2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
11.その他企画

12.カタログ Nikon
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カメラ雑文

[497] 2004年07月01日(木)
「鬼の目にも涙」

我輩は、豚児が産まれる半年くらい前から日記を書いている。
それは、未来の豚児への手紙。
もし自分が急に死んだりすれば、豚児へ言葉を遺せない。そのために日頃の出来事や思ったことを書き留めておこうと思った。

産まれる前のこと、産まれた日のこと、不注意で床に落としたこと、初めて立ったこと、言葉をしゃべるようになったこと、階段での落下事故のこと、初めて旅行に行った日のこと・・・。

それは今見ると膨大な量となり、豚児がそれを読むには大変だろうと想像する。


ある日の夕方、品川の出向元へ行く用事があったのだが、約束の時間までには少々早かったため、書店で時間を潰すことにした。
そこで、一冊の本を取った。
太平洋戦争中でのカミカゼ特攻の戦果をまとめた本だった。
本のタイトルは失念したが、体当たり特攻による戦果を、米軍側の記録写真と資料を基に書かれていた。

行ったきり戻ってこない特攻機であるから、当然ながら特攻機側の写真映像などあるはずも無い。写真の全ては米艦船上のカメラマン、あるいは米戦闘機搭載カメラによるもの。
それらの写真が口絵として数十頁にも渡って掲載されている。時間潰しのために立ち寄った本屋であったが、それらの写真と説明を読むだけでも立ち読みでは時間が足りぬ。

掲載写真は全てモノクロである。
しかし中には、空の青さと海の青さが見えてくるかのような写真もあった。そこに写し出されている艦隊と航空機が、現実の世界に存在し、そして敵味方双方の命を散らしていたことを実感した。
それはまさに、雑文102「記録としてのカラー画像」でも書いたように、歴史の向こう側にあると無意識に思っていたものが現代と地続きであることを再認識させるものである。

カミカゼ特攻は、帰ってくることは絶対に無い、いわば"有人爆弾"である。出撃すれば、それはすなわち家族との永遠の別れである。
父母、妻子供。自分が死んでしまえば、後に残された家族はどうなるのか。それを見届けられない無念さは、出撃前の隊員たちの心を締め付けただろう。
国を護るために死をも厭(いと)わない時代ではあったが、いくら死を覚悟しようとも、家族との永遠の別れの辛さに変化は無い。

我輩は、口絵写真のうち1枚に目を止めた。
それは、米軍戦闘機が捉えた写真であった。遠くに見える艦船と、それらのうちの一隻にまさに突入せんとする特攻機。
ふと、その写真の視点が、特攻機のものに重なった。
もし、我輩が特攻機に乗っていたら、そしてこのような風景を目にしたらどう感ずるかということを想像してみた。
一瞬、突入までの様子がその写真の延長上に見えたような気がした。

目標となる艦船を見付け、快晴の中を飛行する。この距離だと、突入まであと5分くらいか。
青い空と白い雲がとても爽やかで、これが殺し合いをしている瞬間の空かと不思議に思う。しかし、この風景がもうすぐ目の前から永遠に消え去るのだ。そして、家族の居る場所に帰ることも無い。
今頃、皆は何をしているのだろう。言い忘れたことは無かったろうか。

飛行機は順調に近付き、心臓の鼓動が高鳴る。敵艦の対空砲火がこちらを目標に撃ってくる。
一度しかないチャンスである。機銃や対空砲火の餌食になったり海面に落ちたりして無駄死にはしたくない。少しでも相手に被害を与えるために、操縦桿を必死に握り、精神を集中させる。
この時点ではもう、家族のことは頭には無い。ただ、この飛行機を敵艦にブチ当てることだけ。

機銃は何発も機体に当たったが、上空から突入体勢をとった状態では、たとえエンジンやプロペラが千切れても何も考えることは無い。目の前の真ん中に敵艦を捉え続けるのみ。速度が上がり操縦桿がブルブル震え始めた。それを両手で必死に掴んでいる。

こちらが降下しているのだが、真下に見える敵艦がゆっくり近付いてくるように見える。しかし、それがだんだんと速くなってくるのが分かる。上下感覚も無くなってきた。
視野一杯に広がった敵艦の甲板。そこに人影をいくつか見た。
その瞬間、自分の子供の名前を大声で叫んだ。

我輩は、ハッとして本を閉じた。
時計を見て、約束の時間が迫っていることに気付き、急いで書店を出て長い通路を歩いた。
その間、ある特攻隊員の遺書が想い浮かんできて、思わず涙が出そうになった。
鬼の目にも涙。

以下に載せるは、よくテレビや本などで取り上げられる特攻隊員の遺書である。


特別攻撃隊隊員植村眞久さんが娘に送った手紙(遺書)
素子、素子は私の顔をよく見て笑いましたよ。私の胸の中で眠りもしたり、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって、私のことが知りたいときは、おまえのお母さん、佳代伯母様に私のことをよくお聞きなさい。

私の写真もお前のために、家に残してあります。素子という名前は私がつけたのです。素直な、心のやさしい、思いやりの深い人になるようにと思ってお父様が考えたのです。私はお前が大きくなって、りっぱな花嫁さんになって、しあわせになったのを見届けたいのですが、もしお前が私を知らぬまに死んでしまっても決して悲しんではなりません。

お前が大きくなって、父に会いたいときは、九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心に浮かびますよ。父は、お前は幸福ものと思います。生まれながらにして父に生き写しだし、ほかの人々にも素子ちゃんを見ると真久さんに会っているような気がするとよく申されました。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にして、お前を可愛がってくださるし、お母さんもまたご自分の全生涯をかけて、ただただ素子の幸せをのみ念じて生き抜いてくださるのです。必ず私に万一のことがあっても、親なし子などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を守っております。優しくて人に可愛がられる人になってください。
お前が大きくなって、私のことを考え始めたとき、この手紙を読んでもらいなさい。
昭和十九年十月吉日

  植村素子へ

追伸
 素子が生まれたとき、おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて、自分の飛行機にお守りにしております。だから素子は、お父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教えてあげます。

植村眞久 二十五才

小さな娘を持つ者として、子供を残して死に臨む父親の言葉の一つ一つの意味が、痛いほどによく分かる。せめて、話が出来るくらいに成長するまで一緒にいたかったことだろう。
この幼い娘素子には、未来へ遺した手紙でしか話が出来ない。それだけに、短い言葉の一つ一つが心に染みる。