「カメラ雑文」一気読みテキストファイル[001]〜[050] テキスト形式のファイルのため、ブラウザで表示させると 改行されず、画像も表示されない。いったん自分のローカ ルディスクに保存(対象をファイルに保存)した後、あら ためて使い慣れているテキストエディタで開くとよい。 ちなみに、ウィンドウズ添付のメモ帳ごときでは、ファイ ルが大きすぎて開けないだろう。 ---------------------------------------------------- [001] 「オープン」 [002] 「無いものねだり」 [003] 「カメラの撮影について」 [004] 「モルトプレーン」 [005] 「部外者デザイナー」 [006] 「スペック偏重の時代」 [007] 「α-7700iからEOS630へ」 [008] 「便利ということについて」 [009] 「サルが紛れてるぞ」 [010] 「我輩としたことが・・・」 [011] 「生産終了」 [012] 「不具合中古」 [013] 「ペンタックスLX発注」 [014] 「F3/T(白)試し撮り」 [015] 「写真というものは・・・」 [016] 「フィルム形のデジタルカメラ」 [017] 「一期一会」 [018] 「ペンタックスLX納期」 [019] 「最近のプロ用カメラ」 [020] 「ペンタックスLX到着」 [021] 「レンズの向こう側」 [022] 「迷い」 [023] 「時の止まったカメラ屋」 [024] 「カタログ処分」 [025] 「心霊写真」 [026] 「くだらない雑文だが」 [027] 「システムカメラ」 [028] 「表現」 [029] 「表現 −補足−」 [030] 「写真を遊ぶ」 [031] 「プラモデル」 [032] 「ハイブリッドカメラ」 [033] 「気になるF100」 [034] 「フォトCD」 [035] 「シャッター押して下さい」 [036] 「安けりゃいいのか?」 [037] 「ネイチャー・フォト」 [038] 「心のカギ」 [039] 「F4のペーパークラフト」 [040] 「見慣れた新しい風景」 [041] 「フォトCDの再認識」 [042] 「マニュアル露出」 [043] 「サルマネか?」 [044] 「学力低下」 [045] 「やってみなければ分からない」 [046] 「フォトCDの失敗」 [047] 「実際の製品とは異なります」 [048] 「それは絞りの形だぞ」 [049] 「写真の価値が無くなる日」 [050] 「買うモノが無い」 ---------------------------------------------------- [001] 2000年 4月 5日(水) 「オープン」 本日をもって、本ホームページのオープンとした。 まだ作成中のページもあるが、運営しながら最終形を模索するのもいいかも知れない。 今回、ニコンF3の3D画像を載せたのだが、これが曲者で、レンダリングにかなり時間が掛かっている。「どうせやるなら大きな画像でレンダリングをやろう」などと思ったのがいけなかった。レンダリングに丸一日も掛かってしまうのだ。1回目の時など、途中経過を見ようとしてウィンドウを動かすと、とたんにフリーズしやがった。あと1時間もあれば終わるところだったのに! 現在UPしているのは1枚だが、あともう1枚「ゴールドF3」も載せようと思っている。それは今現在レンダリング中。 まあ、とにかくこんなサイトが盛り上がるかどうか、ちょっとよく分からない。とりあえず用語集も充実させていき、付加価値を高めようと思っている。 ---------------------------------------------------- [002] 2000年 4月 6日(木) 「無いものねだり」 何の脈絡もないが、あったら欲しいカメラをちょっと書いてみた。 ・クロームシルバーのニコンF3HP  (チタンカラーは黄色っぽいので) ・ニコンF3用の軽量ワインダー  (MD−4モードラが大きすぎる) ・AFのゼンザブロニカSQ  (中判のAFは645しかなので) ・CCD仕様の安価なフィルムバック  (手軽にデジカメ化したい) ・ニコンFE3  (デザインはFE2と変えないで欲しい) ・オリンパスペンFTの現代版  (デザインやメカニズムは変えないで、   加工技術や素材を現代風にして欲しい) 多分無理な話だろう。しかし、こんなカメラが一度に発売されたら、貯金も追いつかない。 それから、今朝、掲示板に初の書き込みがあった。ありがたいことである。 ---------------------------------------------------- [003] 2000年 4月 8日(土) 「カメラの撮影について」 休みを利用して、キヤノンAE−1PとニコンF3、ペンタックスKXの撮影をした。 今回、横着してデジタルカメラで撮影を行った。 デジタルカメラというのは、結果がすぐに得られるのがいい。しかし、ライティングがかなり難しい。ちょっとしたことですぐにハイライトが飛ぶのだ。ストロボは1000W/Sの2ヘッドを使用したが、デジタルカメラの絞りがF11までしかなく、ワット数を限界まで下げても露出オーバーになったりした。 しかも、レンズの焦点距離が19.5mmと短いため、被写界深度に問題がある。しかし、最大の問題はJPEG画像の画質劣化だろう。 ちなみに、デジタルカメラの機種はオリンパスの「キャメディアC−2020Z」。 ---------------------------------------------------- [004] 2000年 4月11日(火) 「モルトプレーン」 今日、我輩のニコンF3のうち、一番古いものを手に取ってみた。そしてレンズを外してブロワーで埃を払う。 何気なく、ミラー上部のモルトプレーンが目に入った。そして指で触れてみると、なんと、モルトプレーンが劣化して、ベタベタになっていた。 まさか、とは思ったが、ついにこのくらいの古さのカメラでもモルトプレーンがイカれてしまうのか。10年前くらいのカメラなのに、少しショックだった。 まあ、保存状態が良いというわけではないのだが・・・、しかし、10年というのは、カメラにとってみればそんなに古くもないはずだが・・・? ---------------------------------------------------- [005] 2000年 4月14日(金) 「部外者デザイナー」 最近はかなり反省されているようだが、AFカメラのデザインというものが何か変だと感じるのは我輩だけではない。それは身近な声にもあり、雑誌のカメラ評価でも見られる。特に、昔の雑誌を紐解いてみると、かなり初期の頃から言われ続けているのが判る。 チョコレートを融かしたようなデザイン(エルゴノミックデザイン)をカメラに採用したのは、確かキヤノンが最初ではなかったろうか。ルイジ・コラーニというデザイナーを起用し、T90が作られた。 ルイジ・コラーニは、「自然界に直線は無い」というコンセプトの基にデザインを行う。T90も、ルイジ・コラーニの原案では直線は全く無い。しかし、カメラがオブジェならそれでもいいが、カメラとは道具であるべきだ。自然界に直線が有ろうが無かろうが、人工物であるカメラには関係無い。使いやすいこと、普遍的であることが大事。このようなデザイナーは全くいい加減で底が浅い。 しかし悪いことに、このような「奇をてらった」デザインが流行になると、どこもかしこもそのデザインが使われるようになってしまった。 車や航空機なら、風洞実験などの結果が形を決めていく。自然法則が形を決めるという意味では、それこそ自然景観とも言えるだろう。ルイジ・コラーニは、表面上でしか自然を学ばなかった。本当の自然には、絶対的な説得力と、普遍性が存在する。デザイナーはその範囲内で処理し、決して出しゃばってはならない。デザイナーとは、味付けをするだけが役目だ。作る料理そのものを変更させるようになったら、もう終わりだ。 ところがAFカメラの場合はデザイナーが出しゃばっている。「デザイン優先AE」とでも言いたくなるほど。しかもメーカーはデザイナーに任せっきりのようで、そこにはポリシーというものは無い。 結局メーカーは、カメラを使ったこともないデザイナーのペテンにかけられ、正気を失ったのである。「エルゴノミックデザイン」や「人間工学」などと、もっともらしいことを言って信用させたのであろう。「人間工学」を実際に学べば、それが逆に人間工学に反していることに気付くはずなのだが、メーカーの責任者は「デザイナー」という肩書きしか見なかった。その結果、AF戦線からの離脱を余儀なくされたメーカーもいた。我輩の考えでは、もしメーカーの独自色を出していれば、それなりのニッチを獲得していたろうに。 能なし勘違い野郎でも、デザイナーは名乗れる。見た目がいかにもデザイナーしているヤツには気を付けろ。会社を潰されるゾ。 カメラを設計する人間でさえ、カメラを使ったことのない人間ばかりである。さらにデザインさえユーザーを無視するようになったら、カメラがカメラである意味が無くなる。 カメラをデザインするためには、カメラの性格を理解しなければならない。カメラのメカニズムを理解しなければならない。カメラが好きでなくてはならない。 ルイジ・コラーニよ、おまえのせいだぞ。どう責任とる? ---------------------------------------------------- [006] 2000年 4月15日(土) 「スペック偏重の時代」 今、300万画素のデジカメが話題になっている。 画素がそんなにあっても意味無いというのに。分かってない奴らが騒ぐ、騒ぐ。 確かに、画素が増えれば情報量も増える。しかし、ディスプレイが表示できるドット数は決まっているのだから、これ以上画素が増えても、結局は画面外にハミ出るだけで意味がない。どうせパソコンでしか使わない連中の要求だろう?。 カメラとしての性能は、何といっても「自由度」があるかどうかだ。一眼レフカメラが発展してきたのは、システムを自由に組めるからだ。画素を要求するのはその後。そんなこと、健全に写真を趣味としている人間には当然分かっている。 「ライティングができない」、「マニュアル露出ができない」、「オートフォーカスしかできない」、「レンズ交換できない」、「ファインダーがあてにならない」。 こんなモノ、「写ルンです」よりもちょっとだけ性能が良いという程度でしかない。これで300万画素積んだと言われたって、一体何に使う? 例えるなら、軽自動車に大型バスのディーゼル積むようなものではないか?いや、それよりもっとヒドイ。 まあ、デジカメを評価するのは写真関係の人間ではなく、パソコン関係の人間が多いわけで、写真のこと、何も分かってない部外者ばかりなのだ。 そういう連中は、数字でしか評価できないものだから、当然、画素数へ評価が集中することになる。これでは、偏差値を尊重する受験戦争のようなものだ。確かに成績は良いかも知れぬが、人間性は全く評価されない。 デジカメも、そろそろ人間性を問われても良い時期が来ていると思うのだが・・・。 なんだか、無駄な性能ばかり追求して、消費者は無駄な金を注ぎ込んでいるようにしか見えん。 ・・・しかし、メーカーはそんなこと分かっててやってるからなぁ。パソコン編集者のような無知なる部外者どもの評価を利用し煽り立て、売れるうちに売っておこうという魂胆が見え見え。気持ちは分かるが、いい加減にしておかんと、デジカメもそのうち飽きられるぞ。今のうちに奥の深い製品を用意しとけよ。 ---------------------------------------------------- [007] 2000年 4月16日(日) 「α−7700iからEOS630へ」 想い出話。 我輩がまだ未熟だった時のことだ(今でも未熟だが更に未熟だった頃)。ある時、ある場所に、写真を撮りに行った。 その時携行したのは2台のミノルタα−7700iだった。スポーツの撮影であり、いちいちレンズ交換するタイムラグが煩わしいため、2台のボディにそれぞれ広角レンズと望遠レンズを付けていた。 撮影中、意図せず何度かスローシャッターになったことがあった。見ると、シャッタースピードが1/2秒となっているではないか。その時、露出を固定する意味でマニュアルモードで撮影していた。 我輩はいつも、ストラップを手首に巻いてカメラを持つ。もう1台は肩に掛けておく。だから、何かの拍子にカメラがどこかに触れ、設定が変わってしまったのだろう。いわゆる「誤作動」というやつか。 α−7700iは、アップダウンレバーというものを採用しており、「レバーが押された回数」または「レバーが押され続けた時間」によって設定値が変わるのだ。この、「レバーが押され続けた時間」というのが曲者だった。 この誤作動の回数が、我輩の許容範囲を越えた時、α−7700iは我が輩の手元から離れることとなった。 その後に我輩が所有したのはキヤノンEOS630である。これは2台買えなかったので、2台目はEOS620の中古を手に入れた。どちらも操作系は同じであったのが幸いだった。 EOSの場合、電子ダイヤルを採用しており、電子ダイヤルの回転をエンコード(数値化)して設定値を決める。そのため、それをずっと回転させ続けない限り、1/2秒などという極端な誤作動には繋がらないのだ。 ただし、当時のキヤノンEFレンズはまだUSM搭載のものが少なく、作動音がうるさく重々しいのがイヤだったが。 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そいつがアマチュアなのかプロなのかは分からないが、まあ、そんなことは関係ない。どちらも人間だからだ。プロであろうとも、人間としてのマナーは守らなければならぬ。いや、もしかしたらそいつは太陽系の者ではなかったのかも知れぬ。 しかし、そういうことを我輩の目の前でやらなかったのは、その男も運がいい。我輩なら、後ろから蹴り飛ばしてやったろう。まあ、無用な争いは面倒なので、相手が地面に伏している間に姿をくらますことにするが。 他にも、フィルムケースなどを散らかして行く痴呆カメラマンや、撮影会でヤジを飛ばすヤクザカメラマンがいる。 ほんの一部とはいえ、全くけしからん。人間というのは、集団生活を前提とした生物のはず。それなのに、このような自分勝手な人間がいるというのはどういうことか? まあ、我輩も自分が知らないウチに他人の迷惑になっていることもあるかも知れぬ。しかし、今書いたような凄まじいことなら、いくらなんでも自分で気付くゾ。 サルはどこに行ってもサルだ。 他の趣味にも、同じ輩(やから)はいるのだろう。 まさか、諸君はそんなサルではなかろうな・・・? ---------------------------------------------------- [010] 2000年 4月19日(水) 「我輩としたことが・・・」 今回、このサイトを立ち上げるにあたり、我輩所有のカメラをいくつか撮影した。その中で、ニコンF3/Tの白ボディがあった。 これは我輩が7年前に見つけてきた「ほとんど」未使用のものだ。確か13万くらいだったと思う。しかし、あまりに綺麗なものだったため、我輩にはフィルムを通すことなどできなかった。そのF3/Tはその後、カメラ保管ケースに入れられ永久保存となった。 しかし、今回の撮影では久しぶりに手に取ったため、とても新鮮な印象だった。そして、「これで何か撮りたい」という衝動が湧き起こった。いつもなら、撮りたい対象が最初にあるものだが、今回はカメラが我輩を動かそうとしている。 数日間悩んだ末、1台のF3を下取りに出して、手頃なF3/T白を購入することに決めた。F3を手に入れるためにF3を売る・・・。まったく、我輩としたことがバカげたことをやったものだと思う。しかし、満足度は想像以上だった。やはり渋くていい。スナップに使いたくなる。 今回下取りに出したF3は、前に書いた、「モルトプレーンがやられたF3」である。かなり使い込んであり、見た目も良くなかった。これだと査定では3万円も付けば良いほうだ。そのため前日にはF3を磨き上げ、シリアルナンバーなどのホワイトの汚れには、新しくホワイトを塗り込んだ。これで1万はアップするかも知れない。 以前F3を手放した時は、高く買ってくれる光陽商事へ持って行ったが、今回は購入店で下取ってもらうことにした。意外にも「外観もきれいですから、ABランクの最高額、4万9千円でどうでしょう」と言ってくれた。下取りという条件があったにせよ、かなり予想を超えた査定だった。 結局、我輩が購入したF3/T白は、14万円のものだった。比較的キズの少ない良品だ。あまりにキレイ過ぎると、使う時に心が痛むから、丁度良い程度と言える。 実を言うと、このF3/T白は最近プレミアムが付いているらしい。未使用品で24万はする。新品同様(我輩のお宝クラス)では、20万前後だ。12万のものがあったが、スリ傷が多く、幻滅しそうだった。そう考えると、今回はなかなか良い買い物をしたと思っている。これから、程度良く使い込んでいきたいものだ。 ・・・今気付いたが、裏ブタが白ボディ用ではないノーマルのものが付いている・・・。くそ、やられた。しかしその場で気付かなかった我輩のミスだ。まあ、本命は持っているし、特に気にすることは無いか。 ---------------------------------------------------- [011] 2000年 4月20日(木) 「生産終了」 インターネットで得た情報によると、ニコンF3がハイアイポイント以外を生産終了するらしい。「F3/Tが手に入らない!」という悲痛な叫びを掲示板などで見かける。そのうち、ハイアイポイントも終わるだろう・・・。これも時代の節目なのだ。 我輩はすでにF3のストックは持っている。「F3HP」、「F3/T(黒)」、「F3P」、そして中古だが美品の「F3/T(白)」である。 あと、市場に残るマニュアルの名機は、「ペンタックスLX」だ。これも情報によると生産ラインの縮小が行われるという。すでに入手が難しくなったという書き込みもあった。もう、他にはマニュアルの名機は残っていない。換金性は高いので、とりあえず買っておいても損はないだろう。 我輩は、マップカメラにLXの見積依頼を出した。 ---------------------------------------------------- [012] 2000年 4月21日(金) 「不具合中古」 今まで中古カメラを何台か(全体の7割強)購入してきているが、その中でトラブルがあったものを紹介する。 (1)露出計 露出計が動かない、正確でないというのは、かなりポピュラーな不具合だろう。ほとんどの場合、中古カメラ店のプライスタグに「メーター難あり」と書いてあることで、納得した上で購入した。 (2)モルトプレーン モルトプレーンの劣化もポピュラーだろう。これは、カメラの年代から推測できることだが、あまり店頭で確かめることができない問題でもある。なぜなら、モルトプレーンを触ってツブしてしまったら、気まずいだろう・・・? なお、ミラーの先端がタール状のもので汚れていれば、それは劣化の可能性を示唆している。 (3)シャッタースピード シャッター不調機には2度遭遇した。 ゼンザブロニカSQを購入した際、レンズシャッター方式なのでボディの性能とは関係ないと思い込んでいた。しかし、帰宅してレンズを装着してシャッターを切ると、シャッター速度が全くデタラメだった。それでも、何度もシャッターを切っていくうちにだんだん正確になり、3日後くらいにはほとんど気にならなくなった。シャッター制御にコンデンサーが使われており、そこに蓄えられた電気量を積分値としてシャッターをアナログ制御していたのだろう。多分、そのコンデンサーが劣化していたのだ。時間が経つにつれて元に戻ったのも、久しぶりに電池が入れられたため、コンデンサーの特性が元に戻るまで時間が必要だった思われる。よほど永く寝かされていたカメラだったらしい。 もう一つは、ペンタックスKXだ。これはワゴンセールの中に、5千円で売られていた。動作チェックすると、1/1000秒だけが不良で、あとは露出計も含めて完動品だった。我輩はそれを承知で購入した。 (4)ピント精度 これは試写するまで分からなかった。程度の良いコーワ6を購入し、帰る途中で上野の街を撮影した。しかし、全てピンボケだった。見ると、フォーカシングスクリーンが何か手が加えられている様子だ。この時はショックだった。返品しても良かったのだが、他に代わるものがなかったため、なんとか調節する事にした。フィルム面とファインダースクリーンの映像が同時にクリアになるように。最終的な微調整は、実際に撮影して確かめながら行う以外にない。モノクロ120フィルム20本は消費した。もし自分で現像できなかったら、どれほど時間が掛かったろう。 (5)シンクロ接点 今では必ず店の人にチェックしてもらうのだが、当時はシンクロ接点など見てなかった。購入機はトプコン・ユニだったが、ストロボで撮影する際、ホットシューが付いていなかったので、シンクロコードを取り付けた。しかしストロボは発光しない。接点の汚れも落としたがムダだった。これはどうにもならなかった。 ---------------------------------------------------- [013] 2000年 4月22日(土) 「ペンタックスLX発注」 ニコンF3と同期であるペンタックスLXも、もう入手が難しくなっているという情報があちこちで見られる。我輩は特にペンタックスファンというわけでもないのだが、やはり最後のマニュアル機としてのLXを、新品の状態で手に入れるチャンスを失うのは辛い。 他を見渡せば、もうシステムカメラと呼べるものはどこにも残っていない。以前はあんなに各社の一眼レフで賑わっていたのに、吹きっさらしの祭りの後のような寂しさだ。 マップカメラからのLXの見積が届いたが、レンズや交換ファインダー類も項目に入れたために、かなりの金額になってしまった。しかし、システムカメラは、アクセサリー類があってこそ意味があるので、これは外せない。今、本体と一緒に購入しなければ、もう手に入れるのは難しいハズだ。事実、見積書に記載されている全項目について「入荷待ち」か「取り寄せ」というコメント付きだった。 ついに、FAXで発注書を送付、受信確認をした。 あとは入荷を待つだけである。 我輩のLXは、このまま行けば使われぬまま永久保存となることは確実だ。そして時は流れ、我輩亡き後、それは「骨董」として子孫の目に映ることだろう。値段もその時代が決めることになる。 だが忘れないで欲しいことは、このLXは、我輩にとって「いつか使う時が来るかも知れぬ」という、ほんの僅かな可能性に備えた非常食のようなものだ。 未来に付けられる値段など、関心の対象ではない。 もし、それが本当に骨董となるのであれば、それはあくまで結果的にそうなるのであり、我輩にとっては、頼もしい非常食となり続けてくれるのだ。 そう、存在こそ、意義だ。 ---------------------------------------------------- [014] 2000年 4月24日(月) 「F3/T(白)試し撮り」 休日、ニコンF3/T(白)を試し撮りに行った。 近所にある、松戸の「21世紀の森と広場」という森林公園だ。 出かける直前、フィルムが無いのに気付く。120フィルムしか無い。仕方無く、使う機会を逸した期限切れ(なんと5年前)のテクニカルパンのパトローネを使い、T-Max400の長尺フィルムを装填した。そう言えば、このT-Maxもそろそろヤバイ。 F3はいつも使っていた機種だが、F3/T(白)は何か違う。チタンカラーのため、ライトな感じだ。もちろん、チタンボディは軽いという事実はあるが、明るい色というのは気分的にも軽い。 しかし、以前のF3はかなり使い込んでいただけに、操作感が違うのはハッキリ分かる。ダイヤルのクリック感がシャキッとしていて気分がいい。まるで別の機種のようだ。ましてや玩具のようなデジタルカメラなど、足下にも及ばぬ。 ただ、最近はデジタルカメラの便利さを知ってしまったために、現像が面倒に思えてしまう。しかしそのままにしておくわけにもいかぬ。結果も早く見てみたい。 以前撮ったフィルムもまとめて、今夜にでも現像してしまおうかと思っている。 ---------------------------------------------------- [015] 2000年 4月25日(火) 「写真というものは・・・」 写真には上手い下手がある。 そう判断されるためには、その写真が人に見られなければならない。 なぜなら、写真とは「表現」であり、見る人間に訴える手段であるからだ。例え意識せずとも、撮影者がシャッターボタンを押すに至った理由があるはずだ。 訴えかけてくる写真。それが上手い写真と言われる。説明が必要な写真は、写真としての意味が無いというが、それもまた一理ある。 単にキレイな写真なら誰でも撮ることができる。そんな写真はどこにも溢れている。しかしそういう写真は、写真である必然性が無い。「現物があれば、それに越したことはない」と言われるだけだ。 一方、写真の位置付けが「趣味」であるなら、自分が自分に要求するものさえクリアすればいい。 なぜなら、その写真の消費者は自分自身であるからだ。そこでの「上手い下手」とは、要求をクリアしたかどうかにかかってくる。 自分が「もっと上手く撮りたい」と思うなら、その写真はまだ上手くないと言える。逆に「この程度なら満足できる」と思うなら、その写真は上手いと言えるだろう。全ては、「求める心」と、「それを満たす腕」しかない。それが趣味だ。 鉄道写真を撮る者の中で、背景や構図に構わない者がいる。彼は言う。「記録写真だから、いちいち構図に構っていたら、数をこなせない」と。それは全く正しい。彼は、自分自身の要求に対し、淡々とシャッターを切るだけだ。 今一度、何のためにシャッターを押すのかを考えてみるのも良いかも知れない。これは、我輩自身に対する、自問自答でもある。 ---------------------------------------------------- [016] 2000年 4月26日(水) 「フィルム形のデジタルカメラ」 雑誌を見ると、従来のカメラをデジタルカメラとして使えるというCCDが紹介されていた。「SiliconFilm」というものだが、フィルムのパトローネの形をしている。 実は、我輩は1998年からこのCCDについて知っており、商品化も1999年とされていたと記憶している。しかし、待てど暮らせどそんなものが発売されたという話は聞かなかった。我輩はてっきり、この計画は頓挫したものと思っていた。 しかし、今回の情報により、細々とではあるが、着実に進化を続けていたことが分かった。 デジタルカメラの立場から見れば、今までの銀塩カメラシステムは過去の遺物であろう。しかし、現時点ではデジタルカメラ独自のシステムは存在しない。ニコンD1でさえ、銀塩カメラのシステムを借りている。やはりデジタルカメラの正しい進化とは、現在の完成されたものを引き継ぐことなのだ。 デジタルならではの特徴の1つは、形が自由であるということである。今まで、その自由さゆえに迷いがあった。カメラっぽくない形のデジタルカメラが主流だったのもそのためかも知れぬ。しかし、その自由というのを積極的に活用すれば、銀塩カメラとの境を無くすことができる。それが、今回の「SiliconFilm」なのだ。デジタルであるがゆえに、パトローネの形を真似ることができた。同じ銀塩システムであるAPSフィルムが35mmカメラに使えないというのにである。 念のために言っておくが、安物デジタルカメラは、ここではデジタルカメラとは認めていない。あれはあくまで、画像を取り込むためのスキャン装置だ。カメラなどとは一緒にできぬ。 ここで「デジカメ」と呼ぶのは、安物デジタルカメラを指す。つまり蔑称だ。漢字で書くなら、「デジ亀」だ。歩みはノロく、ひっくり返ったらどうにも融通がきかない。まさしく亀だ。 ---------------------------------------------------- [017] 2000年 4月27日(木) 「一期一会」 大学時代の4年間、我輩は裏千家茶道の修行を行っていた(笑うでない)。そこで教えられたのは「一期一会(いちごいちえ)」の精神だった。茶道では、この言葉は人への接し方を悟らせるための教えであり、出会いというものが偶然の重なりであるということを肝に銘じ、1人1人が心を込めて点前(てまえ)を行う。 戦国の世、明日の命も知らぬ武将が、狭い茶室で人と出会い、そして別れた。それだからこそ、再会を果たした喜びというのはまた大きい。 我輩は武将の気持ちの百分の一も知ることは出来ないが、1つの小さな再会を果たした出来事を大切に思い、ここでそのエピソードを書く。 大学時代は、やはり我輩も金銭的な余裕はあまり無かった。理学部の人間であったため、平日はアルバイトなどに十分時間を取ることが出来なかったから仕方が無い。 当時、我輩の主力機はキヤノンAE−1プログラムだった。ファインダースクリーンにカッターでスジを入れ、3分割黄金比率のオリジナル方眼マットを装備していた。 しかし、未熟な我輩は、最新式のAFカメラが欲しくなり、少ない休日はアルバイトに励んだ。そして、少しでも安く買えるように、手持ちのキヤノンAE−1プログラムを下取ってもらった。 ある時、大学の和室にて、ある飲み会が催された。我輩と先輩は、撮影係としてカメラを持参していた。我輩は最新AF機、先輩はMF機。しかもそれはAE−1プログラムだった。 「先輩もAE−1プログラムですか。自分もこの前までAE−1プログラム持ってましたよ。」 「いいなあ。君は最新式か。」 「じゃ、ちょっと交換して撮ってみましょうか。」 我輩は久しぶりにAE−1プログラムを手に取った。手放して数週間程度だったが、やはり懐かしい。ふと、ボディナンバーが目に入った。サラリと読めた。普通なら、途中でつっかえるような長い番号の羅列が、前にも読んだことがあるように読むことができた。まさかとは思いファインダーを覗いてみると、そこに見えたのはまさしく黄金比率の方眼マットだった。そう、これこそ手放したAE−1プログラムだったのだ。 我輩は、再会の喜びとともに、先輩のような人格者の手に渡ったことに対しても喜びを感じた。同様に再会を果たしたとしても、もし別の者によってAE−1プログラムが痛めつけられていたとしたら、このような喜びは湧いてきたりはしなかったろう。 狭い地域の中では、そういった偶然も十分あり得るエピソードだったかも知れないが、普通は下取りに出したカメラの行く末を知る機会はまずない。それを思えば、このエピソードは我輩にとって貴重なものだった。 ---------------------------------------------------- [018] 2000年 4月28日(金) 「ペンタックスLX納期」 マップカメラより連絡が入り、LXの納期は来週頭となるとのこと。意外と早かった。それほど慌てて購入するまでもなかったか・・・? しかし、LXは古き良き時代の最後のカメラだ。パソコンなどは新しい時代のものほど性能が良いに決まっているが、カメラの場合は全く違う。 ニコンF3がメルセデス・ベンツだとしたら、ペンタックスLXはロールス・ロイスだろう。人を運ぶという視点で見ると、どの車も変わりは無い。しかし、人間はそういうことでは納得しない。ただ、目的地に着けば良いのか? もちろん、場合によってはそういう時もあるだろう。しかし、もし選べるなら、たまにはロールス・ロイスに乗りたい時もあるはずだ。 それはカメラでも同じである。写すのは人間であり、人間の身体をコントロールするのは人間の心だ。心に働きかけるカメラがあってこそ、撮れる写真もあるのではないのか? 我輩はそういう、心への小さな働きかけに対する影響力を軽く見てはいない。 来週が楽しみだ。手元に届けば、すぐにでも画像をアップすることにしよう。 ---------------------------------------------------- [019] 2000年 4月29日(土) 「最近のプロ用カメラ」 キヤノンEOS−1Vのカタログを入手した。なかなか気合いの入った印刷物だ(我輩は印刷業界に近いので、どうしてもそこから評価してしまう)。 冒頭から防水性をアピールしているところなど、やはりプロ用カメラとして開発されているカメラだということを感じる。しかし読み進めて行くと、プロ用もかなり自動化されてきていることが分かる。これを技術の進歩と呼ぶには、いささかその速度が速すぎる。もっともパソコンなどと比べると遅いほうだが、これはカメラだろう? F3など20年も変わらなかったぞ。 我輩が思うに、これはリストラの結果なのかも知れぬ。 売れているプロカメラマンといえど、やはり広告業界が冷え込んでいるからには、やはり経費削減は避けて通れまい。そうなると、アシスタントのうち1人は辞めてもらおうと考える。そのためには、カメラを強力にし、合理化を図る必要があるというわけだ。 もっとも、最初からアシスタントなど持たぬカメラマンもいる。そういう人間には、「アシスタントを持てる」ということが購入動機となるだろう。今のカメラは、挨拶もできないアシスタントよりは使えるハズだ。 一方、アマチュアカメラマンはどうか。「カメラの自動化」というアシスタントの出現によって、怠け者カメラマンが増えてきたように感じる。 そう、かつては我輩もそうだった。 ガラにもなくアシスタントを持ち、文句も言わぬ忠実さをいいことに、そのアシスタントにおぶさっているのだ。 プロなら、そこはきちんとわきまえており、人には任せられないものは自分でやり、誰がやっても同じことについてはどんどん人任せにする。メリハリが利いている。逆にそうでないと、カメラマンとしては食って行けない。 普通、プロ用と言えば「業務用機材」だ。一般人が手に入れることはない。しかしカメラは違う。プロが使う機材と同じものが手に入れられる。 せっかく堅牢性を謳っているのだから、自分の意志を全面に出し、カメラを使い倒せ。それとも、カメラというアシスタントに笑われたいか? ところで話は変わるが、この「EOS−1V」という名前、いったいどういうネーミング・ルールなのだ? これから先、新型はどんな名前にするのか? まさか「EOS−1スペシャル」とか、「EOS−1ハイパー」? きっと今の開発者は、前任者を恨んでいることだろう。 「こんな安易な名前付けやがって、最初はいいだろうが、これからどう収拾つければいいんだ?」 我輩が提案するに、「EOS−2000」などというものがいいのではないかと思うが。どうせ安易なら、どこかのOSに習えばいい。 いや、笑えぬ冗談か。 ---------------------------------------------------- [020] 2000年 4月30日(日) 「ペンタックスLX到着」 本日、マップカメラよりペンタックスLXが到着した。ニコンとは違い、箱は横に広い。システムファインダーも同時購入したが、ベース部と接眼部の接続は、意外にもネジ式ではなくバヨネット式であった。その小さなバヨネットは、まるで「ペンタックス/オート110」のマウントのような雰囲気を漂わせている。しばらく眺めていたかったのだが、ホコリが入ると厄介なので、すぐフタをした。 ボディの塗装は、ニコンに比べると少し雑な印象を受ける。小さな点だが、塗料が1つのホコリを噛んでいたのを見つけたのだ。 動作感は、新品の硬さがあってよろしい。ガタは無い。 ただ、同時購入したシャッターボタンアタッチメントには閉口した。これは、シャッターを押しやすいように、シャッターボタンにネジ込んで使うアダプターなのだが、単なるプラスチックなのだ。ネジ部も含めたワンピースタイプの部品だ。最初、シンクロ接点のプラスチックカバーかと思ったぞ。まあ、80円の商品だからな。 保管ボックスに格納する前に、写真撮影を行う。 レンズがF1.2のため、かなり大口(おおぐち)という印象だ。「大口径」というのは、「大・口径」ではなく、「大口・径」なんだなと、くだらないことを考えたりした。 さすがに作りが良いだけあり、写真にも貫禄が出ている。 これを実際に使う時というのはどういう時だろうか。 想像するに、それは我輩の死にぎわかも知れぬ。まずその可能性が高い。いやはや、死ぬ時は畳の上で死にたいものよ。事故などで即死でもすれば、使うチャンスは巡っては来ないのだからな。 そういう観点から、我輩は、ガンの告知などはやって欲しいと思う。死期が近いと分かれば、やることは実に多い。 ---------------------------------------------------- [021] 2000年 5月 1日(月) 「レンズの向こう側」 写真というのは、レンズを通した映像を感材に定着することだ。今さら言うことでもない。しかし、それを実感することはあまりないだろうと思う。 土曜日、葛西臨海公園へ赴いた。その日は、公園内にある水族園の入場無料日に当たり、多くの家族連れがいた。 その時たまたま通りかかった場所で、記念写真を撮る場面に遭遇した。カメラの角度から判断すると、きっと我輩が背景の中に収まっていることだろう。 その時にふと、思ったことがある。 いつか、実家に帰った時に、昔の写真を見る機会があった。色褪せた写真の中の人物や風景は、カメラのレンズを通った映像だ。 この写真に写っている者は、今、我輩に見られていることを知らぬ。そして今、我輩は記念写真のカメラのレンズを前にしたのだ。 シャッターは時間を切り取る。 「あのレンズの奥には、未来の者の目があり、こちらを見ている。そしてそれはまぎれもなく、たった今、この時を見ているのだ。」 そう思った瞬間、いつか見た写真の、色褪せた風景にパッと色が付いたような、そんな気がした。 どんなにプライベートな写真であろうとも、いつどんな形でどんな人間の目に触れるのかは予想できない。そう考えると、今構えているカメラのレンズは、我輩1人だけの目ではないことを感じさせるのだ。 「写真を撮る」という行為は、つまり、そういうことなのだ。 ---------------------------------------------------- [022] 2000年 5月 3日(水) 「迷い」 我輩には「迷い」がある。 それは写真の電子化のことだ。 最近、パソコンの普及が進み、個人レベルで写真の電子化が可能となった。 写真を電子化するには、スキャン作業が発生する。撮影する端からスキャンすれば問題無いかも知れないが、今までの膨大な写真はどうするのか。それは小さな問題ではない。 さらに我輩の経験から言うと、より性能の良いスキャナが導入されると、全体のクオリティを揃えるために、過去にスキャンしたものも含めて作業がやり直しとなる。 もし仕事上のことなら、ある程度の割り切りが可能だが、「趣味」というものは気が済むまでやらないとダメなのだ。このことは、心に迷いを生む原因となる。 そして、電子化の最大の問題点は「保存性」である。 通常の銀塩写真なら、150年もの歴史があり、それなりの信頼性がある。我輩が曾祖父の顔を知っているのも、そのおかげだ。 銀塩写真で「この写真は100年保ちますよ」と言われれば、そうかなと思ってしまう。しかし、デジタルの写真で同じことを言われても、「まだ数十年しか経ってないのに何をぬかすか」となる。 まず、磁気媒体では磁力の保持力が心配だ。デジタルデータだけに、徐々に劣化するのではなく、ある時期にいきなり読めなくなるだろう。その時点ではもう遅い。 また、光磁気ディスクも温度やホコリに不安がある。少しでも雑に扱うと、すぐに「データエラー。フォーマットしますか?」などと訊いてきやがる。 CDも100年保たないだろうと言われており、ましてや色素を使うCD−Rは更に短いだろう。直射日光にさらされれば、数日でデータは読めなくなるという。 電子画像なら、保存媒体の互換性も問題だ。その媒体は、新しいものが出たかと思えばまた別のものが消えていく。ちょっと気を抜いていると、再生装置が手に入らなくなる。それにこだわっていると、「時代遅れ」だと言われるだけだ。 結局、デジタルを扱うには、ある一定期間ごとにデータの移し替えが必要だ。もちろん、画像データが伝えられても、その時代には「BMP」などという画像フォーマットは存在しないかも知れない(GIFにしても、ライセンス問題が浮上してきて、衰退する可能性が出てきたしな)。その都度、その時代の画像フォーマットに変換しなければならない。 曾孫の時代まで自分の撮った写真を伝えるには、かなりのエネルギーがいりそうだ。これでは、便利なのか不便なのかさっぱり判らぬ。 いっそのこと、最初から電子化などできなかったほうが、迷いもなく平穏だったか・・・? ---------------------------------------------------- [023] 2000年 5月 4日(木) 「時の止まったカメラ屋」 西日暮里には不思議なカメラ屋がいくつかある(4〜5年前の話で、今はもう無いかも知れない)。 そのうち2店は、大通りに面しているにも関わらず、時代に取り残された雰囲気だ。 ある日、我輩はそのうちの1店、「ムツミカメラ」に入ってみた。 誰もいない。 一声掛けると、奥からオヤジが出てきた。我輩は写真の現像を頼んだ(この店に入るための口実)。 オヤジがDPEの袋に必要事項を記入している間、狭い店内を見渡した。 右側にはガラスのショーケースがあり、カメラも陳列してある。しかしそのほとんどが、中古屋でも見られないような旧式のカメラであった。驚いたことに、それら全てのカメラが新品だという。よほど商品の回転が遅いのだろう。ホコリ除けの為か、ラップにくるまれているのが面白い。 我輩はオヤジに頼んでカメラを見せてもらった。それは「キヤノンTLb」というものだった。「キヤノンFT」とよく似ている。これが新品とは・・・。 「これ、いくら?」 「え?それ旧式だよ。」 そんなこと分かっておる。 「う〜ん、そうだねえ、5万円くらいかな。」 5万円・・・。そんな値段で買うわけがない。せいぜい1万円がいいところだろう。 ふとショーケースの上段に目をやると、そこには「ミノルタX−1」が鎮座していた。これも新品だという。ファインダーを覗いてみて、何か変な気持ちだった。当時の風景が見えてくる気がした。 この店のショーケースには、昔の空気がそのまま詰まっている。それは決して、博物館のような演出によるものではない。これは現役のショーケースなのだ。 ---------------------------------------------------- [024] 2000年 5月 5日(金) 「カタログ処分」 我輩は、カメラのカタログを集める癖がある。 「癖」と書いたのは、気付けばカタログが山積みになっているからだ。 カタログを集めだしたのは中学の頃だったろうか。 小遣いが月2500円だった我輩には、カメラなどという高価なものは、そう簡単には買えなかった。だから、カタログを眺めることが唯一の代償行為であった。 高校生になってからも小遣いが月3500円になったくらいで、そういう状態はあまり変わらなかった。 そういうことが影響して、今でも我輩をカタログ集めに駆り立てるのだろう。 しかし、そのカタログ集めも限界だ。このままでは、その重みによって2階を突き抜けかねない。そこで、そのカタログを処分しようと考えたが、貴重な資料を失うことは大きな損失なので、それらを全て電子化することにした。 5月3日の雑文には「写真の電子化」のことを書いたが、今回の電子化は紙資料の電子化であって写真作品の電子化ではない。多少、クオリティが下がろうとも、資料として残ればそれでいいのだ。 早速、カタログをスキャナのフィーダーにセットし、読み込みを始めた。カタログは冊子状態なので、ホチキスを外し、背を切った。1枚1枚の紙にバラさないと、スキャンできないからだ。 そうしてファイル化された画像データを、ソフトをかましてマルチTiff形式にまとめ上げる。 ただ、カタログはカラー印刷がほとんどなため色数は256色とし、解像度を180dpiとした。そのためCD-R1枚には、多くても20冊くらいしか記録できない。 ・・・まあ、それにしても、現時点でミカン箱半分くらい処理が終わった。 データは、端からCD-Rに焼いている。 この調子で行くと、あと1週間でカタログが一掃できるだろう。いや、同じカタログが何冊もあるということも多く、もっと早く終わるかも知れない。 しかし、実家にはもっと多くのカタログがある。それが気になっている。しかもAE-1時代のカタログなど、興味深い資料が山ほどあるに違いない。 この夏、カタログを探しに実家に帰省しようかと思い始めた。 ---------------------------------------------------- [025] 2000年 5月 8日(月) 「心霊写真」 カタログの件、全て片付いた。スキャン終了したカタログはヒモで結わえてゴミに出す。 作成したCD−Rは10枚にものぼる。しかし、これだけの重量の紙がたった10枚のCD−Rに納まるというのは気持ちがいい。DVD−Rが出回るようになれば、ほんの2〜3枚に入ることになろう。 それはさておき、諸君は「心霊写真」なるものを信用するだろうか? 唐突な話だが、カタログの電子化をやっているとハードディスクの作業容量が足りなくなったので、いい機会だと思い整理することにした。その中に、忘れていた画像ファイルを見つけた。 それは数年前、心霊写真をスキャナで取り込んだモノだ。 知人の女の子が写った写真なのだが、その子は最初、ニコニコしながら、「私、心霊写真持ってるよー。」と言う。 我輩は何と答えて良いか分からず、とりあえず「は?」と言ってみた。全く心霊とは縁の無さそうな、そんな娘なのだ。 「だ・か・ら、心霊写真が写ったのー。」 分かった。それは何かの誤認だろう。そういう類の写真は、大抵説明が付く。そう思ったが、口には出さず、ただ「ぜひ、持ってきて見せなさい」とだけ言った。 「えー、そんなに熱心に見たいって言ってくれた人、初めて!他のみんなは笑うだけなのに。」 と、彼女はケラケラ笑って喜んでいる。しかし我輩は、現物写真を実際に見てから笑いたいだけなのだ。 次の日、彼女は上機嫌で例の写真を持ってきた。最初、それは何の変哲もない旅行の記念写真に見えた。日付は、1993年7月18日となっている。いつも通りのケラケラした笑いの彼女の背景には、カラス天狗の銅像が写ってた。 「まさか、心霊というのは・・・、このカラス天狗のことか・・・?」 「えっ、違う違う!私の足、足!」 よく見ると、彼女のジーンズの下に出ているはずの足が・・・無い。 つまり、足首から下が写っていないのだ。ムムム・・・?じいっと見ると、ジーンズの裾まではハッキリと写っているのだが、その先には地面が写っているだけ。 また、いくら日陰で写しているからといっても、地面に接しているなら多少の影はできるはずだ。しかし、地面には影が無い。「これは・・・、うーん、・・・凄いな(一本取られたという感じだ)」 彼女はそんな我輩の反応を見て 「でしょ!」 と、得意顔。 心霊写真としては、よくテレビの心霊特集で見るような写真だ。腕が写っていなかったり、首が写っていなかったり。そういうのはよくある。その中では、一番インパクトが軽い部類に入るだろう。・・・しかし、それを身近に感じたことが我輩にとってショッキングだった。 我輩が見たところ、光の屈折なんかじゃありえないし、とにかく本能的に違和感を持つ写真だった。不覚にも、鳥肌も少し立ってしまった。 しかも、悪知恵など全くなさそうな彼女には、インチキ写真なんて撮れるはずもない。 そんな我輩を、彼女はニコニコして見ていた。 「でも、気持ち悪くないのか?こんな写真が写って。」 「やだー、気持ち悪ーい。」 彼女はまたケラケラと笑う。 おいおい、ホントにそう思ってんのか。もうちょっと人生、深刻に考えたほうがいいぞ。 ちなみに、問題の写真はこちら。 ---------------------------------------------------- [026] 2000年 5月 9日(火) 「くだらない雑文だが」 かなり昔から言われていることだが、「銃」と「カメラ」はよく似ている。くだらない雑文ではあるが、ここで我輩なりの意見を述べてみる。 1)「ターゲットを狙う」というところと「被写体を狙う」というところが似ている。 2)「弾の種類」と「フィルムの種類」で性能や用途が変わるところが似ている。 3)「ハンマーをコックして引き金を引く」というのと「シャッターをチャージしてレリーズボタンを押す」というのが似ている。 4)「口径がいろいろある」ということと「フィルムサイズがいろいろある」というところが似ている。 5)ニコンとキヤノンの反対志向(ピントリングの回転方向やバヨネットの方向、絞り値の方向、シャッターダイヤルの方向すべてが互いに逆)であることと、S&Wとコルトの反対志向(リボルバーのシリンダー回転方向や、プレートカバーの位置)が似ている。 6)「ホットロード(火薬を多く詰めること)」と「増感」が似ている。 7)「モリブデン鋼(黒)とステンレス鋼(白)の2種類ある」ということと「ブラック仕上げ(黒)とクローム仕上げ(白)の2種類ある」ということが似ている。 8)「最近、プラスチックを使った銃(グロックやステアー)が増えてきた」ということと、「最近、プラスチックカメラが増えてきた(と言うか席巻してる)」ということが似ている。 9)どちらも、原理的には電力を必要としないという点が似ている。 10)「リボルバーとオート」と、「MFカメラとAFカメラ」の位置付けが似ている。リボルバーも、MFカメラも、根強い人気がある。 11)「重い銃のほうが、銃口のハネ上がり(マズルジャンプ)が少ない」ということと、「重いカメラのほうがブレが少ない」ということが似ている。 ---------------------------------------------------- [027] 2000年 5月10日(水) 「システムカメラ」 最近、システムカメラと呼べるものが少なくなった。 これは、喜ばしきことか、憂うべきことか。 昔のカメラは、単体ボディだけでは全くの「素」だった。ストロボも無く、ワインダーも無く、露出計さえも無い。そこで、外付け部品を追加することによって、色々なことが出来る「システム」が構築された。 その元祖が、「ニコンF」である。 しかし、時代が進むにつれ、カメラに内蔵される機能や装置が増えてきた。それに従い、システムは縮小され、整理された。 今は、カメラと言えば「オールイン・ワン」だ。全てがカメラに凝縮されている。買い足すものは、フィルムくらいか。 これは、1台のカメラであらゆる分野に対応できるという意味では、素晴らしい発展だ。 とは言っても、プロ用でもない限り、中途半端なものばかりがオールイン・ワンされているだけに過ぎん。そんなものでとりあえずの要求が満たされれば、それ以上望むような者はほとんどいないだろう。 確かに、写真人口は増えた。しかし、昔ほど写真を深く楽しんでいる人間がいるのだろうか? 頭の良い人間ほど、遊びやムダをバカにする。「合理的であること」が素晴らしいと信じて疑わない。しかし、そんな人間が、写真を撮って何が楽しいのか、我輩には理解できぬ話だ。せいぜいムダのない、計算され尽くした写真を撮るがいい。 その分、我輩は「素」に近いカメラで失敗写真をどんどん撮り、その解決を自分の頭で考える。そして、必要なアクセサリーを、自分の意志で選択し、導入するのだ。 メーカーには、もっともっと徹底的なアクセサリーを開発してもらいたいものだ。35mm一眼レフは、システムが組めるのが特長ではなかったのか? ---------------------------------------------------- [028] 2000年 5月11日(木) 「表現」 最近、フィルムに「第4の感色層」を持たせたものが出てきた。 しかし、いずれにせよカラー写真は、たった3つか4つの少ない色だけで自然界の色を再現しているということに変わりはない。 これは、頭で分かっていても、実感することがあまりない。 ある時職場で、営業の人間が訊いてきた。  「なあ、パソコンの画面で、金色って出せるか?」 最初、言っている意味が分からなかった。  「金色・・・?」  「ああ、印刷だったら5色刷りなんかで特色インキで刷ったり、箔押ししたりできるだろ?」 コイツは印刷営業で、パソコンのことを知らない。そうか、画面上で金色をそのまんま出したいのか。  「金色って、写真か何かに金色のものが写ってるのか?」  「いや、金色で塗るんだ。ちょっとその画面で金色出してみ。」 ソイツは我輩の画面を覗き込んだ。 我輩は少しひるんでしまった。コイツに納得させるような説明はすぐにはできそうもない。何も知らない人間が相手なら、何とかなるかも知れないが、コイツの頭は印刷の知識で固まっている。数多くの思い込みを取っ払ってからでないと教えることはできまい。  「ん?どうした?さすがの我輩も、難しい質問だったか?」 ぬかせ!答えが欲しいなら、一言で済ませてやる。  「金色は、無い。」 キッパリと言ってやった。  「無いだと? けど、この前、画面にCD−ROMの写真が表示されてたぞ。あれは銀色だろ?銀色が出せるなら、金色も出るだろう?」  「バカ、あれは写真だ。銀色で表示してるわけじゃない。」  「写真? 写真に写せば銀色が出るのか?」 全てがこんな調子だった。我輩は腹を決め、自分の仕事を中断して、ソイツに「印刷」と「ディスプレイ」の違いについて説明した。 どれくらい時間が掛かっただろう。一応、そいつは「分かった」と言って戻って行ったが、明らかに分かっていない様子だった。 人間が「色」と認識しているものは、幻に過ぎない。光の波長の違いを脳内で区別する機能が、「色の認識」なのだ。 もし異星人がいて、色を感じることが出来るとしたら、もしかしたら「赤」が青く見えていたりするかも知れぬ。 今、目の前に見えている「赤」が、本当に「赤い」のか。それを絶対的に証明する方法など無い。 しかし唯一、確かなことは、我々の目の網膜は3つの色の違いを感じ、その信号を混ぜ合わせて脳内で再構築するということだけだ。 要するに、自然界に存在する無限の色を、途中の経路でたった3つの色に分解し、それを再び脳の中で合成して仮想世界を作り出しているのだ。3つの色を通して、「金色」や「銀色」はおろか、「感動」すら伝えることが出来る。 落語家は、たった1人で会話を再現する。また、客の前で餅を食べるマネをする。しかしそれが、本当に2人で話しているように見えたり、本当に食べている以上にウマそうに見えるならば、表現者の伝達が、観ている者の脳内に働きかけていることになる。表現とは、そういうものだ。 ピカソの絵が、もし若い頃の写実的な表現のままだとしたらどうだろう。それは本物の写し絵に過ぎないのだから、本物を越えることは無い。いくらリアルに描けたとしても、本物よりもリアルになろうはずがない。だから、ピカソは心を描いた。それを観る者の脳内へ直接アクセスする方法を選んだのだ。あの大作、「ゲルニカ」は、ピカソの抗議する心を、観る者の脳内で投影させる。 写真は、止まった映像だ。しかも、小さな枠の中だけのものである。色も光も表現は限定されている。モノクロならば尚更だ。 しかし、このような限られた表現の中で、伝えることのできるものは無限にある。「動き」、「音」、「色」、「匂い」、そして、「想い」や「感動」さえも伝えられる。それはたった3種類の色で伝えられるのだ。 写真が、「真実を写し取る」ということばかりに心を奪われていると、我輩の写真のような、ただ写っただけの写真しか撮れなくなるだろう。 そう考えると、写真の無限の可能性に気付き、また同時に、写真の厳しさにも気付く。 ---------------------------------------------------- [029] 2000年 5月12日(金) 「表現 −補足−」 昨日の話題の補足について。 我輩は最近、人類がこの世に存在する目的というのは、「自分自身を知る」ということなのかも知れないと思うようになった。 <おっと、大きく出たな> もちろん、これは我輩の勝手な仮説に過ぎない。 ただ、そう考えたとすると、例えば、科学的知識が「物理的な自分」の仕組みを教えてくれるということには納得できる。どんなに沢山の知識を得たとしても、最大のナゾとは、自分自身なのだ。 「自分」とは、一体何者ぞ? 「写真を撮る」、「絵を描く」、「音楽を奏でる」云々・・・という行為も、自分自身の内側を明示したいという無意識の行動とも言えなくもない。 自分の作り出した作品を、自分の心の投影だとするなら、そこに何を見る・・・? ※ ここのところ、毎日のように雑文を書いているが、書くことがあるから書いているのであって、書くことが無くなったらペースを落としていくだろうと予想する。日付が連続しなくなっても、「手を抜いている」とは思わないで頂きたい。 それから、昨日から「カメラカタログ」のPDFファイルを印刷用データとしてアップしたが・・・どうだろう? カメライラストの細かい描写は、このPDFファイルからプリンターに出力したほうが断然いい。 しかし、どの環境でも開けるのか不安だ。まあ、書体が変わるのは仕方ないとして、全く表示も印刷も出来ないというのでは、作った甲斐が無い。 ---------------------------------------------------- [030] 2000年 5月14日(日) 「写真を遊ぶ」 写真というものが自分を表現するものであるということは前に書いたが、それは「作品」を残そうとする目的がある場合だ。しかし、趣味として写真をやる場合、楽しむということも重要であると考える。 カメラの性能が向上するにつれ、余計なことに凝ってしまうことがある。例えば、「後幕シンクロ機能」や「多重露出」など、カメラに備わっている機能は全て使わないと元が取れないと思っている者がいる。いや、本人もハッキリと自覚しているわけではなかろうが、無意識の強迫観念に囚われている。俗に言う、「貧乏性」というヤツだ。 「カメラに機能が備わっているから、とにかく使ってしまえ」というのでは、あまりに自分というものが無い。まあ、メカニズムを楽しむという点では良いかも知れぬが、そういう楽しみ方は、すぐにネタ切れとなる。そして、最新機種が出れば、すぐそれに飛びつくことになる。それを続けていると、ふと、空しい風が吹く時が来るであろう。「オレは本当に楽しんでいるのか」と。 写真を楽しめなくなったら、まず、自分の頭と手を使って遊んでみることだ。 数年前、ニコンから「ニコンおもしろレンズ工房」という限定生産のお手軽レンズが発売されたことがあった。3本のレンズ、「ぎょぎょっと20(20mm)」、「ぐぐっとマクロ(120mm)/ふわっとソフト(90mm)」、「どどっと400(400mm)」のセットだった。 このレンズ、実際に手に取ったことは無いのだが、写真で見る限り絞り環も無く、距離指標も見あたらない。我輩はこれを見た時、少年時代を思い出した。 我輩が初めて自分の一眼レフカメラを手に入れたのは、キヤノンAE−1だった。これは中古で手に入れたのだが、それでも1万5千円と、中学生だった自分には死ぬほど高価な買い物だった。当然、レンズは同時に買えなかった。 そこで、虫眼鏡か何かのレンズを使い、手作り交換レンズを作った。もちろん中学生の工作であるから、たかが知れている。レンズ鏡胴は厚紙で、カメラにはヒモで縛り付けた。かなり画面の端が円形にケラれて使いにくかったが、自分でいろいろ改良したりして、それなりに楽しめたものだった。 もう一つ、写真の遊び方がある。 それは、印画紙を使った写真撮影だ。フィルムの代わりに印画紙をカメラにセットし、撮影する。 大人の目から見れば、まさに「くだらない遊び」だが、やってみると結構おもしろい。 やり方だが、まずモノクロ印画紙をフィルム室に入るくらいの大きさに切り、それをカメラにセットする。もちろん、感光面はレンズの方向に向ける。この時、薄いシャッター幕に触れて破損しないように気を付ける。やるときはできるだけ安いカメラを使うほうがいいが、気を付ければ問題無いハズ。 印画紙の感度は低いので、撮影時はスローシャッターとなるだろう。 撮影後は、直ちにその印画紙を現像し乾燥させる。うまく行けば、ここでネガ映像が得られることになる。さて、このネガ映像を反転させて通常の写真と同じにしなければならない。 得られたネガに、新しい印画紙を向かい合わせて重ね、ネガの裏側から光を当てる。丁度、ベタ焼きを作る要領だ。 最後に、感光させた印画紙を現像すれば、通常の写真が得られる。 「印画紙を使った場合、感度はどれくらいになるのか」とか、「何枚も続けて撮りたい場合はどうするのか」とか、「ベタ焼きの時、カーリングしている印画紙をどうやって重ねるのか」といったような疑問はあると思う。しかしそれらの疑問には、あえて答えない。「遊び」なのだから、自分で試行錯誤や創意工夫することが楽しいのだ。 そうすれば、写真の楽しさの原点が見つかるかも知れない。(「知れない」と書いたのは、楽しむのはあくまで本人の感覚の問題だからだ。) ---------------------------------------------------- [031] 2000年 5月15日(月) 「プラモデル」 一昔前、いろいろなプラモデルがあった。 「飛行機」や「自動車」、「バイク」、「戦艦」、「戦車」、「拳銃」、「合体ロボット」、「大阪城」、・・・。中には、「扇風機」や「ステレオコンポ」もあった。試行錯誤の段階だったのかも知れない。 しかし不思議に思うのは、なぜかカメラのプラモデルが無いということだ。あれなら1/1スケールで、拳銃のプラモデルと同じだ。しかも拳銃は本物の採寸が国内では不可能だが、カメラなら国内で可能である。ともすれば、図面など引かずに現物の部品を使って金型(かながた)ができるかも知れない。昔は図面を引かずに木型だけで金型を起こしたことも多かったのだから、可能だと思う。 もし、今そういうプラモデルが作られるのなら、現在の技術でレンズ付きフィルムと同じくらいの写真が撮れると面白い(いくらなんでも無理か)。手始めに、気軽に買えないような高価なプロ用カメラからモデル化すれば、そこそこ売れそうな気がするのだが、どうだろう・・・? とりあえず、我輩が勝手に考えた、カメラプラモデルのスペックを以下に挙げておく。 レンズ着脱可能で、本物の交換レンズも装着できる。強度を保つため、マウントはABS樹脂製。 キット同梱レンズはクリアプラスチック製。プラスチックの屈折率に合わせるため、光学系は多少改良する。 シャッターユニットは簡易的なもの。また別売りで完成品のシャッターユニットも用意される。コストを抑えるため、シャッタースピードはどちらのユニットも1/125秒単速のみ。 最近は、ほとんどがプラスチックボディのカメラであるから、プラモデルでもそのまま本物っぽく見えるのが都合良い。 「東京マルイ」とか、「アオシマ」あたりで商品化してくれないか・・・? ---------------------------------------------------- [032] 2000年 5月16日(火) 「ハイブリッドカメラ」 デジタルカメラを使っていつも思うことは、「銀塩カメラにもCCDが内蔵されていたらなあ」ということだ。 もしそうなれば、露出決定に役に立つだろうと予想する。 今までのカメラなら、露出は露出計の指標を見て決める。数字を読み取り、そこから補正するとどれくらいの明るさに写るかということを頭の中で想像している。 しかし、CCDを搭載していれば、ファインダーは液晶画面に表示できる。そして、液晶画面に表示された映像の明るさを見ることによって、露出が合っているかどうかというのが一目で判ることになる。 ただ、液晶の画像の明るさがフィルムの仕上がりと一致していないとダメなのだが、それでも目安くらいにはなろう。 既にニコンF5などでは、露出決定にCCDを使っている。それを映像化に使っていないというだけだ。そう考えると、F5はデジタルカメラの気持ちが分かるに違いない。 「別に銀塩にこだわらなくても、デジタルカメラの性能が上がっていけば銀塩は廃れるさ。」 こういう意見もあるかも知れないが、やはりデジタルカメラには、以下に挙げるような問題がある。 ・画質が決定的に良くない。 画質を決定するのは、それを再生する機器の性能による。例えば、パソコンモニター画面で画像を表示させる場合、ブラウン管のドットピッチを超える緻密さは得られない。いくらデジタルカメラの画素が増えようが、画面の外にハミ出るだけ。「見えないところにこだわる」などと言ったところで、ハミ出たところは本当に見えないぞ。 ・大量の撮影が不可能。 フィルムなら100本くらい買えるが、メモリーは100枚買うのは難しい。例え金がいくらあろうと、店に在庫が無い。 ・電源が絶対に必要。 電気を使わないデジタルカメラなど、聞いたことが無い。しかも専用充電池ばかりで、どこでも調達できる乾電池が使えないことが多い。 ・レスポンスが異常に遅い。 スイッチを入れても起動に時間が必要。記録にも時間が掛かる。記録速度がアップしてもCCDの画素が増えていくので相殺される。 ・チャンスに弱い 大抵の機種では節電のためなのか、ある一定時間経つとスイッチが切れてしまう。レスポンスの遅さをカバーするためにスイッチを入れっぱなしにしようと思ってもダメなのだ。 ・パソコンが必要。 パソコンの操作(ハードウェアはもちろん、OSやアプリケーションソフト)や電子画像の基礎知識も求められる。 ・コストが掛かる。 画像のファイル容量が大きいと、パソコンの性能を拡張せざるを得ない。また、1つのデジタルカメラを何十年も使っていられない。本体の買い換えはもちろん、周辺機器などは全て買い直しとなってしまう。また、デジタル画像を写真にする場合、取扱店が都会にしか無く、交通費や時間が掛かる。これではデジタルカメラにした意味がない。また、プリンターによって自家製プリントに挑戦しようにも、画質や耐久性が悪すぎ、投入したコストに見合う結果が得られない。 これだけの問題がデジタルカメラにありながら、銀塩カメラが絶滅するというのは考えにくい。 この際、「デジタルカメラVS銀塩カメラ」という図式を見直し、互いの良いところを組み合わせてハイブリッド化したらどうかと思う。 しかし、なんだかんだ言ったところで、時代の流れは消費者が決めてゆく。いくらメーカーが銀塩を存続させたくても、売れなければ意味が無い。そう考えると、もっともっとウルサイ趣味人たちが増えていかねばならぬ。 ---------------------------------------------------- [033] 2000年 5月17日(水) 「気になるF100」 ニコンF100が欲しくなった。 「オイオイ、あれはモロに液晶表示カメラだろーが。」 確かにそうだが、とりあえずそんなことは考えないことにする(笑)。 きっかけは、F80の登場だ。 このカメラはよく出来てるみたいだ。まるで15年前のカメラのようだ(笑)。 まだ実際に手に取って見たことは無いが、いくつかの雑誌に紹介されているのを見た。地味とも言えるような機能が手を抜かずにしっかりと入れられているし、使えない新機能も無い。 AF一眼レフカメラが現れて15年、カメラはいろいろな機能を追い求め、ぐるりと1周してきたような感じだ。こんなカメラ、作ろうと思ったら、15年前でも出来たろうに。いや、技術的に難しい部分はもちろんあるだろうが、もし15年前の人間がこのカメラを見たら、これが西暦2000年のカメラだとは信じられないだろう。それならまだα−7000のほうが、ボタンピコピコで未来的な雰囲気だ。 話がそれたが、F80は普及機〜中級機にしては実にカメラっぽい。 「何も考えずに撮れるカメラが手元に1台くらいあってもいい」と思っていただけに、このF80がとても気になった。 しかしこのF80、巻き上げ速度が秒間2.5コマと遅い。モータードライブ装着のF3や以前使っていたEOS−630が秒間5コマ前後であることを考えると、少し不安だ。 巻き上げが遅いということは、シャッターの切れの悪さを予感させる。1秒間に何コマ撮れるかという要求はしないが、テンポが遅いと撮影に支障が出る。人物や動物を撮る時に、ちょっとした表情の変化を捉えるのには重要だ。えてして、気軽に撮るというシチュエーションは、人物や動物を撮る場面が多い。 そう考えると、F100か。 以前なら、自分とは全く関係無いと思われたカメラだったのだが、どうにもF100が気になって仕方がない。 AFとなると、レンズは全て買い揃えねばならぬ。24mm、50mm、135mmの3本は必要か。金銭的には、まず無理だな。F3、LXと続けて購入した後だから、金など無い。 しかし・・・F100が気になる。 あまり考えすぎると、今度はF100の不満点が見えてきて、F5がターゲットになるかも知れぬ。ここまで来ると、さすがに気軽に撮れるというわけにはいかないな。 ---------------------------------------------------- [034] 2000年 5月18日(木) 「フォトCD」 以前、自分の撮影したフィルムを、ヨドバシカメラを通じてフォトCD化したことがある。 その時の印象は、「ん〜、素晴らしい」だった。 先日、ふとしたことで、このフォトCDの画像を「アドビ・フォトショップ」で開いてみた。 その時の印象は、「ん〜、色が悪い」となった。 こんな色なら、自分でフィルムスキャナーを使って取り込んだほうがいい。正直、そう思った。 しかし、何か引っかかる。 いくら最近のフィルムスキャナーの性能が上がったり、我輩の色調整能力が向上しようとも、フォトCDが色褪せて見えるほどというのは、いくらなんでもおかしい。 しかし、何度見ても色がうまく出ていない。 そこで、別のアプリケーションソフトで画像を開いてみた。「アドビ・フォトショップ」よりも安いソフトだ。 すると、あの素晴らしい画像が蘇った。どういうことだ? よく調べてみると、「アドビ・フォトショップ」では、フォトCDのPCDファイルを開く時に、何かを聞いてくる。最初は英語の項目だからと、ロクに見もしないで「OKボタン」を押して読み込んでいた。しかし、これはカラーマネジメントの指定らしい。多分、ここで自分の環境に合った最適なカラーマネジメント用ファイルを指定しなければ、色再現性がうまくいかないのだろう。しかし、どれがいいのかさっぱりだ。 そこで、フォトCDについて調べてみた。 フォトCDは、スキャナが読みとったRGB情報を、フォトCD独自の「フォトYCC」という形式に変換して記録するという。 これは、RGBの3種類のデータを数学的に光度信号(Y)と、2つの色信号(C)に置き換える。人間の眼が光度信号には敏感なのに対し、色信号には比較的鈍感だということを前提とした処理であるらしい。 単純に画像を開くとは言っても、パソコンで見るからにはRGBに変換することになる。するとその変換時の方法が適切でないと、先に述べたような「色が悪い」ということになるのだろう。本格的なソフト「アドビ・フォトショップ」では、細かい指定ができるだけに、どれを選べば良いかが分からなくなった。皮肉にも、1万円弱のグラフィックソフトで読み込ませたほうが、何も聞かれることなく綺麗な画像を表示する結果となったわけだ。 昔のバージョンの「アドビ・フォトショップ」ではそんなことは無かったと思ったが、機能が細かくなった結果、このようになったものと思われる。もしそのことに気付かなかったら、我輩の中でのフォトCDの評価はかなり下がっていたことだろう。 フォトCDの画像を眺めながら、「やはり、フォトCDのクオリティを自分で出すのは、まだまだ先だな」と再認識した。 (以前、ウチの会社に「フォトCDシステム」なるもののカタログが回覧されていたが、そのシステムの値段は確か1千万近くしたと記憶している。もしその記憶が確かなら、個人でフォトCDを作成するのは残念ながら不可能と言える。) ---------------------------------------------------- [035] 2000年 5月19日(金) 「シャッター押して下さい」 実は昨日、東京ディズニーランドへ行って来た。 「雨」、「平日」、「ゴールデンウィーク後」という条件が重なり、東京ディズニーランドにしては空いていた。 それにしても、見ているとディズニーランドのスタッフというのは大変だな。仕事とは言え、「シャッターを押して下さい」と頼まれている光景をよく見掛ける。 我輩も、目立つ色のカメラ(F3/T白)を持っているとよく声を掛けられる。 「シャッターを押して下さい」 本当は断りたいのだが、我輩は頼まれ事を断るのが苦手だ。そういう場合は、ツレに肩代わりしてもらう。 「え、あなたが撮ってくれるんじゃないんですか?」 という目をしているような気がしてならないが、おまえらの記念写真ごとき、我輩が撮るまでも無い。どうせ、写ってりゃいいんだろう? しかし、どうしてこうもカメラを持つ人間をターゲットにするのか? 一眼レフカメラを持っているというだけで、声を掛けられる確率が高くなる。我輩が明らかに撮影中だというのに声を掛けてくるヤツもいた。 「1回くらい良いじゃないか」 そう思うのは勝手だ。しかし、それぞれが1回のつもりでも、我輩にとってみれば修学旅行同行の写真屋になったような気分だ。いちいち、記念写真ごときで人を選ぶな、と言いたい。しかし1人1人にそんなことを言ったとしても、国民全員に周知させることは出来ぬ。 無念。 その点、我輩は人の手を煩わせることはしない。広角レンズのF3を片手に持ち、その手を伸ばして自分たちに向けてシャッターを切る。「セルフタイマー」ならぬ「セルフレリーズ」だ。持ち方の関係上、カメラが逆さまになるが、仕上がりには関係無い。不思議と今までに失敗したことが無いし、表情も堅くならないのがいい。全身は撮れないのだが、いろいろな荷物を持った姿を全部写すよりもいいと思っている。 しかし本当にシャッターを押してもらいたいなら、やはりスタッフに頼む。それが仕事の1つなのだからな。 ---------------------------------------------------- [036] 2000年 5月22日(月) 「安けりゃいいのか?」 今でこそデジタルカメラの出番が増えてきたのだが、やはり屋外で撮影するのは銀塩カメラのF3だ。 電池の心配も無く、必要とあらばフィルムも現地調達が可能である。 最近、フィルムスキャナーによるパソコンでの取り込みが増えてきたため、ネガでもリバーサルでも同じように使えるようになった。そうなると、扱い易さや手に入り易さ、現像の上がり時間を考えると、自然とネガに傾いていく。 しかし困ったことに、フィルム現像料金が異常に高い。「プリント料0円」というところが増えてきているが、単にフィルム現像料金に上乗せされているに過ぎない。どうせフィルムスキャナーで読み込ませるのであるから、サービス判のプリントなどゴミになるだけだ。中には、「インデックスプリント」というものを強制的に抱き合わせ、高い現像料金を請求するミニラボもある。 「同プリ(同時プリント)のほうがおトクですよ」 知るか。いくらトクでも、必要無いものまで要求しようとは思わぬ。写真などという、自然環境システムに悪影響を与える趣味を持っているのだから、少しでもその影響を軽くしたいと思っている。オマエはそうは思わんか、受付のアルバイト君よ。 ヨドバシカメラのような大きな所は純正仕上げに回すらしく、フィルム現像のみでも余計なことはしてくれない。しかし、フィルム現像ごときで電車を使って上野まで行くのもバカらしい。結局、上野へ行く別の用事ができるまで、現像は出せないのだ。 しかし、「プリント料0円」などという妙な競争がはじまったのも、消費者がバカであるからだ。 過去にも同様な競争があった。 例えば、「望遠であればあるほど素晴らしい」という風潮があった時期、特にコンパクトカメラが異常な競争を繰り広げた。まるでゾウの鼻のように、レンズが伸びる伸びる。そういうカメラに限って、開放F値は書いてない。書けないほど暗いレンズだからだ。 それから、高機能を詰め込む競争もあったな。カメラを買った本人さえ、自分のカメラにどんな機能が付いているか把握できていない。我輩が教えてやると、「こんな機能もあったのか」と驚く。オイオイ、それがこのカメラのウリじゃなかったのか? 諸君が考える以上に、世の中、バカ者が多い。 そもそもプリント写真は、よほど注意深く焼き付けなければ満足な結果は得られない。撮影者がシャッターを切った後も、まだまだやる事は多い。とてもエネルギーの要ることだ。それこそ、写真店の店主と友達になるくらいコミュニケーションがとれていなければ、満足出来るような色は出ないだろう。 逆に、美しいプリント写真を持っている者は、かなりの達人と言える。 しかし、「プリント料0円」というのは迷惑な話だ。ちょっと前の生命保険のように、それ以外のコースは全てが「特殊」とされ、不自由を強いられる。 聞いた話だが、同時プリントに出したらネガにキズが付けられ、クレームを付けると「お客さ〜ん、プリント料0円だらね〜。そんなところまで保証してないんだよ。」とタメ口で言われるそうだ。全てがそんな店ではないにしろ、やはり店側の意識が低下していることを象徴している。 安けりゃいいとでも思っているのか? ---------------------------------------------------- [037] 2000年 5月23日(火) 「ネイチャー・フォト」 自然を撮る、それが「ネイチャー・フォト」。 「美しい」と感動することは、我々が写真を撮る時の動機の1つだ。 自然とは、美しいものである。 ここで、なぜ自然を「美しい」と感じるのかを考えてみる。異論はあるかも知れぬが、あくまで我輩の考えの範囲だということを付け加えておく。 自然とは、自然法則の具現化したものだ。それはあたかも、風が砂丘に風紋を残すかのようなものと言える。風は目に見えない。しかし、目に見えないものが形を作る。風紋とは風の残した足跡である。風紋を見ることによって、目に見えない風を感じることができるのだ。 自然法則は、「ここにある」と指し示すことは出来ない。目に見えないが確実に存在する。そしてその自然法則が、あたかも砂丘に風紋を残すように、自然景観を形成する。生物であろうと、無生物であろうと、そこには自然法則の具現化した姿がある。 我々が自然に美しさを覚えるのは、景観の背後にある普遍的な自然法則というものに触れていると感じさせるからだ。 また、自然とはシステムである。激流のようなダイナミックな「動」を見せる時もあれば、数百万年のサイクルを持つ山の造形のような「静」の断片を見せる時もある。いずれにせよ、我々人間の目にするものは、自然法則の断片的な姿、「風紋」でしかない。そこに想像力を込めて、シャッターを押す。人間の偉大さとは、その断片から全体を推し量ることができるということである。それゆえ、その写真を見る者の想像力をかき立て、場合によってはその場所へいざなう原動力となりうるのだ。 人間の感覚や感情は、動機付けに支配されている。 「痛み」は危険を避けるため、 「空腹」は食事を摂らせるため、 「怒り」は敵を排除するため、 では、「自然に対する感動」は・・・? 自然に感動するのは、人間が本能的に持っている、自然システムへの帰巣本能ではなかろうか? システムの中に入れない動物種というのは、いずれ絶滅する。それは自然であり、不自然ではない。その意味からも、人間が自然に感動するという本能は大切にしたいものである。もし自然に感動する事がなくなれば、それこそ、人類の、種としての寿命なのかも知れぬ。 ---------------------------------------------------- [038] 2000年 5月24日(水) 「心のカギ」 人間の記憶の仕組みというのは、連想式である。 1個のニューロン(神経細胞)が1個の記憶に対応しているわけではなく、ニューロンのネットワークの形が、1つ1つの記憶を持っている。故に、ある1個のニューロンに注目すると、いくつもの記憶に関わっていることになる。これは、メモリベースのアーキテクチャとしての、脳の特徴的な性質と言える。 (※メモリベースアーキテクチャ=パソコンなどのようなノイマン型のプロセッサベースの処理系ではないメモリベースの処理系) 今書いたことは、「1つの事柄に関連して別の記憶を呼び覚ます」ということの、大脳生理学的な説明とされる。 例えば、ある音楽を聴くと昔の懐かしい想いがよみがえるとか、みそ汁を食べるとお袋の顔を思い出すとか、ある香水の匂いを嗅ぐと、昔の片想いの女性を思い出すとか。 それら関連付けは、各個人によって様々だ。しかし、1枚の写真が、見る者によって違う印象を与えるということは当然である。そういう意味で我輩は、見る者の心の扉を開けるきっかけとなる、「心のカギ」となるような写真を撮りたいと願う。 単にキレイな写真ではなく、心の奥に潜む、忘れられた記憶を、脳に直接働きかけて引き出すような写真−−−。 そういう写真は、具体的にはどんな作品になるのかは分からない。また、永遠に到達出来ないかも知れない。しかし、求める先には必ず存在するハズだと思っている。 ---------------------------------------------------- [039] 2000年 5月25日(木) 「F4のペーパークラフト」 ニコンF4が発売された当時、ニコンが「ニコンF4ペーパークラフト」を作った。 それは少数しかなかったためか、カメラ雑誌の読者プレゼントとして出回ったくらいで、ほとんど知られていないと思われる。 しかし、あのアイデアはなかなか良い。 例えば、カメラのカタログの1ページに、その製品のペーパークラフトを掲載すれば、購入を検討している人間が実際に立体物を手にして検討することができる。 我輩は学生の頃、ミノルタAFレンズ、200mmF2.8レンズを買おうか迷っていた。写真で見るそれは、かなり大きく感じた。白レンズはどうしても大きく見える。 ところが実際に、製品サイズ通りにボール紙で工作したところ、思ったよりもコンパクトであることが分かった。そして、そのことが購入を決意させることとなったのだ(その後、ミノルタからキヤノンに切り替えたので購入には至らなかった)。 このように、ペーパークラフトというアイデアは、メーカー側としても、販促用の企画としてのメリットは大きいと思う。カタログは紙質も良く、ペーパークラフトには最適だ。 パパの作ったペーパークラフトを子供が遊び、未来のユーザーを育てることにもなる。ペーパークラフトなら、安心して子供に与えられるだろう? 一度はF4のペーパークラフトを作った実績があるのだから、また作れるだろうに。あとは印刷行程に回せば、あっと言う間だ。 何か出来ない理由でもあるのか? ---------------------------------------------------- [040] 2000年 5月26日(金) 「見慣れた新しい風景」 人間の視野は、横に広く縦には狭い。特に、上部の視界は下部より狭い。 ニコンF3のファインダーで、ファインダー内情報が小さいくて見にくいという批判が発売当初から言われていた。 見にくい理由は「表示が小さい」というだけではなく、その表示が「画面の上枠に位置している」ということも原因の1つだ。 我輩が毎日通る通勤路は、いつも見慣れた風景だ。 しかし昨日、ふと上を見上げて驚いた。そのビルの2階には麻雀荘があった。大した発見ではないが、我輩の知らぬ風景が、こんな手の届くような範囲にあったということが新鮮に思えた。普通に歩いていると、いかに視野が狭くなっているかという証拠かも知れない。 普段歩き慣れた道は、特に何も考えることなく風景が過ぎてゆく。 アングルを変えると、そこは日常とは違う映像がある。 それは、どんなに身近で見慣れた場所であっても、見方を変えれば必ず発見があるということだ。 意識的にそれをさせてくれるのが、カメラだと思う。 戦場カメラマンは、カメラのファインダーを覗けば恐怖心が消えてしまうという。 この場合、それとは少し性質が違うが、カメラというのはそこまで人間の心理を変えてしまうということを示唆しているのは間違いない。 カメラを持って「探し回る」ことも、新しい発見を促す小道具として重要だと我輩は考える。 カメラを持っていればこそ気付く世界もあっていい。 そういう意味では、カメラというハードウェアも、人間の気持ちを高めるようなカメラであって欲しい。 ところで話は変わるが、今日、ニコンF4を借りた。 さっそく外観撮影をしてホームページに反映させようと思っている。 ---------------------------------------------------- [041] 2000年 5月28日(日) 「フォトCDの再認識」 先週、久しぶりにフォトCD仕上げをヨドバシカメラで依頼し、昨日受け取った。 実は、我輩はこの仕上げを楽しみにしていた。 写っている写真そのものではなく、フォトCDの実力が分かるからだ。 今回、フォトCDの書き込みを依頼した写真は、3年ほど前にもフォトCD化したものと同じ写真だ。 これで比較をしようというわけだ。 我輩はフィルムスキャナーを使って写真を取り込むことがある。しかし、ネックは取込み時の調整である。 いかに優れたスキャナーであろうとも、そのドライバソフトの出来や、オペレータの調整の具合によって、満足できる結果を得るのは難しい。前の晩に取った画像が、次の朝見てみると変な感じだったということもある。必死になってやればやるほど、色の偏りやガンマ値の変化に自分の目が慣れてしまう。 当然、3年前に自分で取った画像で気に入らないものもある。当時は満足できていたにも関わらず・・・。 さて、フォトCDの結果だが。 なんと3年前のフォトCDと現在のフォトCDでは、違いがほとんど見られない。多少、明るさが違う写真もあったが、左右に並べてみなければ気付かない程度だ(ディスプレイによっては、画面の左右で輝度が違うようなものもあるので注意が必要だが)。 まあ、それが商売なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、それこそ当たり前のように色が変わる「プリントの焼き増し」に比べれば、ほとんど感動的と言っても良い。 よほどしっかりした調整基準があるのだろうと想像する。 まあ、今回のケースは、たった1度のテストであるため、テストの信頼度はどれくらいあるか分からない。しかし、それでも十分見直したぞフォトCD。 フォトCDを10枚(写真1000枚)作ると、フィルムスキャナの価格くらいにはなる。さて、どちらがお得かな? ただ、納期が1週間というのは、ちょっと長すぎるような気がするが・・・。いやいや、自分でスキャンする手間を考えると、満足できるか。 ※フォトCD10枚(マウント入りのリバーサルフィルム1000枚)の価格 取込み料 1,000カットx@120=120,000円 ディスク料 10枚x@1,000=10,000円 基本料金 10枚x@500=5,000円 消費税 6,750円 合計 141,750円 ---------------------------------------------------- [042] 2000年 5月30日(火) 「マニュアル露出」 我輩はマニュアル露出で撮影することが多い。絞りとシャッタースピードを、ダイヤルによって自分で設定するのだ。一見、「露出を自分で判断して、自分で設定する」という積極的行動のようにも見えるかも知れない。しかし本当のところは、「余計な事を考えるのがめんどくさい」だけなのだ。 我輩は、とにかくめんどくさいのがキライだ。頭を使って効率良くやるということよりも、手間が掛かっても従来の方法を通したくなる。これは理由などない。好き嫌いの問題だ。 AEは、自動的に露出を設定してくれる。しかし、万能とは言えない。いや、仮に100パーセントの確率で露出が当たったとしても、それはあくまでも標準的な露出であり、撮影者の意図する露出であるかはまた別の問題だ。正解は1つではない。 照明光が一定の場合、露出などは1度決めればあとは似たようなものだと思っている。それが「我輩の適正露出」である。状況に応じて再測光することはあるが、同じシーンで何度も測光することはしない。そして、そのためにマニュアル露出を使う。 我輩にとってのマニュアル露出とは、「露出設定を任意の点で固定させる」という意味でしかない。そして、これが気を使わないで済むことに繋がる。 普通なら、 「おっと、画面内に強い反射光が入ってきたな。このカメラは分割測光だから特に気にすることもないだろう・・・まてよ、なんだか露出値が変わったような気がするな。やっぱり影響したのか? よし、ここはスポット測光に切り替えて・・・、いやいや、露出補正のほうがいいかな?」 などと余計なことを考えてしまう。もし我輩なら、考えすぎて確実に失敗する。 それなら、最初の測光値で露出を固定しておき、必要に応じてシャッタースピードを前後させるほうが分かりやすい。その都度測光した値に補正を掛けるなどという芸当は、我輩にはとてもとても・・・。 こんな言い方では皮肉に聞こえたかも知れないが、今回に限っては、他意は無い。 AEロックや、露出補正、スポット測光などは、使いこなせれば便利かも知れぬが、その便利さを知らなければ、苦労も苦労とはならないのだろう。 よくF3は露出補正がやりにくいと言われる。少なくとも、露出補正の便利さは知らないほうが良さそうだな。 ---------------------------------------------------- [043] 2000年 5月31日(水) 「サルマネか?」 AFカメラには、ハッキリした特徴がある。 それも、我輩から見ると必然性を感じないような特徴だ。 <AFカメラの一般的特徴> プラスチック製ボディ シボ皮無し ストラップ用の耳輪の代わりに、ストラップ通しの金具が付いている レリーズボタンには、ケーブルレリーズ用のネジ穴が無い 外部ストロボ用シンクロソケットが無い これらの点について、「AFだから構造上必ずそうなる」というものではない。しかし、今まで発売されてきたAFカメラの特徴は、よほどの高級機ではない限り、どれもこの範囲から外れることは無かった。 逆に、MFでありながら上記の条件を満たしているもの(たとえばリコーXR−10P)については、「AFモドキ」だと言われてしまう。おかしな話だ。 まさか、上記の条件に適合しないと、AFカメラとして認定されないというISOの国際規格でもあるのか。 我輩は、「AFというのはあくまでもカメラの一機能でしかない」という認識を持っている。だから、巻き上げレバーのついたAFカメラもあってもいいと思うし、ケーブルレリーズ用のネジ穴が付いているAFカメラが、もっとあってもいいとも思う。 機能はともかく、少なくとも操作性においては、まるで「業界の取り決め」があるかのように思える。 まあ、プラスチック製というのは、エンプラと呼ばれる強化プラスチックが広まってきたという技術的な背景もあるだろう。しかしシボ皮を廃止してわざわざ滑りやすくし、ストラップ用金具はストラップを絡ませ、ケーブルレリーズが使えず、専用リモコンが必要となってしまうということが、果たしてAFカメラとしては避けられないことなのか。 一体、なぜこんなことになるのか、我輩の理解を超えた世界である。日本お得意の、他社のサルマネなのか・・・? 誇りを持って仕事しろよ、設計者。 ---------------------------------------------------- [044] 2000年 6月 2日(金) 「学力低下」 今、教育が危ういらしい。 特に、論理的思考を要求する算数・数学の面では、「ゆとり教育」の一環として、授業内容の大幅な削減が行われるという。 例えば、台形の面積の公式は削除され、円周率「3.14」は「3」となる。 「3.14」が「3」になった場合、当然、円の面積や球の体積の誤差が大きくなる。いくら「パイ」を使ったところで、計算の最後で「パイ=3」と置き換えてしまったら、同じ事だ。 精度の高い答を追求するよりも、なるべく楽をしようとするような安易な人間が大量生産されるようになったら、我輩は迷惑だ。 「他人のことなど関係ない」と達観できれば良いが、人間というものは、社会で結びついている。意識せずとも、必ず影響を受ける。 最近、引伸し機にはあまり良いものが無いと言う。一般の人間は、高級なカメラは持ってはいるが、引伸し機には無頓着だという(我輩もその中に含まれるが)。 引伸しという作業は、ある程度は写真に「入れ込んだ」人間がやることである。しかし、現実には我輩のような中途半端な者が多く、引伸し機への要求スペックは極端に低い。当然、要求スペックが低ければ、メーカーも余計なコストを掛ける意味を失い、品質は低下することになる。 一眼レフカメラの場合、何が要求されるだろうか? それは、現在の製品群を見れば、何となく分かるような気がする。 昔は、一眼レフというのは誰にでも扱えるような代物では無かった。使う人間を選ぶ道具だった。 それだけに、一眼レフを使うために努力し、知識を増やして行った。うまく写らなければ、それは使い手が未熟なだけなのだ。 しかし、今は一眼レフなどは、特に写真の知識が無い者でも気軽に買っている。簡単で、値段も安い。しかしその分、うまく写らないということがカメラのせいにされることが多くなった。自分の知識の無さは省みられることはない。 そういう連中が、全体的なカメラのレベルを下げていることは間違いないだろう。 使い易いということよりも、「シロウト受けするデザイン」、「恥ずかしいネーミング(「EOS接吻」、「α−甘い」など)」、「電子手帳並みの多機能」、「異常なまでの軽さの追求」という、いわゆるトレンドを追いかけているのだ。 当然、製品のサイクルが短くなり、それに巻き込まれて貴重なモデルさえ失うことになった。 これから、日本はどうなるのか? 社会問題には関心無くとも、カメラの進化はどんどん安易な向きへ変わり、確実に趣味の世界へ影響を与える。 憂うべきことだ。 「学力低下など関係無い」などとは言ってられないぞ。 (2004.04.13追記) 円周率=3の騒動について、結局これはマスコミによるデマだったらしい。まったく人騒がせな話だ。 それにしても円周率は無理数であり、小数点以下どこまで行っても終わりは無い。そのことを表す唯一の手掛かりは、「.14」の部分である。もしも円周率=3として切り捨てるならば、円周率は3.0なのかと理解してもおかしくない。 重要なのは円周率を覚えることよりも、円周率がキッチリとした整数ではないことを知ることである。 我輩は小学生の頃、円周率を3.141592653589793238462643383279502884197169399375105820まで覚えた。これは、何かの雑誌に載っていたので、これ以上載っていたらもっと覚えていたはず。 小中学生の頃は、人を驚かせたり自慢したりするために覚えることは苦でも何でも無く、単に自慢するためのネタとして頭に仕込んでおいたものだった。今でもスラスラと言えるのは本当に驚く。 我輩は円周率=3.14によって、「円周率の割り切れない数の神秘性」と「人間の記憶力」の2つを学んだ。 得たものは大きい。 ---------------------------------------------------- [045] 2000年 6月 4日(日) 「やってみなければ分からない」 なんだかんだ言ったところで、やってみなければ分からないことがある。 我輩が初めて自分で現像・引伸しをしたのは、中学の時だった。 現像というと、難しくて面倒くさそうなイメージがある。そして金もかかりそうだ。 しかし、中学校の暗室で初めて現像を体験した時、画像が浮かび上がってくるというおもしろさに引き込まれた。 「こんなことなら、もっと早く使っていれば良かった。」 我輩がリバーサルフィルムを初めて使ったのは、中学か高校くらいだったと記憶している。 それまではリバーサルフィルムというのは特殊な用途としか思ってなかった。描写は美しいが露出が難しく、主にプロが使っているらしいという情報しか無かった。 しかし、試しに一度使ってみると、その映像の美しさに息を飲んだ。プリントでは得られない透明感。緻密な描写。小さなスライドマウントを明かりにかざし、時を忘れて眺めた。 「こんなことなら、もっと早く使っていれば良かった。」 我輩がAFカメラを初めて使ったのは、大学の時だった。 それまでは、AFなどオモチャにしかならないと思っていた。 しかし、シャレで買った中古のミノルタα−7000が思いのほか性能が良く、身を任せることもできた。 「こんなことなら、もっと早く使っていれば良かった。」 我輩が中判カメラを初めて使ったのは、社会人になって1年後だった。 中古カメラ店で1万円で手に入れた二眼レフカメラ「ビューティーフレックス」である。 それまでは、中判カメラは大きく、取扱も面倒で、金食い虫だというイメージがあった。しかし、最近の35mmカメラと比べてもそんなに大きいというわけではなく、取扱もむしろシンプル。色々なオプションのある35mmカメラよりも金は掛からない。 リバーサルで撮影したものを現像に出し、その仕上がりに驚いた。ただ画面が大きいというだけでなく、緻密で驚くほどの階調の豊かさだ。 「こんなことなら、もっと早く使っていれば良かった。」 我輩が具体的に言える範囲はこの程度だが、まだまだ「もっと早くやっていれば良かった」というようなことは、これから先もあるに違いない。 歳をとればとるほど、腰は重くなっていく。だからこそ、考える前に1度はやってみようと思う。 諸君も負けずに自分の世界を広げて行って欲しい。 ---------------------------------------------------- [046] 2000年 6月 5日(月) 「フォトCDの失敗」 以前、フォトCDを見直したというようなことを書いたが、今回はその逆だ。 つい先程、フォトCDの整理をしていたら、その中の1枚にピントが合っていないものを見つけた。多分、スキャン時にフォーカスが合っていなかったのだろう。 「原版がピンポケだったんじゃないか?」 そういう疑問はもっともだが、3つの理由で否定できる。 まず、原版を見れば分かる。ルーペで覗いてみるが、ピントぴったりだ。 2つめに、16BASEの最大画像を見てみると、フィルムの粒子までもがボケているのが分かる。 そして最後に、同じものを3年前にフォトCD化していたのだが、その画像はシャープそのものだ。 このような事故は、過去にも遭遇したことがある。 それは、業務上の理由でフォトCDを20枚近く作ったことがあったが(数回に分けて依頼した)、その中の1カットがモノクロになっていたことがあった。完全に色が無いのである。 クレームをつけようかとも思ったが、あまり影響のないカットで、面倒くさくもあり、そのままにしておいた。 それから、たまに縦横が違うものもあった。 フォトCDは、縦画像は縦に、横画像は横にしてくれる。しかし、たまに気がゆるむ時があるのか、縦横が合っていない場合もあるのだ。まあ、その場合は使う側がレタッチソフトで90度回転させれば済むことだが。 このようなケースを考えると、フォトCDというのは、人間が1枚1枚やっているわけではなさそうだ。もしそうなら、手焼きのプリントのように、コストが掛かってしまうだろう。 しかし、少なくともチェックくらいは人間がやって欲しいと思う。これは、フォトCDに対して期待を込めた要望だ。 ---------------------------------------------------- [047] 2000年 6月 6日(火) 「実際の製品とは異なります」 女性のポートレートは、露出を多少オーバー目にして撮るのが一般的だ。しかし、何事も限度というものがある。中には、露出オーバーすぎて、鼻の無い顔に写っていることもある。「鈴木その子状態」だ。 よく広告のポスターやアイドル写真集などにも見かけたりする。あのような写真は、見過ぎると食傷気味になる。 我輩は過去に何度か見合いをしたことがある。「日本庭園のある料亭で」というようなものではなく、もっとラフな見合いだが。 写真は、昔のように着物を着た姿を写真館で撮るのではなく、スナップ写真など使うことも多くなった。しかし、たまに雑誌のグラビアのような写真を撮ってくる女性もいる。たいてい、それは露出オーバーで顔の階調がトンでいる。なるほどキレイに見える。しかし、真実というのは1つだ。当の本人に会うと、写真が全く意味のないものだと気付かされる。 見合い写真というものは、第一印象を決める大事なステップだ。しかし、実際に会う時の第二ステップで写真との落差があれば、それはむしろ悪影響をもたらす。いや、逆のことも考えられる。鈴木その子状態が嫌いな男性であれば、いかに実物がそうでなくても、写真の段階で「縁が無かった」こととなるのだ。外見にこだわらなくても、落差というのは不信感を生む要素の1つとして、人間の無意識の領域に条件付けされる。無意識に支配される判断というものを侮ってはならぬ。 見合い写真を美しく撮るなら、その人の良い面を引き出して撮るべきだ。露出をオーバーにしてソバカスやシワを消すよりも、それがチャーミングに写るように努めるほうがいい。それは、本人のためでもあり、相手のためでもある。そんな女性がいいという男性もいるハズだ。別人のように写しても、本人が別人になれないなら意味は無い。 もしそれができずに、鈴木その子状態にこだわるのなら、写真には次の一文を加えておくことだ。 「カタログの写真は実際の製品とは異なります」 ---------------------------------------------------- [048] 2000年 6月 7日(水) 「それは絞りの形だぞ」 レンズの絞りの形というのは、たまに世間を騒がせることがある。 我々がよく、「円形絞りが・・・云々」というのは、絞りの形がボケ具合に影響することを気にしているからである。 絞り機構の製造はなかなか難しく、絞りを構成する「絞り羽根」の枚数によってコストが増減するという。一般に、絞り羽根の枚数を多くすれば、多角形の絞り孔も円形に近付く。すなわち、コストが掛かっていないレンズには円形絞りは望むべくもないということになる。 「月刊ムー」という雑誌に、「日食観測中に撮られた十字架の写真」というものが掲載されたことがあった。これは、日食の様子を写真に撮ったら、そこに十字形の光がオーバーラップして写っていたというものだ。紙面では、「これは世紀末における神の啓示だ」とかなんとか言っていたような気がするが、後日この写真は別の雑誌によって否定されてしまった。 要は、安いカメラで太陽を撮った時のゴーストが写ったというのだ。太陽を撮るということは、すなわち逆光ということであり、ろくにコーティングもされていないレンズでは容易にゴーストが発生する。ゴーストは、一般的に絞りの形が出るのであるが(五角形のゴーストはよく見掛ける)、そのカメラは安物であったため、2枚の絞り羽根しか使っていないものだった(下図参照)。 2枚羽根絞りの動き <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> <<画像ファイルあり>> お分かりだろうか、ちょうど十字形の絞りが現れる位置があるのだ。 他にも、心霊写真の中には「五角形の霊光が出た」というものもあり、それはまさしく一般的な五角形の絞りの形のゴーストだった。・・・まあ、「ゴースト=お化け」という意味だから、間違ってはいないとも言えるが・・・。 最近は「矢追純一のUFO特集」や、「奇跡体験アンビリーバボー」などでも間違いが多い。 「アメリカ△△△州で捕らえられたUFOのビデオ映像」と題して、UFOの映像がテレビで流される。そこにはまず、点光源が空に浮かんでいる。撮影者がズームしたのか、ググッと映像が大きくなる。すると、その点光源が形をもった物体として映し出される。 しかし、よく見ると何か変だ。 まず、UFOの形が変だ。いくら光っているとはいえ、あまりに平面的なのだ。これは直感的な感想であるから、どこがどのようにという具体的な説明はできないが、とにかく最初に違和感を持つ。 それから、ズームの速度と物体の大きさの変化が一致していないという点だ。ズームは一定の速度で画面を拡大しているはずなのに、UFOの光がある地点で急激に大きくなる。 このことから考えると、この光はあくまでも点光源なのだ。点光源はどんなに拡大しようと形にはならない。夜空の星を望遠鏡で見ても点に変わりないのと同じことだ。恐らく、この光源はかなり遠方にある。 では、なぜUFOの形に見えるのか。それは、ビデオがズームアップして、フォーカスを合わせる目標を失ったため、ピントがボケてしまったのだ。AFというものはコントラストの無い画面ではピントを合わせることが出来ないから当然だ。そのため、点光源がボケて拡大され、見事にビデオの絞りの形が現れてしまったのだろう。よく見ると、UFOの形は、典型的なビデオの絞りの形をしている。 (まあ、点光源がUFOであるかどうかは別の話だが) この番組では、「別の地域でも同じ形のUFOが映像として撮られた」と言っている。ビデオカメラの機種が同じなら、UFOの形が同じに写ってもおかしくはない。 驚いたのが、映像の専門家という人間がその番組に出演し、映像を検証していた点だ。 「これは確かにその場所に何かの物体が存在したとしか考えられませんね。」と言っている。 専門家と言っても、専門バカだ。正しい結論を出すには、広い知識が要求される。単にビデオカメラを使うのが上手いからといって、その人間がビデオカメラのメカニズムに精通しているとは限らない。 ---------------------------------------------------- [049] 2000年 6月 8日(木) 「写真の価値が無くなる日」 フォトレタッチソフトの代表は、「アドビ・フォトショップ」だ。 (※Photo-retouch=写真修正) 画面上のゴミの除去や、露出の微調整、ガンマ値の調整がパソコン上で可能となる。面倒な暗室テクニックも必要無い。 最近では、「ソラリゼーション」や「ガンマ値」、「アンシャープマスク」という用語も、もはやパソコン用語として使われている。 そこで終われば良いのだが、勢い余って合成写真なども簡単にできる。 極端に露出がハズレた写真は階調がツブれる原因になるので救済は難しいが、フレーミングの調整はパソコンの得意分野である。画面の端に邪魔なものが写っていたり、画面が傾いていたりしても、すぐに修正ができる。 これは、やむを得ない場合の救済としては大いに役立つはずであったが・・・。 最近どうも、写真というものの信頼性が薄れてきているような気がする。 昔なら浮気の現場を写真で押さえられたら言い逃れはできなかったが、今なら「それは合成写真だ」と言い張ることもできる。逆に、身に覚えのないことで名誉を傷つけられることもあり得る。CMの映像の中では、ゴルバチョフ元大統領と一芸能人が共にカップラーメンを食べる時代なのだ。 将来的には、合成画像を簡単に写真フィルムに書き出すこともできるようになるに違いない(業務用の装置は存在する)。そうなれば、何が本物の映像なのか分からなくなってしまう。 見栄えの悪いものは隠され、理想と現実の乖離(かいり)が進む。ありのままの写真が肩身の狭い思いをする日も近いかも知れない。そうなれば、未修整の写真は、単なる「素材」として扱われることになるだろう。 ありのまま写った写真に価値が無くなる日が、いつか来るのだろうか。避けられないことなのかも知れぬが、写真を撮る者として、ふと空しさを感じる。 ---------------------------------------------------- [050] 2000年 6月 9日(金) 「買うモノが無い」 先々週、思わぬ臨時収入があった。 当然、ニコンのカタログを見る。 ニコンのカタログを見ると、MFレンズのラインナップがかなり縮小されている。気になったレンズも、最新のカタログで確認し直すと「生産中止」。 欲しいモノは、既にこの世に無し・・・か。無念。 あらためて見ると、いつの間にか専門分野のレンズが消えている。「メディカルニッコール」や「ノクトニッコール」、「UVニッコール」、「全周魚眼レンズ」、「受注生産の巨大望遠ズーム」はもう無い。確かに現実の世界ではお世話になることはないであろうレンズ群だが、その「専門家志向」にニコン臭さを感じていたのも事実。それらのレンズが消えたのはかなり前のことらしい。 まさかまとまった金がいきなり入るとは思わなかったので、今までそちらへは注意を向けていなかった。 ならば、カメラボディを考えるか。しかし、現行カメラでは、欲しいモノが無い。F3は腐るほどあるし、FM2は使い道が考えつかない。FM10やFE10程度ならば、金の無い時でも買える。AFカメラも、必要と言えば必要なのだが、心から欲しいというわけではない。 チラリとD1の存在が気になるが、アレを買ったらAFレンズまでは買えない。それに、この秋にはEOS型のデジタルカメラが三十数万円で発売されるらしい。 中古カメラはどうか。 今しか買えないモノと言えば・・・「F3/H」、「F2チタン」、「FAゴールド」か。しかし・・・、それこそ使い道が無い。まあ、目の前にあれば買ってしまうかも知れないが、わざわざ探してまで買おうという気も起きない。ムダ使いを避けるための自己防衛本能なのか。 よく考えると、本当に欲しいモノは、今までに無理してでも買っている。 カメラ関係は、もう手詰まりか・・・? 買うモノが無い。 ---------------------------------------------------- ダイヤル式カメラを使いなサイ! http://cam2.sakura.ne.jp/