2000/04/05
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表紙

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カメラ雑文

[448] 2003年10月26日(日)
「祖父からの手紙」

●虎太郎

「虎太郎(とらたろう)」とは、我輩の母方の曾祖父の名。
旧海軍では海軍大佐にまでなったそうで、祖父はそんな虎太郎を尊敬した。

虎太郎は、日露戦争、そして第一次大戦で戦った。
しかしながら、どこでどのようにして戦ったか、陸上での戦闘かあるいは海上での戦闘か、そういった具体的なことを聞く機会が無かった。
今まで我輩は、比較的近代的装備の第二次大戦のことばかりに興味を持ち、日露戦争や第一次大戦などはあまり関心が無かった・・・。


曾祖父「虎太郎」

去年の夏、我輩が九州に帰省した時に、一つのメモを祖父から受け取った。
祖父はもう九十歳近くであり、文字もなかなか書けなくなっている。そのため、多少読みにくい字ではあった。
そこには、虎太郎の若い頃の話が綴られていた。

以下は、文春文庫「日露戦争(児島襄著)」を参考にしながら、祖父のメモに書かれた虎太郎の姿を日露戦争の中に当てはめ構成したものである。


>>>
虎太郎は、当時の青年たちがそうであったように、強大なるロシア帝国から海国日本を護るため、海軍軍人を志した。
虎太郎の場合、海軍兵学校ではなく海軍機関学校に入学するため、猛烈に勉強し中学を主席で卒業した後、海軍機関学校の入学を果たした。
ところが全国から集まった秀才たちの中にあっては、田舎の主席など問題にもならないほどであった。何しろ、ロシアから日本を護るという決意を固めた青年ばかりである。並の決意の者など存在しない。

1905年(明治38年)1月、虎太郎は海軍機関学校を22歳で卒業した。
卒業後、それまで教員として厳しく鍛えてきた上級兵曹も、少尉候補生として戦場へ出発する虎太郎たちに対して最上の敬礼を送った。
虎太郎はその後、日本艦隊旗艦「三笠」の姉妹艦である戦艦「朝日」への任務を命ぜられ、佐世保より乗船した。
戦艦「朝日」は、ロシア極東艦隊と戦った経験があるのだが、その時の損傷を点検したところ、12インチ主砲の旋回がスムーズではないことが判明した。艦長以下これは一大事と、古くからの主砲担当である上等兵曹に原因を調べさせたがどうにも判らず、ならばと指名を受けたのが虎太郎であった。
新しい技術を教育された虎太郎ならばという期待があったのである。
結局は原因が判らずじまいだったのだが、呉海軍工廠に現象を技術的にうまく説明し、無事修理させることが出来た。

その後ロシアが日本満州軍を孤立させようと、最強を誇るバルチック艦隊を日本海に投入し日本海封鎖を企てた。
日本側では、バルチック艦隊が対馬海峡を通ると予測し、ここで艦隊を迎え討とうと待ち構えた。

1905年(明治38年)5月27日、天気晴朗なれど 波高し。
この日、日露両艦隊は砲火を交えた。
日本側は東郷平八郎を司令長官、ロシア側はロジェストウェンスキー司令長官がそれぞれの艦隊を指揮していた。
東郷は、T字戦法という陣形を取ることにより相手の頭を押さえ、各艦の砲門を一斉にロシアの先頭艦へ集中させることを狙った。
ただしT字戦法は、船が回頭中には無防備な状態で横腹を晒すことになる。そのため全艦が回頭終了するまでの時間を短縮せねばならず、東郷大将は事前に何度もT字戦法の練習を行わせていた。
それでも回頭終了までには10分の時間は必要で、ロシア側は日本艦隊のこの動きを見て「トーゴーはバカだ。よし、先頭艦から沈めてやる」と大喜びした。
だがその興奮のため、各ロシア艦は試射も行わず発砲し、照準はなかなか定まらなかった。しかも波浪による揺動のため、ほとんど乱射状態であった。
そうこうしているうち、日本側も旗艦「三笠」がロシア側旗艦「スウォーロフ」に向けて砲撃を開始した。
続いて二番艦「敷島」が戦艦「オスラビヤ」に向けて砲撃を開始。
三番艦「富士」も「オスラビヤ」に発砲。
そして虎太郎の乗艦する四番艦「朝日」が旗艦「スウォーロフ」に砲撃を始めた。

その時虎太郎は「朝日」の機関室にてエンジンの騒音の中で、今何が起きているのか気掛かりで、その緊張のために何度も小便に行ったという。
(旗艦「三笠」では、士気を鼓舞するために艦内各部に伝令を走らせ戦況は伝えていたとのこと)

この戦いにもし負ければ、日本は一体どうなるのか分からない。だから絶対に勝たねばならない。そのことは、艦内の誰もが思っていた。
そのため、仮に勝利したとしても日本艦隊の半分は撃沈されるであろうとの覚悟があった。もしかしたら、撃沈されるのは虎太郎の乗る「朝日」であるかも知れぬ。第一艦隊の四番艦であるからそうなっても不思議ではあるまい。そうなれば、船底深い機関室にいる虎太郎はまず助からない。
虎太郎は、日本と自分自身の未来の懸かったこの海戦を自分の持ち場の中で必死に戦ったのである。

戦闘が開始されてわずか18分後、バルチック艦隊は旗艦「スウォーロフ」と戦艦「オスラビヤ」が戦闘不能に陥った。
東郷は、当時日本に2個しか無いドイツ・ツァイス社製12倍双眼鏡を持っており、砲弾の着弾を正確に確認していた。
バルチック艦隊撃沈−戦艦以下16隻、捕獲は戦艦以下5隻
一方、日本艦隊は1隻の沈没も無かった。
日本側の圧倒的勝利に終わった。
<<<


このメモの内容は、当然ながら我輩が初めて知る内容であった。
日本の運命を賭した日本海海戦にて、曾祖父虎太郎がそこで戦っていたのだ。
祖父が虎太郎を尊敬していたのは、後の海軍大佐という肩書きなどではなく、若い頃に日本の国運を左右する戦いの中にいたことだと確信した。
今の日本があるのは、虎太郎たちの活躍があったからこそである。祖父はそう思ったに違いない。なぜならば、我輩がそのように思うからである。

もっとも、この日本海海戦の大勝利は日本の戦い方を極端な大艦巨砲主義へと傾かせ、日本は第二次大戦にて大きな損失を以て敗北することになる。
だがそれでも、戦艦大和・武蔵を造り出し世界の列強と肩を並べることが出来たという事実が、戦後の日本人のプライドとなり今日の日本を支えてきた力となっているのだと我輩は信ずる。


●祖父からの手紙

さて先日、祖父から手紙が届いた。手紙には絵の複写が1枚添付されていた。
「何だ・・・この絵は?」
手紙の本文には、その絵についての話が書かれていた。



>>>
この画は、私が23歳頃の大連市向陽台の自宅玄関にありました。それは当時の海軍省から贈られたもので、幅1.5mもあり、訪れる人も驚くようなものでした。

この画に描かれているのは、明治38年5月27日午後2時55分、沖の島西方でロシアバルチック艦隊と合戦直前の日本艦隊の旗艦三笠の艦橋における東郷平八郎提督とその幕僚です。これは写真ではなく、その場面を徹底して実証的に調査して当時の実情を正確に描いたものです。例えば中央に居る東郷提督は一文字吉房の長剣のコジリをコトリと落とし、また各幕僚はそれぞれの当時の働きを正確にそして午後2時55分先仕参謀が旗信号の(“Z”旗)の掲揚の許可を東郷に乞い掲揚されたその時です。Z旗とは(皇国の興発、この一戦に在り各員一層奮励努力せよ)と言う決められた文句があり、この旗艦の三笠にその(Z旗)旗信号が掲揚されたのが画面左後方に見られます。後年、安保清種少佐は「その時三笠艦橋における光景は荘厳としか形容のしようのないものでした」と語ったそうです。私はその画が実証的によくその時の現況を捉えていることもさることながら、元画の描写の色の配合・濃淡をよくこの大画面の印刷を当時の技術で実現したものだと思いました。

では、なぜこの画が海軍省から贈られたのでしょうか。父は22歳で日露戦、世界一次戦に出陣し、大正12年42歳で海軍大佐に昇進しました。その後、海軍の推薦で日露戦後の新しい土地(大連市)にある銅鉱山を経営する秦盛公司という会社の総支配人になり、大連市内の三階建て社宅に住み、又“海軍協会”の責任者になっていました。実務は海軍の予備役の兵曹長が行い、海軍より彼の給与と活動費は支給されていました。父は名誉職だったので無給でした。

大連市とは日露戦後日本の新領土になった土地で背後は広く大陸(満州・シベリア・ヨーロッパ)を控え、前方は黄海より太平洋に通じる海に面しており、日本政府はこの地を国際自由法として広く門戸を世界に広げて、政治的にも経済的にも発展を計る計画を建てていたのです。

そして、春を迎える頃、各国(フランス・イタリア・イギリス・アメリカ)の軍艦が乗務員のバカンスのため入港し、パリのシャンゼリゼーのような広い大山通りの街路樹のアカシアの花は白く咲き、国際色豊かな色どりをそえたものです。大連市の海軍協会とは、その歴史と使命を広く伝えることにあったのでしょう。父は本業の秦盛公司の総支配人の要職と海軍協会の責任者としての多忙な日々でしたが、まだ40代前半の血気盛んな時で昼夜いとわず働き、大連市の各界要人と親交を重ねていました。父にとってその時が人生で一番“生きがい”と“誇り”のある時代だったのでしょう。

その後、時勢は移り変わり銅鉱山は廃山となり、会社は倒産し、債権者への対応に追われる日々になりました。さらに、海軍協会の予備役の海軍兵曹長の公金使い込みが発覚しました。当の兵曹長は予備役ながら「海軍軍人らしく自決する」と猟銃で自殺し、父はその後始末のため2重の苦難の果て廃人同様になり、3階建ての社宅から家具書籍をすべて整理して、8軒長屋に移り住むようになりました。

顧みますと、父は42歳の時海軍の推薦を受けて大連市で約10年間生きがいのある時代でしたが、すでに公私共に要人との関係を絶ち寂しく余生を送る身でした。しかし、会社倒産、海軍協会の事故の際、父はその解決のため全身全霊をもって当たり、数ヶ月はほとんど自宅に帰らず身も心もすりへらして、やつれ果てた状態でした。それから数年後海軍省より木製の枠に入ったこの画が送られてきました。海軍は影ながら父のその後の人生を知っていたのでしょう。そして、父の後半の人生の行動を評価して、これに報いるためのせめてもの贈り物だったのでしょう。

父はすべての公の職から引退し長屋で余生を送る身になりましたが、この画を見るたびに、海軍士官として出発点(日本海海戦)に少尉候補の時を思い起こし懐かしむ心とせめてもの誇りを感じていたと思います。私は今でも、この画面を見ると当時の情景を思い出さずにいられない気持ちでこの一筆を添えるのです。
<<<


手紙は我輩の母親がワープロで代筆したものであるが、我輩はこの手紙の中に、祖父の虎太郎に対する尊敬の念を強く感じ取った。

そんな時であった、一通の電子メールが我輩宛に届いたのは。
それは、インターネットで知り合ったI氏からのメールで、今年行われる海上自衛隊の観艦式へのお誘いであった。10月22日の乗艦券が1枚余っているとのこと。

「観艦式」とは、自衛隊が日頃の訓練の成果を内外に示し、国民の理解と信頼を得るための訓練展示のこと。
10月22日は水曜日と平日のため、もし行こうとするならば休暇を取らねばならない。

しかし我輩は、そのタイミングの良さに運命的なものを感じた。そして、バルチック艦隊との戦いに臨んだ虎太郎の心に近付くため、この観艦式に参加することを決めた。
言葉では知り得ない何かを、そこで感じることが出来るだろうか。虎太郎の戦場を、そこで垣間見ることが出来るだろうか・・・。


●観艦式事前訓当日

観艦式事前訓練当日、朝から雨が降っていた。風は無い。
小雨決行であるから、この天気で中止になることはあるまい。

カバンには、もちろんカメラを用意した。
機動性と望遠撮影を考慮し、基本的には35mmカメラをメインとした。しかも撮影場所が艦上と限定されていることから、よほど事前に撮影計画が立っていればともかく、撮影条件も分からずレンズを選ぶことは出来ない。撮り直しは利かないことでもあり、ここは柔軟に対応出来るズームレンズを選ぶことになろう。
そうなると、選択肢はEOS630のみ。

中判カメラは、情報量を詰めるためのサブカメラとして携行する。
サブはあくまで軽量に、New MAMIYA-6を選択。交換レンズは広角50mm、標準75mm、中望遠150mmを持った。

天気予報では昼頃から雨が止むとのことであったが、やはり雨合羽は用意したほうが良い。ちょうど先日購入したコンパクトジャケットがあったため、それが雨合羽代わりに使える。フードを頭に被りヒモを締めれば、とりあえず上半身は大丈夫。
しかし、問題はカメラのほう。
カメラを入れるビニール袋は用意したが、念のためにカメラボディの部品接合部にビニールテープによる目張りを施した。可動部にはテーピング出来ないが、やらないよりはマシか。

I氏とは、東神奈川駅で合流。そこで乗艦券を受け取り、瑞穂埠頭まで行った。
そこまでは傘をさしていたが、妙に風に煽られる。
受付で手荷物検査を受け、7:15頃「はるゆき」に乗船。
I氏は前方艦橋上部に陣取り、我輩は後部ヘリポート付近に待機した。
出航は8:50だった。

この瑞穂埠頭からは、3隻の護衛艦「はるゆき」「さわゆき」「いそゆき」が出航。他にも、様々な港から艦船が実施海域である相模湾へ向けて集結する。
後ろを見ると、「さわゆき」「いそゆき」が続いているのが見えている。しかし雨に煙り、白く霞んで見える。雨はまだ小降りなので、ジャケットのフードを被る。これだけで随分と寒さが和らぐ。

「まもなくベイブリッジの下を通ります。」
スピーカーによるアナウンスが響き、後ろを見ていた我輩は進行方向を見た。パーソナルGPSで確認し、位置のズレが無いことを確認した。

東京湾の外に出ると、「これから速度を上げます」とのアナウンス。エンジンの音が高くなり、直後に速度がグンと早くなる。
速度が上がると、揺動は全く感じられなくなった。これならば、新幹線よりも遥かに乗り心地が良い。
そう言えば出航直後に、艦のエンジンはガスタービンだという案内がアナウンスされていた。どうりでジェット飛行機に似た音がするわけか。日露戦争の頃とは違うな。

空は次第に明るくなり、雨は収まってきた。
我輩は頭に被ったフードを取った。すると、意外にも風は強い。再びフードを被る。
空を見上げると、雨雲がもの凄い速さでスッ飛んで行くのが見えた。

GPSで地図を見ていると、船の航路がハッキリと分かる。相模湾まであと少しの距離となり、周囲を見渡すと他の艦船が続々と集結しているのが見えてきた。


我輩はその姿を撮影しようとヘリポートの先まで歩いて行こうとした。するといきなり突風に煽られ、思わず足を止めた。いや、突風と言うよりも、今までヘリ格納庫の陰にいたために、強風が遮られていただけだった。いつの間にか、信じられぬほどの強風の中に我々はいたのである。
雨も、もの凄い勢いで横殴りに降ってくる。風雨は進行方向から叩きつけてくるため、後ろのほうしか向くことが出来ない。無理に前のほうを向けば、激しい雨が顔に当たり非常に痛い。目も開けられぬほどであり、カメラなどひとたまりも無い。
我輩はカメラをジャケットの中に入れ、撮影する時だけ出すようにした。それでもカメラは濡れてくる。もちろん、レンズ前面も水滴は付着し、気を抜くとソフトフォーカス状態となる。

そうこうしているうち、「これより減速致します。船の揺れが大きくなりますのでお気をつけ下さい。」とアナウンスが入った。
艦はみるみる速度を下げ、まるで広い海の中で停止したかのように思われた。しかしGPSの表示を見ると、時速13km(7ノット)となっている。
艦は横からのうねりを受けて大きく左右に揺れ始めた。そのため、ヘリポート上を歩くと足がよろけて右左に曲がってしまい、真っ直ぐに歩けない。しかも強風のために踏ん張りながら歩くのがツライ。

観艦式が始まった。
周囲を見ると、数十隻の艦が二列に整然と並び、その列の間に訓練展示を行う艦船が一列になってすれ違った。アナウンスは、すれ違う1隻ごとに艦船名と艦長名を読み上げていく。受閲と呼ばれる儀式だった。

それが終わると船は大きく回頭を始め、180度転進した。これから訓練展示が始まる。
祝砲が5インチ砲から撃たれた。見ると500mくらい離れた艦が次々と祝砲を撃っている。無音の閃光があったかと思うと、1秒くらい後にバンッ!と炸裂音が響いた。もの凄い音だった。

続いて、対潜水艦攻撃用のボフォースが発射された。やはり無音の閃光が先に見え、1秒後にバリッ!と轟音が響いた。
ただし、角度的には風雨の降ってくる方向に近く、それらの発射を見ようとすれば目に雨が突き刺さる。ましてや撮影しようとカメラを向ければ、レンズはたちまち雨に打たれ視界を失うだろう。
このような状態で、訓練展示のほとんどは薄目で見るのが精一杯だった。しかもこの暴風雨のために中止された題目もあったようだ。

ただし哨戒機P-3Cによる潜水艦攻撃用爆弾の投下では、水中で炸裂した爆弾の衝撃が1000m離れたこの「はるゆき」にまで届き、足下がズドンと震えたのを確かに感じた。水は密度が高いために衝撃が伝わり易い。

強風のわりに波はそれほど高くは無かったが、それでも波頭が白い状態で、艦船はその波を割って進んでいる。それはまるで、日本海海戦の荒波を見るようだった。


撮影をしていると、やはりどうしてもカメラに滴(しずく)がしたたる。タオルで拭くものの、そのタオルさえ濡れ雑巾状態であるから、あまり意味は無かった。
それでもやっとのことで撮影し、フィルム交換するためにヘリ格納庫へ戻った。しかし、EOS630の様子が変だと気付いた。フィルムが巻き戻らない。スイッチを切ってみたが、液晶表示が消えない。
まさか、35mmはもう撮影が不可能なのか・・・?
とっさにグリップを外し強制的にスイッチを切ってみた(EOS630はグリップネジ部を外すと全スイッチが切れる)。再びグリップを装着しスイッチを入れ、巻き戻しボタンを押すと今度は巻き戻った。
(この不具合はこの後何度か起きた)

New MAMIYA-6のほうは、ズームレンズではないためにレンズを煩雑に付け替えているのが心配である。しかもフィルムは12枚撮りであるから、こちらの入れ替えも多い。フィルムを交換する手が濡れているため、フィルム室にも若干の水が入り込むがどうしようも無い。手元にはもはや乾いた物など何も無かった。

これらは、我輩自身の戦いでもあった。

戦闘時は全員が大砲を撃つわけではない。船を操ったり、伝令したり、砲弾と火薬の包みを運んだり、エンジンを動かしたりと、直接的な戦闘とは違う作業をする要員がいる。一人一人が敵戦艦を沈めているわけではなく、それぞれの持ち場でそれぞれに戦い、その結果として敵艦を沈めているのである。
虎太郎は機関室にて日本海海戦を戦った。派手な戦闘に関わったわけではないが、日本海海戦で日本を護ろうとした軍人の一人であった。
哨戒機P-3Cによる爆弾投下時に我輩が感じた以上の衝撃を、艦底の虎太郎は感じたに違いない。


今回の観鑑式では、隊員の方々は非常に強い使命感の下に行動していることを感じた。
ともすれば批判の対象となることもある自衛隊ではあるが、それは「自衛隊は軍隊ではない」という微妙な立場に因るもので、決して自衛隊隊員たちを否定するものではない。
彼らは、有事の際には自らの命をなげうって戦う最前線の存在である。そんな隊員たちが我々を親切に招き入れ、色々と教えてくれたり誘導してくれたり、船酔いで気分の悪い者に毛布を配ったりしている。我輩などは特に船酔いも無くただ撮影疲れをしていただけだが、そんな我輩にも声を掛けてくれた。頭が下がる思いである。

力無き国が強国に容赦無く搾取される現代、国を護るためには軍備は絶対に必要であり、もしこれが無ければ直ちに周辺の国により日本は占領されるだろう(アメリカの存在が抑止とはなるだろうが、いずれにしても軍備に依っていることに他ならない)。この緊迫した時代では、一瞬の隙が国運を左右する。軍事的空白は絶対にあってはならぬことである。そういう意味で、我々日本国民は、彼らの日頃の努力と愛国心により安心して日常生活を送ることが出来る。
自分だけが気を付けても交通事故に巻き込まれることがあるように、一国だけが平和主義を謳っても戦争から逃れることは絶対に不可能。そんな戦争の時代とも言える現代では、軍隊の無い国は独立国家とは言えまい。

海上自衛隊は、旧日本海軍の伝統を強く受け継いでいるという。
軍国主義までは受け継いではいないが、とかく自虐的な日本人の中にあって唯一残る誇りをそこに感ずる。

虎太郎は日本海海戦で生還し、祖父を経由して我輩にまで命を繋げた。虎太郎が生きて帰らねば、祖父はおろか今の我輩さえも存在しない。
そして今回、虎太郎の誇りが我輩まで繋がったような気がする。

祖父からの手紙は、それを繋げるものであったと改めて思う。


(2003.10.31追記)
我輩が乗船した護衛艦「はるゆき」は、佐世保が定係港であると知った。虎太郎が戦艦「朝日」に乗り込んだのも佐世保だったのだが、何かの縁をそこに感ずる。