデジカメはほとんど無い。我輩も、シンクロソケットが付いているという理由だけで、「オリンパスC-2020Z」を購入したほどだ。それだけ選択肢は少ない。 まあ、今挙げた方法でなくとも、別のちょっとした工夫で向上できるかも知れぬ。簡単に済めばそれに越したことはない。 「ヤフー!」のオークションを見るたび、もっと用途に応じた進化を遂げて欲しいと思う。 ---------------------------------------------------- [111] 2000年 8月10日(木) 「適正露出は1つではない」 我輩は以前より、「適正露出は1つではない」と何度か書いた。今回はそのことについて、我輩の考えをここに書く。 ポートレートなどで、「明るめに表現すれば、表情も明るく見える」などと言われることがある。そして、プラス補正をしたりするわけだ。そういう意味で適正露出の判断が変わってくるという意味もある。 しかし、我輩の言っている「適正露出は1つではない」ということの意味は、少しニュアンスが違う。 ご存知の通り、写真フィルムは人間の網膜とは特性が違う。 肉眼で見た風景は、日向の明るい部分と日陰の暗い部分が同時に見えたりする。しかし写真に撮ると、明るい部分が飛んだり、暗い部分がツブれたりしてうまく収まらない。 これは、人間の網膜が「非線形」の特性を持ち、光量差に対して「柔軟」だからである。一方、フィルムの特性は「線形」であり、悪く言うと「融通が利かない」。フィルムはあくまで画面内全てのエリアでは感度分布が一様なのだ。 人間の眼では表現出来てフィルムには表現出来ないのであるから、「フィルムは網膜に比べて性能が良くない」という見方はできる。ただし「線形」であるが故に比例関係が保たれ、再現性があるとも言える。長所と短所は表裏一体なり。 太陽を望遠鏡で観察する際、接眼レンズには「サングラス」と呼ばれるネジコミ式のフィルターを装着する。この「サングラス」とはNDフィルターのようなもので、全体の光量レベルを下げてくれる。太陽の光は、直接見るにはあまりにも光が強すぎ、このようなフィルターを必要とする。 さて、サングラスによって光量レベルを下げたことにより、太陽の表面には普段見えないものが見えてくる。天体に興味の無い者でも、中学の理科で「黒点」という言葉くらいは聞いたことがあるだろう。明るく光る太陽表面に、黒いシミがポツポツと見える。これが「黒点」である。 黒点は、周囲よりも1000度〜2000度低い。しかしそれでも黒点本体は4000度もあり、黒点だけでも十分に光を放っている。まぶしく光るものであっても、周囲との温度差のために黒く見えるのだ。 またそれと関連した話だが、皆既日食では太陽の周囲に放射状の淡い光「コロナ」が見える。これは、太陽の周りに広がる薄い高温のガス層のことだが、これも光を放っている。黒点と同様に、太陽本体の光と地球の大気による拡散光のため、通常は見えない。皆既日食で強い光が遮られて初めて姿を現す。 このように、光量レベルを調節する事によって初めて見えてくるものがある。 それはあたかも、テレビのチャンネルを変えるかの如く、それぞれの光のレベルでの濃淡が存在し、それが重なり合っている。普段は強い光で見えなかった濃淡でも、露出のチャンネルを変えると見えるものが変わる。 自分にとっての適正露出とは、どの層(光量レベル)を表現するかを選択することと言える。 「白」は色ではない。光量である。一般には「白」よりも白い色はないと思われているが、ある一定レベルを越えた光量は白としか見えないだけである。目の前の白い紙がグレーに見えるまで露出を落としても、同時に写り込んだ太陽は、まだまだ白く見える。 撮影者の表現意図がどこにあるのか。どこかで意図を差し挟むことが必要になる。 自分で露出を手動で設定するか、あるいはAEに対して補正するか。手段は違っても、意図の反映という意味では同じ事だ。仮にカメラ任せの全自動であったとしても、その写真を「採用する・採用しない」という行為は、撮影者の立派な「意図の反映」となる。 意図が変われば、当然、適正露出が変わるのだ。 そう言う意味で、「適正露出は1つではない」。 ---------------------------------------------------- [112] 2000年 8月11日(金) 「真の宇宙カメラ」 ニコンFは、アポロ計画やスカイラブ計画で宇宙を飛んだ。だから「宇宙カメラ」である。しかし、ニコンFという存在自体が、宇宙的な意味を持っていると思うのは大袈裟だろうか・・・。以下は、我輩の他愛ない空想だ。しかし、真実かも知れぬ。 宇宙論には様々なものがあり、全ての研究者が納得する説は存在しない。有名な「ビックバン説」さえ、細々とした矛盾を抱えている。 しかし、ただ確かなことは、宇宙のどこでも同じような物理法則が支配しているらしいということが判っている。それは、遠い星からやってくる光をスペクトル分析した結果、そう結論付けられた。 もしそうなら、光の性質や、銀原子の化学反応も地球上と同じように起こっているということになる。 宇宙に知的生命体がいるとするならば、一体どんな文明を築いているだろうか。 どれほどヘンテコリンな宇宙人であろうと、物理法則を全く無視した機械を作ることは出来ない。宇宙のどこでも同じ法則が適用されるならば、銀塩写真技術も経験している可能性がある。 そう考えると、もしかしたらニコンFのようなものも存在したかも知れない。 ここでニコンFを持ち出したのは、やはりニコンFというのは一眼レフカメラのエッセンスだけを凝縮したムダの無いカメラだからだ。物理法則に従い、光を導くための装置を作れば、自然にニコンFの形へ収斂(しゅうれん)するような気がする。 あくまでそれは、発展途上の技術の中で生まれる道具であろうが、確実に通る「通過点」のようなものではないかと思う。 複雑ではないが故に、どの文明もその点を通る可能性が高い。 その星で名機と呼ばれたであろうそのカメラは、何という名前だろう? 人間の舌で発音できるだろうか? 想像は尽きない。 宇宙の星々に点在するニコンF。真の宇宙カメラだ。 ---------------------------------------------------- [113] 2000年 8月12日(土) 「ホンモノは誰だ」 かなり昔、テレビ番組で「ホンモノは誰だ」というのをやっていた。詳しくは覚えていないが、1つのテーマで4人くらい登場し、その中からホンモノを当てるというものだったような気がする。 正解は、ホンモノが1人だけ立ち上がるのだが、4人がそれぞれ立ち上がろうとするのが思わせぶりだった。 今日、先週訪れた中古カメラ店「明光堂」にてカメラを1台買ってみた。 実家へ持って帰る土産のつもりで、安価な全自動のカメラ「ミノルタα-7000」を選んだ。標準ズームレンズ付きで1万2千円だった。 店頭には3人のオヤジと1人のオバチャンがいた。オバチャンは奥のほうで接客中で、我輩は3人のオヤジのほうに声を掛けた。 「見せてもらってもいいですか?」 オヤジたちは、何となくこちらに近付いてきた。一番近くまで来たオヤジに向かって、カメラを指さした。2〜3回指さしたと思う。しかし、ショーケースを開けて、「どれですか?」などと訊いてきやがった。さっきから指さしているのを見ていなかったのか。 「こちらでご覧下さい」と、カメラを置くためのゴムシートに乗せた。そういうのはちゃんとあるんだな。 αー7000をチェックしはじめたが、ニコンハウスでのような、気さくな世間話などは全く無い。オヤジたちは再びそれぞれの持ち場に散開し、主たるオヤジが誰なのか判らなくなった。 「これ、単4電池ですか?」 電池ホルダーの形状から既に判っていたが、誰に訊いていいのか分からないので何か質問して反応を見てみようと思った。 オヤジたちは顔を見合わせ、なかなか答えなかったが、そのうち左端のオヤジがやっと「そうです。」と言った。こいつがホンモノなのか。 「説明書はあるんですか?」 やはり先程答えたオヤジが、プライスタグの記述を見ながら答えた。「これは・・・付いてないですね。」 カメラには特に不具合も無く、購入することに決めた。オヤジはおもむろにその場を離れ、しばらく帰ってこない。何なのか分からなかったが、とにかく待つしかない。数分して戻ってきたオヤジの手には、古いカメラケースがあった。そうか、それを探していたのか。 我輩にとって今後も行きたくなるような雰囲気ではなかったが、レンズシャッター機(特にハーフサイズ)が充実しており、そういうものが欲しくなればまた行きたくなるかも知れぬ。 ---------------------------------------------------- [114] 2000年 8月13日(日) 「ハンマーフィニッシュF3」 実は金曜日の夜、F3リミテッドをペイントした。カメラをペイントするなど、単なる遊びに過ぎないが、今回あえて挑戦してみた。 通常、金属製カメラの塗装は、自動車のボディと同じように焼付塗装である。しかし焼付塗装は自家処理では行えないため、吹付塗料を実施する。 まず、今塗られている塗料を剥がす必要がある。その方法はいくつかあるようだが、我輩が選んだ方法は「火で炙る」ということだ。有機物を除去するには、高温で焼けば良い。 無機化学を専攻していた大学時代、実験で得られた無機化合物を正確に秤量するために、白金坩堝(はっきんるつぼ)に入れてバーナーで強熱して炭素を飛ばしたものだった。 ここでは、ガスコンロで熱する。チタンが真っ赤になるほど加熱すると塗料が燃えはじめ、煙になって飛んでいった。後には鈍く光る表面が顔を現す。FGやFAのようなプラスチック外装ではこうは行かぬ。 今回使用した塗料は、塗布するだけでハンマーで打った金属のような「ハンマーフィニッシュ」のような仕上げになるというものだ。いくつか色の種類があり、緑色を選んだ。説明書きには「アルキド系」とある。実はウレタン系の塗料を使うと強くて剥がれにくいらしいのだが、ウレタン系塗料の中で、我輩の気に入る色はなかなか見つからなかったのだ。 このハンマーフィニッシュ塗料、「塗ったあとは強度があり剥がれません」と書いてあるので、多少のことは大丈夫だろうと勝手に解釈した。 F3の分解は少し手間取った。インターネットのオークションで手に入れた「F3リペアマニュアル」やその他の資料を見ながら分解をした。 驚いたことに、F3のような電子カメラでも、かなり機械動作をする部分が多い。特に、Ai連動のメカニズムには、糸が結わえてあり、絞り環の動きと連動してその糸が引っ張られる。カメラ内部の露出計へ、糸の引っ張り具合が伝えられるのだ。かなり原始的で、まるで昔の船で使われていた伝令管のような印象を持った。 まず最初に、底ブタを塗装してみた。塗った直後、確かにハンマーフィニッシュの模様が湧き上がってきた。なかなか雰囲気が出ている。 完全硬化までの2〜3時間が過ぎ、底ブタを触ってみると・・・何だか表面が柔らかい。これで本当に、強度は十分なのか? この柔らかさが強さの秘密なのだろうか。いや、そうに違いない。爪を立てて試してみた。簡単に塗料がめくれ、爪の間に挟まった。 ・・・どう考えても失敗だった。目立たない底ブタで試したのは正解だった。 とりあえず、この塗装は全て落とさねばならない。全部爪で引っ掻いて落とすのも大変であり、最初と同じく火で焼くことにした。 火で炙ると、まるで濡れたようにツヤが出てきた。そのうち、ビニールの燃えるような激烈な臭いがしはじめ、いったん作業を中断した。 換気を十分に行い、底ブタを十分に冷やして手に持ってみた。表面のツヤはそのままだ。まるで七宝焼きのような光沢で、先程とは見違えるほど硬くなっている。爪で剥がそうとしてみたが、今度は傷すら付かなかった。これはなかなか具合が良い。 そうか・・・、塗った後、焼けばいいのか。 しかし、先程爪で引っ掻いた跡が残っているので、あらためて塗り直す必要がある。焼いてもダメなので、結局、紙ヤスリでシコシコと落とした。かなり頑固で落ちにくかったため、逆にその分、耐久性は期待出来そうだ。 ただし、焼くと色が変わるようで、元々は銀色に近い緑だったのが、本格的に緑色になった。しかし、そこがいかにも産業機械にありがちな色のハンマーフィニッシュの印象になった。 F3は実験装置などのシステムの一部になることもある。数百万円もする研究施設向け顕微鏡システムの中では、F3は最も安い付属品の中に入るだろう。カメラ業界の中では高価なカメラであるF3も、研究設備の中では単なる付属品でしかない。厳格な「公務」を淡々とこなすF3の姿は、華やかな報道の世界で活躍するF3とはまた違った「重み」を感じるのだ。 ※ ただし、今回の「火で炙った」という処理は、実は危険な行為かも知れぬ。この文章を参考にしてマネすることはお勧めしない。あらためて言うが、我輩は塗装に関しては全くシロウトである。 <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [115] 2000年 8月14日(月) 「初心者向け」 実家に「ミノルタα-7000」を土産に持って帰った。 1万2千円で購入した中古だったが、高そうに見えるらしく大騒ぎだった。そしてやはり、我輩が脇に持っていた「ニコンF3/T(白)」のほうが安く見えるという。 まあ、カメラに詳しくない者はそういうふうに思うのは当然だ。まさか、この白いカメラのほうが黒いAFカメラよりも10倍の値段だとは思うまい。 ただ、使用説明書が無く、とりあえず基本的なことについては、我輩手製の説明書を渡した。しかしそれでも難しいようだった。 我輩がこの手製説明書を作る時、用語にかなり気を使った。カメラに詳しくない者を相手に書くのであるから、余計な混乱を招くような言葉は控えなくてはならない。そういう意味で、横文字などは一般的に使われる言葉に訳す必要がある。例えば、「プログラムリセットキー」は「全自動復帰ボタン」などというふうに。しかし現実には、訳しようがないものもかなり多い・・・。 カメラメーカーでは、新しい一眼レフカメラを作る時には、当然ターゲットを想定するだろう。その時、もし「初心者」がターゲットとなるならば、かなり苦労が多いのではなかろうか? シロウトには余計な混乱を招くような機能は排除したいと思うのは自然なことだ。いくら高機能を謳ったところで、「ムズかしい」と思われてしまえば初心者は手を出さぬ。それで一時期、プログラムモードしか持たない一眼レフカメラが現れたりした。 我輩も、「せっかく買ってきたのだから、うまく活用してもらいたい」という気持ちでシロウト向け説明書を作った。「ムズかしい」と思われてしまえば、ホコリをかぶることになるのは避けられまい。だから、メーカーの気持ちが解る気がする。 しかし、プログラムモードだけで撮るのは限界がある。 ある家庭では、少しカメラに興味を持ったお父さんが写真の本を買い、「絞り優先モード」や「シャッタースピード優先モード」などを知ることとなる。 そうなると、今持っているプログラムオンリーのカメラが急に安っぽくなってしまうのだ。 またある家庭では、一眼レフは最初こそ物珍しかったのだが、コンパクトカメラでも仕上がりが変わらないプログラムオンリーであるため、次第に稼働率が低くなってくる。 どの分野でも同じだが、初心者というのは、なかなか扱いが難しい。その点においては、我輩はメーカーに同情する。 ※ ここで「初心者」と呼ぶのは、自分の力だけでは写真のことが勉強できない者のことを指す。 ---------------------------------------------------- [116] 2000年 8月15日(火) 「帰省写真撮影」 今回我輩が帰省した目的の1つは、移り変わる故郷の風景を、この時点で写真に記録することである。 子供の頃遊んだ川や山などは、農業の近代化によって姿が変わりつつある。今の時点で、なるべく多くの風景をフィルムに固定しておこうと思うのだ。 ところが、撮影1枚目から肝心なF3が不調に陥った。1/80秒に固定されたまま言うことをきかない。 シャッターダイヤルを動かすと、1/60秒以下は設定可能なのだが、1/60秒以上のシャッタースピードを選択しても1/80秒となってしまう。電池が切れかかっているのかと思い、その場で新しいものと替えてみたが、結果は同じ。 いろいろ試すと、フィルム装填した直後の空写しでは1/2000秒でも切れるのだが、フィルムカウンターで1枚目と2枚目が強制的に1/80秒となるようだ。通常ならば、空写しの時が1/80秒となるわけで、フィルムカウンターと電気回路とのズレがある。 面倒だが、帰ってきたらサービスセンターに持ち込むしかなかろう。 まあ、それ以外は特に問題なく動くため、撮影は続行できた。 今回、ペンタックスのステレオアダプターを持って行ったのだが、これは50mmレンズにしか使えない。しかもフレームが2画面に分割されることから、1画面がちょうどハーフサイズのような感じになり、画角が50mmのものよりも狭くなる。そして更に縦画面に限定されるため、実質上の画角はかなり狭い。風景よりも人物で使うべきかも知れない。実際、その日は2枚くらいしかステレオアダプターは使っていない。 仕方がないな、多少風で草木が揺れることもあるが、明日の撮影では、お得意の2枚連続撮影によるステレオ写真撮影を敢行しよう。 ところで、今回撮る写真は「風景写真」というつもりは無い。 田舎とは言っても、風情のある田舎ではないから、他人に見せてもあまり意味のある写真にはならないだろう。 これは自分が写っていないが、あくまで自分を写した写真である。そこに写った風景に、子供時代の自分の姿を見るのだ。 ---------------------------------------------------- [117] 2000年 8月16日(水) 「後ろ向き」 今回我輩が帰省した目的の1つは、過去に集めたカメラのカタログを探すことである。 押入の奥にある資料を探すと、ソコソコ古いカタログが見つかった。しかし、期待していた「ペンタックスMX」や「ニコンFA」、「ニコンEM」などのカタログは見つからなかった。別の場所にあるのか、棄てられてしまったのか。 しかし丹念に見てみると、例えばニコンのMFカメラ「FE2」や「FA」、「FG」、「FG20」などが、ほんの数ヶ月後のカタログ(価格表)からは全て消えてしまっている。まるで、白亜紀末に大絶滅したアンモナイトの一族のようだ。 古いカタログを見ると、それら魅力あるカメラと同じ時代を生きていながら、その存在を知らなかったり、その価値が解らなかったりしたことを思い知る。 「あの時、我輩は小学生だった、中学生だった、高校生だった・・・。」 自分の歴史とのリンクによって、「ああ、あの時ならまだ手に入ったんだよな。」などとクヨクヨ考えるのがまた楽しい。 後ろ向きに考えるのもたまにはいい。 ---------------------------------------------------- [118] 2000年 8月17日(木) 「新幹線0系」 小・中・高と、3度の修学旅行で新幹線を利用した。その時の新幹線と言えば、0系列車の丸い顔を想い出す。 しかし最近、この0系車両は現役引退したという話を聞き、とても残念に思った。 新型車両が次々に投入され、古い車両が押し出されて行くのであろう。もちろん、乗り心地やスピードなどの面では新型が良いに違いないが、我輩の想い出がまた一つ過去の風景となる。いつかそのうち、0系車両の顔を知る者も少なくなり、それが世代の違いを実感する材料となろう。 時代の流れを実感するのは、このような節目である。その時代を生きたかどうかで時代が分けられる。例えば、「戦前、戦後」などはかなり一般的な時代の分け方である。 他にも時代の小さな節目として、「消費税導入」、「500円玉硬貨登場」、「バブル経済の崩壊」等々・・・。それらの出来事の前後では、時代が少し変わる。ふと気付くと、それらの小さな積み重ねが、「過去」を遠いものへと追いやってゆく。 MF一眼レフカメラもそのうち消えるだろう。新幹線の0系車両と同じように、その時代に生きた人間も少なくなっていくに違いない。かつては、距離計連動式カメラや、二眼レフカメラがそうであったように、MF一眼レフカメラも、時代の節目を表すための指標となる。 「あの頃は、フィルムの巻き上げも、ピント合わせも、全部自分の手でやってたなあ。」 こんな言葉も、そのうち聞かれるようになるに違いない。 今日、小倉から東京へ帰る時、新幹線のホームから0系車両を見た。「ひかり」運用は無くなったが、現在は「こだま」としてのみ走っているようだ。 特に、博多−小倉間のわずか1区間を往復するたった4両編成の0系車両は、かなり頻繁に出入りしているのが見えた。夏休みの間だけかも知れないが、最後の最後まで頑張って欲しい。 ---------------------------------------------------- [119] 2000年 8月18日(金) 「少しカスタム」 「帰省写真撮影」で、F3/Tの調子が悪いということを書いた。1枚目と2枚目で1/80秒となってしまうという不具合なのだが、F3リミテッドのペイントをする時に軍艦部のカバーを外したが、フィルムカウンターには歯車などのメカニズムが詰まっているのを思い出した。もし、フィルムカウンターのメカニズムに連動して1/80秒となるのなら、そこにマイクロスイッチのようなものがあると考えるのが自然だ。多分、そこで何かが起こっているのだろう。 スイッチの類の不調なら、もしかしたら自分で治せるかも知れない。早速、軍艦部のカバーを外してみると、何やら小さな金具が落ちてきた。どうやらこの金具は、フィルムカウンターのギアに接着されていたようだ。この金具と2つの電気接点が、あるタイミングで接触して1/80秒に切り替わるらしい。今回の不具合では、接触する相手を失った電気接点が、意図しない部品で短絡していたために起こったものと推測される。 元通りの機能に戻すには、剥離した金具を元の位置に接着すると良いのだが・・・、いや、まてよ。 いちいち空写しで1/80秒に切り替わっても便利とは思えない。それよりも、今回のような不具合の可能性が残らぬよう、電気接点が接触しないようにしておこうか。 かくして我輩のF3/Tは、F3PやF3リミテッドと同じく、空写しの時にも自動的に1/80秒に切り替わることが無くなった。このほうが、スッキリしていて良い。 バリバリのカスタムニコンではないが、「少しカスタム」といった感じか。 ---------------------------------------------------- [120] 2000年 8月20日(日) 「くだらない想像」 くだらない想像。 全く利用価値の無いものであるが、1つ考えたことがある。 日焼けは日に当たった肌が黒くなる。腕時計やゴルフ用グローブなどを身に着けたままだと、その跡が残ったりする。肌にシールを貼って意図的に跡を残す者もいる。 光が当たった部分が黒く焼けるという点は、写真のネガ画像と同じだ。もし、紫外線の露光量によって焼き具合が直線的に変わる(比例関係が成り立つ)のなら、ネガフィルムを肌に貼り付けておけば、写真を肌に焼き付けることが出来るだろうか。 その場合、コンタクトプリントに相当するため、焼き付ける面積に応じたサイズのフィルムが必要となる。これでは大きさに対する制約が多い。また、肌は起伏があるため、一部でフィルムが肌に密着出来ないこともあるだろう。そうなると、キレイに焼き付けることはムズかしい。 それならば、引き伸ばしの方法をとるべきか。これならば、多少の起伏があったとしても、コンタクトプリントほどの影響は無い。大きさの調整も柔軟であり、35mmのような小さなフィルムでも対応できる。 ただし焼き付ける時は、映像がズレないように身体を動かしてはならない。 この方法は大がかりになりそうなので、日焼けサロンの1室でこのようなサービスをすることになるだろうか。 以上、自分の日焼けを見ながら考えた、くだらない想像であった。 ---------------------------------------------------- [121] 2000年 8月22日(火) 「耐久性」 一般人の人間が所有する精密機器の中で、カメラほど耐久性を求められるようなものは無い。それは、「常に持ち歩きをするから」という理由もある。 他に携帯可能な精密機器と言えば、「ヘッドフォンステレオ」、「腕時計」、「携帯電話」、「ノートパソコン」か。 「ヘッドフォンステレオ」は、落下させたりして調子が悪くなることがある。しかし、「壊れたときが買い換えのとき」というような風潮があり、高い金を払って修理するよりも、同じ金で新品を買えば性能も向上する。そういう訳で、特に耐久性を求められることは無い。 「腕時計」は、サイズが小さく形状が単純なため、強度を上げやすい。また、開閉部も操作部も少ないために密閉構造の実現が比較的容易。そのため、元々壊れにくい。 「携帯電話」は、ヘッドフォンステレオよりも製品の回転が早く、壊れる前にラインナップが入れ替わる。また、機械的可動部が無く(バイブレーション機能は除く)、元々壊れにくい。 「ノートパソコン」は精密部品の塊であり、同時にデータの塊である。ちょっとしたことで大事なデータを失うことになる。さらに、機器の単価が20〜40万円と高価であり、使用者自身が取り扱いに気を付けている。そのため、元々大きな衝撃は受けない。 また、パソコンは従来から処理スピードや容量などに重点が置かれており、耐久性などは意識に上らないのが現状。 では、カメラではどうか。 カメラの場合、他の携帯機器と違うのは、「その場の映像を記録する」という役割を持っている点である。 他の機器では、故障すれば確かに困るのだが、その瞬間、その場に無ければ取り返しがつかないというものでもない。しかしカメラは、その場で機能しなければ、その瞬間の映像を逃してしまうことになる。失われた時は永久に戻らない。しかも、それがフィルムを現像して初めて判るような故障であれば深刻なことだ。大げさに言えば、「命を懸けて撮影したカットが、すべて無駄だった」ということにもなりかねない。 ビデオカメラやデジタルカメラは、同じ「カメラ」であるが故に、どちらも必要十分な耐久性を備えている。しかしそれらは、写っていないということがその場で判るため、銀塩カメラほど大げさな耐久性は求められないかも知れない。 また、テープやメモリなど、媒体の規格が短命であるため、カメラが長く使えてもあまり意味が無い。 その点、銀塩カメラというのは、他の製品とはケタ違いに壊れにくさが要求されている。まるで、原子力関連施設のような厳しさだ。 「プロカメラマンが極限の中で使うから」というのは、あくまで日本製カメラを信頼しているからに他ならない。もし耐久性がそこまで無ければ、そのような使い方はしないはずだ。 しかし我輩が考えるに、多分、カメラメーカーが最初に作ったカメラの耐久性に束縛されているのではないだろうか。当時は壊れる部分の少ないものであったため、まじめに作ったカメラであれば、そこそこの耐久性が備わっていたものと思う。 それ故、後継機種でも同様な耐久性を維持する必要があったのだろう。少しでも気を抜くと、「今度のカメラは壊れやすい」と言われてしまう。製品として、必要十分な耐久性を持っていたとしても、先代と比較されてはかなわない。 父親が偉大であるほど、その子供のプレッシャーは大きいということか。 ---------------------------------------------------- [122] 2000年 8月23日(水) 「外国の風景」 昔、友人が外国へ旅行に行き、そこで写真を撮ってきた。 ソイツは、写真が趣味というほどではない一般人であるが、一見、その写真はなかなか絵になっているように見えた。 なぜだろう? そう思ってよく見ると、外国というシチュエーションが雰囲気を作っているということが分かった。 それらの写真に写っている人々や建物、外国語の看板などを、もし日本にあるもので置き換えたとしたら・・・と想像してみた。 それは、ありきたりの写真であった。 ありきたりの写真の代表と言えば、「スナップ写真」が近いが・・・ソイツの写真は「スナップ写真」とも違う。スナップ写真は、ただ漠然とシャッターを押して撮ったものではなく、やはり撮影者にシャッターを押させる何かがあるのだ。だからこそ、その写真を観る者に何かを感じさせる。 外国で撮ったその写真は、物珍しさがあり、一見「絵になって」いるような気にさせるが、それ以上のものは感じない。もし、そのような写真を現地の人間に見せたとしたら、果たして素晴らしい写真と言うだろうか? こういうのはちょうど、日本人が英語のデザインされたTシャツを着ているようなものだという気がする。 昔の話だが、「KISS ME」という文字をデザインしたTシャツを着ていた女性が、外国人に「キスしていいんですか?」と言われたとか。まあ、小話の1つなのだろうが、本当にありそうで笑える。その話、今では、「KISS ME」ではなく「FUCK ME」なのだそうだ。 日本人は、何でも横文字にすれば格好良く感じる。最近のポップミュージックでも、ほとんどが横文字のタイトルである。 逆に、浅草に行くと、外国人向けに「神風」と書いたハチマキなどが売られていて唖然とする。外国人に言わせると、「漢字」というものがエキゾチックでGOODだという。 異文化を写真にするなら、それなりの視点が必要だと思うが、ただ単に「絵になるから」ということでシャッターを切ってもどうかと思う。 そこにある風景を、見慣れた日本の風景に置き換えてみれば、シャッターを押させるものがあるのかどうかということが見えるのではないだろうか。 まあ、写した本人が満足していればそれでいい話なのだが・・・。見せられるほうとしては、子供の成長写真を見せられるのと同じ気分になりそうだ。 ---------------------------------------------------- [123] 2000年 8月24日(木) 「カメラつながり」 昨日勤務先で、別の部署の先輩から社内メールを頂いた。 「ペンタックスMZ−3を購入したので、何かと教えてくれ」という内容だった。 また、同じ日に営業課の課長から電話を頂いた。 「F3/Tが手に入らなくなったから、せめて我輩のF3/Tを写真に撮ってくれ」というものだった。 「その写真を眺めて余生を送る」 課長の声は、まるで最期(さいご)の願いのようだった。 課長の話では、毎月少しずつ貯金していた矢先の販売終了ということで、かなりショックを受けていたようだった。ターゲットをF5にしたところで、目標金額が更に遠くなる。何しろ、現段階で6万円ほどしか貯まっていないという(全然足りないじゃないか)。 しかしそれにしても、本サイトが社内報で紹介されたために、カメラ関係の繋がりが出来たのは嬉しいことだ。こういうことが無ければ、ペンタックスMZ−3を持っている人間がいようとは思わなかっただろう、課長がF3/Tに情熱を燃やしているなどとは知り得なかったろう。 ---------------------------------------------------- [124] 2000年 8月26日(土) 「思想」 脳の中には、色々な情報が収められている。脳はその情報を、ニューロン(神経)回路を通すことによって思考する。言い換えれば、「自分」という存在は、形を持たない「情報の流れ」である。 脳がコンピュータと違う点は、脳は入力した情報(知識・体験等)をニューロン回路として形成し、その回路を使って情報を処理するということだ。情報を格納する部分が同時に、情報を処理する部分でもある(メモリベースアーキテクチャ)。コンピュータのように、決められた(固定した)プログラムによって情報を処理するのではない。 それ故、脳は入力する情報によって自己の論理体系を修正していく。例え一卵性双生児であろうとも、知識・体験が微妙に違えば論理形成が異なる(それぞれが「兄」・「弟」という異なる立場を持つことになるので、ただそれだけでも体験が異なることになる)。 これらのことから言えるのは、「自分」とは、今まで得てきた知識や過去の体験などの積み重なりであり、その都度思考してきた結果そのものであるということだ。その人間が辿ってきた知識と体験のパターンは唯一無二のものであるため、自分の持つ論理体系は世界にたった1つしか存在しないことになる。 以上が、確認事項である。 「人間の眼のレンズは1種類しかないから、私のカメラも50mmレンズ1本で撮り続けています。」 例えばこのようなことを聞くことがある。 これは、信念というか、一種の「思想」と言えるかも知れない。数多くの交換レンズが用意されている中で、わざわざ50mmレンズしか使わないというのは、そうさせるための思想があるからだ。 これは1つの例として取り上げたが、写真を撮る者は、大なり小なり「思想」を持っているはずだと思う。 しかし、ある1つの思想というのは、必ずしも全ての人間が同意できるとは限らない。自然法則とは違い、思想は人間の思考回路(脳内のニューロン回路)に左右される。 同じ情報を得たとしても、見方が違えば、得られる結論も異なる。 例えばキリスト教でもいくつかの分派があり、それぞれ聖書の解釈が全く違うように、思想は受け取る側で変容する。 ここで取り上げた例の場合、「人間の眼のレンズは1種類しかない」というのは事実だが、脳が見ている映像では、情報の取捨選択が行われているということも事実である。視野全体をまんべんなく認識しているわけでなく、意識の集中したものだけを見ている。その点で言えば、望遠レンズを使った写真がそれに近いかも知れない。 ここで強調するが、思想について「これが正しい、これが間違っている」などとは言えない。 それらはあくまで、一つの見方である。50mmレンズ〜云々の話にしても、たまたま例として取り上げただけで、その内容についてどうこう言う意図は無い。 では、何が言いたいのかというと、他の人間が言うことをそのまま自分に100%受け入れることには意味は無く、また、やろうと思っても出来ないということだ。 「50mmレンズ1本で撮っている」という話を聞いて、別の人間がそのスタイルに共感したとしても、全てを真似ることは出来ない。ただ単に同じように50mmだけを使っても、それは形だけの話だろう。いずれ、迷いが生じる。いずれ、飽きてくる。 (習い事のような、スキルを上げるための「真似」はここでは別の話) それぞれの人間の生きてきたバックグラウンドが違うのだ。どういうバックグラウンドを持った状態でその結論を導いたのか。それが重要である。「1×1=1」と「1÷1=1」は、答えが同じであっても、その論理は異なる。 50mmレンズ〜云々の話では、「なぜ自分がそれに共感したのか」というのが重要だ。それこそが自分の思想を知る貴重な手掛かりとなる。 その一番大事な部分を考えずに人の思想を取り入れたとしても、その目的を失うだけだ。それがいかに「目からウロコ」であろうとも、冷静に自己を見つめ、思考しなければならぬ。 人間はそれぞれ違うと冒頭に書いた。それは「個性」と呼ばれる。個性とは、言い換えれば「ユニーク(無二なもの)」である。全てが同じ人間ならば、我々1人1人は、かけがえのない存在とは言えなくなってしまう。 芸術が「表現」であるとするなら、その表現はユニークでなければならぬ。なぜなら、それを表現する者自身がユニークであるからだ。 もし他人の思想に共感したとしても、それは示唆(ヒント)を受けるにとどめるべきである。その示唆を自分の中で種(タネ)とし、自分の思想に最適化せねば、「怠慢」と言われても仕方あるまい。 (思考した結果、同じ手段に落ち着くならば、それはそれで意味が有ろう) 自分の視野に合わせ、24mmレンズ1本にするなり、100mmレンズ1本にするなり、あるいは、考えた末に50mmレンズ1本にしてもよい。 ただ目の前にいる人間のスタイルをそのまま考えも無しに受け継ぐことは、自分の存在意義を失う行為であろうかと思う。 「思想」とは、個々人の中にある、人間そのものだ。真の意味で「思想」だけを抜き出す事など出来はしない。それは「脳」と「自分」とを切り分けられないのと同じ事である。 現実は1つしか無いが、思想は人間の数だけ有る。 思想無くして思想は学べぬ。 ※ この文章も、一つの示唆を与えるに過ぎず、そのまま思考することなく受け取るべきではない。この文章の内容などは重要ではない。最も重要なのは、読む者が自分の考えとの違いを知ることである。 ---------------------------------------------------- [125] 2000年 8月26日(日) 「ミノルタα−7」 「ミノルタα−7」が登場したようなので、ミノルタのホームページからPDFカタログをダウンロードした。 個々の性能は西暦2000年相当だろうが、全体的な形態はかなりカメラらしくなってきた。「シンクロソケット」、「ダイヤル式操作部」、「ストラップ吊り金具」、「溶けかかったデザインの見直し」、「高ファインダー倍率」、「印刷表示から刻印表示への改め」・・・。まあ、確かに、AFカメラとしては新機能に違いないが、しかしこれらはAFカメラが自ら決別してきたことだろう? 何を今更、という感じがする。例えるならば、「東京で成功してやる!」と家を飛び出た若造が、スゴスゴと田舎に帰ってオヤジの後を継ぐようなものだ。 「シンプルなラインを基調とする洗練されたデザイン」などとぬかしやがって、今までの自分の行為を平気で否定するヤツは信用できん。 企業としての姿勢はともかく、とりあえずカメラ自体はソコソコ良いと思う。しかし、これは単にゼロ地点に戻っただけの話だ。今まではR2−D2のようなロボットを作ることを目指していたのだが、ここに来てやっとカメラを作る気になったらしい。 しかしまあ、ミノルタの思い込みの強さはかなりのものだ。きちんとしたマーケティングなどやってこなかったんだろうな。そうでないとすれば、社長や開発部長など、特定の人間がかき回しているのか。いわゆる「鶴の一声」で、全ての方針がガラリと変わることもあり得る。 しかし今回のα−7は、まだまだ信用できない面がある。その1つが、AFとMFを瞬時に切り替えるメカニズムの「フォーカスクラッチ機構」だ。これは、カタログのイラストを見ると、プーリーにゴムベルトを掛けてあるのが判る。何だこれは? ビデオデッキが故障する場合、テープの巻き戻しが出来なくなったりすることが多い。これは、モーターの回転力を伝達するゴムベルトが劣化して緩み、プーリーから外れたり空回りしたりすることによる。 機械装置というのはアキレス腱が必ずある。たった数ミリの配線一つが切れただけで、全機能を停止する場合がある。例え他の機能に全く異状がなかったとしても、機械装置全体が使えなくなるのだ。 ビデオデッキのような安価なものならば、大抵の場合、新しい製品に買い換えることになる。しかし、故障の原因がたった1つのゴムベルトで、他の部分には全く異状が無いとするなら、これほど無駄なことは無い。 α−7のフォーカスクラッチに使われている機構では、カメラがビデオデッキ化することがあり得る。数年間の使用では問題なく素晴らしい性能を発揮するのだが、その後はどうなることやら。原因は、たった1つのゴムベルト。中古に落ちたものでは要注意だ。 カメラに起こる経年劣化では、よくモルトプレーンの劣化やシャッターの油切れの問題が今までにもあったが、それらはいずれもアキレス腱ではなかった。それが起こっても、ほとんどの場合は撮影に支障が無い。 α−7の場合、ゴムベルトの劣化は即、AF撮影不可能を意味する。いつまでたっても合焦しないため、AFモーターは際限無く回転を続け、MFに切り替える知恵が無いとシャッターも切れないだろう。 「このカメラに使われているゴムベルトは特別製ですから劣化はありません」とメーカーは言うかも知れない。しかし、プロ用としてデビューしたα−9000などは、グリップ部のラバーが数年で劣化し、滑りやすくなった。やはり、実際に年月が経ってからでないと信用は出来ぬ。 今度は、耐久性に優れたカメラが作れるよう、古きに学ぶことだな。耐久性とは言っても、短時間の衝撃に耐えることばかりでなく、永く使えるような経年変化に耐えるもののことを言っているのだから、ミノルタは誤解しないように。思い込みが激しいメーカーであるから、余計な心配をしてしまう・・・。 ---------------------------------------------------- [126] 2000年 8月29日(火) 「後悔するなよ」 ノストラダムスが予言したとされる1999年の大異変。陸地が海となり、海が陸地となったりはしなかったが、やはり大異変は静かに起こりつつある。 カメラ界では、もうMFカメラが風前の灯火だ。 我輩は、既に10年前からその大絶滅に備え、コツコツとノアの箱船を用意してきた。我輩は借金は嫌いなほうなのだが、手段を選んではいられない。10年前であっても、5年前であっても、「明日にはF3が消えるかも知れない」、「明日にはLXが消えるかも知れない」と怯えていたものだった。 度重なるMFシステムの値上げ、キヤノンの場合、値上げしてしばらくしてMFが絶滅した。ニコンもそうなる可能性が高かった。しかも、F3の残った部品を一掃するために「F3リミテッド」が発売されたという噂も囁かれ、ここ10年は「来るか、来るか・・・」という気持ちだったのだ。 こういうこともあり、保存カメラのほとんどはローンで購入している。その時点で、「今手に入れるしかない」と思ったからだ。 借金は面倒だが、返すあてなど後から考えれば良い。 失った時間は二度と戻らぬ。それを肝に銘じ、借金をする。あとは死ぬ気で働くのだ。そういった苦労は必ず報われるハズだ。 今はもう、手段を考えている時ではない。確保するか、逃すか、どちらか1つ。 ※ 言っておくが、MFカメラはシステムこそが命だ。カメラ本体を確保しただけで安心するなよ。 ---------------------------------------------------- [127] 2000年 8月31日(木) 「ついに終わったか」 ニコンF3が、完全に生産を終了するらしい。当然ながら、その後はもう、新品では手に入らなくなる。 さあ、いよいよ大絶滅が佳境に入ってきた。次はペンタックスLXか、それともニコンFM2か。 「我慢くらべ」というものは、一方が降参すればもう一方はもはや我慢し続ける必要が無い。そうなると、ペンタックスLXの終わりは近いかも知れぬ。 我輩に関して言えば、ニコンF3関連の蓄えは充分にある。将来必要になる可能性のあるアクセサリー類も確保した。10年近くかけてコツコツと買い蓄えた甲斐があったというものだ。 ただ、ペンタックスLXについては、カメラ本体とファインダーシステムだけしか確保していないのが不安である。レンズも50mm1本しか無く、純正のMF24mmあたりが欲しいのだが・・・、新品はカタログに無い。 まあ、ペンタックスはKマウントであり、将来的には「色々なレンズを付けて楽しむプラットフォーム」として使うことにしよう。・・・そうやって自分を納得させるしか無い。 しかし、「生産完了」という言葉は寂しい響きを持っているな。できることなら目にしたくない。 ちょっとお遊びで「架空の価格表」を2つ作ってみた。もし、次のような価格表があったら、一体どうする・・・? 架空の価格表(こんな価格表、破って捨てちまえ) =Nikon= <品名> <価格> <備考> F5 ¥230,000 大量入荷! F100 ¥140,000 大量入荷! F3アイレベル 生産完了 − F3チタン 生産完了 − F3HP 生産完了 − FM2 生産完了 − FM2/T 生産完了 − FM10 生産完了 − FE10 ¥34,000 残り1台 =PENTAX= <品名> <価格> <備考> MZ−3 ¥75,000 店長おすすめ LX(ファインダーなし) 生産完了 − =OLYMPUS= <品名> <価格> <備考> 銀塩カメラを撤退し、デジタルへ移行しました。 架空の価格表(こんな価格表、どこかにないか?) =Nikon= <品名> <価格> <備考> F5 生産完了 − F100 生産完了 − F2(復刻完全新品) ¥190,000 受注生産 FE2(復刻完全新品) ¥80,000 即納できます FA(復刻完全新品) ¥130,000 即納できます F3HP ¥140,000 即納できます F3/T(黒/白) ¥190,000 白は受注生産 =Canon= <品名> <価格> <備考> F−1(完全復刻版) ¥130,000 受注生産 A−1(完全復刻版) ¥80,000 1週間待ち AE−1P(完全復刻版) ¥60,000 大量入荷! =PENTAX= <品名> <価格> <備考> LX(完全復刻版) ¥135,000 2週間待ち K2−DMD(完全復刻版) ¥100,000 受注生産 ---------------------------------------------------- [128] 2000年 9月 1日(金) 「動かない風景」 先日、実家に帰省した時に、道の写真を撮影した。 子供の頃から、幅も変わらず、周囲の風景も変わらず、車の通りもほとんど無い。道の真ん中でカメラを構えても大丈夫な場所だ。少しくらいならば寝転がっても平気かも知れない。 この写真をスライドプロジェクターで投影して見ていると、なぜか向こうのほうから誰かが歩いて来そうな、そんな気になる。 <<画像ファイルあり>> 写真というのは、時間を切り取り、その一瞬を止める。ただし、動かない風景を写真にすると、動いているのか動いていないのかが区別が出来なくなる。「動かない風景」を撮ることによって、逆に、時間を切り取らずにいられる。 一般的に「動きのある写真」とは、高速シャッターで激しい動きを止めたり、低速シャッターで動きの軌跡を写し込んだりする。それによってその写真を見る者に、「どれだけの時間をそこで切り取ったのか」ということを意識させる。 それに対し、「動かない風景」では、もはやシャッターさえも意識させない。まるで我々と同じ時間がそこで流れているかのようにも感じさせる。特に、我輩はその場所を良く知る人間であるから、道の向こうにある交差点で自動車が行き交うのを想像することも出来る。 もし、この写真の中に、走っている自動車が写っていたとしたら、この風景が止まったものであると意識するほかない。それはあたかも、蝶の標本のように、ピンで留められたものとなる。もはや羽ばたくことがないということが誰の目にも明らかになる。 我輩は今回、無意識に「動かない風景」ばかりを撮ってきた。今思うと、「動かない風景」を撮ることによって、その映像の時間を止めないようにしてきたのかも知れない。 動くことのない写真だと分かってはいても、この写真をジッと見ていると、自分がその場所で何かを待っているかのような気になる。 ---------------------------------------------------- [129] 2000年 9月 2日(土) 「マニアック」 昔、隣の部署にいた山登りの好きな課長が、我輩に1枚の写真を見せてくれた。ブロッケンの写真だった。 「これはブロッケンじゃないですか。へえ〜、凄いなあ。」 「我輩さん、よく分かりましたねぇ。そうです、ブロッケンです。他の人に見せても分かってもらえませんでしたよ。」 「ブロッケン」とは、分かりやすく言えば山で発生する蜃気楼のような自然現象である。何度も山を登っている者でも、滅多に見られるものではない。ただ、知名度はそれほど低くはないとは思うのだが、課長が写真を見せた人間は、たまたまブロッケンのことを知らない者ばかりだったらしい。 写真を撮る時、人それぞれの対象物がある。「人物」、「スポーツ」、「飛行機」、「風景」、「動物」、「地方風俗」・・・。それらは、撮影者が関心を持っている分野だろうと思う。その意味では、写真を趣味としている者は、撮影対象となるもう一つの趣味を持っていると言えなくもない。 ただし、そういった趣味がマイナーなものであるならば、それを撮った写真そのものが理解不能、あるいは評価の対象外となる場合がある。写真の評価をするには、そこに写っているものが何であるかという知識が不可欠なのだ。 ブロッケン現象の場合、それを知らない者がブロッケンの写真を見ても、何だか変な影が浮かんだモヤにしか見えない。見た後、記憶にも残らない。 概してそういうものだ。 さて、写真をコンテストに応募する場合、普通は写真雑誌へ送ることになる。しかし、写真雑誌というのは、ごく一般的な平均的雑誌である。その証拠に、そこに載っている写真のほとんどが、一般人にも理解可能な「人物」、「スナップ」、「風景」で占められている。そこでは、例えば「ジオラマ写真」などが載ることは無い。そういう写真は、模型雑誌にしか載らない。写真として認められないのではなく、一般の知識だけで運営している写真雑誌では手に余るのだ。 我輩は、人物や風景の他に「ブツ撮り」したりもする。対象物はカメラやGUN(モデルガン)である。まさに写真雑誌向きではない。 我輩は、GUNの写真を「月刊GUN」という銃器関係の雑誌のコンテストに投稿した。 写真のタイトルは「ガンショップ」。GUNがガンショップ店頭に並んでいる様を表現した写真だった。ご丁寧にも、「SFエクスチェンジ」というサンフランシスコのガンショップのロゴ入りプライスタグを作って演出した。 果たしてそれは、2000年3月号の160ページに掲載された。ブロンズ賞(3位)だったが、一般写真雑誌では絶対に載らない写真が載ったのだ(写真技法についての評価は厳しくないかも知れぬが)。そして、そのコメントには「SFガンエクスチェンジ」について言及されていた。さすが、解る者には解る。逆にそこまで凝らねば、リアリティを追求するどころか、コメディーになってしまう。 例えばもし仮に、ベトナム戦争の映画でニコンF5が出てきたら変だろう? カメラに詳しくない者が観れば不自然さに気付かないだろうし、そもそもそれがF5であろうとFであろうと、映画の本筋には関係ない。しかし、そんな映画があったとしたら、我々はすぐに違和感を持つに違いない。 例えば映画化された坂本龍馬を見ると、板東妻三郎が演じた竜馬では「コルトポリスリボルバー」を、そして原田芳雄の竜馬ではなんと「バントライン・スペシャル」が使われたそうだ。本当の龍馬が使っていたのは「S&W製モデル2アーミー」であったのだが。 これではリアリティもクソもあったもんじゃない。マニアックと言われようが、事実ではあり得ない風景を作るべきではない。 <<画像ファイルあり>> タイトル:「ガンショップ」 「月刊GUN」2000年3月号掲載 ---------------------------------------------------- [130] 2000年 9月 3日(日) 「証拠写真」 我輩が千葉県松戸市へ移り住んだのは2年前である。 住所が変わったことにより、様々な手続きが必要になったが、免許証の住所記述の変更もその1つだった。 1998年6月3日、最寄りの松戸警察署に赴いた。受付に行くと、所定の用紙に記入して待つように言われた。 我輩は長椅子に座り、しばらく待っていた。ふと右のほうを見ると、若いカップルが後ろの端にある長椅子に座っているのが見える。待っているのはてっきり我輩1人だけだと思っていたのだが。 さて、しばらくすると1人の警官が現れ、こちらを見て名前を呼んだ。 我輩は警官の後について行き、指示されたイスに座った。そして、目の前の机の上に写真を広げて見せられた。それは、走っている自動車を写した写真だった。運転手の男の顔まで写っている。スピード違反で撮られた赤外線写真だろうか。 「これは誰ですか?」 警官は我輩に質問した。写真の男は知らない人物だった。我輩の友人でもない。 「さあ?」 我輩は警官を見上げた。 「本当に誰だか分からないんですか?」 警官は明らかに不機嫌になった。どうして我輩がこの男を知っていなくちゃならんのだ? そのうち警官は、 「じゃあ、どうして警察に来たんですか?」 と訊いてきた。免許の住所変更に来て「どうして来たか」などと訊かれるのは初めてだ。こちらもそろそろイライラしてきた。 警官は「**さんですよね?」と言った。聞いたことの無い名前だった。 我輩は「違う」と答え、元の場所に戻った。人違いだった。 結局、このスピード違反の犯人は、隅のほうに座って目立たないカップルの男のほうだった。我輩とは似てもに似つかない男である。 警官が我輩のほうを見て呼びかけたのだから、我輩だと思うのは当然だ。しかもその警官の発音はハッキリしなかった。 スピード違反で出頭したのであれば、まず先に免許証を確認し、本人であるかを確かめるのがスジだろう。松戸警察では事務処理効率化のために、このような手続きは省いているのかも知れないが、省いて良いことと悪いことがある。 しかし何より妙だったのが、なぜ顔までハッキリと写しておきながらも、写真の男が我輩と似ていないことに気付かなかったのか? 大学受験でさえ、受験票の写真と違っていると試験官に質問されるぞ。 警察(少なくとも松戸警察)は、証拠写真を持っていたとしても、それは手続きの中で形式でしか使わない。何が写っているのかというのはどうでもいい話で、写真は単に必要書類の1つでしかないのだ。 しかし、警官とあろう者が、写真などの証拠物件をきちんと読みとる訓練など受けていないのか? 写真を丹念に見ることによって、「何かおかしい」と思う直感力は、警官こそが持っている資質だと思うのだが・・・、我輩の認識が甘いのだろうか。 結局、その松戸市の警官は一言も詫びることはなかった。まあ、警察らしいと言えば、警察らしい。 ---------------------------------------------------- [131] 2000年 9月 4日(月) 「ステレオ写真2」 以前、ステレオ写真について書いた。 この夏、実家に帰った時に、興味深い写真を見つけた。それは、学研の「5年の科学」に付いていた教材だった。立体写真による理科資料を集めたもので、付属の立体スコープで覗くと、写真が立体的に浮かび上がるというものである。 さて、その中に月を写したものがある。 「月が立体?!」 確かに月は球体であるため、視差さえあれば立体に見えるはずだ。しかし、その視差はいったい何キロメートル必要だろう?人間の目からは、ほとんど1点から見ているのと変わらない。そのため、肉眼で月を立体的に見ることなど出来ない。 それどころか、ちょっとくらい移動したくらいでも、ほとんど無駄な努力に終わる。そうなると、どのようにしても立体的に写すことは不可能に思える。 しかし、月はいつも地球に同じ面を見せているようで、実は多少の揺れがある。それを利用し、時間差を与えて写真を撮るのだ。そうすれば、月が左右に揺れたことによって擬似的な視差を作ることが出来る。これが、月の立体写真の正体である。 似たような原理で、移動している乗り物から連続写真を撮ると、ステレオ写真を得ることが出来る。これも遠景のものをステレオ化するのに都合が良い。 5年前、東京ディズニーランドでゴンドラに乗り、そこから移動中の写真を撮った。残念ながら天候が最悪で、しかも露出不足ということもあり、発色は良くない。しかしまあ、移動中の連続写真によるステレオ効果は出ていると思う。 この原理を利用すれば、ビデオカメラで撮影した画像からもステレオ写真を起こすことができる。そんな都合良く撮影された映像は無いかも知れないが、もしあれば出来るのだ。 ステレオ写真として撮った映像でなくても、工夫次第でステレオ化出来るというのは面白い。 下の写真は、「平行法」と呼ばれる方法で見る。右目で右の画像を、左目で左の画像をそれぞれ見つめると、2つの画像が融合され立体画像として浮き上がる。平行法なので、決して寄り目にしてはならない。遠くを見るような感覚で見ると良い。 「月」の写真は著作権の問題あるかも知れないが、興味深い資料であるため出典を明らかにして載せた。問題がある場合、掲載をやめる場合がある。 学研「5年の科学」教材より 左目 右目 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 5年前にディズニーランドでゴンドラから撮影 左目 右目 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> さて、立体スコープなどの道具を使わずに2枚の写真から立体画像を見ることができる者はどれくらいいるのだろう?我輩の身近では、おおよそ半々である。もしよければ、諸君も立体視が出来たかをお教え願いたいのだが。 立体視出来ない者がほとんどならば意味が無いので、以降、ステレオ写真は扱うのをやめておく。 立体視出来たかどうか ()立体視出来た ()立体視出来ない    出来る(19人)−出来ない(2人) [2000年09月11日14:44現在集計] ---------------------------------------------------- [132] 2000年 9月 5日(火) 「新しいビジネスモデル」 モデルガンやエアソフトガンの世界では、カスタムパーツというのはポピュラーだ。 例えば、オプションの木製グリップや、金属削り出しパーツ、精度の高いバレル(銃身)などが、純正・非純正係わらず売られている。 もちろん銃刀法で許される範囲内でのことだが、プラスチック製の部品を金属製に換えたりということも、カスタム化の魅力の1つである。 モデルガン・ガスガン自体が本物のレプリカであるのだが、やはりそれぞれのモデルガン・ガスガンに適応した部品が用意される。1種類のガンがどれくらい作られているのかは知らないが、所詮は実用性の無いオモチャであるため、カメラの生産量よりも少ないということは想像できる。そんな少ない製品に対してカスタムパーツを作る会社が存在するのは、採算がとれているということなのだろう。 カメラの世界では、そんなことは出来ないのだろうか。 例えば、ニコンF3のペンタ部にある「Nikon」のネームプレート。あそこはプラスチックで質感がわずかに違う。出来ることなら金属製にしたい。そんな時、どこかの会社がカスタムパーツとして金属製ネームプレートを発売しないものだろうか・・・。 まあ、モデルガン・ガスガンと違い、分解組立が一般的に行えないという事情もあるだろうが、1つの方法として、例えばカメラとそのカスタムパーツを「関東カメラサービス」などに持ち込んで組み込んでもらうというのはダメだろうか? 他にも、カスタムパーツとして「外装!チタンシリーズ〜あなたのボロカメラがチタンに生まれ変わります!」などというのもどうか。 更に、もっと大手のメーカーならば、「F3ファインダーをホットシュー付きに改造します」とか、「独自開発!双眼ファインダー発売!」というのも興奮しそうだ。 F5の交換ファインダーなども信じられないほど高価だから、もっと安いものが供給できるかも知れない。 レンズメーカーやF3用のインテンスクリーンがあるくらいだから、どこかやってみないか? 新しいビジネスモデルとして有効だと思うぞ。 ---------------------------------------------------- [133] 2000年 9月 6日(水) 「One Of Thousand」 「シティー・ハンター」というマンガで、主人公の冴羽リョウが、「One Of Thousand(ワン・オブ・サウザント)」とかいう拳銃を使って、精密射撃をするシーンがある。 うろ覚えの説明だが、「大量生産で生み出される拳銃の中には、千挺に1挺の確率(One Of Thousand)で、どんな銃職人でも作れないほどの精度を持った銃が偶然に生まれる。」のだという。 冴羽リョウは、この拳銃を使い、最初の1発目が作った穴めがけて2発目を撃ち込んだ。 銃のことを多少知っている者ならば、あり得ない話だとすぐに分かる。命中率は銃本体だけで決まるのではなく、「弾頭の形状・材質」、「火薬の燃焼速度(火薬の種類)」、「何発目に撃ったか(銃身の熱や汚れ具合が違う)」などによってかなり影響を受ける。 しかし、話としてはなかなか面白い。命中率はともかく、銃の機械製品としての精度がまさしく「One Of Thousand」のものもあるかも知れない。 さて、以前営業課長に頼まれたF3/T(黒)の撮影について、昨日6×6判で撮影した。その際、久しぶりにガス充填ケースから出したF3/T(黒)を操作してみた。電池は抜いてあるので、緊急作動レバーでシャッターを切る。 「ん・・・?」 感触がいつもと違う。いや、正確に言えば、「今まで使ってきたF3と違う」のだ。 何が違うのかと言うと、巻上げの感触が異様に軽い。シャッターの音もまろやかに聞こえる。すぐに、F3HPやF3リミテッド、F3/T(白)に持ち替えて操作してみた。・・・これはいつもと変わりない。特に、F3HPは未使用のもので試したのだが、F3/T(黒)ほど軽くはない。 何故だ? F3/T(黒)はそれ1台しか所有しておらず、全く同じものを比較出来ないが、少なくとも今まで触ってきたF3と比べると、そのF3/T(黒)だけは特別な感触なのだ。 ・・・まさか、これは「F3版の One Of Thousand」なのか? しかし、なぜ購入当初に気付かなかったのか、そこが解せぬ。 このF3/T(黒)を購入した当初は、F3経験も浅く、その軽さに気付かなかったのかも知れない。あるいは、フロンガス充填が影響し、何らかの変質が起きたのだろうか。まさか、故障する前兆現象ではあるまいな。 しかしまあ、敢えて本当のことを知らないほうがよい場合もある。 知人Bの親父さんは、大事な保存カメラを子供に(Bの弟)売り飛ばされたが気付かないままだという。きっと、その親父さんの心の中には、新品のカメラが今でも大切に保管されているだろうと思う。美しい話じゃないか。 何事も信じることが大切だ。自分のカメラであるから、自分が納得すればそれでいい。「One Of Thousand」かどうかというのは誰にも断定出来ないことだ。もしかしたらF3/T(黒)に限っては、他のものも同じく軽いのかも知れない。 しかし、自分の持っているF3/T(黒)が、「One Of Thousand」であると信じれば、それはその瞬間から「One Of Thousand」となるのだ。 ---------------------------------------------------- [134] 2000年 9月 7日(木) 「スパゲティ」 子供の頃、「一本ラーメン」というものを食べたことがある。文字通り、麺が1本で繋がっているラーメンのことだ。当然、麺の切れ目は両端の2つしか無い。この端を見失うと、なかなか見つからなくて苦労する。 工学の世界では、「スパゲティ・シンドローム(スパゲティ症候群)」なる有名な言葉がある。これは、1本ラーメンと同じく、絡み合うスパゲティは糸口がなかなか見つからないということを意味している。 つまり、複雑なものに発生する不具合を、更に複雑な仕組みで対処しようとする状態のことである。 同じような意味として、航空業界では、「コクピット症候群」という言葉もある。 より多くの情報を表示させてパイロットに分かりやすくしようとすると、かえって計器が増え、どこから見ればいいのか分からなくなってしまう状態のことを言う。 我輩は、カメラの世界でも似たものを感じる。 「このサイトの主旨」にも書いた事だが、世の中は「複雑さ」に向かって突き進んでいる。「複雑さ」の先で技術的な問題点が発生すると、更に複雑な仕組みで解決していく。一旦、複雑さを取り入れれば、もはや止まることは出来ない。もう立派に、スパゲティ症候群と認定できる。 カメラのやっていることは単純だ。絞り・シャッタースピードの組み合わせによる露出調節と、焦点調節である。いや、「レンズ付きフィルム」の存在が証明するように、必ずしも調節しなくてはならないというものでもない。固定したままでも実用に耐える写真は得られる。 「より良い写真、よりキレイな写真」を目指す者がいる。それだけならば、自分のスキルを磨き、手動カメラを使えば良い。しかし、「より手軽に何も考えずに」という但し書きが付くとやっかいなことになる。しかもそういう人間が多数派だ。 「手軽にキレイな写真が撮れる」ということに対して、メーカーもかなり苦労したのではないかと思う。キレイというのは、一体、どういう状態のことを言うのか・・・? それは、撮影者のイメージが分からなければどうしようもないことだ。当の本人が何も考えていないのだから始末に負えない。 そこで「イメージセレクト」が登場した。「ポートレートモード」、「風景モード」、「スポーツモード」、「接写モード」、「夜景モード」・・・。 では旅行のように、人物と風景が同時に重要視される写真では、どのモードを選べば良いのか。「ポートレートモード」か? はたまた「風景モード」か? モードダイヤルを2つのモードの中間に合わせてみても、解決には繋がらない。 もしそういう要望が多ければ、やはりメーカーとしては「旅行モード」を追加せざるを得なくなってしまう。 モードの話はほんの一例で、他にもスパゲティ化しているものはある。ちょっとした写真の勉強、ちょっとした手間を惜しまなければ、もっと写真の奥の方まで行けるのに惜しいことだ。 最初から重装備で行くと通れない穴もある。その穴の先に、写真に対する新たな展望が広がっていたとしても、その人間は気付くことは無い。重装備で満足し、新たな装備が出来るのを待つだけなのだ。そんなヤツは、スパゲティに絡まってしまえ。 ※ 単純に「自動化が悪い」と言っているんじゃないぞ。もっと分かりやすいスマートな解決法があるはずだと言っているだけだ。 ※ パソコンの世界のスパゲティ化はかなりヒドイ。ワープロソフトはそのいい例だ。単に文字を打つソフトが、なぜあんなに肥大化したのか。もう誰にも分からない。誰にも止められない。カメラの世界がそのようになるのも時間の問題だ。 ---------------------------------------------------- [135] 2000年 9月 9日(土) 「大金持ちの買い物」 この間、テレビで大金持ちの生活を紹介する番組をやっていた。 しかし、そこに登場する大金持ちは、どうでもいいようなものに大金を注ぎ込んでいるように見えた。樹齢数百年の木材を使って作らせたイスが数百万円するとか、ベルサイユ宮殿で使われていたアンティーク家具が数億円だとか。 驚くというよりも、ただ呆れる。本当にその価値があるのか、専門家でさえ判らないようなものもあり、いったい、物の価値とは何なのだろうと考えてしまう。 それなら、同じデザイン、同じ機能を実現させ、値段も安い物のほうがいいのではないかと思うが、「ベルサイユ宮殿で使われた」という血統書があるだけで価値がハネ上がるのは解せない。 我輩の価値観がズレているのであろうか。 カメラの分野では、日本はドイツのカメラのレプリカを作ることから始め、すぐに本家の性能を凌駕した。そして世界に認められた。もし、「本物か、そうでないか」ということだけなら、日本のカメラはレプリカ以上には評価されないハズだ。 ・・・ちょっと話が逸れた。このような展開の話にするつもりは無かった。 もし我輩が大金持ちになったとしたら、カメラメーカーを1社買おうと思う。ニコンかキヤノン、あるいはペンタックスがいい。まあ、とりあえずニコンにしようか。 さて、自分の会社になったのだから、自分の思い通りの製品を開発してもらうことにする。金の心配は無いわけだから、思いっきり自分の趣味でカメラアクセサリを作ってみよう。自分が使うために作るのだ。もしそれが一般受けしたなら、それはそれでいいことだ。 というわけで、想像上のカメラアクセサリを創作してみた。 まあ、実際のカタログでも、仕様とほんの数行の解説しか載っていない。ここでとやかく解説する必要も無い。 <我輩がプロデュースしたアクセサリ> <<画像ファイルあり>> Nikon F3用ワインダー 単3電池4本使用。巻き上げ速度2.5コマ/秒 (価格¥38,000) <<画像ファイルあり>> Nikon F3用外部電池 単3電池2本をグリップ部に格納し、寒冷地でも手の体温で保温しながら撮影できる。縦位置シャッターボタン取付可能。 (価格¥15,000) <<画像ファイルあり>> Nikon F〜F5用双眼ファインダー 同一仕様にてF〜F5用それぞれを用意。双眼により、ファインダー上の視野が広がり、無理なく多くの情報を視認することができる。三脚でじっくり撮影する場合に有効。接眼部は上下左右に振ることが可能。 (価格¥50,000) <<画像ファイルあり>> Nikon F3〜F5用CCDファインダー 遠隔操作によってシャッターレリーズが可能。CCD内蔵のため、手元の液晶モニタで画面の確認が可能。野生動物等の無人撮影に最適。セッティング用として光学ファインダーも簡易的に備えている。CCDを利用して静止画が撮れるが、ファインダースクリーンの像が映るため、デジタルカメラとしては使えない。なお、パソコンに接続し(USB2.0接続)、モニタ上から画面の確認及びレリーズが行える。ソフトはWindows 95/98/NT用でMac版無し。 (価格¥88,000) <<画像ファイルあり>> Nikon F〜F5用ファインダースクリーン スナイパーの気分が味わえるファインダースクリーン。型番は「007」。望遠用のため、広角レンズではケラれる。実用性はほとんど無い。 (価格¥3,000) <<画像ファイルあり>> Nikon F2〜F5用デジタルカメラバック ウラブタを交換することにより、銀塩カメラを手軽にデジタルカメラにすることができる。300万画素。 (価格¥125,000) 今回は、下らない内容にしては絵を描き込んだりと、ちょっと時間を掛けすぎた・・・(反省)。 ---------------------------------------------------- [136] 2000年 9月11日(月) 「男のプライド」 我輩は自動車を所有してはいないが、もし持っていたとしたら、決してそれはオートマチックではないだろう。「マニュアル車を運転しなサイ!」などと言うサイトを立ち上げ、「男ならば自分の意志で変速すべきだ」と、いきまいていたに違いない。 やはり、何にしても機械を自分の意志で操るというのは壮快だ。操作に対する反応が真っ直ぐに返ってくるのがいい。自動車が自分の支配下に置かれていることを実感する瞬間でもあろう。単純な操作ながらも、その操作如何によって、乗り心地や加速性能が左右される。「腕の見せ所」という部分なのだ。 現在はオートマチックのほうが効率が良いことになっている。わざわざマニュアル車に乗ることは意味の無いことだとされている。それだけ、自分の責任において自動車を操作することが求められることになる。自動車のせいにすることは出来ない。しかし、これがかえって刺激的に感じるだろうとも思う。 ただし自動車は、自分の責任範囲を越える問題が多い。我輩のもう1つのテーマである「自然環境の問題」をクリアできないことにより、排気ガスを排出する自動車(もちろんハイブリッド車も含む)は所有しない。 さて、カメラの場合にも、自分で操作するという喜びは我輩にとって重要となる。 現在、カメラの機能の複雑化と共に人間の機能の単純化が進み、人間はあと10年も経てばサルへと退化して四足歩行へと戻る。しかし我輩は、サルになることを拒む。人間もサルも同じく不完全なものだが、人間がサルと違う点は、人間は自らの理想と目標を掲げ、それに近づけるべく努力することができるということだ。 自動車ならば「目的地に着けばよい」ということが1つの目的として無視出来ぬが、カメラの場合になると「ただ写ればよい」というものでもない。そんな要求ならば一眼レフカメラは不的確である。自分のイメージに近付けるという意図が無い限り、一眼レフを使う意味は全く無い。 キレイに写したいから一眼レフを選択したんだろう? 「キレイに」という自分のイメージがあるなら、その意志を写真に反映させねばならない。それはつまり、カメラに自分の意志を入力することである。 「キレイに」という漠然とした要求だけでは、カメラに自分のイメージを伝えることは出来ない。 入力作業を簡単に、かつ、キレイに写真を撮りたいというのは、全く矛盾したことである。 それはあたかも、レストランで漠然と「うまい料理を出せ」と言っているようなものだ。客の好みも分からずにうまい料理は出せない。魚が好きか、肉が好きか、そういうようなことを伝える必要がある。そうすることによって初めて、「自動的に」お勧め料理を選んでくれるようになる。 我輩は、いちいち好みを言うくらいならば、料理名を直接指定する。「いいから***を作れ」と。 つまり、入力作業をダイヤルを通してダイレクトに行いたい。カメラは我輩の言うとおりに動けばそれでいい。どうせ入力作業が必要ならば、自動化など意味が無い。自動的にやってもらって、気に入らない料理が出てきたら、結局またやり直しだからな。 男ならばビシッと料理名を指定すべきだ。 しかし、料理を指定するには、どんな料理があるのか勉強する必要がある。初心者はそこが難しいと言う。 バカもの、そんな手間を惜しんでどうする。 最初は確かに難しいことだろう。しかし努力をするのが人間じゃないのか? これはそんなに難しいことなのか? 今現在の自分に満足することなく、そしてまた、今現在の自分に落胆することなく、常に目標に向かって努力することこそが人間たる所以(ゆえん)である。 我輩の考えでは、人間とは自分を高めるためにこの世で時間を与えられた存在である。量子力学では、現状の観測によって未来は確定できないとされている。だからこそ、人間は自らの意志によって、白紙の未来における自分の姿を作ることが出来る。全てに重要なのは、自らの意志である。プライドである。 人間の能力は、1つのことを極めて行けば行くほど大きく広がる。ダイヤル式カメラが使いにくいという人間がいるならば、こう言ってやろう。 「それは、自己を鍛錬しないキサマが悪い。」 鍛錬し、自らを向上させるからこそ、趣味が面白くなるのだ。失敗を自分の能力で乗り越えるからこそ、プライドが持てるのだ。課程を省き、結果だけを追い求めるような者は、いずれ人生においても、ふと、空しさを感じる時が来るだろう。 プロカメラマンのように、純粋に「効率」を追い求めて自動化に頼るならまだしも、単に「簡単」ばかりを追い求めている者には、趣味の本当の面白さや感動というものは、一生涯理解できぬ。自分のやろうとしていることの目的を、最後の最後で失うこととなろう。 そんなフヌケたやつらは、せいぜいお稽古ごとの写真に甘んじるがよい。 プライドこそが、自分を磨く研磨剤足り得る。 男ならば、プライドを持て。自分でやれることを少しずつ増やして行き、いつか、自動カメラを見下してやれ。 ---------------------------------------------------- [137] 2000年 9月12日(火) 「キヤノネットの想い出」 昨日の雑文で、「絞りとシャッターを自分で変えろ」と言った。 そこでふと考えた。「我輩が最初に絞りとシャッターを意識したのはいつだったのだろうか」と。 我輩が最初に撮った写真は、恐らく戦闘機の写真ではなかったろうかと思う。小学校何年生の時かは忘れたが、友達と祖父と我輩3人で、自衛隊の築城(ついき)基地の航空祭に出掛けた時だった。 我輩は祖父のキヤノネット(レンズシャッター式の非一眼レフ。要するに安物。)を借り、駐機してある戦闘機を撮って回った。祖父がカメラについて何か言ったような気がしたが、構わずシャッターを切り続けた。 撮影後、我輩の頭の中には、戦闘機の見事な写真が浮かんでいた。そして、「早く現像してくれ」と祖父を急かした。しかし、出来上がった写真は見事な露出不足。当時の我輩には露出調節の概念など無かったのだ。 我輩の頭に描いていた写真は、空しく消え去った。 あの時の気持ちとしては、本当に残念でたまらなかった。 しかし、その経験があったからこそ、我輩は露出というものを意識しはじめたというのも事実である。写真を写すためには、色々と調節する事があるということを肌で実感したわけだ。 これが現在のカメラならば、どのように撮ろうと、それなりに写る。写真について何か勉強しなければいけないと分かっていても、何も考えなくとも、一応は写る。だから、「勉強するのはまたそのうち」ということになってしまう。 さて、失敗写真の後、我輩はキヤノネットで練習を重ねた。いや、「今思えば練習になった」という意味で、子供にとってはいつも本番のつもりである。 「今度こそは、うまく飛行機を撮ってやる」 こういう意気込みだった。 我輩の実家は、築城基地の着陸路の真下に位置し、日中はよく軍用機の爆音が轟いていた。 紅色の燃料タンクを見せながら飛ぶT-33練習機、 燃えるような爆音でガラス戸を振動させるF−4ファントム、矢のように飛んでいくT−104などが見られた。 我輩は爆音がするたびにキヤノネットをつかんで庭に出た。肉眼では大きく見えるのだが、写真にするとなぜか小さく写ってしまう。 どうやらレンズが良くないらしいというのが解ってきた。もっと遠くが写るレンズが必要らしい。現在のように、ズームレンズなどもちろん付いていない。 そこで、我輩はキヤノネットを調べてみた。レンズを換えるにはどこを操作すればいいのか。 しばらくやっても分からなかったので、レンズ鏡胴を掴み、とりあえず力一杯ねじってみた。「回転方向が違うのかも知れない」と左右にねじってみるが、少しガタが出た程度で、全く外れる気配が無い。 ついに我輩は諦めた。そして悟った。 「これはレンズが換えられないカメラなんだな。」 その後、キヤノネットのレンズシャッターは切れなくなっていた。 ---------------------------------------------------- [138] 2000年 9月13日(水) 「ゲリラ活動開始」 「ホームページ制作セミナー」というものが荒川区で開かれる。一般市民向けのセミナーである。そしてなぜか、我輩がその講師として任命された。会社の業務であって、アルバイトじゃないぞ。 我輩は、任命される瞬間まで、ウチの会社がこのような業務を行っていたということを知らなかった。 いつもは外部講師を呼んで行われていたらしいのだが、安い仕事らしく今回からは拒否されたという。そこで、我輩にこの話が回ってきた。 セミナーの内容としては、シロウトにホームページ制作をレクチャーするということなのだが、IBMの「ホームページ・ビルダー」というHTML作成ソフトを使うことになっている。 我輩は、そのようなソフトは使ったことが無い。いつも使っているソフトは「メモ帳」であり、メモ帳で開けないような大きなファイルは「Em-Editerフリー版」というテキストエディタでガシガシ作る。我輩の性格そのままだ。 妙なソフトを使うと、変なタグを入れてくる場合がある。あまり入れたくないタグなども平気で入れてくるのが頭に来る。まるで全自動カメラを使っているような感覚だ。こちらの思い通りに作り込むには、テキストエディタに勝るものは無い。それはまるで、ダイヤル操作のマニュアルカメラを使っているかのようだ。 頻繁に使う タグや
タグなどは一瞬でタイプできるようになった。慣れてくると、複雑な表組でもタグを見れば形が見えてくる。自己鍛錬の成果である。 「ソフトを使って自動生成すれば、タグの間違いも無く、簡単確実じゃないか」 それは確かにそうだ。タグを手動で打ち込んだところで得することは何も無い。円周率を何十桁も覚えて自慢するバカと同じことだ(それも我輩)。「だから何なんだ」と言われるレベルの話でしかない。 だが、ソフトの使用法などはバージョンが違っただけでガラリと変わる。ましてや違う会社のソフトならば、最初から勉強しなおしとなる。カメラで言えば、違う操作体系の機種に乗り換える苦労と同じだ。 もし、根幹の原理が解っていれば、このような苦労は軽減されるだろう。カメラを替えても「絞り」と「シャッター」の調節という大原則は変わらないように、ソフトを替えてもHTMLの文法は変わらない。 セミナーの主催者側は、ホームページ・ビルダーの使用法を主にやりたいらしいが、我輩はその目を盗んで独自の洗脳を行う計画を立てている。HTMLの原則を学ばせ、メモ帳でホームページを作らせるのだ。 たまに「応用編」としてホームページ・ビルダーを使うが、基本的な使い方を教えるに留める。どうせ、ソフトの使い方などは参考書を読んだほうが詳しいからな。 このセミナーは、安易に依頼通りのセミナーを行うよりも「自分が何をやっているのか」ということを一般市民に意識させるためのチャンスである。 このようなゲリラ活動が浸透していけば、やがては写真についても、カメラ任せにすることへの疑問が生まれてくるかも知れぬ。それは思想や理論ではない。洗脳による「すり込み」であるから、感情に訴えることになろう。「カメラ任せにするのは気持ちが悪い」とか「自分の知らないところで調節されるのはカンに触る」という具合だ。 ゲリラ活動は、11月〜来年1月の間で行われる予定である。その後も何度かあるだろう。 ---------------------------------------------------- [139] 2000年 9月14日(木) 「電卓と炊飯器」 我輩が液晶ディスプレイを初めて目にしたのは、任天堂ゲーム&ウォッチの「BALL」というオモチャが最初だった。小倉井筒屋のオモチャ売場で、それはオモチャというよりも、高級感を漂わせた「装置」に見えた。 それまでのゲームと言えば、LEDを光らせたり、蛍光管(FL)を光らせたりしてキャラクターを表現していた。しかし、液晶はそれらとは違い、自身で発光することは無い。光を遮り、影を落とす。まるで実体がそこにあるかのように感じたものだった。 これはあくまでも我輩の印象だが、液晶表示はとてもCOOLである。電子機器によく合うと思う。 最近は細かい格子で表す「ドットマトリクス」が増えてきたが、以前ならば「いかに限られたスペース内に情報を配置するか」という苦労の跡がうかがえたものだ。例えば、数字を表現するセグメントを少し変形させ、同時にアルファベットを表現させようとする試み。多少、強引な表示もあったが、それはそれで「イイ感じ」だったりする。 だが逆に、液晶表示が電子機器とは関係ない場所に設置されると、かなり違和感を感じる。電子機器によく似合う分、他では似合わないような気がする。多少、慣れの問題があるのかも知れないが、やはり「必然的に液晶が欠かせないもの」と「そうでないもの」とは、歴然たる違いを感じる。 例えば、電卓では液晶(またはその他の表示板)が無くてはならないが、炊飯器に液晶が付いていると変だ。確かに、マイコンが炊飯器を制御しているというのは解るが、それがあってはじめて人類が飯を炊けるようになったわけでもない。あくまで付加機能に過ぎない。 35mmカメラは機械の塊から出発した。途中、プラスチックが入ってきたりしたが、機械動作であることに変わりはない。そういう意味では、カメラは炊飯器の仲間に入る。液晶表示が無くてもやっていた時代があったのだ。 さて、カメラ関係の中で電卓の仲間になりそうなものが1つある。それは、単体露出計だ。 露出計は、光を測り、その結果を表示させる。つまり、数値的な情報を提供することが主たる機能である。それ故、液晶表示が欠かせない。 液晶表示カメラには「機能の詰め込みすぎだ」と言ってきた我輩であるが、単体露出計には色々なポテンシャル(隠れた能力)を詰め込んで欲しいと思っている。なぜそう考えるのか、その理由は最近分かった。 我輩はIBMの「ワークパッド」という携帯端末(PalmOS互換機)を使っているが、露出計を操作している気分と共通している。逆に言うと、単体露出計を操作していると携帯端末を操作している気分になるというわけだ。 電卓の仲間である単体露出計、こうして見ると、なかなか液晶が頼もしく見えるわ。 <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [140] 2000年 9月16日(土) 「怠惰な完璧主義」 我輩は6年ほど前から文書の電子化を始めた。 それは、我輩の書斎の本が増殖を極め、もはや山積みの下敷きにされた本を開くことが出来ないという状況が背景にある。概して、取れない本ほど読みたい本である。これは「マーフィーの法則」の1つではないかと思う。 「もしパソコン上で本が読めるならば、物理的な制約にとらわれずに本を読むことが出来る。」 これは、我輩の長年の夢であった。 ところが、本をバカ正直に電子化しようとすると、かなりの労力が必要となる。試しに1冊データ化してみたが、半月ほど費やしてしまった。なぜかというと、文字はテキストファイル、写真は画像ファイルと、きちんと分けていたからだ。 文字の部分はOCR(文字認識)ソフトでテキスト化するのだが、誤認識のチェックがまた一苦労。スキャナ作業や文字と写真のレイアウト作業を含めると、膨大な作業量となる。ほとんど、新規に本を作っているのと同じだ。 なぜこのような事態に陥ったのか。それは、我輩の「怠惰な完璧主義」が原因である。 「怠惰な完璧主義」とは、楽をしたいという一心で、実現不可能なくらい完璧なシステムを造り上げようとするものである。この場合、本の電子化によって全文検索や条件検索を行い、迅速かつ正確に目的の文書を呼び出すことを目標にしていた。今まで、必要な本を探し出す苦労にうんざりしていたわけで、これは我輩にとって理想的なシステムとなる。 しかし、全文検索をするためには、文字は全てテキストデータ化しておかねばならない。スキャナで取り込んだだけでは、それは単なる画像に過ぎないからだ。 半月を費やして電子化したその1冊の本は、見事なハンドリングを示した。検索も自由自在であった。 しかし、もう同じような作業は二度とゴメンだ。後でいくら楽になろうとも、これほど労力が必要ならば意味が無い。しかも、本は日に日に増えてゆく。 そこで妥協策として、イメージファイリングをすることにした。イメージファイリングとは、文字も写真もまとめて画像ファイルとして管理すること。つまり、スキャンしたそのままを使うのである。これならば、スキャナ作業だけで済む。文字と写真のレイアウト作業も必要無い。 ただ、我慢しなければいけないのは、全文検索が出来ないことと、データ量が莫大になるということだった。これが妥協点である。 モノは考えようで、検索については書籍自体の目次を見ればなんとかなるし、キーワードを登録すれば書類単位の検索は出来る。フロッピーディスクへの記録をMOやCD−Rにすることでデータ量の問題も克服した。完璧とは言えないまでも、今まで何とかやっている。 さて現在、我輩は似たような状況に直面している。それは、「写真の電子化」である。 以前にも書いたが、写真の取り込みはかなり大変な作業だ。中でも「色の調整」や「ゴミ取り」は、完璧主義の我輩にとっては、いくら時間を掛けても足りない。後で調整しなくてもいいようにと考えれば考えるほど、どんどん時間は掛かってしまう。 これは、文書のテキスト化に似ている。写真は増える一方で、電子化は遅々として進まない。 一時期、フォトCDにするかとも考えた。怠惰な完璧主義であるから、電子化するならば全ての写真を電子化したい。そうすれば、後々便利になる。 しかし、あまりに膨大な写真に、フォトCDへの出費が追いつかないという現実がある。 それならば妥協策として、サムネイル的な画像のみを取り込み、管理だけを電子化するか。画像ファイルとして必要な写真は、使う時にその都度スキャンすることになる。残念だが、仕方がない。 せめて、本当に重要と思われる写真についてのみ、フォトCDにしようかとも思っている。 完璧を望めないというのは分かってはいるが・・・、妥協点を見出すのは、かなり難しい。 ---------------------------------------------------- [141] 2000年 9月17日(日) 「未確認飛行物体」 我輩は、未確認飛行物体を肉眼で見たことはないが、「写真に撮ったら何か写っていた」というものはある。 それが、宇宙人の乗ったスペースクラフトとしてのUFOであるかは別として、とにかく不思議な写真ではある。ここでは、我輩が過去に撮影した2つの写真について検証してみたい。 バカバカしいなどと言わずに、まあ、最後まで見てくれ。 <写真その1> 下の写真は、1997年6月14日15時頃、神奈川県七里ヶ浜の高台にある住宅街で撮影したものである。まず全体の様子を示した。 赤い矢印の先に、問題の物体が写っているのだが、ここでは小さすぎて見えない。 <<画像ファイルあり>> さて、問題の部分を拡大してみる。そこには妙な形の物体が写っているのが判る。 形としては、一見、ヘリコプターのように見えるが、撮影時はそのようなものは飛んでいなかった。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> 次に、この拡大写真を画像処理し、「明るさの違い」を「色の違い」として表現してみた。これによって、微妙な明るさの変化が認識できる。 <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <写真その2> 次の写真は、198*年**月**日(撮影日時を書いたメモを紛失したため、見つかり次第掲載する予定)に、北九州市の小倉城にて撮影。同じく、まず全体の様子を示す。 赤い矢印の先に、問題の物体が写っているのだが、ここでは小さすぎて見えない。 <<画像ファイルあり>> いきなり大きく拡大すると比較出来るものが近くに入らないため、城の一部が写り込むようにわずかに拡大した。 赤い矢印の先に、黒い物体が見える。 <<画像ファイルあり>> 拡大写真。先ほどと同じように、通常の写真に加えて、画像処理したものを載せた。棒状、あるいは平べったいものであることが判る。飛行機のような翼は確認できない。鳥でもないようだ。 (背景に無数のスジがかすかに写っているが、これはスキャン時のノイズである) <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> さて、いかがだったろう。ここでは無理に結論を出すようなことはしない。 もしかしたら、諸君が過去に撮った写真の中にも、同様なものがあるかも知れぬ。ぜひ一度、ルーペ片手に探してみてはどうだ? ナゾの物体は発見されるのを待っておるぞ。 最後に、ここに掲載した写真は、ジョークではないということを明言したい。現時点で確かなことは、ただそれだけだ。 ---------------------------------------------------- [142] 2000年 9月18日(月) 「写真の鑑賞基準」 以前、我輩は「適正露出は1つではない」と書いた。しかし、その基準が定まっていなければ、いくら自分の表現にこだわってみても意味を失う。 写真を鑑賞する形態は様々である。 ネガフィルムで撮影したものならば、プリントとして鑑賞するだろう。 カラーリバーサルで撮影したものならば、イルミネータの上に置いてルーペで覗くか、あるいはスライドプロジェクターで投影させて鑑賞する。 更に、印刷物にして観る場合もある。 最近では、パソコンへの取り込みも容易になり、ブラウン管や液晶パネル、液晶プロジェクターで観ることもあるだろう。またパソコンの場合、カラープリンターへも出力できる。 写真を正しく観るには、光源が正しいものでなくてはならない。 フィルムの銘柄、種類、1/3段の露出補正、色温度、フィルター、レンズの発色など、撮影時の細かい露出や色調整にウルサイ人間は多いのだが、なぜか鑑賞条件となると無頓着になる者もまた多い。 特にリバーサルフィルムの場合、イルミネータの光量と色温度によって、かなり見栄えが変わってくる。極端な話、露出アンダーの写真が、イルミネータによっては適正露出に見えたりすることがある。これでは、いくら1/3段補正したりしても意味が無くなってしまう。必ず何かの基準があるはずなのだ。しかし、そのことに触れた書籍はなかなか見つからない。 我輩は、昔からこのことが気になっており、「日本カメラ」にハガキを送って質問した。 その結果、我輩の質問は1994年7月号(224ページ)に掲載され、一応の回答を得た。 しかし、「1/3段の露出補正が必要だ」などと言っている者は、そもそもこのような基準を知っているのだろうか。いくら「経験上、自分のイルミネータの明るさでの適正濃度は分かっている」とは言っても、1度でも基準に照らし合わされてなければ、それはあくまで独自の基準でしかないぞ。それで本当に、その写真が適正露出だと言えるのか。 写真とは、「感性」が重要である。しかし、写真が得られるプロセスというのは、極めて科学的であり、化学的である。適正露出の概念を「感性」の枠の中だけに閉じこめておけば、結局は自分のやっていることの意味を失う。 もっとも、その写真が他人の目に触れることはないという前提ならば、独自の基準でも構わないだろうが。 ※ 明日は、今日の内容を予備知識として、写真のデジタルデータについて書く。 ---------------------------------------------------- [143] 2000年 9月19日(火) 「デジタル画像の表現幅」 写真をデジタルデータとして取り扱うには、少し頭の痛い問題がある。いや、「少し」というよりも、「決定的に」と言った方がいいのかも知れない。 昨日の雑文にも書いたとおり、写真の鑑賞には、その鑑賞条件が重要となる。特に、透過原稿であるリバーサルフィルムでは、アンダー露出の写真でも透過光が十分に強ければ適正露出に見える。 透過光が強いと、当然、透明な部分、つまり写真の「白」の部分は明るく見える。また、暗くツブれている階調も浮かんでくる。これは、明るい部分と暗い部分の幅(レンジ)が広がっている状態である。 さて、リバーサルをパソコンに取り込み、ディスプレイに表示させると、リバーサルフィルムを直接見た時よりもクオリティが落ちて見える。これは、ディスプレイの絶対的な光量が不足しているのが原因だ。 例えば、太陽が写った写真があったとする。ハロゲンランプなどの強い光源にかざして見れば、その太陽は眩しく見えるだろう。しかし、ディスプレイで見た場合、太陽は決して眩しく見えない。 <<画像ファイルあり>> ならば、ディスプレイの全体的な光量を上げて、白をもっと明るくすれば良いと考える。しかし、その調節にも限界がある。ディスプレイメーカーが、もっと明るいブラウン管を開発せねば難しい。 しかしそうは言っても、ディスプレイでは白が眩しくなっては都合が悪い。なぜなら、ディスプレイの表示するものは写真だけとは限らないからだ。例えば、ワープロ使う場合、通常は白地に黒色の文字を打ち込んでいく。もし白地が眩しければ、とても長時間作業することなど出来まい。 百歩譲って、仮にディスプレイの光量を上げたとしたら、今まで使っていた「白色」は「灰色」として使うことになる。そうなると、今までパソコン上で使っていた色は24bitカラー(1600万色)では表現しきれなくなってしまう。足りない分というのは、眩しい色の方へ割り振られてしまっている部分のことだ。 この問題は、色数をさらに増やすことでしか解決出来ない。 「ディスプレイの光量を増やすこと」、そして「パソコンが表現出来る色数を増やすこと」、この2点を同時に実現しなければ、デジタルによってクオリティの高い写真を取り扱うことは不可能である。 いくらスキャナの性能が向上しようとも、いくらデジタルカメラの画素数が増えようとも、この問題がボトルネックとなる。もう、金や努力の問題ではない。論理的に上限が決まっていることだから、これは越えようがない。 我輩が、写真のデジタル化について「行こか戻ろか」と思い悩んでいるのは、この点を割り切れないでいるからなのだ。 ※ プリント写真のような反射原稿の取り込みならば、今のディスプレイでも十分だぞ。 ---------------------------------------------------- [144] 2000年 9月20日(水) 「ディスプレイ」 昨日の「デジタル画像の表現幅」についての補足。 最近のレタッチソフトでは、24ビットカラー(1600万色)以上取り扱えるものがいくつか存在する。色数が増えれば、それだけ情報量が増す。しかし、それによって表現力が増すかと言えば、必ずしもそうではない。 確かに、4ビットカラー(16色)から8ビットカラー(256色)へ、そして24ビットカラー(1600万色)へ増すごとに、階調表現は増す。 <<画像ファイルあり>> しかし、それはあくまで左の図のように、不変の明るさの幅(レンジ)を細分化しているに過ぎぬ。細かく細分化すれば階調は滑らかになるだろうが、明るさの幅はそのままである。つまり、いくら色数を増やそうが、「白色」の白さはどれも変わらない。 ちなみに、階調の滑らかさは、24ビットカラー以上になると人間の目では区別がつかない。 次に、ディスプレイの調節によって明るさを上げていくとどうなるか。確かに、ユーザーサイドでの調節でも、かなり明るく設定できる。しかし、同時に「黒色」も明るくなってしまう。 <<画像ファイルあり>> 左の図を見れば分かると思うが、全体的な光量が増加したに過ぎない。そのためにコントラストを調節することになるが、それにも限界がある。 ディスプレイの一般的な調節は、画面にグレースケールを表示させ、ディスプレイの「明るさ」、「コントラスト」、「色温度」等を調節する。 しかし、このような調節も、「現状の範囲内でいかにキレイに表示させるか」ということであって、根本的な解決にはならない。やはり、ディスプレイの明るさの幅(レンジ)が広くなり、その広さに応じた色数によって階調を細分化しなければ、表示の問題は解決できぬ。 <<画像ファイルあり>> 今、我々に出来ることは、現状のディスプレイを最適な状態にし、そのディスプレイで写真の取り込み・調整を行うことだ。現状でニュートラルな取り込みを行っておけば、将来的に明るさの幅が広げられた時に、画像変換による損失は最小限で済むハズだ。 ---------------------------------------------------- [145] 2000年 9月21日(木) 「雑写真」 今日は、「雑文」ならぬ「雑写真」である。 わざわざ人に見せるような写真ではないが、何枚かまとまれば、一応の形にはなるような気がしたので、ここに掲載してみた。 どうか、笑ってやってくれ。 <高校時代に撮影> 土地の所有者が、その場所で野焼きしていた。しかし、風による延焼で手がつけられなくなり、消防車による消火活動となってしまった。我輩は自宅の窓から一部始終を見ていたが、消防車が来るまで、延焼していたなどとは気付かなかった。そう言えば確かに、土地の所有者のオヤジは、草がよく燃えているというのに嬉しそうな雰囲気ではなかった気がする。 <<画像ファイルあり>> <中学時代に撮影> 実家の近所の道路に、酔っぱらいが座り込んで声をあげていた。うるさいので、ウチの家族が警察に通報し、めでたく保護されて行った。こんな田舎に飲み屋など無いから、酒屋で買い込んで飲んだか? パトカーの先を歩くのは、警官と酔っぱらい。 <<画像ファイルあり>> <中学時代に撮影> 何か知らんが、警察にキップ切られるニイちゃん。 <<画像ファイルあり>> <中学時代に撮影> う〜む、キミの将来が心配だ。 <<画像ファイルあり>> <大学時代に撮影> 島根県松江市西川津町の山陰中央テレビ近くの十字路は、交通事故を見るにはいい場所だ。夜昼構わず、「ガシャン」と大きな音がする。原因は、交差した道路のどちらが優先なのか分かりにくいため。 ある時など、道路の向こう側のにある大きな用水路に、側面衝突された軽自動車が横倒しのままハマリこんでいた。夜中だったこともあり、その時は撮影出来なかった。近くに行くと、辺りにはカセットテープなどが散乱。けが人がいたかは分からないが、警官などもいてとてもストロボを焚いて撮影できる雰囲気ではなかった。 <<画像ファイルあり>> これは、前の写真で追突した若者の車。邪魔にならぬよう、待避させたところ。一応、自走できるところを見ると、かなり軽い事故だったようだ。フロントも割れておらず、ドアも軽く開く。 <<画像ファイルあり>> <高校時代に撮影> 懐かしい高校時代の写真。九州であっても、日本海側からやってくる雪雲によって、「かまくら」を作れるくらいの雪は降る。我輩も写真の中にいるが、小さい写真なので顔までは判らぬ。 <<画像ファイルあり>> <家族が撮影> 再び心霊写真が登場。 親戚の結婚式の写真で、撮影者は判らないが、実家の家族の誰かだろうと思う。 こういう写真は、簡単に説明が付く。これは、シャッターが閉まる前にカメラを動かしたことによって、蛍光灯の軌跡が写り込んだものだ。うろこが写っていると言われるのは、蛍光灯の明滅が写り込んだのだ。インバータ方式でない蛍光灯は、1秒間に60回明滅するのだ。なぜなら、西日本の電気は100ボルト60Hzだからだ。 ・・・とまあ、いつもならこう説明するところなのだが、これはちょっと違う。写真左上の照明のほうは、まったく軌跡を描いていない。しかも、他の写真を見てみると、そこは蛍光灯を使っていない部屋だった。どういうことだ? <<画像ファイルあり>> ---------------------------------------------------- [146] 2000年 9月22日(金) 「選ぶべし」 「我輩くん、写真を撮ってみたよ。」 3年くらい前の話だが、職場で、ある人が自分の撮った写真を見せてくれた。 それは風景写真だったが、同じようなカットがいくつもあった。露出を少しずつズラして撮ったというカットもあった。 なんだか不思議な気分だったが、アルバムのページを繰って行くと、最後のページのホルダー部分にネガが挟んであった。 チラッと見て我輩は全てを理解した。 「そうか、撮影した全てのカットを見せてくれたのか。」 記念写真などでは、ピンボケや露出の失敗などがあっても、写真屋がプリントしてくれたものなら全てを人に見せるのが「暗黙の了解」となっている。 多分、その時の習慣が抜けていないのだろうと推測する。 しかし、失敗写真を見せないからこそ写真が上手く見えるのだ。いやいや、誤解を避けるために正確に言うならば、撮った写真を選ぶという行為も含めて「写真撮影」という作業が完結するのである。 ましてや、リバーサルフィルムなどという失敗しやすいフィルムを使ったりすれば、露出を変えて何枚も撮影したりする。そのようなカットは、既に撮影時点で「どれかが要らなくなる」と了解済みなのだ。そんなものをバカ正直にみんなに見せたりはしないだろう? いくら失敗写真を大量生産したとしても、目的のカットが得られるならば、それは意味のある失敗と言える。 失敗写真の存在があってこそ成功写真が生まれたのであり、そういう意味で必然性があるわけだ。そして、成功写真を1枚見せるだけで、他の失敗写真の重みを伝えることが出来るのだと我輩は考える。 ところが、失敗写真を全て見せてしまえば、撮影意図がボヤけて伝わらなくなり、せっかくの渾身の1枚の価値を失う。これでは、縁の下で支えている失敗写真も浮かばれない。 写真を人に見せるならば、何を見せたいかが分かるよう、事前に写真を選ぶべし。 しかしこれは、写真を見る目を養っておかないと案外難しい。ピンボケやブレなどは、誰が見ても失敗と分かるが、撮影意図が反映されているかどうかという判断は撮影者が決めることだ。得てしてそういう写真ほど、成功と失敗のボーダーライン近くにあることが多い。 ただ色がキレイだからとか、ただ絵になっている気がするとか、それだけの理由で写真を選んで、何か意味があればいいのだが・・・。 気を抜いたり、自分を甘やかしたりすると、成功と失敗のボーダーラインが曖昧になってしまう。写真を選ぶ時にも、撮影時の気持ちを思い出せるようにしたい。 写真を選ぶのは、シャッターを押した本人でしか出来ないことだからな。 ---------------------------------------------------- [147] 2000年 9月25日(月) 「ムービー」 昔は「8ミリ」と言えば、フィルムを使ったものを指していた。現在ならば「8ミリビデオ」ということになる。同じ名称でありながら違うものを指し示すようになったわけだが、どちらも動画を記録するムービーに変わりは無い。 8ミリフィルムでは、フィルムを直接見てみると、小さな画像がズラリと連続して並んでいるのが分かる。その小さな画像を一定のスピードで次々に映し出していくと、その画像が動いているように見えることになる。 8ミリビデオの場合も、ビデオテープに記録された信号を直接見ることが出来ないというだけで、動画の基本原理は8ミリフィルムと変わらない。 動画は基本的に1秒間に30コマ必要とするから、コマの数がすなわち時間の長さでもある。動いていようが止まっていようが、1秒間に30コマ撮っている。 再生時、観る者が寝ていようが起きていようが、画面内の時間は実時間で流れていくだけだ。 聞いた話では、最近の運動会では、カメラよりもビデオで撮る父母がかなり増えたという。まあ、「運動会」であるから、動きが一番大事であることは理解できる。しかし、ムービーというのは、撮った分だけ鑑賞もそれだけの時間が掛かる。 極端な話、人生の50年をムービーで記録したとしたら、あと50年は鑑賞の時間に費やさねばならないのだ。編集すれば短くすることが出来るかも知れないが、編集作業の時間が同じくらい掛かっては意味が無い。 我輩は、基本的にムービーというものはテレビ録画くらいしか使えないと考えている。 ムービーとは言っても、いつも絶えず動き続けている対象などあまり無い。 テレビアニメを見ても、登場人物はあまり動かず、しゃべる時は口元しか動かない。実際、アニメ原画は口元しか描かない。それだけ原画を描く手間が省けるということになる。視聴者がそれを見てもあまり違和感を感じないのは、実生活でも動きのあるものはあまり無いということでもある。 マンガ本を見ても分かるとおり、1シーンごとに1コマだけであっても、動きそのものはそれを見る人間の頭の中で再現される。もちろんセリフの無い部分であっても、動きを感じることができる。いや、逆にセリフの無いシーンのほうが、時間の経過を意識する場合もある。 観る者がよそ見をしようが構わず時間を流すムービーとは違い、マンガは観る者の中で時間を再生させる。そこはスチール写真と似ている。 我輩は今回、お遊びでマンガを描いてみた。現時点ではまだ下描きの段階であるが、コマ割りとして、シーンを区切っていくのはかなりセンスが必要だと感じた。これは慣れないと難しい。 もし、本職のマンガ家に写真を撮らせたとしたら、どんな作品が出来上がるだろう? マンガ家のセンスで切り取った1シーン、ぜひ見てみたい気がする。 ---------------------------------------------------- [148] 2000年 9月26日(火) 「クリエイティブ」 「思想」と関連した話。 よく言われることだが、人間はどんなに努力してもクリエイティブにはなれないという。つまり、全く新しい見たこともないものを創るということは出来ず、必ず何か既存のものを基にしているそうだ。 例えば、「想像上の生物」を考えるテーマがあったとする。しかし、どんなに頑張ってみても、どこかが既存の動物に似ていたりするらしい。 この話、正しいのか正しくないのか、それは我輩には検証することが出来ないが、人間の思考というものを考えると、妙に説得力を感じる。 この例では、知っている既存動物の種類が多ければ多いほど、架空動物のリアリティが増すに違いない。 さて、写真を撮る時、撮影者にはイメージが無くてはならぬ。しかし、そのイメージとは、一体どこから来るのか。 目の前にある対象物を写真に収めるには、そのまま何も考えずにシャッターを押しては視点が定まらない。そこで色々な手法を使って写真を「表現」させることになる。 その手法とは、先人が考え出した伝統的なもの(いわゆる「定石」)や、自分の憧れる写真家の手法だったりする。 そのような手法によって撮影された多くの作品を観ることによって、具体的なイメージ素材のストックが増えていくことになる。 自分の中にある漠然としたイメージを、既存の具体的素材で組み上げていく。これこそがクリエイティブな行為であろうかと思う。 それはあたかも、既存の文字や表現を使って、新しい小説を創作するのに似ている。 新しいものとは、古いものを材料にして出来上がるのだ。そして、手持ちの語彙(ボキャブラリー)が多ければ多いほど、その表現は豊かになる。 ただし、自身の求めるものがハッキリしていなければ、影響ばかりを受けて自分を見失うだけだ。モノマネの上手いオウムや九官鳥になって自分の声を忘れるようならば意味が無い。そこは気を付けねばならぬ。 ただ単に多くの作品を観ればすぐにイメージが湧くというのであれば苦労は無い。 やはりそこには、自分という存在が不可欠であり、自分の手法として昇華する努力は必要だ。 最初から完成されたものなど無い。時間を掛けることを嫌い安易な方向へ走るならば、自分の漠然としたイメージを殺して既製品をそのまま安易に真似るだけとなろう。 そのような人間は、例えば「夕日とは、こう撮るものだ」などという先入観に囚われたままで一生を終えることになる。 試行錯誤によって、自分の求めるイメージを模索することは、自分の思想を知ることでもある。 ---------------------------------------------------- [149] 2000年 9月27日(水) 「イメージに飲まれる危険」 新宿の駅前を歩いていると、オバちゃんに声を掛けられることがある。 最初は「手相を見ます」という類のものかと思ったが、よく聞くとそうではなく、CMのモニタアンケートに協力して下さいとのことだった。謝礼があるということなので、アルバイト気分でその話に乗った。 ゲームセンターの上の階へ案内され、そこで受付を済ませ、赤井英和出演の競輪CMを2パターン見せられた。それが終わると、アンケートに記入し、図書券を受け取った。 アンケートの内容は、2つのイメージの比較である。「どちらが暗い印象を受けるか」とか、「これを見て競輪に関心を持ったか」とか。 その後、何度かその調査会社の依頼により、商品イメージに関するアンケートに答えて稼がせてもらった。 これらはマーケティングというものであろう。 一般大衆は、どういう映像にどういう印象を持つのか。それを知るためにサンプリングを行っているというわけだ。そしてその結果を基にしてCMの内容に反映される。 CMというのは、イメージを作り出そうとしているのである。 映像というのは、記号性を持っている。 映像の基本的要素である「色」にも、イメージの固定された記号性がある。例えば、青色は「寒い」、赤色は「暑い」、白色は「清潔」、などというように、我々の頭の中で記号化されている。そしてそれらは地域や世代によっても多少違いがある。 「色」だけでもそのようなイメージがあることから、色が作り出す「映像」についても、固定化されたイメージが存在することは明らかだ。 思い付くまま挙げてみると・・・、 緑の木々−「自然環境」 赤ん坊−「身体にやさしい」、「ピュアな」 外人と握手するスーツ姿の男−「仕事が出来るビジネスマン」 地球−「ワールドワイド」 煙突−「公害」 といったところか。 しかし、イメージというのは正負が表裏一体となっているのが恐ろしいところ。 例えば「六条麦茶」のCMでは、あからさまで強引なイメージ作りが逆に我輩は嫌悪感を持った。 白い(清潔感のイメージ)画面の中に赤ん坊(身体にやさしいイメージ)が画面に現れ、山積みになったペットボトルの麦茶に近付く。そして次々にそのペットボトルを放り投げていく。そして唯一残ったボトルを大事そうにする。それが六条麦茶であることは説明の必要は無いだろう。 イメージというのは、上手に利用するとその映像を見る人間の心理を誘導させることが出来る。しかしそれが六条麦茶のように強引で露骨ならば、かえって皮肉っぽく見える。あるいはホメ殺しの手法か。 よくあるフォトライブラリーのカタログなどを見ると、記号性を持った写真ばかりである。それらは素材として使うのであるから、使用者の加工・編集によって上手く効果を上げることが可能だ。しかし、仮に単体の作品として見るならば(そのような前提で撮られたのではないことは承知の上で見るならば)、それらの写真の多くは味付けが濃い。 あまりに型どおりに撮りすぎると、それは少なくとも我輩には皮肉にしか見えない。昔、我輩が撮った写真を恥ずかしく思うのは、そのような型にハメようとしている意図がありありと伝わってくるからである。こういう写真は、人には見せたくないな。 イメージの力というのは強力なだけに、使い方によっては薬にもなるし毒にもなる。常にそのことを意識していないと、撮影者自身がイメージに飲まれてしまうかも知れない。 ---------------------------------------------------- [150] 2000年 9月28日(木) 「ヘタウマ」 最近、イラストでは多い「ヘタウマ」。 言葉としては知らなくとも、その絵を見れば、「ああ、このことか」とすぐに分かるだろう。 「ヘタウマ」というのは、一見下手なのに作風に味があるというものを指す。漢字で書くと「下手上手」というところか。 一昔前は、ちょっとしたアクセントとして少数が存在していただけだった。しかし、最近はちょっと多すぎる。アクセントというよりも、ヘタウマが主流という感じになっている。 例えば、「TVブロス」という雑誌、安いのでいつも買っているのだが、これは雑誌全体がヘタウマ。そういう路線の雑誌だというのは分かる。けれどもメリハリなども無く、まるで大学の同人誌のようなノリで、内輪でしかウケないようなお粗末さ。安くなければ、こんな雑誌は買わぬ。 絵の上手い人間が、意図を持ってヘタウマしているうちは良かったのだが、最近のヘタウマは本当の下手が誤魔化す目的でやっているに過ぎない。あるいは単なる手抜き。 「それがボクの作風です」と言えば、それ以上はもう誰も突っ込まない。 最初に現れたヘタウマが何の作品だったのかは知らないが、それは独創的な発想だったと言える。しかし、一旦それがウケると分かるや、どこもかしこもヘタウマで溢れた。オリジナリティ溢れた作風だったものが、次の瞬間には、ありふれたつまらないものに変貌してしまう。 さて、カメラ業界では、今まで何度も言ったように、エルゴノミクスデザインが安易に多用されてきた。もちろん、そこにはコンセプトなど無い。 最近出たEOS7では、ダイヤル式の操作体系を多く取り入れたということが特長とされているが、その両肩にある2つのダイヤルが、妙に傾いているのが気になる。 操作しやすい傾きなのか、それとも偶然の産物なのか。出来上がった物だけを見て判断することは難しい。 「まっすぐ」というのは分かり易い。まっすぐであるべきところがまっすぐになっていないものは、誰の目から見てもおかしいと分かる。 しかし、最初から歪んでいるデザインでは、それが本当に歪んでしまっても、どれが本来の形だったのかなど、もはや分からない。 設計者がデザイナーの描いたデッサンを基にカメラの輪郭線を描く際、CADの操作ミスで線が多少ズレたとしても、そんなことは誰も気付かないだろう。「意図された歪み」と、「意図しない歪み」は、デザイナー以外は区別出来ないからだ。これはもう、デザインがヘタウマ化してしまったと言える。 メーカーが「これがウチの仕様なんです」と言われれば、それ以上はもう誰も突っ込まない。 本当は真っ直ぐな線も満足に引けないんじゃないのか? 線の修正が出来ないんじゃないのか? 二度と同じ形の線を引くことが出来ないんじゃないのか? クレイモデルを作る際、粘土の代わりにチョコレートを使い、半分融かしてデザインしてないか? 昔は、カメラの限られたスペースに如何にして機器を押し込むかに苦労していたそうだが、今では適当にボディを膨らませたりしてインチキやっていても誤魔化せる。 EOS7の妙な傾き、どこかインチキ臭いのは、精密感のカケラも無いデザインにある。 「ネクタイ曲がってるぞ」と指摘しても、本人はワザとやってるつもりでカッコ付けている・・・ちょうどそんな感じだ。 デザインに好き嫌いはあろうが、機能に裏打ちされないデザインであれば、時代の移り変わりを乗り越えることは不可能だ。白いギターのように、後で使うのが恥ずかしいというのはゴメンだ。 傾いたダイヤル、本当に使いやすいのであれば、電子ダイヤルの時のように他社もそれに追従することになろう。それが業界のスタンダードになるハズだ。果たして本当にそうなるかどうか、今から見守ることにする。 ヘタウマで終わるか、スタンダードとして定着するか・・・。 ---------------------------------------------------- ダイヤル式カメラを使いなサイ! http://cam2.sakura.ne.jp/